冷たき来訪者Ⅷ

「まだ湯に浸かってもいないのに上がるのですか? もしや、灯真とうま様は私の裸を見て興奮していらっしゃるのですか?」

「そ、そんなわけないだろ!」

 灯真は振り返らず、顔を赤くして大声で叫ぶ。

 デリカシーの無いあやかしの手を払い除けようとしても、腕力わんりょくが強すぎて逃げることができない。

 そして、そのまま勢いよく湯船ゆぶねへと引き寄せられる。右足から左足へと入り、仕舞いには互いに背中を合わせて肩まで浸かっていた。

 髪の毛の先からしずくが湯船に落ち、円状に波を立てる。

 二人は黙ったまま何も話さずに時間だけが過ぎてゆく。他に誰もいないこの露天風呂は、人際ひとぎわ、異彩を放つ。

「その……ありがとう。俺を助けてくれて……」

「それ、私に言いますか? 私は、灯真様から頂いた霊力れいりょく妖力ようりょくに変えて使っただけですよ」

 雪菜ゆきなは、天井てんじょうを見上げる。

「一応、訊きたいことがあったんだが……。雪女ゆきおんなという妖は、熱い湯とか苦手じゃないのか? 昔話では、そんな風に言い伝わっているんだよ」

「ああ、その話ですか。もちろん、雪女という妖は熱いのは好きじゃないですよ。ですが、私の場合は例外なのです。昔、人の暮らしというものを体験して以来、抵抗がついたのでしょう。だから、妖と人、どちらかと言うと半々といったところですね」

 両手を上に伸ばして、灯真の背中に雪菜の体温が伝わってくる。

 妖の体とはいえ、人間とあまり変わらない。意識すればするほど、湯あたりしてしまいそうだ。

「俺が倒れた時、誰かが助けに来たと思うんだが、雪菜は誰が来たのか覚えているか?」

「いいえ。誰も来てなかったですよ。たぶん、それは私の友人です。この森には、多くの妖がいますからね……」

「俺を助けてくれたのは、妖だったのか……。あれは確かに人だと思ったんだが……」

 灯真とうまの記憶には、ぼやけて誰なのかはっきりと覚えていない。

「雪菜は、俺と契約を結んだままでいいのか? 名にも力にもなれないし、明日、この地から離れる予定だけど……」

「私の主は、多数の質問がおありのようですね」

 溜息をついて、呆れていた。

「あれ? そんなに質問していたか?」

「ええ、それはもうたくさん」

「あははは……」

「そうですね。さっきも言いましたけど、あなたが人として死を迎えるまではお傍にいるつもりですよ」

「長年いたこの地を離れてもいいのか?」

「ええ、この地は昔の思い出と共に残していくつもりです。それに新たな地に行き、環境の変化というのも味わいたいものですしね」

 雪菜ゆきなはゆっくりと立ち上がる。

 どこから持ってきたのか、長めの白いタオルと体に巻き、一呼吸置いていった。

「だから、私も連れて行ってくれますよね?」

 背を向いたままの灯真に向けて、見せたことのない可愛い声に満面の笑みを浮かべた。

「————好きにすればいいんじゃないか……」

 照れ隠しをして、灯真はその笑顔がどんなだったのか見ることができずに後悔した。

 灯真は先に上がり、脱衣所でかわいたタオルでしっかりと濡れた体を拭く。

 扉の向こうでは、雪菜の姿の影がガラス越しに見える。

 下着を着て、その上に寝間着を着る。

 それから扉を開き、着替え終えている彼女に声をかける。

「雪菜って白い着物が似合うよな。それにその薄水色の髪にその瞳も」

「何を言っているのですか? さあ、早く中に入りましょう。念のため、霊体化しているんですから……」

「髪の色で分けているんだっけ?」

「はい。黒は人に見えるようになっていて、この色は視ることのできる人しかいません」

 長い廊下を歩きながら、灯真の後ろを歩く雪菜は、毛先をいじりながらそう言った。

 足音は、しっかりと二人の足音が聞こえる。

 部屋に入ると、着替えなどを整理して寝る準備を始める。

 布団は一つ、いや、一つしかないのになぜ、雪菜が未だにここにいるのか疑問だ。

 布団ふとんの上で膝を曲げて、正座して座っている。

「それで、なんでそこで座っているだ?」

「そりゃあ、私も睡眠をとるからですよ」

「布団に入らないで畳の上で寝ろ! そこに座布団があるだろ? 毛布は貸してやるから……」

 雪菜は、黙ったまま睨みつける。

「氷り漬けにしますよ?」

 笑顔でそう言いながら、左手から冷気が流れ出す。

「…………」

「さあ、どうします?」

「はぁ……、あのなぁ、俺が何もできないからって力で解決するの、やめろよな」

「嫌ですねぇ、灯真様が意地悪いじわるだからこういう対応しか思い浮かばないんですよぉ……」

「ほら、ここで寝ろ」

 灯真は、自分が寝る布団にスペースを開けて、ポンポンと叩く。

 雪菜はそのまま仰向けになって隣で添い寝する。ここ数日で様々な変化があり過ぎだ。彼女の本性がまるで分らない。

「雪菜、妖が視える事は特別な事なのかな?」

 部屋の電気を消して、暗い部屋の中で彼女に問いかける。

「さあ、それはどうでしょうか? 嫌な事もあれば、楽しいこともある。出会いは半々だと思いますよ」

「そうか……」

 灯真は、少しうれしそうに呟いた。


 一月三日————

 灯真と美咲みさきは、和恵かずえに見送られて新潟にいがたの地を後にした。もちろん、雪菜もともに車に乗ったが、その時は父親の遠い親戚ということで共に暮らすことになった。

 美咲はなにも驚かずに、笑顔で雪菜の事を迎えてくれた。

 帰りも交通機関を使わずに、高速道路を飛ばして、車はどんどんスピードを上げていく。中越ちゅうえつ地方から大阪まで走り、そこからフェリーを使って九州地方のまで船の旅を楽しんだ。

 これが、灯真と雪菜の出会いの最低最悪の出会い————


 それから約三か月後の現在————

「本当にお前との出会いは最悪だったよ」

「あら、そうでしょうか? 私にとっては面白い出会いでしたよ」

「何が、面白い出会いだよ。まあ、それにしてももうすぐ桜の季節も終わりに指しかかりそうだな」

「確かに、森も山も川も少しずつ変化してますから」

 二人は夕日の射し込む光を浴びながら、時間が過ぎてゆくのを少しばかり楽しんでいた。

「二人ともご飯ができたわよ! 降りて来なさい!」

 下から美咲が呼ぶ声がした。

「分かった。今すぐ行く!」

 二人はすぐに立ち上がって、部屋を出た。

 残された部屋の中に外から入り込んできた桜の花びらが、灯真の机の上に優しく散った。

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