第2章 「選択と結果」第1節

交通事故での出来事から数ヶ月が経った。

普段通りに吹きすさんだ時間が、次の季節を運んでくる。

灰色の雲が青空を隠す日が増え、冷たい雨が降る季節がやってきた。

あれから彼女とは会えていない。

というのも、別れ方がなんだかとても気まずかったこともあり、積極的に会おうとはしていなかった。



週末の昼間。

俺はバイト先である『洋食 ひびき』で忙しなく働いていた。

このお店は、家庭的ながら美味しく、それでいてリーズナブルな値段で料理を提供する老舗の洋食屋だ。

駅から少し離れているにも関わらず、優しくも味わい深い料理は多くのリピーターを獲得し、平日祝日問わず、営業時間中は客が途絶えることはない。

店内にある三つカウンターと四つのテーブルは、常にお客で満席である。


「先輩。三番テーブル。日替わりランチを二つです」

「ほいほい。あ、こっちのエビフライ定食、持って行ってねぇ」


俺はおっとりした口調で話す先輩に三番テーブルの注文票を渡すと、できたてのエビフライ定食を二番テーブルへと運んだ。


「お待たせ致しました。エビフライ定食です」


二番テーブルの客に一礼してから、一番テーブルの掃除に向かう。

まずは食器を片付け、キッチンの洗い場へと運ぶ。


「あっわー、あっわわー、あっわわのわー」


そこで謎の歌詞を口ずさみながら身体を揺らしている人物へと声をかける。


「なんだその歌は……ほい、洗い物追加だ」

「了解でありまーす。先輩だと思って綺麗に洗いますね!」

「それは俺が汚いという意味なのか?」

「あー、汚い先輩だと思って洗いますね!」

「泣くぞ?」


軽口を済ませ、一番テーブルの掃除に戻る。

拭き掃除を素早く済ませ、最後に調味料などの卓上備品を確認する。

よし、問題は無い。


「すいませーん」

「はい、ただいま参ります!」


呼びかけに反応し、注文票を手に取ってから四番テーブルへと向かう。


「お待たせ致しました」

「えっとねお兄さん、日替わり定食なんだけれど、ライスを半分していただけるかしら」

「ライスを半分ですね。他は宜しかったですか?」

「ええ、大丈夫。それと、食後のコーヒーもお願いね」

「かしこまりました」


注文を書き留めると、キッチンで働く先輩へ注文票を渡す。


「ライスは半分だそうです。それと、食後にコーヒーを」

「ほいほい。レンちゃーん、後でコーヒーお願いねぇ。合図はレンちゃんの先輩に聞いて」

「了解です、なぎささん!」


――時刻は十二時過ぎ。

その後も客足は途切れることなく、ひっきりなしに訪れる客の対応に追われ、十二時から十四時までの二時間の間、俺はホールで動き続けた。



十四時半頃、最後の客を送り出して、本日の営業は終了した。


「疲れた」

「お疲れさまだよ、しきくん、ありがとう」

「先輩もずっと料理作り続けてますけど、疲れてないんですか?」

「んー、僕は楽しいかなぁ」


おっとりとした口調で心底楽しそうに笑顔で言うものだから、俺は苦笑してカウンターにへたりこむ。


「せんぱーい、洗い物少し手伝ってくださーい!」

「断る」

「えぇー…」

「あはは、識くん、レンちゃんに厳しいねぇ」

「あれは甘えてるだけなんですってば」


洗い場からのヘルプを断ると、俺はカウンターから立ち上がり、店の入り口にかけてある外へ向けてOPENと書かれたボードをCLOSEになるようにひっくり返す。

その時にちらりと外の様子を窺ってみると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。


「梅雨だねぇ」

「まあ、六月ですからね」

「ということは、君がここで働き始めて、そろそろ一年だねぇ」

「あれ、もうそんなに経ちましたか」

「忘れっぽい僕だけれど、君が来たのが一年前で、君を追いかけてきたレンちゃんが翌月だね。うんうん、覚えているよ」


先輩は頷きながら、思い出すように目を細めた。


「先輩、ひどいじゃないですか!」


言葉とは裏腹に楽しげに洗い場からキッチンを経由してホールにやってきた彼女――二宮にのみや 花恋かれんは、ずかずかとこっちまで歩いてきて、俺の脇から外を覗いた。


「わー、雨ですか」

「明日の朝まで降るそうだぞ」

「うげげ」


傍らでげんなりとしている彼女を横目に、俺はここに初めてやって来た日を思い出していた。

たしか、春にしては寒い日だったと思う。

今から一年ほど前、俺はとある一件をキッカケにして高校を辞めることになった。



「――本当にこれで良かったのか、桐ヶ谷きりがや

「はい。特に思い残すことはありません。両親には既に話していますし、手続きももう済んでいるはずですが…」

「分かっている。分かってはいるんだが、私は納得がいかない。だってあれは――」

荒谷あらたに先生。俺、もう決めたんで…」


高校生活最後の日。

放課後の誰も居ない教室で、俺と担任の先生は二人きりで話していた。


「荒谷先生がそう言ってくれるだけでありがたいです」

「お前はまたそうやって悟ったようなことを言う」


荒谷先生は腰辺りまで長く伸びたウェーブがかった髪を無造作に掻き毟って、苛立ちを隠そうともせずに机に肘を突いて見せた。

組まれた足先をぶらぶらと忙しなく揺らして、窓の外の景色へと目をやった。


「いまさらどうしようもないのは分かっている。でも、お前だけが悪者扱いってのはおかしい」

「でも、そうしたほうが丸く収まります。それに、先に手を出したのは俺ですから」

「お前が手を出したのは正当防衛だろう。相手は刃物を持っていたんだろう?」

持っていたんですよ。それに、仮に正当防衛だったとしても、俺がやりすぎました」


先生は溜め息をつくと、胸ポケットのタバコを取り出すと、一本くわえて火をつけた。

すると、煙にむせながらタバコを吸い始める。

げほげほ、と咳き込みながらも、先生はタバコを不器用にふかしていた。


「僕も高校生活最後の思い出に一本いいですか」

「あはは、馬鹿を言うな。酒程度にしておけ」


俺のつまらない冗談に対して、先生もふざけて笑い返す。

この教室で話し始めてから、初めて場の空気が緩んだような気がした。

だからだろうか、冗談交じりを装って俺は話し始めていた。


「俺、実は未来がんですよ」


先生は俺の話に目を丸くすると、次の瞬間には大笑いしていた。

普段の大人びた女性の印象とは裏腹に、同年代の少年少女のように腹を抱えて笑っていた。


「あはは!なるほど、だからあいつから刺される前にお前がボコボコにしてやったわけか!!」


なるほどなるほど、と先生はしきりに頷く。

すると唐突に、ずいっと身体を乗り出してきて、俺の目を覗き込んだ。


「せ、先生?」

「ああ、先生だ」


距離にして数センチ。

お互いの鼻息が触れる程度の距離に、思わずのけぞってしまう。


「タバコくさいですよ」

「まあ、我慢しろ」


先生は気にした様子もなく、じっと俺の目を見て……いや、もっと深い、俺の奥底を見透かすような視線で、俺を覗き込んだ。


「私も、実は人の心がんだ。どうだ、びっくりだろう?」


先生はにやにやと笑いながら、乗り出した身を元に戻すと、再びタバコをくわえて、ふかし始めた。

相変わらず、咳き込むようにして吸う様子は辛そうだ。

そこで先生はすっかり押し黙ってしまう。

俺は俺として、先生の今の言葉の真意を測りかねていた。

未来が視えるような人間がいるのだから、人の心が視える人間もいるのではないか。

だが待て、現実的に考えてそんな人間が……いや、だから現実的に俺という存在がいるのだ。

だったら、もしかして、先生は本当に?


「………っ」


今度は俺が先生へと身を乗り出し、意を決して尋ねることにした。


「先生、さっきの――」


だが、乗り出した俺の額に先生の手が伸びてきて、軽く押し戻される。

俺の身体は、すとんと、元の位置に戻ってしまう。


「なんてな。言っておくが嘘だぞ? 人の心の色なんぞ見えん。あはは、本気にしたか?」


子供っぽく笑う先生に俺は肩の力が抜け、思わず顔をそむけていた。

単純にからかわれて恥ずかしくなったのだ。


「桐ヶ谷のそういう子供っぽいところは、初めて見た気がするな」

「俺もですよ。荒谷先生がそんな茶目っ気のある性格だと思ってませんでした。あとタバコも」

「私だって大人だ。酒も飲めばタバコも吸うし競馬だってするぞ?」

「いや、教室内で堂々と吸い始めたことですよ」

「お前との高校生活最後の思い出だ」

「タバコくさくなりそうですね」

「あはは、違いない」


先生と生徒。

本来なら少なからず隔たりのある立場だが、心地よい距離感で軽口を言い合って、時間は過ぎていく。

思えば、高校生活でこんなにも長く誰かと他愛の無い話をしたのは初めてかもしれない。


「……桐ヶ谷、私は、お前が後悔していると思う。やっぱり、そんな気がするぞ」

「まあ、でも、もう決めましたから」

「やれやれ、仕方ないな」


そろそろ完全下校の時刻が迫っている。

先生はちらりと腕時計に目をやると、タバコをポケット灰皿に押し込んだ。

咳き込みすぎて、半分以上残っていたが、惜しむ様子もなく無造作に突っ込む。


「それで、これからどうするんだ? どこか別の私学へ転校するのか? それともまだ何も決まっていないのか?」

「まだ何も。しばらくはこのままこっちで住もうかと思ってます」


俺の返答に先生は首を傾げる。


「実家はたしか千葉だろう? 戻ってもいいんじゃないのか?」

「一人暮らしが夢だったもので。悠々自適に過ごそうと思います」

「そうか。まあお前のことだ、上手くやるだろうな」


『未来も視えるんだしな』と先生は悪戯っぽく付け足し、席を立った。

俺も釣られて席を立つ。

もうこの教室の椅子に座ることは無いだろう。

先生は、つかつかとヒールを鳴らして教室の出口へ向かう。

その音が、やけによく響いた。

俺は、その後ろを、


「……ん? どうした、桐ヶ谷」


俺は、その、後ろを、


「い、いえ」


俺、は、その、後ろ、を、


「………っ」


ついて行くことが、できなかった。


「あはは、桐ヶ谷。真っ赤だぞ。お前は真っ赤だ」


振り向いた先生の顔は、どうしてか泣きそうな顔をしていた。

先生は歩いた道を戻ってくると、ゆったりとした動作で、それがさも自然であるかのように、俺を抱きしめていた。


「びっくりするほど真っ赤なんだ。こんなの、放っておけるわけがないじゃないか」

「すみません…すみません…」

「いいんだぞ。私はお前の先生だからな」


俺は、気付けば、涙を流していた。

納得したつもりでいても、心のどこかで悔しかったのだろう。

その悔しさは教室に染み付いていて、最後の最後になって、俺の後ろ髪を掴んだのだった。



「もうっ! 突然教え子を連れてきたいなんて! きょうちゃんは本当に突然ばっかりだよね!」

「あはは、ごめんねー。きょうちゃん、いやもう、本当にごめんねー」

「とか言いつつ、しっかり、カウンターに陣取ってるし…」


教室で先生の胸を借りてしまった俺は、気付けば小さな飲食店らしき場所に連れてこられていた。

外の看板には『洋食 ひびき』と書いてあった。

きっと洋食店なのだろうが、状況が全く飲み込めずに困惑していた。


「とりあえず生!」

「運転してきたんだから駄目でしょうよ…」

「今日はここで寝るから! この子と一緒に寝るから!」


びしっ、と俺を指差して、高らかに宣言する。

俺は固まってしまった。


「え、教え子を連れ込んでしっぽり? それをうちで? やめて?」

「かろうじて駄目か」

「限りなく駄目に近い駄目よ」


さっきまで俺に胸を貸してくれていた先生は、一体どうしてしまったのだろうか。

いや、本当に、どうかしてしまったのだろうか。

とにかく、何か発言しなければ、きっとまずい方向にしか話が転ばないと判断した俺は、うなだれる先生の前で困り顔をしている女性に声をかける。


「あ、あの、俺は桐ヶ谷識って言います。先生の生徒で、いや、元生徒で、えっと」


しかし、言葉が詰まって、上手く続きが出てこない。

そもそも、何を話せば良いのかさえ思いつかなかった。


「ええ、大丈夫。そこらへんは杏ちゃんから聞いているわ。私はなぎさ きょうっていうの。ここ、『洋食 ひびき』のオーナーよ」


響さんは、よろしくね、と穏やかな笑みを俺に向けてくれた。


「うちの息子も同じ高校に通っているのだけれど」

「いえ、すみません…」

「まあ、学年が違うものね。それが普通よね……って、あら、噂をすれば」


そう言って響さんは店の入り口を指差した。

俺も釣られてそちらに視線を移すと、同じくらいの歳の男が、両手にビニール袋をぶら下げて、お店に入ってきた。


「あれ、知らない人だねぇ。母さん、バイト見つかったの?」


のんびりした口調でお店に入ってきた響さんの息子らしい男は、両手にビニール袋をぶら下げたまま、俺と響さんを交互に見やった。


「違うのよ、この子は――」

「それだあああああ」


うなだれていた先生が急に立ち上がると、俺に駆け寄ってきた。


「桐ヶ谷、ここでバイトしなさい」

「………はい?」

「ここなら近いから私も見に来れるし」

「み、見に来るんですか?」

「来る」

「え、えぇ…?」



――そこからはもう、自分でもよく覚えていない。

先生に言い含められたような気もするし、なんだかんだ響さんやその息子であるとおる先輩も途中から乗り気だったような気もするし、気付けば、そう、気付けば、である。


「まあでも、結果的には良かったんだよな…」

「ん? どうしたんですか先輩?」


脇から一緒に外を覗きこんでいた後輩が、俺の呟きに反応して、見上げてくる。


「何でもないよ、二宮……ってどうした、にやにやして」

「先輩がいい顔なので、そういうことにしておいてあげます」

「なんだそれ」


もし仮に、先生がここに連れて来てくれていなかったら、きっとあのまま独りになっていただろう。

誰とも知り合わず、誰とも交わらない。

それは悠々自適には程遠い未来だっただろう。

先生には感謝してもしきれない。

けれど、まあ、もう少し説明が欲しかったとも、思うのであった。



――そういえば、今の今でも有耶無耶のままになっているのだが、先生は本当に人の心がいたのだろうか。

馬鹿げた話かもしれないが、俺は今でも大真面目に考えている。

あの後、『洋食 ひびき』に訪れる先生に聞いてみても、はぐらかされてしまい、教えてもらえていないのだ。

『あはは、どうだろうなー。桐ヶ谷、お前はどう思う?』と笑って誤魔化されてしまう。

だから、俺は俺で勝手に想像するしかない。

先生曰く、あの時の俺は『真っ赤』だったそうだ。

つまり、あの時の俺は『真っ赤な嘘』だらけだったのではないか、と安直な発想だが、そう思うことにした。

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