冷たき来訪者Ⅱ

「へぇ、一応沸かしてあるんだ。ふーん……」

 露天風呂ろてんぶろを見つめながらブラシを取り出し磨き始める。

 小さな妖たちが、お酒を飲みながら先に露天風呂に浸かっていた。

「一番風呂じゃないのか……。ま、別にそれはいいけど……」

 灯真とうまは、黙々と石床を洗い、シャワーで汚れを隅の方に流していく。曇った窓ガラスは、一度タオルで拭いてみるが、すぐに曇ってしまい使い物にならない。

 露天風呂が外にあるのは冬の風物詩にしてはいいのだが、少しでも離れた場所にいると、マイナス気温の世界にいる。脱衣所から裸になって湯船に浸かるまでの短い距離が地獄になっているのだ。

 足元が滑らないことを確認し、周りにくまいのしし、鹿がいないかを確認した。だが、普通の人間ならここまでしか確認しない。灯真にはもう一つ確認しなければならない生き物がいる。それが妖だ。今は、害のない弱い妖怪たちがいるのだが、もし、この雪の中に大物が現れたらひとたまりもない。

 服は脱衣所で脱ぐのをやめ、かごの中にシャンプーと未開封の石鹸を入れ、シャワーの近くにある濡れにくい場所に置くと、服を脱ぎ始めた。

 上から脱ぎ始め、寒さに耐えながら全裸になるのに一、二分かかった。

「寒い、せめて周りをガラス張りの窓でも張ってくれるといいんだけど……。それじゃあ、ただの温泉になるよな……」

 腕を組みながら、タオルを肩に載せて鏡の前にある椅子に腰を掛けると、温度調節を左に回し、一気に五十度まで引き上げた。

 お湯を出そうと、蛇口を捻ると冷水が出てきた。

「わあっ! 冷たい!」

 すぐに蛇口を閉め、タオルで髪の毛を拭く。

 すぐに熱くなるのを考えていなかった。早く、湯船に浸かりたかったのだ。

 時間をおいてからもう一度水を出すと、既に五十度近くのお湯になっていた。

 そこから三十二度まで温度を下げ、髪の毛を濡らし、体全体を濡らしていく。

『人の子がなぜここにいる……』

 どこからか声が聞こえた。

「…………誰かいるのか?」

 姿が見えない人物に問い掛けるが、返事がない。どこから声をかけてきたのか分からない。

 灯真は、辺り全体を見渡すと自分と小さな妖怪たちしかいないのだ。

 おかしい。確かにはっきりと自分に話しかけてきたはずだ。

 首を傾げながら、髪の毛を洗い、体を洗い流す。きれいさっぱりになった状態で露天風呂に入った。

 湯気が天井に昇り、視界が見えにくい。小さな妖怪たちは最初、びっくりして、脅えていたが、灯真が微笑み、害はない事を示すと、また、騒ぎ始めた。

 頭の上に冷たい水で洗い絞って畳んでおいたタオルと載せた。

 露天風呂と外の雪、それにこの太陽が沈む頃の夕日がちょうどいい。

 彼らはこれを楽しみにするためにここに集まっているのだろう。

 しかし、さっきの女の人の声だった。棘の刺さった声だったが、今は危害を加える気が無いらしい。

『貴様、ここで何をしている? 人の子よ。貴様は何をそんなに悲しい顔をしているのだ?』

 さっきの声だ。やはり、誰かがこの近くにいる。

「お前こそ、ここで何をしているんだ? 姿を見せろ! どこにいる⁉」

 立ち上がって、その声の主に問いかける。

『なら、私を見つけてみるがいい。いや、貴様はあやかしが視えるのだろ? だったらすぐに分かるはずだ』

「なんで俺が視えると分かるんだ?」

『さっきからあふれ出ているその霊力こそがその正体の証だ』

 笑いをこらえているようなしゃべり方だった。どうやら、灯真の秘密を知っているらしい。

「じゃあ、俺が悲しそうな顔をしているってなぜで分かる?」

『その優しそうな笑顔の裏には何かあると思ってな……。それにお前はここに来るのは嫌なのだろ? 人間と関わるのは面倒だ。そんな事を思っているんじゃないのか?』

「お前、そんな口調な割には優しいんだな」

「ふん。私は優しいのではない。ただ、人の子を食べるだけに話しているだけだ。馬鹿者!」

「ははは……。確かにそうかもしれない。ここに来ると毎年憂鬱になるんだよ。正月には、親戚が集まり、つまり、人が多く集まるんだけど……。俺みたいな妖の視える人間がいたらどうなる? 気持ち悪いだろ? 小さい頃、この家で騒ぎを犯したことがあるんだ。その時以来かな、ここに来るのが嫌になったのは……」

 もう一度、湯船に浸かり直し姿の見えない女と会話をする。

『なら、貴様は人が好きなのか、それとも妖が好きなのか、どっちなんだ? 人とは生きている時間が短い。その中で嫌な事ばかりではないのか?』

「そうかもしれない。俺はどちらも好きとは呼べないよ。人も妖怪も俺はどちらも選べない。ただ、それだけだよ」

『面白くないな。なら、貴様がここにいる間に私が貴様を食べてやる。貴様が逃げ切れば貴様の勝ち、もし、貴様が食べられたら貴様の負け。どうだ? 面白いルールだろ?』

 女は、嬉しそうに話していた。

 自分の獲物である人間に対して、勝負を挑んできているからだ。

「なんで、俺がこんなことをしないといけない! 関係ないだろ⁉」

『関係あるさ。貴様の力は諸刃もろはの剣でしかない。もし、ここで殺されなかったとしてもいつかは他の妖に殺されるであろう』

「それならそれでいい。俺はお前達みたいな妖怪は嫌いだ。何もしていないのに何かを起こそうとする。なんで、人を襲うのが好きなんだ?」

『人を襲うのが好きだと? 貴様ら人間は、我ら妖に対してどのような悪事を働いてきたのか分かっているのか⁉ 代々人というのは、我々妖の里である野山に足を踏み入り、荒らし、妖の住む場所を奪った。彼らは私たちの話など聴こえもしない。人というのは、害のある生き物なのだ』

 いつの間にか雪は吹雪ふぶきに変わっていた。柱が少しずつ凍り付いていくのが分かる。

 露天風呂の水も温度が下がっていき、氷っていく。

 灯真は、すぐに露天風呂から上がり、下半身にタオルを巻く。お湯はすぐに氷が張られて、右手で軽く叩くとスケート場並みの氷の硬さだ。こんな事の出来る妖は氷を操る者しかいない。すぐに服を着替えると、一つ一つ、周りの柱を調べつくした。

 だが、誰もいなかったが。ここに妖がいたことだけは分かる。妖力がついさっきまで感じたものと同じだ。

「ここにいたのか……。だが、もうここにはいないな」

 灯真は、氷った露天風呂を見た後、すぐに家の中へと入った。

 心臓の鼓動が早くなっていく。鋭い視線がこっちを見ているような気がした。

 もし、その妖が本気になれば灯真はすぐに殺されるだろう。

 周りの人間にも被害が及ぶ。早く、何らかの対策を立てておかなければならない。でも、妖怪を封じ込める術など、灯真は全く知らない。

「さて、これからどうするか……。どんな妖怪が俺を狙っているのかも分からないのに対策の使用が無い。あー、でも、何とかしないとまた嫌な思いしかしないからな」

 ぶつぶつと独り言を言いながら廊下を歩いていると、美咲みさきが目の前に現れた。

「灯真、もう露天風呂はいいの?」

「あ、うん……」

「だったら私も入ってこようかしら。今夜は寒いしね……」

 美咲は寒そうにしながら左手には着替えの服を持っていた。

 だが、あそこには氷の張った露天風呂しかない。気づかれる前に留めなければならなかった。

「ちょっと待って‼ 今あそこには……」

 と、美咲の右腕を掴む。

「どうしたの? 何かあるの?」

「い、いや……」

 そのまま俯いて、露天風呂の方へと走り出す。脱衣所の扉を開け、外の扉を開けると違う景色が見えた。

 さっきまで凍っていた柱や氷っていた露天風呂が元に戻っていたのだ。

 灯真は、唖然としていた。

 いつの間に元に戻ったのか。さっきは幻だったのか。頭が痛くなる。

「灯真、何もないじゃない。普通の露天風呂よ」

「いや、何でもない。母さん、部屋に戻るね。ゆっくり浸かっていなよ」

 灯真は、そのままさっきの部屋に戻った。

 部屋に戻ると、小さなこたつのテーブルの上に美味しそうな夕食があった。

 今夜はおでんだ。中央にある鍋の中におでんがある。その周りには野菜や漬物つけものなどが並べてあった。

「おや、もう上がってきたのかい。ちょっと待っていてね。美咲が上がったら夜ご飯にしようかね」

 和恵にそう言われて、灯真はコタツの中に入るとテレビを点けた。

 この山間部にもテレビが届いており、画面が映る。新潟は、自分が住んでいる剣とは違い、三、四局程多い。

 二十分くらい夜のバラエティー番組を見ていると、美咲が髪をタオルで拭きながら部屋に入ってきた。香りのいいシャンプーの匂い。そして、地味な服があまりに似合わない女性である。

「さて、みんな揃ったことだし、食べましょうか」

 和恵がそう言うと、三人は両手を合わせた後、箸を手に取って、夕食を食べ始めた。

 おでんを皿に移して、大根を口の中へと入れる。味のついた大根の汁が口の中で飛び散る。

 醬油と出汁、大根の汁が絶妙なバランスで合わさっている。

 その後も卵、牛筋、こんにゃく、ちくわなどを食べながらテレビを見た。やはり大晦日前の三十日は、特番が多い。

 食べ終わる頃には、午後八時を過ぎていた。辺りは真っ暗で近所の家の電気の明かりしか見えない。今年もいよいよ終わりを迎える。一日と三時間弱後には、新たな年となる。そして、また三五六日がリセットされて、一からスタートするのだ。

 人間の一生は、大体八十歳と言われている。

 灯真は、現在十五歳。後六十五年はあるが、人はいつ死ぬのかも分からない。明日死ぬかもしれない。もしかするとこの数秒後、突然死ぬのかもしれない。人の寿命は、一体誰が操作しているのだろうか。自分自身、それとも神なのか、それは目の見えないもので出来ている。

 寝床を訊くと、毎年泊まっている二階にある階段のすぐ目の前の部屋だ。

 洗面所で歯を磨いて、部屋に戻り、荷物を持って先に寝室に一人で向かった。

 ドアノブを回して、柱についている部屋の電気のスイッチを押すと、明るくなった。

 ここに来ると、この部屋は自分以外誰も使わない。だから、そのほとんど、私物が置いてある。

「掃除はされているんだ……。布団ふとんも敷いてあるし、ありがたいな」

 そう思いながら扉を閉めると、荷物を床に置き、バックの中から勉強道具を取り出した。

 近くには天井までの高さのある古い家紋印が入った棚があり、小さなテレビが置いてある。元々この部屋は、置物として使われてきたらしい。

 あらゆるところに、古傷があり、この家の歴史が分かる。

 黙々と冬課題の残りをやり始め、年内に今年のことは今年中に終わらせようと思っている。国語、数学、英語、理科、社会の五つは、高校入試に欠かせない教科である。昨日までに数学、理科、社会は終わっていた。この中で特に苦手なのが英語である。日本語と英語、どちらも理解していなければならないからだ。

 シャーペンを回しながら考え、次第に長続きなど面倒になってきた。暇つぶしにテレビを点けて、布団の上で横になっていると、いつの間にか疲れもあるのかそのまま眠っていた。


 その日の夜、夢を見た。

 誰か見知らぬ人物がそこに立っていた。ここはあの例のくらだ。鍵を開け、蔵の中へ入っていくのが見えた。その後を追いかけて中に入ってみると、中は暗がりで明かりを点けないと見えにくい。この蔵の中には、嫌な雰囲気があった。目を細めてよく観察していると、誰かが陣を描いている。左手には何やら古い本を手にしながら険しい表情をしていた。

「なんだよ。これ……」

 灯真があっけにとられたのは他のことだった。周りの壁には、うめき声が聞こえてくる。壷に蓋がされて、その上に呪符が貼ってある。

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