第二章 2 向こう側では涙が一滴落ちる
ギースウェンダル家のその頃の話。
一方その頃の話だ。一人の女性が夫を睨み付けていた。
「どういう事だ、あの娘がどうしてお前の実家の養女になっている! 私にその話は来ていなかったぞ!」
「あの子はあなたの子供という扱いをされていなかったのでは、なかったかしら」
頬を思い切り張られた女性は、しかし強い光を目に宿し、全くひるまない。
夫が激昂しているにもかかわらず、だ。
「あの子は使用人で、身寄りがないという事になっていましたでしょう。その子がデビュタントもできずにいるために、ここから去って行った、それだけの事ではないかしら」
「お前はあのデビュタントで、キララの存在がかすれた事に対して、思う事も謝罪もないのか!」
また怒鳴る男。普段弱々し気なギースウェンダル当主は、怒りに目がくらみすさまじいほど怒っていた。
「どこの屋敷に招待されても、あの娘の事で皮肉られるのだぞ! ギースウェンダル家は有力な妃候補を追い出したのだろうとな! あの何もできない役立たずな娘のどこに、有力な事があるものか! 妻に似たキララが、妃として申し分ないのだ!」
「ならばどうしてキララが、今、王宮に戻ろうともせず、暴飲暴食を繰り返しているのですか? あの子にとって今、妃候補として王宮に戻る事は、負担以外の何物でもありませんよね。いくら言っても食べる事を止めないのですから。それもこってりとした脂ものや濃厚に甘いものばかり。わたくしとしてもあの子の体がとても心配ですが」
それに、と女性は続ける。
「あの子の登場でキララの存在がかすれた、とおっしゃいましたね。つまりあの子の存在の方が、キララに勝っていたという事でしょう。見た目だけでは確かに、キララの方が優れていますが。身ごなしなどのその他の面で、クラウスが勝ったという事でしかありませんし、第一、当主、あなたは一体いつ、クラウスを妃候補としてデビュタントさせるおつもりだったのですか?」
「あんな娘はデビュタントもさせる価値がない! そのうち、この屋敷の男の使用人と結婚させるのが、あの娘の幸せのはずだったんだ! それをお前の実家がぶち壊した! うちの使用人たちは皆、あの娘が逃げ出した事にも気付かなかったぞ!」
それは奥方の手のものたちが黙ったという事と、それ以外の使用人がクラウスに対して何の興味もなく、どうでもいい使用人だと思っていた事に他ならなかった。
「あの子が未来を決めた事に対して、わたくしたちが抗議の連絡をどこに送るのです? 幸いなことに、あの子はデビュタントしましたが、妃候補から外れましたでしょう、あなたの思わない形かもしれませんが、キララの邪魔にはなりませんよ」
奥方の言葉に、ぎりぎりと歯ぎしりしている当主。
それを見て、奥方は本当に不思議に思ったのだ。
なぜこんなにも、当主は愛していただろう前妻の子供、クラウスを嫌っているのだろうと。
「当主、一つ言わせていただきますが」
また頬を張られた時はその時だ、堂々ここから娘を連れて出ていくまで、と考えた彼女は、問いかけた。
「クラウスはいい子です。一体あの子のどこが、あなたの癇に障るのですか。あなたが嫌う姿は、かなり異常です。あんなにもあなたに言われた事を守ろうと、がんばってきた娘に対して」
「あの娘は、この家に不幸をもたらすという星の元生まれたのだ」
「不幸をもたらす星の元……? 馬鹿なことをおっしゃる」
「カテリーナが死んだときもそうだった。カテリーナが産んだのがキララだけだったならば、カテリーナは生きていた。母子ともに元気だったのだからな。だが後から生まれたあの娘の時に、カテリーナは出血が止まらずに死んだ。最初からあの娘は、この家に不幸をもたらす星の元生まれていたのだ。その後も、妖精ですらあの娘に祝福を与えに来なかったのだからな!」
「あなたのそれはただのやつあたりでしょう。クラウスが生まれた事で、カテリーナ様が死んだなど。言いがかりでしかありません」
彼女の言葉に、当主は睨み付けた。
「お前にはわかるまい」
その声の毒のある空気に、奥方が息をのむと、当主は足音荒く出て行った。
その後、奥方は溜息を吐き、手紙を取り出した。それはクラウスからぽつぽつと送られてくる、近況報告だった。
毎日楽しく暮らしていて、そして家族がいる事に対して何よりも喜んでいるのが分かる手紙。
それらの幸せな空気とは裏腹に、この家ではぎすぎすとした空気が流れ始めている。
「貴方がいなくてよかったわ、クラウス」
奥方は小さく呟いた。あの継子はきっと、その空気を何とかしようとして、大変な目に合っただろうから。
「この日に、あの子は出かけるのね。偶然を装って様子を見に行こうかしら」
奥方は、祝日に彼女が友達といちのくるわの教会の近くの、庭園で行われるコンサートを見に行くという事を知り、そんな事を呟いた。
「ねえ、どうしてここは開かずの間になっていたのかしら」
カリーヌが不思議そうにそんな事を言った。場所はクラウスのために開けられた、あの青緑の部屋である。
「とっても立派だものね」
セレディアも同じ事を言う。
そして二人は、同じように壁に立てかけられた絵を見て、言う。
「ねえ、不思議よね」
「何が?」
「この絵、この前まで女性が座っていたりしたかしら」
「座ってたんじゃないの? ほら、クラウスみたいに緑の髪の毛だし、衣装も緑だし、沼の縁にいるし、ちゃんと見なかったから気付かなかったのよ」
二人はそりゃそうだ、と納得したらしい、そしてその絵を見てまた呟いた。
「それにしても、この絵の中の女性、クラウスが美人になっちゃった感じよね」
「クラウスが大人になったらこんな風に、なるんじゃないかしら。そしたらきっと、いろんな人から求婚されまくっちゃうでしょうね」
「でも、クラウス、夜の君と踊っていたんでしょう、その時点で色々決まっていそうだわ」
言いながら二人は、その絵の陰を見た。
「……ねえ、あれ、扉じゃない?」
「え、隠し扉?」
好奇心旺盛な二人は、顔を見合わせて、同じことを思ったようだ。
「どうせお父様はここには来ないのだし、ちゃんと元通りにしておけば……怒られたりしないわよね」
「こんな場所に扉何て、隠しておくのがいけないのよ」
言いながら二人は、よいしょと絵を持ち上げ、その扉の前からずらした。
扉は隠されていただけで、ほかには鍵なども何もかかっていない。
「何が隠されているのかしらね」
ワクワクとした調子で言ったカリーヌが、ひょいと扉を開けた。
そして中を覗き込んだセレディアが……大きく目を見開いたのは、早かったのだ。
「え、これ、誰?」
「どこの誰の肖像画かしら」
隠されていたのは、一枚の家族の肖像画と、その中にいた女性だけを大きく扱ったものだった。
家族の肖像画は、よくある立ち位置で、中心に子供、両脇に座る父親や祖父母。
そして大きく扱われている女性は、おそらくその肖像画の祖母だった。
その女性をよく見た二人は、またもや同じ事を言った。
「この絵の中のお婆さんって、すごくクラウスにそっくりじゃないかしら」
「瓜二つよね、うわ、このおばあ様すごい美女」
「顔立ちは平凡な感じがするのに、なんでこんなに美人の空気にあふれてるのかしら」
「ねえ、お母様に一回見せて見ない?」
「いい考えね!」
言いながら、二人は扉を閉めて、絵を元通りに直し、何食わぬ顔でその部屋から出て行った。
出て行って、娘の部屋が集中する二階に上がると、部屋から出て来ていたらしい、キララの姿があった。
「キララ、あなたまた太ったんじゃないの? そんなに食べてばかりいるから、太るのよ、ちょっと食べるのを控えたらどうかしら」
妹の姿をみて、開口一番に言ったカリーヌに、キララを身を震わせた。
か弱げな仕草であるが、体格が立派になりつつある今、そうしてもそこまで可憐な風情は出なかった。
「ごめんなさい……」
弱々し気な口調、セレディアはそれが気に入らない。
キララは妃候補として戻ってきて以来、異様な程この義姉たちを怖がるようになり、彼女を信奉する使用人たちから、敵意のまなざしを向けられるのだ。
一体何があったのか見当がつかないのだが、キララは震えて怯えている。
「キララ、私たちが何か貴女にしてしまったのなら、きちんと言ってくれなければわからないわ。いたずらにあなたを怖がらせる、そんな女になった覚えはないのよ」
「……お義姉様たちには、お分かりにならない事でしかありませんから」
うつむいたキララが肩を落とし、歩き去ろうとする。
だがそれで逃がすセレディアでも、カリーヌでもなかったのだ。
がっしりと義妹の肩を掴み、セレディアが強い語気で言う。
「気に入らないわ、理由を言わないのに、同情してくださいと言わんばかりにおびえて! ちゃんと言いたい事を言ったらどうなのかしら!」
セレディアの言いたい事はもっともで、カリーヌは妹を止める事なく見つめる。
「いやな事はきちんと話すのも、お互いの交流のためには必要だと前にも言ったはずよ。キララ、泣こうが喚こうが、あなたの怯えてる理由を聞かせてもらうからね」
「……よいところで」
「え?」
「上等な所で、上等な教育を最初から受けているお姉様たちには、お分かりにならない事です! 私が血のにじむような努力で手に入れた礼儀作法が、皆、お姉さま方の知り合いから笑われるなんて、お姉様たちにはお分かりにならないのです! 皆してせせら笑うのです、扇で顔を隠して蔑むのです、私の礼儀作法は下流貴族よりもひどいと! 教本を読んで何度も練習したものも下等だと笑われて……、上等な所で生まれた時から上等な教育を受けてきた、小間使いにだってならなかったお姉様たちには、理解できないのです! こんなに一生懸命に頑張ってきたのに、居ない物のように扱われて、ましてクラウスみたいに、何も知らなかった人間以下、だと思われ続ける人間の気持ちなんて、分からないんです!」
この悲痛な声に、二人は顔を見合わせた。
「だってキララ、当たり前じゃない。教本で習う物は、実際の家庭教師を雇えない商人とか、そういう層が読んで勉強するものであって、本物を雇えたり、実地で勉強できる人間が読むものじゃないのよ?」
「奥方様は、私に家庭教師なんて雇って下さらなかった!」
「だってあなた、お母様の一番側で、お母様の振る舞いを見て勉強できる立場じゃないの。貴族の優雅な振る舞いを勉強するのに、これ以上ない立場はないわよ?」
キララが、彼女の悲痛な思いを理解してもらえない事を知り、愕然とした顔になった。
それ位に、彼女たちの中で感覚の差が大きかったのだ。
キララの方は、全てを与えられた人間にはわかるまい、と涙ながらに睨んでいたのだが。
二人の姉は心底不思議そうな顔になったままだ。
「あなた一体何を見ていたの? お母様の思いやりも無視していて」
「何もわかっていないって、あなた、今まで一回も私たちと話し合うつもりがなかったじゃない」
「あなた初対面の時いらい、お母様とお話したりしなかったでしょう。覚えていないの、お母様に言った言葉」
セレディアが頷き、言葉を思い出すように告げる。
「ギースウェンダル家を継ぐのは私です、お忘れなきように」
それを聞いたカリーヌが続けた。
「あれでお母様の教育方針変わったのよ、覚悟が決まっているみたいだったし、女当主としての完璧な姿を求めているみたいだし」
「家族とかじゃなくて、娘とかじゃなくて、次期当主を預かっているつもりでいようって、お母様決めていたのよ?」
更に言葉は続く。
「教育方針に逆らって変な物頼って、自分から投げ捨てておいて恨み言?」
その言葉の辛辣さに、キララが涙ぐめば二人の義姉は容赦しない。
「泣く場面じゃないのは確かだわ、キララ」
キララはそれでも、憎しみのこもった瞳で二人を睨み付け、部屋に戻って行った。
残された二人は言う。
「私たちのお友達、マナーの厳しい上流階級ばかりだもの」
「下級貴族以下のマナーを、当たり前のように見せられて、皮肉の一つも言わない友人たちじゃなかったわよね」
そして。
「キララ脱落に金貨一枚」
「キララ辞退に銀貨二枚」
そんな軽口をたたいてしまう位に、キララのそれはお門違いなのが、彼女たちの中の常識になっていた。
しかし一方で、それが本当に起きるかどうかなどわからない。使用人たちが、戻ってきたキララの間食の多さに疑問を抱くころ、キララの体重は以前の二倍ほどにはなっていた。
当の本人もなんとか、やめようとはしている物の、何しろストレス過多の結果であるため、やめられないのが現状だ。
小間使いの仕事の合間には食べる事もなかった物たちであるため、キララが元の体重に戻るのはとても、難しい。
しかしキララは、妃候補として城に戻る期日ぎりぎりに戻って行った。
「キララに優しくしてあげてって手紙送ったけれど」
「キララを候補として認識しないだろうから、敵意はなくなりそうだわね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます