第27話
「ねぇ。シキ、何処に居るか知らない?」
二階から下りてきたシュウは、ソファで砂混じりのテレビを眺めているコウに尋ねた。
「え? なに? 居ない?」
首だけ器用に回してシュウの方を見るが、事を重大と捉えている様子はない。シュウが首を縦に振るのを見るとまたテレビに向き直った。
あれから数日が過ぎた。シキの傷もだいぶ癒えて、今は服が傷に触れるのを嫌がって包帯を巻いている程度だ。時々起きてきては空腹を満たして、怠くなると二階に上がっていく。シュウは傷を負わせた責任を取らされて、ある程度傷口が塞がるまで放して貰えなかった。
そして今日、夕方近くになってシキを見に行ったらベッドがカラになっていたという次第だ。
「心配しないのか?」
怪訝そうに眉を寄せて尋ねる。コウは取り合う様子を見せない。
「心配? そんなモンするかよ」
そんな態度のコウとは裏腹に、シュウの心配は時間が経てば経つほど募っていく。何しろ数ヶ月前一度身に降りかかった現実がある。また同じ事が繰り返されるのではないかと、気が気ではなかった。
「落ち着けよ」
ソファに寝そべったコウが、それは落ち着き払った声で溜息のように言った。
「シキは何処へも行きやしない」
落ち着けるかと怒鳴ろうとしたのに、その一言で声を奪われてしまった。
シュウにしてみればその言葉の出所が全く掴めない。その根も葉もない自信は一体どこから来るのか。
「何でそんなこと言えるんだ」
僅かに怒気を含んで尋ねた。
溜息が一つ聞こえた。コウは面倒臭そうに身体をひっくり返すと肘を突いて顎を乗せ、シュウを見た。
「ここはあんたとシキだけじゃない。俺が居る。あんたから逃げても、俺から逃げる理由はシキにはないだろ」
――それが根拠?
シキのことを良く知っているというか、自分やシキに対する何という自信か。
「どっか居るさ。腹が空けばここに来るんだから、焦って探すこともないだろ」
コウはまた寝そべってテレビに向かった。
安心出来ないシュウはコウに頼るのをやめて探すことにした。今見つけないと二度と会えない気さえした。
まず外に飛び出した。いつからあの部屋に居ないのか知らないが、消えたのなら真っ先に外を探すのが常套手段と思った。
だが、目的あっての逃亡なら探しようがあるというものだが、この場合は何処へ行っても「ここ」から逃れられればいい筈だ。行こうとする方向など有って無いようなものなのに、それをどう探れというのか。しかも、シュウもこの街の地理は全くと言っていいほど関知していない。家を出て早々途方に暮れた。
まず右に行くべきか左に行くべきか。どっちを向いても同じ様な景色だ。少し慣れないとすぐに方向感覚が狂いそうな街だ。何度も何度も左右に首を振って悩んだ。
そして根拠もなく右方向の道へ足を進める。歩いて暫くしないうちに十字路に出会った。また同じように首を振る。今度は真っ直ぐという選択肢が付いてくるから余計に悩んだ。悩みながら、ふと思った。
このままこんな風に行き先を決めていたら、十中八九帰れなくなる。
シュウは空を見上げた。茜色に染まり始めた空は見惚れてしまいそうなほどに綺麗だ。同時に、腹の虫が騒ぎ出す時刻であることも知らせていた。本当にシキが帰ってくるのなら、自分がこのまま帰れなくなって夕食にあぶれるのも気が引けた。コウの振る舞ってくれる料理はなかなかの味で、これでもっと好かれていたのなら更に美味しいのではないかと思うほどだ。
無闇に歩き回ってシキが見つからない上に自らが道に迷う危険性。その上夕食が食えなくなる危険性。そしてこの狂気が暴れ出す危険性。だんだん思考の雲行きが怪しくなってきた。
結局、ずっと右方向を選んで家の周りを大回りに一周する道を取った。何とも情けなかったが、探す手だてが無いのが何より致命的であった。
肩を落として家に帰ったが、まだシキの姿は見えない。
そこで、もう一度二階に上がってみた。
その様子に対してコウから、
「凝りねぇな」
と、感想を述べられたが取り合わない。
テレビ小僧の一言を聞き流し二階に上がったシュウは、階段を上りきった所で一度立ち止まった。大げさに首を回して部屋を見渡す。見間違いと言うことはなかった。上掛けが半分に折り畳まれたベッドの上には、シキが寝ていた跡しかない。本体が見あたらない。雑な部屋ではあったが、大きな家具が少ないのでその物陰に隠れるという、出来たとしてもやりそうにないことも勿論無い。
ここまで来たら、この部屋で出来ることは一体なんだろう。部屋にある物すべてを穴を開けそうなほどに睨みながら、宛のない思考にカロリーを費やす。
と、ベッドのすぐ脇にある窓が開いていることに、今になって気が付いた。出窓になっている窓の外には、少し迫り出た柵がある。落下防止のためだ。高さは大して無い。
シュウは窓辺に行った。シュウであっても身体を乗り出して外に出られる。柵に足をかければ、屋上へと上れそうだ。
「まさか」
思わず声に出しながら、シュウは身を乗り出してみた。柵に足をかけなくても、シュウならば楽に上ることが出来た。部屋の中からこの屋上に上がる階段の類がなかった所為で見落としていたようだ。窓から上った場所の対辺にあたる、平たい屋上の端で、シキが背を向けて座っていた。
シュウは極力足音を殺してシキに近づいた。その寂しげな背中に、一歩一歩踏みしめて向かう。
薄いシャツを着て背中を丸めているので、右の片羽がうっすらと透けて見えた。今にも躍動を始めそうなその羽は、まだシキの願いを叶えていないようだ。両の腕はだらりと脇に垂らしたまま、首を落としている。空は見ていない。
「いい眺めだな」
言いながらシュウはシキの真横に座った。シキは驚いたように声もなくシュウを見たが、すぐにまた元の姿勢に戻る。
そこから見渡せる風景は、街をほぼ一望出来た。この方角にこの家よりも際だって高い建物がないのでそれが出来る。黄土一色で塗られたような景色。この寒い中、薄手のシャツ一枚を着ただけで、シュウが町内を徘徊していた間この大地を見下ろしていたようだ。
シュウは、シキが見ているであろう方向を見たまま、脇に力無くだれた左手を取った。
傷があるという、その手を。
突然のことにシキは驚き、急いで腕を引いた。
「何すんだよ! やめろよ、シュウ!」
だが、既にしっかり掴まれていて敵わない。ただ手を取られただけならここまで慌てない。藻掻くように手を奪い返そうとした理由は、両手とも手袋を外し左手においては包帯さえも取っていたからだ。ついでに首に巻いてあった包帯も取っている。既に手と同化していたそれらを外した状態で居るのは、覚えてもいないほど昔のこと。シュウはシキの手が無防備になっているのを見逃していなかった。
シキはシュウから、自分の左手から目を背けた。左手首はシュウへの一番の秘密事だったのに。それを掴まれた今、目のやる場所を完全に失ってしまった。
「脈、速いんだな」
「っ……」
シュウの親指が手首の傷痕の上に乗せられた。シキは嫌がって手を引くが、解放されなかった。傷痕の上に乗せられる熱がじわりと身体に染み入り、息が詰まりそうになる。奥歯を噛み締めてその感覚に堪える。
そのうち、親指が卑猥な動きをして傷痕をなぞり始めた。躊躇い傷は全くない、大きな一本の筋の上を、ゆっくりと何度もなぞられた。
大声を上げて、シュウを殴りつけて、ここから飛び降りてしまいたいとさえ思った。この傷痕を見られること自体が恥辱に等しい。自らまともに見ることさえ出来ないものを、他人の目に触れさせるなんて。まして触れられるなんて。シキにとっては許されないことであった。だが、この拘束から逃れようとすることも出来ない。身体が、動かなかった。
シュウは指の腹にその痕を感じながら眉をひそめた。左手を繋がれたまま顔を背けているシキを見た。羽が、震えていた。
「……深かったか?」
その一言に、シキは僅かずつ正面を向いた。顔は俯いたままであった。表情は見えない。
「……ああ。……骨まで切った」
「自分を、呪ったか?」
「ああ……」
即答。手首に呪詛を掛けるようにこの傷を刻んだのだろう。一息に骨まで削るほどに。
「今でも、呪うか?」
「……ああ」
今度は〝間〟があった。僅かなものではあったが、その〝間〟に今のシキには絶望がないことを信じた。二本目が刻まれることが決してないように祈った。
一瞬だけシュウの手の力が緩んだのを期に、今度はシキがシュウの手首を掴んだ。どういうつもりかとシュウはシキを見たが、相変わらず俯いたままで顔色一つ見えない。
数十秒して、僅かにシキが顔を上げた。
「あんた、脈遅いな。そのうち止まるぜ?」
「俺だけじゃない。おまえもいつか止まる」
「……」
シュウの言葉に対する反応は大したものではなかった。精神的にまだ元気を取り戻していないのか。あの夢が効いているのか。
「けど、あんたより俺の方が遅いぜ。きっと」
「じゃあ競争だ。どっちが後まで生きてるか」
「そういうの、競争って言うのか?」
「競い合うんだからいいんだよ。少し言葉勉強しろよな」
「は。瘴気と正気の区別も付かない奴に言われたくないね」
「それは別だろう」
誤魔化して笑ったシュウを、やっとシキは見た。不機嫌に面白く無さそうな顔をしている。いつものシキの顔だ。やりとりも、いつかのように戻っている。
つまらないと言うようにシキは掴んでいた手を放った。膝を両腕で抱え、そこに顎を乗せる。もう街を見下ろしている様子はない。夕陽に燃える地平線を見ているようだ。
「あの時、あんたの目、赤かった」
聞き落としそうな程小さな声でシキは言った。
「この夕陽みたいに赤かった。だからあんな夢を……」
あんな夢。そう言った時のシキの表情が僅かに歪んだ。
「あんたはいつも俺に嫌な夢を見せるんだな」
包帯を取った所為で風に曝されている首の傷がシュウの目に入った。まだ赤みを帯び、少しだが痕が残りそうであった。傷は癒せても、傷痕までを消すことは出来ない。手首の傷も、首の傷も。互いの持つ不思議な力は、そんな所で不確かで不完全であった。
「……悪い」
声の掛けようがなかった。言い慣れた言葉しか、口から出てこない。
「あんたはいつも謝ってばかりだな」
シキの一言に、何の言葉も出せなくなってしまった。
傷痕を残してしまった上に、謝ることさえ封じられてしまった。
「けど……」
シキが倒れかかるようにシュウに寄り掛かり、その肩に頭を乗せてきた。
「あんたの肩は丁度いい」
記憶にある動作だ。何度かこうしてシキはシュウの肩に頭を乗せていた。動くなと脅しているのか甘えているのかまるで見当の付かない声で「丁度いい」と言いながら。
「もうあの赤い目は見せてくれるなよ。俺、死ぬ前に狂い出すかも知れない」
それを聞いて、シュウは数日前のコウの言葉を思い出した。
「あいつは割れ物だぜ? 丁寧に扱ってやらないと、壊れる時はきっとあんたより早い」
確かにそういう面はある。けれど、シュウはシキが自分よりも強いと信じて疑わなかった。あの言葉はコウから見たシキであって、シュウから見たシキではない。だからシキは強い。余りにもこじつけな理由であったが、それがシュウにとっての事実。
*
暫くして、二人揃って一階に下りていった。もう微かに夕陽の色が空に残る程度の時刻になっていた。季節はそろそろ冬になる。それ程遅い時間でなくても空は暗くなる。幸い、コウの家には時計があった。それがシキの家との大きな相違点と言えよう。
コウは相変わらず映りの悪いテレビを前にソファに転がっていた。足音を聞きつけて首を上げると、微苦笑を浮かべて二人を迎えた。
「ほーら。余計な心配しなくても出てきただろ」
「ああ。屋根の上に居たよ。こんな薄着で、風邪引くつもりだったらしいぜ?」
二人の会話を聞いて、シキはシュウを見上げた。
「あ? 何、あんた。俺を捜してたの?」
「そうとも。いつかの二の舞はゴメンだからな」
意地悪く見下ろすと、呆れた顔をしてシキは目線をずらした。余計なことを、とでも言いたげな顔だ。
「さあて。シキも快復したし、そろそろあんたの抱えてるモンを教えてくれませんかね?」
逃がすものかとコウがシュウを睨む。シキも興味があるのか、もう一度シュウの顔を見た。
以前交わした約束のこともある。しかも、こんな風に二人の視線に絡め取られてしまうと逃げようがなかった。
「解ったよ。コーヒーでも淹れて、ゆっくり聞けよ」
そう言いながらシュウは自らコーヒーを淹れに行った。その間にシキはコウが起き上がったことで空いたソファの片端に座った。シキの手にコウの目がいった。手袋も包帯も消えているという変化に、コウが気付かないわけがない。
「やっと外したんだな」
「うん。……そろそろ、隠すのも逃げるのもやめようかと思って」
遠くで自分には向けられない会話が交わされている。
三人分のコーヒーを持って戻ると、シキはまだ手袋の無い状態を気にするように左手首に触っていた。やがて素手で居ることが日常になり、慣れる。早く慣れると良い。
「さあ話せ。全部話せ」
コウのシュウへの言葉は未だに突き放したものがある。いちいち気にしていたシュウも、最近は何も感じなくなっていた。慣れとはそういうものだ。
シュウはコーヒーを各自に配ると、空いた席に腰を下ろした。シキとコウに挟まれる位置だ。両脇から視線が刺さり、余り居心地は良くない。
覚悟などしようと思っても出来ないのだから、決する意もなく口を開いた。
「まあ、見ての通りだけど」
片手の平を見せて、それ以上説明のしようがあるかとでも言いたげな態度には、これといって悪意がないことは読み取れた。しかし、シキよりも導線が短いコウはそうはいかない。
「説明になってねーぞ、コラ」
近くにシキが居なかったのなら、コウは間違いなく飲みかけのまだ熱いコーヒーを浴びせかけていたことだろう。
シュウはその悪意に全く気付く様子はなく、
「……狂気だよ」
特に悲観した様子もなく、躊躇うこともなく、答えを言った。
「狂気……」
シキはシュウの言葉を反復した。その言葉を飲み込むようにコーヒーを口にする。
――狂気……。
心の中でもう一度呟いた。
狂うこと。
それは瘴気に当たった者の果てでもあった。神経も細胞も狂い、壊れ、そして死ぬ。
「……だからシュウは、狂わなかったんだな」
「ああ。おまえがどんなに瘴気を出したって、俺はもう狂ってるから」
「厳密には狂う要素を持ってるんだろう」
「さあ……どうだかな」
返事を受けてシキはコップの中を見つめた。黒い水面に力のない目が映っている。自分のものだとは思いたくもないほどに、その目は弱い。
「シキには前ちょっと話したけど、俺、小さい頃に溺れてさ。荒れてたっけ、あの海」
「それと狂気と何が関係あんだよ」
訝しげなコウに対して、シュウの表情は変わらない。ただ、目線はどこか遠くにあった。
「シキに置いてかれて、クソ熱い中いろんなトコを彷徨ってた時、忘れてた記憶が夢になって出てきてさ。海の中で苦しかったのとか、見えちゃいけない光を見ちゃったこととか……いろんな憎しみとか」
「だからそれが一体……」
「コウ」
シキが小さく首を振って諫めた。シキには、この独白のような懐古が無駄な話とは思わなかった。シキに言われて、コウは口を歪めながら噤んだ。ばつの悪さを誤魔化すように、まだ熱いコーヒーを呷る。案の定、喉を焼かれたらしく、眉根を詰めていた。
ふとシキが見た先で、シュウの手が震えていた。表情にはまだ何の変化もないのに、手だけが怯えか悲しみか、何を表しているのかは解らなかったがとにかく震えていた。
「用済みだったらしくてさ。俺をあの中に落としたの、俺の両親だった。何で助かったのか知らないけど、一度見ちゃいけないものを見た俺は、その時にはもうおかしくなり始めてた。そこから先は何処をどう歩いたのかも、どうやって生き延びたのかも解らないし、どうやってあいつらを見つけたのかも覚えてない。けど、少なくても俺は、狂った頭で二人を撃ち殺した。頭も顔も無くなるくらい鉛玉撃ち込んでやった。それからさ。狂気が着いて離れなくなった。まだ引きずってて、消えやしない」
手の震えは相変わらず続いていた。溜息混じりの言葉には全く震えが来ていない。感情の痙攣さえも全てその手が負っているようだった。
「それが、あんたの起源か」
コウの言葉に、シュウは頷いて答えた。
シキは、自分の抱えるものの起源を手繰っていた。どんなに手繰っても、糸は切れないうえに、何も寄せられてこない。思考の渦に呑まれるだけで、埒のあく問いではなかった。
自らの起源など知らない。この瘴気は、シュウのように後天的に持っているものではない。始まりが在るとするならば、生まれたその瞬間、が正しいのか。
「あ。ちょっと話ずれるけど、訊いていいか?」
突然、コウが割って入った。
「ん?」
「この間あんたと一緒に居た黒い奴。あいつ、どうした?」
「ああ。……死んだよ」
「はあ? 死んだ? 撃ち逃げかよ、チクショウ」
コウは不愉快そうにもう完治した胸に手をやった。シキが居なかったら死んでいた傷だ。仕返しの機会が無くなり、口を尖らせる。
「なんで死んだんだ? こんな急に。あの男のことだ。隻腕とはいえ、腕は立つんだろ?」
訊いたのはシキだ。
「強い奴だったけど、うん、殺された。殺した奴、俺の昔のダチだった奴でさ、トイっていうんだけど……」
そこまで言うとシュウはシキの方を見た。見られた理由が解らず、シキはただ見返すだけだ。
「そいつ、今、黒狼に居る」
シキは呼吸するのを忘れた。僅かな情報すら掴めず、追うことをもうやめてしまったその組織の名が、今になって首をもたげた。しかも、その気になれば、すぐに探し出せるほどに近い。コウと会う前に黒狼に属する者に会ったが、その場の勢いで殺してしまってそれきりだ。
けれど、一瞬湧き上がってきた興奮もすぐに冷め始めた。黒狼と関わったのは、血の繋がりさえないまだ家族と呼べる関係にもなってない人たちが殺された時、ただ一度だけだ。その時に焼き付いたルイレンと思しき影が忘れられず、それで追っていたようなものだ。
そこまで考えてシキは首を振った。家族の仇。追っていたのは、それもあるかも知れないが、本当のところは違ったのだろう。何か追うものでもなければ、何かにがむしゃらになっていなければ、生きていく理由さえない自分がこんな大地の上で呼吸することさえ難しかった。ルイレンを理由にして生きていただけだ。ルイレンを、呼吸する理由にしていただけだ。
「今からでも、ルイレンを殺すか?」
コウの問いに、暫く無言で居た。手にしたカップに触れたり、指でいろいろなぞってみたりしながら、横から来る二人分の視線を感じていた。
「別に俺はシュウのダチを殺したい訳じゃないし……。それに、もういいんだ。俺があいつらにこだわる理由なんて、もう無いんだ。向こうから来るならともかく、俺は、今の状態をわざわざ壊すような真似、したくない」
「そっか」
シュウは黒狼との間に何があったのかも、コウが狙われる理由も問うことなく、シキはソファに凭れた。
終わったことを追いかけて、今が無に帰すくらいなら、目を逸らした方がいい。
「良かったな、シュウ。こんなお人好しが相手で。俺だったらぶっ殺しに行ってるトコだぜ」
「コウ。今、初めて俺のこと名前で呼んだ」
横目で見てきたシュウを、コウは不快指数八十ほどの表情で睨み返した。
「……だからなんだよ。名前ってのは呼びたい時呼びやすい様にするためのモンだろ。おまえらな、少しくだらないこととか小さいことにいちいち煩いぞ。全部の事柄に意味を求めんなよ、めんどくさい」
「おまえら、って、俺まで一緒にするなよ」
否定は出来ないが、面白くない。
口を尖らせたシキに対して、シュウはというと愉快そうに笑んでいる。
「ちょっと、ワリィ」
コウはそう言うと、早足で廊下に向かった。どうやら少し前から我慢していたらしい。
その時がチャンスと思った。コウが姿を消したのを見やり、シュウは身を乗り出した。
「なあ。コウの抱えてるモンって何なの? 俺の狂気とかおまえの瘴気みたいな何か、あるんだろ?」
「うん……?」
シキが、まじまじとこちらを見てくる。真面目に答えてくれそうでもあり、空っぽのようでもある。意味深な凝視だ。捉え方によれば莫迦にされてるような気もするし、言う言葉に詰まっているようにも見える。つまり、何が言いたいのか全く見えない表情だ。
「シ……シキ?」
あまりに長い沈黙に、シュウは変な不安さえ覚えた。トイレの方では水が流れ、既に扉を閉めた音がしてるのに、コウは何故か来ない。
「そんなの……」
漸くシキが口を開き始めた。その口から出る内容への期待と、コウが帰ってきてしまう前に早く言わないかという焦りがシュウを責め立てるが、シキはマイペースに間をおいている。
「……知るわけないじゃん。そんなこと、今まで考えたこともなかったし」
「は?」
思わず疑問符を投げてしまった。シキは真顔のまま、その先を続ける。
「それに、知ってたって知らなくたってコウはコウだし。いいんじゃね? そういう細かいコト」
どうやら、小さな事に一番固執するのはシュウだったようだ。期待外れの答えに肩を落としたが、そういう割り切り方もあると教えられた。実践する価値はありそうだった。シキがとやかく人のことを訊いてこない理由も、ここに由来しているのだろう。
「おーい、シキ。窓締めておけよ。湿気るだろぉ、部屋ん中」
文句を言いながら二階から下りてきたのは勿論コウだ。居ないと思ったら、部屋を見回っていたらしい。
「ん? 何? 二人で内緒話?」
「別に。俺が考えたこと無いことシュウが考えてたってコトが分かった話」
「ふーん。あ、そう。別にいいけど、飯にするか」
「お。待ってました」
手を打って喜んだのはシュウだ。このために遠くまでシキを探しに行かなかったほどだ。今となっては行かなくて大正解であった。
「てか、シュウは料理できるのか?」
「道具と食材とレシピがあれば、多分」
「全部揃っててもまともに作れない誰かさんよりマシだな」
〝誰かさん〟はそっぽを向いて素知らぬふりをしている。
ぶつぶつ言いながらも、コウは台所に入った。
後を付いていけば、道具も設備も申し分のない空間が広がっていた。何処かの料理人というわけでもないコウには過ぎたもののようにも思う。どうして揃っているのかは、訊かないでおいた。
面倒だから、と、夕飯はチャーハンに決まった。冷凍してあった飯を解凍し、適当な具材を炒めた中に放り込む。それだけでは味気ないと、シュウは勝手に添え物を作り始めた。スープと酒のつまみになりそうなものをいくつか。コンロが多いのでコウの邪魔をすることなく、主食の完成と共にそれらも仕上がった。
「なあ、コウ。また、どっかに遊びに行こうぜ?」
「ああ。いいぜ。おまえの手袋取れた記念でいいとこ連れてってやる」
居間と台所の間で交わされる会話がよく見えない。
「遊びって?」
食事を居間に運びながら尋ねる。
答える者は居ない。
二人だけの世界に立ち入ってしまったようだ。
残念に思いつつ、台所に戻り、別の皿を持って居間へ運ぶ。沢山作ったはいいが、小皿に人数分盛ってしまったため、皿の数が凄いことになった。そして、お盆という気の利くものがこの家になかったのが最大の誤算だ。
次で三度目の往復。
「シュウも連れてこうぜ。どう盛り上がるかわかんないけど」
「……ああ。三人で暴れるか」
意外にもお誘いが来た。遊びとは言うが、金稼ぎの類だろう。そんな予想を付けながら、四度目の往復。そろそろ面倒になってきた。ちら、とシキの様子を窺うも、手伝ってくれる様子はない。
再度台所へ向かおうとしたとき、残りの皿全てを持ったコウがやってきた。両手に持つだけではなく腕にまで乗せて、器用なものだ。
「起きろ、愚図。今日の飯は主食以外全部シュウが作ってくれたぞ」
「えー……」
促され起き上がりながら、シキは訝しげにテーブルに並ぶ皿の中を覗き込んだ。
ほうれん草のソテーに、ウインナのボイル、鶏肉を塩胡椒で適当に炒めたもの、中華ダシのスープ。そして主食のチャーハン。思いついたものを思いついた順に作ったため、方向性はまるでバラバラだ。そこは大目に見て貰いたい。
一通り料理を確かめると、シキはおもむろにほうれん草を摘んで口に入れた。
指で。
「あんたが料理するなんて……。美味いけどさ……」
「行儀悪いぞ。それに抜け駆けするんじゃねぇよ」
「美味い美味い」
「コラっ!」
尚もシキの手は止まらない。焦らなくても、各々に小分けにしてあるのだから誰も横取りはしないのに。
「ていうか、シュウっていいとこの子だったりする? あとは一人っ子とか」
「なんで?」
食べ始めようとしたとき、唐突にコウに問われた。
「デカイ皿に盛ればいいのにさ。わざわざ洗い物増やすし」
そういうことか。
「一人っ子はアタリ。俺んちはこれが当たり前だったからなぁ」
「ふうん」
「コウは大家族?」
会話の流れから何気なくした質問に、コウの表情が変わった。
「……俺のことはほっとけよ」
そして、何も言わずに食べ始めた。
「ホントにぼっちゃんなんだな」
と、シキ。彼もまた、勝手に食べ始めた。
家族の話題がこんなに嫌忌されるとは思っても見なかった。とはいえ、自分も家族に黒い物を感じている一人だ。幸か不幸か、その詳細は記憶にない。家族と過ごした時間については海に呑まれて失くしてしまった。その所為で、怨みの類は殆ど感じていない。
殺されかけ、殺した記憶しかない。顔も覚えていない。
それは、もしかしたら幸せなのか。
解らないまま、チャーハンを掻き込んだ。慣れない他人の味が新鮮だ。美味しい。
「うめぇ……。今度からあんたが食事作れよ」
口の中を一杯にしてコウが言う。
「せめて一緒にとか、当番制とか……」
「じゃあ、月水金があんたで、火木土が俺休み」
「全部俺じゃねぇか」
徐々に談笑が戻ってくる。
疑似家族、とはいかないが、大勢で食べるのはやはり楽しい。他の二人もきっと同じ事を思っていることだろう。
今度から主食以外は大皿に盛ろう。
経験はないが、楽しいに違いない。
*
呼びつけられ、トイはルイレンの部屋中に立っていた。扉の前で主が横たわっているソファを眺め、声が掛かるのを待つ。
呼ばれた理由は解っている。数日前に殺した男のことだろう。
アキが死体を回収してきたのは、その当日の夜に知った。すぐに呼ばれると思っていたが、結局数日経った今日になった。
感心がないのか、冷静になれるまで数日を要したのか。
殺した相手が相手だ。どちらともとれる。
だから、何も言わずに立っていた。
「叱られると思っているのか」
ソファに沈んでいる黒から声が掛かった。いつも通りの声。何も隠していない、良くも悪くも抑揚のない声だ。
「来い」
呼ばれ、トイは歩を進めた。
扉に背を向けたソファ。無防備としか言い様のない配置。ルイレンが何故その場所を選んだのか解らない。ソファの背もたれがあるとはいえ、寝そべれば足と頭は隠しきれないのに。
実は、何も考えていないのかも知れない。単に扉と向き合いたくないからという理由かも知れない。ルイレンならば、大いにあり得る。
肘掛けからはみ出たルイレンの頭の先にトイは立った。
「あの男を殺して、何か手に入ったか?」
「なんにも」
「解っていたんだろう? そんなことをしても、無意味だということくらい」
「無意味じゃないよ。一つ、断ち切れた」
トイは向かいのソファに腰を降ろした。深く埋もれ、足を投げ出す。
「断ち切ってどうする。自分に繋げられると思うほど、おまえも莫迦じゃないだろう」
「……うん」
解っている。繋ぎ直しなど出来ないことくらい、よく解っている。
嫉妬だ。そこにある繋がりへの、どうしようもない嫉妬。
ルイレンから奪い取ってでも、少しでもこの燃える炎をどうにかしたかった。
しかし、消えなかった。
後悔はない。嫉妬は消えない。不安もやはり無くならない。
ソファから落ちてだらりと垂れているあの手が、いつか手放してしまうのではないか、と。
「でもね、ルイレンに何も無くなれば、俺が棄てられる可能性は減るかな、って」
「俺は何も持ってない。奪えたと思ってるなら、まやかしだ」
「じゃあ、俺の自己満足か」
「残念だったな」
人を一人殺して、咎めもなく、挙げ句無駄と言われた。
気が抜けた。殺されることもあるだろうと思ってこの部屋の扉を開けたのに、待っていたのはなんとも緊張感のないやりとりだった。
「……そっか。……ごめんね」
「謝るなら墓前で土下座しろ」
「お墓、作ったんだ」
「アキが持ち帰ってきてな。腐らせても仕方がないから、弔わせた」
「……そっか」
胸が、ちくりと痛む。
罪悪感故ではない。
面白くない。ルイレンは何も持ってないといっても、勝手に付いてくるものがある。それが気に入らない。
すん、と鼻を鳴らして、トイはソファに横になった。横向きになり、ルイレンの顔を眺める格好をとる。
「あれから、ちゃんと眠れたか」
「あんまり。不安なんだよ、俺」
「不安か。おまえは俺が何を言っても信じないからな。仕方がない」
「ルイレンは、長生きするつもり、ないんでしょ?」
「そうでもない。目的は、まだある」
「ふうん」
その目的が果たされれば、すぐにでも消えてしまいそうな口ぶりだ。
泡沫よりも不確かで、消えやすい。掴めなくて、留まってくれない。ルイレンは、そういう存在で、そういう主。
「シュウは俺を殺してくれなかった。俺も殺さなかった。今までの主も、ルイレンも、誰も彼も俺を殺してくれない。俺に銃さえ向けてこない。向けたって、途中で降ろしちゃうんだ」
「おまえは、死にたいのか?」
「どうだろう……」
「殺したくないのか?」
「……そういうのでもない、と思う。けど、最近何かする度に、なんかが疼いて。それが気持ち悪いんだ。慣れてないあの感覚が、感情だって気付いて、逃げたくなって、撃って欲しかったのに……」
「おまえの力がそうさせなかったのか」
「うん……」
何をしてでも生き延びたいという欲求が強かった頃は、この力は割といい道具だった。誰も自分を殺せない。殺意を抱くことすら許さない。
しかし、今となっては不便な力だ。殺して貰いたくても誰も引き金を引いてくれない。
「それほど死にたくないんだろう。本気なら、今頃自分で風穴を開けてる」
「まあ……」
未だ銃口は自分へと向かない。それをどう捉えるべきか。
解らない。
ルイレンの横顔を眺めながらぼんやりと考えるも、はっきりしたことは何も思い浮かばない。自分は一体何を求めているのか。何が欲しいのか。嫉妬などという女々しい感情は強く感じるのに、他は全てぼやけたままだ。
「……だるい。なんか、最近凄く疲れる。いろいろ、考えてるからかな」
「それが人間という生き物だ」
「人形の方が、楽だったよ……」
かつては、言われて動けば良かった。感情に至っては動きもしなかった。自主的に動くものなど何もなかったのに、今はまるで違う。動く。過ぎるほどに動く。
「おまえは、どちらで居たいんだ?」
「ん?」
「人形と人間。おまえは本当はどちらで居たい?」
どちらだろう。
昔に戻ることが出来たとして、楽になれるだろうか。
今のままで、この苦痛が去るときは来るのだろうか。
この時点で、どちらが良いとも言えない。戻るのならば今の記憶が邪魔だ。今のままなら不安が邪魔だ。
せめて確かなものが欲しい。繋がれているという実感。ここに居ても良いという確信。
それらは、触れて、触れさせて、悦ばれることで感じることは出来ない。ルイレンは人形を欲しない。トイという生き物を欲しているのかは解らない。
「トイ」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、ルイレンがこちらを向いていた。
誰かによく似た黒い瞳と、視線が合う。
「少しは自立しろ。いい年して、甘えることばかり考えるな」
「……」
親みたいな事を言う。
ルイレンは再び上を向いて目を閉じた。
瞼が重い。
この部屋は落ち着く。黒一色で、しんとしている。その真ん中に部屋の主の気配があり、そこだけ少し温かい。
人形を人間にした男がそこに居る。
いつまで彼の横顔を見ていることが出来るだろう。
惜しみながらも、落ちてくる瞼を閉じるに任せた。
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