第3話 始祖の魔術師
青年は……年の頃は二十歳くらいだろうか。背は高く、体は適度に鍛えているようで、彼が身に纏っている質素なシャツの陰から筋肉が付いた胸板がちらりと覗いている。男臭さは感じないが、男らしい。そんな矛盾を抱いたような体つきをしていた。
顔は、一言で言うなら美人だ。長い睫毛に、ふくりとした唇。眉は太くきりっとしているが、彼が微笑んでいるからだろうか、柔らかく穏やかな印象を受ける。肌も白く……何と言うか全体的に真っ白で、この様子を何かに例えろと言われたら白い兎が真っ先に浮かぶ、そんな人物である。
彼は書き物机の傍に置かれていた椅子を掴んで持ってくると、ネロが座っているベッドの横にそれを置いて、その上に抱えていた壺を置いた。
「僕が誘拐犯じゃない証明をしておかないとね。僕の名前はルシア、この家の主だよ。……この部屋は僕の弟の部屋なんだけれど、弟は訳があって今此処にはいなくてね……だから遠慮しないでゆっくりと寛いでおくれ。ネロ・アグナイバさん」
フルネームで呼ばれて、ネロは片眉を跳ね上げた。
「……何で、おれの名前を知ってるんだ」
「君が着ていた服の内側に、名札が付いてたのを見たんだよ。……君を発見した時、全身酷い有様でね……許可もなく裸を見るのは悪いとは思ったんだけれど、あの服、損傷が激しすぎてもう殆ど服の形をしてなかったし、傷の治療をするのに衛生面を考えても良くなかったからね。やむを得ず脱がせたんだ。その時に名札を見つけたのさ。どうだい、これで疑問は解消されたかな?」
「……そっか」
ごめんよ、と何処か困ったように笑うルシアの様子には、一種の誠実さが感じられた。
少なくとも、彼は嘘は言っていない。そこは信用しても良さそうだとネロは胸中で独りごちた。
ルシアは壺の中に手を入れると、一枚の布を取り出した。壺の中に入ってるのは色の付いた液体なのか、布は淡い赤味を帯びた雫を垂らしている。
それを軽く絞ると、彼はネロの傍に寄ってきた。
「……それじゃあ、治療をするから、そこに横になって。ようやく新しい薬ができたから、きっとこれで君の怪我は綺麗に治るよ。消せない痕になる前に薬が完成して良かった」
「治療? 横になれって、どういう……」
「大丈夫、薬に浸したこれで全身拭くだけだから。何も変なことはしないよ。だから安心して。……さ、横になって、楽にしてて」
ネロの全身は傷だらけだ。場所によって種類も深さも全然違う。
それを、ただ薬を浸しただけの布で拭いただけで綺麗に治すなんて、一体何の冗談なのだろう。
どうせ、完治なんてするわけがない──そう思いながら、ネロは言われた通りにベッドの上に横になる。
彼の右腕を手に取り、ルシアは手にした布で指先から丁寧にそこを拭い始める。
布に滲み込んでいた薬が、肌をすっと濡らして清涼感のある感覚を残した。
その瞬間。
まるで時間が逆戻りしているかのように、薬を塗布された肌から傷が消えていったのだった。
痛みも熱もない。幻影のように、肌から傷が薄れて消えていく。
その様子を目の当たりにして、ネロはぎょっとして思わず声を上げていた。
「え……何だ、これ!? 怪我が、一瞬で、治……何を、何をしたんだよあんた!」
「何って、薬を塗るだけだって僕は言ったんだけどな。まあ、驚くのも無理はないかな……これは、僕が作った特別製の治療薬でね。あるものを材料にしている、僕だけにしか作れない薬なんだ。これを塗ればどんな怪我も火傷も綺麗に治せる。あまり量を作れないから普段は薄めてかさ増ししてるんだけど、理論上では原液だったらちぎれた手足だって元通りにくっつけることができるはずだよ。……まあ、そんな状況に遭遇したことなんて、ないけどね」
苦笑しながらルシアはネロの全身を拭き残しがないように丁寧に拭いていく。
左腕。右足。左足。首回り。胸。腹。全身くまなく。
あれだけあった傷は完全に消え失せて、火傷の跡もしみひとつ残さずに、なくなっていった。
完全に信じられないものを目にしたショックで、ネロは口をしきりにぱくぱくさせている。
「手足が、くっつく……? 嘘だろ、現代の医療技術じゃ、手足が吹っ飛んだら縫い合わせるしか治療方法はないってのに。それも、縫い合わせたからって元通り動かせるようになるわけじゃない……目茶苦茶だ。一体、何を使ってどう作ったらこんな薬ができるってのさ」
「作り方は、簡単だよ。ただ材料を混ぜ合わせて蒸留するだけ。やり方さえ知ってれば子供だって作れるようなものさ。材料は、綺麗に濾過した水と……ごめんね、後は秘密。何処からどうやって調達するものなのかも言えない。知られたら、それを欲しがる人が大勢此処に来ちゃうから……僕たちはなるべく静かに暮らしていたいから、それを掻き回されるようなことはしたくないんだ」
はい終わり、とルシアは布を壺の中に放り込む。
起き上がって元通りの綺麗な状態に戻った自分の体を見つめているネロに、彼は優しい微笑を浮かべた表情を崩さぬまま、言った。
「君……連合軍の兵隊さんだね。ログリス国の……僕の知識と予想が正しいなら、空軍所属の、特攻隊だ。聞いたことがあるよ。砲弾の代わりに空に飛ばされて、爆弾を抱えて敵と共に自爆する役割を背負った人たちがいるって。……僕はその戦い方を提唱する連合軍のこともその役割を背負った君のことも愚かだと笑うことはしないけれど、此処では、そのことは決して口外してはいけないよ。此処は、アルガリア帝国の領内だから……人に知られたら、君はあっという間に帝国軍に捕らえられて、極刑だ」
いや、と微妙にかぶりを振る仕草を見せてから、言葉を続ける。
「ひょっとしたら、すぐに死刑にされるよりも酷い目に遭うかもね。欲求不満な帝国兵たちの慰み者にされて、君の気が狂うまで犯され続ける、そんな暮らしを強いられるかもしれない。君はとても可愛いし、帝国の人間は色々とおかしいから……ああ、僕がこんなことを言ったなんてことも、秘密にしておくれよ。僕は表向きは皇帝の協力者として振る舞ってるから、余計な波風は立てたくないんだ」
「……皇帝の……」
皇帝、の単語にネロは反応を示した。
自分は皇帝に、アルガリア帝国に敵対し牙を剥いた連合軍の人間だ。
目の前のこの男は、自分が打倒を掲げている存在と協力者の関係にあるという。
だが、彼のことを敵対者だと認識するのは早計だ。
ルシアは「表向きは」と言った。つまり、彼は立場としては帝国の人間であり皇帝の味方ではあるが、本心から望んでその立場に身を置いているわけではないということなのだ。
彼がネロを連合軍の兵士だと知っていながら助けたことも、それを裏付ける証明ともなる。
いきなり全面的に信用するわけにはいかないが、少なくとも対話をする価値はある。
ネロは思った。この男から話を聞いてみようと。
ひょっとしたらそこから──空を飛ぶ翼も戦うための武器も失った自分が、皇帝に一矢報いるチャンスを見出せるかもしれないと。僅かでも希望の光が見えてくるかもしれないと、思ったからだ。
「……おれは、連合軍の兵士だ。帝国と皇帝を倒すために、此処まで来た」
ネロの言葉を、ルシアは穏やかな顔をして黙したまま聞いている。
「もしも、あんたが本心から望んで皇帝に協力してるわけじゃないのなら……おれのことを助けたついでだと思って、教えてほしい。帝国のこと、皇帝のこと、何でもいい、あんたが知ってること、全部。おれは、このまま手ぶらで帰れない。どうせ爆弾で吹っ飛ばす予定だった命だ、どんな手を使ってでも、あの神を自称してる糞野郎に一発かましてやりたいんだ。空で散っていった仲間のためにも、おれの役目を、果たしたい……!」
「…………」
ルシアの視線が、ふっとネロの目から離れる。
彼は微妙に困ったように小さくかぶりを振ると、答えた。
「……君は、本当にアルガリア帝国を……アルガリア皇帝を、潰したいんだね。帝国は、諸外国に対して傍若無人に振る舞ってきたから、皆からそう思われても仕方はないと僕も思ってる。自覚はあるよ。僕も今のアルガリアはおかしいって思ってるし、いっそのことなくなってしまった方が世のためだっていう気持ちもある。そういう意味では、僕の気持ちは、君が持ってるものと限りなく近いものなんだろうね。……でも、僕は、君の命を助けることはしたけれど、協力者になることは、できない」
「……それは、あんたが皇帝の協力者だからか」
「それも、ないとは言わないけれど……僕がこの国と皇帝に対して何をしたのかを知ったら、君は絶対に僕を生かしておけないと思うだろうからさ」
眉を顰めるネロの前で、ルシアはゆっくりと息を吐き、完全に微笑みが消えた真面目な面持ちで、言うのだった。
「僕は、始祖の魔術師なんだ。僕はアルガリア皇帝に魔術の知識と技術を与えて、現在のアルガリア帝国の基礎を築いて、新世界文明を作り上げたのさ……つまり、僕こそが、現代のアルガリアを世に生み出した元凶なんだよ。僕さえいなければ、アルガリア帝国が誕生することも、アルガリア皇帝が権力を掴んで諸外国に宣戦布告することもなかっただろう。分かるかい? 僕は……本来なら此処で、君に殺されるべき悪なんだよ」
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