4 ~套の襞少女~


 胸が痛い。

 急に走り出したせいで、心臓が驚いたのだろう。バク、バク、と内側から強く胸を叩く拍動はくどうを休ませずに、衝動のまま手足を動かす。

 気付けば、あたしは走っていた。

 地を、くうを通して襲いかかってきた気味の悪い振動が、いつの間にかあたしを走らせていた。

 ディザイアーだ。

 いつも感じている気配とは違ったけど、あんなことをできる存在はあれ以外には思い付かない。

 そして全身を重い音の衝撃が打ち抜いてすぐに、それを考えてすぐに思い浮かんだのが、ここ。学校の持久走でも出したことのない速さで走り抜け、足を止めた氷川ひかわだいの一角にあるファミリーマンション。イワオくんのおうちだ。

 音子おとこちゃんが振り向いた方向。伝わってきた音の近さ。

 恐らく、ここら一帯はみんな避難指示区域になるだろう。そうなると、足の悪いイワオくんとお家から出られないお姉さんは、近くにディザイアーがいるこのマンションでも留まるかもしれない。

 行ってあたしに何ができるのか、できることがあるのか分からない。

 だけど、またも響いてきた重音で些細な迷いを振り払い、以前永未えいみちゃん達から教えてもらったイワオくんのお家がある三階へ、エレベーターを待つ時間さえももどかしく、息も絶ええに階段を駆け上がる。

 陽が落ちて照明に照らされる三階の踊り場を回り、開けた視界の共用廊下。

 そこには二人の人物がいた。

 一番手前のドアに背中を打ち付ける、近頃の暑さにもかかわらず長袖のパーカーを来た男の子と、エレベーター側からその男の子に近づき手を伸ばす、少し日に焼けた男の人だ。

 一触即発な雰囲気なのが、一目ひとめ見ただけで伝わってくる。

 男の人は、健康的な印象があるはずの肌色だけど、せ気味な体はやや背が高めなのもあいまって、元気そうには見えない。

 男の子の方はすぐに分かった。イワオくんだ。そして、最初は気が付かなかった小さなその背中のかげには、もう一人の人物がいた。

 夕焼けに照らされれば、綺麗なオレンジ色に輝きそうな明るいちゃいろの髪の、女の人。


「彼氏が来てやったってのに」


 その人物へ、イワオくんとよく似た女の人へと、濃い肌色の手が触れようとする。

 階段を駆け上がったばかりの足を、あたしは迷うことなく繰り出した。


「そんなつれねぇ顔すんじゃ――!!」

「ぃゃッ」

「待って!!」


 声にならぬ声を上げる女の人の顔へ迫る、黒みがかった骨ばった手首を、すんでのところでつかみ止める。


「――――っ?!」

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

「あぁ? んだガキぃ――!」

「ガキじゃない!」


 すぐには整わない荒い息のまま、不愉快な感情を包み隠さず向けられた怒声どせいへ、勢いに任せて叫び返す。

 そこには、小さな感情が入っていた。


「はぁ……はぁ――あたしは、フレア……! 魔法少女フレア。みんなの笑顔をまも国家こっか魔法少女まほうしょうじょだ!」

「…………ト、モ、ナ……?」


 弱々しくもはっきりと耳に届いた、微かにうれいを帯びた声。

 そこであたしは、懐かしい面影を感じる顔を見た。初めてテリヤキと出会ったときの、優しいお姉さん。そのまぶたには涙が湧き出している。

 そのお顔を、声を脳が捉えたところで、あたしはさっきの小さな感情の正体を確かに感じた。

 怒っていたのだ。涙に。

 かつてあたしに笑顔を取り戻させてくれた人の顔を曇らせているこの男に、怒ったのだ。

 それを一度押し込め、あたしはかつての感謝と、「もう大丈夫だよ」という言葉の代わりに、お姉さんへ笑顔を作る。


「あなたがお姉さんの――イワオくんとお姉さんの笑顔をうばうっていうなら、あたしは、絶対にお前を許さない!」


 燃える激情を胸にたぎらせ、あたしは《魔法少女》へと変身する。

 私は笑顔を護る魔法少女だから。

 目の前で変身したあたしの姿に目を丸くさせ、男が後ろへよろめく。


「なん……で、なんで魔法少女が邪魔じゃまをするんだよ。関係ないだろ!」

「関係なくない! イワオくんは永未えいみちゃんに夢香ゆめかちゃん、あきらくんの大切なお友達だから。この状況もどうなってるのかは分からないけど、お前がお姉さんを泣かせてることだけは分かる。あたしが手を出す理由なら、それらだけで十分だよ」


 怒りと怒り。感情がぶつかり合う。

 つかまれている右手を振りほどいて、男は拳を絞り、あたしと完全に対峙する。


生意気なまいき言ってるんじゃねえよ……。ぼくが花緒はなおと会うためにどれだけ苦労したと思ってるんだ。魔法少女だったら、おとなしく怪物あいつでもやっつけていろよ!」


 喋るごとに硬くなっていく男の拳が、セリフのたかぶりと共におそいかかってくる。

 いったい何を苦労したのかは知らないが、それはお姉さんに涙を流させて良い理由にはならない。

 怒りがさらに込み上げる。

 この男は許せない。けれど許せないからこそ、同じ土俵に立ったらダメなんだ。

 影の怪物ディザイアー達に比べれば目に見て取れる、しかし込められた憎悪ぞうおはあれらと大差ない、見た目の内側でくろく染められたパンチ。

 それをかわす直前、あたしは思い出した。

 むらさき色に染められた、憎悪の拳。

 あの時の数々の記憶が、脳裏にまたたく。


 !!


 かつての女の子も、このように受け止めてあげられたのだろうか。

 あたしけた攻撃の勢いを逃がせず、ぶつかりそうになる男の細身を、大型バスをも受け止めてみせた魔力のかたまりで包み込む。

 そこからすかさず、透明とほとんど変わらないしゅ色じみた魔力の塊を、あの時とは逆に変質させる。

 張り詰めた「」のイメージ。

 沈むようにし潰された魔力を、弾み戻ろうとするゴムの塊へと結びつきを強めていく。その反動で、男は予備動作もなくはじき飛ばされ、後ろに数歩退いたのちにバランスを崩して廊下に尻もちを着いた。

 あたし達、魔法少女の魔力が満ち通っている眼にだけうっすらと見える体外の魔力は、普通の人間であるこの男にとっては見えない空気か何かにはばまれたように感じただろう。

 何が起きたのか分からないといった表情で、男はこちらを見つめる。だが、すぐに憎悪を込め、しゃがれた声で叫び上げてくる。


「っ……く。オマエ……国家魔法少女なんだろ! くにの人間だろう! 怪物かいぶつどもと戦うような公務員が一般人に手を出していいのかよ!!」

あたしは戦う魔法少女じゃない。あたしは、笑顔えがおまもる魔法少女。だから、誰も傷つけさせないし、誰も傷つけない。誰にもきずつけせたりしない!」


 男と、お姉さんとイワオくんの間に立ち直し、あたしは杖を構える。


「みんなの顔を曇らせるディザイアーを倒すだけじゃない。……あなたが、誰かの笑顔を奪うっていうなら、あたしはどこでだって前に立ち塞がって見せる」

「はっ。オマエがなんて言おうと、怪物どもへの攻撃権しか持たない公務員こうむいんが、俺たち民間人みんかんじんに手を出した時点で終わりなんだよ!」

「……」


 確かに、男の言うことは、正しい、正しくないとは別に間違ってはいない。

 遅かれ早かれ、近藤こんどうさん達に伝わるだろう。

 そうなればもう、恐らく国家魔法少女としてはいられなくなる。けど、それはここで杖を握らない理由にはならない。


あたしが、魔法少女になったのは国家こっか魔法少女であるためじゃない。今ここで、イワオくんとお姉さんの笑顔を護るため。深輝みきちゃんの、小鞠こまりちゃんの、ルナちゃんの、永未えいみちゃんや夢香ゆめかちゃん達の、みんなのそれぞれの笑顔を護るためだよ」

「――つっ」

「「……」」


 舌打ちをする男は、不愉快そうに顔を歪ませる。


「…………ともな――」


 背中にかばうイワオくんが、あたしを呼んだかと思った、その時。場違いにも程がある怪しい笑い声が、廊下中に響き渡った。


「おっほっほっほっほ――」


 お腹の底から、


「おーーっほっほほほほほほほンぉっほっほぉお!!!」


 内臓の内側までひっくり返して、全身あますところなく鳥肌が立ちきったかと錯覚する声だった。

 ひとしきり笑っても気が済まなかったのか、自身の胴と腕をねじりながらは、いつ到着音が鳴ったのかも気付かなかったエレベーターから出てくる。

 は、一人の男だった。

 靴下をいていないのか、チラリとスラックスのすそから足首の肌を覗かせる革靴の足で、ぱから、ぱから、と独特な足音を響かせる。その歩調に揺れるネクタイは、どのシャツやジャケットにも収められずに結ばれている。A4サイズのビジネスタブレットを脇に抱えるその様は、不自然ではあるものの、その辺りを歩いていそうなセールスマンを思わせた。

 だが、それらの不自然さも常識の範囲内とさえ思えてしまう、セールスマン風のカジュアルスーツの男の表情に、あたしも廊下に倒れる細身男も釘付けだった。


「あああぁぁぁ。イイぃ、お不幸ふこうでっすンねぇええ……」


 上機嫌な口調で細身男を覗き込みながら、スーツの男は服の一番上に揺れるネクタイを整える。不気味に。


「おっっほほほほ。ああぁ、あなった、いいィ臭いをまとっていらっしゃいまっすンねぇ」

「に、におい……?」

「えぇえ、ここンへまいるまでに一応いちおう目っにしておいた『影』とンおおなっじかぐわしい臭いをしていらっしゃいます。ありがとうごンざいまあす。あっなたでしょう、『あれ』をお作りなさったンのは」


 誰もが引くほどに、ハイテンションだ。不気味に。


「ンおっほほほほ、今っ私はほざいたでしょう。同じにンおいがする、と。何かしンらの生存せいぞん本能ほんのうに訴えかけっる強いストレっスを与え続ければ、『影』になーることもなーくはなーいですからねンンぇ。まあー今の時世に、わざわっざそれをなさる理由などしったこっちゃねぇっですっが、ふふっ。分かりますよぉ、不幸には、ンびんかんンですから。私」


 ハイテンション。

 無駄にハイテンション。それでも、そのハイテンションすらも、気にならない。

 なぜならスーツの男は、エレベーターから降りてきたときからずっと、無表情のまま変わらないのだ。

 笑っているときも、身体をねじっていたときも、ネクタイを直しているときも楽しげに語っているときも、変わらず真顔まがおだった。

 不気味という表現すらも生ぬるい、本能から拒絶しようとするこの男に、あたしは一歩間違まちがえれば攻撃していたかもしれない。

 魔力の砲撃ほうげきか、灼熱の炎の咆哮ほうこうか。

 それらをあやうく杖に込めてしまうのを、背中から聞こえたイワオくんの、嫌悪感たっぷりな声が引き止めてくれた。


「……不幸ふこう

「不幸……屋さん?」


 聞き慣れない名前に、あたしは無意識に聞き返していた。

 その反応が嬉しかったのか、イワオくんの代わりにスーツの男、不幸屋は楽しそうに答える。


「えぇえ。私は押売おしうりこうンをあきなうさすらいの、ス・テ・キっな不幸屋さンんでっす」


 続く不幸屋の言葉に、あたしの体はかすかに限界を超えた。


「幸せで不幸ふしあわせなお嬢っさん」


 あたしの全てを見透かしたかのような不幸屋の言葉。それを真正面から受け止めたあたしは、小さく身震みぶるいをしてしまう。

 そのまま萎縮いしゅくしそうになる、あたしの気持ちをまたも支えてくれたのは、イワオくんの警戒する声色こわいろだった。


「いまさら、何をしに来たんだ」


 後ろから一歩前に出て、あたしの隣に立つパーカーの少年に、細身ほそみ男のそばで屈んでいた不幸屋は立ち上がる。


「ナニって……それはあなたンの不幸を買いっ取りにンでっすよ。あなたンが不幸をおっ買いなさったほんとうの理由の少女たちンへ、りするために」


 変わらない無表情。しかしここにきて初めて、イワオくんを見据みすえる、ほんの少しだけ細められたスーツ男の眼の奥はわらっているようにも見えた。


「おっほほっ」

「本当の……理由の少女、……?」


 イワオくんが、警戒心をさらに強めて問い返す。


「ええぇぇっえ。おンわすれっなのですかっぁ? ンんっふふ」


 それに対し、不幸屋はまた不気味な無表情のまま、細身男を横に伸ばした手で指差す。


「とーころっで。彼女かーのじょたちはいンまのお作りンになられった『影』と、お遊びンになられておられまっすよぉぉぉぉぉぉ」

「――は……? なに、言って……」

「おっほほほほほ。です! かぁらっ、お元気げぇぇンっっきなシースターぁズっが、今頃そこの大きな公園で『影』とおったわむれになられているっっっと。私、ただいまほざいてみせまっしンた。のですよ」


 シスターズ。姉妹を示す複数形英単語。

 口にした言葉の意味を、あたしは頭の中で反芻はんすうして考えようとする。

 けれどその前に、さっきまでの警戒心を霧散させたイワオくんが、先に答えに辿り着いた。


「まさか、エミユメ……? 不幸屋あんたっ……! あの子たちに何をした!!」

「なぁぁっンにも! ワーッタシはなーにっも手を出しておぉりませんよ。たンだここへ参る道すっがーら、みーずかたーったかえもしない魔法少女ンの探偵に引っ付いているのっを、見かけただけでぇっっすよ」

「――っっ!!」


 戦えない魔法少女の探偵。思い当たるのはミサキさんくらいだ。

 大山おおやま姉妹が、ミサキさんに付いて行っている? あたしが小学校の前から飛び出した後、深輝みきちゃん達は避難しなかったのだろうか。向こうで一体何があったのか。

 不安な思考に駆られるあたしの隣。

 さっきの今まで下ろしていたパーカーのフードを深くかぶったイワオくんが、左足を踏み出し前に出た。しかしすぐによろけてまえかがみになる。

 その直後だ。

 引っ掛けるように掴んだふちを左手に預け、頭を振ってフードを脱いだ《彼女》は、崩れた体を踏み締めた左足で立て直し、中指に指輪がはめられた右手を付きだす。すると下ろされたフードはそのまま薄桃うすもも色の光となり、連なるパーカーを上から順に同じ光に溶かしていき、フリルが素敵なパステルピンクのドレスへとなり変わる。

 突き出された右手の指輪もそれに呼応して瞬いたかと思うと、右手を起点にしてしろ色の光が《少女》の全身へ行き渡っていく。

 明るいちゃいろの髪がんだ白髪はくはつへと染まり変わったばかりの少女は、前屈み気味の上体を起こし、高く可愛かわいらしい声で不幸ふこうをねめつける。


「二人はどこだ」

「おっほほほほほ。でぇっすから、すンぐそっこの大ぉっっきいぃぃ、公園ですよっお」


 それを聞いたパステルピンクの少女は、すかさず共用廊下の外へ飛び出そうとして、踏み止まった。

 振り返る視線の先は、あたしの後ろ。イワオくんによく似たお姉さん――確かそう、花緒はなおさんだったか――を気にしているみたいだ。


「……五和夫いわお……?」

「うん……」


 花緒はなおさんのか細い声に、パステルピンクの少女は小さく答える。

 しかしやはり、というか、目の前の彼女――そう、フリルの魔法少女は、イワオくんということで合っているらしい。

 ルナちゃんの時もそうだけど、目の前で魔法少女まほうしょじょが変身するときは、まるで別人になったかのように認識がガラリと書き換えられるから、いつもビックリする。


永未エイミと、夢香ユメカ、のとこに……行くんでしょ。すぅ――ふぅうう……。私は、ダイ、ジョブ……! トモナが、いるから」


 ずっと腰が抜けているのか、ひざを廊下のタイルに着けたまま身を寄せてくる花緒はなおさんは、そう言ってあたし衣装ファイティングドレスのスカートのはしを、力無く掴む。

 見るからに無理をして笑って見せる花緒はなおさんの手は、絶え間なく震えていた。


「ぃきなさい。それが……いまあんたが、するべきことなんでしょ」


 今にもき消えそうな花緒はなおさんの言葉に、フリルの少女は僅かな苦悶くもんの後、あたしの名前を呼んだ。


「……ともな」

「うん。あたしも後で必ずそっちに行くから。えっと、イワオくんは先に行って。花緒はなおさん……お姉さんは、魔法少女まほうしょうじょフレアとして絶対に誰にも傷つけさせないから!」


 廊下の転落防止用の手すりから身を乗り出すパステルピンクの少女は、「当たり前だ」と両足を廊下から離しきる。


「行ってくる、姉さん」


 そう言って、魔法少女となったイワオくんは、投げ捨てたパステルピンクの体を重力に引かせてマンションの屋根へと飛び上がっていった。

 お姉さんもあたしも、その瞬間は生きた心地がしなかった。

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