ドリルドリルアングラー
矢田川怪狸
第1話
これは、とある親子の話である。
そのころ俺は小さな居酒屋を営んでいて、その父親は古くからの常連だった。とても口数の少ない男だったことを、今でも覚えている。
別に人嫌いというわけではなく、顔見知りが隣に座れば何時間でも相手の話を聞いてやっていたのだから、寡黙なのは生来の性質というヤツだろう。
ある日、この男の『娘』を名乗る女性が店に尋ねてきた。十月に入ったばかりだというのに、冬の気配をたっぷりと含んだ冷たい雨が降る夜の、夜の九時を回った頃のことだった。
うちの店は路地裏の一番奥に赤ちょうちんをぶら下げただけの一杯飲み屋である。経営者も、店番も俺一人という気楽な営業状態なのだから、決まった閉店時間というものがない。
その日は雨の影響もあって客はほとんどおらず、俺は早めに店を閉めようと考えていた。彼女が来るのがもう十分遅ければ、俺は店を閉めて、スポーツニュースでも見ながら寝酒をひっかけていたことだろう。
その時、外の冷たい雨をまとって、一人の客が入ってきた。それは若い女だった。
客が来てしまったのだから寝酒はお預け、俺は少し不機嫌になって、ぶっきらぼうに言う。
「酒かい、食事かい?」
女は一瞬だけびくりとふるえて、それからひどく静かな声で言った。
「お酒を……瓶ビールありますか?」
女はカウンターの一番隅に腰を下ろす。他に客などいないのだからもっと真ん中に座ればいいものを、わざわざカウンターの一番奥の席を選んだのだ。
その席を好む男を一人、俺は知っている。店内がどれだけすいていようと、わざわざ店の奥にあるその席を選ぶ男を。
なにか予感めいたものが、俺にはあった。
そもそもがこの女性、暖簾をくぐった瞬間から店内を見回して、人を探す気配を見せているのだ。店内に自分しか客がいないと知った後も入り口を眺めて、人待ち顔である。
俺は少し冗談めかして言った。
「張り込みかい?」
この手の冗談は、若い娘には通じなかったようだ。彼女は真顔で首を横に振った。
「いいえ、いいえ、別に私は刑事じゃありません」
「いや、そりゃあわかってるんだがな、なんていうか……冗談だ」
「冗談……ですか、すみません、そういうのに疎くて」
娘がきちんと背を伸ばして深々と頭を下げるから、俺の方はすっかり面食らってうろたえてしまった。
「いや、謝らせたいわけじゃないんだ。ただ、場を和まそうとしただけなんだよ」
娘は無言で頷く。別に怒っているというわけではなく、ごく当たり前の会釈のように軽く。
それから彼女はグラスにビールを注ぎ、ちびりと舐めた。
ああ、この娘は、やはり……俺の中にあった予感が、確信に変わった。
俺は、そうやってちびちびとビールを舐める客を、一人だけ知っている。やはりこの娘のように冗談に疎くて、物静かで、わざわざこの席を選ぶ男を。
件の男は一人暮らしであると聞いていた。なにしろ口数の少ない男だから一人で暮らす理由まで聞いたことはないが、何かの事情で離れて暮らす娘が父親に会いに来たと、そういうことだろう。
自分の洞察力の鋭さに浮かれた俺は、とびきり明るい声で聞いた。
「あんた、『北野シロウ』さんに会いに来たんじゃないのかい?」
寡黙な彼女もさすがに目を見開いて。
「父を知ってるんですか?」
これに俺は有頂天、何しろ自分の推理が当たったのだから、推理物の探偵役になった気分だ。
「あんた、北野シロウの娘だろ、どうだい、当り?」
「すごい、どうしてわかったんですか?」
興奮すると少し声が上ずって耳ざわりだ。こういうところだけはあの寡黙な男に似ておらず、年相応の華やかさがある。
この時、俺は少しだけ見込み違いをしていた。この娘が父親と離れて暮らす理由を、世間でよくある離婚程度のことだろうと見積もっていたのだ。
だから、深い考えもなしに娘に向かってニヤッと笑って見せた。
「わかるわかる、何年も離れて暮らしていた父親に会いに来たってことだろ?」
ところが娘は、静かにビールのグラスをカウンターに置いた。
「いいえ、会いに来たわけじゃありません、賭けだったんです」
「賭け?」
「はい、今日一日だけここで待ってみようと……もしもそれで父に会えなかったなら、私たちの縁はこれまで、二度と父には会わないことにしようと、そういう賭けなんです」
「なんでまた、そんなめんどくさいことを……普通に会いに行けばいいじゃないか、住所を知らないっていうんなら、教えてやってもいい」
「いいえ、そういうわけにはいきません、それって顧客の個人情報を流出させるってことじゃないですか」
「んな大げさな」
「それに……もしかしたら、父は私に会いたくないかもしれない」
「そんなバカな! 我が子に会いたくない父親なんかいねえって」
「聞いてないんですか? 私は父に捨てられた子なんです」
「捨てられた……?」
俺が戸惑ったのは、くだんの男が子供を捨てるような冷血漢とは思えなかったからだ。
「そんなワケがない、あいつは……『ドリルドリルアングラー』はそんな男じゃない!」
俺は声を荒げたことを後悔した。そもそもが『ドリルドリルアングラー』とはこの店の中だけで通用している彼のあだ名なのだから、この娘が知っているはずがないのだ。
案の定、彼女は不思議そうに俺を見上げる。
「ドリルドリルアングラー?」
「ああ、すまない、いちげんさんのあんたは知らないわなあ。『北野シロウ』って男は、めったに自分の名前なんて名乗らないもんだから、店の常連連中が、あいつを呼ぶのにあだ名をつけたんだ」
「アングラーって、なんですか?」
「アングラーってのは釣り人って意味さ。フィッシャーマンってのはどっちかっつうと商売のために魚を捕る漁師の意味合いが強いんだと、趣味で釣り糸を垂らすだけの奴を呼ぶには、アングラーの方が正解らしい」
くだんの男――北野シロウは休日になると、河原にある安い釣り堀で日がな一日をつぶす。コンクリートで固めた小さな池に鮒を放しただけの、ろくな釣果も望めないシケた釣り堀だというのに、まるでほかの暇つぶしなんか知らないかのように。
おまけに北野シロウはいかつい見た目をした男で、ツラだってしかめっ面、生来の寡黙さがくわわって、いつでも怒っているように見える。それゆえ英語のアングリーとひっかけてアングラーと――。
「ドリルっていうのは?」
「ああ、それは酒を飲んでいるときの後ろ姿がドリルみたいな見た目だからだな」
北野の頭は少しとがっている。ごま塩に色の抜けた頭髪を短く刈り込んでいるのだから、後ろから見ると子供の漫画に出てくるようなとんがりドリルを思わせるのだ。
「まあ、ドリルが二つくっついてるのは、語呂合わせのためのしゃれっ気なんだとよ」
これを聞いた彼女は、ビールのグラスを両手でぎゅっと握った。それから深い深い、カウンターのホコリが舞い上がりそうなほど深いため息を一つ、落とした。
「ああ、間違いない、父です」
彼女は若いのに、ぎゅっと眉根を寄せた気難しそうな顔をして――これは彼女が本当に気難しい性質だというわけではなく、寡黙な人間が考え事をするときにありがちな表情だ。その表情のまま、彼女は何かを長く考え込んでいた。
やがて顔をあげた後も、彼女は少しおびえたような眼をしていた。
「あの……せめてことづてをお願いできませんか?」
どもるように声を震わせての言葉に、俺はぷいとそっぽを向く。
「うちの店では、そういうサービスはやってないんでね」
「そんな……」
「どうしても伝えたいことがあるっていうんなら、親父さんに直接会えばいい」
「それは、そうなんですが……」
「他人の俺が言うのもなんだが、アンタの親父さんは自分の子供を捨てるような人間じゃぁない、なにか理由があったんだ」
「理由は……心当たりがあるんです。だから私はお父さんが私を捨てたとは思っていないんです」
「へえ、じゃあ何でさっき、『捨てられた』なんて言い出したんだ?」
「それは……カマかけなんです、もしも父がここで『子供を捨てた』と話しているなら、それはやっぱり私が捨てられたということになるじゃないですか」
「わかんねえなあ、いったい誰が、アンタが父親に捨てられたなんて話をしてるんだい?」
「祖母や、祖父や、近所の人……」
「母親は? やっぱり捨てられたって言ってるのかい?」
「母は死にました、父が家を出て行った原因はそれなんです」
「なんか複雑そうだな」
話すごとに娘の口が重くなっていくのを感じた俺は、カウンターの跳ね板をあげて表へ出た。
「どうせ今夜は、もう客なんか来ないだろう、暖簾を下ろしてくるから、ちょっと待ってな」
「あ、じゃあ、私もお勘定を……」
「そうじゃない、アンタの話をゆっくり聞かせてもらおうっていうわけだ、どうせ、話すのは苦手なんだろ?」
俺は軽く肩をすくめてみせる。
「そういうところ、親父さんによく似てるよ」
娘は笑った。
「よく言われます」
そう、彼女は実に若い娘らしい華やかな顔で、にっこりと笑ったのである。
「そうだろうな」
俺は彼女が無駄に緊張しないよう、軽く笑ってやった。
これが功を奏したか、暖簾を戻して帰ってくると、娘はしゃんと腰を立てて座っていた。少し言葉の整理がついたのか、はっきりとした声で言ったのだ。
「私は怖いんです。もしかしたら、父は世間の人が言うように私を捨てたのかもしれない……でも、私個人は父は私を捨てたのではなく、もしかしたら私と同じ理由で家を出て行ったのではないかと思うところがあって……ですから、私が父に会うべきかどうか、この話を聞いてくださるあなたに判断を委ねます、それでもいいですか?」
「おう、構わねえよ。なあに、あいつとは短くない付き合いだ、アンタを捨てるようなことはないと信じてるんだが、それでもいいかい?」
「はい、では、聞いてください」
そう言って娘は、静かに語りだした――。
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