冷たき来訪者Ⅵ

 灯真とうまが、一度だけですぐに理解できた術のことだ。

 自分でもなんですぐに分かったのか、未だに解明できていないが、一か八かのやるしか他がない。

「分かった。これが終わったら俺の全てを雪菜ゆきなに全てくれてやる! その儀式の準備ができるまでどれくらい時間を稼ぐことができる?」

「いいんだな。これが終わったら私の物になっても……」

「ああ、好きにしてくれ。終われば、契約も解除してやる」

「よかろう。良くて五分、悪くて四分だ」

「十分だ。場所は奥にあるくらの前に立っている。それまで頼むよ!」

「あの蔵だな。そうと決まれば、早く行け!」

 雪菜は、氷の結界けっかいで敵のあやかしの動きを封じ込め、足止めをする。

 急いで蔵の前に立ち、契約のの準備に取り掛かる。書物を開いたまま、バッグの中に偶々入っていたチョークを目にすると、手につかんでコンクリート上に陣を二重に描く。外の円と中の円の間には術に使う文字を正確に写さなければならない。

 手が震え、文字がゆがんだ感じをさせる。

 雪の上で動き回ると、呼吸するのもつらく、体力を持っていかれる。妖はこんな気持ちにはならないのだろうか。

 陣を描き終えると、両手をパンッ、と叩いて重ねた。そして、

「雪菜!」

 と、彼女に合図を送る。

 雪菜は頷き、敵の妖の足元と腕に分厚い氷の術を発動させ、動きを鈍らせる。

 敵はもがき、抜け出そうと必死になる。

 その間に、雪菜は灯真のいる方へと飛んでいき、陣の中へ納まる。

「覚悟はできおるな」

「ああ……。背を後ろにして上半身をチラッと脱いでくれ……」

「貴様、こんな状況で何をする気だ! 高貴な妖である私を恥ずかしめるつもりか!」

「違う、違う。契約を結ぶのには心臓しんぞうに近いところほど成功しやすいって書いてあったんだよ。それにそこには文字を一文字書かないといけないんだ!」

 灯真とうまは、書物に書かれてあるところを指さした。

 雪菜ゆきなは覗き込んで、目を細めながら一字一句読み間違えずに見る。

 そして、溜息をついて、悩んで、また、溜息をつく。

「これを書いた人間は、相当な奴だったんだな。」

 そう言って、背を後ろにして灯真の前に立つ。上半身の心臓の所まで白い着物を脱ぎ、呼吸を整えだす。

「それじゃあ、行くぞ!」

 雪菜は小さく頷く。

「我、有馬灯真ありまとうまは、血の盟約めいやくに従うことをここにちかう。我の血は御身おんみの血となり、主従を結ぶ。天命てんめいさずかりし者、これを破りし者は罰を与え、我を守ろうぞ! われと契約し者よ、我と共に行こうぞ!」

 じんは光り出し、強い霊力が注ぎ込まれる。そして、右手の人差し指を思いっきり自分の歯で噛み、皮膚ひふを傷つけ血を流す。先の方まで流れ、地面に一滴ずつ落ち始める。その自分の血を雪菜の背中の左側に漢数字の一を刻み込む。

 刻まれた一は光り、痣となる。

 これで一通りの契約は終了した。成功したのか、失敗したのかともかく、疲れが根こそぎからゾッと出てきた。

「はぁ、はぁ、後は頼む……」

 膝に手をつき、意識を保ちながら立つことしか気力が残っていなかった。

「ああ。貴様の霊力れいりょくが私の妖力ようりょくとなり、力がみなぎってくる。これだった昔の私の力も越えられるのかもしれない! そこで見ているといい」

 そう言っていると、やっと氷の重りから解放された悪の強い妖がこちらに向かってくる。

「消えろ! 小者が! 二度と私の前に現れるな! そして、死んでしまいな……」

 雪菜は妖力の強い氷の技で全身を凍らせ、鋭い氷の刃で真っ二つに斬り刻んだ。

 二つに割れた巨大な氷は、大きな音を立てて倒れる。中で斬られた妖は、姿形を現世に保つことができずに黒い光に包まれて消えていった。

 後に残ったのは、妖力で作られた氷の塊。

 灯真は扉に寄りかかって、横腹を押さえながらいきなり倒れてしまった。

 地面に流れ出す大量の血、異変いへんに気付いたのはそんな時だった。

 扉の向こうから見たことのない右手に血がついている。

「ぐはっ……。やばい、視界が見えなくなってきやがった……。もしかして、今ので封印が解かれたのか……」

 倒れながらも最後の気力を振り絞って怪我を負っているのにもかかわらず笑っている。

「すまない。俺……から……約束を……破って……。でも……」

 そのまま灯真は気絶した。まだ、死んではいない。かろうじて急所は避けてあるが、時間の問題だろう。

「あーあ、これは見てられないねぇ。挙げ句の果てには油断してこんな大怪我ときたものだ。ここからは母親の私の専売特許だよ!」

「き、貴様は!」

 気を失っている灯真の元に一人の女性が近寄ってきた。黒いコートを羽織り、腕には古いミサンガをつけている。黒いブーツは雪が中に入らないように履いているようだ。

 灯真の前に立つと、しゃがみ込んで体を仰向けにする。ふところから出した呪符じゅふで怪我を負った場所に貼りつけ、応急処置を行った。

「それで、今回の主はどうだい、雪菜?」

「ええ、あの人と変わらない優しすぎる人ですよ。人の親子というのはこんなに似ているものなんですね」

「優しすぎるか……。確かにこの子、私の息子はどこかに心のブレーキを掛けているのかもしれないね。それが逆手に取られることもある。あの人とは違ってこの子は不器用なところがあるから……」

美咲みさき、あなたの言う通りだわ。今回の主は、不器用な上に優しすぎて、危険なのに立ち向かってしまう。瓜二つでも少し違うわ」

「そうか。それは良かった。じゃあ、私はそれなりの仕事を中で片付けてくるから……その子の治療ちりょう頼んだよ」

 そう言って、美咲は眼鏡をかけると蔵の中へ姿を消した。

 雪菜は、負傷した灯真を抱えて、その場から離脱し、灯真が泊っている部屋へと運んだ。

 布団に寝かせ、息苦しそうにしている灯真を見て額に手を当てた。

「ま、この顔はこの顔で可愛らしい所があるけどな……」

 優しい目をして、雪菜は知世と出会った日のことを少しばかし思い出していた————


 二十四年前————

 この日も雪の降る寒い季節だった。

 当時十六歳、高校二年生の有馬知世ありまともよは一人で自分の父である有馬伸介ありましんすけのお墓参りをするために裏山の墓地ぼちに足を運んだ。

「寒いわね。今年ももうすぐ終わりか……。来年になれば私も受験生なのね……」

 高校のセーラー服の上に白いコートを羽織り、行きつけの和菓子屋で買った饅頭まんじゅうを持っていた。

 長い階段を登り終えて後ろを振り返ると、山のふもとにある家が小さく見えた。

 墓地には、昔からこの地に縁のある人たちが眠っている。知世の父親もそうだ。

 彼女の父親・有馬伸介は病弱な体であり、六年前、四十六歳という若さでこの世を去った。生前は、小説家であり、胃癌いがんと戦っていた。家族のことを誰よりも思っており、和恵や知世、妹の美咲、その他の自分の子供たちに対して、いつも真正面から向かって相手をしていた。子供が悪い事をすれば叱り、良い事をすれば思いっきり褒める。父親の鏡みたいな存在であったと言ってもいい。

 彼の墓は、左から三番目の前から四番目の場所にある。

 墓地には誰もお参りに来ておらず、しんみりとしていた。

 父親の墓前で座ると、袋の中身を開けて箱から中身を取り出す。

 昔、伸介が良くこの饅頭を好きで食べていたことを思い出し、持ってきたのだ。

 黒餡の入った饅頭を五つほど取り出し、供えられている焼酎しょうちゅうの横にそっと置く。残った饅頭を墓前の目の前で食べ始めた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 何かが聞こえてくる。

 誰もいないはずなのに確かに声が聞こえてくる。女性の声だ。

 耳を澄ませると、その声は近くから出ている。試しに墓の後ろをそっと覗き込んでみると、今にも死にそうな女がいた。

「ねぇ、人の子よ。何をお供えしているんだ?」

「饅頭よ。この墓には私のお父さんが眠っているの。もう、六年前の事だけどね……」

 自分の父親の墓に背を預けて寄りかかって座っている少女に言った。

「人の子って、あなたも同じ人間でしょ?」

「さて、それはどうかな……。あなたにはそう見えているのかもしれないけど、それは違う。人には見えない妖という生き物だってこの世には存在するのよ」

「妖ね。確かに現代の日本においては私たちには怖がられる存在かもね。非科学的に現れる現象なんて、皆は否定したいものよ」

「じゃあ、そこにある食べ物を食べてもいい?」

「そうね。本当は仏様の物はすぐには食べていけないけど、くさって食べられなくなるよりかはマシかもね。だったら、しっかりと手を合わせてもらいなさい。ほら、早く!」

 知世はみじめに思えてきて、彼女の腕を引っ張る。白い肌に体温の冷たさが伝わってくる。下を向いていてどんな表情をしているのか分からなかった。何かを失ったのか、それとも、ただお腹が空いているだけなのか。そんな事を思っていた。

 知世に言われるまま、手を合わせ続ける。

 一分ほど手を合わせた後、いきなり饅頭と焼酎を飲み食べ始めた。むしゃくしゃに食べながら一気にコップに入った焼酎を飲む。

 普通だったら罰の一つでも当たってもおかしくないのだが、知世は微笑んでそれを面白そうに見つめていた。

「おいしい?」

「……………………」

 一言も言わずに最後まで食べ続ける。

 最後の一口を口の中に入れ、のどを通して胃の中へと流れていく。

 もう一度、手を合わせるといきなり倒れた。

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