第二章 3 たとえ進みだした足にとげが刺さっても
「あんたの子供はあんたを不幸にするよ、これは間違いないんだ」
遠い記憶がわんわんと鳴り響き、彼は目を閉じる。
「うるさい」
「あんた、死神の手札が読めないのかい、あんたがその子と番になっても、誰も幸せにならないよ、あんたもその子も」
「うるさい」
「死神の手札は絶対に近いうちに、その子を死に追いやるんだよ」
「うるさい!」
怒鳴り散らすような声が響く、そこで男は目を覚まし、顔に手を当てて呻いた。
「いい加減に黙れ……過去の亡霊が」
それは男がつかの間の昼寝にまどろんだひと時の事だった。
彼は忌々し気に頭を振り。その考えを追い払う。
忠告じみた言葉を、追い払った。
「わあすごいね、たくさんの船が行き来しているよ!」
中流貴族のつばの広い帽子をかぶったクラウスが、帽子と同じように中層階級の衣装であたりを見回せば、同じようにお忍びの格好をしたフィフラナと、天使のような顔立ちの彼女の弟が笑った。
「当たり前じゃないの。この数日前に、大きな船団がここに帰ってきたのよ。デルペロー商会の船で、とってもいろいろな商品を運び込んでいる真っ最中。船に乗ってきた商人たちが、あちこちに、面白い物を運び込んでいる真っ最中でもあるのよ!」
「演奏会と被るなんてそんな偶然、あるんだね」
「あるものよ、季節がいいんだっけ? クラウス様」
「えーっと」
問いかけられたクラウスが、少し黙って記憶を探り、周囲の海流の流れを思い出す。
「ニトロ海流と北方海流が、この時期には必ず、この港に船が運ばれてくるように動くんだったっけね? そうだそうだ、そんな事お城で習ったよ。それにしても、ここはいつ来ても待ち合わせのいい所なんだね」
少女は言いながら、金のメッキで輝く海姉神像を見やる。
「そりゃあこれだけ目立つんだもの、待ち合わせに慣れていたってなれていなくたってちょうどいいじゃない」
自分の事ではないのに、胸を張るフィフラナに少女はくすくすと笑った。
「フィフラナさんが自慢してどうするの?」
「姉さんはいつもこうだから気にしないで」
「フィフラナさんはいつだって頼もしいフィフラナさんだよ」
「ありがとうクラウス様!」
きゃー、と少女同士が抱き合っていても、この待ち合わせ場所ではよくある光景だ、誰も気にしない。
待ち合わせてきゃあきゃあと喜び合う女たちの実に多い事。
世の中の普通なのかもしれなかった。
「さて、あの一番遅い奴はどこをほっつき歩いているのかしらね」
ひょいと弟の懐中時計を、弟の懐からさりげなく取り出したフィフラナが言う。
「忙しいんだよ、もしかしたらすぐそばにいるのに、見つけられないだけじゃないかな」
「だといいんだけど。待ち合わせを十分も遅れているわ」
「姉さん、夜の兄さんの事になると途端に厳しいよね……」
弟の突っ込みやクラウスのフォローも気にせず、彼女が言う。
「これ以上遅くなるようだったら、買い物の金額全部建て替えさせてやる」
「おれを破産させようという魂胆なのか、女傑」
「あ、そっちにいた!」
彼女の発言を聞くか聞かないか、そのぎりぎりの境界線で姿を見せたのは、やはり三男坊崩れの適当な見た目をしたプロ―ポスであった。
彼が自由に行動する際には、その格好が一番無難なのだろうか。
確かにどこにも浮いていないのだし、ちょっと結び目をきちんとしたらそれだけで、十分にみられる格好になってしまうわけだが。
こうも袖をまくり、スカーフをぐちゃっと結んでいると、そんな造りの良さも台無しだ。
それを見たクラウスは、とととと彼に近付き、手招きをした。
「なんだ、クラウス嬢」
「その見た目じゃ演奏会に入れないでしょ、スカーフ結び直してあげる」
彼女の当たり前の言葉と提案に、男が嬉しそうに笑って視線を下げる。
「これで届くだろうか」
「うん、届くよ、スカーフはどんな結びがいいのかな、やっぱり三男坊風?」
「そうだな、三男坊風というものを任せてみようか」
「ふふふ。人のスカーフを結ぶのなんて、すごい久しぶりだね」
言いながらも、手はその手順を記憶していたらしい。
クラウスの手によって、だらしなく結ばれていたスカーフは、そこそこみられるスカーフに早変わりしていた。
「……あんたが急所を他人に預けるなんて。よっぽど信用しているのね」
その光景……王子様のように整った姿の男性が、無防備に笑う少女に首元を見せて、スカーフを巻きなおしてもらう光景……をみたフィフラナが、心底気持ち悪そうに言った。
それ位に、夜の君が他人に急所を預けるのは意外な事なのだ。
よく分かっていないのは、夜の君の事を一般的な事までしか知らないクラウスだけである。
周りの人々に至っては、その男が夜の君だなんて知らないので、男女のいちゃいちゃ位にしか思っていないに違いない。
しかし。
巻きなおしてもらったプロ―ポスは目を丸くする。
「クラウス嬢は信じてもいい少女だろう、フィフ」
「その呼び方止めなさい、ポス坊ちゃま」
フィフラナは呼び方が気に入らなかったのだろう、苦い顔をして一言言う。
その彼女の呼び名に、プロ―ポスが苦笑いをした。
あ、なんか胸のあたりがぐりゃっとした。
その光景をみて、彼等の呼び合う姿を見て、クラウスはなんだか心の一部が文字通り、ぐりゃっとした感覚に襲われた。
なんだかうらやましい気がしたのだ。
彼等は幼馴染みたいなものだって、聞いていたはずなのにどうしてだろう。
よく分からないままだったが、フィフラナの義理の弟タンガが口を開く。
「姉さんも夜の兄さんも辞めてください。こんな所で兄弟げんかみたいな事。クラウスさんが間に入れなくて困っているじゃないですか、置いてけぼりにする気ですか、姉さんたち」
「そんなわけないだろう」
「今日はクラウスと演奏会に行くから、わざわざ屋敷から出てきたのよ? クラウスを置いてけぼりなんてするわけないじゃない」
そうだそうだ、と頷くプロ―ポスである。
もしかしたらフィフラナと彼は、よく似た思考回路をしているのかもしれない。
烈女と名高いらしいフィフラナに似た性格……ということはプロ―ポスも猛り狂う時があるのだろうか。
いまいちその想像が出来なかったクラウスだったが。
彼等の視線が一気に集まったため、取りあえず今日の予定を確認しようと思い至った。
「今日は船の品物を見せてもらった後に、午後から演奏会に行くんだよね、いちのくるわの庭園で」
「ああ、知り合いが面白い物を手に入れたと連絡してくれたんだ」
「私の方では、ぜひ私たちに見せたいものがあるからってことだったわね」
「変な物じゃないだろうな」
「それを言うならこっちだって同じよ、あなたに見せたいものの半分が、女性受けしないっていう事実をあなたはいい加減思い出したらいいと思うわ」
「昆虫標本がそんなに嫌だったのか」
「あたりまえでしょ! ひと箱くらいならまだしも、壁と床を埋め尽くすガラスの標本とか恐怖でしかないからね!?」
「え、フィフラナさんも虫がダメなひと?」
「クラウス様は平気なのかしら」
「虫って綺麗な虫は好きだよ? 蝶々とか。甲虫とか。でもそう言えば芋虫の標本っていうのは見せてもらった事が無い気がするね」
「芋虫は中身が腐りやすいから、ピンでとめる標本にならないんだ。たいていは酒精につけこまれることになる」
「ふうん、おじいちゃんの標本もそうだったのかなあ」
「おじいちゃん?」
「うん。たまーのたまに、お屋敷に来てくれた不思議なおじいちゃん。本物のおじいちゃんだぞって言っていたけど、誰も出迎えたりしなかったからきっと冗談だったんだろうな。小さな瓶の中に、一匹、きれいな虫が入っていたりするものを見せてくれたりしたんだ、とっても小さい頃。まだお屋敷の仕事に慣れてなくて、泣いちゃったりしてた頃」
クラウスがけろっとした顔で語る事を聞き、情報通二人が顔を見合わせた。
「聞いたか?」
「ギースウェンダル家にそんな人が出入りしているのは初耳だわ」
「こちらで調べておこう」
「こっちでも調べておくわよ」
どうやらプロ―ポスもフィフラナも、クラウスに接触する人間の事は色々知らなければならないと思っているらしい。
本人がのんきな分、周りがしっかりしているというべきなのか。
それともこの二人がクラウスの事を好きすぎるのか……とタンガは内心で思っていた。
姉さんも夜の兄さんも、ふわふわしたもの好きだしな……ふわふわの獣。
まさかそれと同じ扱いではないだろうが。
一方のクラウスは、思い出した事で余計に、その思い出が鮮明になっていた。
そうだ。
泣いていたらいつの間にか現れて、その小瓶を見せてくれる。
「綺麗だろう、クラウス。この世界にはこんなきれいな生き物がたくさんたくさんいるんだぞ、泣いているともったいないぞ」
そんな風に慰めてくれて、頭を撫でてくれたっけ……
泣かなくなってからは、そのおじいちゃんに会う事も、街中で見かける事すらなくなったから、きっと寿命とかがあったのだろうけれども。
あの頃、独りぼっちの気分はそれでだいぶ慰められたんだよな……なんて思ったわけだ。
しかし今は。
「クラウス嬢、ぼうっとしていたら日が暮れてしまうから、早くあちらに行こう」
ひょいと顔を覗き込み、プロ―ポスが笑いかけてくれた。
そしてちょっとだけ仰々しく手を差し出し、からかう調子でまたいう。
「お手をお借りしてもよろしいだろうか? お嬢さん?」
そのふざけた感じがなんだか、笑ってしまう調子だったから、クラウスは吹き出して笑い、その手を取った。大きくて温かい手だ。
爪が少し深く切られている所が、やや見た目に悪いかもしれないけれども。
その手に自分の手が包み込まれている事に……不思議な高揚感を覚えていた。
「クラウス様、ポス坊ちゃん! 置いていくわよ!」
「あれで絶対に置いて行かないんだぞ、フィフの奴」
「だってフィフラナさんだもの」
その高鳴る何かに誘われるように、二人で顔を見合わせて笑い、先を少し進む姉弟の後を追いかけた。
手をつなぐ、たったそれだけ、それだけでお互いの手のひらが当たる。重なる。
その奇跡のような事は、クラウスにとって心音が上がる理由だった。
だって。
だって。
手のひらなんて、滅多に触れ合ったりしないじゃないか。
頭をなでたり腕を掴んだり、そんな事はする。
というか。
誰かがものに触れようとする時、たいていは手のひらから始まる。
手のひらで触れてからもっとほかの場所に移っていくのだもの。
そんな“触れようとする意志”が無ければ重なり合わない場所が触れ合っているのだ。
プロ―ポスと。
クラウスにとってその事は特別な感じがした。
それこそ、手の甲に口づけられる以上に。
それくらい、近い気がして仕方がない。
なんだかそれがとてもうれしいんだ。
ああ私。
プロ―ポスの事が特別なんだなあ。
彼女はその心の矢印が、どういう系統なのか知らないため、取り合えず特別というカテゴライズの中にプロ―ポスを置く事にした。
それだけでずいぶん、プロ―ポスに対する明確にならない不思議な感じが、収まりがよくなった気がした少女だった。
対してプロ―ポスは、何か話題を探すように視線を前にやり、ちらりと横目で彼女を確認した。
手をつないでいる相手が間違いなく、クラウスなのか確認するように。
そして。
確認して、口元が緩んだ。
それは浮かべる笑みとは違った、なんだか生身の緩さだった。
満足そうな、満ち足りたような。
それにまたクラウスはどきりとして、そわそわとして、視線を逸らせない。
二人の歩調は徐徐に遅くなり、またフィフラナ達が先に行ってしまう。
「……遅れちゃうよ」
クラウスはそんな事を言った。フィフラナと面白い物を見に行くのが楽しみな今日だったのに、いまはプロ―ポスと視線を交わして精いっぱいで、歩けないのだ。
「後でおれが抱えて走ればいいだろう。……少しこのままで」
手が一度離れたような気がしたのだが、今度は長い指がクラウスの手に絡むように握られる。
「妙に心臓のあたりがざわざわするんだ、少しこのままで」
いたい。
そんな言葉の裏側が自分と似たような物で、クラウスは頷いた。
時間にして本の一分そこらであり、その遅れに目ざとく気付くフィフラナが振り返っている。
遠くでもわかる覇気のある美女のフィフラナだ。
彼女が何か言っていて、タンガになだめられていた。
しかし彼女の空気は伝わり、うるさそうにプロ―ポスが顔をしかめてから、隣の彼女を見て提案する。
「少し走ろう。あの鬼が怒りだして角が生えてしまう」
その言い方が冗談めいていて、クラウスもまた笑って、今度はちゃんと走って、彼女に追いついた。
「ごめんね?」
「恋人のやり取りをここに持ち込まないでちょうだい! もう、女友達と身内が恋仲だとこんな時に困るのね! どっちも純情すぎて色々追いつかないわよ!」
「別に恋仲でもないんだが」
「私そんなに純情じゃないと思う」
「突っ込むところがありすぎて追いつかない! ポス坊ちゃん、あんまりだらしなかったら一派の総量をかけて夜の屋敷に乗り込んで説教するわよ」
「プロ―ポスのだらしなさはスカーフの締め方くらいだよ」
「あなたも変に庇わないで! もうこれだから……」
何て言いだすのか身構えた二人に、実にいい笑顔でフィフラナが言い切った。
「恋する人の観察って一番楽しいのよ!」
「姉さん変な方に振り切れちゃってる!?」
タンガが慌てる物の、それ以上フィフラナは壊れたりしなかった。
会話の間も目指す船まで進んでいたらしい。彼等が到着した船の上には、切れ味のよさげな剣を背負ったにやりとする赤い男。
「いよう、兄者」
「スカーレッド。どうしたんだ、船はこの船じゃなかっただろう」
兄者と呼ばれたプロ―ポスが、あきれ顔で問いかける。
「行く先々の船を沈めたせいで、この船で帰還を女王様に命じられたんだよ。海賊狩りもちょっと休憩さ。……へえ、可愛らしい子じゃん、兄者、紹介してくれる?」
赤い男はプロ―ポスの前に飛び降りると、手をつなぐクラウスをまじまじを覗き込んでから彼に問う。
「あの、え、兄弟って? プロ―ポスは兄弟が何人いるの……?」
今の女王様の夫だった国王、その国王の息子は三人だったはずなのだが。
プロ―ポスと王太子と後一人が彼なのだろうか。
こうしてみると、やっぱりプロ―ポスとの共通点を見つけられないような。
クラウスが何とか、彼と友人の共通点を探していれば。
「あっはっは! 兄者、そこ言う子!? お嬢さん、夜の間にだけ通用する常識なんだけれど」
「前置きが長い。杯を交し合えば義兄弟になるという風習が根強いだけだろう」
面白そうに暗い色の目を光らせた赤毛の青年。その青年の長い前置きをばっさり切り捨てたプロ―ポス。
彼等は険悪になるかと思われたが……そうはならなかった。
「さて、女獅子にちょうどいい金銀財宝それから宝石の原石、色々持って帰ってきたんだぜ、兄者。女王陛下にもおあつらえ向きな、飛び切り大きな青い金剛石だって!」
おどけた調子でくるりとその場を回った男は愉快そうに、言う。
「無論、兄者の大事な人にささげる贈り物の材料だってね」
「スカーレッド! 早く品物見せなさい! うちとの取引が一番先って言ったの嘘だったのかしらぁ!?」
しかし愉快なスカーレッドは、思い切り耳を引っ張られてフィフラナに急かされる事になる。
「おっと、女獅子の君、痛い痛い! これだからおれの子猫ちゃんは」
「うちはね? お父様もお母様もお姉様たちも、あんたの持ってくる商品の事を頸を長ーくして待ってんのよ! 実際に見聞しに来た私をいつまでも待たせるなんて、商人の風上にも置けないわよ」
その言い方だとまるで、スカーレッドが商人の様だ。
「え、スカーレッドさん海賊退治の専門家とかじゃなくて、商人なの?」
「はい、お嬢さん。デルペロー船団副船長にしてデルペロー紹介第二船団の総まとめ、スカーレッド・パイレーツキラーとはこの俺の事ですよ」
彼女の問いかけに対しての答えは、すぐだった。
仰々しいそれも、お辞儀をしたとたんに飛んできた誰かの長靴によってコメディに変わる。
「誰だ決め台詞で靴投げた奴!」
「フィフさん待たせたらだめでしょう船長」
「そうですよ大将」
「おーおー誰も味方はいないのか!」
「安心しろ、時は金なりというだろう。皆それをよく分かっているだけだ」
「兄者まで!」
ひどい、と顔を覆った彼だが、すぐさま姿勢を立て直し、さっそくというように四人を船の中に案内し始めた。
船内の中でも、商談をするために整えられている部屋なのだろう。
なんとなく想像していた船と大違いの、きれいな空間だ。
「綺麗にしてありますね」
「日頃の掃除のたまものですよ、いかんせん船はすぐに海水でデッキが滑るようになりますからね、そこからして毎日の掃除が大事なわけで」
「御託はいいからさっさとおし」
フィフラナが慣れた調子でスカーレッドを蹴り飛ばす。むこうずねを蹴飛ばされた彼も結構痛そうだ。
「はいはいお姫様」
言いながら、彼が船の乗組員に指示して持ってきたのは。
大きな長びつだった。いかにもな宝箱に見える、そんな長びつ。
見ているだけでわくわくするようなそれを、彼が笑って開いて見せた。
「これが今回の一番の品です、お嬢様がた」
「きれいな生地だね……」
「立派ね、どこの産地かしら。お父様が気に入りそうだわ、この織り方」
「褒めていただいてありがとうございます、北の方の養蚕の名所でとれた絹糸を、これまた北の方の職人が、腕によりをかけておりあげて染め上げた品物で」
「手間賃がかかりそうだな、その辺りはどうなっている?」
「今回は紹介という事でお安く。定期的にやり取りできれば、これくらい」
さらさらと小型の黒板に書かれた値段は、クラウスの想像なんてはるかに超えていた。
「これが布地の値段なの……」
信じられなさ過ぎて、プロ―ポスに確認すると、彼は頷く。
「北の布地は最高級品。ましてこれだけ見事な布地で、染めまで素晴らしければこれ位行くぞ」
「ちょっとお父様に連絡だわね、お母様の新しいドレスの布地にしてはバカ高すぎるわ。これはちょっと。ハンカチーフにするくらいしか役に立たないじゃない」
「フィフラナさん……ハンカチにこれだけの布使っちゃうんですか……」
大貴族って理解できない、今までドルヴォルザードの事で理解できないと思うのはやっぱり、金銭感覚だったけれど……フィフラナさんまで金銭感覚があちらの住人だったとは。
自分はかなり庶民的なのだな、とクラウスは内心で思った。
別に恥じる事でも何でもないし、そのままでクラウスは家族に家族として見てもらっているから、とりつくろうのはもう遅いのだが。
「うちとかになると、見た目自慢しなきゃいけなくなるのよ。お父様みたいに、ちょっと柔らかい顔で舐められやすそうだとね、余計に小物で磨かなきゃいけないのよ。スカーレッド? これ布地のサンプル持ってるかしら」
「ここに、お姫様」
「ありがと。これとこの下の奴も見せてちょうだい」
長びつの中にはまだ、下に何か入っていたらしい。
「よく見ている事で」
「あんたの事だから一つだけ入れるなんてしないでしょ? 私たちに見せたいものは一度に見せる主義だしね」
肩をすくめたスカーレッドが手袋をはめる。つまり手袋をはめるだけのものがそこに入っているという証だった。
そして取り出されたのは。
「え、剣」
「これは剣というよりも短剣ね。これがあなたのとびきりかしら?」
「ええ、見た目からして変でしょう?」
確かに変な短剣だった。柄の部分にネジがはまっている。
「これは東の方の傑作でね、折り畳みナイフなんですよ」
「折り畳み……ナイフ?」
クラウスがよく分からない、と言葉を繰り返すと、見るが早いとスカーレッドが刃の部分に力を籠める。
そうすると、柄との境に回転する部品が入っているのか、刃が柄の中にしまい込まれた。
「わ、便利ですねえ」
「食いつくのはそこなのか」
「だってこれなら、困った時にいつでもナイフが使えますよ」
「喜んでくれてうれしいですよ、お嬢さん。これはまだまだ小細工がしてありまして」
その折り畳みナイフから、小さなはさみや爪やすり、耳かき、なんだか色々な物が登場する。
ナイフの刃自体も、三種類もあるのだ。
「わあ……」
実用品も大好きなクラウスは、それをうっとりと眺めた。
「これ、いくらなんですか? ちょっと欲しいですね」
「これも紹介品として結構値段を落してもらったんですよ、マテリアで商売が出来そうだという事なら、このお値段」
クラウスはまた値段を見た。
「だめだ……」
「あなたお小遣い貰っていないの?」
「欲しい物があったら、お父様とお母様に言うようにって言われているんです」
「ドルヴォルザードの沽券にかかわるものね、安物を娘が持っていたら」
なんだか納得するフィフラナである。
クラウスは、自分がギースウェンダル家から持ってきたささやかなお金では、この素敵な折り畳みナイフが買えないと判断し、ちょっと未練はあったのだが……諦めることにしたのだが。
「スカーレッド、これを二つ」
プロ―ポスが一言、弟分に告げた。
「兄者が買うんですか、確かに兄者はこう言うの欲しそうですが」
「うちに長く勤めている女中頭に贈る。こう言う物を欲しがっていたからな。もう一つは」
ひょいとケースに収められているもう一つを彼は、クラウスに渡した。
「友人に」
「え、もらう理由がないですよ!?」
「こちらにはあるんだ」
「何をしたのプロ―ポス!?」
「いや、自分の家の評判だけだと、使い勝手の声として弱いからな。実際に使ってもらえないかと思って」
「私が欲しいって言っちゃったからって、買ったりしなくても」
慌ててケースを彼に押しやるクラウス。押し付けようとするプロ―ポス。
そのやりとりを見て笑い出したのは、スカーレッドだ。
「お嬢さん、兄者のそれを受け取ってやってくださいな、もともと一つは兄者に渡すものでしたから、それを兄者がどうしようと問題ないのですし」
「受け取ってあげてよ、クラウス様。こいつがこんなに一生懸命、誰かに贈り物するのなんて十年に一度くらいしかないんだから」
「そうですね、夜の兄さんは色気のある贈り物下手ですから」
なんだか周りに押し切られるように、その素敵な折り畳みナイフは、クラウスの物となった。
「ちなみに、これ安全装置が付いておりまして」
「安全装置?」
「はい。持ち主以外が使おうとすると、刃が出ないんです」
「東の何かか?」
「ご名答。東の術者が、お貴族様用に掛けた、咒ごとの一つですよ。さて、次は宝石の原石をお見せしましょう! これも逸品ぞろいですよお姫様たち!」
それから見せてもらった宝石の原石は、とても珍しい姿だった。
少女たちは鉱石の中に埋まった状態の原石なんて、一度も見た事が無かったからだ。「
「こんな所から宝石がとれるんですね」
石の中にうずまった青い宝石を見て言えば。
「途中で削れるものが多いので、これより大きさは小さくなってしまう物よ、たしか。いかに大きさを損なわないでカッティングできるか、それが技術者たちの腕の見せ所だって私は聞いているわ」
フィフラナのためになるのかわからない返答である。
宝石に目を輝かせるのはどちらにしろ少女たちで、男性たちはその他の物を見ていたりする。
興味の対象が違うのだから仕方がない。
だが全員満足のいくものだったため、誰も不満は言わない。
そんな時、プロ―ポスが懐中時計を取り出して呟いた。
「そろそろ庭園に行かなければ、席がみんな埋まってしまうぞ」
「あ、じゃあそろそろお暇しなくちゃね」
「いい物を見せてもらったわ、スカーレッド。こんど遊びに来てもいいわよ。商品付きで」
「これはこれは、おれのお姫様のご機嫌が麗しくて結構結構」
「姉さん、これだから赤い兄さんが増長するんですよ……」
三者三様の言葉ののちに、彼等は船から出ていき、いちのくるわの庭園を目指した。
港に行くために徒歩だったわけだが、ここでプロ―ポスが如才なく、馬車を用意していた。
「ちょうどいい時に来るものね」
「そういう風に知らせておいたからな」
「なんでも綺麗にこなすんだね、プロ―ポスは」
馬車の具合はちょうどよく、先ほど折り畳みナイフのケースを押し付けあった時のような、問題は起こりそうにない。本当に何でもできる人の、さきほどの困ったような顔。
人間らしくていいな、何てクラウスは思いながら、庭園を目指す馬車に乗っていると。
「もし、こちらに、ドルヴォルザードのご令嬢はいらっしゃいますか」
馬車が止まるやいなや、御者に誰かが駆け寄ってきたらしい。
誰かというと。
「ギースウェンダルの庭師のおじいちゃんだ」
ちらりと窓から相手を確認すれば、見知った男性だ。どうしたのだろう、とクラウスが思えば。
「もしいらっしゃるようでしたら、奥方様からこちらをお預かりしております」
おじいちゃんは手紙を差し出してきた。
プロ―ポスの指示で、御者はその手紙を受け取ったようだ。
中に回され、手紙はクラウスのもとに届く。
「奥方様って事は、継母のあの人ね? いったいどんな手紙なのかしら」
「手紙は送っても、返事が来た事なんて一度もないから……何が書かれているんだろう」
クラウスは見知った封蝋を見ながら、不安になりつつそう言った。
なんとなく、今までお父様から聞いているギースウェンダル家の状況からして、いい知らせな気がしなかったのだ。
キララが太りすぎてみる影がないとか。
日常的に当主の怒鳴り声が響いているとか。
使用人の質が変わりすぎて大変だとか。この場合は当主が雇った使用人と夫人が呼んできた使用人の質の差である。
どうも当主は見る目がないらしい。
それから色々な借金の話や……キララのドレスを調達する際に使い込んだ結果どうなっているかや、ティアラの代金がとんでもないとか。
伝え聞くだけで不安になる事を、いくつもクラウスは聞いていた。
助けようとは思わないし、もう自分は関係ないのだと思ってしまう自分は薄情なのだろうとクラウスは、内心で自分に呟いてしまうが。
「開けてみてもいいはずよ、こう言う場所に持ってくるって事は、他所の誰かに見られても問題がないって事だもの」
それは家の醜聞を外に知らせるいいきっかけになったりするらしい。
「うん、開けるね」
クラウスは開けたくないような恐怖を押しやり、封蝋を開いた。
中の手紙はギースウェンダル家で何度も見た、継母の文字である。
それを読み、彼女は言う。
「お義母様、離縁したんだってさ」
「まあ、ついに? それで、どうするのかしら。どこに戻るのか、修道院に行くのか……」
「修道院に行かされるんだってさ」
フィフラナが変な声を出す。修道院に行くのと、行かされるのでは意味が大違いなのだ。
「は?」
「娘に対する目に余る行為って事で、当主が離縁して修道院に送られる予定なんだってさ。……幸せになってねって、書いてあるの。これが最初で最後の手紙かもしれないからって。……愛していますよって。あなたは私の娘の一人のつもりですよって」
クラウスは顔を覆った。手紙の中身に、詳しくは書かれていないけれども、自分が家を出た事で当主が苛立ち、義母に八つ当たりをしていろいろしているのは、十分に分かってしまったのだ。
そして送られる修道院は、厳しい事と柄が悪い事、環境が悪い事でひそやかに知られている場所。一年持たない貴族女性が多い事でも有名な所だった。
そこに送るという事は、当主の怒りやその他もろもろが、いかに激しいかを物語っている。
厳しくも本当は優しい義母が、送られていい場所ではなかった。
「こんな事になるなんて思わなかった……」
たった一人、使用人まがいの娘が逃げ出した余波が、こんなに好きな人に迷惑をかけるなんて思わなかった彼女は、涙が目に浮かびそうになった。隣のフィフラナがハンカチを押し付けながら言う。
「クラウス、ちょっと貸して」
素早く手紙をとり、中を見て。そして言う彼女。
「大丈夫よ、抜け穴があるわ」
「確かに大きな抜け穴がある」
「……え?」
にやり、と笑ったのは、首を伸ばして手紙を覗き込んだプロ―ポスだった。
「離縁した場合、身元の保証人になれない。縁を切った相手だからな。つまり修道院に送っても、場合によっては門前払いだ。……そこを利用するぞ」
「そうなの?」
「この国の法律ではそうでしょ、思い出してよクラウス様」
言われたクラウスは、法律書を記憶から引っ張り出した。
離縁された夫人の、身元を保証したり証明したりするのはたしか……
「実家と王家だ……」
「まあ、よくある話で離婚した奥方が修道院に行くってあるけど、あれ自主的に行くから身元保証人いるから、すんなりいくわけよ。あなたはこの手紙を今日中にお父様がたに見せて、この状況を知らせればいいわ」
「だがこの手紙によればすでに、出立させられているとの事。距離からしてそう遠くない海辺だったはずだが、なに、これは俺に任せてくれ」
「さすが夜の君、動かせる人間の数が違うわね」
「門前払いされた元夫人を保護するくらい、造作もないぞ」
「助けてくれるの、プロ―ポスも、フィフラナさんも」
「当たり前じゃない、大事な友達の大事なお母様よ?」
「助けない道理はないな」
彼等が断言する。迷いなど一切ない顔と態度で。
クラウスは今ほど、二人の友人が力強く見えた事はなかった。
「あ、ありがとう、ありがとう、本当に、ありがとう……!」
ぼろぼろ泣きじゃくりそうになる彼女に、プロ―ポスが言う。
「だが、これはギースウェンダル家に今知られてはいけない。これからの予定を変えて、ドルヴォルザードに戻ったら怪しまれるかもしれない。演奏会は聞いてからが、動ける時間だ。……俺は少し席を外すかもしれないが、俺がちょっと抜けた程度は怪しまれない。もし見張られているとすれば、それはクラウス嬢だからな」
肩を叩き、クラウスの頬に両手を添えて、力づけるように言う男。
それを見ている姉弟は小声で言う。
「あれでまだ恋仲じゃないのよ」
「あれでですか、被害が甚大ですね」
「どっちも鈍いから」
「いえ、夜の君は分かってやっているのでは」
「そうでもないわよ。初恋は義理の母である女王陛下だって、最近まで気付いてなかったくらいだし」
「なるほど……」
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