第三章 - 不幸

 1 ~怯の帰姉女~  ※閲覧注意


 不幸だ。


 僕の境遇きょうぐうを聞いた人は、口をそろえてそう言うだろう。

 あるいは、可哀想かわいそうにと。

 僕も、不幸ではあるのだろうとは思う。

 けれど、僕の体が不自由になったことにかんして、結果はともかく、経緯けいいまったく不幸だとは思わない。少なくとも、一つの命がうしなわれるのを、自分のからだ半分程度で無くせたことは僕のほこりだ。最善さいぜんとは言えないだろう。だけど、不幸ふこうだとも言わせない。


 でも、精神こころが不自由になることは、間違いなく――――



 不幸だ。







「あ、イワオくんだ」


 五月十九日。

 木曜日の授業をえて、まっすぐ家に向かって下校しているところに、見知らぬ女性からこえけられた。

 いや。少し訂正ていせいだ。おっぱいは大きいけど、彼女が着ているものは来年ぼくかようことになる近所の中学校の制服ブレザー、つまり中学生だ。背丈せたけも、僕より若干たかそうなだけで、大人おとなびているわけでもなかった。

 小さいながらも車通りの多い表通り、その道路にかる歩道橋ほどうきょうの下を通り過ぎようとしたところで、僕は彼女に名前を呼ばれた。少し見上げた歩道橋の階段の上、階段を降りきる数段すうだん手前で足を止めたように、中学生のお姉さんは立っていたのだ。

 僕が口を開くよりも先に、見知らぬ中学生のお姉さんは、しまった、とでも言いたげな表情ひょうじょうで自身の口を両手でおおう。


「……お姉さん、だれ?」


 目線だけでなく体ごと中学生のお姉さんに向かい合うと、彼女は素知そしらぬ顔をしてななめ上を見上げる。


「…………」

「……いや、思いっきりお姉さんが僕の名前呼んでたよね」

「…………えへへ……」


 顔の表情は変えず、しかし少しだけあきれるような声で言及すると、中学生のお姉さんは気まずそうにこちらへ振り向いた。

 しっかりと向き合った苦笑にがわらいをする顔をあらためて見ても、やはり見覚えはなかった。

 になる前もあまり人付き合いをしないたちだった僕にとって、僕の名前を知る人間は限られる。最大でも三つしかとしが違わない中学生なら、去年までの僕のことを知っていてもおかしくないけど、目の前の彼女は小学校でも見たことはない。

 僕があやしむような目で見つめる。すると、中学生のお姉さんはちゃ色のひとみを少しおよがせてから、あきらめたように残りの階段を下りた。


「えーっと、あたし途中まで同じだから、一緒に帰ろっか?」


 明らかに不審なセリフに、僕は身構みがまえた。

 それを見て、中学生のお姉さんは分かりやすく狼狽うろたえる。


「――あっ! いや違っあ、あー、えっと、あの、えぇ~…………えへ? ……じゃない、ど、どうしよう。えぇっと……深輝みきちゃんとか小鞠こまりちゃんがてくれたら……っていま居ないし……」

「……コマリ? もしかして、コマリ姉ちゃん……?」

「へ――?」


 あたふたと、はたから見ていれば面白いくらいに百面相ひゃくめんそうを繰り広げる中で、中学生のお姉さんは気になる名前を口に出す。

 コマリ姉ちゃん。クラスメイトの、数少ない友人がたまに話題に出す近所の中学生のお姉さんのことを、確かそういうふうに呼んでいた気がする。


小鞠こまりちゃんのこと、知ってるの?」


 キョトンとした顔で僕を見つめてくる中学生のお姉さんを、僕も見つめ返す。中学生のお姉さんは、分かりやすく「はてな」を頭の上に浮かばせる。

 この様子だと、深くは何も考えていないだろう。

 何も考えていないなら、どうして僕のことを知っているのかを探りやすい。それとも、何かたくらんでいるのなら、状況にノるのも悪くない。


「……いいよ。一緒に帰っても。途中までなんだったら別に」

「――! ホント!?」


 パッと顔を明るくさせて、中学生のお姉さんは赤茶あかちゃの髪をねさせる。これは多分、”コマリ姉ちゃん”のことを聞き返しているのも忘れている。演技なのか、バカなのか、イマイチ分からない。いや、もしかしたら深く考えるまでもなく、後者なのかもしれない。

 僕が首を縦に小さく振り、短く「うん」と肯定こうていすると、中学生のお姉さんはウキウキといった感情を包みかくさず僕の隣に着いた。

 このままっていても仕方がないから、とりあえず下校の道筋を再び辿たどり歩き出す。

 遅れずに横を付いてくる無邪気むじゃきな少女に、前を向いたまま言葉を投げかける。


「……お姉さん、名前はなんていうの?」

あたし? あたし灯成ともなだよ! 忽滑谷ぬかりや灯成ともな!」


 何の躊躇ためらいもなく、中学生のお姉さん/ともなは嬉しそうに答える。

 年下が相手とは言え、少し警戒けいかいしんが無さ過ぎではないだろうか。

 そんなともなの無警戒さに、僕は微小のモヤモヤを抱えるのを感じた。

 とはいえ、僕の感情はさておきチャンスではある。であれば、遠慮えんりょせず切り出そう。


「ともな」

「あ、さっそく呼び捨てなんだ」

「《僕の体》のこと、誰から聞いたの?」

「え……?」


 視線だけでなく、意識も僕の方へ向けられるのを感じる。

 あゆむ足を進めながら、核心かくしんを掘り探す。


「僕は、あきらかに不自然に片足を引きずって歩いてる。よっぽど無神経か他人ひとに関心がない限り、普通は大体だいたい聞いてくるよね? 『どうしたの?』って」

「……? うん」


 青信号。

 点滅てんめつしているその信号の横断歩道の手前で立ち止まり、一歩おくれて少し追い越し足を止めたともなに、目線だけを向けて問い掛ける。


「ともなはそれを不思議に思うようにも見せず、くわえて僕の歩調ほちょうに合わせて歩いてくれてる。そうするってことは、僕の体が半分、不自由なのを知ってるってことだよね。誰から聞いたの? 僕の名前を知ってたのも、同じ人から聞いてたんでしょ」

「え? え……あ、あー……」

「もしかして、大山おおやま姉妹……永未夢香エミユメたち?」

「えっ!?」


 図星ずぼしらしい。

 分かりやすぎるが、うたがうまでもなく顔に出ている。僕のことを話しそうな知り合いの候補こうほの一つが、初めから当たった。というよりも、思い当たるふし幼馴染おさななじみのあの子たちくらいのものだっただけなのだが。

 近頃。正確には、うちの生活がガラリと変わって少ししてから、あの双子ふたごの様子が目につきだした。

 そして最近、学校の外でその変化がよりはっきりと出てきたように感じる。多分、僕のことをさぐったりしているんだろう。そういう姉妹しまいだ。

 までは届いてはいないだろうし、誰にも掴ませる気はないけど、何もしないままでは、もういられない。

 ともなは、帰り道が途中まで同じだと言った。それはつまり、僕の家を、あるいは通学路を知っているということだ。

 ともなが僕に声を掛けてきたのは通学ルートの大体なかくらい。僕の家は小学校の校区の一番はしの区域だ。彼女と別れるまで、少し時間がある。それまで変に勘繰かんぐられても面倒だし、逆にともなから情報をられるかもしれない。

 それに、僕が怪しんでいることをともな経由でエミユメたちに伝われば、少しは慎重しんちょうに動くように、なるはずだ。


「やっぱり」


 表情から僕の思考を読ませないように、赤になった信号に顔を向けたまま続ける。


「あの二人のことだから、何かへんなことをへん解釈かいしゃくして動いてるだけだろけど。何をどこまで聞いてるの?」

「な、なにを……? う、うぅ~ん」


 ともなは少し考える。

 信号が青に変わり、歩き出した頃に、ともなのうなり声は途切とぎれた。


「えぇっと……イワオくんは事故で体が半分はんぶん動かなくなったのと、最近様子がおかしいのと、永未えいみちゃんが怪力かいりき持ちで、イワオくんのお姉さんも最近あんまり見かけなくなった?」

途中とちゅう、僕のコト関係なかったんだけど……。まぁいいや」


 細かいところまでははっきりとはしないけど、おおよそ見当がついた。

 あの双子は、変な機転はくものの、頭は良いわけではない。多分、どこかで知り合ったともなを巻き込んで僕のことを調べようとしているんだろう。

 隠す素振そぶりも見せずにぺらぺらと喋るともなはどうしようもなく人選ミスだけど、これが天然ではなく計算ならとんだものだ。まあ、間違いなく天然だろうけど。僕のかんだが。

 その後も、しばらく歩いて聞き出そうとしてみたけど、他にあきらをつけていたりしていた以外のことは分からなかった。

 するどいのか、にぶいのか、良く分からない進展の仕方だ。たよる人間を間違えたのではないか。いや間違えていてくれて全然ぜんぜんいいんだけど。ただやはり、幼馴染おさななじみとして少し心配になる。


「あ!」

「っ?! ……他にも、何かあったの?」


 知っていることを全て話しきったかと思っていたともなが、少しの距離を静かに歩いていたかと思うと急に声を上げる。

 一瞬がりかけた肩を何とかとどめて、曲がり角を曲がるついでに赤茶あかちゃの少女を見上げる。


「え? あ、ううん。えっと、永未えいみちゃん達とイワオくんは幼馴染みなんだよね。イワオくんは全然関西かんさいべんで喋らないから忘れてた」

「……は?」


 どんな情報が残っているのか、心の中で身構えていたが、出てきたのは肩透かたすかしもいいところのしようもない疑問だった。


「……いや、僕は生まれも育ちもこの町だよ。大体、京都きょうとべんなんて喋ったこともないし。エミユメたちと幼馴染おさななじみっていっても、幼稚園の卒園のとし、小学校に入学するちょっと前に京都から引っ越してきてあの子たちとなかが良かったってだけ」

「そ、そっか。そうなんだ」


 それで納得したのか、に落ちたような顔でともなは僕に向けていた顔を再び前へ戻す。


「……まあ、間違ってもエミユメたちの前で京言葉きょうことばとか言わないことだね殺されるから」

「ゔっ……」

「言ったのか……。あと、エミユメたちの前では関西弁じゃなくて京都きょうとべんって言わないとまた怒られるよ」

「そ、そうなんだ……。(なんかちょっとメンドクサイな……)」


 表情ゆたかなともなは、苦虫をつぶしたような顔から引きつった苦笑いへと、ころころと顔の様子を変える。最後のつぶやきは、正直、少しだけ分からないでもない。

 そんな、油断ゆだんした思考に意識をいてしまったその時だった。

 すぐさっき、さらりと羅列られつされた、警戒すべき話題に反応が遅れた。


「そうだ。そういえば永未えいみちゃん達、イワオくんのお姉さんとも仲が良かったって言ってたけど、お姉さん今どうしてるの?」

「――――!!」

「最近見かけなくなったって言ってたけど、なにかあったのか――」

「――まれ……」

「へ――?」


 その一瞬だけ、身体の左側の感覚が全身にひろがったかのような錯覚さっかくに包まれ、もれれ出た声は、まだ声変わりしきっていないのにも関わらず、ひくく吐き出る。

 ねえさんの、『あの時』の姿が脳裏に浮かぶ。

 思考に引きずられて知らずに足が止まった僕に振り返るともなの顔は見ずに、僕は小さく吠えていた。


「何も知らないくせに、姉さんのことに触れるな」


たすけて、五和夫いわお……――』


 あの痛々しい、普段の面影を微塵みじんも残していなかった、しぼり出されたかぼそい声が時間をえて鼓膜こまくかすかに震わせる。


ねえさんは――!」


 すぐさま冷静さを取り戻し、そこで僕は口を閉じる。いや、まだ冷静れいせいではないかもしれない。激情げきじょうはまだ、胸の内に残っている。

 出しかけたセリフごと、一息ひといき飲む。

 盗み見るように、目線だけで見上げたともなの顔は、驚きで、しかし、次の瞬間には微笑ほほえんでいた。


「……!」

「そっか、ごめんね、勝手にみ込んじゃって。――そうだ……。多分だけどお姉さん、おうちから出られないんじゃないかな」

「――ぇ!?!?」


 思わず、音になりきらない声がのどから飛び出た。

 どうしてそれを。

 くちびるだけがさきんじて問いかけたそれをすんでのところで飲み込み、僕は逃げ出した。

 そう。

 走り出すのではなく、逃げ出していた。


「あっ」


 走れない体で逃げ走る背後から、何故なぜか動きのない、ともなの声が聞こえる。


「……えっと、あたし、あんまり頼りにならないかもだけど、頼ってくれたら、力いっぱいお姉さんを助けるから!」


 その、後ろから耳を打つ中学生のお姉さんのセリフの既視感きしかんが、僕が得体えたいのしれない恐怖きょうふを覚えたことをはっきりとさせた。


 掴まれる。





 バタン! と玄関のドアを音を立てて閉めたところで、まるでそれまで息をしていなかったかのように息をく。

 それと同時に、奥の部屋からお皿がられる音が廊下を通して玄関まで鳴り響いてきた。

 ねえさん!

 息つくひまもなく、音がしたリビングの方へ顔を上げる。

 靴を脱ぎ捨て、駆け寄ったリビングのドアを開ける直前で思いいたり、握ったドアレバーをゆっくりと放す。

 まぶたを閉じ、一度だけ深呼吸しんこきゅうをして、今度こそドアをけてリビングに入る。


「ごめん姉さん」


 まだ残っていた逃げ帰ってきたときの心臓の早鐘はやがねが、声を上ずらせる。


「僕だよ。びっくりさせちゃって……ごめん」


 今度はいつもの、声変わり途中の中途ちゅうと半端はんぱひくい声が出る。

 テーブルの向こう。こぼれた紅茶こうちゃとそれが入れてあったのであろう割れたティーカップが、キッチンの手前の床にまきらされていた。

 そのすぐそば。


……――」


 力無く頭を抱え、キッチンにもたかるように、大粒のなみだで床を濡らして姉さんはた。

 口の動きだけで聞き取ったその声は、人ののどから出たにしてはあまりにも弱々し過ぎて、声と呼べるようなものではなかった。

 その姿、その声が、過去のそれとかさなる。



『助けて、五和夫いわお……――』


 忘れもしない四月十五日。

 ドアが閉められた玄関げんかん三和土たたきにそのまま崩れ落ち、全身のちからが抜けたかのように姉さんが壁へ倒れ込んでいた。

 ちょうど部屋から廊下に出たところで耳にした声は、今まで聞いたこともないほどにおびしぼりきられていた。

 その声にかろうじて持ち上げられた姉さんの顔には、今まで欠伸あくびや笑った時にしか見たことが無かったなみだが、これでもかとばかりにあふれ出ていた。


『スト――オト、コがっ……ァァァぁぁ。ぁぁ、ァァァァァぁぁぁ――――』


 たどたどしく駆け寄った僕の体に薄弱はくじゃくとしがみ付いたねえさんは、かみふくみだれきって、全身あますところなくふるえさせて、音にならない声で泣きじゃくった。


 ねえさんが成人して仕事をはじめてから、僕の世話を姉さんに押し付けて海外に行ったお父さんとお母さんは居ない。もとより、たよる気なんてない。


 ねえさんは――――



 僕がまもる。

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