~狩の頃合い~


 夏の気配をチラつかせ始めた、春も終わりな陽気が午後の東京に降り注ぐ。


 練馬ねりま区の一角にある、近代的な様相の賃貸マンション。

 電光表示が3の数字をうつし、チン、というささやかで軽快な到着音をスピーカーから響かせた。

 マンションの角にもうけられたエレベーターから、左足をわずかに引きずりながら一人の少年が降りてくる。

 少年は右腕にビニール袋を抱えて昇降場を真っ直ぐに抜ける。外の道路に面した共用廊下をゆっくりと歩き、玄関ドアを二つ通り過ぎた三つ目のドアの前で足を止めた。少年はそこで、パーカーのフードを目深まぶかかぶった頭を上げる。

 そして右腕に抱えていたビニール袋の持ち手をそれまでだらりと垂らしていた左腕に通すと、少年は左手を右の手で持ち上げ、パーカーの左そでを自身の歯でしっかりとくわえる。いた右手をズボンの右ポケットに突っ込み、電子解錠コードが内蔵された子鍵を取り出して眼前の玄関ドア把手はしゅ、その真下の鍵穴へ差し込む。

 カシュッ。という金属とカーボン繊維がこすれる微小な摩擦音を耳にめると、子鍵を回して玄関ドアの施錠せじょうを解除して、少年は左手首を噛み締めたままドアの把手はしゅを引き開け体を滑り込ませた。

 閉まるドアに右手をあてがい、優しく元の位置へ落ち着かせる。機械的な自動施錠のモーター音と解錠コードの簡易かんいセキュリティが機能した電子音が部屋の中の静寂せいじゃくに響くのを聞き取って、右手にビニール袋を戻す。この短時間でも、パーカーの左袖はれ出た唾液だえきで湿ってしまう。

 ため息を押し殺し、少年は玄関かまちかかとを押し当て、マジックテープを外すのももどかしく乱雑に靴を三和土たたきに脱ぎ捨てる。左足の靴がかまちに乗り上げるのも気にせず、玄関を上がって廊下奥の居間いまに買い出してきたものが入ったビニール袋を下ろし、廊下に戻って右手のドアを小さくノックする。


「ただいま、ねえさ――」


 声を掛け、ドアノブを右手でにぎろうとしたその時、ドアの向こう、目的の部屋の中から、ガタッ、というひかえめな物音が立てられた。そして間髪かんぱつれずに、ドアの隙間すきまからするどく息を飲む音がれ響く。


「ッッ――――!!」

「っご、ごめん、姉さん。僕だよ。ただいま」


 少年はすぐさま部屋の主に謝り、先程よりも丁寧ていねいに、優しく声を掛けて慎重にドアノブを回す。

 締め切られたカーテンの隙間と開けられた廊下からの日差ひざしだけが光を届ける薄暗い部屋の中、したまぶたをその光にキラリと反射させ、彼女はベッドのヘッドボードと壁とのかどに身を寄せていた。

 『姉さん』と呼ばれた女性は、暗がりに身を起きながら、くるまるようににぎめる毛布の掛かった肩で息をしている。


「はぁは、はぁは、はーぁは、、はーぁは、はーぁは、、はーは……。――ご、ごめん、なさい」


 お互いに短くも長くも感じた時間の中で、女性はなんとか動悸どうきと呼吸を落ち着かせ、さびしげに廊下と部屋の境ですくむ弟の少年へ気を掛ける。


「ううん。僕の方こそ、驚かせちゃってごめんね」


 少年は、女性のうれいを払拭ふっしょくさせようと、はにかみかける。


「食べ物買ってきたから、ご飯にしよう」

「う、うん」


 部屋の中へ進みり、女性に手を取らせて居間に出る。

 部屋を出るとき、羽織っていた毛布を部屋の入り口に落としたまま、女性は両頬を空いている方の手で擦った。

 全身を光のもとさらしたところで少年から手を放し、女性はビニール袋の中身を覚束おぼつかない手つきでテーブルの上へ広げる。


「いつも……ありがとう、ね」


 そう言いながら、女性は袋から出したものをいくつかをキッチンへ運び、調理の準備を始めていく。

 「ううん。……大丈夫」と返して、テーブルに残ったものを少年は各それぞれの保管場所へ片付ける。



「…………そろそろ、いけるかな。また、お金を集めなきゃ……」



 静かに、小さく、ひくく呟いて。

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