川姫篇

第2訓  雪解けてⅠ

 四月中旬に指しかかった頃、高校に入学してから一週間ばかりが過ぎていた灯真とうまは、いつも通りの時間帯に家を出て、学校に向かっていた。

 桜も少しずつ散り積もり、小枝には緑色の小さな葉が芽生めばえ出していた。風も心地よく吹いている。通学路に出ると、同じ高校の生徒や他校の生徒たちが通学路を自転車でいだり、歩いて登校していた。

 灯真は、その中を一人で歩いていると、後ろから自分を呼ぶ声がした。

「おーい、灯真!」

 後ろから手を振りながら男子生徒が走ってくる。

 灯真に追いつくと速度を緩め、息を切らせながら隣で歩く。

「なんだよ、将気しょうき。あんなに急いで……。寝坊でもしたのか?」

 いつもならこの時間帯には普通に歩み寄ってくる男子生徒に対して問いかけた。

「ああ、目覚ましの電池が切れていて、時計の針が止まっていたんだよ。おかげでいつもより二十分後に起きたら朝の六時五十分になっていたんだよ。なんとか、朝飯だけは食べてきたけど、他にやることができなかったんだよ……」

 何度も溜息をつく。

 浦原将気うらはらしょうきは、灯真の昔からの幼馴染であり、灯真があやかしの視える体質であることを知っている一人である。ストレートのサラサラヘアーは、もうすぐで校則に反するところまで伸びきっていた。穏やかで、一度やると決めた以上はやり通す性格であり、その上、顔も良ければ成績もいい完璧超人かんぺきちょうじんな人間だ。

 高校ではサッカー部に所属して、県の代表にも選ばれるほどの実力でもある。

「将気がそういう性格だということも知っているけど、朝からそこまでイライラしなくてもいいんじゃないか? 自慢の顔が壊れるぞ」

「俺をそこまでいい評価をしないでくれ。普通の人間だ。特別な物なんて一つも持っていない。むしろ、灯真はそれを持っているだろ? 俺は一度でもいいから妖がどういう生き物なのか視てみたいよ」

 うらやましいそうな顔をして見つめてくる。

 将気には、妖を視ることできない。灯真が、時々挙動不審きょどうふしんになるところを目のあたりにすると、そこには妖がいるのかと察することがある。

 だが、灯真は幼い頃から同級生などに気味悪がられること多く。そのたびに将気は助け、理解しているからこそ、その気持ちが分かる。それでも一度だけでもいいから本物が視えたらどれだけ恐ろしいのかも味わってみたいのだ。

「そこまでいいものじゃないよ。視えるということは逆に言えば、呪いも受けやすいし、襲われることあるんだぞ」

 このやり取りを何度したことか、灯真は呆れながら言った。

 灯真たちが通う西ヶ丘にしがおか高校は、全校生徒約七百人というそこまで人が多くない県内の進学校の一つである。毎年、一学年二百三十人の中から七十人ほど国公立大学に進学させるほどの実力のある高校だ。西ヶ丘高校は、四十年前に山を開拓して設立された県立高で、登下校は必ず角度のある長い坂を通らなければならない。この坂には名前があり、『栄光えいこうの坂』とネーミングセンスに欠けた坂である。

 二人は何気ない日常会話をしながら橋を渡っていると、灯真が急に足を止めた。堤防の舌にあるちょっとした広場のすみに建てられている古い小屋に女性の姿があった。全体がぼやけた光に包まれて、一人寂しく座っていた。

「あれは……」

 と、灯真が呟く。

「どうした、灯真?」

「ああ、将気にはあそこにいる女性が見えるか?」

「え? どこに人がいるんだ? 誰もあの場所にはいないぞ」

 将気は手すりから身を乗り出して、灯真が指さす方向を見たが、彼が言う限り、そこには誰もいないらしい。そうなると、あそこにいるのは結論から言って妖だということがほぼ百パーセントの確率で証明される。

 人と全く変わらない妖ほど見分けが付きにくいのだ。

「もしかして、『いる』のか?」

「…………」

 灯真とうまは黙ったまま小さく頷く。

「そうか……。なら、今は近づかない方がいいだろう。どんな妖か分からないのに勝手に近づいたら元も子もないからな」

 将気しょうきは、そっと肩を叩いて先を急ごうとする。

 確かに将気が言っていることは正しい。でも、灯真の中では彼女はあそこで何をしているのかが頭の隅で気になっていた。

 学校の目の前までやってくると、とうとう朝早くから最も面倒な事が始まろうとしていた。角度三十度、距離二百酸十メートルはある『栄光の坂』だ。ここ三年間、毎日のように生徒たちは上り下りをしなければならない。

 脹脛が最も鍛えられそうな坂であり、頂上には体育教師が日替わりで校門の前で立っている。

 今日は週の半ば、おそらく立っているのは新任教師の若い男性教師だ。普通科高校より商業高校などに行けば、絶対にモテるであろう芯のある真面目な人だ。

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