迷子の蒼衣さんと宮澤君2
わあああん、あああん、と子供が泣き叫んでいる。
地団太を踏み、癇癪を起して何かを欲しがっている。
どれだけ望んでも、どれだけ乞い願っても与えられなかった甘露を寄越せと駄々をこねる。
恨んだ。羨んだ。妬んだ。
与えてくれぬ世界を憎んだ。与えられぬ己を蔑んだ。
誰か。誰でもいいから、ちょうだい。
伸ばす手の先で果実は炎となり果て、舌先に届く露すら、針のように細い喉を通らない。
怨嗟と嫉妬で醜く歪んだその身では、与えられたものを受け取ることすらできない。
それでも、縋り付くように手を伸ばす。
『わたしに、
一瞬の交感に舌打ちする。
だいぶん厄介なのが来たな、というのが最初の感想だった。核になっている怨念は、愛情に飢えた子供のものだ。
目の前の餓鬼は決して、「その子供」自身ではない。子供が非業の死を遂げたのか、はたまた巴に念だけ焼き付けて大人になっていったのかは分からない。ここにたぐまるのは、「愛に飢えた子供がいた」という空間の記憶だ。
分かっていても、気を緩めれば引っ張られかける。
憐憫で開いた心の隙に捻じ込まれ、同調する己の記憶を引きずり出される。哀れみは瞬く間に自己憐憫へ――引きずられかける心を一息でシャットアウトし、美郷は饅頭をつっぱねた餓鬼を睨んだ。
『誰でも良いから愛して』
それはとても幼い願いで、現実世界の人間が応えるのは難しい。世は往々にして理不尽の塊で、ちっぽけな人間の手では、どれだけ非のない無垢な被害者でも救ってやれないことがある。だからこそ、救済を神仏に頼むのだ。
術者として美郷のやるべきことは、憐れむことではない。
取り込まれぬよう細心の注意を払い、美郷は改めて意識を研いだ。霊視に切り替え細める視界に、淡く、蒼く光る一筋の糸が視える。ぼってりと異様に膨れた腹と棒きれのような手足の、地獄絵図に見るような土色の餓鬼から、美郷の背後へと。
柔らかい月光のような、淡い一条の糸を、餓鬼は必死に手繰っていた。
(まるで、お釈迦さまの蜘蛛の糸に縋る罪人だな)
その糸の端を餓鬼が掴んでいるということは、既に背後のパティシエ殿が、何がしか餓鬼に施しを与えた後ということだ。
「蒼衣さん、これになにか食べさせましたか」
「あ、その、作れと言われたので、何種類か魔法菓子を……」
確認のため後ろを振り返ると、おろおろと不安げな蒼衣と目が合った。無理もない。彼は魔法含有食材を操る菓子職人であって、呪術者ではないのだ。だが彼が作る「魔法菓子」は職人としての、食べる者への優しい祈りが詰まっているのだろう。
先日初対面で、生まれて初めて「魔法菓子」なるものを食べた時から感じていた。丁寧に物を作ることを「丹精込める」という。蒼衣の作る菓子には、口にする者と心を繋いで癒しを注ぐような、祈りに似た念が込められているのだ。
(まあ、餓鬼にとってはこれ以上はない「供物」だよね)
ダイレクトに響き過ぎて、驚いたのも事実だ。――考えれば考えるほど、何故自分は蒼衣をこんな現場に呼ぶことにしてしまったのか不思議になる。本来、一番遠ざけて守らなければいけないタイプの人種だろう。
「合点がいきました。だからあの饅頭じゃだめなんだ。蒼衣さん、申し訳ないのですが、髪の毛を一本頂けますか?」
迷路に嵌る思考を一旦振り捨て、美郷は蒼衣にそう頼んだ。普段呪術の世界には縁のない蒼衣が怪訝そうに眉を寄せる。
「髪?」
困惑する蒼衣を更に促し、慌てた様子の彼から幾筋か長い髪を預かった美郷は、再び懐を探った。
「……勿体無いんだけど、仕方ないか……」
呟いて取り出したのは、今日蒼衣から貰ったばかりの焼き菓子だ。ベルサブレという名のそれを、個包装の袋を破いて取り出す。その名の通り、齧ると鈴の音が響くサブレ―だ。蒼衣の近くでは直接心にアクセスされるような気がして、家でゆっくり食べようと仕舞ってあったのだ。
蒼衣が作る極上の「供物」である魔法菓子に、魔力を蓄えた彼の髪を結わえ付ける。蒼衣の感受性と献身性が生み出す、強烈な共感能力。本人にとっては諸刃の剣だろう。だが、彼が選んだ「菓子」職人は、常に
「ふるえ、ゆらゆらとふるえ――」
借りた髪の毛を介して魔力を揺り起こす。いつも蒼衣がうっすらと纏っている、清らかな蒼光がサブレから発し空間を満たした。
「これで満足だろうっ!」
美郷が放ったサブレに、餓鬼が必死で手を伸ばす。枯れ枝のような指がサブレを掴み、炎に爛れた口がそれを噛み砕いた。
「ノウマクサラバ タタギャタ バロキテイ オン サンバラ サンバラ ウン!」
りりんっ。高く澄んだ鈴の音が響く。
瞬間、餓鬼の輪郭がほどけて、一際力を増した蒼い光に呑まれる。
その僅かな間、お菓子を美味しそうに食べて笑う、幼子の幻影がくっきりと美郷の目に焼き付いた。
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