第2話 ログリスの青薔薇
煉瓦造りの建物と色とりどりの看板で飾られた賑やかな商店街の一角。
そこにある小さな茶屋で、ネロは軒先に置かれた小さな椅子に座り、買ったばかりの果物茶を飲んでいた。
桃の香りが仄かに香る、ほんのり甘い水出し茶。
彼は、此処で日光浴をしながらこのお茶を飲むのが好きだった。
「やあ、ネロ」
寛いでいると、偶然目の前を通りかかった知人の男が声を掛けてきた。
青いジュストコールを身に纏った、上品そうな雰囲気を湛えた壮年の男だ。綺麗に形を整えた口髭を生やして髪をきっちりと揃えている姿が如何にも紳士らしい。
彼は、この街に居を構える貴族なのだ。
「こんにちは。ソルクレール卿」
普段通りに小さく会釈をしながら挨拶を返すネロ。
名を呼ばれた紳士は優しく微笑むと、ネロの傍に歩み寄った。
そして、彼の肩に手を回して体を抱き寄せて、淡いピンクに色付いたその唇を食む。
道行く人々が視線を投げていく中、彼らは濃厚に舌を絡め合う。まるで、周囲にその様子を見せつけるかのように。
じっくりと舌の味を堪能した後、ソルクレール卿はネロから顔を離した。
「相変わらず、君は可愛いね……ネロ。ログリス国に花咲く数多の
「……まだ十六、ですよ。それに、おれには退屈な屋敷暮らしなんて性に合わないです。こうして自由に羽根を伸ばしていた方が気楽なんですよ」
ソルクレール卿の誘いの言葉に、ネロは苦笑して肩を竦める。
多くの男性を虜にした
だから、ネロのように高価な贈り物にも誘い文句にも靡かず、自由奔放に暮らしている
ネロは、背が低く童顔で可愛い外見をしている上に、夜伽の相手として男性を悦ばせるテクニックに定評があることから、此処ログリス国ではトップクラスの知名度と人気を誇る
ネロを知る者の中には、何故ネロは特定の人を決めることもなく独り身を貫いているのだろうかと首を傾げている者もいる。
ネロは、その理由を人に語ったことはなかった。問われても常に曖昧にはぐらかし、笑うばかりだった。
必死に頂点を目指そうとしている他の
彼が誰か特定の者のものとなる日は──訪れるのだろうか。
「……また振られてしまったか。そのつれなさも相変わらずだ……だが、そこが子猫のようでまた可愛いよ。どうだい、今夜、私と食事でも。料理長に頼んで君が大好きだというログリストラウトのソテーを用意させよう。もちろん、黒胡椒とレモングラスも添えてね。秘蔵の六十年もののユヴェルテのワインも開けようではないか。招待、受けてくれるかな?」
「その後は、貴方がおれを美味しく頂こうと……そのつもりなのでしょう? ソルクレール卿」
「駄目かね? もちろんただでとは言わないよ、ちゃんと君が提示した分の料金を支払おう。私は君の客として、交渉しているのだよ」
「良いですよ、ちゃんとお支払い頂けるのでしたら。追加で上乗せして下さるのでしたら、ご満足頂けるようにサービスもしますから」
「では、商談は成立だな。君の迎えには馬車を手配しよう。場所は、いつものところで構わないのかな?」
「ええ」
「夜が楽しみだ……ではね、可愛い私の
ソルクレール卿はネロの右の手の甲にキスを落とすと、上機嫌な様子でその場を去っていった。
その背が──周囲の街並みが、空が。全てが紅蓮の炎に包まれて、視界から消えていく。
ああ、そうか。これは夢なんだ。
ネロは独りごちる。
これは、彼が国軍に入隊希望をする前の出来事。故郷の街で
この後、彼は約束通りにソルクレール卿の屋敷へと赴いた。共に食事を楽しみ、言葉を交わして、卿に求められるままに体を重ねた。
そして、アルガリア帝国から飛来した戦艦によって街は一夜にして焼き払われ──帰る家も親しき人も、全てを失った彼は廃墟となった故郷を捨てて逃げたのだ。
おれは、全てを奪った帝国が憎い。神を名乗るあの男が憎い。
あいつらが存在している限り、おれは、おれたちは、幸せになんてなれない。
だから、おれは国軍への入隊を志願した。この手で、連中が作った馬鹿げた社会のシステムなんてものをぶっ壊してやりたかったから。
あいつらが独占している『
誰かがやらなきゃ永遠にこのままだ。だから、おれがやるんだ。
そのためだったら、爆弾を抱えたまま敵地に突っ込むことだって──
「…………」
ネロはぼんやりと瞼を開く。
ぼやけた視界に映るのは、記憶の中にはない天井。明かりの灯っていない小さな吊りランプが下がっている。
周囲を見回せば、物静かな部屋の様子が目に映った。書き物用の机と思わしき小さな木の机と、それに合わせて誂えられた椅子。本がぎっしりと詰め込まれた大きな本棚が二つ、壁に沿って並んでいる。その隣には何処かの国の民芸品だろうか、木彫りの動物やら人形やらぬいぐるみ、天秤のような仕掛けのある玩具のようなものが飾られた小さな棚が置かれている。窓には白い薄布のカーテンが掛けられており、外の様子は見えないが、明るさから現在は昼間であろうことは何となく伺えた。
何処かの民家にある、誰かの部屋であることは分かった。しかし誰の部屋なのかは全く分からない。
ネロは上体を起こした。動いた瞬間に全身が軋むような痛みを訴えたが、構わず体勢を座位に直す。
彼は、服を着ていなかった。軍服どころか、下着も穿いていない。耳に装着していた小型無線機もなくなっている。
体のあちこちに、傷があった。切り傷や、擦り傷……だが最も目立つのは火傷の跡だろう。
それと同時だった。閉ざされていた扉が開いて、そこから大きな壺のようなものを抱えた青年が入ってきたのは。
「……ああ、気が付いたのかい。良かった。見つけた時は酷い有様だったからね……ひょっとしたらもう助からないんじゃないかって思ってたんだよ」
癖のある銀の髪を揺らしながら、彼は微笑む。
無論ネロには、彼が何者なのか記憶にはない。だが彼が自分のことを此処に連れてきた張本人であろうことだけは、把握するのだった。
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