第一章 2 自由に踊る足はそれを放り棄てる事を選ぶ
みんな着飾ってそれは美しいな、というのがクラウスの正直な感想だった。
それくらい誰もが皆着飾り、とめどなく見事だ。
それでも、とクラウスは内心で判断する。
たった一人、自分の姉に勝る美少女はいない。
確かに誰もが整っているけれども、クラウスの双子の姉に並ぶ女性はいない。
そんなキララも緊張した面持ちで、席についている。
彼女はきらめく金色の髪を優雅に結い上げ、その目もくらみそうな青い色の瞳を縁取るマスカラは下品に見えない程度のアイシャドウをつけている。
どこか大人びた雰囲気である。
対してクラウスは、何とか人前に出られる程度の化粧なので、その差は歴然としているだろう。
この晩餐室にいる誰よりも、自分は劣っているに違いないとクラウスは判断し、これはおとなしくご飯を食べていればなんともなく済むだろうな、と察した。
クラウスには妃になろうという熱意が全くないので、その分気合はほかのどのご令嬢よりもないのだが。
王子が現れる。まったく大した美形である。
盛装に近い身なりと言い、この晩餐会がどれだけ重要かを示すようだが、クラウスは彼にすぐ興味を失った。目的はご飯だ。
王子がシャンパングラスをもって声をかける。それに合わせて令嬢たちはグラスを掲げ、晩餐会が始まった。
誰もが王子の興味を引こう努力していたが、クラウスはそんなドロドロした世界に足を踏み入れる気は毛頭ない。
そのため、一人令嬢たちがあまり手を付けない豪華なごちそうに、舌鼓を打っていた。
肉のとろけるような味もびっくりするし、ソースのさわやかさは薄荷の砂糖入りソースだろう。
コンソメのゼリーも複雑な味わいだ。
パンも上品にちぎっていく。家だったらもっと固いパンをスープに浸してもりもりと食べていたな、などとクラウスは思った。
いつの間にか話題は王子の趣味になっていた。
王子と共通の趣味を持つことで、王子の興味を引こうという魂胆が透けて見えるクラウスは、グラスの柑橘ジュースをお替りした。
フレッシュジュースなんてものは家では決して飲めない。ぜいたくの中でもぜいたくの位置にあるのが、氷を浮かべたフレッシュジュースだ。
メインディッシュも食べ終える。実においしいパイ包みだった、この魚はいったい何の魚だろうか、家で再現はできるだろうか。
クラウスはそんな事ばかり考え、ふっと顔を上げた。
王子がじっとこちらを眺めていたが、恐らく自分の向こうの美女を見ているのだろうと、クラウスは自分の身分や立場をわきまえて判断した。
「殿下、遠乗りがお好きでしたら、ご一緒させてくださいな」
誰かが言う。
王子が答える。
「遠乗りに可憐な花を連れて行ってしまって、けがをされたら大変ですから」
「わたし、馬に乗るのはとても得意なのですわ」
「殿下、観劇がご趣味だと伺いましたが、どのような物を鑑賞なさるのですか?」
「英雄譚などが好みですね」
「まあ、私も英雄譚は好きですわ」
「二―ベルゲンズの歌はとても素敵ですわね」
二―ベルゲンズの歌はあれは女が怖い話だぞ、と内心でクラウスは突っ込んだ。
原典を知っているので、思わず思ったのだ。
あれは英雄の妻の復讐劇過ぎて怖いんだぞ、血まみれスプラッタなんだぞ、と思わないでもない。
しかしクラウスは会話に入らないように細心の注意を払い、何とかそれを全うした。
晩餐会は妍を競う女性たちの、戦いの場所だった。その中で異端児なのはクラウスだけで、彼女だけが一人、料理を楽しんでいた。
別のいい方をすれば、クラウスは、妃候補たちの争いの火花が飛び火しないように、ひたすら料理の事だけを考えていたともいえる。
ここで出しゃばれば何が起きるか分からない。
クラウスはわざわざ、自分よりもはるかに身分の高い女性たちに喧嘩を売りたくない。真っ向勝負などできない自分を知っているし、真っ向勝負以外の事を知らないのもまた自分なのだ。
勝ち目など欠片もなければ、大体、妃になりたいなどとは欠片も考えていないのだから、この妃候補たちの戦場に参戦する理由がなかった。
そして何より、おばあちゃんが退職したら近い将来、家の厨房を切り盛りするのは自分だと知っていた。
そのため考えていた。
この料理たちの何ならば、安く、何よりもおいしく真似ができるだろうか。意外と家の調味料で再現できるかもしれない物も数点あった。一つあれば二つある。二つあればもしかしたら、百もあるかもしれない。料理の奥深い部分はそういう所だ。
そのためクラウスは、舌に全神経を集中させて宮廷料理という、芸術の完成品を口に運んでいた。
王子であるウィリアムの取り合い、呆れてしまいそうになる争いたち、そして皮肉の飛ばしあいは見事なほどスルーしていった。
そう、この場所で誰よりも無関心を貫けたのは、女官でも給仕でもなく、クラウスただ一人だったのだ。
さらに都合のいい事に、ここまで無関心を貫くとほかの候補たちは、クラウスなどいなかったように扱ってくれる。彼女の戦線離脱をすぐさま好条件と判断してくれるのだ。
そのためわざわざ新たな障害を増やすわけもなく、クラウスは誰からも無害だと扱われる事になっていた。
クラウス自身は知らないが、妃候補たちのほとんどがどうにかして、王子ウィリアムと特別に接点を持とうと、ほかの候補者を出し抜こうとしている現在に置いて、何もしていない候補はクラウス一人だったのだ。
その情報を、有能な味方の女官だったり侍女だったりから入手した候補者たちは、実はこの晩餐会のはるか以前から、クラウスを邪魔者から除外している。
実はそれもあって、今までクラウスに嫌がらせなどが行われてこなかったのだ。
そんな事情はクラウスの知らない所で進んでいて、いつの間にやらクラウスは、妃候補から外れているような見方をされているわけである。
まああながち間違いでもなく、それをあえてクラウスに伝える人が誰もいないのも事実だ。
そして放っておいてもらえるのならば、クラウスは目立とうとも思わない。
しかし事情を何も知らないクラウスは、何とか目立たないようにと、存在感を消そうと努力していた。しなくとも、誰もクラウスを見とがめはしないというのに。
知らないのは時に損でもあるという典型的な状況だった。
クラウスは焼いた羊の肉につける、甘めのミントのジェリーが気に入った。
いける、これなら家でも再現が可能だ。ミントなんて植えれば始末に負えないほど生えてくるハーブで、節約して使わなくても誰も咎めない。
これは酢の具合から考えてかなりいい酢を使っている。たぶんクラウスが知らない、超高級な酢に違いない。
だが、これはほかの酢でも代用ができそうだ。
しかしおいしい。滑らかな口当たりは継母だったり、義姉だったりにも食べさせたい。
もしも可能ならば、作り方を厨房で見せてもらいたい位だが、妃候補の肩書がそれを邪魔するだろう。つくづく因果な肩書だ。
その結論に至った時、クラウスは視線を感じて顔を上げた。
驚いた事に、ウィリアムが彼女を見つめていたのだ。物珍しいのだろう。珍獣と同じだとクラウスの勘が告げていた。
きっと王子は今まで、どんな女性だって自分に注意を払うと思って生きていたに違いない。何せあの凛々しさ格好良さなのだから。そして何より、目の前で起きている王子様争奪戦の熾烈さを見てみるに、王子は女性の誰もが自分に関わろうとすると思っていてもおかしくない。
そんな中、王子に目もくれずに料理に注意を払っていれば、気になる対象になる可能性は十分にあるわけだ。
馬鹿でも愚かでもなく、単純であるだけのクラウスはそこまで判断をした。
「料理の味の決め手はなんでしたか、レディ・クラウス」
王子の問いかけに、ほかの女性たちは息をかすかに飲んだ。他の女性は姓でしか呼ばない王子様が、名前で呼びかけるなどどんな特別扱いだろうか。
それを知らないのは当の本人だけで、知らないクラウスは臆する事もなく彼の眼を見かえす。
そして答えた。
「ソースの塩の具合と、酢かなにかの酸味の調和です。でももったいないですね」
「何が?」
料理になど何も興味がなさそうな王子が、少しばかり身を乗り出して問いかけてくる。
クラウスはそれに答えた。
「この肉のソテーは肉が熟成されていて、味が完成しているのに、無理に香辛料を使って味をぼやけさせています。いい肉が惜しい事になっているとは思いませんか? 香辛料を使えばおいしくなるというのは、一概には言い切れない物なのです」
王子は目を丸くしている。料理にそういう視線を持つ相手と会話をした事がないのだ。
一方のクラウスは、きちんと王子に思った事が言えたので満足し、苺の生クリーム添えを口に運んだ。
温室育ちの高い苺は、旬の味には少しだけ劣る味がした。
真においしい物が食べたいのならば、旬という物を勉強するべきだ。この宮廷の料理長はそう言った造詣に深くないのだろうか。まさかそんな事はあるまい。それともこれは王子の好物だというのだろうか。
自分の考えに入り込みそうになった彼女に、王子がまた問いかけてきた。
「趣味は料理?」
「家の掃除です」
クラウスは答えてから、少し呆れた。料理が趣味だとでも答えると思ったのだろうか。
つまりクラウスの事を何も知らないのだ。
どういった事情でこの王宮に来なければならなかったのか。
どういう人格なのか。人柄なのか。
何も知らないと、ここで証明されてしまった。
確かに、数多いる才媛美姫たちの中で、埋没しかねない地味顔のクラウスは、六宮の美女たちのように注意を払う相手ではないだろう。
候補として考えた事だってないに違いない。
別に、知られていようと知られていなかろうと、クラウスは何も変わらないのだが。
しかしクラウスは、自分の言動の一つ一つが、王子の興味を引いてしまっているという事実には気付けなかったのだ。
それには一つ大きな理由があり、それは実の姉の事である。
姉キララは輝くように美しく、クラウスとキララは常に一緒だった。並ぶ双子を見て、誰もが目を止めるのはキララなのだ。
当然のように、クラウスは姉の影になっていたので、まさか自分の言動が王子にとって気になるものになるとは想定をしていなかったのである。
それ以上の理由もある。
こんなにも、王子に相応しくない自分に、王子があえて注意を向けるメリットがどこにも存在していないのだ。
クラウス程度の娘だって、王妃に相応しい女性という物が一体どんなものなのか、多少なりとも知っている。
王妃は愛妾とは違うのだ。ただ愛されればいいというわけではない。
公私ともに、それ以上に公の場所で王子、次期王を支え補佐するのがお妃の役割なのだ。
外交は当然。国内でも貴族たちの事に気を配り、下位の妃たちの素行に目を光らせる。
王宮の中の事にだって注意を払い、切り回して行かなければいけないのだ。
クラウスはそんな物になる気はなかった。そんな役割は、クラウスの望むものとは大きくかけ離れている。
自分の身の丈位は自分でよく知っているのだ。
さて、喋る事に全く時間を費やさなかったクラウスが、食事を終えるのとほぼ同時に、晩餐会は終わりの時間になってしまった。
先ほどから突き刺さる視線を感じれば、ほかの令嬢の誰もが余裕がないのだと知れた。
つまり全員が五十歩百歩の具合で、ウィリアムに印象を与えられないのだろう。
いったい何が目的で、ガラスの靴が履けた女性を集めたのだろう。その中に理想の女性がいると思ったのか。
それならば、キララ以外いないはずだ。見ればわかるはずだ。それなのにまどろっこしく、女たちを競わせる理由はどこにあるのだろう。
その答えは見つからないまま、クラウスは薄暗い廊下を歩いた。
王宮は常に昼のように明るいなどというのは嘘で、蝋燭の明りの限界は知れている。
そして蝋燭の費用は馬鹿にならないという現実は、王宮の倹約に頭を悩ませている財務省の人たちの苦い事実だろう。
そのほの明るい世界は、クラウスにプロ―ポスの事を思い出させた。
そしてその体温と肌の匂いと、心臓の音とその声までも思い出させる。
ぱっと顔が赤くなった少女は頭を振り、その記憶を追いやった。
他人から見れば、眠くて頭を振ったように見えるだろう。
クラウスは暗がりを幸いと、赤面した顔を真正面に向けて廊下を歩いた。
廊下を進み自室に戻り、彼女はフィフラナの目を見て今日は予定通りに眠る事は出来ないと判断をした。
友達の目が、ぎらぎらと輝いていたのだから。
椅子に座ったクラウスに、お茶を用意したフィフラナは、ほかの女官がいないのを確認して隣に座ってきた。
「で、どうだった? 六宮の才媛達は」
「個性は多少あるかもしれないけれど、皆同じ目をしていたよ」
「同じ眼?」
「王子様を自分の虜にして見せるっていう自信がある眼っていうのかな。王子様は渡さないっていう目だったよ。お姉ちゃんあんな肉食獣みたいなのの集団に勝てるかな……」
クラウスが一等に案じるのはそこだった。
クラウスの言葉に、フィフラナが笑った。
「あなたのお姉さんびいきは相当ね」
「だって大好きだもの」
それに、とクラウスは言葉を続けた。
「だってお姉ちゃんくらいできた人は、他にいないもの」
クラウスが自分の事ではないのに胸を張れば、フィフラナは溜息を吐いた。
「そこがあなたの盲目な所ね。嫌いじゃないけど」
「なんで?」
首をかしげたクラウスに、フィフラナが教える。
「あたしの情報網は結構な物っていう自負があるんだけれどね? キララ・ギースウェンダルがお妃教育で他よりも抜きんでているっていう話は一個もないのよ」
「え?」
クラウスからすれば、信じられない物だった。
少女にとってキララは、何事も自分よりはるかに出来る女性だった。
跡取り娘であり、教養豊かな継母の側にいてあらゆることを学んでいたのだ。
ずっとキララの方が勝っていると思っていたのに、秀でているという噂が一つもないなんて、候補者たちはどれだけの教養を持っているのか。
……だってそうでなかったら、色々な所にほころびが生じてしまうではないか。
貴族の奥方に必要なのは美貌ではない。人に愛されるために必要なのは知識であり人格だ。
姉はそれらを満たしているはずなのに。
それなのに、キララが素晴らしいという話がないのはおかしい。
黙ったクラウスに、フィフラナが続けた。
「噂ならあなたの方がまだあるわよ。色々」
「参考に、どんな物?」
「下賤の出身の候補者よりも気性が卑しいとか。貴族の教養を何一つ持っていないとか、市井で平民と親しくしていたとか」
「いや、全部本当だし。あんまり傷つく要素がないね」
「後そうね……天才クラウスっていうのもあるわ」
「へ?」
「あら、聞く? 聞かない幸せもあるけど」
「じゃあ聞かない」
クラウスの反応を見て、フィフラナは呆れた顔をした。
「あなた本当に、王子様を射止める気が欠片もないのね」
「だってお姉ちゃんの好きな人だもの」
あっけらかんというクラウスに、未練はない。
クラウスの線引きははっきりとしている。姉の好きな人を、クラウスは一生恋愛対象として見たりはしないだろう。
身内を不幸にする感情のベクトルなど、クラウスは持とうと思わないのだ。
そして何より、ある事実がある。
その事実とは明瞭な物だった。
「だって王妃様って重圧すごそうだし」
事実クラウスは、王妃という身の丈に余る重圧のある役職よりも、使用人よろしく家の事に精を出して、家を整えておく方がいいのだ。
たった一つの誇りが、家を綺麗にしておく事なのだから。
「わたしはできれば、そこそこの家の、そこそこの信用ができる相手と、普通の結婚をして平凡な家庭を築いてから、子供にも恵まれて孫にも恵まれて、最後は好きな人たちに見取られて大往生したい」
クラウスの口から出てくる、理想の未来を聞いてフィフラナが溜息をついた。
「あなたのその目標、実はとっても高い目標に聞こえるわ」
「そうかな?」
「だいたい、そこそこの信用っていうのはどんなものよ」
友達の問いかけに、クラウスは迷いもしないで答えた。
「浮気は許容できるけど、散財をしなくって家を傾ける不正をしなくっていう信用。一緒に生きて、平穏に暮らせるっていう信用かな」
「あなたそれでいいの? 浮気されてもいいの?」
「だって貴族の結婚って、同盟みたいな物でしょ?」
「その神経があたしには理解できなくって仕方がないわ」
「フィフラナさん。貴族っていうのは血統もそうだけれど、家が続くのが必要なんだ。家が滅んでしまったりしたら、血統に縋り付いたって何の意味もないでしょ? 貴族が貴族でいるために何より守らなくちゃいけないのは、家で、家を守るためには国を守らなくっちゃいけないんだよ。貴族の定められた義務として、王家への忠誠があるのはそういう根っこがあるからだと思うの」
フィフラナは呆気にとられた顔をして、クラウスを見ていた。
いつもぽやっとしている、貴族としてという物が欠けていそうな相手から、こういう発言が出てくるとは予想していなかったに違いない。
彼女自身、こう言った考えを喋るのは初めてだ。
そしてこの話は、女の子の考え方じゃないのかもしれないと思うには十分な反応だった。
そのフィフラナは、クラウスをまじまじ見た後に、残念な子を見る目になった。
「あなた、まだ愛も恋も知らないのね」
クラウスはその言葉に、目を瞬かせてじっくりと考えてみた。
自分の短い人生を、ひっくり返してみる。
友達の言葉に反論できる要素がないか、確認したのだ。
だがその結論はすぐに出てきてしまった。
「初恋の思い出すらない……」
「あ、ごめん」
クラウスの思ったよりも真面目な声に、フィフラナが思わず謝った。
「でも本当にないの? 家庭教師とか、親戚の誰かとか、相手はそれなりにいない?」
「家庭教師は五歳で出て行った。親戚とのやり取りは領地にいるお父様がやってるから、滅多に親戚には会わない。たぶんあっても顔が分からないし名前も一致しない」
クラウスは記憶を反芻してから答えた。
「たぶんわたしは、欠陥があるんだと思う。好きな人はたくさんいるんだけれど、恋だの愛だのは今でも分からない」
例外になるのは、プロ―ポスだけだ。あの夜のつかの間の邂逅は、クラウスの心のどこかに根を張っている。
だがそれを恋だと、言える気はしない。
クラウスはそこまで数秒の間に考え、フィフラナに言った。
「それか、運命がまだ恋をしなくていいと言っているのか」
言っていて笑えてきて、クラウスはけらけらと笑った。
「クラウスの、運命の相手ねぇ」
フィフラナは目を細めて呟いた。
「きっと誰もが仰天しそうな相手のような気がするわね」
「そうかな?」
「そういう気がするわ。誰も想定しない相手よ」
その翌日の夜の事だった。
クラウスは宿題の確認をしていた。今日の宿題もきちんと片付いた事に安堵した。字は読める文字だし、インクの汚れもかすみもない。
もう眠ろう、眠くて仕方がないと思っていたクラウスが、寝台に向かおうとした矢先の事だった。
扉が叩かれたのだ。
そして女官たちが動揺を隠せない声でこう告げた。
「陛下のお呼びです、クラウス様」
クラウスはまず、自分の空耳を疑った。
そのあとで頬をつねって、これが夢かどうかを確認した。
頬はひりひりと傷んだ。現実的な痛みなので、これは夢じゃないとわかった。
だがその後が問題だった。
さすがの事に黙ってしまったクラウスに、青ざめた顔のフィフラナが、敬語を半分忘れて言った。
「陛下が呼んでいらっしゃるのよ、クラウス!」
大胆不敵と言ってもいいくらい、気の強いフィフラナですら動揺する相手、それが国王だった。
この小さな国に、繁栄と平和をもたらした賢王の召喚である。
クラウスはフィフラナのその声を聞いて、事態を理解し、たまげた。
何か不手際でもしてしまっただろうか。
へまをしただろうか。そんな覚えがなくとも、国王の気に障る事をしてしまったのだろうか、この自分は。目立たないようにしてきたけれど、何か嫌な事をしてしまっただろうか。
召喚される理由が全く分からないクラウスにとって、かなり混乱してしまう出来事である。
だが召喚に否やは言えない。
クラウスは寝間着から、まだ見られる簡素なドレスに着替えた。
国王の不興を買うような、華美なドレスを避けたのはクラウスの賢明さだった。
「何をしたの、あなた」
フィフラナが手伝いながら、震えた声で言う。
だがクラウスにも覚えが全くない事である。
「わかんない」
クラウスが返した言葉も、みっともなく震えていた。
しかし、クラウスは着替え終わるともう震えていなかった。
彼女は表向きは平然と、淑女のしとやかさを維持して、女官に案内されるがままに春の宮を抜けていく。
そしていくつかの回廊を渡り。兵士たちに案内をされながら、王の使う部屋の中でも私的で小規模な空間である、翔鸞の間に入った。
その部屋は瑞兆の証のような名前とは違い、小さい。
だがその手の込んだ豪華さに見入ってしまう空間だった。
優しくやわらかな色彩と、程よい程度の金と銀の輝き。
優雅な曲線がいたる所で使われていて、その部屋の女性的な風合いを強めさせている。
そこは女性の好みそうな色で囲まれた、しかし男性でも居心地の良さそうな空間だった。
そしてそこの椅子には、クラウスが一度もお目にかかった事の無かった、女王が座っていた。
第一印象は、整った人だという事だった。クラウスはまず、彼女の要望がとても整っている事に目を奪われた。
第一王子であり、次期国王であるウィリアムに遺伝子ただろう艶々とした見る誰もを見寮しそうな、黒い髪。
自分の眼を緑だと言えなくなりそうな、鮮やかな命の芽吹きを感じさせる、新緑の緑を思わせる瞳。その形は美しい曲線で作られているが、若干力強さを感じさせる釣り上がり気味の形でもある。
そして高い鼻梁に、少しだけ気難しそうな口唇は、ほどよく赤い。顔の形もこれ以上ないくらいに優美な形をしている。
彼女は有体に言うならば、絶世の美女と言っても過言がなかった。
ただ惜しむらくは、その肌の色だった。彼女は濃い肌色をしていた。恐らく彼女に由縁する、南の血が濃く出た証なのだろう。彼女は南にある大国の、王族の血を引いているとクラウスは歴史の授業で聞いていた。
それでも彼女の、女王の整い方に欠点らしさは見受けられないのもまた、事実だった。
クラウスは女王に圧倒されていた。
なんてきれいな人なのだろう、なんて強そうな人なのだろう。なんて女帝らしい人なのだろう。そんな事を考えてしまった。
彼女は自然と背筋が伸びてしまい、そしてその敬意ら反射的にとってしまった一礼は、誰がどう見ても完全無欠のそれだった。
女王は軽く目を開く。
今まで呼び寄せた候補者たちは、女王の迫力に気圧されるあまり、普段の半分ほどしか実力を発揮できなかったのだ。
そしてクラウスは、決して女王と目を合わせなかった。これは礼儀作法の一つなのだ。
王族の許しなく、王族と視線を合わせるのは不敬とされているのだ。
もっともクラウスも、これを知ったのは王子と出会った後だったので、後からやってしまったと頭を抱えたくなった事でもあった。
呼ばれるまで、クラウスは視線を合わせない。そして言った。
「クラウス、まいりました」
一体何の用事があるのか。クラウスにはとても予測がつかない事だった。
クラウスはここで慌てふためいたり、過度に緊張をする事を自制していた。
それをすれば、無意味にみっともない醜態を晒す事になる。
そしてそれは、クラウスにとって恥ずかしいだけだ。それもあって彼女は、何とか呼吸を整えて、平静を装っていた。内心では心臓が倍近く早鐘を打っていたが。
じっと目を伏せ、彼女は女王の言葉を待っていた。
一方の女王はと言えば、とても静かに彼女の言葉を待っている、取るに足らない出自の娘を見て疑問を抱いていた。
これが、この娘が、本当に他の令嬢に劣ると言えるのだろうか、という疑問だった。
噂はいくつも聞いている。どれも妃候補としては眉を顰めるだろう噂で、それが事実であれ虚構であれ、このような悪意のある噂が流れてしまうほど、隙のある娘を妃にはできないと女王は判断していたのだ。
だが目の前で、どの令嬢もやってのけなかった事をいとも容易く行って見せたこの令嬢からは、隙が見受けられなかった。
他の娘は、と女王はいくつかの顔を思い浮かべた。
他の娘たちは……それ以上に、この娘の双子の姉ですら女王に気に入られて、息子の后の座を手に入れるために有利になろうと、考えていた。そのために、印象に残ろうと作法を忘れ顔をあげ、じっとある意味無礼なまでに、女王を見ていたものだ。
女王は彼女たちを試していたので、それを咎めはしなかった。
だが非常に、残念だと思っていた。
誰もかれもがそんな事をしていたのだ。女王はこの候補者たちの誰もが、息子にはふさわしくないかもしれない、ガラスの靴の選定は間違いだったかと、考えてしまったほどだ。
だがこの娘はほかと違う。この娘は、内心で何を思っているのかまでは分からないが、誰よりも礼儀作法に忠実だ。真っ当と言ってもいいかもしれない。
ウィリアムがなぜこの娘の情報を集めているのか。少し理解できる気がした。
この娘はどういう顔をするだろう。
そんな思いから、女王は娘に興味が沸いた。
女王が女王であるがゆえに、この王宮で知らない事はなかった。聞こえない話はないと言っても間違いではないほど、女王は王宮のすべてを知っていた。
それゆえに、娘の言っていた事も知っていた。
この娘ならあるいは、もっとも相応しい相手かもしれないという気がしたのだ。
「クラウス、面を上げよ」
言われた言葉に上げられた顔は、平凡だ。
髪ばかりが輝くように光る金色。だが瞳の色は、澱みきった沼の緑青。お世辞にも美しいとは言えない色だ。
人はこの色を、汚い色だと思うだろう。そんな色をしている。
しかし、色がそんな色でも、瞳は澱んでいなかった。そこにはまっすぐな色が見受けられた。
そして何より、いつも笑っているという口元は女王の前でも柔らかい曲線を描いている。
好感の持てるさりげないほほ笑みだった。
大したものだ、このわらわの前でも笑えるなど。女王は彼女の度胸に少しばかり感心した。
さらに驚くべき事実として、娘の瞳からは野心という物が欠片も見いだせなかった。
警備の兵士たちがいるとはいえ、女王と二人きりという状況。邪魔者は誰もいない。
つまり自分を売り込む絶好の機会だ、と妃候補たちは考えているようだった。
その結果何をしたのかと言えば、自分がいかに妃として優れているかを熱弁したのだ。
娘によっては王子との純愛を訴え、王子の愛という“運命の恋”を核とした話をしてきた。
どのパターンにせよ、女王はその野心に辟易していた。
確かに貴族の階級も、妃としてはいいものだ。女王はそれを知っている。
しかし、家の権威にだけ頼る娘は、妃に相応しくない。
妃の地位は事実として、高位貴族の娘によく与えられている。
だがいかに家柄がよくとも、素行や教養、才知、人柄。そう言ったものに修復不可能な問題があれば正妃としては落第だと女王は考えていた。
つくづくお笑いだと女王が思ったのは、王子との“運命の恋”を訴えてくる娘たちだ。
“運命の恋”はそんな薄利多売なものではない。
たった一度、世界を敵に回してもいいと思うほどの覚悟を抱かせ、どんな終わり方をしたとしてもそれを幸せだと呼べる物が、“運命の恋”なのだ。
娘たちはそれを正しく理解していないらしく、自分こそウィリアムの“運命の恋”の相手だと言ってくる。
王宮の事ならほとんど知らない事はないと言ってもいい、この女王にとってはお笑いでしかないいい分だ。
この娘の主の娘も、そんな事を言っていたと女王はふと思い出した。
その娘の血はそれなりだ。だが高位貴族からして見れば低い物。この娘の姉が“運命の恋”を根拠にしようとしたのも頷けるが。
この娘はどう出るだろう。
ほかの娘と同じように、女王の許可なく無作法に話しかけてきて、自分の優位性を訴えかけてくるだろうか。
女王の予測は外れた。じっと娘は女王を見つめている。
女王の言葉を待っているのだ。そして驚いた事にその瞳の中に、女王に見惚れている色がうかがえた。
まさか見惚れているのだろうか。
女王はいたずら心を起こして、問いかけた。
「おぬし」
「はい」
「わらわに見惚れているのかえ?」
娘は、ぱっと顔を赤くした。図星だったらしい。
彼女は一度目を瞬かせてから、赤い顔を隠しもしないで答えた。
顔色以外、何も変わらない。
「とても整った方だと、見惚れておりました、無礼をお許しください」
女王は数秒黙ってから、思わず声をあげて笑った。
この素直さはなかなか好ましい。女王は素直な娘の方が好きだ。
野心に燃えている娘は、嫁姑問題が起きた時面倒くさい。これくらいの方が鍛えがいがあるかもしれないと、少し思った。
もっとも、これすら計算している娘だとしたら、逆に敬意を表せるかもしれない。
外交などの際に、国益になるように演技ができるという事なのだから。希代の女優として使える。
どうであれ、女王が求める妃の素質を、中々この娘は満たしている。
それでもまだ、この娘にほかの娘に問いかけた事を問いかけてはいない。全てはそこからだ。
女王は軽やかに笑った後、問いかけた。
「そうかそうか、かわいらしいのう。で、クラウス。一つ仮に問うてもよいか?」
娘は何を聞かれるのかと、不思議そうに眼を向けてきた。目は口ほどに物を言う。この娘はそれらしい。
女王は口を開いた。
「夫の条件を満たせば、おぬしは罪人であっても夫にするのかえ?」
クラウスはと言えば、ずっと妃としての素質を試されているのだろうと判断をしていた。
女王が自ら動くなど、ほかに考えようがなかったのだ。
息子の妻を見極めるのは、一人の女としても納得ができるし、女王としても納得ができる。
ウィリアム王子を愛しているのだろう、大事に思っているからこその行為だと思っていただ。
だからこそ、女王からの問いかけは想定外だった。
てっきり息子を愛しているのかとか、妃になる覚悟ができているのかとか、そういう事を問われると思っていたのだ。
それの答えに対しては、きっちりと答えが出ていて、速やかに答えられる自信があった。
しかし女王の問いかけは、それとはまったく違っている。
それでも。
クラウスは女王を見つめ、答えた。
「はい」
女王は面白がっているような顔をした。この娘はどう答えるのか。
この娘の真意は何か。
女王が口を開いた。
「醜い男でも、恐ろしい魔性でもかえ?」
「はい」
クラウスはじっくりも考えなかった。答えは大昔に、とっくに出ている事だったからだ。
遠い昔に、自分が召使同然になった頃に悟っていたのだから。
だがそれは女王にとって興味深い事だったらしい。
「何故かのう?」
「陛下は、仮にとおっしゃいましたから」
女王は一体何を試しているのだ。クラウスは見当がつかなかった。
王子が醜い魔性だというのだろうか。
あんなきれいな見た目の中身が、とんでもないという事なのだろうか。
そんな事を思いつつ、クラウスは続けた。
「仮のお話でしたら、理想に巡り合えば諾と答えてはいけませんか?」
「平凡で、そこそこ信用のできるそこそこの家柄の男性と、普通の結婚をするというという?」
女王の耳は地獄耳。クラウスは町の小唄を思いだした。フィフラナでも真偽は定かではないと言葉を濁した小唄である。
理想を聞かれていたと、少し恥ずかしくなりながらも、クラウスは答えた。
「私は、ただの娘ですから、高望みは虚しいだけですから」
そう、家名すら名乗れない日陰者の娘なのだから。
それを聞いた女王は吹きだした。
「仮にも!」
女王はあまりの事に大笑いをしているらしい。クラウスは訳が分からないまま、相手を見つめていた。自分の言った事のどれが、女王の笑いのツボを刺激したのか見当がつかなったのだ。
当然だ。彼女は有体にありのまま、身の丈に合う言葉を言っただけだ。
これで笑われるとはいかに。
見つめているクラウスに、女王は言った。
「仮にも、運命のガラスの靴が選んだはずの、妃候補のいう事ではない!」
「運命のガラスの靴……?」
クラウスは女王のいい方が引っ掛かった。
運命のガラスの靴。それは一体どういう意味だろうか。
まるで前にもガラスの靴があったようではないか。
言葉に引っかかっているクラウスに、女王は笑いを押さえた声で言う。
「もしやおぬし、運命のガラスの靴を知らぬのかえ?」
「はい」
「おやおや。誰でも知っている建国当初の伝説だと思っていたよ」
「伝説……?」
クラウスは言葉の続きを待った。何か大事な事を言われる気がしたのだ。
女王はそんなクラウスにいう。
「この国の最初の国王の后は、ガラスの靴が導いた女性と言われているのだよ。后など要らない、跡継ぎは弟の息子でいいと言ってはばからず、妃争いがそれはもう激化した建国当初。体裁のために開いた舞踏会で、国王は美しい乙女に心を奪われた。その乙女が残したのがガラスの靴の片方。国王はこの女性こそ運命の女と、探し回り見つけた。そしてこの女性は賢く美しく、また優しく、妃の鏡ともいうべき女性だった。彼女との間に生まれた子供の血を引いているのが、今も続く王族なのだよ。この逸話から、ガラスの靴が呼び寄せるのは、国の繁栄を導く女性だと言われているのだよ」
「……それじゃあ、姉は間違いなく国を反映させる女性なのでしょう」
クラウスが思わず言った言葉に、女王が目を瞬かせた。
「おぬしはなんぞ、何か知っているのかえ?」
「はい」
クラウスはここで、舞踏会の夜に目の前で起きた奇跡の話をした。
女王はそれを聞き終わると、言った。
「なるほど。その名付け親の妖精とやらは、ずいぶん力のある妖精のようだのう。わらわもそれほどの奇跡を扱える妖精の名付け親など、古今東西聞いた事がない」
「じゃあ……」
クラウスは女王が、キララをお妃として選んでくれるのではないかと期待をした。
そうすれば自分は帰れるのだ。姉もいらない悪意を受けなくて済む。
そんな期待はすぐに裏切られた。
「だがのう。それでは周りは納得せぬわ。満月の夜にならば諦めが付く可能背の高い貴族の令嬢たちとて。わらわが急におぬしの姉を選んだと言えば、反発を招く。野心に燃えた親どもも不安の材料になりかねぬ。クラウス、覚えておくといい事がある」
「何でしょう……?」
「事実だから正しい道とは限らないという事じゃ。おぬしは事実を語っているかもしれない」
かもしれないじゃなく、語っているのだと思ったクラウスを、哀れな娘を見る顔で女王は見る。
「だがそれが、誰もを納得させられるかと言えば否というしかないのじゃ」
「……」
事実だと思ったクラウスに、追い打ちをかけるように女王が言う。
「わらわは女王、最高の権力を持っているように見えるかもしれぬのう。だが。国は人の集まってこその国。わらわが一人でなんでもできるわけではないのじゃ」
そこまで言った女王に、クラウスは膝を折って謝罪をした。
「申し訳ありません……」
「よいよい。おぬしは今までの妃候補よりははるかにまともじゃ」
言葉の途中から聞こえなかったクラウスは、首を傾けた。
しかし女王に問い返す事も出来ないので、これはこのまま退室するのかと思った時だ。
女王は目を少し輝かせて、興身を示した色で問いかけてきた。
「先ほどの話の続きをしようかのう。理想の男ならば、どんな遠方にも嫁げるのかえ? たとえ罪びとでも?」
「私は、教会で教わりました。人は生まれた時から罪びとなのだと。つまりどのような人間であっても罪びとであることに変わりませんから、罪びとだという事は障害にはならないと思うのです。それに、遠方というのならば、父も遠方で働いており、会えないというならば今とあまり変わりません。それに、里帰りが許されれば会いに行けますでしょうし」
ただ家の事が気になるだろうな、とクラウスは内心で付け足した。
それとも、自分がどこかに嫁いだりしたら、継母も義姉たちも、自分の代わりの召使を見つけてくるのだろうか。
それはそれで寂しいけれども。
クラウスは自分の意見を述べた後、女王を観察した。
女王は表情が読めないが、何かを考えているのだけは伝わってきた。
一体女王は何を考えているのだろうか。
自分には全く分からない事を考えているのだろうか。
上位貴族の考えはクラウスには及ばない物がある。
そう思った矢先の問いかけは、思った以上に意外な物だった。
「もし、おぬしは我が息子には興味がないのかえ?」
「キララ様の思い人に懸想はしたくありません。それに妃になる理由もございませんので」
女王は面白そうに目を細めた。
「我が息子は凛々しかろう?」
「はい、一度も目にしたことがないほど、凛々しいお方でした」
「でも何とも思わぬのかえ?」
ここには警備兵以外誰もいない。言ってしまえとクラウスは思った。
「はい、決して侮辱をしているわけではないのですが、なぜか憧れる事すらできないのです。美しい、立派な方、凛々しいお方と感嘆する事は出来るのですが」
実はクラウス自身も、自分に対してそれはどうなのかと突っ込みたくなる部分の一つであった。
どうしてあれだけ見た目のいい人を、なんとも思えないのか。不思議すぎるのも事実だ。
姉のように思えないのは、姉のように彼の性格を知らないからなのだろうか。
それとも、よく似た火の眼の彼の方が、ずっとずっと好ましいからか。
そういう疑問もわいてくる部分があった。
女王の機嫌を損ねたらどうしよう、と内心であわて始めたクラウスに、女王は言う。
「よいよい。単純に、おぬしの運命の相手ではないだけじゃろうからのう」
女王は寛容だった。それに安堵しながら、退室を告げられたクラウスは翔鸞の間を出た。
クラウスがここまで自分の心の内を述べても、女王が彼女を罰さなかったのは、ほかの妃候補たちとは違う理由からだった。
確かに女王は、妃候補たちを試すために、二人きりの時間を作っていたし、その時のどれだけ無礼なふるまいをしても見逃してきたが。
クラウスが罰されなかったのは、その言葉が心からの言葉であり、また彼女が誠実だったからだ。
権力も富もあまり欲しくない、王子と結婚する気もないという野心のなさを、女王は見抜いたからだ。
女王はこの王宮では、あらゆる偽りを見抜く。それができない女王ではないのだから。
あの目をまた再び、見る事になろうとは。そんな事があるわけがないと思っていた。
血のつながりはないはずだというのに、全く同じ瞳をしていた。
「……惜しいのう」
彼女は小さく呟いた。
あの娘ならあるいは。可能かもしれない。だが、惜しい。我が息子にはあれくらいの娘を教育した方がいいかもしれないというのに。
女王は妃候補たちの情報を手に入れていた。その中でもクラウスの才知は抜きんでている。
抜き出すぎていて、何の冗談なのだと思いたくなるくらいだ。女王自身、妃候補が複雑な地形や高等数学、歴史学者も脱帽するだけの専門知識、経済を転がす術を学ぶとは思わなかったのだ。
一度目に聞いた時は耳を疑った。そんな馬鹿なと思ったし、そんな嘘を言ってまでこの娘に注目してほしいのかと思った。
そして、我儘に見えるほどの家族への思い。女王は聞いた事がない。
『キララ様の思い人に懸想はしない』
そこまで言い切る、主人の家への思い。相手は王子で、普通の令嬢ならばしまいであろうとも蹴落とすだろうこの妃候補の選抜で。それを言い切る心は、女王の知らないものだ。
他の娘と一線を画している娘。
その癖拍子抜けするくらいに、求めている物が地味だ。あれだけの知識があれば簡単に手に入るかもしれない、どんな地位もいらないらしい。ただ老成した幸せを望み、この小国の娘がこぞって憧れる運命の恋などは欲さない。
だからこそ、息子には相応しかったのだ。浮気だろうが跡継ぎ争いだろうが、あの娘は終結できる。
女王は惜しいと心底思っていた。あの娘の中に、誰よりも妃としての素質を見いだしているというのに、もっと懸案事項が目の前に転がっているのだから。
女王はその懸案事項のために、鈴を鳴らして宰相を呼ぶように伝えた。
「これ、シャネットを呼んでまいれ」
「何を試したかったのか」
クラウスは要点と思われる部分を指で折り数え、考えた。后としての何なのか、それとも息子への愛情からくるだろう性質の測定か。
考えてみても、会話の内容を思いだせる限り思い出してみても。答えは一向に出てこない。
出なさすぎた。
思考を放棄したくなるほど、回答が出てこない。
それは自分が情報を知らないからだろうと、そういう見方もできる。クラウスは家の事しかしてこなかった。お伽噺は好きでも、建国当初の逸話はあまり興味が沸かなかった。
それもあって、ガラスの靴の話も知らなかった。
今日は遅いという事もあって、フィフラナは詳しい事情はまた明日聞かせてもらうと言っていた。
もしかしたら、フィフラナに聞いてもらえば何か、分かるかもしれない。
寝台の上で豪奢な天蓋を眺め、クラウスは寝間着で考える。
あの面会の理解ができなかった。
それとも、女王は時間を見つけて、妃候補全員と会話をしているのだろうか。
そうだとしたらきっと妃としての素質を図る気がするのに、なぜか自分との会話はそれとはどこか離れている気がして仕方がない。
目的がさらに分からなくなった。それでも眠気は訪れて、クラウスは目を閉じた。
そしてとうとう、王子と会う順番にもならずに何日も過ぎ去ったある日。
宿題を終わらせていたクラウスは、のんびりとフィフラナとお茶を飲んでいた。
年上の友人がもたらす、様々な話を聞いていると扉が叩かれたのだ。
「誰かしら」
フィフラナが素早く身支度を整え、そしてクラウスも鏡を素早く見た。
問題なし、と二人で目配せをすれば、またノックの音が聞こえてくる。
宮廷夫人は一度目のノックで応対するのは、何処かはしたないと言われてしまうのだ。
そのため、基本は二度目のノックで対応する。
それは、急な相手の来訪により、見苦しい姿で来客に対応しないようにするためともいえる。
少女が頷き、フィフラナが応対にでる。
「お待たせいたしました」
「いいえ、安心なさってください。そんなに待っておりませんよ」
微笑んだのは女官の一人である。その衣類のスタイルから、彼女の階級が分かった。女官服の中でも、高級な緋色を袖口にあしらった姿は、女官長直属の女性たちのしるしだ。
そんな女性が一体どうしたのだろう、などとクラウスは思いつつ、ゆったりと頸をそちらに向けた。
ここで全身をそちらに向けると、どこか下町の小娘の様でよろしくない、と教師に教えてもらっていたために、そういう対応になったわけである。
女官は微笑んだまま、フィフラナを見やり、それからクラウスを見る。
「クラウス様、あなたは一か月後のデビュタントパーティで、デビュタントなさいますよね」
「はい。そうです」
デビュタントもできない身分の娘を、妃候補として置いておくわけにはいかないから、強制参加と言ってもよかった。
「そのためのドレスのご用意のために、一度ご実家に戻ることになっているとは知っていますか?」
クラウスは一瞬言われた事が分からなかったが、それをすぐさま理解して目を大きく開いた。
驚きを隠せなかったのだ。
そんな少女も無理はないだろう。妃候補として、妃が決まるまで屋敷に帰れないのだと思っていた少女にとってそれは、驚きだったのだ。
「知らなかったようですね。意外と知られていない物なのですが、このたびの妃候補たちの中にあまりにも、デビュタント前の少女が多いために、このような措置をとる事を陛下が決定いたしました」
きちんと、議会を通して決定しましたが、ご存じありませんか?
少し意外そうに、ちらとフィフラナを見ての言葉である。
それをみた少女は、フィフラナが何か知っているはずだったのだろう、と推測できた。
それは後で問いかければいいだけの話。
いまは女官の話をきちんと聞いておこうと決めて、クラウスは言葉の続きを促した。
「この度のデビュタントパーティに参加する少女たちは、皆実家に戻り、ドレスなどを用意する事になったのです。クラウス様はご実家というよりも、お仕えしていたお屋敷であるギースウェンダル家に戻る形ですが。あそこのご婦人はそう言った事にとても手慣れていますから、きっと力を貸してくれますよ」
女官の言い方は、クラウスがギースウェンダル家の使用人であり、こう言った事を何も知らないというような調子だが、それは仕方のない事だろう。
あのお屋敷で、そういう風に見られることをしていたのだから。
「お屋敷に一度戻れるのですか?」
しかし、何か都合のいい事のように聞こえてしまった少女は確認した。
それを聞いて女官が頷く。
「はい。そちらでドレスや装身具などを一式用意していただきます。むろん、クラウス様にも」
「わたしもですか?」
「ええ、公平ではなくなってしまいますからね」
デビュタントすらできないなんて、大変な不名誉なのだから。
王族はメンチだか面子だかを潰されるわけにはいかない、とどこかで聞いた事までふっと頭に蘇ってきたりした少女は納得した。
「女王陛下は、ウィリアム殿下の事をよく考えていらっしゃるのですね」
「妃候補の少女たちが、選定から漏れた後の事も、よく考えていらっしゃいますよ」
女官がまた嬉しそうに笑ったので、彼女がどれだけ女王に心酔しているかがうかがえるものだ。
「帰省の日程は明日からデビュタントパーティの数日後までです。ご準備はできますよね」
「はい」
明日何て急だと思いつつも、自分はそんなに持ち物もないのだし、大丈夫だろうと少女は考えていた。
「エスコートする男性の事なのですが、男性はご実家で手配していただく事になっております。すでどの令嬢のご実家にも連絡してあります。クラウス様の働いていたお屋敷にもですよ」
女官はその後の連絡を済ませて、退室した。
そして残されたクラウスは、年上の頼りになる侍女に問いかける。
「フィフラナさんが何か知っているはず、みたいな顔をしていたね」
「ごめんなさい、クラウス様」
フィフラナが頭を下げてきた辺りで、少女は相手にも諸事情があり、言いたくとも言えない事があったのだろうとわかった。
「まあ、実害がないから大丈夫。荷造りして、朝一番にでも出られるようにしておこう」
前向きに言った彼女に、娘が笑った。
「時々、あなたの方がずっと大人に見える事があるわ」
「お姉ちゃん、痩せた? 大丈夫?」
クラウスは、別の馬車で屋敷に戻ってきた姉の顔を見て、開口一番そう言う。
「大丈夫。痩せているように見えるだけよ。何日もあなたと顔を合わせていないから」
言ったキララは輝くように美しいのだが、何処か陰りがあるのは否めない。
美貌の少女であるが故の悩みが、あるのだろうか。
クラウスは、何とか実家にいる間は栄養のある消化器官に優しい物を用意しよう、と心に決めた。
玄関前のホールはどこか薄汚れた印象が否めず、かすかながら決定的な違いに眉をひそめてしまう。
だがそれも、階段を下りてきた二人の美女の前には飛んでいく。
「クラウス、キララ、お帰りなさい」
二人の美女はにこりと微笑む。その微笑みを見て、どうしてかキララがびくりと体を震わせた。
この二人が何かをした事など、ないはずなのだ。
何かしていれば、一番に気が付けるし、使用人たちだってキララに何かされていれば黙っていないだろう。
この優しい義姉たちが、何かするとも思えない。
「待っていたのよ」
「二人ともどうしているかしらって、友達に手紙を書いてみたり」
「友達から、話を聞こうとしてみたり」
矢継ぎ早に話しかけてくる二人は、宮廷の暮らしにも興味があるようだ。
とてもきらきらとした瞳の二人だというのに、キララはびくりと怯えた調子になる。
「あの、お姉ちゃんがとても疲れているみたいなので、休ませてもらえませんか」
見ていられないほどなので、クラウスはするりとキララの前に立ちお願いする。
「そうなの? 宮廷生活って苦労も多そうだものね、そうだ、二人とも寝室を新しくしたわ。使っていない二階の部屋なの。二人とも一人部屋よ」
「わたしも?」
お姉ちゃんをもう、小間使いたちと同室にできないことはわかっても、己も妃候補、もっと下の物置に入れる事は出来ないという事実に、頭の回らないのんきな少女である。
おそらく彼女にとって、その物置も快適であったが故だろう。
「お父様が、前妻様のお部屋だからと、なかなか開けてくれなかったお部屋がキララのお部屋。クラウスのお部屋は来客用の物よ」
どちらも開かずの間だったはずだ。
驚いてしまうのは本日二度目で、叫びかけてしまう。
「あの、開かずの間を? 当主様しか鍵を持っていないお部屋だったはずですよね」
「お母様が、二人のために鍵師を呼んで合い鍵を作ったのよ」
茶目っ気たっぷりなセレディアであった。
「それじゃあ、あなた、キララを案内してちょうだい」
カリーヌが優雅な仕草で、見覚えのない使用人に頼む。
「はい、かしこまりましたお嬢様」
その使用人は実に物慣れた仕草と、所作が指折りの見事さである。
何処から引っ張ってきたのだろうか。
こんなふうな人、と感心してしまうのは、その使用人が美しいとは言えない姿なのに、それら全てを上品にしてしまう対応であるが故だ。
お手本にしたい人だ。
そして彼女はおそらく、当主様が雇った使用人ではない。
その直感は正しく、義姉たち自らクラウスを部屋に案内する時に教えてくれた。
「見ない顔が何人もいるでしょう? 皆お母様が、実家を通してここに雇った人たちなの」
「懐かしい顔も多くて、昔に戻ったみたいな気分になったりもするわ」
そうか、義母の家……たしか侯爵家……に仲介してもらった使用人たちであり、もしかしたら義母や義姉に仕えていた事もある人達かもしれない。
「皆、素敵な人たちよ。あなたもいろいろ聞いてみたい事があったら聞いて大丈夫」
「はい」
そんな会話をいくつかしている間に、開かずの間と呼ばれていたその部屋に着く。
一体どんな部屋だったのか。
クラウスは緊張しながら、その扉を開いた。
「静かな部屋だね」
クラウスは、自分と二人の義姉以外いないがゆえに、そう呟いた。
そう、その部屋はとても静かな部屋だったのだ。
音があまりにも遠いように感じ取れるそこは、まるで水の底のような雰囲気である。
ほかのどの部屋とも違うデザインの調度品は、それらどれもが統一感のある異国の風合いだ。
床は三食ほどのあおい石と、白い石で模様を描き、その上から同色の碧の絨毯を敷いている。
壁に掛けられた布地たちも、どうしてだろうか同じような色味だ。
ここはここだけで完成されている、とクラウスが感じ取るほどの物がそこにあった。
そこは客間としては間違いなく、最上級の空間に違いない。
調度品の数々の見事さと言い、それらが長年忘れ去られていたとは思えないほど、どの時代においても間違いなく立派と言えそうな当たりなど。
ここが自分の部屋になるのか、と思うととても信じられない部屋だ。
この半分もないような薄汚れた部屋にいたクラウスにとって、とても驚いてしまう。
物置だったのは、当主が役立たずは物置にでも寝泊まりしていろ、と彼女の荷物やなんやらをそこに放り込ませて、クラウスに命じた結果であるが。
一転したように立派な部屋を与えられて、何処か居心地が悪いかもしれない。
「ここは客間だったらしいのだけれど……私たちはそうは思えないの」
意外な事を言うセレディアに、クラウスは視線だけで疑問を投げた。
その根拠はいかに。
「ここ、一つとても立派な絵画がかけられているの。お客様にすばらしい物を、というのはわかるものだし常識だけれど、あれだけすばらしい絵画ならば、当主の部屋の一番いい所に掛けられているはずだもの」
「それは今どこに?」
「そこにあるわ。日に焼ける心配はないのだけれど、一応布で覆っているの」
セレディアが指さした方にあるのは、確かに布に覆われたものである。
それはクラウスほどの高さと、壁の半分を占めるほどの幅を持った絵画だろう。
「布地をとってもいい?」
「いいわよ」
クラウスは恐る恐る、その布地をとった。はらりと軽い布地は滑るように、そこから落ちる。
そしてそこに掛けられていた絵画は。
「なんていう、色」
少女がそれ以外の言葉を思いつけないような、そんな絵画だった。
それはどこかの風景画であり、見るからに沼を描いたものの様だった。
しかし、何処か淀んだような緑いろが主な色でありながら、その絵の美しさや迫力を感じ取らざるを得ない。
その絵画はどこか深い森の中の沼を描き、見た事のない植物たちが花を咲かせているという物だった。
獣一匹存在しない絵画の中で、飲み込まれそうな沼の力を強烈に感じる。
緑のあらゆるものがそこから湧き出すような、そんな沼がその絵の主役に間違いなかった。
そしてそれは同時に、この部屋でなくてはこの絵をかけてはいけないと、クラウスに何かが知らせる絵でもあった。
その絵の中で、不意に沼がさざ波だったように感じたクラウスは、一瞬驚いて後ろに下がった。
「わ、どうしたのクラウス」
「今、絵が動いたような気がして」
「気のせいだわ、私もカリーヌ姉様も一緒に見ていたけれど、動いていたなんてわからなかったもの」
そうだろう、きっと圧倒されたせいで見間違えたのだ。
クラウスはそう納得した後に、それじゃあ晩餐まで疲れた体を休めてちょうだい、そうしたらお話をしましょう、と言ってくれた義姉たちが去った後に、そこの寝台に寝転がった。
成人を迎えていない、社交界デビューをしていない彼女のドレスならば、バッスルがきいていないので可能な事だった。
「……お姉様たちはデビュタントのドレスの事に詳しいし、お義母様はそういうのにもっと精通してるし。わたしがそこそこに見てもらえるくらいの、わたしの立場に見合ったものを一緒に探してくれるよね」
クラウスはふと、真っ白なデビュタント用のドレスを思い浮かべた。
年頃の少女のあこがれの白いドレスだ。
誰しも一度や二度は、デビュタントで真っ白なドレスを着て、きれいな銀色の髪飾りを留めてみたいと思う物なのだ。
「夢のまた夢だと思っていたのにな」
親から子供だと認識されていない、家名を名乗らせてもらう事も出来ない、そんな自分はドレスなんて夢のまた夢、むなしいあこがれだと思っていたクラウスだったが。
それを着る事が出来ると思うと、なんだかくすぐったいほどうれしかった。
屋敷の使用人として、外で結婚する事も出来ないで飼い殺しされるだけの未来ばかり、実は心の中で描いていた少女は、降ってわいたようなこの幸運に、思う。
「これだけは、ガラスの靴が履けて良かったことかな」
どんなドレスを着させてもらえるだろう。デビュタントドレスだから、変に安っぽい品位を疑われる物は、絶対にない。
「……その後、女王陛下が相手を紹介してくれるって言ったし」
もしかしたら、デビュタント以上に無駄な夢だと思っていた、誰かと結婚して家族になって、子供を育てる事だってできるかもしれない。
義母や義姉たちは家族だと思っているけれども、血が一滴もつながっていない事や、家の中の誰の眼も届かない場所でのみ家族、という事は、頭では仕方がないと理解していても、何処かさみしいものだったので。
誰が見ても堂々と、家族と名乗れる相手ができかもしれない期待が、いささか果てしない位にうれしい少女であった。
晩餐の間も、見知った顔を一度も見ない。クラウスはそんな事を思いつつ問いかけた。
「奥様、一つよろしいでしょうか」
「発言を許します」
「当主様はいったいいつ頃おかえりに?」
「今日の夜中には帰ってくるはずよ。あの人はキララが選ばれたという事を聞いて、出来る限り急いで領地のよい絹を使うために動いているというから」
やっぱりお姉ちゃんだけしか、お父様の娘じゃないんだ、とクラウスは心のどこかで悲しい気がした。
淡い期待だったのだ。ガラスの靴に選ばれたのだから。もしかしたら家族の名乗りを上げる事も許されるかもしれないなんて。
実父を仕えるべき相手、と己に言い聞かせていた少女だったが、やはり家族のあこがれが捨てきれていなかったらしい。
「大丈夫よ、クラウス。お父様はあなたにもきちんとした衣装を用意するわ。あなたも妃候補なんだから」
カリーヌが慰める。それに笑顔を返す事も出来ず、クラウスは食事を続けた。
その間ずっと、キララは顔色悪く食事を続けていた。
お姉ちゃんどうしたんだろう、とクラウスからすれば心配でしかない。
「お姉ちゃん、調子が悪い?」
隣に聞けば、隣のキララは微笑む。
「まだ馬車に揺られていた感じが抜けなくって」
「食べられないなら、食べないで休んでいた方がいいんじゃないの?」
「そうね……お母様、私は部屋に戻ります……」
「そう。……マーニャ、サラ。二人ともキララを案内しなさい。あなた方はキララと長い事一緒の部屋にいたのだから、色々気心が知れているでしょう」
「はい、奥様!」
「はい、奥様!」
晩餐の間部屋の壁に立ち続けていた二人が、キララの手を取り優しく、彼女を連れて行った。
本当はクラウスも後を追いたかったのだが。
「クラウス、お前まで食事を中断すれば、料理長が嘆きますよ」
と言われてしまい、それも嫌だと思ってしまったため食事を続けた。
食べ慣れた温かい食事は、本当に心が休まるひと時だった。
実家に戻り数日、おかしいと思い出したのは早かった。
それは使用人たちの会話の中から、思った事だ。
その他にも、少女が知っている知識や経験値などからも、おかしいと思い出したのだ。
自分の採寸が行われないのだ。
おかしすぎる。
デビュタントのドレスはサイズなどもきちんとしなければ、白一色であるため大変にやぼったいものになり、見苦しく太った姿に見えてしまう。
白は膨張色なのだから。
当主は帰宅してすぐに顔を合わせた。その時の事をクラウスは思い出してみる。
……当主はキララと暖かな抱擁を行った後、妻に色々と話していた。
そして二人の義理の娘に飾り物の土産を渡した。
そして。
自分に近付き、二人にしか聞こえない声でこう告げたのだ。
「キララの邪魔になる事をするな」
たったそれだけを言った男は、何事もなかったように今度は、誰にも聞こえる声で言う。
「さて、デビュタントのドレスの採寸は急がなければならないな。白の絹はあまたに持ってきたが、それでも限りがあるのだから」
クラウスへの警告じみたものなど、なかったかのようで、しかしそれはあったのだ。
……やっぱりこうなる、とクラウスは心の中で苦笑いするしかなかったわけだった。
その時の言葉からして、ドレスの採寸は急がなければならなかったはずで。
数日の間に、採寸の手はずくらいは整うはずなのだ。
だって自分は、二週間で義姉様たちのドレスの手はずを整えた事だってあったのだから。
だが、デビュタントのドレスなどという大作は、どれだけ急いで採寸して生地を選んでデザインを決めても、急ぎすぎな物ではない。
遅すぎる、自分の物はどうなった、とクラウスは疑問しかなかった。
その疑問に急かされるように、彼女は足早にその部屋に入った。
そこで見たものに、彼女は動けなくなる。
そこではキララが、ドレスの仮縫いをしていたのだ。
引きつるなんて、物じゃなかった。
採寸はキララも行われていないはずだ、と思っていたのだ。
使用人たちが、
「クラウスさんの採寸はいつ行われるのだろう」
「間に合わない」
と言っていたから。
キララもなのだろう、と思っていたのに、姉はドレスの仮縫いをしている。
それも見事な生地のドレスを。
……無理だ、絶対に無理だ、とクラウスの中のそろばんが、ドレスの値段をはじき出して結論付ける。
この家に、これだけのドレスを作るお金は、二人分はない。
さらに言えば。
これだけのドレスを作れば、もう一着デビュタントの特別なドレスを作る縫子を、確保できない。
目を見開くクラウスは、息ができないような気分になっていた。
当主様は、わたしをデビュタントさせるつもりがないのだ。
その事実が目の前に現れていて、言葉も息もできなくなりそうで。
「あら、クラウスどうしたの?」
ここの所、マーニャやサラと言った使用人たちに遠ざけられ、会話なんてしなかった姉が目を丸くするのを見て。
少女は初めて、思った。
この家にいたくない、もう、無理だ、無理だ。
その心は強烈に膨れ上がり、彼女はばっと身をひるがえして、与えられていた部屋に飛び込んだ。
泣くわけがないと思っていたのに、涙がとめどなくこぼれてくる、嗚咽がひどくて酷くて、泣き叫ぶ事もできやしなかった。
哀しくて悲しくてどうしようもない。
何をしても何を頑張っても認められない事をここで、悟ってしまったからだ。
当主が認めなければ、どんな正しい血筋の娘だって家族だとは認められない。
デビュタントすらできない娘を、普通の貴族の当主は娘にしない。
散々泣いた少女は、顔を上げた。
この家にいたくないならどこに行くか。
行く当てなんて何もない。
でも。
ここでどうしようもない、敵うわけもない夢を見るくらいなら。
立ち上がって二本の足で、歩いて歩いて逃げ出す方がましじゃないか。
と。
ぐいと涙をぬぐった少女は、自分がデビュタントできなくても、当主は言い訳に困らない事を知っていた。風邪をひいていた、寝込んでいた、調子が悪くなった、足をくじいて踊れない、娘を確認させなければ、使者をいかようにも丸め込めるのだと。
そして、王太子の妃選びの条件から外すつもりなのだろう。
キララの邪魔になるから!
こんな平凡顔の娘でも、頭数に入っていれば邪魔だから。
彼女は大したものも持っていないなか、鞄に荷物を詰め込み始めた。
その時である。
「クラウス、お話があります」
継母が現れて、鬼気迫る少女にぎょっとしたのは。
「どうしたの」
継母の言葉ももっともだ、まさか継子が荷物をまとめだしているとは思わないだろう、普通。
しかしクラウスは止まらない。動きを止める事なく、言い切った。
「ここから出ていくんです」
「どうして」
継母の言葉の中には、それを意外だと思わない空気が存在していた。彼女もこの光景を受け入れるつもりなのだ。その彼女に、少女は言い放つ。
「ここでは未来がないからです。いくらお母様たちが家族、みたいに扱ってくれていても。当主様がうんと言わなかったらどうにもならないでしょう。……あこがれを捨てる事にしたんです」
当主に認めてほしかったから、家を綺麗にした。整えておいた。誰が見ても問題がないように。
当主に、さすが私の娘だ、といってほしかったから、どんな無茶も頑張ったのだ。
だがそれは永遠に報われない。
今日見た光景でそれが明白になり、クラウスは絶望する前に動いていたのだ。
絶望に足をとられて、どこにも行けなくなる前に彼女は、逃げ出すという一番いい選択肢を選んだのだ。
「あなたがそのつもりなのね」
継母が彼女をじっと見つめて、頷く。
「ならば方法があります。……この手紙を持って、この屋敷に行きなさい。出来る限り誰にも気付かれないように。急いで。この屋敷の人間に見つからないように。当主側の人間に見つからないように」
渡された手紙にはしっかりと封がしてあり、そして大事な物に違いなかった。
少女はこくりと頷き、大好きな継母に言った。
「今までありがとうございます、娘でいられて幸せでした」
その言葉に、継母が動けなくなる。娘でいられて幸せだった、とこの少女が本気で言っているせいだ。
おもてだって家族として扱えず、いつもいらない苦労をさせてばかりで、手を傷だらけにさせて。
どんなに当主をいさめても、何一つ変わらず。いさめ続ければ当主は命令を上書きしないまま領地に引きこもり。
大変な事ばかり押し付ける事になっていた子供が、幸せだった、と。
彼女の中の罪悪感のような物とそれから、言葉にならない物が入り混じり、動けなくなったのだ。
その脇を抜けながら、大したものも入っていない小さな鞄を持った継子が、言う。
「さようなら、おかあさん」
……泣き崩れる事は、継母の色々な物が許さなかった。
だがそれでも強く思う事があり。
「幸せにおなりなさい、あなたはそれを目指す事を、誰にも止められない」
小さな声で返す事で、精一杯だった。
クラウスは音を立てず、この屋敷の死角のような場所を動き続け、誰にも気付かれる事なく外に出た。
外は薄闇の色をしており、意外と荷造りに時間がかかっていた事を示していた。
いちのくるわの端である屋敷から、クラウスは継母の渡してくれた手紙の宛先を見る。
そこは。
「お母さんの実家の名前だ」
流麗な、見とれる筆記で書かれているあて名はどう見ても、継母の実家だったのだ。
大事にされているんだな、とクラウスはここでも思った。
手紙を先に用意していたという事は、クラウスが路頭に迷う事が無いようにと手を打ってくれたという事なのだから。
少女はそのまま、徒歩でしかし大急ぎで、その屋敷を目指し始めた。
道の街灯はやや暗く、馬車に乗っていれば問題のない暗さでも、徒歩の人間には致命的な時間がやがて訪れる。
その前に、この家に行かなければ。
クラウスは迷うことなく、歩き続ける。
誰も少女を気にしない。どこにでも見受けられる衣装の、ありふれた顔立ちの娘。
鞄片手という事もあり、新しい使用人が遅れて到着した、と見られていたようだった。
そんな時だ。
「ここで何を?」
一度誰かとすれ違うや否や、背後から声がかけられた。
その声は覚えのある物だ。
ばっと、クラウスも振り返る。そこには赤々と燃え盛る赤色の瞳を持つ、美しい男。
「プロ―ポス……」
見るのはずいぶん久しぶりなのに、やはり肩の力が抜ける。
友人相手に笑いながら、彼女は時間を気にした。
「ごめんね、今急いでいるの、行かなきゃいけない場所があって」
「どこに? 家は違うだろう」
「違わないよ、行かなきゃいけない場所がある」
クラウスはそれを、なぜかも言わない。
いうだけややこしく、もしかしたら継母に泥を塗るような思い込みをされるかもしれないと思ったのだ。
彼女が何も情報を口にしないと察したらしい。
プロ―ポスは近付き、彼女の脇に立った。
「こんな時間に女子供の一人歩きは危険だ、そこまで送っていく」
「え、ありがとう」
それを拒絶するほど、少女は相手を嫌ってもいなければ、遠ざけたいとも思っていなかった。
それどころか、並んで歩ける事を内心でとても、喜んでいた。
同じ時間を共有する事だけでも、心が弾む事だったのだ。
そして別段、行く家がどこか知られても、口止めすれば大丈夫、と信じていた。
プロ―ポスは信じていい。
彼女の妙な信頼だった。
プロ―ポスが彼女の脇に立つ。それも馬車が通るほうを自分の位置と決めたらしい。
「そっちは危ないよ」
「危ない方を歩かせる性質は、あいにく持っていないんだ」
心配した少女に、からかうように笑う声。
「背が高い方が目立つ。馬車の人間も、あなたより俺の方が目立って安全だ」
「そうかもしれないね、でももっとこっちに寄りなよ」
クラウスが建物側に少しずれれば、プロ―ポスがその分近付く。
いいや、それ以上に近付いた。
手も触れあうような距離だ。
「近いよね」
「さあ」
またくつくつと笑う音。プロ―ポスは意外と笑いやすい性質の様だ。
そのまま彼は、手と手が触れ合ったほんの一瞬を利用し、彼女の手を握った。
「この方が、路地の隙間からさらわれなくて済む」
「いちのくるわはそんな危険な場所じゃないのに」
「意外と違う。いい所の人間を狙って、厄介な人間が闇の中に潜む事もあるんだ」
彼の、ここを熟知しているような言い方を聞き、やっぱり彼はいいところの次男坊とか三男坊なんだな、と認識を新たにした少女だった。
それに。
とってもいい所ならば、王族との結婚もあるだろう。……血の濃さによっては、王太子にそっくりな男児が生まれるかもしれない。
プロ―ポスはきっとそういう星の巡りで生まれたんだろう……と彼女は変に納得した。
だが。
手が握られると、相手の手の大きさや剣だこらしき固いものや、女の人の手とは大違いに厚い手の皮の感触だとかが、よく分かった。
そしてそれを感じれば感じるほど、自分の中のぐるぐるする意味の分からない感情が、走り出すのも。
しかしそれで、手を放してほしいとはちっとも思えない。手は繋いでいたい、でもこのぐるぐるは変過ぎる。
そんな事を考えていた彼女は、もうじき目的の屋敷だと気付く。妃教育の中で、いちのくるわの大まかな屋敷の場所は教えられていたのだ。
「あ……もうすぐだから」
「手を放してほしいのか」
言った彼が、名残惜しさもなさそうに手を放す。
するりと指先が最後まで、少女の指先をなぞって離れる。
「ここなら、外の門番も見えている、ここで送るのは終わりにしよう」
「っ、ここでさよなら?」
もう少しだけ一緒にいたいな、と滅多にない事を思う少女に、彼が笑う。
「今日は。……デビュタント、楽しみにしている」
本当に瞬間的に、彼女の手を取った彼の唇が指の付け根をかすめて、彼は闇の中に去って行った。
それを呆然と見送る前に、我に返ってしまった彼女は、足早に門番の所に向かった。
「すみません、ここはドゥエルグ公爵家のお屋敷ですよね、わたしは、お母様に言われてこの家の人を訪ねてきました、こう言う手紙を持っています」
門番は、夕闇の中いきなり現れた娘に驚きながらも、その手紙の筆記と差出人を見て、顔色を変えた。
「こちらへ」
そしてすぐに門の中に入れてくれて、玄関ホールまで案内してくれた。
継母の手紙は威力が絶大だったようだ。
宛名だけでこれなのだから、中身はどれだけすごい力があるのか。
そんな事を思うほど、門番の対応は丁寧な物だった。
これが本物の上流貴族の家のしつけか、と思うとすごすぎて感心しかできない彼女だった。
立ったまま数分が経過して、女性の使用人が現れる。おそらく屋敷の主人についている侍女の一人だ。その後に執事も現れる。
「こちらへ、当主様たちがお待ちです」
「はい」
少し居住まいを正して、少女はその後に続く。奥に行くほど屋敷の歴史の長さと、趣味の良さが際立ち、これが本物、貴族の中の貴族、と感動してしまう。
しかし行儀の悪い事は出来ないので、ちらちらと視線を少し動かすだけにとどめた。
お母様の手紙は、相当らしい。まあ、この家の自慢の娘だったことは聞いているので、可愛い自慢の娘からの手紙、となれば動くものもあるだろう。
少し他人事のような気分だ。
見事な廊下を歩き、階段を一つのぼればやや私的な客間に到着する。
「旦那様、大旦那様。奥様、大奥様。失礼いたします」
この屋敷の階級の最上位の人たちが勢ぞろいだ。
少し緊張しながら中に入れば、そこでは確かに、四人の人が待っていた。
あ、確かにお母様の家族だ。
少女は彼らの顔ぶれを見て思った。
雰囲気が似ているし、顔も似たところがいくつもある。
血のつながりがそこにはあり、家族と血のつながりが見いだせない少女にはうらやましいものがある。
「あなたが、シャリアの義理の娘かしら」
シャリア。継母の名前だった。
「……」
クラウスは口を開き、だが己は父から家名を名乗る事も許されていないと思う心が止めにかかる。
「手紙を読んだだろう、ギネビア。この子は名乗りすら許されていない。本物の義理の娘だ」
壮年の女性の言葉に続く、男性の言葉。女性はギネビアというらしい。
あ、試されていた。
たったそれだけのやり取りからも、何か情報が手に入ってしまう物なのか。
「シャリア姉様の手紙から大体は知った。……君は父から認知されていない娘なのだと。虐げられているとも。今度のデビュタントパーティすら、妨害されている事も」
それだけ知られていれば、十分知られている気がする。
継母に似た、やや若い男性がそこで笑いかけてくれた。
継母の笑顔によく似た、美しい百合の花の笑顔だった。
「シャリア姉様が娘だと思っている君を」
一呼吸置き、男性が続けた言葉は想定外だった。
「弟である私の養女にしても、かまわないだろうか?」
「あなた、なんて気が早いのかしら」
「シャリア姉様が、この子を幸せにしたいと手紙にすら書くんだぞ、マッリーア。ならばこの子の立ち位置をしっかりと盤石の物にするのが一番先だ。足元が揺れていたら、生きるのに苦労するんだ」
「そうだけれど、養女なんて」
「私たちには娘が育たなかっただろう、息子は色々強烈だし。それに私は、一目見てこの子を娘にするのが一番だと、判断したんだ」
「また野生の勘に頼って」
男性とその奥方の会話を聞きながら、壮年の男女が笑いあう。
「決まりだな」
「決まりですね。あとは本人の気持ち次第かしら」
「え……」
戸惑ったクラウスに、おそらく継母の母親が言う。
「あなたが、今までの家も家族も捨てたという事も書いてありましたから。……わたくしたちが、あなたの新しい家族になってもいいなら、この申し出を受けてくれないかしら」
「……それは、妃候補の娘がいると、何かと都合がいいからですか」
とっさに思ったのは、それを利用したいのだという考え方だった。しかし母親が否定する。
「いいえ? そんなものに頼らなくても、我が家はまだまだ揺らぎませんもの。単純に、あなたを見てあなたのふるまいを見て、言うの」
「いつ、わたしの振る舞いを見たのでしょう」
「シャリアのご機嫌伺いの時に、いつも誰に対しても丁寧な、嫌味のない受け答えをしていたあなたを、わたくしたちは話だけでは何回も」
「あなたの話を何度も聞いていたし、こうして会ってみてなんだか、孫みたいに思うんですもの。どうかしら、そこの息子の娘に、なんて」
当主や前当主、その奥方たちからの打診だ。
日陰に隠される事なんて、絶対にない。
家族として、一緒にいさせてもらえる。
その魅力と、それからここを出て行ってもあてがない事実。
少女が頷くには十分な理由だったのだ。
家族、にしてもらえるのだから。
使用人としての商家異常かもしれないと思っていただけあって。
「でも」
ためらいがちな声で問いかけてしまう。
「わたしみたいな地味な女の子を、養女に」
「あなた意外と馬鹿なのね」
微笑む女性陣と、思わず笑っている男性陣。
「あなただからいいのよ」
「そう、君だから養女にしてもいいと判断したのさ」
その言葉を聞いた瞬間の事だった。
眼から涙がこぼれだし、はたはたと落ちたのは。
今日は涙腺が緩いらしい。とっさに手の甲で拭った彼女に、四方向から差し出されるハンカチ。
それだけでもう、十分なくらいうれしかった。
「……」
唇を一回噛んだ後、クラウスは頭を下げた。
それは使用人としての一礼ではなく、一人の少女が家族に下げる角度と、見事な程の仕草だった。
「これから、よろしくお願いします、父様、母様、おじい様、おばあ様」
「やっぱりかわいいわ!」
彼女の下げた頭に、突如抱きしめられる。相手からいい匂いがして柔らかい。これから母と呼ぶ人が抱きしめてきたのだ。
「フィフラナちゃんの情報に誤りはなかったわね!」
「え、あの、フィフラナさんとお知り合いで?」
「あの子は実の父の所に行くまでは、ここで母親と一緒に私の侍女をしていたの。その時からの縁でよく手紙をもらっていて、あなたの事もちょくちょく話題になっていたの」
あの気難しいのが、友達って断言するくらいだから。
「いい子だって言うのは知っていたの。でも実際に会ってみたらもっといい子で、かわいくて、シャリアが可愛がっていたかったのもよくわかるわ!」
ああ。
思っていたよりもわたしは、いろんな人に好きでいてもらえていたらしい。
フィフラナさんが、友達と断言してくれていたのも、うれしくて。
優しい抱擁に返したいのに、腕が硬直したように動けない。
だが。
「こら嫁さん。娘が困っているよ、今日は疲れただろうから、ゆっくり休ませなさい」
父と呼べる人が、笑いながらたしなめて抱擁は終わった。
「あの、わたし秋のデビュタントの時、どうすればいいんですか」
「そんな堅苦しい言葉を使わなくて、いいのよ。シャリアなんて他所では丁寧なのに、自宅だと途端に我儘娘だったもの」
ニコニコと笑っている祖父母が朝食の席で言う。
クラウスの立場は、あっという間に使用人たちに認知されていた。
そして、使用人たちの苦労を知っている少女が、さりげなくしている、使用人が困らない手段などで、評判は良かった。
例えば、食事の時間はほとんど一定にしておくことなどだ。
食事は皆で一緒に取れるようにすること。
それから、衣装であれこれ文句をつけないこと。
使用人たちの仕事が終わってから、掃除された部屋に入る事。
小さく小さいものたちは、意外と貴族たちが考えない部分であり、使用人たちは
「こちらの苦労をわかってくれる、素敵なお嬢様」
と口々に言いあっていた。
そして彼女の、素直な称賛なども評判がいいのだ。
掃除されていて、きれいだなと思えば言うし、温室の花々が素敵ならそういう。
褒める部分は惜しげもなく褒めるところも、使用人たちの“自分たちはほかの家とちがう”という誇りに見事に一致していたのだ。
少女がただ、当たり前に思われている事は普通、当たり前ではないと知っている、ただそれだけの事でもあったのだが。
さて話題を戻し、朝食の席で問いかけた彼女に、養父や養母があ、という。
「そうだな、嫁さん、どんなドレスを手配しているんだい」
「新しいドレスはこれからは作れないわ。それもこの家の格に合うだけの物なんて。だからおばあ様の物の大きさを調整して、うんと素敵な物にしようと思っているの」
「まあ、わたくしが着ていたあれを? あれは花嫁衣装に並ぶと言われたものだから、誰が見ても文句は言わせないものだものね。孫に昔の衣装を着てもらうのは、いつでもうれしいものだわね」
「クラウスは髪の色が不思議な魅力を持っているから、お前の衣装も違った雰囲気で着こなしてくれるとも」
彼等の会話から、なるほど、自分はおばあ様の物を調整して着るのだと理解した。
上流貴族の中で、家族の着ていたものを作り直して着る。
それは持ち主の格が高いほど、それを着る事も許されたという子供の立場をあらわにするのだ。
祖母は昔、その名前を大陸中に知らしめるような美女であり、賢女だったのでその人の衣装を許されるというのは、すごい事だった。
「それにしても、不思議な髪の色だわ。どこにもないもの。緑が混ざる金の髪なんて」
「新しい髪が生えてくるほど、その色がはっきりしていて、毛先になるほど透き通っていくから、痛んだ髪の毛がなくなったらそれは、見事なものだろう」
「金の髪よりずっと、あなたに似合う色だもの。瞳の色と似ていて、沼姫のようだわ」
「沼姫……?」
聞き慣れない単語を聞き返せば、祖父が言う。
「動き出せばだれよりも美しい、と言われた古い古い沼の主の事だよ。図書室にその話があったはずだ、探してごらん」
「はい」
最近、自由な時間になると図書館か温室に入っているクラウスは、うれしい事を隠さないで頷いた。
こうして、本の事を教えてもらえる事だって、楽しいのだ。
家族としてはばかることなく、会話が出来るって素晴らしい。
「今日は採寸をするから、この時間になったらこの部屋に案内してもらってね」
指定された部屋に行くには、使用人が案内してくれるそうだ。
このお屋敷って本当に広い、と少女はまた実家との違いを感じた。
「わあ、素敵な衣装」
「とっておきなのよ、お母様はシャリアお姉様以外の娘が生まれなかった事と、シャリア姉様が違うデザインのドレスを着たいといった事から、このドレスを着直してくれる子供がいなかったの」
部屋に入って目に入ってきた衣装は、単なるアンティークとはケタの違うものだった。
格が上である事や、見事さはたしかに結婚衣装と並ぶだろう。
「ただ、ティアラのデザインは同じにするとよくないわね。何かなかったかしら」
「お前の物じゃいけないのかい?」
「この子には似合わないし、このごろ流行の髪型には合わないもの。ドレスは間違いないものだから、それに違和感がなくて、この子にぴったりな物がいいんです」
ドレスに見とれている当事者の脇で、二人の女性が話し合っている。
クラウスはドレスを見つめ続けていた。
優雅なラインと今どき滅多にお目にかからない精緻なレースの白さ。ちらりちらりと光を受ける布地の中に縫い込まれた煌く糸。
白と色が限定されているデビュタントドレスの最高の物にちがいなかった。
実家では、用意すらされなかったものがそこにあって。
綺麗な物が大好きな少女が、くるくると周囲を回って全体を眺めてうっとりとする、それ位素晴らしいものだった。
「それにしても、この子の体の曲線は、わたくしが当時頑張って調整していた曲線によく似ている事。これならそう直さなくても、見事になるわ」
「お母様の時代は、胸を潰してお尻も潰しましたものね」
「凹凸がもてはやされるこの頃よりも、清楚な印象が大事だったのだよ」
女性使用人たちが着つけて見ている間、それを確認し指示を出す二人の会話だ。
クラウスからすれば、胴体が少し緩いし、胸は少しきつかったが。
これ位の誤差はちっとも苦しいものではないため、このままでも十分見られる姿のような気がした。
だが。
孫娘および、養女をあっと言わせたい二人はその誤差を直すように指示を出していく。
「これならほかの家に、貧相な養女だなんて言わせないわ」
「そうそう。どこの家だか知らないけれど、みじめな妃候補を王族とのつながりにしたくて養女にした、なんて噂を流すようなのも、何も言えないわ」
「あの、そんな事を言われているんですか!?」
まさか他所の妃候補を貶めるために、そんなでたらめを流すなんて。
仰天した少女に、女性たちが言う。
「これ位の噂なんて、足の引っ張り合いをしたい奴らにとっては当たり前よ。クラウス、覚えておくといいわ。足を引っ張りたい輩は、些細な事を重箱の隅をつつくように探して、大げさに言いふらすの。でもそう言うのは、眼に物を見せてしまえば黙るしかないのよ」
現実がその噂を吹き飛ばすものならば、言い出した方がみじめになるだけなのである。
そういった貴族社会の事をまた一つ、少女は教えてもらった。
「お嬢様は本当に、色々な事を王宮で極めましたね、教える事がありませんよ」
「そんな事ないです。皆さんとお話するほど、自分の狭い世界を実感します」
本日三人目の家庭教師との会話の後。もう晩餐も終わり、彼女が自宅に戻るためその馬車を見送っていたクラウスは、闇の中たたずむ誰かに気付いた。
「誰? この屋敷に御用事?」
門の向こうとこちらなので、門番もいる。しかし呼びかけたのは訳がある。
時折緊急の使者が、水を求めて屋敷の前まで来るためだ。
「お嬢様、様子を見てきますね。お前はこっちにいろ」
「了解了解」
門番の片方が誰かの方に行き、もう一人の門番とクラウスが残される。
玄関までほんの数歩であり、大声をあげれば室内から誰かが飛んでくる。
そんな場所でちょっと待っていれば。
「まったく、ちょっと警戒心が弱いな、このお屋敷は」
不意に門番がくつりと笑い、クラウスの方を見たのだ。
「こんばんは、クラウス」
少女はそこで門番をきちんと見て、あっと小さく声を上げた。
「プロ―ポス」
呼びかけた名前は小さく、大声をあげてはいけない気がした少女の勘は正しい。
「調子はどうだ? ここの養女になったって聞いてから様子を見に来たんだ」
「って事は、いつも門番をしているわけじゃないんだね」
「まあ、そうだ。時々知り合いだから交代させてもらっている。それもこれも、クラウスの近況を少しくらいは知りたいからだ。許してもらいたい」
唇に艶のある笑みを浮かべた、王子とよく似ていながら決定的に違う面差しの彼が少し、顔を下に向けて彼女に言う。
「わかるわかる、友達の近況って心配な人ほど知りたいよね。そうだ、フィフラナさんとも知り合いなんでしょ?」
「腐れ縁」
「フィフラナさんはどうしてるかな」
「家で実力を発揮しているらしいな。烈女っぷりがすごすぎて噂にすらできない。真実が常識を上回るのはああいう時だろうな」
「フィフラナさんだもんね」
くすくすと笑った少女は、また並ぶだけで浮足立つ心に気付いていた。
隣に立つだけで幸せ。
その現実の意味はきっと、世界一大事な事の一つだ。
「さて、お嬢様。夏の宵は思ったよりも気温が下がります。お部屋にお戻りになられては」
「また会える?」
またさよならだ、と気付いた彼女の問いに、美しい男は秘密を囁く。
「月がきれいな夜に、温室なら」
そう言って瞬間、手に触れて唇を当て。握ってするりと離す。
そうするともう、彼は門番の空気しかなくなり、その時もう一人が旅人を連れて戻ってきた。
「このあたりのお屋敷に、手紙を頼まれていたらしい。渇きがひどくて水を求めているそうだ」
「じゃあ門番の詰め所に行きましょう。そんなに渇いているなら、早く水を差し上げたい」
「冷えてきますので、お嬢様は中に。あなたは気付いてくれたお嬢様に感謝した方がいいですよ、この闇の中だ、私たちはあなたを行き倒れにするところだった」
「お嬢様、ありがとう」
微笑んだ旅人が詰め所に行く。
クラウスは名残惜しく思いながら、プロ―ポスに視線を向けた後、言う。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
視線は瞬間だけ重なった。重なってくれる事に安堵した。
その日の夜は、なんだかよく分からないけれど、とても幸せな夢を見る事が出来た少女だった。
それから数日、ドレスは着々と完成し、銀色である事がルールであるティアラの方も宝石商のとっておきが手に入るらしい。
「その時に、妃候補という事を言わなかったの?」
「別に候補とかいう無駄な箔がなくとも、宝石商とは信頼関係が築けているからね」
「不必要な箔もあるんだよ。そのせいで無駄な事も起きやすいからね」
妃候補だから立派な物を求める、という事と。
大事な娘だから、立派な物を用意したいという事は。
大きな差があるらしい。主に他人が感じる人間的な心として。
「人間味のない人間には、人がつかないからね」
「そうなんだ、あ、チェックメイトだ」
養父と盤上遊びをしていた少女は、かちゃんと駒を置く。
「まったく、クラウスはこう言う物も強いんだなあ。これなら陛下の遊び相手も立派に務まるくらいだ、あの方は盤上遊びに目がないからね」
強い娘に笑う養父。負け越しだった。
そんな和やかな会話の合間に、クラウスはひょいと報告書を手に取った。
「父様、やっぱりイザベラ様が一番有力なようですね」
「あの方は歴史こそ浅いが、それ以外に欠点がない令嬢だからね」
「ですよね。あとはマリア様、アンジェリカ様。どこもそれこそ名前が知られている家で。……ガラスの靴の意味があったのか疑問を感じるような顔ぶれに感じる」
「デビュタントを済ませれば、辞退も認める方針にした王宮は正しい。お前もなりたくないなら、デビュタントの後に辞退すればいいよ。デビュタント前の少女を囲うのは、教育が成果を発揮する可能性が高いからかもしれないが」
「えっとそれは、純粋なうち、世間を知らないうちに刷り込んでおいた方がいい習慣が多いから?」
「王妃の立ち振る舞いは、小さい頃から教えておいた方が無意識のうちに動けるという事もあるさ」
新しく駒を並べ始めた養父の言葉だった。
「そういうもの? お話の中だと、身分が下の王妃様とかよくあるロマンチックな案件なのに」
「大変だぞぉ」
楽しそうに笑う養父が続けたのは。
「今までの世界と全く違う、常に命を狙われ続ける世界だ。いろんな意味で、本物の命、名誉という命、矜持という命、人格という命。最初からそれらが当たり前の環境にいた人間は平気でも、それがない世界からやってきた人々はあっという間に心を殺される」
「夢物語はあくまでも、夢物語なんだね」
お姉ちゃん……もうこの家の子供だから、自分はキララをお姉ちゃんと考えるのもいけないのかもしれないが。
キララのあこがれる世界は、あこがれているだけの方がずっと幸せなのかも。
「それとも私の娘は、そう言うのを前提でも王妃になりたいかい、だったらそのための援助もするけれど、せっかくできた可愛い娘が早々に嫁に行くなんてさみしいなあ」
「行かないよ!」
クラウスの声は思った以上に必死な物、だった。
勘違いされてほしくない、という事がよく表れた声。
「父様と母様と、おじい様とおばあ様の所に、まだ、居たい」
家族の名前を呼んで、一緒に過ごす事がこんなに幸せなのだ。
それをあっさり手放したりなんて、しない。
「居させてください」
少女の過去の痛々しさを思わせる瞳に、養父は手を伸ばして頭を撫でた。
「もちろん。私の娘に相応しい、いい男が現れなければ絶対に他所へはやらないとも。少なくともお前が、その男に誰よりも幸せにしてもらえる保証がなければな」
撫でる手の温かさと大きさと、泣き出したくなるほどの安心感。
クラウスはくしゃりと顔を歪めて、うれしいけれども笑い方がへたくそ、と言った調子の顔になった。
「旦那様、お嬢様、お茶の支度が整いましたので用意させていただきました」
静かに銀のワゴンを運んできた女中が言う。
「ああ、もうそんな時間か。お茶が終わったらクラウスはお勉強だったな、つい楽しくて盤上遊びに熱中してしまったよ」
「旦那様はあといくつかの書類の決裁などがありましたよ」
「ありがとう、バトラー」
「いつもありがとうございます」
親子は似る、とよく言うが。
使用人たちに、何の抵抗もなくお礼を言う二人は、親子になって日日が浅いのに、十分親子のような雰囲気があった。
……もともと旦那様の性格と似た部分があったのだろう、それか。
執事バトラーは内心で考える。
少女が周囲の空気に溶け込むのがとても速いからなのか。
それは信じられないほどの美点でもある。
どんな環境にも適応できる、というのは外交官などが欲する才覚の一つなのだから。
いつまでもよそ様のような空気でいられる方が、気分が悪い事も多いのだから。
クラウスは、その夜ちらちらと外を確認していた。
「お嬢様、お外の何が気になるんでしょうか」
「月がきれいかなって思って」
「そうですねえ、今日はひと月に二度満月になる、珍しい日ですし、綺麗かどうかが気になるのはわかりますが」
家庭教師が微笑みながら、月の動向が気になってしまっている少女に教える。
「今日は抜群にきれいなはずですよ。そうそう、お嬢様のお部屋のベランダでしたら、少し見に行くくらいは大丈夫でしょう。でも夏がそろそろ終わりますから、上着を忘れてはいけませんよ」
「ありがとう」
そうか、今日の月は抜群にきれいなのか。
約束が守られる日があるなら、きっと今日だとクラウスは判断した。
しかし。
温室に行けないのならば、自分が約束を守れないようだと思う。
彼女は、家族にいらない心配をかけたくない。夜中に温室に一人で行くなんて、きっとだめだ。
でもプロ―ポスには会いたい。すごく会いたい。
中々葛藤がある事柄だった。
晩餐も終わり、眠る支度も整えた少女は、まだ未練がましく外を眺めていた。
理性がまだ残る少女は、家族に心配をかける事が出来ないでいる。
唇を噛み、小さく呟く。
「ごめん、プロ―ポス。いけないね」
会いたいと言い出したのは自分なのに。
ついうつむいたその、一瞬。
ばっと目の前の窓が外からの風で開かれ、彼女に影がかかる。
「無茶を言って悪かった、こちらが悪いのは間違いないな」
一言それらが、彼女の頭上から注がれた。
顔をあげればそこには。
身軽な衣装の、平民にしか見えない姿の。
しかしそれらでも絶対に、平凡とか凡庸とか、目立たないとか、魅力がないとか。
言えない青年が窓枠に膝をついていたのだ。
「……うそ、どうやってここに?」
近付いて声を潜めて問いかけると、彼がまた楽しそうに唇を緩める。
「会いたかったから柵を上っただけだ。なにせ月がいっとう綺麗なのだから」
「月がきれいだと、わたしに、会いたくなるの」
「俺の性分のせいか、日向の華よりも、月の下の雑花と言われそうな相手の方が好きなんだ」
「うわ、意外とひどい言い方だ。雑花なんて」
「言葉をよく聞いてほしい、言われそうな、と言っているだけで、事実雑花と言っているわけじゃない」
「じゃあわたしはどう見えているの」
「笑うなよ」
一声置いたプロ―ポスが、断言する。
「真夜中の陸の星」
「……あー、あの時あなたが言った蛍の例えだ、確かに蛍は月がきれいだと見たくなるよね、真っ暗闇よりも、世界が少し藍色がかった方が、蛍きれいだもの」
でも、と言いながら気づいたクラウスは片手を振って否定する。
「わたしそんな綺麗な物じゃないと思うなぁ」
「ほらそうやって否定する。だから言いたくなかったんだ」
ふてくされた声の癖に、表情は心底愉快そうに笑っている男。
月明かりの中の、燃え盛る炎の瞳は心底見事だった。
「でもプロ―ポスとは、いつでも会いたいよ、わたしの方は」
「……本当か?」
「嘘言ってどうするのここで」
彼女が呆れれば、彼が思案したように手を顎に置く。
「……だったら、こっちもまともな時間に顔を合わせられるように、努力する。……そちらのデビュタントはこの秋のパーティだったな」
「そうそう、あと二週間。最終調整かな。ティアラを扱う細工師さんの方に注文が多すぎて、届くのぎりぎりなんだって知らせが入ったから」
「じゃあ、このプロ―ポス、約束をしたい」
「なに? できる事?」
「デビュタントパーティで、かならず、挨拶をすると」
「わあ、ほんと? 絶対だよ、絶対! そうしたら友達って父様と母様に紹介させてね?」
彼女の笑顔に、相手が虚を突かれた顔をした。
「俺を、友達と紹介しようというのか?」
「だって友達でしょ?」
こんなにも胸が温かくなって、幸せになれる相手が友達ですらないなんて、あり得ない!
そんな気持ちの少女の言葉に、男がひどく甘ったるい幸せそうな顔になった。
「その言葉のいちいちが、うれしいと心底思う。誓おう、このプロ―ポス、絶対にクラウスとデビュタントパーティで顔を合わせると」
胸に手を当て、仰々しく誓った男とその後、くだらないさんのくるわのおいしいものの話で盛り上がり、友達と公認されたら一緒に行こうとまた約束をして、二人は別れた。
そして来るべき当日、この日のために家族全員に美容法を行われていた少女だ。
何しろ彼女の髪の毛は痛み過ぎて脱色したような金の髪、その部分を短く切ったためにやや髪の毛は短めというハンデが出来ているのだ。
そんな分ほかの部分はもっと綺麗になってほしい。
そんな家族の心づかいもあって、少女は鏡に映る自分が、今までの自分とは大違いであるような気しかしなかった。
「だからクラウスにはこちらの雰囲気の化粧がいいわ」
「そうしたらお前、クラウスに求婚者が多発するだろう! もっと穏やかな目立たないのにしようじゃないか」
「乙女のあこがれの筆頭、デビュタントパーティで目立たないなんて乙女心が分からない人ね! お母様も何か言ってやってくださいな!」
「わたくしはクラウスが早く嫁に行くのは寂しいわね。息子の側よ」
「……まあ、はやばやとお嫁に行かれたくないのは私も同じですけれど……もう! ではお前たち、この路線でいってちょうだい!」
「はい、奥方様!」
ドレスに身を包み、最終調整のため身動きが取れない少女は、そんなにぎやかなやり取りが終わったあたりで、問いかけた。
「本当に、わたし、自分じゃないみたい」
「そうだろうねえ、今までの金髪の自分とは大違いそうだからね」
祖母が言う。少女の地毛は本当に、翠がかった独特の色味なのだ。
その、誰もが一瞬振り返るはっとする色彩。
それと少女の、一見すると平凡と呼べそうなのに、瞳の不思議としか言いようのない色彩が重なり合うと、少女の目鼻立ちの平凡さは一気に、神秘的な物に変わるのだ。
平凡な顔、という物が些細な要素で、様々な物に化けるといういい例だった。
色が珍しくなる、ただそれだけが少女のまとう雰囲気を平凡な少女ではなくするのだ。
いいや。
孫娘を見つめていた先代夫人は言う。
「もともとクラウスは、立ち振る舞いが並の令嬢でも歯が立たない位見事、だったものねえ。痛んだ髪の毛や肌といったものが、それらを隠していただけで」
先代夫人は、自分の若い頃の衣装を着た少女に、微笑んでしまう口元を隠せない。
「ほんとうに、わたくしが着ると妖艶と言われてしまった衣装だけれども。乙女らしい清楚な雰囲気になったこと。マッリーア。これでティアラが届けば完璧だわね」
「ですねお母様」
二人の女性がはしゃぎながら言いあっていたその時だ。
いきなり廊下の方が騒がしくなり、女性使用人が飛び込んできたのだ。
それもノックも忘れていて、相当に慌てていた。
「しつれいいたします!!!! いま、大変な、大変なっ!!」
「クロエ、落ち着きなさい。何があった?」
当主の言葉に、クロエという彼女が息を切らせながら、使用人にあるまじき状態で言う。
「今、細工師たちの使者が来て……なんと……」
息も絶え絶えに、彼女は叫んだ。
「お嬢様のティアラが、出来上がっていないと言ってきたのです!」
「何だって? 注文は何日も前にしていただろう。日数からして間に合う計算だったはずだが」
祖父が懐の手帳を取り出し、確認しながら言う。
「この家の注文をないがしろにするなんて、あってはならない失態だわ、一体何が細工師の工房で起きたというの?」
「とにかく、使者はまだ帰っていないのだろう。ここに連れてきなさい!」
養父の言葉は、クラウスの着替えが完全に終わっているが故の発言だ。
おそらく、クラウスだけが蚊帳の外になる不安を味わせたくないのだろう。
「ただいま連れてきます!」
クロエがまた去っていく。ほどなくして現れた使者は、もう顔面蒼白、今にも倒れそうな状態だった。
「どうして我が家の注文の品物が完成していないんだい」
勤めて冷静に話そうとする養父。
後ろで、只ではすませないという雰囲気がにじむ養母。
表情から機嫌が分からない祖父母の雰囲気もあり、使者はしどろもどろに説明した。
いわく。
「つまりお前の話をまとめると、妃候補たちの注文が殺到し、妃候補としての注文ではない我が家の注文が後回しになり続けた結果、という事か?」
「ま、まことに、まことに、おゆるしを……!!」
使者は使者でしかないというのに、土下座せんばかりに謝っている。
「何とかパーティまでにと急いでいたのですが、どうしても間に合わず……」
細工師たちも慌てふためきながら、今日までに完成させようとしていたらしい。
だが間に合わなかった、らしい。
「何故細工師の一人も謝りに来ない」
祖父が静かに問いかける。その静けさが余計に恐ろしい物を含んでいる。
「細工師たちは、完成した品物を順々に梱包して、注文した家のお使いに渡しており……どうしてもここに来られず……」
使者は死にそうな顔である。
おそらく、自分が受けるべきではない怒りを、間近に受けているからだ。
クラウスも、家族の怒りを受けたくないと思う現在なのだから。
「まことに、まことに、まことに」
それしか言えない使者だ。
使者に怒りをぶつけても仕方がない。
「お前、細工師たちにこれ以降取引がない事は伝えておけ」
たった一度の失敗と思うかもしれない。
だが、貴族の一生を左右するデビュタントパーティに関する一度の失敗だ。
それを許す姿勢は、この家がとる姿勢ではなかった。
「……つたえ、ます」
怒りから切り殺されないだけ運がいい、と察したらしい。
使者はもはや倒れる寸前のような状態で、去って行った。
門の外までは、使用人たちが見送ったらしい。
使用人の一人が、手の中に塩をつまみ、投げつけているのをクラウスは窓の外から目撃してしまった。
「さて、お前。何か代わりになりそうな物は手持ちであるか?」
「銀の飾りはいくつかあるけれど……このドレスにそんな地味な銀のティアラだなんて!!」
「わたくしの物は少しばかり、型が古すぎて流行おくれ過ぎるしねえ」
当主が妻に問い、ギネビアが頭を抱える。
クラウスもどうしよう、と思ったが。
「あの、わたし、あるならそれで……」
大丈夫、と言いかけた少女に、養父が言う。
「何とかできないか、今から家じゅうの宝石箱を調べるから、待っていてくれ」
「そうね、家じゅうのなら何か、そのドレスに負けない物が!」
家族が慌てて外に出ていく。
「お嬢様はとりあえず、少し何かお召し上がりになりましょう。顔色が悪いですよ」
それを見送るクラウスに、使用人たちが椅子とお茶の用意を始めた。
そんな、家じゅうの宝箱を開ける大騒ぎは、延々と続いている。
そろそろ髪の毛もきちんと結い上げなければ、パーティに間に合わないという時間になってきたため、クラウスはもう何でもいいと思い始めていた。
憧れていたものに、あこがれていた白いドレスで参加できるだけ素晴らしいのだから。
いつまでも戻ってこない家族に、言おうと立ち上がった矢先の事だったのだ。
「これをお嬢様に?」
「はい、とあるお方からのお届け物です」
「今忙しいというのに……!」
廊下の方がまた騒がしくなり、一つの贈り物が少女の元に届けられた。
「なんだろう、こんな時に」
意味が分からなくなりながらも、その箱を開けた少女とそして、それを見た使用人たち。
「当主様たちを呼んできます!」
使用人の一人が、それを見て言い、大急ぎで部屋から出て行った。
「これなら間に合いますね!」
「良かった!」
「でもいったい、どなたからなんでしょう!」
使用人たちの喜ぶ声を聞きながら、クラウスも箱の中身を信じられない、と見つめていた。
それは壮麗というほかはなかった。
小国マチェドニアは、近隣諸国よりはるかに歴史の長い国である。
歴史が長いという事は、それだけで周りよりも立場を上にする事が出来る。
そしてその格式は群を抜いているのだ。
その証拠がこの、壮麗華麗な宮殿の大広間にあると言ってよかった。
目を引くだろう黄金の飾りつけ。床は豪奢な色のついた大理石を、惜しげもなく使った作り。どこもかしこも鏡のように磨き立てられて、照明の光を反射している。
数代前に改築をした宮殿は、もともと持っていた美しさをさらに増した。
窓からは美しい星々が見え、さらには宮殿の自慢の庭も照明のお影かぼんやりと見えている。
デビュタントのパーティだというのに、そこには多くの貴族がひしめいている。
それはやはり、今回のデビュタントのパーティには、多くの妃候補が出席するためだろう。
十数人は下らない妃候補たちの中の、半数近くはまだデビュタント前だったのだ。
つまりそれだけ、ガラスの靴を履いた令嬢がいたという事でもある。
本当にそのガラスの靴は、キララのために用意された妖精の靴だったのだろうか?
そんな疑問を呈する人間は、今の所はいなかった。
デビュタントの少女たちは皆、華麗な純白の衣装を着ている。
各々、自分にあった、そして自分の魅力を引き立てるドレスを身に纏っている。
そして各自が用意するデビュタント用のティアラもまた、様々なデザインだ。
銀で作る事が一般的なそれらは、シャンデリアの明りにきらきらと輝いている。
とにかく豪華な飾り達だ。
銀という条件ならば許されるそれらは、ダイヤモンドやエメラルド、ルビーなどの宝石が所狭しとはめ込まれている。
技巧も凝らされており、細工師の工房がどれだけ必死にそれらを作ったのかがうかがえた。
これだけの物を同じ時期に注文されたら、一つくらい間に合わない物があってもおかしくないかもしれない。
そんなぎらぎらとした飾りで頭を飾り、目立とうとする少女たち。
その中でも、一際目を引く少女が一人。
デビュタントの少女たちが悔しさに歯がみし、同じデビュタントの若者たちが目を奪われる美貌の少女だ。
もしかしたら、すでにそれらを経験した男女も、彼女のあまりの眩さに目を奪われているかもしれなかった。
彼女は煌く黄金の髪を、さりげなく結い上げていた。丁寧な整え方をしたその髪は、銀製のティアラを載せると一際映えている。
肌を見せない白いドレスは、同じ色の絹糸でつややかに刺繍が施されている。
白い長手袋にそっと入っているのは、彼女の鮮やかな青色の瞳と同じ、青の刺繍だ。
長い睫毛に縁どられた瞳は大きく、彼女の可憐な花のような魅力を存分に発揮している。少し涙眼のうるんだ瞳は、照明で星のように瞬いている。
肌の色は当然、雪のように白い。染められた唇は徒花。近年の流行である、薄めの紅色で染まっていた。
彼女は色彩以上に、美の女神に事のほか寵愛されたような容姿をしていた。
並みの美少女ではない。
あの娘はどこの娘……と誰もが目を止める美少女は、父親が同伴者だった。
父親はそれなりに見られる男性だ。すらりと伸びた身長と、どこか弱そうな物腰と。
髪は娘と少し違う、褪せた金髪。瞳は灰色。肌の色はどこにでもある色味。
そして彼は貴族の誰もと同じように、胸の辺りに家の紋章を施していた。
エリカの尖った葉を抱く狼。
彼は中々領地を離れないと言われている、ギースウェンダル伯爵その人だった。
なるほど、彼の秘蔵の娘があの美少女か。
誰もがそれに納得をする。彼が大事に隠している、前妻の娘は誰もが知っているのだ。
悪い噂も少々あるが。
あれだけの美少女であれば、あの伯爵が隠しておくのも頷ける。
そう納得できるだけの美貌の少女は、一人。
はて。
そこで若干数の人間が疑問に思う。
ギースウェンダル家が出した妃候補は二人。
あと一人、使用人だという娘はどこに?
その疑問は解消されないまま、デビュタントのためのワルツの準備が始まった。
そんな中。
一番遅れて、デビュタントする少女とその家族だけが通る事を許された扉から、おそらく最後の一人が入ってきた。
誰もが、遅刻寸前の少女を笑いものにしようとそちらを見て、そして。
絶句した。
白い衣装の、花の精。
そんな言葉が頭をよぎる少女だった。
一見して周りと違い過ぎるデザインの衣装だった。
それを笑いものにできないのは、少女の世界から切り離されたような、息をのむ空気に相応しかったからでしかない。
断じてそれが、次代を超えて見事な衣装だったからではない、とデビュタントする少女たちは自分に言い聞かせていた。
凹凸を目立たないようにするシルエット。すっきりとした胴体と流れるようなドレープと、それでいて首まで覆う布地の繊細さ。
袖は緩めに作られており、その袖がかすかに透けるような生地である事ももう、流行のぴっちりと体の線を全て出す風潮と違う。
それらにちりばめられた銀色のビーズたちの輝く事。
そしてそれらが輝きながら際立たせる、その少女の理解しがたいほど見事な体の動かし方。
ドレスだけでもそうなのだ。立ち振る舞いだけでも人ではないような気がして来る少女なのだ。
その少女がさらに、人々の目を集める理由はその、被るティアラにあった。
そのティアラは、美しい垂れさがる花や、咲き誇る花、ひっそりと存在する花、などの。
あらゆる花を使用して、作られていたのだ。
台座は銀なのだろう。シャンデリアの灯りにそれらが煌き、台座の存在も知らせてくる。
そしてその煌きが、花々の色やみずみずしさ、光と影を際立たせた。
ティアラは花が主体であるのに、ドレスの品の良さや清楚さを否定しない。
翠のような髪がティアラをひときわ美しく見せ、そして少女の髪も美しく見せる。
それを頂く少女の顔は柔らかく微笑み、瞠目するほどティアラやドレスに気後れしていない。
彼女がそういう微笑みを浮かべているからか、彼女を飾るどれもこれもが、彼女を引き立たせ、彼女の清楚さや純粋さ、そして花のような華やかさと神秘性を示していた。
「あんなティアラ、花を飾っただけじゃない」
どこかの令嬢が小さく言う物の、その生花の冠に敗北している宝石の飾りのティアラに、嫌気がさす己を理解していた。
「あの家は……ドルヴォルザード公爵家……」
その少女が腕を借りている男性の胸に飾られた紋章は、鵠に百合の花。
このマチェドニアでも屈指の大家だった。
「養女をとったと聞いていたが」
「その養女もこの時期にデビューするのか」
「すごいな……」
言葉が次々に聞えてくるものの、デビュタントのワルツは止まらない。
その少女と公爵も、その音楽に合わせて踊り始めた。
ファーストワルツを踊る人間以外の誰もが、その二人に注目し続けている状態になっている。
だが二人は視線にひるみもしない。公爵は当たり前だが、少女の肝の太さも相当に違いなかった。
そして誰もが息をのむ、ファーストワルツが終わって、人々は呪縛から解き放たれたように、息を吹き返したように雑談を始めた。
ワルツを踊っていた人々も散っていく。
後は縁を作りたい相手とのダンスを踊ったりするのだ。
色々な人間が、ドルヴォルザードの二人に話しかけたく思い、しかし出来ないでいる。
挨拶位は出来るのだが、なんとなくそれ以上の会話を続けられないのだ。
彼等の雰囲気のせいかもしれない。
王族に近い、気高いものがある公爵と、花の精のような養女。
世間話が出来るならば相当だったが。
一人の少女が、そんな二人に近付いてきた。
「あ、キララ様」
その少女に気付いたクラウスは、彼女に向かって微笑んだ。
「キララ様、お久しぶりです、白いドレス、すごくお似合いですね」
邪気のない笑顔と、本心からの喜び。
それが感じ取れないわけが、ないのに。
「どうして」
キララと呼ばれた少女が、彼女を見て言う。
「どうして、あなたばっかり」
「……キララ様?」
「……なんでもありませんわ、一目見て安心しましたの。より良い所に行けたようで」
「はい」
キララの言葉の裏に隠れた、嫌味や蔑み。
皮肉などに、気付けないわけがなかった少女だったが。
笑顔で頷いた。
何を言っても、姉を悲しませてしまうと思ったから以外の、何でもなかったが。
クラウスの余裕のある対応が、余計にキララの器量の狭さをあらわにさせていた。
キララが震えていると。
一つ、開きそうになかった扉が開いた。
その扉は、王族が出入りする扉とは反対に作られたものであり、よほどの事が無ければ開かなさそうな扉だったのだが。
それが、内側から開いたのだ。
まるで誰かがやってくるように。
そして実際に、一人の男が姿を見せた。
第一に、彼は闇よりなお深い黒のマントを翻していた。まさに闇。まさに夜。
そんな絶対的な色は、もしかしたら女王の緋色に染めて白テンの毛皮をつけたマントよりも価値がありそうだった。
マントの裏打ちは目もくらむような紅に冬色の魔法陣。雪のきらめきの燐光が目を奪う。
男はそんなマントを、純白に輝く白金の飾りで留めていた。白金の飾りも荒涼とした雪景色を思わせる宝石が嵌め込まれている。しゃらしゃらと涼しげな音を立てる宝石の垂れ飾りも同じ色だ。
着ている衣装はやはり黒い。黒に銀の刺繍と、氷色の飾りと勲章。
その衣装からわかるのは、その男が間違いなくデビュタントの参加者ではないという事だ。
そうやって衣装を見た後に顔を見れば、誰もが息をのむ。
険しい顔だ。人はそう称するだろう。彼は険しげに見えてしまう表情をしていた、気難しそうなと言えば聞こえのいい、有体に言うならおっかない顔だ。
作りはいっそ柔和だというのに、その表情が彼を厳しくたくましく、一癖あるように見せている。
それでいて仰天するほど美しい。逞しさと美しさは両立するのか。野卑と優雅は同居するのか。そんな、見る人の見方によってさまざまに映る顔だ。
そしてその顔を見ればもう、眼をそらせない、その瞳のせいだ。
その顔にはまる瞳は、自ら発光しそうな紅蓮。燃え盛る炎が具現し、魂の燃え上がるさまを人々に移しているような、そんな瞳だった。瞳はわずかに笑っている。
どうしたらこんな男が出来上がるだろう。そんな、硬質な強さと寒気さえ感じさせる整い方だった。
その胸元には、雪色の燐光を纏う乙女の横顔。乙女は目隠しをしている。その紋章が示す階級はたった一つだ。
「夜の君……」
誰かが呟いた。呟き、ありえないと首を振った。夜の君。そう呼ばれてしまう、王族に最も近くもっとも遠い存在。
だが。
ありえない。夜の君は表側にはほとんど出てこない。事実、代替わりをした時も貴族社会に顔を出さなかった。
だが、いるのが現実だ。
貴族たちは静まり返った。その中を、一人彼は優雅にあるく。闊歩する。道が開くのが当然だという調子で、なにも違和感がない調子で。
そして彼は、女王の前で際立った一礼をした。思わず、それに女たちは顔を赤くする。男ですら顔が赤くなるものが多数いた。
「これはこれは陛下。ご機嫌は麗しくないようだ」
社交辞令も何のその。女王にそんな口を聞いていいのか。
誰もそんな事を思えない。彼はそこを支配していた。
女王はつまらなさそうな顔を少し、緩めた。
「お前がここに来るなど、どういう風の吹き回しじゃ?」
「近しい友の人生の晴れ舞台ですから」
楽しげに笑う夜の君。その顔が、王子とそっくりだと誰もがやや遅れて気付く。
「姿を現して、祝いを述べない理由がない」
余裕たっぷりに言い切る彼が、話は終わりと言いたげに踵を返す。
「まて」
女王がそんな彼を呼び止める。
「出不精のお主が顔を出すほどの友人を、紹介してもらえぬか」
「これは望外の喜び」
仰々しい言葉を言った彼が、背後を見やり、そして一人の少女に近付いた。
「クラウス、友としてあなたを、女王に紹介させていただけないだろうか」
近付き、跪き、あり得ないほど甘い声で言った男の前にいたのは、何とドルヴォルザードの花の精だった。
驚きすぎている周囲とは違った意味で、クラウスは驚いていた。
三男坊とか次男坊とか思っていた相手が、立派過ぎる姿と肩書で、思ってもみない登場をすれば誰だって、そうだろう。
そして、自分が友人と紹介されていいのか、と悩みそうになるものの。
「約束したじゃないか。友人として紹介してくれるのだろう?」
悪戯をする子供のような瞳で、彼が言ったあたりで腹が決まった。
「そうだね」
クラウスは頷き、彼の手を取って女王の前に立った。
一瞬の緊張のあと、一礼。
「こちらがおれの友人たる、クラウス嬢だ、女王陛下。自慢しかできない素晴らしい友人だ」
「こちらの方と友人を名乗らせていただきます。クラウスと申します、女王陛下」
二人の言葉が迷いなく紡がれ、女王はしばし黙ったのちに、笑いだした。
「なんと! なんと! これはすばらしい。すばらしすぎる。……よし気に入った、クラウス。お主、何か一つ望みを口に出してみよ。よほどの事でなければ、叶えてやろうぞ」
何が女王の心に響いたのか、分からない。
だがこれ幸い、とクラウスは顔を上げ、願い出た。
「わたしを、妃候補から除外していただけませんか」
その言葉で、誰もが彼女が実は、妃候補であったことを知った。
そして少女がそれを願わない事もここに、さらされた。
「その願いは二度目じゃのう、クラウス、二度も同じ願いを申し出るとは真の願い。よし、叶えてやろう。……おぬしを妃候補から除外することを、ここに宣言する!」
クラウスはここで、自分を縛っていた一番いやな物が無くなった事に、安堵した。
「ティアラは間に合ってよかった」
そんな一場面の後、クラウスはプロ―ポスと話していた。
自然と会話はティアラの事になり、
「誰かわからないけれど、贈ってくれた人に心から感謝したいよ」
と少女が笑えば、彼が笑う。
「なら、感謝してくれ」
「え、プロ―ポスが贈ったの?」
「細工師たちへの注文が過剰気味だと聞いていてな、少し調べたらクラウスの家の注文が放置されていることが分かったもので」
少し照れくさそうに言う彼が、続ける。
「最初は自宅にある物を贈ろうかと思ったが……なんだかな、似合わない気がして、生花で冠を作る職人を引っ張ってきて、自宅の庭の花で何か作れとごり押しさせてもらった。本当に似合っていてうれしい」
彼の笑顔と文句なしの褒め言葉に、クラウスは耳まで真っ赤になった。
「うう……ありがとう……すごく照れる……」
「さて、一つお願いを聞いていただけないか?」
「ここまで助けてくれた相手のお願いを、聞けないほどケチじゃない」
「なら」
彼がまた手を取り、彼女の指に口づけて囁く。
「セカンドワルツをこのおれと。踊っていただけませんか、お嬢様?」
「無論あなたなら文句は言わない」
クラウスの返答の前に、いつの間に彼女の背後に立っていたのか、養父が言う。
「友人だからな」
「ええ、友人ですから」
二人のやり取りになにか、意味がある気はするものの、真っ赤になったクラウスに気付く余裕はなかった。
そして。
「さあ、お嬢様」
こうして表立って近くに入れる事がうれしい、と空気で示す男が手を差し出し、少女はその手を取ってワルツの場にするりと足を踏み出した。
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