第二章 - 絆

 1 ~奇行の少女~


「み~きちゃん!」


 学校の昇降口しょうこうぐち上履うわばきからスクールシューズに履き替えて外へ出ようとしたその時、後ろかられ馴れしい口調で誰かがいきおく背中に飛び掛かってきた。何かやわらかい物に押しやられ、首ごと頭が前に倒される。


「…………灯成ともな先輩。いきなり飛び付いてくるのは止めてくださいと、このあいだも言いましたよね」


 肩越しにおおかぶさってくる胸を押し退け半身だけ振り返ったそこにたのは、残念そうな顔の左頬ひだりほほにデカデカとガーゼを張り付けた同じ中学校の三年生、忽滑谷ぬかりや灯成ともなだ。

 先日地球規模きぼで巻き起った『東京ブラックアウト事変』の日以降いこう何故なぜみょうなつかれてからずっとこの調子なのだ。


「えー、そんなこと言わないでよ。おたがい階段でぶつかり合ったなかじゃない」

「あれは先輩が勝手に突っ込んできただけじゃないですか。勝手に変なわくみにカテゴライズしないでください。すぎ先輩も後ろでただ見ているだけではなく何とか言ってくださいよ」


 振り払ってもなおき付いてこようとするボロボロな肌のショートヘアの先輩—――正直先輩と呼ぶには色々と難色なんしょくを示す部分がおおぎるが――を牽制けんせいしながら、いつもこの先輩と一緒にいる同じ三年生のボブウェーブの先輩に助けを求める。


「えー? ………………………………………………………………………………やだ」

「今の無駄に長いは何ですか! 絶対面白そうだからほうっておこうって言おうとして特に他の言い回しが思い付かなかったから適当に断っただけでしょう!!」


 後ろ手にかばんを持ちぶらぶらとさせていたすぎ先輩は何を思うともなしに、じっ、と灯成ともな先輩を見ていたかと思うと、その表情を変えないまま短く言い切った。

 押し寄せてくる灯成ともな先輩の顔をかばんふせぎながら全力で抗議する。


「この間の階段の時は灯成ともな先輩に対してつっけんどんな態度をしていたのにどんな風の吹き回しですか」

「え? 私べつに、灯成ともなに対する態度は前と変わらないわよ。さっきも教室を出た時にはたいたし」

「あれは痛かったぁ………。小鞠こまりちゃん全然ぜんぜん手加減ないんだもん………」


 灯成ともな先輩は私の鞄に顔を半分つぶしながら悲痛そうな声でなげく。

 この先輩、意外に力が強い………!


「あれはあんたがいきなり公衆の面前で青少年に悪影響あくえいきょうのありそうなことを無意識で口走ろうとしたからでしょう」

「いったい何を言おうとしたんですか………」

「聞きたい?」

「いえ、放送禁止事項に抵触する発言はどこかとは言い切れませんがマズい気がそこはかとなくするので遠慮しておきます」

「なんか小鞠こまりちゃんあたしに対するあつかいぞんざい過ぎない……? あの時、あたしのこと好きだって言ってくれたのに……」

「確かにあの時きだとは言ったけど、友達としてだよ? それはそれ、これはこれ。そもそも私は灯成ともなとの付き合い方を変えるつもりはないわよ。これまで通り適当にあしらうだけだし」

「うぅ……小鞠こまりちゃんが冷たい………」

灯成ともな、ツンデレって知ってる?」

「知らない言葉じゃないけど、それ自分で言うやつじゃなかったと思うよ!?」


 灯成ともな先輩はようやく私から離れ、今度はすぎ先輩に食い掛る。

 トモナ先輩———六日前、階段の踊り場で彼女のことを見かけた時、何故なぜか口をついて出た「狗」という言葉。あの時は、一度も会ったこともないはずの人物に対しき上がる正体不明の怒りの感情を押し殺すのが精一杯だった。

 それなのに、翌日の五日前に再び顔を合わせた時には、きれいさっぱりとまではいかなくとも、マイナスの感情は全く出てこなかったのだ。

 それから何度か偶然ぐうぜん居合わせることが続き、気が付けば下の名前で呼ばれてしまう程になつかれてしまった。おまけに自分だけが名前で呼ぶのはさびしいと言い出し、私にまで半強制的に下の名前で呼ばせようとしてくる始末だ。幾分いくぶんか抵抗はあったが、苗字の忽滑谷ぬかりや先輩と呼ぶよりは一音か二音ほど短く済むため、渋々こん負けを認めてしまったのが事の顛末てんまつだった。初めてその名を呼んだ時、何故なぜか舌に馴染んでいたのは今でも不思議である。


「そうだった。深輝みきちゃん、この間ひかりおかに新しくできたカフェを見つけたんだけどさ、これから皆で行ってみない?」

ひかりおかって………完全に校区外じゃないですか」


 思い出したと言わんばかりに手を叩き、明るい茶髪の先輩は楽しそうに切り出す。


埼玉さいたまからかよって来ている先輩からすればどうということはなくても、私達には一度家に帰って着替えてから行くような場所でしょう」

「もー、固いなー深輝みきちゃんは。あそこは学校帰りの女子高生とか中学生がいっぱいいるから制服のままでも別にいいじゃん。ね、小鞠こまりちゃんも行くでしょ?」

灯成ともなが帰りの電車代を出してくれるなら行くけど」

「くぅ………小鞠こまりちゃんは相変わらず足元を見てくる………。まぁあたしだけ帰りの電車賃がらないから当然ではあるんだけど。なんでかシャクゼンとしない」

さんはどうする?」

「え? ……はぁ。まあ灯成ともな先輩はこう言い出したら止まらないのは、この二、三日である程度理解はしましたので。………遅くならないのであれば」


 財布の中身を確認し始める灯成ともな先輩を楽しそうに見つめるすぎ先輩は、同じ顔で私に同行をあんうながしてくる。

 私はあまり名前で呼び合うのを好まないのだが、すぎ先輩の場合は、苗字で呼ぶと場合によっては誤解などを生むこともあるだろうからという、真っ当な理由の為に了承している。それを灯成ともな先輩が聞くと、「小鞠こまりちゃんばっかりズルい!」とわめき出すのだから困ったものだ。ちなみに私がすぎ先輩を苗字で呼ぶのは、単純に呼びやすいからというのが大きい。


「やった、そんじゃ早速行こ―――! ――あー!」


 大手を振って喜びねる灯成ともな先輩は、開けたままの財布の中身を辺りにぶちまけ散らかした。


 あまり遅くならなければ。そう言いながらも、『ただ私は飲み物を頼んで、それを飲みきればその時点で帰るだけです』。足元に転がってきた貨幣をすぎ先輩に拾って手渡し、心の中でつぶやき足す。長く時間を無駄にするつもりはない。私には、帰る場所がある。







 練馬ねりま区は北東のはずれにある中学校から出て、環状八号線かんじょうはちごうせんを渡り緩やかな坂道を登っていく。

 道中、道路の舗装ほそうの割れ目や縁石えんせきに足を取られ車道にこけ落ちそうになる灯成ともな先輩をすぎ先輩が乱雑に引き戻すこと三回。話すことに夢中になっていた灯成ともな先輩が街灯やポストに衝突すること四回。同じくして赤信号で進み続けようとすること二回。よくもまあこれだけのトラブルを生み出せたものだと、西欧風の外装をした真新しいカフェの店先であきれ半分感心かんしん半分に息をらす。


「はぁ………。灯成ともな先輩といると、何気なにげない移動時間だとしてもちょっとした悪質あくしつなレジャーにでも行っている気分になりますね」

「そう? 楽しかったかな」

「まあ灯成ともなと居れば退屈はしないわよね」

「《悪質》という単語を聞かなかった風に話を進めないで下さい」


 嬉しそうにはにかむ灯成ともな先輩と素知そしらぬ顔をよそおすぎ先輩を横に、深い、二度目のため息をいた。


 ちりんちりりん、と来客を知らせる棒状のドアベルが、心に透き通るような音色をかなでる。それを鳴らしているのが、まんしていざ行かん、と期待に胸を膨らませる灯成ともな先輩でなければなお聞き入っていたかっただろう。

 カフェの内装は二十一世紀も終盤の近年には珍しい、木のかおりのただうレトロチックな雰囲気だった。入ってすぐ、目の前には四、五席のカウンターテーブルがたてに設けてあり、左手には格子状こうしじょうの細い木柱の奥に数卓のテーブル席が壁沿いにぐるりと設置されていた。中央には二はちの観葉植物と、セルフと見られるおしぼりやウォーターボトルが置かれたキャンピングラックがほど良い目隠しと景観を演出している。

 放課後の混雑する時間にもかかわらず、店内は思っていたよりも学生客が見当たらなかった。私達の他には二組ふたくみ程で、それ以外は大人の女性客がテーブル席の半分とカウンター席を埋めていて、残りの席に仕事の合間あいまの息抜きと見えるサラリーマンがちらほらといった状態だ。

 ドアが閉まり、中の様子をうかがっていると、カウンターの中のエプロン姿にバンダナを被った女性がほがららかながらも上品な口調で声を掛けてきた。


「いらっしゃいませ。三名様ですね。空いているテーブル席で自由におくつろぎください!」


 それに対し灯成ともな先輩が元気よく返事をしている間に、私とすぎ先輩で奥にある窓側の席を取る。

 十帖ほどのフロアを行ったり来たりするのは出迎えてくれた女性だけで、カウンターの奥でドリンクや軽食、デザートをこしらえては自身で運んでいる。どうやらこのお店を一人で切り盛りしているようで、注文はレトロな店構え通りの店員の女性を呼び出して行うものだった。


「おねーさん! あたしカフェモカ・カプチーノ!」

「私はエスプレッソ。みずしのホットで」

「え、えっと……抹茶まっちゃラテのココア仕立て、でお願いします」


 私達の注文が来たのは、入店して五分とちょっとと言ったところだった。オーダーが通ってからは早く、若いが年相応とは少し言いがたい、可憐な風体ふうていの女性の店員さんは上品な手つきでかつ手際てぎわ良く、三杯のドリンクとデザート―――灯成ともな先輩が勝手に頼んだクッキーだ―――を用意して持ってきてくれた。


「わぁ! これ面白い。上の甘いコーヒーの下に別のコーヒーが二段になって入ってる! 甘くなった口の中でほろ苦いのが広がっておいしいー!」


 目をかがやかせてはしゃぐ灯成ともな先輩をよそに、私はすぎ先輩と一緒に黙々と自身の注文した抹茶ラテとエスプレッソをゆっくり味わっていく。

 私の頼んだ抹茶ラテは、ココアをベースに抹茶とミルクがそそがれたもので、ココアのビターなコクと抹茶のまろやかな苦みがミルクにけ合って上品な口当たりを堪能させてくれる。灯成ともな先輩の勝手に注文したクッキーと相性がとても良く、クッキーが抹茶ラテの苦みを上手く引き出し、今度はその抹茶ラテが逆にクッキーのあっさりとした甘みを引き立ててくれるのだ。


「おい、しい………!」


 望外ぼうがいの絶品に思わず舌鼓したづつみを打っていると、灯成ともな先輩と並び私の正面に座るすぎ先輩がぽろっ、と声を漏らす。


「このエスプレッソ……! あの店員、!」


 どうやらこれに関してはあまり深く触れない方が良いようだ。

 すぎ先輩もクッキーが気に入ったようで、全員が自分のドリンクを飲み干す前に食べきってしまった。

 その後は今度行われる中間テストは如何いかんとするかや、私が一ヶ月前までは小学生だったことから二人の小学校時代はどうだったかといった、他愛たあいのない会話が次々と進められていった。

 気付けば、BGMとして店内放送で流れる穏やかでしとやかな楽曲のクラシックも相まって、赤の他人とこうして学外の時間を共にするのもそう悪いことではないのかもしれない。と、珍しく心が浮ついているのを意識の外から感じていた。

 目の前には、いつもと変わらず閉まらない顔をしている灯成ともな先輩と、彼女の話を聞きながらカップをすすり、その口元をほころばせるすぎ先輩。

 数口ほどを残し、始めの温かさをほとんど失った抹茶ラテのカップをコルクのコースターに置き、無意識に表れかけた感情も冷たい いし で押し潰す。


「あー。おいっしかったー! ——―あふ、ふあぁわ」


 一人早くにカップを空にした灯成ともな先輩は、大きくをして欠伸あくびをする。周りに人が居るのを分かっていないのか、花の乙女もはじじらうような大きさに口を開いた。そのまま閉じるとのかと思いきや、あろうことか口角を広げたままで下顎したあごを前後にカクカクしだしたのだ。


「ぶふっ、ふふぉ……げっ、ごほっ! えっほ、かひゅっ……げほっ! ぉほ!!!げひゅっ、けはっ! けほっ―――!!」


 優雅ゆうがにエスプレッソをあおっていたすぎ先輩はそれを運悪く真横で目撃してしまい、最後の一口だった黒色の抽出液をき出してしまった。

 それを紙一重で何とかかわし、淑女しゅくじょからは程遠くかけ離れた所業しょぎょうした先輩の顔面に、本人から渡されていた制服の上着を叩きつける。


「何やってんですかこんな人前で! 来年には高校生になるっていう女性が大口おおぐち開けて欠伸あくびした挙句あげく、物心もつかない子供がやるような恥ずかしい行為を堂々とやらないでください! 奇行をするなら家に帰ってから鏡の前で一人でやれ!!」

「ばわっ! わっちょ、わっわっ、あーっ―――」

「かひゅ――、かひゅ――、かひゅ――、かひゅっ、ひゅ――、かひゅー…………」


 頭を丸々ブレザーで覆われた灯成ともな先輩は椅子の背もたれに勢いよくぶつかり、そのままバランスを失ってガッターン!! と椅子ごと床に倒れ落ちた。そしてその隣では自身の胸倉むなぐらと口元を押さえて目を見開き、必死の形相で呼吸をたもとうとしているすぎ先輩という地獄じごく絵図えずいこいの喫茶店内の一角で描かれた。


「なんだどうした。喧嘩けんかか? 何があったんだ!? ——―って、あれ? お前、もしかして三年の忽滑谷ぬかりや灯成ともなか?」

「あったたたたた………? へ? だれ……?」


 灯成ともな先輩は倒れた椅子に身を預けたままブレザーから顔を出し、自身の頭のそばに立った体躯たいくの良いジャージ姿の男性を見上げた。


「あれ………? どっかで、見たことあるような?」


 ブレザーを手に独り言を漏らす灯成ともな先輩をよそに、筋骨隆々なジャージ姿の男性は私の顔を見るや自分の頭をガシガシと掻いた。


「む。十六女いろつき? お前までこんなところに来ていたのか。まったく、ここは校区外だというのにしょうがない奴らだ」

「す、すみません。大幸たいこう先生——」

「俺の名前は大比良おおひら唐幸からよしだ。それは他のクラスの連中が勝手に付けたあだ名だろう」

「うちのクラスでは《中辛ちゅうから先生》と呼ばれてますが」

「なんでそこで予想されるものより一段下げて名付ける!? あれか、俺がしかるのは大してすごみがないとでもいうのか! ……さては陸上部の連中だな、まったくあいつらめ。それはそれとして十六女いろつきはどうして他クラスの方のあだ名を使ってるんだ」

「あっ。ごめんなさい………。まだ先生の名前は皆覚えきれていなくて。その、どうせなら、太閤たいこう秀吉にあやかったものの方がよろしいかなと………」

「多分そういう意味ではないだろうが……。はぁ、入学して一月ひとつきは経つんだから担任の名前くらいは憶えてくれよ……。まあ周りがあだ名ばかりで呼んでいれば無理もないだろうが………」


 悩ましそうな面持おももちで顔に手をやる大比良おおひら先生。普段生徒に対して厳しい先生だが、先生なりに悩みや苦労でもあるのだろうか。

 

「も、申し訳ないです。えっと、タイ……大比良おおひら先生。しかし……先生こそなぜこのような所に………?」


 大比良おおひら先生は骨格のきわつ顔から手を放し、思い出したように無精髭ぶしょうひげを撫でる。そしてカウンターの端で清算対応をしている女性店員さんをちらっ、と見た。


「ああ。ここは俺の双子のいもうとの店なんだ。学校業務を早くに終えられた日は、時々こうして見に来て手伝ったりもしている。開店したばかりで人手が無いらしいからな」

「なるほ―――えぇ? もしかして、先程からお店の中を行ったり来たりしている女性店員さんの事ですか?」

「それ以外の他に誰がる?」


 当たり前のことに何を言っている、とでも言いたそうな顔で頭を傾げる大幸たいこう先生。ようやく息がととのせき込みが落ちついたすぎ先輩も、驚いた顔で大柄な先生を見上げている。


「あら、もしかして兄様にいさまの学校の生徒さん? あにがいつもお世話になっていますね」


 いつも間にか女性店員さんが大幸たいこう先生の横に立っており、深々ふかぶかとお辞儀をする。それに釣られ、私も同じように頭を下げた。


兄様にーさま………」

「にい、さま?」

「い、いえ、はい……私は先生のクラスの、その、生徒です」

「ううむ、世話をしているのどちらかといえば俺の方だが……」


 倒れたまま起き上がろうとしない灯成ともな先輩と口に手を当てたままのすぎ先輩を無視して挨拶を返す。だが無理もない。この同じホモ・サピエンスとは思いがたい筋肉ダルマと、上品さと可憐さをあわせ持つ女性店員さんが同じ血の元に生を共にしてるなどと、誰が想像できようか。


 「そいうえば、十六女いろつき。お前は忽滑谷ぬかりやと面識があったんだな。なるほど、大方おおかた忽滑谷ぬかりやに連れられてここまで来たといったところか」

「え? 先生、一年生の先生なのになんであたしのこと知ってるの? もしかして魔法少女まほうしょうじょとしてもう広まっちゃったかな。あたしってもしかして有名人!?」


 いまだかぶさるブレザーの中でごそごそとしていた灯成ともな先輩が、自分の話題に目ざとく反応してようやく木張りの床から上半身を持ち上げた。


「いや、『忽滑谷ぬかりや灯成ともな』は俺達おれたち教師のあいだでは、魔法少女として発覚するずっと以前から《限りなく善良に近い問題児》の生徒として名ががっていたからな」

小鞠こまりちゃん聞いた!? あたし善良な生徒だって!」

っていう表現から目をそむけるんじゃない。それに問題児という言葉を都合よく聞き逃してるでしょう」


 灯成ともな先輩の純粋無垢な笑顔に真顔で鋭くツッコむすぎ先輩。どこか怒気どきを感じるのは恐らく私の勘違いだろう。

 おほん、と大幸たいこう先生は咳払せきばらいをして


「それより、さっきの騒ぎは………また忽滑谷ぬかりやが何かしらやらかしたんだな。他意がないのはいつもの事だろうが、ここは他のお客も居る店中みせなかだ、今日は先生が立て替えておいてやるからもう帰りなさい。時間もいい頃合いだ」


 入り口のドアを肩越しにゆびした。そのドアの窓から降り注ぐ斜光しゃこうはかなり傾いていて、カウンターの奥まで届いている。

 店内に飾られている細長い時計の文字盤を見ると、短針は右下の数字を二つとも過ぎていた。確かに中学生が出歩であるくにはそろそろ人目に付く時間帯だろう。の出ている間は寛容かんような人も多いが、気になる人には気になるものだ。

 学校の先生のもっともな言い分に、私とすぎ先輩と、そして灯成ともな先輩がうなずく。


「ホントだ、もうこんな時間だ。クッキーもコーヒーも美味しかったし、また来たいな」

「そうですねー。先生がおごってくれるんでしたら願ってもないですし、私のエスプレッソは誰かさんのおかげできりしてしまいましたから」

「あら。気に入ってくれたのかしらね。だったら今度いらした時は、声を掛けていただければお菓子をサービスしますね」

「ありがとうございます。その時はぜひ最後まで味わわせてもらいます」

「…………あ、えっと。そ、それでは、今回はお言葉に甘えさせて、もらいます。大幸たいこう先生」


 そこはかとなく目をらす私に何か違う胸中きょうちゅう見出みいだしたのか、大幸たいこう先生はにこやかに腕組みをして言う。


「ははは。気にするな。この辺りは他の学校の生徒も多く居る。遅くならなければ制服で来ても多めには見るさ。もちろん別の所に行くのなら私服に着替えてからにするべきだがな」

「は、はい」


 その後は、大幸たいこう先生に手伝ってもらい汚れた座席とテーブルを綺麗にした。再びドアベルの音色を間近で耳にした時には、遠い山々に太陽が隠れようと辺りをオレンジ色に染め上げていた。


「それでは失礼します。大幸たいこう先生」

「俺は大比良おおひらだが………。まあ親しみを込めてくれているのなら構わないか……」

「先生ごちそうさまでした!」

大幸たいこうお姉さん。また来ます」

「いつでもいらしてくださいね」


 店先まで見送りをしてくれた大比良おおひら兄妹に礼を言い、私達は帰路に着く。

 傾斜けいしゃの低い坂道を下っていきカフェが見えなくなった頃、灯成ともな先輩が急に慌てたように声を上げた。


「あー! そうだ忘れてた。急用があったんだ! あたし先に帰るね!」


 灯成ともな先輩はそう言って、「これ二人の帰りの電車代ね! それじゃ!」と銀色の硬貨を六枚ろくまいすぎ先輩に握らせると、足早にどこかへ走り去って行ってしまった。

 それを呆然ぼうぜんと眺めていたすぎ先輩は、「まあ、あの子が突拍子もないこと言い出すのはいつもの事だから。多分、どこか誰かの笑顔でも作りに行ったんでしょ」と私の手を取り硬貨を四枚てのひらに置こうとする。


「いえ。大丈夫です。……私もこの後近くで用事があるので。すぎ先輩は帰りは遅くならないでください。それでは―――」


 渡された硬貨を押し返し、一歩下がって頭を下げる。そそくさと下り坂から横道へ足を向け変えた。

 灯成ともな先輩の挙動がおかしいのは今に始まったことではないだろうが、何故なぜか私は不自然に見えた。いや、私でさえ感じるのだから、すぎ先輩とて何もないわけがないはずだ。そこで、ふと足が止まった。


「あの、今日は全然、嫌とかそういうのではなかったので、その、誤解なさらなくても………えっと———」


 言葉を上手くめないのに、声は抜きん出てはっしようとする。自分でも何が言いたいのか分からないのに、それでもすぎ先輩は大雑把な赤茶あかちゃの先輩にするように微笑ほほえんで手を振る。


「うん。私も楽しかったわ。深輝みきさんも、気を付けてね」

「いえ、そうでは―――。し、失礼します」


 頭がぐるぐると混乱しだすのを振り払うようにきびすを返す。

 胸の奥をチクリと刺す不安をき消すために、鞄に付けているヨレヨレになったお守りの紙の人形ひとがたを握り締めた。



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