ショートケーキは恋の味
UMI(うみ)
ショートケーキは恋の味
それはいつもの朝だった。
いつものようにコーヒーとトーストだけの朝食を取り、歯を磨いて鞄を持つと駅に向かう。そして満員電車に乗って会社へと向かう。もう十年以上も続けてきた朝だった。違うことといえば梅雨なのに雨は降らず、そのくせやたらと蒸し暑い。ただでさえ重たい会社へ足取りが更に重かった。そんな日が続いて俺のストレスはマックスだった。だからこそあんな暴挙に出られたのだと思う。
ああー、だりいな、うっとうしいな、会社行きたくねー。早く駅につかねえかな。まあ、会社に行ったって成績が悪いとお小言の嵐だけどさ。俺はぎゅうぎゅうに押し込められた車内でそんなことをつらつらと考えていた。そんな時だった一人の女の子と目が合った。顔を真っ赤にして今にも泣きそうな目でこちらを見ていた。
痴漢だ。
俺はカッとなった。湿度80%、不快指数200%の中で真面目に会社に行こうとしている人間の目の前で痴漢行為にいそしんでいる奴がいる。それがとてつもなく許せなかった。むかっ腹が立った。気付けば俺はその痴漢の手を捻り上げていた。
「何しやがる!」
「それはこっちのセリフだ!この痴漢め!」
俺は次の停車駅に降りると駅員にその痴漢を押し付けた。男は始終「俺はやってない」とぬかしていた。うるせえ、俺が証人だっつーの。俺はそのまま会社に向かいたかったが、警察の事情聴取があるとかで直ぐには解放してもらえそうになかった。仕方がないので風邪をひいて病院に行くと言って午前半休を取った。上司からは「たるんでいる!」とか言われるんだろうなー。有給溜まりまくっているのに。女の子は始終俺に「ごめんなさい、迷惑かけて」と頭を下げていた。
「いや、悪いのはあの痴漢だし」
女の子はこの辺じゃ有名な進学校の制服をを着ていた。だから狙われたのかもしれない。顔も結構可愛かった。髪はさらさらのストレートでまるでお人形のようだった。
「私、田辺有希っていいます。ぜひお礼をさせて下さい」
「礼なんていいよ」
俺がただむしゃくしゃしていただけだし。女の子、田辺さんはメモ用紙にさらさらと何か書きつけると俺に突き出してきた。メモ用紙には携帯番号が書かれていた
「これ、私の携帯番号です。ぜひ連絡を下さい。お礼がしたいんです」
仕方がないので俺も名刺を取り出して彼女に渡した。
「田中正義さん、ですか」
田辺さんの口から発せられた自分の名前を聞きながら、本当になんの変哲もない平凡な俺を表すような平凡な名前だなあと自分で思った。
「じゃあ、俺はこれで」
俺は携帯の番号書かれた用紙をスーツのポケットに無造作にしまうと、その場を立ち去った。これでおしまいだ。彼女に会うこともないだろう。やれやれと俺は思った。
それで、終わりのはずだった。
そんなことがあってからしばらくして俺の携帯に電話がかかってきた。知らない番号だった。これは会社の携帯だから取引先やお客の番号は登録してある。
(誰だろう……)
不信に思いながらも電話に出ると、女の子の声がした。
「田中さんですか?私田辺有希です。覚えていらっしゃいますか」
「いいい!?」
俺は慌てて席を立って、事務所の外に出た。だってこれ会社から支給されている携帯なんだぜ。
「あの、えーと」
「田辺です」
「田辺さん、これ仕事用の携帯なんだよ。ちょっと困るよ」
トイレに移動しながら俺は小声で話した。
「すみません、わかっていたんですが……連絡が田中さんからなかったので」
「だから、お礼なんていいって」
「でもお礼したいんです、お願いします、お願いします。会ってはくれませんか」
そのまま二度とかけてくるなと言って電話を切ってしまうことも出来た。でもあまりにも切羽詰まった彼女の声に結局俺は折れた。出来るだけ会社の人間に合わないような場所で次の日曜日に会う約束までしてしまった。
「十代の女の子のお願いを無下にするのも、大人げないしな」
そう自分を納得させることにした。携帯を切って席に戻ると「トイレが長すぎる」と上司から怒られた。こんな会社もう辞めたい。
次の日曜日俺は駅から少し離れた、言ってみれば不便な場所にあるファミレスへと向かった。彼女は既に来ていて俺を待っているところだった。私服であったことに若干ほっとする。俺を見ると彼女は立ち上がり、
「お久しぶりです。田中さん」
礼儀正しくお辞儀をした。
「いいよ、そんなに固くならなくて」
「はい……」
そう言うと彼女は再度席に座った。
「今日は無理を言ってすみませんでした」
「あー、暇だったし。いいよ」
暇なのは事実だった。恋人もいないし、親しいといえる友人もいない。もう35にもなるというのに我ながら寂しい人生を送っているなあと思う。
「あのこれ、つまらないものですが。お礼です」
そう言って彼女が差し出してきた茶色の地味な紙袋を俺は受け取った。
「ありがと」
「上手く作れたか自信がないんですが」
「え?手作りなの」
「クッキーです」
高校生の女の子らしいお礼に俺は少しほっとした。やたら高価なものを送られたらどうしようかと思っていたのだ。有名な進学校に通っているからきっと家は裕福なんだろう。それなのにわざわざ手作りのクッキーなんて。仕方なく会ったけど。会って良かったかもしれない。
「手作りクッキーなんて初めてもらうよ。ありがとう」
俺が再度お礼を言うと彼女は嬉しそうに笑った。少しばかりほっこりした。やっぱり女の子笑顔はいい。癒される。こんなふうに女の子から笑顔を向けられたことって俺の人生にあったかなあ。そんなことをぼんやり考えていると。
「あの、今日は驕りますので好きなものを頼んで下さい」
おずおずと彼女はメニューを差し出してきた。
「気にしなくていいって。俺が奢るよ。お礼はもうもらったし」
そう言って俺は紙袋を掲げてみせた。田辺さんはにかむように笑う。うん、やっぱり女の子の笑顔は可愛いものだ。
「また会ってくれますか?」
食事も終わりコーヒーを啜っていた俺に田辺さんは、恐る恐るといった感じて言った。
「あ、えーと」
「お仕事の邪魔はしないようにしますから」
うーんと俺は考える。何せ相手は女子高生だ。そして俺は社会人で三十路。ぎりぎりセーフどころか、思いっきりアウトな気がする。付き合うわけじゃないけど、世間体とか色々あるだろ。
「今日は凄く楽しかったです。もっと色々とお話できたら嬉しいです」
「話し相手なら俺よりもいい人いるんじゃないかな。友達とか恋人とか」
友達も恋人もいない自分が言ってもあまり説得力ないよなあと思いながらも口にする。
「いません」
「へえええ!?」
速攻で返ってきた返事に俺は思わず変な声を出す。
「みんな、それどころじゃないんです。周りはみなライバルですから」
「進学校ってのも大変なんだな」
「大変と思ったことはありませんが、でも何の関係もない人と話をしたいなって思う時はあります」
この様子だと親御さんも勉強しろ勉強しろとしか言わないんだろうなあと思った。
「あ、でももし田中さんに彼女とかいたら迷惑ですよね、すみません 。今の話はなかったことに……」
「あー、いやいや。彼女とかいないから」
俺はぱたぱたと手を振った。自慢じゃないが社会人になってから彼女らしい彼女が出来たことはない。
「そう、なんですか。田中さんこんなにいい人なのに。意外です」
いい人、いい人、いい人ねえ。口の中でその言葉を転がす。「田中さんはいい人ですよね」確かに何度か言われたことがある。だが所詮はいい人以上でも以下でもない。月並みな言い方をすればいわゆる『いい人止まり』なのだ。例え自分がそう思っていなくても。周りの評価はそうなのだ。
「俺は別にいい人じゃないと思うけどね」
「でも私を助けてくれました」
「あれは単にむしゃくしゃしていただけ」
田辺さんが首を傾げる。
「こんな梅雨のじめじめしている時に、いやいやながら真面目に仕事に行こうとしている人間の前でなにやってんだって思ってさ。つい手が出ちゃったんだよ」
お道化た感じで理由を話す。助けたのは気まぐれだと言外に匂わせて。
「そうだったんですか。それでも嬉しかったです。だって誰も助けてくれないと思っていましたから」
「世の中ってのは厳しいからねえ」
俺はたいして大人でもないのに大人の振りをしてコーヒーを啜った。この時俺は何も知らなかった。『誰も助けてくれない』その言葉の重さを。
結論から言えば俺は彼女とたまに会う約束をした。会社の携帯はまずいので私用の携帯番号を教えた。制服では来ないことや会う場所は俺が決めると幾つか決まりごとを作った。勿論手を出す気はない。それぐらいの一般常識はあるつもりだ。何より会社を首になったら路頭に迷う。他に就職先がなくて仕方なく入った会社ではあるが、仕事を失うのはさすがに困る。そんな危険を冒してまで会うことを決めたのはもしかしたら自分は人恋しかったのかもしれない。若くておまけに可愛い女の子に懐かれて悪い気はしなかったのは事実だ。
(土日は暇しているしな……)
そう自分に言い訳をした。
田辺さんから連絡があるのは二週間に一度程度だった。会うのは月に一回から二回ぐらい。大抵チェーン店の喫茶店かファミレスだった。二時間程度他愛もない会話をして帰る。それだけのことだったが、俺は柄にもなく浮かれていた。まるで恋人でも出来たような気分になっていた。同僚からも「お前最近機嫌よさそうだな」と言われる始末だった。「彼女も出来たか」と言われる度に「「そんなんじゃねーよ」と言うしかないのがちょっとばかり悲しかったけれど。
田辺さんとの会話は本当にありきたりのことばかりだった。
「全国模試で10位に入りました!」
ガッツポーズを取って彼女は言った。まあ、こういう会話をありきたりといえばいいのかちょっと疑問だけど。
「凄いね……」
「私、東大の法学部に行きたんです」
三流大学、しかも補欠で合格した俺には想像もつかない話しだった。
「いっとくけど、俺頭悪いから勉強を教えろって言われても出来ないから」
「そんなこと田中さんにお願いしませんよ」
お願いされても困るので安堵する。
「まあ、そういうことは学校の先生や塾の先生に頼んでね」
「私塾通っていないんです」
「え?独学なの」
「はい」
塾にも通わず、進学校に通い成績優秀。おまけに顔も可愛い。神様って不公平だよなあと思う。しかしそんな子が俺と話しをしてて面白いんだろうか。ふと沸いた疑問をぶつけてみる。
「俺と会話してて楽しい?」
「話を聞いてもらえるだけで嬉しいし、楽しいです」
きっぱりはっきり言う彼女にそれ以上のことは言えずに俺は、ならまあいいかと思った。なんだかんだで俺と田辺さんは連絡を取り合い、彼女は主に学校のこと、俺は会社の愚痴を聞いてもらうというスタイルで会い続けていた。
そうこうしているうちに夏が終わり、秋も深まり、俺の大嫌いな冬がやって来た。寒いからという理由ではなくてクリスマスがあるからだ。恋人たちの一大イベント。クリスチャンでもないくせにはしゃぎやがって、と俺は毎年胸の中で悪態をついていた。クリスマスまでまだ一か月もあるのに街はクリスマスで一色だ。同僚たちはクリスマスの計画で盛り上がるが、俺は一人蚊帳の外だ。プレゼントでも買って田辺さんを誘ってみようかと思うが慌ててその考えを打ち消す。恋人でも彼女でもなんでもないんだからそれはおかしい。彼女だってクリスマスぐらいは予定があるだろう。友達も恋人もいないと言っていたけど、何だかんだいって家族と過ごす予定ぐらいあるだろう。俺がそんなことをつらつらと考えていた時に私用携帯から電話が鳴った。田辺さんからだった。
「田中さんて12月26日空いていますか?」
24日でもなく25日でもなく26日。やっぱりと思う。クリスマスには予定があるんだろう。当たり前だけど。少しだけ期待してしまった自分を殴りたい。
「いやあ、実は仕事なんだよ」
26日は普通に平日だ。
「夜はどうです?」
「夜は空いているけど……でも夜はなあ」
さすがに夜会うのはちょっとばかしマズイ気がする。
「少しだけ、少しだけでいいから付き合って欲しいんです」
田辺さんは目の前で手を合わせて拝むように俺に頼み込む。俺はしばらく考えていたけど。必死な彼女に負けて頷いた。
「まあ、一時間ぐらいなら」
俺が変な気を起こさなければ何もないのだから、まあ大丈夫だろう。こんな十代の女の子に手を出すほど俺はクズじゃないつもりだ。
「それでルールを破って申し訳ないんですけど。私と一緒に来て欲しい場所があるんです」
「え?」
会う場所は俺が決める。確かにそれは最初に決めたルールだった。会社の人間に見られるとマズイという理由で俺が決めたのだった。
「お願いします。26日だけ」
彼女は身を乗り出して俺に詰め寄った。
「26日だけ!」
これだけ26日に拘るのは当然何か理由があるのだろう。
「どうして26日なの?」
俺が疑問をぶつけると彼女は顔を伏せた。
「26日にお話します」
「うーん……」
俺は腕を組んだ。正直気になる。もの凄く気になる。田辺さんがそこまでして26日に拘る理由が。でも好奇心は猫を殺すっていうしなあ。
「その場所って俺の会社から近い?」
「遠くて申し訳ないんですけど」
聞けば会社から電車で一時間ほどの距離だった。それならと思う。会社の奴らに見られる心配もなさそうだった。
「じゃあ、いいよ」
俺は結局猫を殺す好奇心とやらに負けてしまった。
「ちょっと遠いから、最寄り駅を教えてよ。仕事が終わったらそのまま行くから」
「はい!」
田辺さんは元気よく返事をすると、ぺこりと頭を下げた。
くそ忌々しいクリスマスが終わった次の日、俺は残業せずに真っ直ぐ田辺さんに教えてもらった駅へと向かう。改札を出ると彼女が手を振っていた、制服姿で。
「げっ」
俺は慌てて田辺さんのもとへ走り寄る。
「制服姿はダメだった言ったじゃないか」
「ごめんなさい。着替えている時間がなくて」
やれやれと俺はため息をつく。
「まあ、大丈夫だと思うけど」
ここまで会社から遠くに住んでいる奴はいなかったと思うから。見つかる心配はないだろう。見つかったら姪っ子とでも嘘をつこう。
「それで俺を連れて行きたいところって何処?」
「まずはスーパーに行きましょう」
田辺さんはにっこり笑ってそう言った。
「スーパー?」
「はい」
田辺さんに付いて行くと本当にスーパーだった。いわゆる地域密着型の小さなスーパーだった。中は会社帰りのサラリーマンやらOL、主婦で結構にぎわっている。田辺さんは迷うことなく洋菓子コーナーへと向かった。手に取ったのは半額シールの張られたショートケーキが入った二個入りのパックを手に取った。レジに行き会計を済ます。
「さあ、行きましょう」
「うん……」
違和感、その時俺の中にはどうようもない違和感が沸きあがっていた。
「26日っていいですよね。ケーキが安くなって」
田辺さんは嬉しそうに言う。俺の中で違和感が更に膨らんだ。駅前のスーパーから更に歩いて20分。
「ここです」
田辺さんは足を止めた。その先には地震が起きたら倒壊しそうな木造二階建てのボロとしかいいようのないアパートだった。もしかしてという予感が過るが、そんな俺を無視して彼女は今にも崩れそうな階段をカンカンと音を立てて登っていく。そしてポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に入れた。かちゃりと安っぽい音を立てて鍵が開く。
「どうぞ」
田辺さんはそう言ってドアを開けた。
「あの、ここって……」
「私の家です」
ああ、やっぱりと思う。さすがに家はマズイだろうと思うが、今更やっぱり帰りますとも言えない。
「お、お邪魔します……」
仕方なく俺は薄っぺらいドアをくぐって部屋に入った。小さな小さな1Kの部屋だった。部屋の中には勉強机と折りたたみ式のテーブル、タンスくらいしかない。
「適当に座って下さい。今お茶入れますから」
田辺さんは買ってきたケーキをテーブルの上に置くと、やかんに水を入れて沸かし始めた。部屋を再度見渡す、必要最低限のものしか置かれてない。テレビもパソコンもなかった。小さな本棚には参考書の類ばかりで年頃の女の子が好みそうなファッション雑誌の一冊つもない。
「お待たせしました」
彼女はマグカップに紅茶を入れてテーブルの上に置いた。ショートケーキを小皿に乗せて一つを俺へと差し出す。それだけで小さなテーブルの上は一杯になった。
「今日は……」
ぽつりと彼女は話し始める。
「私の誕生日なんです」
「え!」
突然の告白に俺は声を上げた。
「そうと知っていたらプレゼントぐらい用意してたのに」
「田中さんならそう言ってくれると思いました。だから言わなかったんですよ。気を遣わせたくなくて」
「そこまで遠慮しなくていいのに」
「いいんです。こうしてケーキを田中さんと食べられるだけで嬉しいんです。両親が小さい時に死んでからいつも一人で誕生日にはケーキを食べていたから。誰かと一緒に誕生日にケーキを食べるのが夢だったんです」
彼女はそう言って嬉しそうに笑った。俺は世界が180℃回転するのを感じていた。
俺は馬鹿だ。
俺は半年間、この子の何を見ていたんだろうか。俺は彼女が何の不自由もなく暮らしているとばかり思っていた。ちょっとばかり勉強しろと小うるさい両親がいて、それでもクリスマスは仲良くケーキを囲んでいる、そんな家庭を勝手に思い浮かべていた。考えてみれば彼女が家族のことを何も話さなかったことに今更ながら気付いた。
田辺さんは毎年たった一人で自分の誕生日を祝っていた。
スーパーで半額になったショートケーキを買って。
一人ぼっちの小さな部屋で。
たった一人でお祝い。
たった一人でケーキを食べて。
誕生日おめでとう。
気付けば熱い何かが頬を伝わっていた。泣かない彼女の代わりに泣いているのだと自分に言い聞かせた。
「田中さん……、あの、別に私不幸とか思っていませんから。親が残してくれた保険金で大学卒業までは何とかなるし、高校も特待生になれたので授業料は免除してもらえたし」
俺の涙に驚いただろう。おろおろと田辺さんは俺を慰めるように言う。俺は歯を食いしばってそれを聞いていた。『誰も助けてくれないと思っていましたから』『世の中ってのは厳しいからねえ』俺は馬鹿だ。本当の大馬鹿ものだ。世の中の厳しさを知らないのは俺の方だった。適当に学校を卒業して適当に就職して適当に仕事をしている。一生懸命に生きてきたことなんてなかった。情けなくてしょうがなかった。
「……来年はホールケーキを買おうな」
俺はそう言うのがやっとだった。
「え?」
「大きい奴を買おう」
「私一人じゃ食べきれませんよ」
「俺が一緒に食べてやる!」
思わず叫んでいた。
「こーーんな大きなケーキだ」
俺は両手を広げてみせた。
「それで二人で胸焼けするぐらい食べるんだ」
「二人でって……来年も一緒に過ごしてくれるんですか?
「勿論!」
俺は泣きながら笑って親指を立てた。
「嬉しいです」
そう言って田辺さんは花が綻ぶように笑った。世界中で一番綺麗な笑顔をだと俺は思った。
来年はホールケーキを買うんだ。
お店で予約を入れて。
君だけのケーキを。
そして胸焼けしながら二人で食べよう。
それから誕生日おめでとうって言うんだ。
その日食べたショートケーキは甘くてしょっぱかった。
それでも確かに恋の味がしたのだった。
了
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