点々と、蝶々。
咲川音
点々と、蝶々。
あたしの頭の中にはランキング表がある。クイズ番組でよく見るあれだ。パネルにはクラスの女の子達の名前が書かれてあって、よっぽどの事がない限り、順位に変動はない。
当然、一位はあたしだ。クラス中誰に聞いたってそう答えるだろう。
大きくポイント差をつけて、次点は遥。続いて希、優花、雪菜、紗枝、恵梨香……可哀想に、みんな同じ制服だから、容姿のレベルが顕著に表れる。
あたしはアーモンド形の大きな瞳で教室を見渡しながら、最下位までの名前を心の中で読み上げる。途中数人と目が合ったけれど、とっさにキョトンとした顔を作って、それから恥ずかしそうに笑っておいた。
十六位、美華。十七位、奈央。一人足りないことに一瞬焦って、けれどすぐに思い直す。
そういえば、保留がいるんだった。
あたしと対角線上の席、一番前の窓際に座っている、幼なじみの
あたしは彼女を、どこに位置づけていいのか分からない。それについて悩む時、あたしはいつも、みんなに聞いて回りたい衝動に駆られる。あなたの中で、あの子は一体何位なの。
答えは人によって大きくわかれるだろう。とある表では最下位から数えた方が早い一方で、また別の表ではかなりの上位にランクインしている。顔自体はシンプルな作りなのに、そんな独特な雰囲気を、鈴子は持っていた。
「
名前を呼ばれて我に返った。知らぬ間にホームルームが終わっていたようだ。顔を上げると、ちょうどランキング中堅層にいる女の子達が固まって、あたしを取り囲んでいた。
「ねえ杏奈ちゃん、来月の花火大会、一緒に行かない?」
「わあ、行きたい! 他には誰か来るの?」
名前を呼ばれる度に思う。ああ良かった、あたし可愛くてって。「アンナ」なんてイギリス文学のヒロインみたいな響き、よっぽどじゃないと名前負けしちゃうもの。
「高橋と、橋本と、山田は行くって。あと……」
男子の名前を挙げていた
「田中君も誘おうと思って」
なるほど、先の三人は本命のための数合わせというところか。
「そっか、じゃあ結ちゃんから誘ってみたら? ほら、あそこで本読んでるし」
あたしは心の中で溜息をつきながら、この茶番に乗ってやる。
「ええー、でも、恥ずかしくて出来ないよ……」
薄らと指毛の生えた人差し指に髪をくるくると巻き付けている姿に、思わず舌打ちしそうになる。
この十一位こと結という夢見がちな少女は、自分を安っぽい恋愛ドラマの主人公のように捉えているらしく、ここではこのようにポーズすることが効果的な演出をもたらしていると信じているきらいがあった。
「ねえお願い、杏奈ちゃんが誘ってくれない?」
今更謙虚な振りしたって遅いわよ。殊勝な面持ちで、俯いたままそう言う彼女に、あたしは心の中で呟く。
いつも「みんな気づいて」とばかりに彼へわざとらしい視線を送っては、かっこいいだの何だの騒いでるじゃない。田中君、とっくにあなたの気持ちに気づいているわよ。そして根拠の無い自尊心だけがすくすくと育った子供にありがちな反応で、迷惑だのウザイだのって、周りの男の子達と笑い合っているのよ。
「分かった、じゃあ行ってくるね」
馬鹿な子、と口を衝きそうになった。ここであたしを行かせてしまう客観性の無さにうんざりとしてしまう。
何故か背中に声援を受けながら、目的の人の机へと押し出された。
「田中君」
笑顔を貼り付けてそう呼びかけると、彼は勢いよく顔を上げた。
「何読んでるの?」
「ああ、これ」
弾む声を抑えようとしているのだろう、ぶっきらぼうな調子で見せてきた化学雑誌に、あたしは吹き出しそうになってしまった。
「へえ、難しいの読んでるんだね」
望み通りの答えだったのだろう、彼は頬を紅潮させて、結構面白いんだよと笑った。
「ねえ、来月に花火大会があるでしょ? もし良かったら一緒に行かない?」
「えっ、花火大会? 榎本さんと?」
嬉しそうな声を隠さずに、そう返してくる。
開かれっぱなしの見栄の塊には、もう興味が無いらしい。
「うん。みんなで行こうって話してたの」
そこで身体をずらして、教室の隅に固まっている彼女達を見せた。途端、風船が萎むように、彼の顔から笑顔が消える。
その様子に、あたしは少しだけ愉快な気持ちを取り戻して結を呼び寄せると、そっとその場を離れて群れの中に戻った。
楽しげにクスクス笑い合う彼女達に合わせつつ後ろを見やると、田中君は見栄に視線を落としたまま「部活があるから……」などと答えているところだった。
あんな未発達な傲慢のやり取りを、恋と勘違いしているのだから幸せなものだ。
「杏奈」
と、背後から急に声がかかった。振り返ると、鞄を持った鈴子が立っている。
「私はいつも通り美術室に行くけど。杏奈はどうする?」
「待って、あたしも一緒に行く。じゃあみんな、花火大会どうなったか、また連絡してもらえる?」
聞かなくてもわかるけど。あたしは荷物を鞄に詰めると、鈴子についてそそくさと教室を後にした。
「良かったの? 途中で抜けちゃって」
「別に。あたしはパシられてただけだし」
放課後の美術室にはあたし達二人しかいない。あたしはいつも通り椅子を引き寄せて、キャンバスに色を塗り重ねる鈴子の背中を眺めていた。
「その絵もコンテスト用?」
「いや、これは完全に趣味で。上手く描けたら出品するかもしれないけど」
短く答えて、また自分の世界に入ってしまう。
鈴子は将来美大に進むと決めているらしく、こうやって毎日絵を描き続けている。口数の少ないこの子が、部活以外での使用許可を取り付けてきたというのだから相当な熱意だ。
という訳で一緒に帰れなくなっちゃった、と言われた時には当然腹が立った。「まだ中二なのに。あんまり張り切ると息切れするんじゃない?」と嫌味たっぷりに言っても、「こういうのは早ければ早いほどいいんだよ」と流されてしまった。
「杏奈、別に邪魔ってわけじゃないけど、私のこと待たなくていいんだよ」
「いいの。どうせ帰っても暇だし。ここで課題してるから」
言い訳のように広げられたプリントに、とりあえず名前を記入する。
ここでありがとうと言わないのが鈴子らしいわ。彼女を彼女たらしめるパーツに気づいた時、あたしはいつも清々しいような、どこかイラつくような、奇妙な感情を覚える。
と、無造作に流されたままの髪が鈴子の頬にかかっているのに気づいて、あたしは立ち上がった。
「ほら、髪邪魔でしょ。結んであげる」
手ぐしで整えながら、高い位置で二つにまとめる。何も手が加えられていないサラサラの髪が目にとまる度、あたしはいつもこうやってツインテールに縛り上げるのだ。
「この髪やめてって言ってるじゃん」
鈴子の涼しげな顔立ちに、このドーリィなヘアスタイルは似合わない。
「いいじゃない。あたしとお揃い」
こう言えば、鈴子は文句を言いつつもヘアゴムを解かないことを、あたしは知っていた。
「で、この絵はどういうテーマなの」
覗き込んだキャンバスの中には、ブロンドの美しい少女が寝そべっていた。いや、もしかすると死んでいるのか。その周りを、棺の花の代わりのように、たくさんの蝶が埋めつくしている。
「テーマは特に無し。強いて言うなら、この前観た映画にインスピレーションを受けてる」
今にも羽ばたきが聞こえてきそうなほどにリアルな絵だった。あたしは思わず呼吸を止める。原色に黒を混ぜ込んだような毒々しい羽が、射し込む夕日に幾つも浮かび上がって、くらくらと目眩がした。
「ねえ、たまにはもっと可愛い絵を描きなよ」
「せっかくだから自分で描いてみればいいのに」
「無理。あたし絵心ないもん」
そこで鈴子は初めてこちらを振り向いて、まじまじと見つめてきた。
「うん、確かに。杏奈は描くより描かれる方が向いてるよ」
そうやって夕焼けをバックに立ってると、まるで絵画みたいじゃない。あっけらかんとそう言う。あたしは顔に血が上るのを感じて思わず俯いてしまった。
女の子達が頬の内側を噛み締めながら、何とか笑顔を取り繕って言う褒め言葉を、鈴子は事も無げにこぼすのだ。
鈴子は綺麗な景色を見るのと同じ目であたしを眺める。そこに羨望が全く含まれていないことに、あたしはいつも苛立っている。
翌日の昼休み、例の花火大会行きが中止になったことが告げられた。ごめんね、と謝る彼女らに、あたしはにこやかに何度も首を振る。実際、あたしはこれっぽっちも怒ってなどいなかった。むしろ賢明な判断だ。目的を失った手段ほど退屈なものは無い。
身軽になったあたしは開放感溢れるままに廊下へと出る。と、そこに鈴子の後ろ姿を見つけて足を止めた。
鈴子は隣の教室の前で、見知らぬ男の子と楽しげに話し込んでいた。なんだか珍しい光景だ。踵を返そうとしたあたしは、そこではたと違和感に気がついた。
鈴子が髪を解いている。
二限の終わりに、あたしが結んであげた髪を。
「鈴子っ!」
あたしは無邪気を装って、その華奢な肩に突進して行った。
「何、どうしたの」
鈴子は微塵も驚いた様子を見せず、いつもの平坦なアルトの声で問いかけてくる。
「あのね、ちょっと図書室に行くの付き合ってほしいんだけど――あ、ごめん、お話し中だった?」
申し訳なさげにきゅっと眉毛を下げれば、こちらを見下ろす小麦色の顔が面白いほど紅く染まっていく。
「何だよお前、榎本さんと仲良かったのかよ」
「そりゃまあ、クラスメイトだし」
あたしは頭に被った猫を落っことしそうになった。はあ? クラスメイト?
あたしはアンタが殆ど喋らない、あの子達と同じ括りなわけ?
「あたしの名前知ってるの?」
慌てて笑顔を作り直して聞いてみる。
「そりゃ、榎本さんは有名だから……」
「えー? なんだか怖いなあ。変な噂とか流れてたらどうしよう?」
あたしは屈託のない、けれど可愛らしさを失わない狭間の声をあげて笑う。彼の目は、もう鈴子を見ていない。
「ごめんね、あたし他のクラスの子あんまり知らなくて。なに君っていうの?」
「
「杏奈、図書室行きたいんでしょ。早くしないと昼休み終わるよ」
あたしは驚いて鈴子の方を振り向いた。いつもなら、話に割って入るようなことは絶対にしない。傍らでぼんやりと、あたしの気が済むのを待っているのに。
こちらに向ける表情こそ普段通りのものだったけれど、鈴子が僅かに見せた変化に、あたしの身体の内がじりじりと焦げていく。
むかつく。鈴子の癖に。
焦げは何日経ってもおさまらず、プスプスと煙を吐き続けていた。あたしは窒息しそうになるたび、酸素を求めるように駆け出し、河野くんの肩を叩いた。もちろん、傍らに鈴子を引き連れて。
彼は緊張からか、敬語を混ぜた言葉を使った。タメ口で話してよ、友達なんだから。そう言ってやれば、彼は特別な権利を賜った家臣のように、嬉しそうな顔を見せた。鈴子はその間、笑い合うあたし達から一歩下がって、会話が終わるのをじっと待っていた。
あたしは鈴子に、彼のことが好きなのかとは聞かなかった。もしそうだと答えれば、「親友」のあたしは彼への声掛けを止めなければならない。そうなるとこの煙の吐き出し口が塞がれて、あたしが死んでしまう。
教室移動の渡り廊下や体育の帰り、彼はあたし達に気がつくと遠くからでも声をかけてきた。最初の頃は「よう、佐藤」と鈴子に声をかけ、それからあたしに照れくさそうな顔を向けていたのが、最近では近寄ってくるなり第一声が「榎本さん」だ。
改めて正面から向かい合ってみると、彼は美術部員という肩書きからはおおよそ連想できない雰囲気をまとっていた。
気さくな笑顔を浮かべる彫りの深い顔立ちは、例えばここにいるのが結だったら、何のためらいもなく田中君からこっちに乗り換えてしまうだろう。筋肉のついた身体を包む、少し着崩した制服が、彼の俗っぽさをより際立たせていた。
異なる文化は、時に本質以上の魅力を以て映るものだ。鈴子もきっとそのクチなのだろう。
教室に入るなり、入口近くにいた男子が「おーい、田中ァ」とわざとらしくニヤニヤと口元を歪めた。恋愛絡みのからかいに、男女差はあまり無いようだ。ただ、男の子達はそれが少しあからさますぎる。
例の女の子達も流石に鈍感ではいられなかったのか、示し合わせたように体を寄せ合ってヒソヒソとやり始めた。輪の中心にいる結は、恨めしそうな目線をこちらへとぶつけ、ギリリと爪を噛んでいる。あたしは心の内で歓喜しながら、それを態度に出さないように必死だった。
自ら脇役に成り下がってくれる彼女達がいて、あたしは初めてヒロインになれるのだから。
明日には女の子達が癇癪を起こして、あたしに陰湿なことをするかもしれない。けれどそれも傍から見れば単なるイベントの一環だ。
ああ、そうなったら鈴子はどんな役回りをするのだろう。厄介に巻き込まれるのが嫌で口を噤む? それとも友達としてあたしを守る?
鈴子の反応が見られるなら、いじめられてみるのも悪くないかもしれない。
鈴子がもっと分かりやすければいいのに。あんな風に爪を噛んで、素直に嫉妬するような子だったら良かったのに。鈴子は爪を噛む代わりに、蝶々の羽に色を重ねていく。美術室で、あたしがはにかみながら河野君について話すのを、軽い相槌で流しつつ黒を織り交ぜていく。
日が経つごとに、蝶はだんだんと立体的になっていった。
あたしは夕焼けの中で蝶の大群にむせながら、河野君が、河野君がね、と好きでもない男の話を続けている。
十七時を過ぎると教室に残っていた子達もみんな部活に行ってしまって、あたしは一人取り残されていた。
誰もいない空間を満喫するには、ここはあまりにも殺風景で、あたしは意味もなく机の間を歩き回ったり教科書を開いたりして暇を潰す。
「あれ、榎本さん」
急に声を掛けられたものだから、思わず肩を揺らしてしまった。顔を上げると、廊下に面した窓の向こうで、河野君が恥ずかしそうに軽く手を挙げた。
彼は教室の中をキョロキョロと見回すと、落ち着かない様子でこちらに近づいてくる。
「何やってるの? あ、もしかして補習?」
「失礼な。明日当てられるところ予習してるだけだよ。あたしは鈴子を待ってるの」
「そっか、悪い悪い」
「あれ、そういえば河野君、部活は?」
「あー、今日はなんか行く気分じゃなかったから。サボっちった」
彼はおどけたように肩をすくめる。
「ええー、いいのそれ」
「いいのいいの、うちの部活緩いから」
笑いながら、彼はためらいもなく隣の机に腰を下ろした。ぶらぶらと揺らす足先が、あたしの鞄を掠めるのに眉をひそめてしまう。
「どうせ待つんだったら美術室にいればいいのに。あいつ結構時間かかるよ」
「何も無い時はそうさせてもらってるんだけど……流石に部活中はちょっとね」
「そんな気にすることないって。みんな好き勝手描いてるだけだからさぁ」
別に河野君がどう思うかは重要じゃないのだけれど。
「榎本さんって部活入ってないんだっけ?」
「うん、帰宅部。特に入りたい部活がなくて」
グラウンドからは野球部の練習の声が聞こえてくる。ああいう青春の代名詞に参加しない事は、人生における大切な過程を飛ばしてしまったように感じられて、どことなく不安になるものだ。
「河野君はどうして美術部に入ったの?」
「友達に誘われて見学に行って、そのまま。絵描くの嫌いじゃなかったし」
「ふーん、すごいね」
「いやいや、俺は下手ではないってレベルだから。佐藤のとか見ると自信なくす」
「上手だもんね、鈴子」
「あいつはもう別格だよな。そういえば榎本さんと佐藤って全然タイプ違うよね。どうやって仲良くなったの?」
仲がいいと言って良いのだろうか、あたし達。
「小学校が一緒だったの。三年生の時クラスが離れた以外はずーっと一緒」
開け放した窓から風が吹きこんでくる。柔らかくカールしたツインテールは、揺れるたびほんのりとシトラスが香った。やっぱり昨日シャンプーを変えてよかった。前のローズも悪くなかったけれど、媚びるような甘ったるさが、夏の始まりに似つかわしくないから。
「河野君こそ鈴子と仲いいじゃない。なんか怪しいなー」
「佐藤とはそんなんじゃないよ。ただの友達」
彼は軽く笑い飛ばした。これは無自覚に人を傷つけるタイプだ。
「そうなの? よく話してるから、あたしてっきり……」
あたしは意図を含んだ間を置いてから彼をそっと見上げた。案の定、彼がはっと息を呑む。
この時間、丸みを帯びた日差しが後ろから差し込んで、あたしの身体を金色に縁取っているに違いない。
「じゃあ、もし良かったら一緒にお祭り行かない? 来月ある花火大会なんだけど……」
彼は一瞬の迷いも見せず、思いがけない提案に懸命に頷いていた。
「わあ、良かった。詳しいことはまた話そうね」
そろそろ鈴子が終わる頃だから、と会話にピリオドを打つ。荷物をまとめている間、彼の熱い視線がヒリヒリと項を焼いていた。
「あのさ、榎本さん」
じゃあね、と手を振ろうとした矢先、彼は意を決したように声をかけてきた。
「さっき佐藤と仲いいって言ってたけど、俺、本当にあいつのことなんとも思ってないから」
鈴子はまるで、おもちゃ屋に置かれたポプリのようだ。幼い客は、その場違いな商品に見向きもしない。みんな分かりやすい愛らしさが好きなのだ。その乾燥した花がいい香りを放つことも知らないで、子供たちは一直線に、フランス人形の元へ向かう。
彼も例に漏れず、その客の一人だったらしい。
「俺、もし付き合うなら佐藤よりも榎本さんの方がいい」
いつもなら優越感すら感じる比較の言葉が、何故だろう、彼の口から出た瞬間、自分がとても安っぽくなったような気がした。
帰り道、あたし達はなんとなく無言だった。 隣を歩く鈴子は、無表情で前を向いているばかりで、何を考えているのかさっぱり読めない。
「あのさあ、河野君っていい人だよね」
気まずさに口を開いたのはあたしの方だった。
「さっきも鈴子を待ってる間話してたんだけどね、今度から美術室で待てばいいよって言ってくれて。優しいよね。あ、そうそう、鈴子のこと褒めてたよ。絵が上手過ぎて見てると自信なくしちゃうんだって」
あたしはケラケラと笑う。鈴子は唇の端だけでちょっと微笑んで、そう、と興味なさげに答えた。
平坦な声には、あたしの期待した感情が微塵もこもっていない。
「あたし、河野君のこと好きになっちゃったかも」
きゅっと肩を縮めて俯いて。傍から見れば愛らしい告白だろう。鈴子は黙ったまま何も言わない。構わず続ける。
「だからさっき、思い切って花火大会に誘ってみたんだ。そしたら河野君、オッケーしてくれて。夏休みにも会えることになったの」
「花火大会、クラスの子達と約束してるんじゃなかったっけ?」
「ああ、あれはナシになったの」
「そう」
さっきと同じ平坦な声。
「あー、何着ていこっかな。やっぱり浴衣が定番かな? あ、でも気合入れすぎって引かれちゃうかも。ねえ、鈴子はどう思う?」
息継ぎする間もなく口だけがベラベラと動いて、あたしは言葉の波に溺れそうになっている。
酸素が足りなくて必死にもがくあたしを知らずに、鈴子はやはり飄々とした顔をして言った。
「いいんじゃない、どっちでも。杏奈の好きにすればいいよ」
瞬間、あたしはカッとなって叫んだ。
「いいの? 本当にそれでいいの? 鈴子だって好きなんでしょ? 河野くんのこと好きなんでしょ!」
鈴子が足を止める。まん丸に見開いた目があたしを見つめる。
怒ればいい。怒って、あたしと同じように思い切り怒鳴ればいい。
けれど瞳の奥に一瞬見えたさざめきはふっと凪いで、あとはただ、黙って微笑んでいるばかりだった。
「じゃあ、私はこっちだから。また明日ね、杏奈」
何事も無かったかのようにそう言って、鈴子はいつもの分かれ道を歩いていく。あたしは分岐点に足を貼り付けたまま、その凛と伸びた背中を見送ることしか出来なかった。
あの子が地面を踏みしめる度に、足下から点々と、蝶々が生まれる。
蝶の群れはあの目眩のするような羽を広げて、あたしの首を締め上げるのだ。
きっと彼女にとって、あたしは中学時代というキャンバスの一点でしかないのだろう。嫌うでも好くでもなく、何となく疎遠になっていく一人。そしてある時言うのだ。「ああ、そんな子いたね」と、いつもの平坦な声で。
けれどあたしは違う。今首元で舞う蝶々、この羽は艶々と美しいまま、剥製として心臓に留められてしまう。そしてあたしは時折、深々と突き刺さったピンに痛みを感じて足を止めるのだ。
あたしは足枷のような夏の約束を引きずったまま、震える唇を噛み締めている。
いつの間にか、鈴子の姿は見えなくなっていた。
点々と、蝶々。 咲川音 @sakikawa_oto
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