ガラスの靴は履けたけど
家具付
第一章 1 ガラスの靴は履けたけど
小国マチェドニアの都マテリア。そこを見下ろせば城と城下町をくるりと囲む、三つの郭が目に入る。
どうやら城に近い郭の内側の方が、特権階級の人間たちの住居の様だ。何といっても住居に対する金額がばかにならないのが良く分かる。段違いなのだから当然だ。
面白いように、城に近いほど道は広く立派な造りに変わって行き、郭を一つ越えるごとに城下町は雑然とした雰囲気に包まれていく。だがやはり、共通して大通り以外の道は、とても複雑な入り組んだ造りをしている。
古来より道を複雑な物にするのが、城へ容易に攻め込まれないための備えだというのは常識だった。長い間広がってきた街だからだろうか。
この、迷路のようにも思える造りの道が多いというのは。
確かにこの街の外から、城へ進軍する場合はとても骨が折れるだろう。
それほど、街は入り組んでいた。
ちなみに城に一番近い郭を、いちのくるわ。二層目をにのくるわ。もっとも外側の郭であり城壁を、さんのくるわと呼ぶのがマテリアの住人たちの認識である。
そしてどの郭を眺めてみても、この夜が明けたのかいまだ夜の差中なのか、とてもあいまいなこの時刻に、立ち忙しく働く人間は、さんのくるわの夜警の兵士位な物だったが。
いちのくるわの中だが、距離的に言えばにのくるわに接しているくらいの場所にある一つの町屋敷の裏庭にある洗い場で、一人の少女がポンプ式の井戸をひっきりなしに動かし、たらいに水をためていた。
静まり返った街の中で、少女の少し荒い息遣いと水の音だけがその場に響いている。
その屋敷でも、起きだしているのはその娘位の様だった。
彼女はこの、早朝というにも早すぎる時間に、洗濯物をしているようだ。
それも途中まで済ませたようで、今はすすぎの段階に至っているらしい。
彼女の目は、洗剤液の残りを見逃さないと言わんばかりにたらいの中に注がれている。
……複数回、見直してしまう風貌の娘だった。暗い中でもまばゆいばかりの豪華な金の髪、しかし相反するような、沼のように濁った色彩の青緑の瞳。顔の造作は可もなく不可もなく、街中ですれ違ったとしても特定はできないだろう。
これと言った特別秀でた造作の整い方をしていない、そして特徴もない娘だった。
美白の観点から見ても、宮廷の婦人から街の女性からが気にする、色白を美とする基準の中で見ても、落第点をつけられそうな白くも黒くもない肌色。だがそれ以上に問題な、がさがさに荒れた肌。
体つきはどうだろう。骨格は生まれ持って行く分華奢な物らしい。重量のある洗濯物をそれなりに持っている筋力から判断して、そこそこの筋肉はあるようだが、やはり細い。
手首など、驚くほど細く見える当たりで、肉感的な女性をほめたたえる風潮から見た美の基準からも外れている。
がりがりに痩せているわけでもないのだが。細いな、と感じさせるものがそこにあるのは致し方がないだろう。
そんな彼女は、値段の高い染料を惜しげもなく使った分、日光に当たると色落ちをしやすい、誰か……おそらく屋敷の女主人の関係者たち……の立派なドレスやオーヴァードレスを慎重にすすぎ、慣れた手つきで、干している。
そこにも彼女の丁寧な仕事が見える。型崩れをしないように、大事そうに乾しているのだ。
女主人の物だから丁寧に、というよりは、まるでとても大事な相手の物だからそうする、と言った手つきだった。
少女はそれらを干した後に問題がないか、注意深く確かめてから、自分の仕事の出来具合に満足したようだ。
薄く微笑んだのである。ほのぼのとした笑顔は、美しくはないけれども人に、好意的な感情を抱かせる悪意のなさだった。
「今日も大丈夫だった。さあ、家じゅうの鎧戸を開けてこなくちゃ、こんな時間だもの」
彼女は独り言をつぶやきながら、服の腕まくりを直し、腰に下げられている今にも壊れそうな懐中時計を開いて時刻を、確認した。
洗濯に時間がかかったのだろう。そろそろ街の人々が動き始める、四時半になりつつあった。
彼女は昨夜のうちに出ただろう洗濯ものを、早くに起きだして洗っていたらしい。
先ほどの丁寧な作業から考えれば、時間がかかるだろう。
早くに起きだすのも道理だった。
彼女はたらいをもとあった位置に戻すや否や、パタパタと忙しなく動き始め、まずは一回の鎧戸を開け放ち始める。
そして一階全ての鎧戸を開けた後、女主人や屋敷の主人たち、そして小間使いの女性たちが寝泊まりしている二階の鎧戸を開けていく。
「おはよう、お姉ちゃん!」
彼女は一つの部屋に入ると、鎧戸を開け放ちながら陽気に声をかけた。
開け放たれた窓から差し込める光の中、そこそこの寝台に寝ていた少女が目をこする。
「おはよう、クラウス……」
「また夜遅くまでお勉強してたの? すごいね、でももうそろそろ時間だもの、起きてしたくしないと、お姉様たちに呼び鈴で呼ばれてしまうよ」
少女はクラウスというらしい。
クラウスは勉強道具の散らかった部屋の机を、手早く整えると、さっそくほかの小間使いたちも起こし始める。
「マーニャさん、起きてくださいよ。サラさんも! 今から三階の鎧戸を開けに行くんですよ。支度していてくださいな」
「……はあい」
身じろぎをした二人の小間使いが寝間着で起き上がり、そして伸びをする。
それを見届けたクラウスは、彼女たちがきちんと起きた事を確認した後に、また忙しなく部屋を出て行った。
「朝から元気なのね、クラウス……」
お姉ちゃんとクラウスに呼ばれていた少女が、伸びをしてから手際よく身支度を整え始める。彼女の金の髪はクラウスに負けないほどまばゆく、そしてその両目は見る誰もが絶賛するだろう煌く緑柱石のような緑をしていた。
そして肌色も恐ろしく白く、若干の肉付きの薄さも彼女の儚く可憐な風情を強調していた。
立派な令嬢の衣装を身にまとえば、これは一体どこの花……といわれそうな姿だった。
「お嬢様、お願いです背中の紐を引っ張ってくださいな」
マーニャとクラウスに呼び掛けられた、南国風の少女が言う。
キララは彼女の背中の、前掛けの紐を結んでやり、自分もそうした。
「さあ、今日も我儘なご令嬢様たちのご機嫌取りを頑張りましょう!」
サラという、穏やかな顔でずいぶんな事を言う少女の声にマーニャが頷き、キララが言う。
「お姉様たちをそういう風に言うのはやめてほしいわ」
キララがそう言いながら身支度をして、すらりと優雅に立ち上がる。
その仕草や物腰は、高名な貴族令嬢とそん色がないように見受けられた。
そんな美少女が足早に、呼び出される前にこの家の女主人のもとに向かうのを見送っていたサラとマーニャは顔を見合わせて、こういった。
「不思議よね」
「そうね。キララ様が、前の奥様の娘なのは一目瞭然だけれども」
「クラウスが、どうしてそのキララ様を、お姉ちゃんと親し気に呼ぶのかしらね」
「きっとあれよ。クラウスはずれているから、身分なんか頓着しなくって」
「うんうん」
「小間使いになってしまった、幼馴染のお嬢様に、精一杯の敬意を示しているのよね」
「キララお嬢様何て言ったら、奥様達にぶたれてしまうものね」
言いながら、彼女たちも大急ぎで、部屋を出ながら自分の主の元へ向かう。この場合この屋敷に住む二人の令嬢の元へ向かう事だった。
その町屋式は、他の町屋敷にくらべるとずいぶんと大きく、一人でここを磨き上げるのは大変な労力だろう。手の届かない所も多いだろうに、不思議な程この屋敷は磨き上げられていて美しい。
クラウスは女主人たちの面倒を小間使いに任せると、すぐさまほかの仕事に取り掛かる。
家の女主人とその娘たちのために、食堂を掃除したのだ。掃除するや否や、夕べ選択したのだろうか、清潔な染み一つないテーブルクロスをかけて花を飾り、彼女たちの席に刺繍の美しいマットを敷く。
一連の動作に迷いはなく、それだけクラウスが何年もそう言った事を行っている事実を現していた。
埃は一つも見られない、そんな状態まで食堂を整えるや否や、クラウスは、また忙しなく今度は厨房に走っていく。
厨房では一人の熟練の女シェフがおり、火を熾しパンを焼いていた。
「おはようございます、おばあちゃん」
早朝から元気のいい挨拶に、おばあちゃんと呼ばれた老年のシェフが顔を上げる。
「ああ、おはよう、クラウスお嬢様」
「パン焼き窯の調子はどう? 薪は湿気ていなかった?」
「薪は少し湿気っていましたから、火がなかなかつかなくって……まあ、またお嬢様ったら薪を拾いに行ったのかい。それともどこかの業者から買ったのかい。どちらにしても、あまりお嬢様が下町に出てはいけないよ。誰かに頼みなさい」
「だって、小間使いの皆さんにお使いを頼む余裕なんてないし、このお屋敷で一番動けるのは、わたしだけなんだもの」
言いながらクラウスも、朝食の支度を手伝い始める。幸いな事に朝食の基本はパンとカフェオレに卵料理にサラダという、贅沢ながらも品数の少ない物なので、楽だ。火を熾し、南の国から船に乗ってやってくるというコーヒー豆を専用の機械で人数分挽く。
コーヒー豆は高級品だ。それを毎朝飲むなんてもっと贅沢で、クラウスなどは一度も口にした事が無い。
それもまた当たり前の事だと認識して、彼女は後はドリップするだけというところまで支度をして、銀のワゴンにそれらを乗せて、パンが焼きあがったのを確認しそれもバスケットに移すと。
厨房に吊り下げられた伝声管から、鋭い声が響いた。
「クラウス、朝食の用意はできていて?」
威厳に満ちた女性の声は、聴く人間の背筋が伸びる物だろう。事実少女の背中は伸び、すぐさま答える。
「ただいまお持ちします、お母様」
「呼ばれる前に用意を整えておくものですよ」
「はい!」
クラウスは言いながら、すぐさま身をひるがえし、ワゴンの中身をこぼさない程度に急ぎ、同じ階にある食堂に向かった。
そこではこの家の女主人、ギースウェンダル辺境伯婦人と、その二人の娘が座って待っていた。小間使いたちは、クラウスと入れ替わりに出て行く。
おそらく大急ぎで朝食をとりに行くのだ。その時間を稼がなければ、とクラウスは目算する。
「遅いわ、クラウス」
一人、眼のぱっちりとした美女が言う。
「ごめんなさい。義姉さま」
「窯の調子でも悪かったのかしら」
「集めた薪が湿っていて……ごめんなさい」
「いいのよ、あなただから」
穏やかな声で問いかけたのは、唇がひどく魅惑的な美女である。
彼女たちが言いながらも、真実クラウスを責めていない調子である事を確認し、クラウスはパンを切り分けて、すぐさま人数分のコーヒーを、ワゴンに乗せていた道具で淹れ始める。
丁寧な淹れ方で淹れるコーヒーはいつも好評で、もはや目分量でも彼女らの好みのカフェオレを作る事の出来るクラウスは、それらを丁寧に三人の前に運ぶ。
そして、いつでも用件が聞けるように脇に控えた。
女主人たちがちらりと彼女を見やる。
「クラウス」
「はい」
「お前も席に座ってお食べなさい。お前の食べる時間が無くなります」
「いつもありがとうございます、お義母さま」
女主人の言葉を聞いてすぐさま、クラウスは彼女らから少し離れた席に座り、パンと余ったカフェオレをボウルに移し、大急ぎで食べ始める。
「みっともない。もっと丁寧に食べなさい」
「クラウス、わたくしはもうお腹がいっぱいだわ。卵を食べてちょうだい」
「わたくしも、サラダまで入りませんの。お食べなさい」
もりもりと食べているクラウスに、次々と差し出される、食べかけの料理たち。
使用人は、主人たちの食べかけの物を食べる事に何ら抵抗がないのが、常識である。
そのためクラウスは、食べかけの物だろうが何だろうが、美味しくてお腹いっぱいになるなら遠慮はない。
女主人たちは、この後お茶をしたり、優雅に本日の予定の確認をするのだが、クラウスにそんな余裕はないのだ。
食べ終わると、クラウスは手早く食器を下げて、懐中時計を見やる。
もう、小間使いの誰もがゆっくりと食事を食べ終わっている時間だ。
呼んでも問題がないだろう。
彼女は呼び鈴を鳴らし、小間使いたちを呼び出してから、彼女たちと入れ替わりにワゴンとともに食堂を出た。
そして食器類を洗い、銀の食器を磨き上げて棚にしまう。棚の鍵は名誉な事にクラウスが所持しており、逆を言えば盗まれたらすべて彼女の責任である。
だがそんな恐ろしい状況になった事はないので、クラウスは腰からいくつもの鍵をぶら下げ、家じゅうをまた走り回る。
彼女は二階の掃除をするために階段を上がり、そして一つの肖像画の前に立つ。
「おはようございます、お母様。今日はいいお天気ですよ」
その肖像画の中では、一人のとても美しい、金髪緑目の女性が微笑んでいる。
彼女はどう見てもキララにそっくりで、クラウスとは血のつながりを感じさせない。
だがこの肖像画の中の女性こそ、クラウスの母親なのだ。
クラウス・クァルト・ギースウェンダル
それが、召使の中でも最も忙しく、そして汚れる仕事を行っている少女の名前だった。
クラウス・クァルト・ギースウェンダル。その名前から察する事ができる身分があった。
それはミドルネームのクァルト。そしてギースウェンダルという姓からだ。
クァルトは、一般的に四番目という意味を持つ。
そしてギースウェンダルというのは、この屋敷、ギースウェンダルそのものの綴りだ。
そこから彼女が、四番目のクラウスという名前だと推測が付く。
さらに、姓まで並べてしまえば一目瞭然、彼女はギースウェンダル家の四番目のクラウス、という身分だと分かってしまうのだ。
恐ろしい位に、この国では名前で身分から兄弟の序列からが分かってしまう。
特に、姓を持つ貴族という身分であればなおの事だ。
だがしかし。この、女主人たちが朝の散歩として、屋敷の小さいながら立派な庭園を散策している間に、彼女たちの寝室を磨き上げている娘が、何ゆえにそう言う事をするに至ったのかはわからないだろう。
クラウスは、女主人たちが外に出ている間に、大急ぎでシーツなどを回収して、小走りになっている洗濯女中に声をかけた。
「おはようございます、それで寝具などは最後?」
「おはようクラウス。そうよ、最後なの! ああ、この家のお嬢様たちが妙齢でよかった! 前に働いていた屋敷では、やんちゃ坊主たちばっかりでそれはもう、寝具が泥まみれだったもの!」
声をかけた洗濯女中はそう言いながら、歩き去って行く。クラウスは自分も急ぎながら、まずは女主人の部屋に入った。
そこは上品に落ち着いておりながら、贅沢な部屋だ。おそらく新米の使用人では、ここの置物や飾り物の手入れの仕方などわからないだろう。
間違いなく何かしらを壊し、首になってしまう事請け合いだ。
それでもクラウスは、そんなへまはしない。いつでも手早く、そして丁寧に部屋を磨き上げてゆく。窓を開け放ち空気を入れ替え、見事なまでの手際の良さを発揮する。塵一つ落ちていない、窓には埃一つついていない。
そんな完璧な状態の部屋まで整えたクラウスは、片手に桶を、片手に掃除道具を持ち、忙しなく立ち上がる。
彼女の掃除をする場所はここだけではないのだから。
階段を三階まで上がり、今度は二人の令嬢の部屋に入る。
ここは女主人の部屋よりも散らかっているが、仕方がない。
おしゃれに余念のないうら若い女性たちと、ファッションセンスに長けた小間使いが今日のドレスを選びながら散らかしたのだろう。
それらを片付ける事から始めて、クラウスはここの部屋も整えていく。指紋一つ逃さないような徹底の仕方の癖に、速度は段違いで速いのだから、彼女の熟練度具合がうかがえた。これは一年二年で手に入る技量ではないだろう。
おおよそ五年以上は経験を積まなければならないに違いなかった。
少し化粧品の液体が散ってしまっている鏡台も磨き上げ、クラウスは自分の仕事に満足するや否や、古びた懐中時計を取り出し時刻を確認し、また部屋を出ると廊下を掃除し始める。女主人や二人の令嬢が行き交う廊下は、廊下の中でも一番最初に掃除する場所であり、クラウスは埃を集めてブラシで磨き、明り取りの窓を掃除する。彼女が二階三階の主だった場所を掃除し終えると、ちょうどよく女主人とその二人の令嬢が散歩から戻ってきた。
「ああ、クラウス、ちょうどよかったわ」
女主人が微笑み、彼女に要件を言いつける。
「いつも通り今日は、一階のホールを掃除しなさい。それから衣替えをするので、それらを昼食までに終わらせて、わたくしの部屋に来なさい。その後はカリーヌとセレディアの部屋に行きなさい」
「はい!」
クラウスは朗らかに返事をし、一度頭を下げて仕事に戻っていく。豪華な見た目のホールは掃除が大変な場所の一つであり、掃除に慣れた少女でも時間がかかってしまう場所だった。
その背中を見送り、女主人は隣に控えている小間使い、キララを見やる。
「キララ。わたくしは少し汗をかいてしまったので、入浴します。浴室の準備をしなさい」
キララは入浴のために、二階へ何度もお湯を運ばなければならない手間と労力を考えて、幾分引きつったようだ。
しかし頭を下げて、その命令を受け取った。
「かしこまりました」
「よっくらせ」
クラウスは何回目かわからない、汚れた水を捨てて新しい水を桶にくむ。
大きなホールを磨き上げた彼女はしかしひがむでも文句を言うでもなく、立ち上がった。
「これでおしまい!」
その声は実に前向きで、仕事を当然の事としてこなす姿勢が見受けられた。
彼女はどんな仕事でも、当たり前だと笑って頷く、そんな雰囲気が漂っていた。
彼女は時計を再び確認し、昼食の手伝いに回る時間が迫っていると気付いて目を見張る。
「うわっ、時間かけ過ぎた!」
言いながらも立ち止まらず、ばたばたとホールの残りの部分を掃除し始めるのだから、彼女は時間が有限だとしっかり理解しているようだ。
それ程時間が足りなくとも、彼女は最後の最後まで手を抜かずに掃除を行い、昼食の用意を手伝いに行くべく、一度使用人のホールに入り、洗われた前掛けをつけ直した。
汚れた手もきちんと洗い、それから食堂に再び入る。
ここもまた整え、食器の銀色に曇りが存在しないかを入念に確認して配膳する。
そうして今度は、料理を並べるべく厨房まで向かって行く。彼女はいつどの時間に、何をすればいいのかがはっきりとわかっているのだ。
そこまでたどり着くのは古参になるまでの時間が必要で、それだけ彼女がこういった仕事をしていた事を現していた。
出来上がった昼食は、朝と比べてもあまり大差のない物だが、食後のデザートがついているあたりが違うだろうか。パンとスープに、肉料理と野菜、それから食後の紅茶の支度まで完全だと確認し、クラウスはそれらをワゴンに乗せて運ぶ。
美しく並べられた皿に揺れがないように、しかし料理が冷めないように、細心の注意を払った彼女の努力は報われ、今度は呼び出される事なく、ちょうど席に座った女性たちにそれらを並べていく。
そこで再び、小間使いたちが自分の食事をとるために出て行き、配膳や紅茶を注ぐ役割はクラウスに回ってくる。
そして昼食でもまたいわれるのだ。
「あなたも席に座って食べなさい」
働きづめの少女もかなりの空腹であるが、そう言われない限り同じ席に座らない分別があるあたりに、娘のきちんとした教育が感じられた。
それと同時に、このクラウスという娘が、不思議な立ち位置だという事もだ。
貴族の常識として、同じテーブルで食事をするのは同等の身分お呼び客人、家族という物が存在する。クラウスは間違いなく使用人の仕事を行っておりながら、同じテーブルに着席する事を許される。
彼女は使用人でありながら使用人ではなく、このギースウェンダル家の家族であって家族ではないとでもいうのだろうか。
しかし、同じテーブルに座る事を許されているという、その事実は大きく、彼女が女主人やその令嬢たちに家族と認識されている事を示していた。
それは、小間使いとして女主人に付き添っている同腹の姉たるキララよりも、尊重されているという事を現すのだ。
実に奇妙な話である。
この屋敷にある当主の妻の肖像画の中の、金髪の美女はキララと瓜二つだ。
だが現在のこの屋敷の女主人は、その肖像画の女性とは全く異なる風貌であり、彼女が後妻だという事は明白である。
そして、その女性とよく似た面差しの美女二人が、彼女の実の娘だという事も、キララもクラウスも彼女の娘ではない事も。
同じ前妻の娘を自分の娘だと認識しているならば、クラウスもキララも同じテーブルにつかなければおかしい。たとえキララが小間使いであろうとも。
古来より小間使いはただの使用人とは決定的に違う立ち位置だ。彼女たちは幾分格の低い良家の子女たちの場合が多く、継子を小間使いにするのはまったくない話ではない。
それも女主人の出自が、その継子の母親よりも格がはるかに上となれば、珍しくもない話であり汚点でも何でもない。
行儀見習いの側面を持ち、様々な場面に付き添う事も可能な、小間使いという立ち位置は貴族社会に間接的に触れる事も多い。
また高雅な趣味を持つ女主人たちであれば、その素晴らしい側面に触れ、自身を磨く事も可能である。それを自分の今後に生かす事もだ。
ましてや、令嬢の小間使いではなく女主人の小間使いと来れば、その格は令嬢に付く小間使いなど比べ物にならない。それだけ信頼され、立場も上の存在なのだ。
そう言った文化や歴史、暗黙の了解があるからこそ、クラウスという下働きの娘が同じテーブルに着くのに、女主人の小間使いたるキララが同じテーブルに着けないのは奇妙なのだ。
そこに、女主人の線引きがよく表れていると言ってもいいだろう。
美しく賢い、努力家の継子はあくまでも小間使い。
平凡であり、明るくのんきで、物事の裏を考えない単純な継子は家族。
彼女らの中では、クラウスを家族だと思っていても、キララを家族だとは考えていないのかもしれなかった。
たしかに、何の打算もなしに、お母様、お姉様と慕うクラウスは馬鹿なほどかわいい典型のように思える。
だが裏まで読み、打算や利益を考えて動くキララは扱いにくく、情がわかないのかもしれない。
人間のごく普通の心理が働いた結果なのかもしれなかった。
ここで、かわいく思えるクラウスが下働きの仕事をしている理由は何故か。
格上の小間使いではないのは何ゆえか。
それは無論、彼女の顔面がかかわっている。小間使いの条件として、美醜がかかわってくるのだ。醜い小間使いはそれだけで、他の家から馬鹿にされる要因になる。
小間使いはえり抜きの部分があるため、美しい小間使いも雇えないというだけで、他の貴族から失笑されてしまうのだ。
それは貴族の中でも、とりわけ上位の公爵家に生まれたこの女主人にとって、致命的な失敗になってしまう。許されざる失敗だ。
「あなたはもっときちんとした格好をして、教育を受けてもいいのに」
今日も義姉たちの食事のおこぼれにもありついていた娘に、かけられた声には幾分憐憫が含まれている。
そこには、彼女たちとてこの娘を積極的に、下働きにしたくないという姿勢がうかがえた。
もしかしたら、この娘が同じテーブルについて食事をとれるのは、それも一因なのやもしれない。
しかしクラウスは顔を上げ、にこにことほほ笑んだ。
「お父様がこの屋敷にいた頃からやっていた事だもの。お父様はわたしを見るたびに、家を立派にしておけって、いつもそればかり言ってたよ? 死んだ母様に全然似ていない、きれいでも可愛くもないわたしだもの。頭もあんまりよくないし、わたしよりもお姉ちゃんを優先してよ」
お父様がいた頃からやっていた。
この継母が、義姉たちが、クラウスを下働き同然で働かせてしまう理由の、決定的な物はそれに違いなかった。当主の命令を覆す事はとても難しい。
娘の裁量権というものは、基本的に父親が有している。
その父親が、クラウスを下働きとして扱う以上、この誰もが抗えないのだ。
クラウスの、あっけらかんとした事実を言う声は止まらない。
「お父様は、義姉様たちとお姉ちゃんは娘として見ているけれど、わたしはそうじゃないもの。お母さまもお義姉様たちも、わたしがちゃんと名前を言うのを禁じられているの知ってるでしょう?」
三人とも苦い顔になる。そうだ。それも事実だったのだ。
末娘は、己の身分や姉妹の中での立ち位置を示すそのミドルネームも、ファミリーネームも名乗る事を許されていないのである。
「だからわたしは、こうしてお母様とお義姉様たちが、一緒のテーブルで食事をしてくれるので、十分なの」
父親に家族として認めてもらえずとも、義理の家族にそうみてもらうだけで十分だと笑う。
「あなたは底抜けに馬鹿だわ、クラウス」
継母の言葉に、彼女は頷いて同意する。
だが考えを改めるつもりは、ないようだった。
そんな義母たちが小間使いを従えて朝の散歩に行っている間に、クラウスは食器類を片付けて洗う。洗う時間は長く、それの理由は当然のものだった。
上流階級の食器は磨き上げられていなければならないのだ。曇りなどあってはならないし、茶渋なんてものがついていたらそれだけで、鞭うたれてしまうほどの問題だ。
たとえ女主人たちがそんな事を、しなくても常識である。
彼女は何よりもそれを理解していたし、事実彼女以外が食器を洗って、銀の食器が曇ってさらに酸化して真っ黒に変わり、そして白い事が上等の証である茶器に茶渋がついていたために、容赦なく当主に鞭うたれている現場に遭遇した事もある。
鞭うたれた召使の女性はどうしたかと言えば、その翌日に出奔した。
紹介状すら書かれる事なく、身勝手にやめたのでその後の仕事はお先真っ暗だっただろう。
見た目は申し分ない女性で、父が面接して雇い入れた女性だったのだが。
その女性がその後どうしたのかは、クラウスも知らない。
食器を美しく磨いておくように、と言われていたのにそれを守れなかった時点で仕事をさぼったも同じ事で、あの当時はまだたくさんの使用人がいたのだから、時間がなくてできなかったという言い訳はできるわけもない物だった。
どこの家でも、あまりにひどい場合には鞭で打たれるのが常識だというのに、あの女性はそんな事もわからなかったのだろうか。
クラウスはそんな昔を思い出しながら、一点の曇りなどないように銀の食器類を磨き上げて、つやつやになるまで確認し、それをしっかりと棚にしまって鍵をかけた。
この鍵はクラウスの誇りだった。この屋敷でとても大事にされている、値打ち物の食器の管理を任されている、という誇りと、継母の信頼。
それらを裏切る事は、彼女にはとてもやれない事なので、クラウスは絶対に肌身離さずこの鍵を持っていた。
それからほかの召使の女性たちが新たに掃除をし直しただろう、食堂を確認する。
確認は慣れたものだったのだが、食堂はいまいち綺麗ではない。
父が直々に雇い入れた使用人たちは、見た目は申し分ないのに実力はお粗末な部分があるのだ。
だが彼女はそれらのフォローに回る。
家をきちんとしておけ、と父が命じたのだから、己は家が整っている状態にしなくてはならないと決めているのだ。
そういう思いも相まって、彼女は食堂もきちんと整えて、さらに様々な場所を整え、さて家のあちこちに季節の花を飾ろうと決める。
今日は義姉の一人、カリーヌの友人たちが集まるお茶会が開かれるのだ。
しかし季節の花と限定されても、これは家の女主人の見事なセンスがものを言う部分であるがゆえに、彼女は勝手に花を飾ったりはしない。
そしてそろそろ、義母たちが散歩から戻ってくる頃あいだ。
クラウスはととと、と軽い足取りで、庭から屋内へ戻ってきた女性たちに近付き、一礼をしてこう問いかけた。
「奥様、今日はいかがいたしましょう?」
その言葉遣いを聞いた義母の目の中に、浮かばないように気を付けていてもわずかに現れる、痛々しい物を見る色。
それをクラウスは見ない事にしている。どうしてそういう目をされてしまうのか、理解の外側であるからだ。
彼女は彼女の義務をきちんと行っているまでの事であり、父が人前で彼女を母と呼ぶなと命じたのだからそれを、忠実に守っているだけなのだ。
にこにこと今日の仕事の命令を待っている彼女に、義母は言う。
「今日はカリーヌの友人たちがお茶会に来ます。今の季節の花を飾りますので、庭師に見ごろの花を確認してきなさい、それらをあとでわたくしの所まで知らせに来なさい。そこで今日のお茶会に飾る花を選びます。それとお茶会用の軽食の支度の段取りをもう一度確認して、ほかの者たちに通達なさい。おそらくお前ではない者たちが、お茶会の席に様々ものを運び入れますからね」
「はい」
姿勢を正し、クラウスはまた一礼をする。
「それが終わったら、衣替えのために手伝いに来なさい。装身具類の微調整もあります。場合によっては商人を呼びますので、そのために出かける支度がすぐできるようにもしておきなさい」
「はい」
「掃除はいつも通りに執り行う事。お茶会に使う温室のガラスが曇っていない事を夕べも確かめたと思いますが、もう一度確認しておきなさい。……あなたがもっとも美しい状態にしておけますからね」
「はい」
クラウスは褒められたという顔をして、顔を輝かせる。
義母にそう言われるとやはり、自分がきちんと家を綺麗にしていると実感できるのだ。
ただしそれを見て、ほかの召使たちがほっと胸をなでおろしているのまでは、背後に目を持たない少女にはわからない事の一つだった。
しかし継母は気が付いているようだ。すうと視線を細めて、そこに隠れていた使用人を呼びつける。
「そこのあなた」
「は、はい!」
一人が見つかってしまった以上、しぶしぶ……表面上はすぐさま近付いてくる。
「何ですかお前の仕事は」
「はい……?」
「お前の仕事を拝見しましたよ。なんなんですか。あの床の掃除の具合は。床は鏡のように艶やかでなくてはならないのですよ。昨日お前に直接任せた仕事だったと思ったのだけれども。お前が庭で、何処かの使用人とおしゃべりにかまけていたのは知っていますのよ。……仕事を怠けて碌な事をしないのであれば。こちらにも考えがありますよ。床の磨き方も知らないのですか」
「き……」
きちんと行いました、と彼女は言おうとしたのだろう。
しかし女主人の曇りのない、そして仕事に関しては油断も手加減もしないその目がぎろりと彼女を見据える。
元公爵令嬢の視線はそれだけで、召使程度ならば硬直させられるのだ。
そして。
「お前、仕事もきちんとしないで、わたくしに口答えなんてするつもりかしら? ……身の程を知りなさい」
女主人の言葉は矢のように鋭いが、それはこの召使にとってとても大事な忠告でもあった。
それを忠告として受け入れられればの話、だが。
この屋敷の女主人はまだ優しいので、この程度の言葉で済んでいる。
だがもっと厳しく、またヒステリックな女主人であれば言い訳など許さず、何より反抗する視線だけで鞭うたれているのだ。
名門の公爵家令嬢であった女主人は、むやみやたらに弱者に暴力などは振るわない。
そういう育ちの良さが見えている発言も、分かっていない召使にはいたぶるように聞こえただろう。
事実召使は視線に凍り付いたのち、女主人の言葉の鋭さに涙を浮かべて頭を下げ、裏返った声を発する。
「す、直ぐやり直します!」
そして慌ただしく、逃げ出すように走りだすので、女主人がまた口を開く。
「そんなみっともない走り方で屋敷を走ってはなりません。お前には品という物がないのですか」
「クラウスの走り方はいいのですか、お母様」
「クラウスはあんなに逃げ出すような走り方はしません。お前たちも、走るならばクラウスのように美しく走りなさい。あの子は人前以外では知りませんが、人前ではそれはもう整った走り方をしますからね」
「はい、お母様」
「奥様、仕事はほかにはございませんか?」
女主たちの会話が終わってから、クラウスは行儀よく問いかける。
上の身分の人々が喋っている間に口を開くなど、みっともない使用人のレッテルを張られてしまうのだから当然、である。
この娘はそういう物が分かっていて、そしてなにより自分の立場を理解していた。
理解すると同時に、どこまでを自分で行い、義母にお伺いを立てて彼女の顔を立てるかを常に考えていた。
貴族の婦人は、全ての家事を使用人に任せきりと思う人間も多いだろう。
だが女主人ともなれば、家を切り回し、支配し、家を預かる身の上として取り仕切るものなのだ。
使用人に好き勝手させるのは、女主人としては落第点なのである。
屋敷の最大権力者は、もしかしたら奥方かもしれないという話もあるほど、彼女たちは実権を持たなければならない存在であり、舐められてはいけないのだ。
しかしこの屋敷では、当主がクラウスに家を管理しておけと命令を下している。
それは自分の妻を相当馬鹿にしたと言ってもいい言葉であり、妻の仕事を放棄させる事でもある。
クラウスが言われた通りに、屋敷を管理すればそれは、女主人の権威を失墜させる事に他ならない。
公爵家令嬢であった、厳しい教育を受けてきた義母にそのレッテルを張れば、それは実家の公爵家の教育すら馬鹿にする事になる。
辺境伯家であるギースウェンダル家だが、公爵家を敵に回したらすぐさま落ちぶれるだろう事は明白で、そんな事を望んでいないクラウスは頭を働かせ、父の言う事も義母の権威も守るという方向で生きている。
家をきちんとしておけ、というのだから家じゅうを磨き上げ、客人の誰もが文句を言わない物にしておく。
そして毎日、義母に習慣ではない仕事を確認して執り行う。
その二つをきっちり守っているがゆえに、彼女は誰にも文句のいわれない家を保つ事に成功していたのだった。
そしてその方針を義母も義姉もわかっていて、クラウスの気遣いにいたわりの言葉をかける事もしばしばあったわけだ。
「ああ、クラウス、急いで、でもきちんと行いなさい。カリーヌのお友達たちの中には花にとても詳しい方もいるそうだから、花言葉などにも気を使ってちょうだい」
「本を片手に調べてみます」
クラウスは頷いて、すぐさま言われた仕事に取り掛かるべく、あまりにもなめらかな、急いでいる事も感じさせない動作で走って行った。
「あれを軽やかな身のこなし、というのですよ」
クラウスのそれを示しながら、義母が娘たちに説明をしていた。
「あればかりは訓練ですからね。……キララ、お前はわたくしとともに、衣装替えのための準備をしますよ」
「はい、お義母様」
キララは目を伏せ、目を合わせる事も出来ない調子で頷いてから、義母の後に続いた。
その背中とは反対の方角に歩き出した、二人の義姉たちが口々に言う。
「キララは何を考えているのかわからないわ」
「眼を合わせる事も出来ないって問題だわ。あの子、社交界に出られないわよ」
「その前に、あの子の十五の誕生日は何時かしらね」
「そこからなの、セレディア」
「そこからだわ、カリーヌ。お母様がちっとも、娘のデビュタントパーティの手配をしないから」
「仕方がないわ」
二人の義姉たちの言葉を聞いていた、二人の小間使いは後ろで目を合わせた。
どちらも、キララというこの家の直系の娘がないがしろにされているという風に見えるこの状況を許せなかったのであった。
裕福な商家から、この屋敷に小間使いとしてあがったこの二人は、奥様付きの小間使いがとても名誉で、行儀見習いとしては申し分なく、場合によっては令嬢教育としても大変いい物だと知らないのだ。
同じ小間使いという職種だと思っているが故の、勘違いである。
そう、小間使いという物を単なる職種だと思ってしまっている、成金の商家の娘にありがちな勘違いだった。
しかし彼女たちを雇い入れたのはこの家の当主であり、二人の義姉たちは彼女たちがそういう認識をしているとは、まさか思ってもみなかった。
実の父親が他界してしばらく、公爵家に戻っていた彼女たちの認識とここまで食い違いが起きているとは、やはり誰も思ってないのだろう。
身分による認識の食い違いだ。
面倒な物である。
そして二人の義姉たちは、この小間使いたちが知らない事実を知っていた。
母が、デビュタントパーティの支度を行えないのは、父がどんなドレスを手配しようとしても、うんと言わないせいだと。
そして、同じ娘であるクラウスのデビュタントに至っては、放置なのか何なのか、まるで成人する事も許さない姿勢のせいで、母も思うところができてしまっているせいだと。
「さあ、カリーヌのお友達の皆様と、ドレスが似たものにならないようにしなくってはね」
「そうね、セレディア。サラ、マーニャ、見立てるのを手伝ってちょうだい」
義姉たちの会話に、表面上は笑顔で小間使いたちは頷く。
ここで趣味の悪いドレスにすれば、こちらの仕事の不手際とされてしまうので、嫌がらせとしてそのようなドレスを着せられない事を呪いながら。
「はい、かしこまりました」
「うんと素敵にさせていただきます」
そして、仕事をきちんと行うのならば、そこまでヒステリックな状態にならなくていいという認識の二人の義姉たちは、ほほ笑む。
それが上流の中でも、ほんの一握りの上流の階級の令嬢が見せる、度量の広さだと無意識に理解しているのだから。
その日のお茶会の結果をクラウスは知らないのだが、夜に義母に呼び出されたために、きっとどこかで失敗をしてしまって、お叱りが来るのだろうな、と半ば覚悟していた。
図書室から花言葉も書かれている、そんな分厚い図鑑を片手に花を選び、義母の指示の通りに花を飾ったのだけれども、虫がいたのかもしれない。
お茶会の手順とそれから、お茶菓子の補充と、お茶の補充と、それからそれからは、おそらくお茶会で給仕をするだろう何人かの、とても見た目のよろしい人たちに確認を何度もさせたけれども、やっぱり何かがあったのかもしれない。
用意した銀の食器に、黒ずみがあったのかもしれない……
とにかく、もしもの事は数え上げればきりがなく、クラウスはそれらの責任を一身に背負っているのだ。
この屋敷で指示をするのは義母であり、それを切り回し配分し、ほかのメイドたちや使用人たちを動かすのはクラウスなのだから。
銀の食器を片付ける戸棚の鍵を持ち、様々な使用人用の部屋の鍵を持つ、というのはそういう事であり、雇われているメイドたちも使用人たちも、変な顔はしている。
こんな子供がその特権を持っているというのが、相当におかしな事であり常識ではないと知っているが故だ。
しかし、使用人たちはクラウスが自分たちよりもこの屋敷にいて長いという事実、そして入れ替わりのやや激しい屋敷にいつまでも残っている現実、そして彼女の手際の良さを実感する。
そこで彼らは、この娘が家政婦の秘蔵っ子だったに違いない、という間違った判断をしており、若干ねたんでいる部分もあった。
しかしクラウスはそれらを気にしてはいられない。彼女の仕事は忙しく、そして彼女の意外と小さな双肩にかかる責任はそこんじょそこらの使用人の比ではないのだ。
そんな彼女が、鞭うたれるのは嫌だな、お母様はそういう効率の悪い事は滅多にしないけれど、と思いながら部屋の扉をたたくと。
「誰かしら」
と当たり前の声がかけられたので、こう返す。
「クラウスです」
「ああ、入りなさい」
言われた彼女は丁寧な動作で部屋に入り、女主人が書き物をしている机の前に立った。
「お呼びでしょうか」
「ええ。あなたを褒めてあげなければならない、と思っていてね」
「褒める……の?」
「あなたが何度も手順を確認してくれたおかげで、うちのあまり練度のよろしくない使用人たちでも、つつがなくお茶会を進める事が出来ました。それにあなたが花言葉まで確認したおかげで、公爵家令嬢のお方が、非常に花言葉の取り合わせを喜んでくださって。今度あの子をお茶会に招待してくれるとの事だわ。とても名誉な事に」
確かに、辺境伯の家の娘が公爵家のお茶会に招待されるというのは、大変な名誉だ。
「あなたがあらゆる事を成功させてくれたのだから、何かご褒美をあげなくてはいけないと思って。あなたは何がいいかしら。ドレスかしら、それとも新しい靴かしら。最近あなたの頭覆いが薄汚れてきたから、その代えかしら。もっと単純に、甘いご馳走を食べるためのお駄賃かしら」
言われた事が徐々に身に染みてきた娘は、ぱっと顔を輝かせた。
「お姉様が、公爵家のお茶会に? お姉様が頑張ったのですね」
「まあ、あの子が頑張ったのもあるわ。でもあなたが頑張った事もあるのよ」
「わあい!」
言葉の後半を聞く事もなく、クラウスはお姉様の名誉に喜ぶ。このあたりが少女の単純でお人好しな性格を表しているようだ。
「あなたはこの屋敷の、縁の下の力持ちなのね。……何がいいかしら。あの人があなたに何かをあげると。それだけで不機嫌になってしまうからなかなか渡せなくて」
女主人の言葉に、少女は目を瞬かせて考える。
「お砂糖の塊を買うお金! あとお菓子を作るための最新式の泡だて器と、おばあちゃんが新しい木べらが欲しいって言っていたからそれを見繕う時間!」
砂糖は巨大な六柱の形で販売されているのが、常識だ。
そして最新式の泡だて器は、一風変わった針金が組み合わせられたもので、これが意外と高価なのだ。
それが欲しいと語る娘に、継母は微笑んだ。
「では、そうですね……明後日に、お前に休みを与えましょう。お駄賃もあげるわ。気に入ったものを選び抜いて買ってきなさい」
「ありがとうございます」
少女が邪気もなく笑えば、継母は頷く。
「そうだ、明日は宝石商を呼びます。時間にならなかったらいつも通りに、呼びに行ってちょうだい、あなたが呼びに行くとあの宝石商は、とても機嫌がよくなるから」
「はい、わかりました」
笑った彼女が退室したのを見届けて、継母は溜息を吐いた。
「キララがあれくらい素直ならば、まだいろいろ教え甲斐があるというのに」
それは彼女にとって事実だった。
彼女は思い出す。今日の昼の出来事を。
お茶会の前に、二人の娘の礼儀作法のおさらいをしていた時だ。
キララはもの言いたげなまなざしを向けており、継母はすぐにそれに気が付いた。
「どうしたのです、キララ」
「……お母様、礼儀作法の教本と、教えていらっしゃる作法はずいぶんと違いますわ」
「これは古い礼儀作法なのですよ。あなたの持っているだろう教本は新しすぎて、あまり役にはたたないものなのですよ」
それを聞いたキララは顔を赤くした。恥じらう、というよりも反抗していると言った方が正しい表情で。
キララのもつその教本は、成金の貴族のための教本であり、古い歴史を持つ公爵家が誇る、間違いのない礼儀作法とは大違いなのだと、義母は教えたつもりだった。
しかしキララは、継母に逆らうつもりなのかそれとも、教本の方が正しいと思い込んでいるのか、なんとも言い難い表情をとるばかりだった。
そして明後日当日。少女は砂糖を扱う店にいた。
どうやらたった今、購入したばかりらしい。
「よいくらせ、っと」
クラウスはそんな言葉を発しながら、ひょいと砂糖の塊を背負った。塊は下手をしたら骨付きの生ハムと同じだけの大きさがあり、ずしりと重量が背中にのしかかる。
普通はこんなもの、男の使用人が買い求める物だ。
だが以前それを任せていた使用人が、砂糖を一部砕いて懐に入れ、おまけに質の悪い物を買ってきた。
クラウスはそれを料理人のおばあさまから聞かされて、屋敷のお金で買い求めた砂糖なのに、と彼に問いただした事がある。
だが使用人は悪びれもしないで何がいけないのだ、という態度をとった。とんだ泥棒である。
見た目が上等の男だったために、これも父が採用した男だったが中身はとんだ野郎だったわけだ。
その男は泥棒癖がある、と以前彼が働いていた屋敷に勤める使用人から聞かされた少女はこの事を継母に報告し、男は解雇された。
その後の事は知らない。盗みを働いた男の行く末などわかり切った物だったが。
そして、ほかの男の使用人はいないのか、というと実に微妙な物だ。
というのも、ギースウェンダル家はうら若き美少女が三人も暮らしている。そして当主は滅多に帰ってこないがゆえに、女主人が家を切り盛りしている。
そんな家に力のある若い男がいる……と世間は何か邪推しやすいのだ。
そして何より、使用人の大半も美しい顔をした若い女ばかり、となれば。
男をあえて雇ったりはしない物だ。当然の流れとしてそうである。
屋敷内でただれた恋愛が起きるのを、上流階級はことさら嫌う物なので結果的に、ギースウェンダル家の男の使用人はもはや老年の庭師位だ。
そんな場所なので、力仕事や重い荷物を背負うのは力と体力のある娘となった。
美しさで雇われた使用人たちは、力仕事を嫌う。
美しさが失われる行為が嫌なのだ。
そうすると自然と、重い荷物を運んだり、泥にまみれる仕事は美しくない娘に流れていく。
クラウスは家の鍵を持つ相当な特権もちの少女だが、そういう仕事も嫌わずに行っているため、砂糖を買いに行くという仕事は彼女の仕事に変わったのだ。
彼女は片方の肩に砂糖の塊を入れた袋を担ぎながら、後買わなければいけない物、買っておきたいものはなかっただろうか、と頭の中を探る。
ない、と結論が出た。キララのための、小間使いとしての品位と節度を保った素敵な天鵞絨の帽子も買い求めた。お駄賃のあまりがかなり消えたが、クラウスは満足だ。
帰ろうと、いちのくるわの方に足を進めたその時だ。
からからり、と不思議な物が足元に転がってきた。
「……ん?」
クラウスはそれをひょいと拾い上げた。たくさんの三角形が組み合わされた、球形に近い星型で、中で不思議な色の光がきらきらとしていた。
綺麗だな、とまず思い、これは高価だろうな、と次に思った。そんな彼女は周囲を見回し、何処かの露店から転がったのか、と確認した。
しかし露店のどこも、これに類似した商品を展示していない。
失ったと慌てている人もいない。
「でも、やっぱり探さなくちゃね……」
クラウスは何となく、これをなくした人は困っているだろうと感じていた。星型は磨き上げられており、とても大事にされている証拠のようだった。
三角形たちをつないでいるハンダらしきものは年数がたち、古い色だ。細かな傷も多いのに、壊れる気配がなさそうとなれば、丁寧な扱いをされてきたのだろう。
「……でもどこに聞けばいいかな」
クラウスは呟き、周囲をもう一度見まわした。
その時だ。
「ああ、こんな所まで転がって行ったのかい!」
老婆の声が響き、一人のかなりの老年の女性が少女に近寄る。
年齢による足の悪さだろうか、ゆったりとした歩き方だ。
「お嬢ちゃん、拾ってくれたのかい、それはわたしの物なんだ」
老婆が手を伸ばす。クラウスは疑う事なくそれを渡した。
「いやあ、もう、これはすぐころころと転がって行ってしまってねえ、探すのも一苦労なんだよ。拾ってくれてありがとう、お嬢ちゃん」
「いえ、気にしなくっていいですよ」
クラウスは何も考えずにそう答えた。持ち主が見つかってよかったな、と素直に思ったのだ。
「……ふうん、お嬢ちゃんは変わった子だねえ。まあいいさ。お嬢ちゃん、これがお礼になるかわからないんだけれどね、明後日に、蛍が飛ぶよ」
蛍、と聞いたクラウスは目を見張った。
「え、蛍? 十五年に一度しか光らない、幻の虫?」
「そうそう、その蛍。明後日から三日間だけ、蛍が飛ぶよ。場所はいちのくるわのはずれの川辺さ。あそこは上等の水が流れているから、蛍が飛ぶんだ」
「本当? 何時くらいから?」
身を乗り出した彼女に、老婆が言う。
「そんなに気になるのかい」
「だって、おじいちゃんが大昔に、蛍の事について書いた日記を見せてくれたの。それからずっと、わたし蛍を見るの憧れてるんです! 絶対に見られるんですね、川辺に行けば!」
娘の言葉に、老年の女性は断言した。
「ああ、見られるとも。ちゃんとした場所に行けば、今年は絶対に蛍が見られる。こんなに喜んでもらえるんだったら、教えてあげられてうれしいよ」
「ありがとう、お婆さん!」
クラウスは笑い、女性も頷いた。
「足元に気を付けて、夜の川辺は歩くんだよ。ぬかるみに足をとられて転んだら大変だからね。時間はだいたい、夜の八時くらいから深夜十二時あたりまでが一番蛍が飛び回って絶景さ」
「ありがとう、カンテラを持って行きます」
少女はそう言った後、どん、と誰かにぶつかった。
とっさに体勢を立て直し、お婆さんを探そうとした彼女の視界から、老婆はたちまち消え失せていた。
しかし、人通りがとても多い道だった事もあり、人の中に紛れて見えなくなっただけだろう、とクラウスは判断し、浮足立った足取りで屋敷に戻って行った。
屋敷に戻り、その門構えの前に立った時だ。背後からがらがらり、と馬車の車輪が回る音が聞こえてきた。
音はこのあたりで止まるらしく、速度を落としている。
振り返った彼女は、その馬車が超高級な一級品、すなわち王家の物だとすぐに気付いた。
扉に描かれた紋章がそれを示していたのだ。
王家の権威を現す獅子の横顔に翼なのだ。
翼は基本的に使者を意味する紋章の一部で、王家の使者だと明確に明らかなその馬車が、門の前に留まる。
クラウスは王命の知らせかもしれない、とすぐさま門を開けようとした。
使者に対する礼儀の一つだ。迎え入れなければならないと思ったのだが、そこで使者が下りてくる。
「ここはギースウェンダル辺境伯の町屋敷で間違いないだろうか」
丁寧なお辞儀の後に問いかけられたクラウスは、ばさっとスカートを掴んで一礼をとった。
礼儀作法をまるで知らない、しかし礼儀は知っている少女の頑張った挨拶に微笑ましいと思ったのか、使者が言う。
「ここで間違いないだろうか。辺境伯の屋敷は美しい邸宅なのだな」
「はい、きれいですよね。自慢なんです」
家を褒められるという事は、少女の成果が褒められたという事だったので、うれしくなった少女は笑っていた。
そんな彼女に、彼は手紙の入った美しいバインダーを取り出す。そこから手紙を抜き取り、少女に渡した。
「これを女主人殿に届けていただきたい」
「これはお返事の必要な物でしょうか」
「王命であらせられるがゆえ、必要はないですよ」
「わかりました、奥様に伝えておきます」
クラウスはそう答えて、使者が去って行くのを見届けたのち、門を開いて屋敷の中に入って行った。
「どうしてクラウス、あなたって子は何も考えていないの!」
クラウスはいきなり言われた言葉と、それから続いた悲鳴のような声に息をのんだ。
使者がもたらしたのは、明後日に王宮で王太子の妃を選ぶための舞踏会が行われるという情報と、招待状だったのだ。
だがキララもクラウスも、その舞踏会に出席する事は出来ないと、奥方が判断した。
それは二人がデビュタントを済ませていないから、であったのだが……
誕生日も過ぎたキララは、デビュタント前だからという事だけで、その場に行けない事に思う事があるようだった。
「これじゃあ私はいつまでたってもただの召使のままだわ! お父様がいたら、こんなひどい仕打ちはしなかったわ」
「当主様がいても、デビュタント前だからだめだって言ったと思うよ……?」
クラウスは、社交界に出ていない娘が妃選びの場に参加できない、という事を当たり前だと思うのだ。
だって子供も妃候補にしたら、とんでもないロリコンである。
お妃は子供を産まなければならない場合が、多いのにロリコンなんて、本末転倒だ。
しかしそう言った事を言う前に、キララのすみ切った緑の眼から涙がこぼれた。
「な、泣かないでよお姉ちゃん」
少女はぼろぼろと大粒の涙を流す、自分の姉の痛々しい姿に痛ましい表情となり、その肩を抱いた。
「大丈夫だよ、王子様じゃなくても、きっと素晴らしい男性が、お姉ちゃんが社交界に出られるようになったっているって」
「でもクラウス、王子様はこの国には三人しかいないのよ! そして今の女王様の息子は一人だけ、ウィリアム様だけなのよ? ほかの王子様は前王陛下の妾妃のお子様たちだけれど、皆、あまり褒められた性格じゃないってきくわ」
「王子様じゃなくったって、素敵な格好いい男性は世界にいっぱいいるよ、お姉ちゃんがすごいのも、きれいなのも、絶対分かっている人はいっぱい現れるって」
「そんな未来は、このままだったら一生こないわ。お義母様が私を社交界に連れて行く事すらしないんですもの! こんなぼろを着て、どうやってデビュタントパーティで恥をかかないでいられるの?」
「……おと」
お父様、と言いかけた少女はそれも、自分に許されていないと思い出し、言いなおす。
「当主様が、秋のデビュタントパーティのドレスを、きっと用意してくれているんだよ。ギースウェンダル領は貿易の中継地点だから、素敵な絹がたくさん届くって聞いたもの。きっとそれを吟味して、この夏に採寸をとって、お姉ちゃんは世界一綺麗な令嬢として社交界に出られるよ」
クラウスが、知らない社交界や貴族の世界の事を、何とか思い描きながら慰めていた時だ。
「クラウスさん! 聞いたわよ! キララお嬢様の援護も何もしなかったんですってね!」
マーニャとサラが、クラウスをキララからはがし、突き飛ばす勢いで遠ざけた。
遠ざけられたクラウスは、よろめいて尻もちをついた。
その姿勢のまま、睨み付ける小間使いたちに問いかける。
「援護って……どうやって? 奥様の決定を覆せる身分じゃないよ、わたし」
「それでもよ! あなたキララお嬢様と長い間一緒にいたのに、あんな厭味ったらしい年増の、昔の美貌を振りかざす嫌な女のいう事を聞いて、キララお嬢様のために働こうとしないじゃない! この不忠もの!」
「いつもお姉ちゃんとなれなれしく呼んでいながら、肝心なときには何も役に立たないのね!」
クラウスは口を開き、何も言えないまま黙った。
「この、役立たず! あなたみたいな役立たずがどうして、今までこの屋敷にいられたのかしら!」
「……二人とも、やめてちょうだい」
マーニャとサラがさらに、キララを思うために、クラウスに罵倒を浴びせようとすれば、それをキララが制止した。
「クラウスは、精一杯やっているもの。それに、この子をそんなにひどくののしらないで。この子は大事な私の」
「キララお嬢様が優しすぎるんです! ここはがつんと、自分とキララお嬢様の身分の差を理解させなければ」
マーニャが声を荒げた時だ。
「そこで騒ぐんじゃないよ。ああ、ちょうどよかった。手伝っておくれ、何しろ今回は言った料理女中が、料理なんてろくすっぽできない役立たずでね。当主様は顔と人物証明書ばかり大事にしているから、ろくな人間が入ってこない。教えたら教えたで、厳しいだの鬼だの悪魔だの」
ぶつぶつと言いながら、厨房に続く使用人部屋に現れたのは、料理人の老婆である。
彼女はクラウスを見つけると、その腕を引っ張りながら連れて行く。
マーニャの言葉が終わる前に、クラウスは厨房に入る事になった。
「さて、野菜の皮むきとそれからウサギをさばくのと、色々仕事は多いのさ」
老婆は言ったが、クラウスは厨房の人間の数が、明らかに足りないので目を見張った。
厨房は料理人頭の老婆の領域であり、クラウスが介入できる世界ではないのだ。
そのため、よほどの事が無い限り口は出さないのだが。
「朝と今とで、明らかに人数がおかしいよ、おばあちゃん」
「ああ。昼に大事な香辛料の瓶を、軒並み壊した挙句、無事な物を盗もうとした馬鹿を叩きだしたのさ。そうしたらそいつが悪くない、とやたら庇う馬鹿ばかりでね。そんな馬鹿入らないから、とっとと蹴りだして追い出したのさ」
ひひひ、と魔女のように笑う老婆は実際に、蹴りだしたのだろう。
「なあに、あたしゃ追い出されても大して怖くないのさ。息子の嫁あたりが、仕事が忙しいから料理位は出来る手伝いを欲しがっているしね。こういう場所で長い間働いていたってのは、平民にとって箔がつくから、後の仕事にも困らない。ひひひ。当主様も長年勤めてきたあたしには、多少遠慮があるからね。慣れない料理女中だけで、当主様の舌に合う料理なんて出せる物か」
「そうだね、今度は、技術を見られるように、当主様に交渉した方がいいよ、もう……十何人も蹴りだしているんだから」
「そうさね、奥様の紹介したやつだけにしてみるかね」
そこまで言ってから、老婆は鍋をかき回し始める。
少女はその脇で、野菜の皮むきやら泥落しやらと、雑用を始めた。
これらは手があれる、と若い料理女中が実は嫌いな物ばかりで、新しく入ってくる女中たちは手を抜くのだ。
彼女が洗っていれば、脇で老婆が言う。
「本当に、おかしな話だよ。まったく」
「何が?」
「この家の直系の令嬢ともあろうものが、下働きと同じ仕事を行って、毎日毎日汚れ放題で、なんてさ」
「仕方のない事だよ」
クラウスは、それが自分を示している、とわかっていたので、静かに答えた。
「それよりも、お姉ちゃんを慰めたいよ……あんなに泣いているお姉ちゃんは初めて見た」
「慰める? どうしたんだい。キララお嬢様が」
「明後日に、王子様の妃を決める舞踏会があってね、それに出ちゃいけないって言われて」
「そりゃあ、まだまだ社交界に正式に出ていないような、子供が出たらいけないという考えだろうに」
「だよね……なんて言ったらいいんだか」
「成人しなかったらお酒を飲むのもたばこを吸うのもよろしくないだろう? 同じものさ、デビュタントなんてね」
とても具体的でわかりやすい言葉に、クラウスは苦笑いをした。
お姉ちゃんもそれはきっとわかっていて、でも舞踏会に出たかったのだろうから。
翌日はそれこそ、死にそうなほど、彼女にとって忙しい日となった。
というのも、ドレスにオーヴァードレスを組み合わせる事、などを一日中行ったからだ。
そのための衣装箱の上げ下ろしは、全てクラウスが行った。
いつも行う家事の半分以上を、彼女はほかの使用人に任せる事となり、そして。
「まさか一日で、五人も仕事を辞めるなんて……」
彼女はぼやいた。ぼやきながらも、五人が行ったあれそれこれを思い出す。
「一人目、高価な白い陶器のお皿を割った……二人目、掃除を怠けて恋人と語り合って、奥様の呼び出しを無視した……三人目、時間になっても食事を運ばなくて、悪びれないで落としたものを配膳しようとした……四人目、お義姉様たちのドレスをぬすんで、お姉ちゃんに回そうとした……これが一番ひどい五人目、奥様がおととい、宝石商のおじさんから買った宝石の飾りを紛失した」
一人目は、賃金から弁償するという運びになる予定だったのだが、そんな事は出来ない、病気の母が……といいわけをしたのだが、クラウスはそれが嘘だと知っていた。彼女の母は逞しく、さんのくるわでパンを焼いていたのだから。ちなみに昨日、にのくるわで、その母がパンを片手に売り歩いているのを見たのだ。
高価な物を弁償する気もなく、嘘を吐く。その時点で使用人としては問題大ありで、人間性にも問題があるとクビである。きちんと、第三者の視点で書かれた人物証明書を見た彼女は、顔を真っ青にしていたが、義母がこの家の印璽を使用したので、偽造もできないだろう。
二人目は、叱責を受けるや否や泣き出し、そのまま屋敷を飛び出した。
ちらりと見えた恋人とのあれそれを見る限り、恋人がかなり危ない男のようだった。
三人目は、事の顛末を愉快そうに、いい気味だというように厨房で喋り、そのせいでおばあちゃんの怒髪天を突き蹴りだされた。おばあちゃんが丹精込めた料理を台無しにして、そんな物を主に食べさせたのだから怒られて当然。
そして、食べ物を粗末にするという点から見ても、おばあちゃんが怒る要因であり、蹴りだされるのをかばう事は論外だった。
四人目五人目は、もはや言うまでもない。
上位の身分の相手の物を、盗むなど言語道断、使用人が行ってはならない物の筆頭の一つだ。
「奥様厳しい顔で、警邏に突き出してたもんな」
あの二人はそうそう、表の世界に顔は出せないだろう。
綺麗な顔なのに、人生が台無しだろうな、と思うクラウスは、可愛そうだとは思わない。
「盗むのはやっぱりよくないもんね」
言った少女は、よいせと立ち上がる。
キララを慰めなければ。義姉二人と、継母は王宮に向かってしまった。
そして、サラとマーニャもいるかもしれないが、それでも慰めて教えて諭す人間な必要だ。
そんな思いから、小間使いの部屋の扉をたたいたクラウスは、物音が一つもしないので怪訝に思った。
「お姉ちゃん、眠っているの?」
やたらに静かだ……と思ったクラウスは、手を握り締めてから扉を開いた。
すると。
「あれ、結界を張ったのに、入れる人間がいるもんなんだね」
たくさんの銀の腕輪をはめた、いかにも背中に羽の生えた男性が、椅子にちょこりと座っていたのだ。
寝台の上では、マーニャとサラが熟睡しており、キララがその男性と相対している。
「……誰?」
見知らない人間には気をつけろ、まして人間以外だったらもっと気をつけろ、というのは常識だ。
とっさにクラウスが視線をまわし、キララの前に出たのは当然だった。
「……お姉ちゃんに何かするつもり? サラさんもマーニャさんも、起きられないのかな?」
少女の観察力に、男が笑う。
「領域の中では許された人間しか起きていられない、当然でしょう。さて、正体は何かと言えば、キララが知っているよ」
「お姉ちゃんが?」
「クラウス、彼は名付け親の妖精様なのよ」
キララの言葉に、少女は目を見開いてからこういった。
「驚いた、お伽噺だとばっかり」
「普通は滅多に、名付け親にならないからね、妖精の言葉には力があるから」
からからと、驚かせた事で上機嫌になった名付け親の妖精が笑う。
「さて、キララ、誕生日のお祝いがまだだったから、数カ月遅れの誕生日の贈り物をしにきたんだよ。何がいいかな」
彼が笑った時、キララが口を開いた。
「今日から三日間ある、王宮の舞踏会に行きたいの。……運命を変えたいの」
「運命を?」
「この屋敷で、召使にされて一生を終わらせる運命から」
「ふうん。いいよ。それじゃあ、三日分のドレスが必要だね、それからそれから、馬車に馬に、宝石も必要だ。ああ、ドレスのための靴だって!」
言った妖精が立ち上がり、腕輪を鳴らした。幾重にも重なる金属音が、反響して“魔法”を引き起こす。
クラウスが止める間も何もなく、キララの姿は一変する。
小間使いの、上質だが流行おくれの衣装が、今流行の、銀色にきらきらと輝く青いドレスに。
髪留めが、磨き上げられた銀の髪飾りに。
髪型もかっちりと、動きやすいようにまとめられたものではなく、美しく結い上げられて、銀の粉まで散らされている。
靴も、見事な絹の靴だ。
その姿を見たクラウスは、小さく呟いた。
「お母さまそっくり」
彼女が言うのももっともで、着飾ったキララは、肖像画の中で最も美しい、母を若くしたような姿だった。
「まあ……まあ!」
鏡に映った自分を見たキララが、はしゃいだ声をあげる。
「これで舞踏会に行けるわ!」
そう言ってくるりと体を回した姉に、クラウスは忠告をしようとした。
「だ……」
だめだよ、お姉ちゃん、未成年が花嫁選びの舞踏会に行ったら。
言おうとした唇は何も言えない。
そして、妖精が言った言葉にまた驚く。
「この姿だったら、誰も君の正体はわからないよ。君はあらゆる人たちから覚えられるのに、正体だけはわからない! これならこの家が恥さらしだなんて言われないし、君も怒られる事はない」
悪戯が大好きな妖精の得意技だよ、とちゃっかり笑った彼が、手を差し出す。
「さて、名づけ子ちゃん。馬車は外に待たせてあるから、そこに行って、運命を変えておいで。三日間、違ったものを用意してあげよう」
「ありがとう、名付け親の妖精様!」
キララが顔を輝かせてから、はっとしてクラウスを見やる。
「私の妹は……」
「その子は駄目、というか無理。名づけ子じゃないんだもの。妖精は、縁のある子にしか奇跡は渡せないのさ」
「行ってきなよ、お姉ちゃん」
クラウスは、ほかに何も言えなかった。
止めたら、妖精の贈り物を無碍にする。それも、誕生日のお祝いという、とても大事な物を。
妖精の気分を損ねてはならない、というのはこの大陸の常識だ。
損ねた後が恐ろしく、キララに何かが起きては大変である。
「クラウス……」
「それでさ、素敵な男性に見つけてもらって、縁をつないできなよ」
「あなたは」
「わたしは、今更だもの、別に何も起きなくてもいいんだ。行ってらっしゃいお姉ちゃん」
馬車に乗っていく姉を見送りながら、クラウスは呟いた。
「本当に、どうしようもないね」
「おやまあ悲観的だ」
「……だって、お姉ちゃんに良識をいう事も、あなたの気分を害さないで止める事も、心の底からお姉ちゃんの幸運? を喜ぶ事も出来ないんだから」
「それだけ君が、人間の世界に浸っているってわけだ」
妖精が腕輪を鳴らしながら笑う。
「君は蛍が見たいんだろう、キララがそんな事を言っていた。そろそろ出かけなければ、蛍も帰るよ」
その言葉にクラウスははっとして、言う。
「そうだった」
舞踏会の間だけ許された、夜の外出。蛍を見に行く事。
そのために彼女は、片手にバスケットを持っていたのだ。
「ありがとう、戸締りしたら行く」
彼女は最後の部屋であった、小間使いの部屋の戸締りを確認し、妖精に一礼する。
「そろそろ僕もお暇するよ、じゃあね」
いうや否や妖精はぱちん、と消えて、あたりはとても静かになる。
それを見て、今日だけで人生分魔法を見た、と思いながらクラウスは、屋敷を出た。
蛍が待っているのだから。
いちのくるわの川辺は、しんと静まり返っていた。
その中でさあさあと、川の流れる音だけが響いている。
クラウスはそのあたりまで走った後、その光景に声を上げた。
「嘘じゃないんんだ、本当に蛍って光るんだ……!!」
彼女がそんな事を言うのも、無理はない。
その世界は、まるで異世界の光景だったのだから。
薄緑の光が乱舞し、飛び回っているのである。
その瞬きはあたりを明るくし、その川辺は普段とはまるで違う光景を見せている。
なんて綺麗なんだろう、としか、クラウスは言葉が思いつかなかった。
「なんて綺麗」
彼女はそんな事を呟いた後に、川辺に座り込んだ。
汚しても問題のないクッションを敷いて、その光の幻想的な踊りを見つめる。
「これがこんなに小さい虫だなんて、信じられない位」
独り言は誰も聞いていないから、独り言なのである。
少女はかなり長い間そこに座り、その輝きと瞬きを見つめていた。
「鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす……誰の言葉だったっけ」
少女はどこかの誰かが言った、そんな言葉を小さく呟く。
蛍は雄しか光らなくて、雄が雌に愛を乞うているのだ、と言う話も思い出したのだ。
「運命の相手に見つけて欲しくて、男の人が一生懸命になるのかあ……」
なんだかそれは、人間の世界の縮図とは大きく違うな、とクラウスは考えた。
この世界と社会で、運命の相手に見つけて欲しい、とがんばるのは女性なのだから。
男性の方が身分が高く、社会的な地位が高いこの国では、女が男を選ぶのではなく、男が女を選ぶのだ。
それ故に女たちは自分を磨き、男に見つけて欲しいと願うのである……
そのため、この、王子の妃を決める舞踏会はおかしな事ではない。
王子が妃を選ぶのであり、妃になりたい女子たちは自分を磨き上げて見つけて欲しいと訴える。
「蛍の世界の王子様って、きっといないんだろうなあ」
少女は言いつつ、指を伸ばす。
何かに惹かれたのか、蛍が一匹彼女の指にとまった。
そして、瞬く。
その蛍を顔の近くに引き寄せ、クラウスはふふふ、と笑った。
「このすてきな世界を独り占め、なんてすごい贅沢だね。お母様にお願いして、本当によかった」
いつの間にやら、彼女には蛍が何匹も止まって光を放っていた。
少女が身動きをしないために、植物と同じ扱いになったのだろう。
「綺麗だなあ」
少女はまた同じ感想を口にして、バスケットの中の水と木製のコップ、コーディアルを取り出した。
その時だ。
がさりと音がし、蛍が現れた何者かの動きにつられて飛び立つ。
ばあっと無数の蛍が光りながら飛び立ち、その誰かを照らした。
「……なんて言う光景だ」
誰かはその儚くも美しく、そして魂を強烈に揺さぶる景色にそんな事を言った。
クラウスも、自分以外に現れた誰かの声につられて、コップとコーディアルの小瓶を両手に持ったまま、立ち上がった。
彼女につられてもやはり、蛍が飛び回る。
少女自体にも蛍がとまっていたため、その蛍も光りながら飛び立った。
「……あなたは誰?」
相手が何も言わず、立ち尽くしていたのでクラウスは問いかけた。
蛍の光で、相手の姿はよく見えたのだ。
そのため余計に娘は、相手の正体をはかりかねた。
だらしなくゆるめられた、クラバット。上着を来ておらず、肘までまくり上げられたシャツの袖。
これまた弛んでいるとしか言いようのない、ズボンからはみ出されたシャツの裾。
ズボンすらまくり上げられており、衝撃的な事に裸足だ。
裸足で片手に、ブーツを下げている。
明らかに、足音を消すための手段なのだ。ブーツの靴底よりも、裸足の方が密やかに動き回れる。
物盗り? でもこんな所にわざわざ?
娘が訳が分からなくなるのも、無理はなかった。
「……おれの事かい」
青年はそんな事を呟いたので、クラウスは相手を見ながら頷いた。
「そう、あなたは誰?」
ざっと見回して見れば、彼の身なりがかなり高価な事はすぐにわかった。
シャツは白いし、ズボンも白い。さらに金の縁取りがある。
品がよく、そしてとても趣味もいい、しかし値段は目が飛び出るような物だろう事が、伺える身なりだったのだ。
彼女はそれらを見回して、とある結論に至った。
どこかのお金持ちの貴族の、次男坊か三男坊だ、と。
彼女の中の常識として、みっともない格好をするのは、家の跡を継がない次男坊か三男坊と決まっていた結果である。
「わたしは、クラウス。あなたの名前は?」
娘はここでも、自分の素性をきちんと名乗らなかった。
ギースウェンダルの姓を、少女は父から許されていなかったのだから。
「……プローポス」
彼は一瞬ためらった後に、そう答えた。
そして、ゆっくりとした足取りで、クラウスに近づいてくる。
敵意や害意はなさそう、と少女はその足取りや動き方を観察しながら思った。
そして、二度目に驚いた。
「あなた、とっても綺麗な顔をしてるんだね」
近づいた男の見た目が、衣装に負けないほど整っていたからだ。
いくら蛍の光の下でも、見える世界には限度がある。
相手の衣装が白いから、衣装は反射しかなりよく見えたが、顔はしっかり近づかなければ、わからない。
「人相見のおじさんが大絶賛しそうな顔」
クラウスの身も蓋もない感想に、彼は目を瞬かせた。
その仕草から、少女はまた気づく。
「あなたの名前、その目から来てるんだね」
「……」
なぜそう思うのか、と視線が問いかけてきたので、少女は答える。
「目が真っ赤だもの。知ってる? プローポスって、古い異境の言葉で”火の眼”って意味なんだよ、あなたの目はそれくらい赤くて綺麗。石榴石の色で、すばらしいって言われてるパイロープもそれが語原なんだって、宝石商のおじいさんがこの前教えてくれたんだよ」
自信たっぷりに、人から聞いた知識をしゃべった少女は、彼が呆気にとられて彼女を見ている事に気づく。
「どうしたの? もしかして、わたしの事が幽霊か何かだと思ってるの? そりゃ、こんな所に一人でいたら、そんな事思うかもしれないけど」
普通、川辺に一人でいる女性なんて身投げした女の幽霊、と洒落を言ったクラウスは、相手を見返す。
「今日はね、特別な日なんだよ、蛍が飛んでいるんだもの」
娘の言葉に、彼が彼女から視線を引きはがし、辺りを見回す。
「この、美しく光る陸の星が、蛍なのか」
「陸の星! すてきな言い換え方だね、わたしそういうの好きだよ、今度人に蛍の事を話す時は、そうやって自慢しよう」
彼の言葉がとてもすてきだと思い頷いていると、彼が問いかけてきた。
「君は、蛍が出るからここに?」
「うん。街でそれを教えてくれたおばあさんがいてね、だって十五年に一回しか飛ばない、夜光虫だよ? 今回を逃したら、きっと一生見られないと思って、お義母様におねだりして、外出許可をもらってきたの」
これを見逃すなんてもったいない、といわんばかりの彼女に、プローポスが言う。
「確かに、見逃すには惜しい光景だな」
「そうそう。あ、座る? クッション二つ持ってきたの。一枚だとお尻痛くなっちゃうかもしれないな、と思って」
少女は彼の手を引き、バスケットに入れられていた二つ目のクッションを渡した。
「お菓子とコーディアルと、薄める水もあるんだよ。一緒にどう?」
「警戒はしないのか」
「え?」
クラウスは彼を見返し、彼は少女の透き通った、暗がりではほとんど色の判別がつかない瞳を見て少し、たじろいだようだった。
それはあまりにも、少女があり得ないという調子だったからだ。
「あんまり、人から好かれない蛍を、陸の星なんてすてきな言葉でたとえる人が、そんな悪い人じゃない気がするし、自衛だったら少しはできるよ。それにここから衛兵の詰め所までは結構近いから、わたしが叫んだら衛兵が飛んでくるもの。何かあったら、もっとほかに、反撃の対処法も持ってるんだ」
それが何か、はあえて言わなかった少女だったが、彼はバスケットの中身をちらりと見て言った。
「閃光と爆音でしられた、すらの玉なんて言う物まで用意してあるのか」
確かにそこまで持っていれば、身の危険からは免れるだろう、と視線が納得していた。
そして、クラウスは自分のクッションに座り、カップを差し出す。
「……」
受け取ろうとし、彼はカップが二つない事に気づいたらしい。
少女に問いかけてきたので、クラウスはにこりと笑った。
「一人でみるつもりだったから、カップ一つしかないの。あなたの方がいっぱい動いてきたみたいだから、飲むものいると思うんだ」
それを聞いたプローポスが、カップを押しつけようとする。
自分だけ飲むのは気が引けるらしい。
しばし譲り合いをした結果。
「一口ずつ、交代でのもう、ね!」
「それでさあ、色々大変なんだよ。あはは」
からから、とクラウスは降っていわいたような聞き役に、日々の大変な事を語る。
大変だ、と彼女は回りには決して言えなかった。
自分で決めたのだと固く決めつけ、家の誰にも大変だなんて、口が裂けても言えやしなかったのだから。
家の人たちには、いつも笑っている温和なクラウス、という人間でいたかったのだ。
彼女も人間だ、思うところは幾つもあったりするし、怒りをあらわにしたい事も、泣き出したい事もたくさんある。
それらすべてを、彼女は自分で決めた事だから、怒るのも泣くのも筋違い、と言い聞かせてきたのだ。
「砂糖の塊重いし。泥を洗うのだって毎日、時間がないのにやらなきゃ泥だらけの食事だもの。でもしょうがないよね、誰かがやらなかったら皆困るんだもの」
「……」
相手はどうして、そんな事を思いながら毎日過ごすのだ、と言いたげな表情をしている。
「世界は一人じゃ回らないんだもの。誰かと誰かが噛み合わさって、世界の歯車みたいなものが回って、一日が始まって終わるんだっておじいちゃんが話してた事があるの。だから、わたしがんばるんだ! わたしが欠けたら、歯車がおかしな風に回るかもしれないし、その後、わたしが修正しなきゃいけない事の方が、きっとたくさんあるんだよ」
「歯車を狂わせたいと、思った事はないのか」
クラウスがとうとうと語っていれば、プロ―ポスが問いかけてくる。
相手の言葉の意味が分からず、少女は隣に座る彼を見やる。
「時計は狂ったら、役立たずになっちゃうでしょう? 逃げ出した歯車は、ただのゴミ扱いされちゃうんだ」
少女の言葉の重さと深さに、彼が瞠目する。
彼女は自分が歯車の一つであり、逃げ出せばどこにも行き場のない、捨てられるだけのごみだと語っているも同じだったのだ。
本人はそれに、全く気が付いていない表情をしているのだが。
「それにさ、大変だって言ったって辛くなんてないんだよ。苦しいとも思わないんだ。家の事綺麗に守るのは、当主様に言いつけられた事だし、奥様の役に立てるのは嬉しいもの」
へらりと、痛みなんて何もないという調子でクラウスは笑った。
「この前なんてさ、お屋敷がきれいですねって王宮の使者の人に褒められたんだよ、うれしかったな、空いた時間見つけたら、頑張ってガラスを拭いて、壁を綺麗にして、屋根の雨と埃の汚れも落として、毎日毎日、夜中にがんばってたから、ほかの人に褒められるのすごくうれしかった」
クラウスは指折り数えて、普通の使用人が行わない事すら行っている自分を語る。
それがどれだけ大変な労力を使う物か、気付かない顔で。
普通は行ったりする事を、考えもしないのだと知らない表情で。
「褒められたら褒められた分だけ、お父様の言いつけを守れている気がするもの」
「……なぜ、そこまで、こだわるんだ」
あかぎれだらけの、血まみれ一歩手前の、とても痛々しい手をぐっと握りしめて、また決意を新たにしている少女に、青年が問いかけた。
娘は相手を見やり、そうだろうな、と理解した。
彼は結構自由な生き方をしているようなのだ。そのだらしない見た目から判断するだけだが。
そういう親の言う事も何処かで聞き流しながら生きている青年には、自分の、言いつけと約束にかじりついている生き方は、とても不思議な、面白みのない生活だろう、という事も。
目を輝かせて語る事ではない。
「だって、わたしの誇りだもの。どんなに他人から見て変な話でも」
誇る事ですらない。というのに彼女は、その言葉を違えない自分を誇るようだった。
火の眼の男が、その言葉に目を見開く。
彼にも何か覚えがあるのだろうか。そんな事を思わせる身じろぎをしたのだ。
「一日中、嫌な事が一つもない人生なんてとっても不幸だし、嫌な事があった方が、好きな事も余計に好きになれるでしょ? 人生はそういうのだと思うの」
彼の顔色に気付かないまま、彼女は自論を語り、ふと口を閉ざす。
彼女の伸ばした指先に、蛍がひらりとまた止まったのだ。
その光をじっと見つめた少女は、どこか遠い目をしていた。
「きっと、そうだもの」
小さな呟きは、隣の男にも聞こえないかもしれないほど、弱い音だった。
それで彼女は、はっとした調子で腰の懐中時計を取り出した。
「そろそろ、帰らなきゃいけない時間だった」
慌てふためき、彼女は立ち上がる。
「今日はごめんね、わたしが愚痴を言ってばっかりで。そうだ、明日はあなたの愚痴を時間いっぱい聞こう! それでお相子になるでしょ? あ、でも、ここにまた来る?」
普段通りの明るい調子で少女が問いかけると、彼は目を瞬かせた。
蛍の明かりの中ですら、燃え盛るように赤くきらめく双眸を。
「……かならず、来るだろうか」
「来るよ、明日は絶対! だって明日来れなかったら、もう、見られないよ、蛍」
「約束だぞ。必ず来るんだぞ」
プロ―ポスはそういうと、立ち上がった。
そして彼女の手を握り、額に押し当てる。
「俺の図太さが、君に移るように」
「わたしも結構図太いよ」
「俺の方が太い」
「いいやわたし」
「いや、俺だ」
なぜか途中から、自分がいかに図太いかに走り出しそうな会話をし、二人そろって彼らは笑った。
笑うほかないだろう。そういうやり取りだった。
「それでは、また明日の夜。ここで。……クラウス」
「そうだね、必ず、プロ―ポス」
クラウスは立ち上がり、時計を見てから大急ぎで走り出した。
その背中を見送り、彼は呟いた。
「どれほど変でも、それが誇りになりうるのか」
その言葉が、彼の中で何か、大きなものに変わったようだった。
彼は少女の手を握った自分の手を、片手で包み込み、額に押しあてた。
「そういう、生き方もあるのか……だが、俺は」
何か後悔するような調子の後、彼は小さく言う。
「君はここに、また来てくれるのだろう、陸の星の君」
彼の唇が呟いた名前は、日の光の下では恐ろしく少女に不似合いな呼称だっただろう。
それも気付かないまま、彼は川辺に背中を向けて、靴を履きなおした。
その時だった。
「我が君」
不意に闇から声が響き、彼はそちらを見やりもしないで言う。
「……なんだ」
返答は少女に向けていた声よりもやや低い。
平素はその声なのだろう、と思わせる低温の音だ。
「そろそろお戻りになってください。影を動かすのも限度がありますゆえ」
「ああ、分かっている、今行くさ……」
姿の見えない声は、己の主が唇で笑っている事実に気付いたようだ。
「何か良い事が?」
「蛍を見られた。すこぶる、美しい陸の星だ」
「まことに。それはようございました。……お早く、我が君」
彼は目を細め、かたんと踵を鳴らしたと思えば、あまりにも速く走り始めた。
「クラウス! 王子様が踊ってくださったの。私を見つけてくださって、わたしを見つめてくださって、ずっと踊っていたのよ……」
十二時に帰ってきて。夢見心地でキララが語る。その声の大きさに、クラウスは慌てて口をふさぐ。
「お姉ちゃん、声が大きいよ! もっと静かに!」
「あっ……ごめんなさい、興奮しすぎて」
「お願いだからひやひやさせないで……誰もわからないって言ったって、それはあの場所だけの効力かもしれないんだよ? あちこちで喋ったら、お姉ちゃんだって気付かれて、お姉ちゃんがえらい目に合うかもしれないよ……」
そんな、お姉ちゃんが不幸になる結末は御免だよ、と言い切った妹に美少女は頷く。
「明日も頑張ろうね」
「そうね」
そんな会話をした朝からクラウスは、自分の頬を一度叩いて、仕事に向かうために、片手に長箒をもって動き始めた。
考えの足りない使用人が何人も辞めてしまったせいで、また彼女にしわ寄せがきていたのである。
足りなくとも手は手だ。動く体があり、役に立たないと言われようとも、多少は物事を動かす。
このあたりでは一番大きな町屋敷を美しく維持するためには、かなりの人数が必要であり、哀しい事に五人も辞められると支障が出るのだった。
「当主様は新しく、人を雇うだろうけれど……今回と同じだったら、教育がなってないって怒られるだろうなあ」
その場合、一番近くで教えるべきだった自分が怒られるのだろう、と少女はわかっていた。
「まあ、それはそうだし、次はちゃんと教えなきゃ」
彼女は自分にそういうが、本当は気が付いていた。
人の倫理観など、高々こんな小娘一人が、正して教育し直すなど、出来やしないのだと。
出来たら奇跡なのだと。
彼女はそうして、今日も日々の雑事やルーチンワークをこなしていった、その時だ、目に留まったのは。
「お姉ちゃんったら、こんな所に教本置きっぱなしにしちゃダメなのに」
クラウスは、キララが置きっぱなしにしたらしい、貴族の礼儀作法の教本を手に取った。
最新版の物で、裏表紙の次のページに版数が書かれている。
中々売り上げのいい物らしく、第五版という文字が刻印されていた。
「ええっと、礼儀作法教本……どんな物なのかな」
少女は好奇心に駆られて、厨房と続きの部屋であるその使用人の部屋の椅子に座る事もなく、直ぐ、直ぐだからと言い訳をして、そのページを数枚めくった。
「……なにこれ」
少女はその本の書き込みや付箋の多さに、眼をみはった。
有得ないほど書き込まれており、分かりにくい所に注釈が付いたそれ。
それは姉の血と涙の結晶のような、努力の結果だったのである。
「お姉ちゃん……やっぱりすごいな、あんなに時間がないのに、こんなに一杯勉強してたんだ」
少女は記憶を探りながら、彼女の姉がこういう勉強の時間が取れない事を思い出す。
「やっぱりお姉ちゃんはすごいなあ、とても真似ができないや」
やっぱりお姉ちゃんが、一番すごい、尊敬するべき努力家だ、と少女は思い、うんうんと頷いた。
「こんなにがんばってるお姉ちゃんだもの、報われなくちゃね」
書き込みの中には、数枚の紙も挟まれており、そこには必要だと思われる貴族のあれそれこれ、が事細かに記載されていたのだ。
「お姉ちゃん、すごいな、家を継がなきゃいない重圧とか、お母様の求める段階とか、すごいと思うのに。負けないんだもの。すごいなあ」
少女は一人頷き、自分の姉の素晴らしい所が新たに見つかった、とうれしくなりながら本を閉ざし、また仕事に戻るためにモップと磨き粉の入ったバケツを片手に、使用人部屋を後にした。
今日は舞踏会の最終日で、蛍を見られるのは今日が最後、そしてあの炎の眼の人と会うのもこれっきり、なんだかそう思うと、今日はとても大事な日だなと、少女はまた思い、窓を磨く事に精を出した。
ようやく、忙しい中窓を磨く時間がとれたのだ。
鳥のふんが付着していて、数日前から気になっていた窓を磨き、クラウスは急いで夕飯の支度にも取り掛かる。
料理女中が何人も辞めてしまったので、人員を補充するまでは少女ががんばらなければならないのだ。
おばあちゃんは一生懸命だが、それでも人間のこなす事だ、限度がある。
ましてご老体なのだから当然、とクラウスは野菜の泥を落とし、骨付き肉をさばき、天火の温度を調節し、あらゆる料理の雑事をこなしていく。
「まったく、こんなにも料理に精通した人間がどうして、あたしの手元でかわいがれないのかねえ」
彼女の出自を知る老婆が、酷く残念そうにそんな事を言った。
「来るって言ったのに、来ないのかな」
クラウスは懐中時計を十分に一回の頻度で確認し、呟く。
再び訪れたいちのくるわの川辺である。そこで少女は、蛍を眺めながら時計を見ていた。
「プロ―ポスの身内は厳しくて、勝手に抜け出したのを怒ったのかな。きっとそうだろうな。衣装豪華だったもの」
少し彼に会えない事を残念だという調子で、少女は呟き、カップに水とコーディアルを注いだ。
そして少し舐めて、あ、と思う。
「間違えて、果実酒持ってきちゃった。……帰れる程度なら、誰も知らないから怒られないかな」
普通、デビュタント前の少女の飲酒はよい顔をされない。
だが、ただの水は味気ないな、と少女は感じる。
おそらく、プロ―ポスに友情のような物を感じていたがゆえに、来ない彼が寂しいのだと少女は結論付ける。
「……でも、やっぱり蛍が素敵だな……」
ほんの少しの果実酒、酒精もきりが知れているそれを二口程舐めた少女は、少し顔を赤らめた。
わずかばかり気分が浮上し、歌いだしたくなる気分になったのだ。
少女は軽く口を開いた後、心が赴くままに音を並べ始めた。
彼女が本当に少しだけとれる半休に、訪れる教会で聞いた讃美歌である。
讃美歌は神の唄であり、なかなか音律を整えるのが難しい。
そのため少女の声は転調したり、テンポやリズムが狂ったりしながら、もはや歌詞だけが同じものとなり果て始める。
しかし、いい気分の少女はお構いなしである。
人気のない川辺、誰も聞く人間がいない、というのもその警戒心の薄さの理由だった。
しばし歌っていた時だ。
「……もはや別の歌だ」
がさり、と裸足で草をかき分ける音がしたのちに、そんな笑いを含んだ声が彼女の耳に届いた。
「プロ―ポス! 来てくれたんだ!」
彼女はばっと立ち上がった。
それにつられた蛍が、一面飛び立つ。
突如の蛍の大乱舞に、相手は眩し気に目を細めた。
「……必ず来る、と言った相手を待たせるのはよくない」
やや沈黙の後に言われた言葉に、少女は頷く。
「でも、お家の人に怒られなかった? あの後怒られたんじゃないかなって思ってて」
こっちこっち、と少女はクッションを敷いて男を手招く。
男はそこに座り、少女のかすかに赤らんだ顔に気付く。
「酒の匂いがするんだが」
「コーディアルと間違えて持ってきちゃって。私お酒そんな得意じゃなかったみたいで、果実酒なのにおいしくなくて。飲む?」
「たしかに、昨日のエルダーフラワーの物と同じ匂いだ。間違えるのも無理はないだろうな」
彼は彼女が二口しか飲まなかったカップの香りを嗅いで、そんな事を言った。
「しかし、素朴ながらとても美味だと思う」
「やっぱりお酒が飲める人は、そういう風に言うんだね。さ、今日はあなたの愚痴を聞く日だよ、聞いてもわたしには縁のない事だろうから、話しちゃいけない企業秘密以外はどんどん喋っていいよ」
「かなり酔っているだろう。大丈夫か」
「歩いて門限までに帰れれば、問題ないんだよ。二口くらいだもの、走ってもふらつかないし」
クラウスが手をひらひらと振ってそんな事を言えば、男はそんな物かと納得したらしい。
彼女がもう口をつけない、という意思表示をしているのも納得の理由らしかった。
「……では、ひとつふたつ」
彼はカップの中身を数回注ぎ直しながら、彼の日々の愚痴を積もらせていく。
群がる女性関係に、制限されてばかりの日常。
どれだけ努力をしても、父の息子だから当たり前、と目される日々の重さ。
何をしても何をやっても、立派だったという父の肩書と同等に見られ、自分がひどく矮小な物に見えてくる事。
クラウスは、何とかわかる事をつないでそう、判断した。
「……立派な家の人って大変なんだね。わたしそういうのからものすごく遠いから、よく分からないけれど。そうだな」
ほんの少しの言葉で語られる、クラウスから見ても重圧にすぎる物たちだ。少女は隣の彼を元気づけたいのに、何も言葉が出てこなくなってしまって、両手を伸ばした。
そしてわしわしと、その整った短髪を撫でまわした。
「っ!?」
少女の行動が意外過ぎたのだろう。
男は目を見開き、凝視する。
「……うちの、もう何年も前に死んじゃった犬の話で悪いんだけれどね、うちの犬、怒られて落ち込んでる時にこうやって、頭撫でまわしてあげると、ちょっと元気出るみたいだったから。あ、ごめんね、犬扱いはいけないか」
喋りながら、相手に対して失礼すぎると気付いた少女が手を離そうとした時だ。
彼がその手首をつかんだ。
「……」
何も語らない唇なのに、その瞳がまだそうしていて欲しい、と訴えかけてくるので、少女は彼の望むまま、頭を撫でまわし続けた。
「……デビュタント前、と言っていたな、まだなのだろうか」
「今年の秋かな? うまくいけば」
数分のそれらの後に、だしぬけにプロ―ポスがそんな事を言ってくる。
少女はそれに頷き、それも怪しいと軽く語った。
「家の都合が色々あるの。まあ、出られなくっても生きていけるから大丈夫」
少女は家の事情を語らず、へらへらと笑った。
すると青年は彼女の腕を掴み、やや強引に立ち上がらせた。
「?」
彼は片手の靴を手放し、その手を自分の胸に当て、彼女の前に跪いた。
そして彼女のあかぎれの痕だらけの、がさがさとした手を取り、こういった。
「この、奇跡の一夜に、俺と踊っていただけますか、うら若きレディ」
「わたし、下手だよ」
「君がデビュタントにも出られないかもしれないならば……俺はあなたの初めてのダンスの相手になりたいのだ」
少女は彼の言葉に首を傾けたのち、大した事にもならないだろうと快く了承する。
「足、踏まないようにがんばるから、あなたは踏まれないように察知したら逃げてよ?」
「ああ」
彼がその、燃え盛る瞳を細めた。
二人は手を取り、ゆっくり、ゆっくりとした速度で踊り始めた。
ここで疑問があるだろう、何ゆえにクラウスが下手とはいえ踊れるのか。
その答えは簡単な物だ。
義母が、暇を見つけて自ら、少女のダンスの相手になっていたからである。
義母は少女が万が一の奇跡で、デビュタントパーティに出席できた日のために、少女に時間が許すかぎり自分のそれを教えたのだ。
まあそれは、ほとんどないに等しい時間を使った物であり、少女は間違いなく練習不足だったが。
「……筋はいいようだ」
「本当? だといいな」
彼が楽し気に目を細め、クラウスは邪気のない顔で笑う。
その時だ、りん、と少女の耳に何かとても小さな音が聞こえ、普段はいている木靴が奇妙な感触に変わった。
「わっ!?」
いきなり何かが変わったせいで、少女は思い切りバランスを崩した。
そして、その崩した体勢のまま、男の胸に倒れ込んだ。
「っ!」
少女は男にしがみつく格好となり、青年は抱きとめる形となる。
二人は少し、そのまま膠着していた。
そういうよりも、クラウスが真っ赤な顔のまま動けなくなっていたのだ。
彼の着崩した衣装のせいで、彼の直の胸板と少女の耳が触れ合ってしまったせいだ。
ばくばくとすごい速さで脈打っているのは、本当に自分の心臓の音だろうか。
クラウスは訳が分からなくなり、強烈に羞恥心が沸き起こった。
逃げたい、とこんなに思うのは初めてな程で、彼女はそろ、と青年を見上げた。
そうすると青年が、少女よりもかなり背丈が高い事が分かる。
彼の眼と、そうやって見つめあった瞬間に羞恥心が頂点に達したのだろう。
「時間だ! わたし、帰らなきゃ!!」
口から出まかせ、というのが正しいが、少女はばっと彼の腕から飛び出し、腰の懐中時計を見やって声を張り上げた。
「ごめん、ごめんね! これで最後だけど、さよなら!!」
訳が分からなくなりながらも、しっかりとバスケットに荷物をしまった少女は、青年が引き留める間もなく走り出した。
途中で見事に転び、しかしすぐさま立ち上がり、脱兎のごとく逃げて行ったが。
見送る青年は、自分の胸に手を当て、それから少女が転んだ場所に落ちている、煌くものに気が付いた。
「……これは?」
彼が手に取ったのは……
運命が変わる、その瞬間はまさにそれだった。
クラウスはひょいと新しい木靴を取り出し、それに足を突っ込んだ。
そして溜息を一つ吐き出す。
「靴、どこに行っちゃったんだろう……片足だけなんて」
昨晩、ぎりぎり日付が変わる前だったので、昨晩と言える時刻。
少女は今まで使っていた靴をどこかにやってしまっていたのだ。
屋敷に帰ってから彼女は、その事実に気が付いた。
気付くのが随分と遅いのであるが、それ位昨晩の彼女は動揺していた、とも言えよう。
彼女はその結果、使用人に支給するために用意してあった、新たな木靴を使う事になっていた。
真新しい靴は少し足に馴染まず、今まで長年使っていたものと比べると、なんとなくおさまりが悪いようだ。
「もっとひどいのは、懐中時計まで落としてきちゃったって辺りか……」
彼女はがっくりとうなだれた。普段そこまで落ち込まない少女が、ここまで落ち込むほどの懐中時計だ。
高価な物だったのか。
「絶対にあの時転んだからだよね……探しに行けば見つかるかな……それとも、時計はぼろでも、そこそこお小遣いになるくらいの値段だから、誰かが拾って売っちゃったかな……」
その時計がよほど大事だったのか、少女は深く溜息を吐いた後に、顔をあげて首を振る。
「今は仕事しなきゃ。お義姉様たちもゆっくり休んでるから、ちょっと色々遅れがちでも、昼までに取り戻せていれば問題ないし。……それにしても忙しいな。新しい人はいつになったら雇えるのかな……当主様の面接、当主様がいないとできないから、あと……何か月も先になるんだよね……」
少女は手際よくあたりを掃除しつつ、庭師の持ってきた花をあちこちに活けつつ、指を折って数える。
「……結局、今年の春の社交界には、当主様戻ってこなかったけれど……どうもあっちでもめごとがいくつもあったみたいだから、仕方がないかな。お姉ちゃんのデビュタントパーティの付き添いがあるから、秋には絶対に帰ってくるわけだし」
指を折って数えて、それからいくつかの想定をする。
日々のあれそれを行いつつ、彼女はおそらく五人分ほどの働きで働いていた。
当然めまぐるしく、食事の時間など取れないような物だ。
ほかの使用人が昼食にありつき、仲間たちと歓談している間も、少女は休みなく働くのだ。
それが当主の言いつけなのだから。
そして、少女の責任感の強さの結果だった。
「お腹空いたな……朝にあんなに食べたのに、もうお腹が空くの」
独り言を漏らしながら、少女は階段まで磨き終えた。
時計が手元にないので良く分からないのだが、と少女はポールルームの大時計を見やる。
「お昼はとっくに超えたんだね。そろそろ皆仕事に戻ってくるはずだから……その間に何かお腹に入れておかないと」
彼女がそう呟いた時だ。
「おやまあ、お嬢。昼餉は口にしたのかい」
庭師が扉を開けて入ってきた。その扉は使用人のための扉であり、無論家の人々の使う物ではない。
そこから入ってきた庭師の老爺は、少女が掃除道具を片付けているのを見て問いかける。
「まだ。……どうしたの、そんなにすごいお知らせが外から届いたの? 小鳥とかが教えてくれるって言っていたけれど」
「この年にもなると、いろいろな事が出来るようになるんだよ。さて、すごいお知らせがあるから急ぎ、奥様方に知らせなければと遅い足を引きずってきたのだが」
「伝言するよ、何?」
少女の問いかけに、庭師が言う。
「昨晩の舞踏会で、謎の美少女がガラスの靴を落したらしい。殿下はそのガラスの靴が履けた娘を、妃候補として迎え入れる、との仰せだとか。ガラスの靴を持った使者たちが、白に近い屋敷から順々に回っているそうだ。この屋敷は最後だろうけれど、その時にだらしない恰好は出来ないはずだから、奥様方に準備した方がいいと知らせてほしい」
「うん、わかった。すぐ、奥様達に知らせて来るね」
これは急ぎの用件だ、と少女は頷いた。
「教えてくれてありがとう! 行かなきゃ」
言った彼女はすぐさま掃除道具をしまい、節度のある速度で階段を上り始めた。
節度のある速度と言っても、なかなか素早い物だったが。
また屋敷は、大騒ぎに近い状態になってしまった。
もしかしたら、妃候補として迎え入れられるかもしれない、となればみっともない恰好は出来ない。
そのために義姉たちが、自分を品よく美しい状態で見せられるように動き始めたのだ。
「こんな事が本当にあるのね、サラ、それじゃないわ、その隣の物を持ってきてちょうだい」
「マーニャ、あなたはさっきから焦りすぎているわ、もう少し深呼吸してから行動してちょうだい」
義姉たちも小間使いもてんやわんやで、その準備をしている。
クラウスは手伝うわけにもいかず、家の事を何とか間に合わせ、ほかの使用人たちに指示をした後でやっと、遅い昼食にありついていた。
もりもりと日ごろの残り物を食べまくっている少女は、いかにも食べる事が幸せだという顔をしている。
「本当に、あんたには残り物ばっかり食べさせているねえ、あたしは」
そんな彼女を見ながら、つかの間の休憩をしている老婆が言う。
「おいしいよ?」
「この家の直系に、どうしてあたしは残り物しか食べさせられないんだか。あんたほど、あの方に似た子はいないのに」
「あの方?」
「……それはそれは大昔にいた、誰よりもあたしが敬愛している人さ。ふふ、内緒だよ。どうひっくり返しても恋愛じゃないんだけれど、あれだけあたしが愛した人はいないのさ。たくさん食べる方でね、料理人としてはひよこだったあたしに、言いたい放題してて。でも上達すると必ず褒めてくれる、そんな方がいたんだよ」
老婆の瞳が煌く。
その時の、昔の事を思い出す彼女の瞳の色は朝焼けのような光をしており、その過去は今でも色あせないのだろう、とわかるものだった。
「そんなに、素敵な人がいたんだ。どこかに嫁いでしまったの?」
「いつの間にか、もうここには帰ってこなくなってしまった人さ。どうしているんだか。音沙汰も何もありゃしない」
しんみりとした空気が流れかけたが、老婆はあ、と小さな声を漏らした。
「おや、困った。バターを切らしてしまっていたよ。御用聞きは昨日来てしまったし、バターがないんじゃ味が決まらない」
「じゃあ、わたし今日時間が空いていたら、買いに行ってくるね。奥様にちゃんと確認して」
「いいのかい?」
「うん、皆に仕事はできる分しか振り分けなかったし、今日終わらせなくちゃいけない物は終わらせたんだもの。問題ないよ。それに、にのくるわのいつものミルク売りの人の所に行けばいいんでしょ?」
「そうだね、長年の付き合いだし、信頼のおける奴だからね」
「ちょっと聞いてくるね、おばあちゃんのご飯に必要な物だもの、直ぐに買ってくる!」
クラウスは今日の仕事の進み具合を頭の中で確認し、それが可能だと判断して立ち上がる。
そしてすぐさま義母に確認をする。
「失礼します、奥様。お時間よろしいですか?」
「どうしたのかしら、大急ぎのようだけれど」
「おばあちゃんがバターを切らしてしまっていて。ちょっとにのくるわまで走って買ってきていいですか?」
「仕事の進み具合は大丈夫かしら? 今日はなんだかキララが浮ついていて、色々失敗しているのよ」
「お姉ちゃんが?」
継母のため息交じりの言葉に、少女は何となく察しがついていた。
きっと、王子様が美少女を探しているというあたりで、自分が選ばれるかもしれないと期待をしているのだ。
でも、あの場所にいたと証明できなかったら、ガラスの靴を履けないのではないだろうか、と少し疑問になるのだが。
お姉ちゃんは決定的な何かを持っているのだろう。
「いつにない調子だわ、熱でもあるのではないか、と心配なのだけれど、キララは私たちにはそういう事を言わない子だから。以前あなたの前で倒れたでしょう。その時も何も言わなかったから」
「……一回お姉ちゃんの様子を見ますか?」
「お願いできる? それで問題がなさそうだったら、そのまま急いでお使いに行ってきていいわよ。そうだ、途中で宝石商のおじさまに会ったら、この前修理を頼んだネックレスの調子をうかがってきてね」
「はい」
言われた事を確認し、少女はぱたぱたと実の姉を探しに行く。
実の姉は珍しく、手紙の仕訳を行っていた。
普段はほかの使用人に任せる事なのだが、珍しい。
それとも何か、手紙を待っているのだろうか。
クラウスはその疑問を脇に置いて、姉に話しかけた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
「……あ……クラウス」
何処か夢見がちな、潤んだ美しい瞳を瞬かせた姉が言う。
「どうしましょう、私……お城に迎えてもらえるかもしれないわ」
「どうして? ……まさかお姉ちゃん、ガラスの靴でも落としたの?」
「そのまさかなの。階段にタールが塗られていて、そこに靴を片方落してしまっていて。それで、庭師の人が知らせて来てくれたでしょう? きっと王子様が私を迎えに来てくださるのよ」
声を二人で一段落とし、二人はそんなやり取りをする。
「そっか、それじゃあお姉ちゃんとはこれっきりのお別れかもしれないんだね……」
ガラスの靴を落した張本人が彼女ならば、彼女が迎え入れられないわけがない。
そのためクラウスは、もうこの姉に会えないのかもしれないとうなだれた。
「さみしくなるなあ」
「大丈夫よ、その時はあなたにも一緒に来てもらうから」
「あ、そっか。身の回りの事を手伝うのって、割と妹の事もあるもんね」
そこまで頭が回った少女はでも、と言った。
「でもそうしたら、家の事心配で眠れなくなっちゃうかもしれないし、お姉ちゃんの事だったらいくらでも、手伝ってあげたいっていういい人達がいると思うよ。熱とかじゃないんだね、体の具合が悪いわけでもないんだよね?」
「ええ、調子はいいわ」
「うん、それじゃあよかった。わたしこれから、またお使いなの。お姉ちゃんの幸運を祈るね、それじゃあ!」
クラウスは寂しい気持ちを紛らわすために、声を少し大きくしてにのくるわに行くべく、したくをして屋敷を出た。
「あ、王宮の馬車だ」
にのくるわまで大急ぎで行き来をした少女は、片手の買い物かごにバターの塊を入れて呟く。
急いでも、徒歩なのだから限度が知れている。
少女ががんばって急いだとしても、相当な時間がかかるのだ。
そのため、ギースウェンダル家の屋敷の前に使者の馬車が来ていてもおかしくはない。
「……ガラスの靴ってどんな靴かな」
少女はふと呟いた。好奇心に駆られたのだ。
お姉ちゃんの運命を大きく変えるだろうガラスの靴、その素晴らしい物は一体どんな形をしていて、デザインで、なのか。
気になるとどうしても気になってしまい、少女は物陰から見守っていれば怒られないと判断し、厨房にバターを置いてから小走りで、使者がいるだろうポールルームの物陰まで向かった。
物陰には使用人たちがそこそこ立っており、クラウスは別の物陰に隠れた。
使者たちは義姉たちの足に靴を合わせている。
どうも大きさがしっくりこないらしい。残念がる義姉たち。
その時だ。
「まだ、使者の方々はいらしている? クラウス」
背後から声をかけられた少女は、いきなりの事だったせいで悲鳴を上げ、無様に倒れ込んだ。
その物音に気付いた使者たち、そして義姉たちが彼女の方を見る。
「おや、まだ娘がいらしたのですね」
使者たちは、外に出かけるために使用人の格好ではなかったクラウスを見て、そう言った。
「ええ、末の娘ですの。デビュタントも前の至らない子で……人前に出るのはまだ先の話なのですけれど」
少女の見た目が、ちょっとおめかしをした格好だからだろう。
継母が落ち着いた声で返す。
ここで、使用人扱いされているなどとは口にも出さない。
家の恥につながるからだ。
たとえ当主命令で少女が働いていても、継子をいじめる継母の方が認識しやすいのだ。
「そうですか。……そこのお嬢さん、よかったらあなたもこの靴を履いてみませんか? さっきから目がきらきらと輝いていらっしゃる」
「末の娘は美しい物も大好きなのですよ」
「そうでしたか。来なさいな」
クラウスは、言われたままに彼らに近付く。
そうすると、シンプルながらとても凝ったガラスの靴を、よりはっきりと見る事が出来る。
「すごい、きれい、わあ……!」
きらきらと目を輝かせて、きれいな物を純粋に賞賛する瞳の娘に、使者が言う。
「ほら、一生の思い出になるかもしれないから、どうぞ」
それは使者の単純な好意だったに違いない。
お伽噺の中の物のような、素晴らしい物を試してみるという夢物語を、この娘にも味合わせてやろうという心意気だ。
「いいんですか? それじゃあ」
クラウスは木靴を脱ぎ、そのガラスの靴に足を滑り込ませた。
そして。
「あ」
「え?」
「ええっ!?」
「なんとっ!??」
「まさか、ここでも!」
ガラスの靴は、まるで少女の足にあつらえたかのようにぴったりと、収まった。
「なんであなたなの!」
さすがに突っ込みたくなったカリーヌが、どうしてかはしゃいだ声で少女を抱きしめる。
「悔しいわ! あなたが選ばれるなんて!」
心底そう思っている、という声でセレディアが、少女に抱きつく。
両側から、大好きな義姉たちに抱きしめてもらって、つい顔がにこにことしてしまった少女は、事の重大さに目を見張った。
「えーっと……そんなばかな」
最初の驚きが、義姉たちの抱擁で一度飛び、再び驚いたらしい。
「あなたも選ばれたのよ、クラウス、本当に腹立たしいけれどおめでとう!」
義姉たちがやけにはしゃぐ中、飛び込んできたのはキララである。
「待ってください、私、この靴の片方を持っているのです!」
キララが差し出したのは、その靴と同じガラスの靴の片割れだった。
美少女の悲鳴のような声に、あたりは一瞬静まり返った。
とても面倒な事になる予感が、クラウスの中に押し寄せてきていた。
「お義姉様、わたし、行けません!」
クラウスははっと我に返って、自分を抱きしめている二人に訴えた。
「行けませんよ、舞踏会にだって、わたし、行かないでのんびり蛍見てたんですよ! どうやれば王子様に御目通りできるんですか。絶対にありえませんよ、靴だって、こんな物だから誰だってある程度大きさが合えば、履けるでしょう?」
彼女は何とか、この運命から抗おうとした。
どうやっても彼女には、この家から出たくない理由があったのだ。
「お願いです、いっそお義姉様たちが行った方がずっといいと思うんです!」
「でもクラウス、これは王子様の命令だわ。そして、女王陛下が王子様にこんな好き勝手をさせるとは思えないから、女王陛下もこのお触れを認知しているの。女王陛下が許して、発布する事を認めたのだからこれは、もう王命だわ」
カリーヌが義妹に言い聞かせる調子で、言う。
「そうよ、クラウス、王命に逆らったら、貴族はやっていけないわ。あなたがガラスの靴を履く事に成功して、王宮に行くのは決定している事なの」
セレディアも、抱きしめる少女が心変わりもしくは、納得するように言い聞かせ始める。
大好きな義姉二人に、両側から言い聞かせられた娘は、ぐっと黙ってしまう。
というのも、言い返すだけの材料も権力も、彼女は持っていなかったからだ。
確かに、言われてみればそうなのだ。
お触れになっている時点で王命。
そして、一般貴族はよほどの事が無い限り、王命など覆せない。
余程の事とは、クーデターなどで王権がひっくり返った場合などだ。
普通は、王命に従うほかないのだ。
従わなければ反逆者という、非常に不名誉な烙印を押されてしまう。
軽く無視できる物ではないのだし、逆らえば明日がないのが王命の重みなのだ。
「ねえクラウス、あなたならわかるわよね?」
顔を覗き込み、心底お願いの調子で、カリーヌが言う。
「あなたは、私たちが社交界でつまはじきにされてしまう事を、したりしないわよね?」
セレディアも問いかける。
二人とも本当は、王子様の所に行きたいのだ、と少女は二人の握った手の強さから、察した。
二人の姉はとても悔しいのだ。
しかし、その悔しさを八つ当たりにせずに、自分に行くように言い聞かせてくれているのだ。
なんて立派な淑女の対応だろうか。
ならば自分はここで、いやいやと子供の我儘を通すわけにはいかない、と少女は素早く判断した。
「……いけば、いいんだよね?」
ぽろりとこぼれた、本質からの問いかけに義姉二人が頷く。
「ええ。行ってくれればいいわ。あなたなら、大丈夫な気がするんですもの」
「行ってらっしゃい、そしていつでも帰ってきていいのよ。わたくしたちは待っているわ」
二人がにこりと笑いかけてくれたので、クラウスは腹が決まった。
「ん、それじゃあ、勘違いとか間違いを早くただして戻ってくるね。……お姉ちゃん、どうしたの? 難しい顔をしているよ」
顔を上げた少女の目に飛び込んできたのは、険しい表情をした実の姉だった。
「あなたも、ガラスの靴に選ばれたのだわ」
何処か意志の強い声で言った彼女は、クラウスを見てから使者たちを見やる。
「使者の皆さま、それでは私とこの子が参ります」
「待ちなさい、キララ。あなたは余所行きの衣装に着替えなさい。それは家での仕事服でしょう」
キララの言葉を止めたのは、継母のもっともな言葉だった。
「私に仕事服以外の服なんてありますのかしら?」
「あなたは何を言い出すのやら。あなたが他所に行くための時の、それなりの晴れ着も十分にあなたの部屋の衣装棚に、クラウスが入れて置いていたと思いますよ」
「まあ」
キララの挑発的な言葉を華麗に受け流し、継母がクラウスに同意を求めてくる。
「うん、お姉ちゃんの余所行きのお衣装はちゃんと、毎回虫除けをしてしまってあるよ。お姉ちゃん、着替えて行こう。お城に小間使いの格好で行っちゃったら、笑われちゃうよ」
「ええ、そうだわ、クラウス。行きましょう」
「キララ様! それならコーディネートは私たちに任せてください!」
このバカ騒ぎに入ってきたのは、キララと同じ小間使いの、サラとマーニャである。
二人そろって、このまたとない機会に目を輝かせている。
「あなた方、たとえキララの衣装を調整しても、一緒に王宮に上がる事は出来ませんよ」
ぴしゃり、と現実を言い切った継母が、ちらりと時計を見やって言う。
「使者の方々を待たせない程度に、着飾ってきなさい、急ぎなさい」
「はい!」
キララが勝ち誇った笑顔になる。
おそらく彼女は、ここで自分がこの家の女主以上に、選ばれた人間だと思ったのだろう。
そんな勘違いは、誰でも思うだろう普通の感覚だ。
王子様が探すガラスの靴の持ち主として、王宮に上がる、となれば選ばれたと感じてもおかしくないのだから。
サラとマーニャを引き連れて、キララが階段を上がっていく。
その間待つ事になったクラウスは、使者の方々を見やって問いかける。
「お茶を一杯いかがですか? 皆さまお疲れの様ですから、お好きでしたらあまいお菓子もご用意します」
「あら、気が利くわクラウス。そうだわ、着替えの時間のあいだ、皆様を客間に通さなければ。皆さま、こんな騒ぎになってしまったので思い至らずすみません」
にこりと、歳を重ねても美しい笑顔を浮かべた継母に、使者の方々が言う。
「いえいえ、そんな事はありませんよ」
「ここに来るまでは、もっといろいろ大変でしたからね」
「まあ、面白そうなお話ですこと、差し支えなければ、キララの支度の時間のあいだ、お話しませんこと?」
情報はいくらでも必要なのが社交界、と十分に理解している継母が、クラウスに目配せをする。
クラウスは立ち上がり、ちりりんと鈴を鳴らした。
やってきたのは、クラウスを自分よりも下だと侮っていたメイドだ。
「すみません、誰かお茶の用意をしてきてもらえませんか? 客間に運んでほしいのです」
「っ」
メイドは、クラウスがやればいいと言おうとしながらも、彼女が城に上がる事になった事を思い出して、言い返せなかった。
ここでやればいいだろうと言えば、自分の頭の中身を疑われてしまうし、解雇されるかもしれないというくらいには、頭が働いたのだ。
家の恥になる事を行った使用人に、この家の女主は甘くないのだ。
「直ちに持ってきますね」
クラウスを一瞬強くにらみ、メイドは小走りに去って行く。
「走っちゃだめだって言ったのにね」
クラウスは小さく呟き、使者の方々がこのやりとりに気付かず、継母を見ている事にほっとした。
彼女の見事な話術は、こういう見られたくない所を誤魔化すのにも一役買っていたらしい。
お義母様みたいな大人になりたいな、とクラウスはまた思う。
「では、私自らになりますが、自慢の客間に案内しますわ」
継母が微笑み、使者の男たちを案内して客間に通す。
クラウスは心底、今日も花をきちんと飾っておいてよかったと安心した。
掃除も徹底して行っていたために、窓ガラスに汚れもついていない。
清潔さで言えば、普通の屋敷をはるかに上回る見事な屋敷だった。
「おお、素晴らしい客間ですね」
「ギースウェンダル家の客間はとても立派だと聞いていましたが、やはり」
「ありがとうございます」
継母は自分は座りながら、客人にも椅子を勧める。
クラウスは継母の脇に、礼儀正しく控えた。
ここで座る無作法は行ってはいけない、と何かの時に教えられていたのだ。
それは使用人としての作法だったかもしれないのだが、この、誰もが自分より身分が上という状態では正しい対応であった。
そこでクラウスははっとした。
「お母さま」
彼女は小声で、継母に言った。
「磁器の鍵はわたしが持っているんです、わたしが鍵を開けないと」
「そうでしたね、クラウス、行きなさいな」
「おや、どうしましたか?」
「いえ、娘に我が家の一番の自慢の磁器の茶器を用意するように、と伝えたのですよ」
「なんと、お若いのに末の娘殿は、磁器の管理も任せられているのですな」
「たしかにしっかりとした目をしていますね」
「銀食器と磁器の管理は、並の信頼では任せられませんからね」
「末の娘殿は、とても奥様に信頼されているのですね」
「しっかりしすぎていて、少し寂しい位ですわ」
使者の男性陣と継母のやり取りを聞きつつ、クラウスは厨房に入り、お茶の用意に手間取っている使用人を指揮し、最高の茶器を用意した。
男性陣が、茶器の見事さをほめたたえ、茶の味にも感心し、継母の話術に夢中になっていても限度があった。
「そこのお前、キララに支度はまだ終わらないのかと聞いてきて、ちょうだいな。使者の皆様もお暇なわけではないのですよ」
継母すらしびれを切らしたほど、待たされている使者の方々である。
メイドは、滅多に見ない継母の絶対零度の空気に真っ青になった後、直ぐにキララを呼びに行った。
「申し訳ありませんわ。皆様もお暇ではないというのに」
「いいえ、若い女性の身支度に時間がかかるのは、よくあるお話です」
「それでも、限度という物がありますわ。しっかりと言い聞かせておかなければ」
継母が微笑みながら、何がいけない? という反論が思いつかない微笑みを浮かべていれば、少女は嫌でも気づいた。
お義母様は、この手の事で何度か、お姉ちゃんを注意していたな……と。
クラウスが控えていれば、おしとやかな美しい声で、キララが声をかけて現れた。
「お待たせいたしました。何分このような名誉は経験した事が無くて……」
現れたキララは、余所行きというよりもずいぶんと着飾っていた。
髪の凝った形に、言えない事が色々あるだろう。
しかし使者たちも大人だ。
「いえいえ、うら若き美しい娘の用意には、色々と時間がかかりましょうとも」
「ささ、クラウス殿、キララ殿、参りましょう」
キララの待たせっぷりを注意するでもなく、二人の娘を連れて行く。
「……お義母さま」
クラウスはふと不安になり、いつも頼りになる継母を振り返った。
「いつでも、手紙でも何でも、あなたの便りを待っていますよ、クラウス」
継母が笑った意味を、クラウスは知らない。
彼女が、この家からようやく、虐げられてきた義理の娘を解き放てると安堵している事など、全く知らなかった。
使者の馬車は立派なクッションを持っており、クラウスは座って早々眠くなりそうになった。
しかし眠気をこらえ、向かいで緊張してドレスを握り締めているキララを見ていた。
キララは下を向き、緊張が頂点に達したような表情をしている。
「……おねえちゃん、だいじょうぶ?」
眠気のあまり、どこか幼い調子で問いかけた妹に、彼女は答える。
「あなたよりはずっと大丈夫よ、この場所に座っている事に関しては」
「うん、大丈夫ならよかった。調子が悪くなったら、直ぐに教えてね、膝を貸すから」
大丈夫というなら、大丈夫なはずだ、とクラウスは窓側に目を転じた。
いちのくるわの、それも王城に近い方面に行った事などない娘は、見る立派な屋敷の一つ一つがとても物珍しく映った。
「すごいな……きれいで」
彼女は小さく呟き、隣の使者の男性に問いかけた。
「いちのくるわの中のお屋敷は、全部でどれくらいなんですか?」
「表の通りに面している屋敷は、皆大貴族ですよ。通りに面している、という事はそれだけで立派な事を証明するのです。大通りに遠いほど、身分は低いとも言われていますね」
「そうなんですか……」
「ですから、ギースウェンダル家の屋敷はとても珍しいものですよ。いちのくるわの端でも、ほかの屋敷に負けない立派な物で、大通りに面しているのですから。かの家の珍しいなりゆきを示すようですね」
「へえ……」
窓に行儀よく食いついている少女は、やはりどこからどう見ても、この選定にそぐわない純粋さがにじんでいた。
王城はたとえ逆立ちをしても、自分には合わない世界だとクラウスは感じていた。
馬車から降りたクラウスは、まずはじめに城の大きさとその美しさに息をのんだ。
白いのだ。
純白の城というのは、屋敷から遠巻きに眺めて知っていた。
だが実際に近くから見ると、その白さと流れるような金の塗料の色に銀の塗料の色がきらめいている。
「お城ってこんなに綺麗な……」
彼女はようやくそんな事を呟いた。
彼女は自分の家がなかなかの物だと思って生きてきた。
しかし、城はそのなかなかの物という評価を崩す物だったのだ。
通りに面する大貴族たちの、驚くほど豪華な屋敷の後だった事も相まって、少女は自分の家は本当に身分に相応した屋敷だったのだと知ったのだ。
「いつまでも見ていたくなるお城ですね」
クラウスは目を輝かせて、案内をしてきた使者を振り返る。
その眼がきらきらと輝いていたのは、何もおかしな話ではない。
綺麗な物が好きで、お城と言うものにあこがれを抱く一般的な貴族の少女ならば誰でも目が輝くのだ。
使者は、当たり前に見てきた反応でありながら、あまりにも少女が野心や邪気のない調子で言うものだから気をよくした。
仕えている国の城の事を、こうしてほめられて悪い気はしないものである。
「ええ、毎年年明けのパーティの前に、磨き上げるのですよ」
「大変でしょう」
「ええ、それ専門の職人がいるのですよ。彼らはギースウェンダル領周辺から、毎年その時期になるとやってきてくれるのです」
クラウスは目を大きく開いた。
「ギースウェンダルから? なのにわたし、そんな話全く知りませんでした。わあ、すてきですね、ギースウェンダル領の誰かが、このお城をぴかぴかにしてくれているんですね……」
彼女の中で、自分の家の領民は元々好印象の者が多い。
当主宛ではない、継母宛のご機嫌伺いの手紙にはいつも、小さくてささやかなおみやげが付き物だった。
きらきらしたカーテンのタッセル、食堂の暖炉に飾ると綺麗な飾り、領地では一般的だという、日の光を受けると虹色に輝くサンキャッチャーというもの。
それからいくつかの植物の種もあった、とクラウスは記憶している。
それらは庭師の老爺が大切に育てていて、ここぞと言う時に飾られるのだ。
見た目はとても質素なのだが、匂いが薔薇や百合よりも儚げでありながらかぐわしい、というのが継母の感想であり、クラウスはそれがとてもいい虫除けになるため、蕾を干して匂い袋にしている。
継母や義姉たちは、いい香りでも花の名前がわからないと無知扱いされてしまうから、と使わないため、クラウスは最初は使用人たちにも配っていた。
しかし使用人たちは、高価とも貴重だとも言い難い、持っていてもステイタスにならないそれを、ゴミ箱に捨てていたのだ。
数回捨てられ、クラウスも学習し、使用人たちには配っていない。
そのかわりに、料理人の老婆がたくさん欲しがるので、彼女に山分けをしている。
庭師の老爺も欲しがるので、彼にも山分けである。
欲しい人にあげた方が、ゴミにされないので匂い袋もうれしいだろうというのが、彼女の考え方である。
これが高価な薔薇の香りや、白百合の香りであれば、皆こぞって欲しがったんだろうな、と思うと少女としては寂しい限りだが。
「本当に、ギースウェンダルって色々あるんですね」
「そうですね、交易の要でもありますし。あの周囲が近年、あまり穀物がとれない事が心配です」
聞いた少女は姉をみやった。
次の領主になるべく、日夜継母に鍛えられている姉は、この事を知っていただろうか。
しかし。
「あれ、お姉ちゃんがいない」
彼女の姉はもう一人の使者の手を借り、淑女としての姿勢ですでに城の中に入ってしまっていた。
「……置いてかれてしまいましたね」
クラウスは呟いてからはっとする。
ここに来たのは、物見遊山のためではないのだと。
「ごめんなさい、うっかり見とれすぎていました」
「大丈夫ですよ、ほかの令嬢の中にも、未だにここに来ていない方が数名いるようですから。ギースウェンダル家よりも先に選定を受けた家で」
使者は茶目っ気たっぷりに眼を瞬かせて、少女に言う。
「さあ、こちらですよ」
ガラスの靴が履けてしまった娘は、緊張した面もちで頷き、彼に触れる事をためらった。
「あの、まだわたし、デビュタントもしていなくて。腕をお借りしても問題はありませんか?」
「おや、そうでしたか。デビュタントしてからでなければ、男性の腕を借りる事はできませんからね。後ろをついてきてくださいな」
使者は悪い気もしない顔でそう言い、クラウスはそれに続いた。
続いた先でもまた、城の内部の壮麗な作りに感嘆の息をもらし、足をしばしば止めてしまいそうになったのだが。
それでもクラウスは、相手が不愉快にならないように、と何度も自分の心を抑え、何とかその部屋の前に到着した。
「私の案内はここまでです、お嬢様」
使者の男性はそう言い、クラウスは頷いた。それからにこりとほほえみ、こう返した。
「案内をありがとうございます。とても助かりました」
おそらく一人で来てしまっていたら、とても長い間あちこちに見とれてしまい、周りにかなりの迷惑をかけただろう。
その予想が余りにも簡単についてしまう自分に、彼女はどこかで苦笑いをしていた。
そんな少女であるが、彼女は息を一つ吐き出して吸い込み、ゆっくりと開かれた扉の向こうに入っていった。
まず始めに彼女が思ったのは、これは何の晴れの舞台だろう、という事であった。
というのも、そこにいる若い女性たちの誰もが着飾っていたからだ。
キララの服装など、この場ではとてもありきたりな見た目に写った。
それほどに、誰もが着飾っていたのだ。
そのまぶしさたるや、もう一度妃選びの舞踏会が始まりそうな勢いだ。
そんな光景に圧倒されつつ、クラウスは一番後ろの、人目に付かないだろうカーテンの陰の位置にたった。
こんな場所に自分ほど、庶民的な衣装を身にまとっている人間がいなかったせいで、とても気後れしてしまったのだ。
彼女でなくとも、ほかの誰もが美しい状態であるのに、自分だけ普通の格好であれば気後れするだろう。
実際にクラウスをちらりと見たほかの令嬢たちは、鼻で笑った。
いかにもそれは、取るに足らない敵にもならない、そんな相手に対する視線だった。
こんな場所は間違いだ、いいや、文字通りの場違いだと心底思いながらも、少女はここに集められたほかの女性たちと同じく、何か指示を出してくれる相手が来るのを待っていた。
クラウスが来てから十分ほど後に、これまた壮麗な衣装の女性が現れた。
彼女を見るや否や、あまたの候補の女性たちがその眼に敗北感をにじませた。
よほどの名家の女性なのだろう、と見えないながらも周りの反応から少女は察した。
すでに社交界に出ている女性たちの間から、声が聞こえてきた。
「モリアティ侯爵家のイザベラ様だわ」
「あの方も選定に選ばれたのですね……」
「よく、ガラスの靴に脚が入ったものですわ」
それは小声ながらもはっきりと聞こえ、あんまりな言いようではないかと少女は思った。
まるで侮蔑の対象のような声だったのだ。
侯爵家、それもモリアティという名前なら、今かなりの勢いの家ではないかと、少女は街で聞いた噂を頭から引き出す。
侯爵の弟が、将軍だったはずだ。
とても女王陛下の覚えがめでたい将軍だったような、と街の噂を思い出す。
そして侯爵自身もなかなか、女王の信頼が厚かったのではないだろうか。
クラウスは何とかもっと情報を集めようとしたが、ほかの令嬢たちが何か言う前に、りんとした声が響く。
「何かいいたい事がありますのならば、わたくしにむかってはっきりとおっしゃって欲しいわ」
その声の自信に満ちた音に、少女は、目を大きく開いた。なんてよく通る声の持ち主だろうか。
この声でりんと、放たれた音は強い力を持っていそうだ。
事実ほかの令嬢たちは押し黙り、くすりとその女性が笑うのが聞こえた。
「弱気な方々だわ。……自分の行為を正当化できないのに行うなんて、よろしくなくってよ」
これはかなりの気質の人だ、背中を追いかけたくなる系統だ。
何かの先頭に立つと、皆がそれの後を追いかけたくなってしまうだけの、吸引力を持っている人だろう。
姿は見えないながらもクラウスは、彼女の自信に満ちた力強い声に、心底感嘆した。
彼女が現れてから程なく、扉がまた開く。
しかしその扉は、外からのものではなく内側からの物であり、明らかに城の関係者が入ってくる扉だった。
そこから現れた女性は、ぴっちりと髪の毛をまとめ上げた女性である。
彼女の衣類の肩に留められたブローチは、王城でも滅多にお目にかからない印だ。
誰だろう、と思った少女だが、その女性が口を開いた事で疑問は解消された。
「皆様、ようこそ、王城へ。わたくしは女官長のセレニアと申します。皆様はガラスの靴に選ばれた女性たち。王室はあなた方の中から、妃を選定いたします」
とてもはっきりとした明瞭な声が、続ける。
「皆様には妃候補として、王城の春の宮で過ごしていただきます。その間に、皆様には同じだけの妃としての教育を施させていただきます。何故ならば、皆様の教育に隔たりがあるからです。それでは選ぶも何もありません。……同じ場所に立たせなければ、どれだけ素質を持っていても知識のある者に劣るという見方になるからです」
彼女は周囲を見回した。あまたの少女たちだ。
それはあまたの貴族階級に属する娘たちだともいえる。
たしかに、男爵家の教育と、公爵家の教育では隔たりが大きいだろう、とクラウスはどこか遠い場所のように思った。
それ故に、同じだけの物を持つように学ばせるのだろう。
素質を見抜くためだ。
「過ごしていただくのは二ヶ月。満月の晩、……秋のデビュタントパーティの後の満月の晩に、皆様の中から四人の候補者を出させていただきます。候補者の皆様はその後自由に過ごしていただきますが、その中から正妃となる方が決まります」
全てが選定の判断基準なのだ、とクラウスは察した。
自由にといって、彼女たちの行動や性格のぼろが出るかどうかも計るのだろう。
とんでもないな、こんな魔窟からは早々に出ていけるようにしなければ。
だが、ここでまじめに勉強をしなかったら家の恥になるだろう。
勉強だけはまじめに行わなければならない。
だが。
クラウスはちらりと、まぶしいほどの金の髪の少女をみる。
自分など逆立ちしてもお姉ちゃんにはかなわない。
がんばってまじめに勉強をしても、キリがしれているだろう。
彼女はそう判断し、思ったよりも楽そうなのでほっとした。
女官長の話は続く。
「王子殿下は、皆に平等に訪れますのでご安心を」
それを聞いた少女はとても、王子に同情した。
彼だって自分の時間が欲しいだろう。多少なりとも。
その時間を全て費やさなければおそらく、この四十人を越える娘たちの顔を見る事など出来やしないはずだ。
王子様の妃選びだというのに、これでは王子様も嫌気がさしてしまうに違いない。
自分の所には来た振りでいいのだから、王子様には心休まる時間があった方がいいなあ、とお人好しの少女は思った。
春の宮には数多の部屋がある。
クラウスはそこの一室と、王宮付きの使用人を数名用意してもらう事になった。
妃候補は全員、王宮から使用人を用意してもらうらしい。
自分の事は自分でできるのに、と思いつつも彼女は、それに従った。
女官長が説明を終わらせた後が大変だった事から、彼女は精神的に疲れてしまい、自分は偶然から靴が履けたのだ、と説明しそびれてしまったのだ。
「おかしいですわ!」
あの後、そう女官長の説明の後に、声を上げたのは一人の高位貴族の令嬢だった。
彼女の名前は知らないし、単純に少女は見えた豪華な衣類から、そう言う風に判断したのだ。
「ガラスの靴が履けたのはわたくし! わたくし以外は皆偽物ですわ!」
彼女の言葉を皮切りに、ほかの令嬢たちも自分がそうだ、ほかは偽物だと騒ぎ始めたのだ。
それは、この部屋に集められていた娘の誰しもが抱いていた感情であるようで、一人が言い始めるともはや、収まりがつかなくなっていた。
女官長に詰め寄る複数の娘だが、女官長は海千山千の強者だったようだ。
「ガラスの靴は、すばらしい娘を複数集めますよ。皆が本物であり、偽物はおりません。王室は皆様にとても期待しております。……皆様がすばらしい妃候補になる事を、です」
言外に、この騒ぎ立てる調子は妃候補として減点だ、と匂わせた女官長の空気に少女たちは黙り込む。
彼女らとてすぐにわかったのだ。
選定はすでに始まっているのだ、と。
そして彼女らはさきほどの勢いがなかったように、次々と家名の順にメイドに連れられ、己が数ヶ月過ごす宮の部屋の一つに、去っていった。
クラウスもそれに習い、キララの後にそれに続く。小さく、娘たちが憎々しげにキララの事をしゃべるのが耳に入っていた。
「見てよ、同じ家から二人も」
「それにしても、落差の激しい二人だわ」
「美少女と凡才?」
「きっとすぐに選定からはずれてしまうでしょう」
クラウスはそんな事実を全く気にも留めなかった。
彼女の中では全てが全て、事実でしかなかったのだ。
美しいのは姉に義姉たち。中でもキララはとびきりで、髪の毛の色以外はとても地味な自分。
どう考えても落差しかない。
だが、クラウスという少女は劣等感など持ちやしないのだ。
次元が違いすぎる物に、人間は劣等感なんて抱けない。
美の女神に、人間の地味な女が劣等感を抱くだろうか?
答えは否でしかない。
彼女からすれば、自分と姉の顔の違いなんて、その世界なのだ。
クラウスは、女性たちの声など気にせず、退室する際にくるりと中に振り返り、そして。
一礼をした。礼を尽くした単純な一礼。
それは、使用人と同じ扱いが長かった少女にとって、当然の習慣だった。
退室する際は一礼を。中への人々の礼儀だ。
彼女が顔を上げると、なぜか女性たちは目を少し丸くしていた。
しかしそれに疑問を投げる前に、クラウスは案内人の女性に追いつくべく、少しあわてて去っていった。
「……身の程くらいはわかっているようですね」
誰かが小さく、そう言う事を呟いた。
そして連れられた春の宮の一室は、クラウスにとってはとても身に余るものであり、慣れたくないと思いつつも、これの中に二ヶ月もいたら、慣れてしまうだろうと推測ができる物だった。
環境の変化になれないままだと、いきものは生きていけない。
それ故に、生存本能が、自分が壊れないようにと環境に適応するのだ。
周りを見ながら、少女はそんな事をふと思い出し、呟く。
「慣れたくないな、ここの生活」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も」
つぶやきは、ありがたい事に誰も、聞いていないようだった。
少女は部屋のクロゼットを確認し、簡単に大きさが調整できる寝間着と、部屋着が老いてある事にほっとした。
それ以外の衣類が存在しないのは、何か理由があるのか。
中をしげしげと見ていた彼女に、背後から声がかけられた。
「あなたの採寸をして、ここでの暮らしに合った衣装が作られるのよ」
その声は明るく軽く、そして気の強い調子だ。
振り返った娘は、相手を見て目を丸くした。
「うわ、すごい美人」
「ありがとう! お世辞でもほめられるとうれしいわ。私フィフラナというの。公爵家の養女で、あなたの小間使いになるのよ」
相手のほめ言葉に気をよくしたのだろう、彼女は笑顔でクラウスに一礼をした。
それも、なんだか自分とは大きく違う、育ちの良さが現れた見事さだ、と少女は感じてしまう。
無遠慮かもしれないが、とクラウスは彼女をみる。
綺麗な艶のある、飴色の髪の毛を動きやすく髷にし、リボンで縛っている。
白い肌に少し赤みが差した頬がいきいきとしているから、おしろいなど必要ないし、頬紅もいらないだろう。
大粒の琥珀色の、頭の回転の良さも現れている瞳。それが日の光に好かすと金色の光をはじきそうだ。
体つきも、魅惑的と言っていいだろう。
簡単に言えば、ギースウェンダル家の女性たちのような、可憐さや清純さはないながらも、見事に美女と言っていい娘がいたのだ。
彼女の方が、絶対に妃候補としてふさわしいだろうな、とクラウスは思った。
「あなた、でも私はガラスの靴が履けなかったのよ」
手をひらひらと揺らし、彼女が言う。
少女はそこで、自分が思っていた事を口に出してしまっていた、と気づく。
気づいて少し、恥ずかしくて視線を逸らした。
「ごめんなさい、あまりにもあなたがすてきな女性だから……」
少女のまじめな本音に、女性フィフラナが吹き出した。
「やだあなた、そんなかしこまらないでよ。私の方があなたの小間使いで、あなたのお願いを聞く側なんだから」
「……でも、公爵家の養女の方でしょう? わたしの方が身分的にも立場的にも……」
「あのね? 妃候補がどうして、自分の家で修練を積まないか知ってる?」
「いいえ」
「ガラスの靴に選ばれた女性は、皆、平等にするためよ」
クラウスはそこで、女官長の言っていた事がそう言う意味だったのか、と気づかされた。
「自分の家で修練だったら、お金のあるなしで色々決まってしまうものね」
「あら、すぐにわかるのなら、問題ないでしょう」
フィフラナがそう言ってから、クラウスに言う。
「少し、あなたは疲れているようだから、お茶を用意したわ」
「それじゃあ」
クラウスは彼女をじっと見て、こう提案した。
「一緒に、席に座って、お話ししてくれますか? あなたと話したいんです」
その言葉を聞いた彼女が、弾けるような快活な笑顔で言った。
「ええ、もちろん」
二人はそこでお茶を飲み、他愛ない会話をした。はたからみれば、小間使いとその主というよりも、年の違う友人に見えた事だろう。
そこで、クラウスは、フィフラナの野望を知った。
「それじゃあ、王子様の衣装担当になって、玉の輿狙ってるの?」
「そうよ。以前、そういう経緯で側妃になった人がいるの。公爵家と縁がある人で、私もそれを目指そうかしらって思っていて」
「それじゃあ、フィフラナさんは、衣装のあれこれにとっても詳しいの?」
衣装のあれこれなど、季節にあった布地くらいしか知らない少女は、身を乗り出した。
「どうしたの、そんな眼をきらきらさせて」
「だって、フィフラナさんに服を選んでもらったら、絶対に間違いないんでしょう?」
「そこまで言われると張り切りたいけど……何がいいたいの?」
「フィフラナさん」
「何?」
「春の宮にいる間、わたしが不敬にならないように、衣装を選んでください!」
「……もしかしてあなた、衣装センスがすごく悪い?」
「そうじゃなくって、わたし、衣装のマナーも何も知らないの」
「本気で言っている? もしかして冠婚葬祭の全部?」
「全部、使用人の格好して、それの準備とか手続きとかしていたんだもの」
クラウスの、あっけらかんとした言葉に、彼女が黙る。
何か変な事を言っただろうか、と娘は彼女の顔をのぞき込む。
「フィフラナさん?」
「もしかしてあなたが、ギースウェンダル家の灰かぶり?」
「シンデレラ、なんて名前じゃないよ?」
「……あのね、ギースウェンダル家には、三人の娘がいて、二人の継娘と、当主の血を引く直系の娘が一人いるって言われているの」
「へえ、そうなんだ」
クラウスからすれば、分からない話ではなかった。
キララは継母の直々の小間使いで、跡取りとして教育されていた。
上の二人の義姉たちが、あの屋敷に継母とともにやってきたのも周知の事実だ。
しかし、世間がどう見ても、自分は娘として確認できないだろうとも。
当主にも、当主の前妻にも似ていない娘が、家の令嬢として認められている事が驚きだ。
クラウスにとって、自分が娘の頭数としてあげられていない事は、それで納得する物だった。
父から、家名を名乗る事、つまり貴族として、娘として認知されていないという事はそういう事だった。
その事実に気づいたあたりで、クラウスは父を父と呼びながら、父として認識する事ができなくなっていた。
あれは当主様。自分の働く屋敷の、当主様。
本当に、そういう認識になってしまったのだ。
おそらくそれは、父から愛されない少女が、自分の心を守るために行った自己防衛だった。
クラウスはそれで良かった。義母や義姉たちが、家族として扱ってくれる。
少女にとってそれで十分だったのだ。
彼女は父から、愛情をもらう事をとうの昔にあきらめたのだから。
愛情なんて数ではない。
血のつながりのない愛でも、愛は愛だ。
「それで、その一人の娘が、どうしたの?」
直系の娘が一人だと、勘定として合わないなと、すぐに気づいた少女はフィフラナに続きを促した。
そして、驚きの言葉を聞かされた。
「その、直系の娘が、継母にぼろ雑巾みたいに働かされていて、使用人のようだって」
「違う!」
クラウスは、自分で思っても見ないほど、強い響きの声で言った。
「違う、違う! 義母様はそんな事する人じゃない! わたしが当主様から言われて、やってるんだ! それに、お姉ちゃんは名誉ある義母様の小間使いだよ、時期女当主として学ぶためには、そこが一番いいって」
自分でも感情が振り切れ、何を言っているか支離滅裂な彼女だったが。
その状態の娘を見て、フィフラナは何か悟ったらしい。
「クラウスさま。……よければ、いくつか順を追って説明してもらった方がいいわ。あなたの身を守るためにも」
声ははっきりとしており、娘よりも社交界の陰の部分を知っているフィフラナが、少女を案じているのがわかるものだった。
そして、クラウスの話を一通り聞き終わったフィフラナが告げた。
「あなたは、あの家の四番目の娘なのね。それも父親から認めてもらっていない」
「うん」
「……これは大変な話だわ。いい、クラウス様。あなたはその事実を、他人に喋ってはいけないわ」
「何で?」
「あなたの話を、事実だと思えないからよ。あなたの話を聞いて、だいたいの人は継母をかばって、父親を悪く言っているのだ、と認識するわ。辺境伯はそこそこの人だと言う評価だから。それに、通りがいいのも、理解が早いのも、継子いじめの方なのよ。古今東西、どこにでも転がっている話だから」
フィフラナの指摘に、クラウスは呟く。
「お義母様はそんな事しないのに……」
「でも、世間はそういう風に見ているの。それで、そういう風に噂ができあがっているの。それを覆すのは難しいわ。だからあなたは、継母や義姉たちを守るためにも、あなたが父にないがしろにされていたという話をしてはいけないでしょうね。混乱させるし、いらない詮索を招くわ。下手したらあなたが脅迫されているっていうふうに思うかも……ただ」
「ただ?」
「……なんでもないわ。ただの予測でしかないもの。ええ、そう」
「……フィフラナさんが考えている事はわたしには、わからないよ」
「そうね」
クラウスは彼女の笑顔の中に、何ともいえない何かを感じたのだが、それをあえて追求はしなかった。
使用人は追求が許される立場ではなかったのだ。
それ故に彼女は問いかけもしなかった。
一つ笑うばかりで。
その後も色々と会話をした後、クラウスは彼女が背後に回ったので、怪訝な顔になった。
「どうしたのですか?」
「……あなた何よこれ、ばさばさの髪の毛じゃない! これはいくら何でもひどいわ、髪の表面がはげて、色が抜け落ちちゃっているじゃない、艶も何も、あったものじゃないわ」
「そうかな」
「あなた今まで何で髪の毛洗ってきたの」
「洗濯用の石鹸」
クラウスのあっさりとした声に、フィフラナがしゃがみ込んだ。
洗濯用の、シミや油を落とすためにとても強い石鹸は、少し使うだけでも手が著しく荒れる。
その石鹸で髪などを洗ったりすれば、ろくな髪の毛にならない事は間違いなかった。
その事を考え、受け入れがたい事実にフィフラナがしゃがみ込むのも仕方のない事であった。
「どうしたの?」
まさか自分の言った事で、そこまで理解不能の物があるとは思ってもみない少女の問いに、娘が立ち上がる。
「今日は髪の毛の洗い方から教えてあげますよ。……人目があるし、あなたの色々な物に関わるから、二人でいる時以外は、私も丁寧に話すわ」
「お願いします」
にこにこと笑った少女を見て、娘はこれはなかなか大変なところから、貴族のあれそれを教えなければならないかもしれない、とうっすら感じ取っていた。
「こんなにたくさんの種類の物で、髪の毛を洗うの?」
クラウスは泡の浮いた風呂にはいりながら、目を丸くしていた。
彼女が見ているのは、繊細なガラスの瓶に入れられている物たちだ。
少女が見た事がないそれらの瓶は、ラベルが金字で刻印されている。
それらを一読すれば、それらが髪を洗う石鹸の高級品だと気がつくだろう。
クラウスも、そのラベルを見てすぐにそれが、自分の手には届かない物たちだと見抜いてはいた。
ただし、知っていてもそれで自分の髪の毛を洗うとなれば、話は大違いだ。
こんなにたくさんの物で、髪の毛を洗うのか、という疑問になる。
彼女からすれば、洗濯石鹸でも清潔に髪の毛を洗えるのにどうして、こんなにたくさんの高級品を使うのか、という物なのだ。
確かに彼女も、こういう物があると知っているし、こう言うものの商人が屋敷を訪れ、女主人たちが買い求める光景も見ていた。
だが、自分には無縁の世界、というのが少女の認識だったのだ。
いきなりこんな物を見せられて、あなたに使うのよといわれても、うまく結びつかないわけだ。
「そうですよ、こちらは貴族令嬢ならば一般的に使う、薔薇の香りのする石鹸、こちらは少し高級品の、石鹸の後につけて洗い流すつや出しの物。でもあなたはそれ以前の問題で、髪の毛の表面がはげたものを少しでも治さなければいけませんから、こちらを用意していただきました」
「いらないと思うのに」
いいながらも、少女は小間使いを見やる。
「これも妃候補として恥にならないようにっていう物の一つですか?」
「ええそうですよ。妃候補が見た目も最悪なんて言う噂が流れてしまったら、王室の大問題に発展しますからね」
どうやら、自分はこの高級品たちに慣れなければならない、とクラウスは察した。
そうしなければならないだろう、と。
王室の問題になれば、実家のギースウェンダルにも何か差し障りがでる事程度は、彼女でもすぐにわかったのだから。
「あなたはここにいる間は、きちんと身なりを整えた状態でなければいけないのですよ」
「そうみたいですね」
少女はいい、こう続けた。
「それでは、フィフラナさん、お願いします」
「任せて。これでも小間使いとしてここにあがる時に、侍女たちに鍛えてもらったのですよ」
にこっと魅力的なほほえみを見せたフィフラナに、クラウスはすべてを任せる事にした。
髪の毛を三回も洗うという時点で、彼女の想像を超えていたのだが。
「クラウス様の髪の毛は、どうやら痛みすぎて色が抜け落ちている状態のようですね。きらきらの金の髪の毛と言うよりは、濃い色のようです」
髪を洗ったフィフラナは、女官長にそう告げた。
彼女もここで働いている身の上である。
彼女は公爵の養女であるが、元の出自が低いので一度、ここで行儀見習いをこなすべきだと養父が判断したのだ。
そして彼女も、一応女官長に従う身の上である。
そのため、今夜の事で、何か気になる事は報告するべし、という通達にのっとったのだ。
「髪の色が金ではなさそう?」
「なにやら、もっと青みがかった色のようなものだと見受けられました。彼女の髪の毛がきらきらと輝く金の髪というのは、色のほとんどが抜け落ちているからだと」
「染めている結果ではなく?」
「あの、手触りのひどすぎる髪で、あれだけ色を抜く場合、髪の毛じたいがちぎれてろくな物になりません」
「そうですか」
女官長は、それを何かの帳面に書き付けた。
「彼女の生活がかなりひどいものもしくは、目も当てられないものだったのは、間違いないでしょう。手を見ればすぐにわかります」
「荒れていましたか」
「ぼろぼろでした。よくまあ、手の指が落ちないのだな、と思うほど荒れていました」
「それほど……」
「洗濯用の石鹸を使い、食器洗いのための強力な石鹸を使い、皿に磨き粉のような手に悪いものを常にしようしているからだ、と思います」
「あなたも出自は下の方でしたね」
「ええ。下町で掃除女をしているのが母でしたが、何か問題が?」
「いいえ、何もありませんよ、あなたの働きは見事なものですからね。そして、あなたは彼女に親切にしてやりたいと?」
「はい、私個人の見解でしたら、親切にして幸せに笑っていて欲しいと思います」
フィフラナの報告に、女官長がうなずき、言う。
「あなたは報告を怠らなければ、あの子にどれだけ親切にしてもかまいません。あなたは賢明ですから」
「お褒めに与り恐縮です」
言ったフィフラナが退室する。
そして数人、他の妃候補の事で報告にあがる小間使いや女中たち。
彼女たちの報告を確認し、女官長は言う。
「今回の妃選定は、大嵐になりそうですね」
それは実に的を得た未来の予測だった。
「もうあなたに教える事はありません」
授業の終わりに、頭を下げられて言われたクラウスは、またなのかと内心で思い、そして問いかけた。
「わたしは問題がありますか?」
「いいえ、ありませんよ。次の段階の教師を急ぎ、手配させていただきたく思います。もう私の教えられる範囲を飛び越えそうなので」
「そうですか、今までありがとうございました、次もがんばりますね」
なんだ、また一段お勉強の段階があがり、ほかの令嬢たちに近づくのか、などと考えた少女は笑顔に変わった。
一つ一つ、階段を上るように勉強の段階があがってゆき、物を考え、教師と意見を交わし、教えてもらうのはクラウスにとってとても、有意義な物だった。
初歩の読み書きくらいは出来たクラウスだが、算数の足し算引き算を越えるともう、手に負えなかった。
それ以上の勉強をする時間もなければ、教えてくれる相手もいなかったのだ。
そのため、妃候補似ふさわしい教育を施す教師たちが、こうして部屋に訪れ、彼女に色々な事を教えてくれるのは楽しかったのだ。
知らない事が知っている事に代わり、自分の体の中に何かが満ちていくような、その感覚は少女にとって楽しい物だったのだ。
そのため、彼女は段階があがるたびに、楽しい事がさらに楽しくなるのだと、期待に胸を弾ませる。
古典芸能、古典文学、古代文字、歴史、数学、医術、地理学、経済学、妃としての教養、とにかくクラウスが覚えなければならない物は多岐に渡り、彼女はとにかく頭を使った。
彼女はそのあたりの基礎の教養が何もなかったので、そこから教えなければならない、と王室は判断したらしい。
ほかの令嬢たちも、足りない部分はびしびしと教えられている、と言うのが情報に詳しく、ほかの妃候補の使用人たちと連絡を取り合うフィフラナの話である。
娘は別段、自分だけ劣っていても大して気にしなかっただろう。
だが、それでも他の人も、というあたりを聞くと共感してしまう部分はある。
そしてほかの、自分よりも覚える事が少ない令嬢たちが、優雅にお茶会をしていると聞かされると、これをとっくに覚えているのか、と尊敬してしまう。
「あなた、お茶会に出席したいとかはないの?」
「準備は得意だよ、お茶のタイミングとか、すごく読むのうまいって言われる」
フィフラナの疑問に、こうしてずれた答えを返すのももはや日常だ。
彼女ははじめ、何も自分で整えない環境に慣れなかったのだが、最近はそれにも慣れてきた。
少なくとも、自分でお茶を入れようと厨房に行こうとする姿勢はなくなった。
これだけでも、フィフラナのつっこみが減ったほどだ。
あまりにも使用人根性がありすぎる、というのが、フィフラナの判断である。
「あなた、妃候補からはずれたら、私の屋敷に私の小間使いとして入らない? 縁談もいいのを用意できるわ」
などと、半ば本気で言いだした公爵家の養女に、彼女の答えは笑える物だった。
「おうちでがんばるの。屋敷の事、たくさんやらなきゃ! お義母様たちいるんだもの」
おそらく、その継母や義姉たちはあなたを屋敷に戻したくないわ、とフィフラナは言いそびれている。
彼女は、数多の屋敷に使用人の知り合いやつてがあり、そこからギースウェンダルの家の女主人が、毎夜継娘がこの屋敷に戻ってこない事を祈っている、と知っていたからだ。
情報戦で言えば、彼女の実家の公爵家の右にでる家はない、とこっそり言われているほどの家の中でも、指折りの実力者が養女の彼女だった。
閑話休題。
言うにいえないとはまさにこの事、とフィフラナは思ってしまうわけだ。
クラウスが目に見えて落ち込みそうだからである。
妃候補の精神状態を整えるのも、小間使いの仕事なのであった。
「ねえ、フィフラナさん、次は何を教えてもらえるんでしょうね、古典はこの前言われたもの全部読んでしまったよ、……そうだ、わたし、この次の授業が今日はないんです、わたしやっとこの王城の庭園に行けます、フィフラナさん、案内してください! 本当にたくさんの噴水があるんですか? 薔薇園は迷路なんですか?」
「クラウス様、身を乗り出しすぎですよ。確かに、昨日の教師が教える事は終わった、次の教師の手配のために二、三日は夕方の授業がないと言っていましたね」
クラウスが期待に満ちた、沼の緑の瞳で訴えれば、小間使いたるフィフラナは叶えるものだ。
そして彼女の願いはささやかすぎるので、すぐ請け負ってしまう。
「では、お支度をして行きましょう。王城の中ですから、少しは飾らなければならないですから、こちらで準備しますね」
「わーい!」
子供のように手を挙げて喜ぶ彼女の、邪気のない笑顔だった。
「本当に、このあたりはすごいですね、フィフラナさん」
「たしか……この時期はこの種類の花が見頃だったはずですね」
フィフラナは通り際におほほとあざ笑っていった女たちをちらりとみやる。
実に憎々しげな目線だ。
「あの年増に仕えている女たちの顔は覚えたわ、次からはもう情報なんて流してやるもんですか。なにが地味な候補の隣は育ちが悪そうな小間使いですわね、よ」
彼女のぼそりとした声に、クラウスも声を落とす。
「フィフラナさん声、どすが利いてる。ついでに誰が見てるかもわからないから、もっと穏やかに」
自分はいいのだが、ここでフィフラナの評価を落とすのはよろしくない、とクラウスは止めていた。
「あなたが外だと冷静というか穏やかで理性的だから、私本当にありがたいですわ」
「怒るまでに時間がかかるんですよね」
のんびりと告げた少女は、不意に足を止めた。
「フィフラナさん、いま王子様がなんとかって聞こえた。……誰かの足音がする、女の人の足音じゃないよ」
「それなら王子殿下だわ! クラウス様、どちらかわかりますか? ここ一ヶ月以上、順番とはいえ殿下に一度たりとも、会っていらっしゃらないじゃないですか」
言うやいなや、彼女も行動が早い。クラウスの手をつかみ、走り出す。
「どちらですか?」
「こっち!」
言いつつも、娘は会わなくてもいいんだけれどな、と思っていた。
王子様に会わなくとも、妃候補として隠れていれば、そのうち忘れ去られたようにどうにかなる、と思っていたのだ。
妃候補として、王子からも気に留められる事がなければ、目立たないのだと。
一ヶ月後の満月の晩の公式の発表で、四人に絞られる時に外れればいいのだと。
思っていたのだ。
そして屋敷に帰り、また、手をぼろぼろにして、くたくたに疲れるが、大好きな家族と毎日を過ごせれば、と。
”彼”に出会うまでは。
クラウスは早足でいながら、王子様と会うのは難しいのではないか、と少し思った。
何故ならば、そちらの道を行くほどに、女性たちの声が多くなっていったからだ。
どうやら、乙女たちが王子様と会うべく待ちかまえているらしい。
その中の一人、それも追いかけたような感じになる自分は少し、淑女として問題があるような気がしたのだ。
「フィフラナさん、もういいよ」
彼女はそういって声をかけた。
「王子様は順番に会いに来てくれるはずだもの、わたしから追いかけてあう必要はないよ」
「あなたはそこらへんが消極的すぎますよ。あなたの順番は、月に一回もないのですよ。次の満月の時までに、一回しか会えなかったらあなたがどれだけすてきな人でも、王子様の目には留まらないのですよ」
「王子様じゃないでしょう。妃候補を選ぶのは。王室の審査の人たちじゃないですか。確かに王子様に気に入られた方が、もしかしたら妃候補として有利かもしれないけれど」
わたしはそれを望んでいないのに、と彼女は誰が聞いているかもわからない庭園ゆえに、もごもごと喋った。
そんな彼女を叱咤激励するように、年上の小間使いが言う。
「それでも、あなたがすばらしい女性だという評価があれば、あなたの家の評判だってあがりますよ、少し考えればわかるでしょう」
「確かに、この家の候補はすばらしいという評判があれば、そうかもしれませんが」
それでも自分は、家名を名乗る事だって許されていない子供だ。
とても外にでたからといって、家の評判をあげる事にはならない。
世間にとって、その家の血筋ではないのだから。
その一瞬の言葉を考えた瞬間、彼女の胸は少しばかり、痛いものがよぎった。
何度か体験して、そのたびに飲み下している物だ。
自分が世間にとってあの家の住人ではなく、使用人だというのは重々承知だったのだが。
思ったよりも、それをきちんと考えると痛くなる心臓があったらしかった。
「わたしは」
彼女は言葉を続けられないまま、フィフラナの手を払おうとした。
その時だった。
「次に会うのはどなたでしたか、オックス」
そういう声が響いたのだ。
その声に思わず、足を止める二人。
庭園の
迷路のような木々の陰から現れたのは、明らかに身分の高い弾性だった。
そして彼は、クラウスを、二つの意味で驚かせた。
「っ! ぷろー」
はじめに、いきなり現れた事にクラウスは驚き、立ち止まって体がよろめいた。
それを何とか支え、彼女は目を見開く。
プローポス、と彼女はあの蛍の夜に出会った、家名すら知らない男の名前を呟きかけたのだ。
しかし。
「クラウス様、ウィリアム王子殿下ですよ」
隣のフィフラナが小声で、その男性の素性を囁いたので、途中でその言葉を飲み込んだ。
たしかに、プローポスとは違う。
彼女は言い掛けた名前を飲み込み、すっと視線を下に向け、当然の礼儀で頭を軽く下げた。
身分の高い、それも王族ほどの相手をまじまじと観察するほど、彼女は無礼な教育を受けてきていなかった。
さらりと下げられた頭、軽くうつむいた視界に、彼の立派な衣装が見えた。
見事な衣装だ、プローポスもとても立派な衣装を着ていた、とどこかで思う。
気のせいではなく、思ったのだ。
あの二晩だけの友人は今、どうしているだろうとどこかで思った。
何かにつけて思い出し、あの蛍の光景を思い出し、そのたびに彼の事を思っていたが。
これほどはっきり、相手の顔を思い出したのは久しぶりだ。
記憶の中のプローポスの顔は、蛍の明かりの結果かどこかぼやけ、その瞳の赤色が強烈に忘れられない。
それ故に、彼女は目の前の王子とプローポスが違うのだと、わかった。
眼の色が違う。
彼は赤かった。
しかし、王子は。
「顔を上げてください、私はウィリアム・ヨーク・マチェドニアです。あなたのお名前は?」
言われて顔を上げ、クラウスはああやはり、と感じた。
彼と王子は違うのだ。
なぜか。
プローポスは髪の毛が長かった。
しかし王子は、髪の毛がとても短い。
そして何より、眼の色が決定的に違った。
あの、炎の瞳を名前にする彼の赤々とした瞳ではなく、深く濃い藍色だったのだ。
「クラウス、と申します。こちらの彼女はわたしの小間使いのフィフラナ・フォーリ・バイツツヴァルト嬢です。以後、お見知り置きを」
顔を上げたクラウスは、よどみなく言葉を並べ、ゆるりと頭を下げてドレスのスカートをつまみ、一礼をした。
たったそれだけの事に、王子とフィフラナが息をのんだのがわかった。
その理由がわからないまま、彼女は顔を上げる。
ああ、似ている。
目鼻立ちなんて、記憶の中の彼とそっくりだ。
これほどそっくりだというのならば、プローポスはいったい何物なのだろう。
ふっと思った少女は、次に問いかけられた言葉を聞く。
「レディ・クラウスは家名をお持ちではないのですか?」
「ええ、持っていませんよ」
彼女はためらいなく、そう口にした。家名を名乗る事を許されていないのだから、持っていないと同じ事だ。
「そうでしたか。……あなたと会うのは初めてではない気がしますね」
「このような、どこにでもいる顔立ちの娘ですから、どこかで通り際に見かけた娘と似ているのでしょう」
彼女はさらりと口にする。自分などどこでもみる娘の一人だと。
「そうでしたか。そうだ、この庭園はいかがですか?」
「わたしが暮らしていたお屋敷の庭園とは、趣が違うものだな、と思っています」
「そうですか」
わずかに、王子の目の色が変わったような気がした。
「レディ・クラウスのお屋敷の庭はどのような様式でしたか? 古代様式? 古典様式、東方様式、前衛様式、一風変わった蛮族様式……様式は数多あります。そこでどのような植物を育てていましたか?」
王子がそのまま彼女の手を取り、こころなしかきらきらと眼を輝かせて問いかける。
クラウスはその答えになる物を思い出そうとし、その時だ。
「殿下、そろそろ次の令嬢の面会時間が来ております」
「そうでしたか。それでは、レディ・クラウス、次にお目にかかる時に、あなたのお話を聞ければと思います」
「わたしも、覚えている限り、思い出したいと思います」
クラウスの言葉はありきたりな返事だ。
だが彼はうれしそうに微笑む。
そして彼はするりと手を離し、侍従を隣に置いて歩き始めた。
それを見送り、クラウスは自分の手を眺めた。
手が同じ温度だった。
そして、プローポスと同じ所に、何かで切ったような傷の痕があった。
これはどういう事だろう、とクラウスは考えてしまった。
「もしかして……」
「すごいですわ、クラウス様。殿下があんなに楽しげにおしゃべりをするなんて、滅多に無いですよ」
彼女の呟きは、興奮気味のフィフラナの言葉に覆い隠されてしまった。
プローポスは……
「影武者?」
「クラウス様、びっくりしすぎて変な事言ってませんか?」
「友達が殿下にそっくり!?」
流石に頭の中身が信じられなくなったクラウスは、部屋についてすぐさまフィフラナに相談した。
言葉はとても簡単に分かりやすくし、結果。
【最近できた自分の友人が、とても殿下に似ている】
という事だけを伝えるにとどまってしまった。
これが蛍の飛び交う世界でのワルツだのなんだのを語れば、なんだか話が大げさすぎて信じてもらえない気がしたのだ。
「そうなんだよ、確かにこの世界って似たような人が三人はいるっていうんだけれど……なんだか心の整理ができなくて、殿下にとても失礼な態度をとってしまったらどうしたらいいんだろう、不敬罪になってしまうでしょう?」
少女は自分の頬に手を当てて、これから起きるかもしれない事に青ざめていた。
対するフィフラナはと言えば、頭を抱えたくなっていた。
その理由が分からなかったクラウスだが、目の前で自分と同じだけ難しい表情になってくれている彼女に、問いかける。
「やっぱりできるだけ、目を合わせないように、出会わないようにした方がいいよね、その方が賢明だよね、変な態度をとるよりはずっと」
「確かにそうかもしれないけれど……あなたは本当に、そのそっくりさんに会ったのね?」「うん」
クラウスは年上の小間使いに、真顔でこくりと頷いた。それを聞くと何を思ったのか、彼女はうめいた。
「どうしたの?」
「どこに堂々とつらさらして遊び惚ける影武者がいるのよ……あのかんがえなし……」
「え、フィフラナさんはもしかして、プロ―ポスの事知っているの?」
娘はいかにも小間使いが、その相手を知っている口ぶりであったために、身を乗り出した。
「やっぱりこのお城に仕えている人なんだ……プロ―ポス、もしかして呼びつけで呼んじゃいけない立場の人なのかな。すごく失礼な事してるよね今も……」
「クラウス様、安心なさってください、とにかくその、プロ―ポスがあなたに失礼だのなんだのという事は、ありえませんから」
「本当に?」
「物の道理はわかっている男だと、私は思っているわ。少なくとも常識はわかっているもの」「よかった、いくら妃候補として失格になるためって言っても、上位の貴族に失礼な事をして、外れたら家の恥だもの」
安堵の息を漏らしたクラウスに、フィフラナはなんとも言い難い視線を向けてくる。
「ねえ、クラウス様。あなたはもしも、プロ―ポスが殿下の影武者だったとしたって、友達でいたいかしら」
「うん。あのね、プロ―ポスの事を考えると、胸のあたりが温かくてほわほわするんだよ。幸せなあったかさで、お義母様たちに抱きしめてもらった時みたいになるの」
とんとん、と己の心臓部分を指さした娘は、照れくさそうに笑った。
事実、こんな事を話すのは照れくさいのだ。
自分の心の内を語る事は、クラウスにとって何時でも気恥ずかしい物がある。
「幸せだな、こんな幸せなら相手にも感じてほしいなって思うんだよ」
「……あまり、世間の人からは認識されていないどころか、存在する事も秘密にされている相手でも」
「それはプロ―ポスを問題にしてしまうの? 彼のあり様に問題があるの? だって、影武者は王国にとって絶対に必要な存在だよ。今みたいな少し世界情勢が安定している状態でだって、王族はいつでも暗殺の危機にさらされているのに。もしもプロ―ポスが影武者だったら、あの人は英雄だよ。この国の裏側の立役者だよ。すごい人だよ。ちょっと世間から認識されていないだけで、彼の瑕になるの?」
彼女の問いかけに、上位貴族の養女は息をのんだ。
その深い緑青の瞳はじっと相手を見つめ、問いかけてくる。
「わたしだって友達は選ぶけれど、そんな理由でプロ―ポスを友達じゃなくしたりしないよ。あの人の人格に問題があったのなら、ちゃんと怒ってしかって、何度だって間違いだって言い続けるのだって友達だよ。ただ仲良しこよしで、相手の事を認めるだけが友達じゃないもの。それにわたしの会ったプロ―ポスは、そんな問題のある性格じゃなさそうだったし」
「……まいったわ。なにもあなたに言い返せないし、止めようもないわね、あなたがそんなに考えているのならば。……私はプロ―ポスと名乗る男に会った事はないけれど、あなたが彼を友人だと思っているのは伝わってきたわ。もしもどこかで会ったのならば、あなたが彼を思っている事くらいは教えてあげましょ」
少女の考えを聞いたフィフラナは、息を一つ吐き出すと微笑んだ。
クラウスは、彼女の言葉に目を丸くする。
「てっきり、そんな友達を持ってはいけませんって言われるのかと思ったのに、あの人にわたしが覚えているって教えてくれるの?」
「人間一番得難いのは、自分の行っている事を間違いだと止めてくれる視点を持った、知り合いよ。クラウス様、覚えていてくださいな。間違いだと思っている人間は多いかもしれないけれど、それを面と向かって言おうとしてくれる相手は、砂漠の砂の中の、純金と同じくらい少なくて大事なの」
「わたしも欲しいな、そんな友達」
「大丈夫、私も言いたい放題言わせてもらうから」
胸を張ったフィフラナに、クラウスは抱きついた。
「フィフラナさん、大好き!」
「お義母様やお義姉様の次位でしょう?」
「よくわかったね」
当たり前でしょ、と笑ったフィフラナの顔が、扉を叩いて現れた女官を見て一変する。
「クラウス様! 大変よ!」
「何が?」
「今日は晩餐会だったわ! どうしてここにだけそのお知らせが来なかったのかしら! 着替えて! そんな恰好で外に出せないわ! 髪飾りだってこんな地味な物はいけないし」
「いつもどおりでいいよ、王子様の目に留まらないのだって大事だよ」
「あなたはそれでよくっても、あたしたちの沽券にかかわるの! 粗末な身なりのお妃候補なんて、こっちの不手際を責められるだけなのよ!」
「あ、うんごめん」
勢いに押されたクラウスは、普段着を引っぺがされて、高級な宮廷風ドレスを身に纏う事になった。髪も香油をつけて念入りにとかされて、見事な髪型に結い上げられる。
そうして出来上がるクラウスは、しかし。
「馬子にも衣裳にもなりゃしない」
「あなたそういう事実は言わないの!」
「大体どうしてほかのみなさんは来ないの?」
「あなたの遅さをごまかすためよ!」
クラウスはフィフラナの勢いに負け、立ち上がる。
立ち上がって怒られた。
「なんであなた裸足なの!」
「楽だから……」
「靴は!」
「衣装ダンスのどこかに」
「手間をかけさせないでちょうだい!」
言いつつ驚異的な速度でフィフラナが衣装に見合った靴を取り出した。
それを履かせて、フィフラナはクラウスをせかした。
「ほかの皆様はもう集まっているはずよ、急ぎなさいおバカ!」
「知らなかったんだから私のせいじゃないと思うんだけど」
「そういう事を言わない!」
そんなやり取りも、部屋を出てから全くなくなる。
クラウスは持ちうる限りの丁寧さを頭の中で反芻させながら、優雅にしかし速足で、案内された晩餐会の会場に到着した。
「まだ全員集まっているわけではなさそうです、よかった」
中を覗いたフィフラナが安堵の息をついた。
「クラウス様、この中に入ってしまったら、私たちは助けられないのです、ご自身の首を絞めないように」
「うん、わかった」
言ってクラウスは、魔窟と言っても差し支えのない晩餐会の会場に足を踏み入れた。
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