第3章 「結果と後悔」第1節
「先輩! 渚さん! 今日もよろしくお願いします!」
エプロン姿に着替えた
その右手に対しては
「うんうん、今日もよろしくねぇ」
「よろしくな」
『洋食 ひびき』で開店前の儀式のようなものになっているこの行為を終えると、渚先輩と二宮のはそれぞれの持ち場へ向かう。
それを確認した俺は、お店の入り口にぶら下げられている札をひっくり返して、OPENへと切り替える。
時刻は午前十時、今日もバイトの始まりである。
◆
高校生活最後の日、担任だった
今ではすっかりバイト先としてお世話になっている『洋食 ひびき』の従業員は、オーナーである
平日はランチのみの営業で、基本的には渚先輩と俺と二宮の三人体制で営業している。
なお、ヘルプ要員として響さんもすぐ裏で待機してくれているため、トラブルがあった時は対応してくれるし、安心だ。
土日祝日はディナーのみの営業となり、お酒中心のメニューに切り替わることもあってか未成年の入店はお断り状態になる。
従業員の方だが、響さんと創業以来から勤めるベテラン二人を合わせた三人体制で営業しているそうだ。
ちなみに俺はベテラン従業員二人に会った経験は無いのだが、面識のある渚先輩曰く、『僕の料理の腕じゃまだまだって思い知らされるんだよねぇ。速さや華やかさも全然違っててびっくりだよぉ。
とにもかくにも凄い人だということは分かったが、渚先輩の普段通りのおっとりした口調のせいで、どうにもいまいち伝わってこなかったのを覚えている。
渚先輩に聞いてもあまり要領を得られなかったため、後で響さんにも聞いてみると、『成人になったらうちの店に来てね』と、ウインク付きで返されてしまった。
何か秘密にしなければならないことがあるのかと思う一方で、そう遠くない未来に成人しているであろう自分は、一体どんな生活を送っているのだろうか、と思いを巡らせるのであった。
◆
時刻は十五時。
本日も大きなトラブルはなく、『洋食 ひびき』の営業時間は終了した。
途中から雨が降り始めたこともあって、客足は緩やかになったが、それでも客足が途絶えることはなく盛況であった。
「さてと」
札をCLOSEにしてから、俺の担当であるホール全体の清掃を行う。
テーブルやカウンターを始め、掃き掃除を丁寧に終えると、俺は掃除用具を片付けに
洗い場に設置してある掃除用具入れへと向かった。
洗い場では、同じように清掃に勤しむ二宮の姿があった。
掃除用具を仕舞い込んでから、二宮に声をかける。
「あ、先輩はもう終わりですか?」
「ああ、終わったよ」
「お疲れ様です!」
ハイタッチを求めてきたが、両手が泡だらけであることに気付いた二宮が、少し残念そうに両手をおろす。
ハイタッチを返す代わりに、俺は二宮の頭をくしゃくしゃとしてやった。
「あ、ちょっと、先輩、うわわわわわ」
「うりうり。じゃあ、また後でな」
「髪がー! 髪がー!」
そのまま洗い場を抜けて、休憩室への扉を開いた。
といっても、メインは着替えや荷物置き場なので、パイプ椅子と折りたたみ式のテーブルが置いてあるだけの小さなスペースである。
「お疲れさまぁ、識くん」
「先輩も、お疲れ様です」
パイプ椅子の一つに腰掛けていた渚先輩が、にこやかに声をかけてくれる。
俺も先輩の向かい側に腰を下ろすと、背もたれに深く腰掛けた。
今日の労働も終わりである。
「レンちゃんはもう少しかかりそうだったかい?」
「いえ、もうすぐ来ると思いますよ」
その数分後、噂をすれば、というほどでもないが、二宮が元気に部屋に入ってくる。
「お掃除完了です!」
「お疲れ様だよぉ、レンちゃん」
「渚さん、ありがとうございます!」
二宮はエプロンを脱いで慣れた手つきで折りたたむと、自身のロッカーを開けてそこに仕舞う。
そのまま無地のトートバッグに手をかけて引っ張り出すと、ロッカーを閉めた。
「では、お疲れ様でした! 先輩! 渚さん!」
「お疲れ様ぁ、またねぇ」
「ああ、お疲れ」
入ってきた扉とは逆の位置にある従業員用の勝手口へ歩いていくと、軽く一礼してから二宮は扉を開けて出て行った。
二宮はバイトが終わると、特に用事がなければ雑談もせずにすぐに帰ってしまう。
本人に理由を聞いてみたが、はぐらかされてしまったので詳細は知らない。
誰しも人に知られたくないことくらいはあるだろうし、しつこく追求することでもない。
俺も渚先輩も最初は不思議に思っていたが、今では気にすることも無くなった。
「それにしても、この一年で変わったよねぇ、レンちゃん」
「二宮ですか?」
「ここに来た頃は、周囲に対してとても不安を感じているように見えたなぁ」
「ああ、そうでしたっけ」
俺はその理由を知っていたが、とぼけてみせる。
渚先輩は疑う素振りもなく、俺の目をみて『そうだよぉ』と頷いた。
「まあ、あいつはあいつで上手くやれますよ」
「そうだねぇ、レンちゃん、しっかりしてるもんねぇ」
渚先輩は深く頷くと、それ以降は二宮の話題を口にすることはなかった。
きっと、俺が何か知っていることは感付いているだろう。
けれど、今みたいに話題に触れる程度で、深く追求してくることは一度も無かった。
今の発言も二宮のことを心配しての発言であって、表裏はきっと無い。
俺のことでさえも、出会ってから追求されたことは無かった。
ただ一言『大変だったろうけど、これからよろしくね、識くん』と、それだけであった。
今も目の前で、にこにこ笑いながら、俺のほうを眺めている。
「先輩って、仏みたいな人ですよね」
「また突然だねぇ」
「いや、普段から思ってることなんですがね。手を合わせてもいいですか?」
「構わないけど、ご利益は何もないよぉ」
俺は、にこにこと笑う先輩に手を合わせる。
ご利益は無いかもしれないが、今までの感謝を込めて静かに拝んだ。
◆
バイトの帰り道、いつものコンビニで今日の夕飯やらを買い込んだ俺は、あの交差点にやってきていた。
今回は何も視えない。
何か起こっても、きっと何も出来ないだろう。
もっとも、いつも通る帰り道で、そう何度も交通事故が起こっては困る。
無意識に横転していたトラックがあった中央付近に目を向けてしまうが、もちろんそこには何も無い。
「視えないのが一番気楽だよな…」
俺は呟きながら、その横断歩道を渡って向かい側へ移動し、右に曲がる。
このまま五分ほど歩けば公園があり、さらに三分ほど歩けば借りているアパートだ。
アパートに着いたら、干した洗濯物を取り込んで、軽く掃除をして、夕飯を食べて、風呂に入って、寝るだけだ。
明日は土曜日だからバイトも無いし、朝から電車で隣町にでもくり出して、古本屋巡りにでも興じてみよう。
「昼飯はどうするかな…」
明日の予定を頭の中で組み立てながら、帰路をぶらぶらと進む。
気持ちが完全に明日に向いていた。
だからだろう。
俺は彼女に気付かず、普通に通り過ぎてしまったのだった。
「ちょ、ちょっと!」
「ん?」
呼び止められて、振り返る。
公園の入り口にある自転車進入禁止の防護柵。
彼女は、そこに腰掛けていた。
「普通、気付かない? その目は飾りなのかしら」
全く気付かずに素通りしかけてしまったことがショックだったのだろうか、かなり不満そうな表情で俺を睨んできた。
「残念ながら本物だ」
「じゃあ目が悪いのね」
納得したように頷くと、彼女は防護柵から立ち上がると、ベンチを指差した。
数ヶ月前に彼女と話したベンチである。
「バイトの帰りに『ちょっとツラ貸せよ』と年下から脅される俺であった」
「脅してなんかないわよ」
軽口を言い合いながら、俺たちはベンチに向かって歩き始めた。
「そういえば、貴方って誰なの?」
「ここまで誘導しておいて記憶喪失なのか?」
「違うわよ、貴方の名前よ。前の時に聞き忘れていたわ」
『言い方が悪かったわね』と、咳払いをすると、彼女はそう言い直した。
「俺は桐ヶ谷だ。桐ヶ谷 識」
「私は
「ああ、よろしくな、あすやん」
「……ぶつわよ?」
こうして数ヵ月ごしに、俺たちはお互いの名前を知った。
まあ、当時は色々あったわけだし、少しくらいは大目に見てほしい。
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