第26話

 窓の外は赤かった。その色に、恐怖が足の先にまで浸透している。凍り付いてしまったかのようになかなか動かすことが叶わない。吹き込んでくる風がカーテンを激しく揺らし、部屋の中にまで渦を巻いている。

 それでもどうにか窓の外を確かめたくて、震える足を動かした。

 いつこんな空になってしまったのか。いつもの空とは似ても似つかない。初めて見るその光景に、覚える物は恐怖。それのみ。

 窓枠に手を掛け、恐る恐る顔を出す。強い風が目に痛い。けれど、そこにある光景を目の当たりにして、痛みなど忘れて目を見開いた。

 真っ赤な雲海が広がっていた。以前のような青い色は僅かも見えない。全てが血のような赤だ。

 この状態でいつも探している物を探すことなど到底無理だ。異様に強い風が雲を流すが、一向に雲は切れない。

 途方に暮れた。

 こんな空を前に、一体何をすればいいのか。青い空に探し物をするだけの日々だったのに、唯一の目的が果たせない。絶望が一気に脳内を侵していった。呆然と赤い空か血の海かも判らないようなそれを見ていた。

 絶えることのない緋色の雲海。一年分の夕焼けを一度に見ているような、それ程までに激しい色。違う場所で、違う状況でこれを見たのならば見惚れるような美しさでもあっただろう。しかし、思考はそんな方へは向かなかった。赤という色は自分に流れる血にしか存在しないと思っていた。それなのに、この身体にある血液を全てをばらまいても足りないほどの赤色が、空の全てを覆い尽くしている。

 虚ろになった目から、一筋の涙が落ちた。視界は滲んでも赤いままで変わりはしない。

 涙はそれきり流れなかった。でも、それで充分だった。この部屋で初めて流した涙は、これで最後にしよう。

 最後に……。

 ぼやけた視界の真ん中を、何かが落ちていった。

 我に返り涙を拭くと、急いで落ちていった何かを見るために身を乗り出した。

 白い何かだ。正体は分からない。だが、この赤以外に見えた初めての色。しかも、白い色。

 後先を考えず、窓枠を思い切り蹴って雲海へ踊った。こんな見通しの悪い中で、なんだかも判らない何かを追うのは困難極めた。それでもどうにか雲を通った痕跡を辿って、空の深くへ落ちていった。

 それから少しもしないで、白い物を確実に捉え始めた。それに近づけば近づくほど、求めている物とは違うことが判ってきた。けれど、その落ちる物を知っている。自分でも顔が青ざめていくのが分かった。

「ユイ!!」

 叫んだ。

 見間違うわけがない。

 ユイという名の女が白い服を着、茶色の髪を靡かせながら真っ逆さまに落ちている。生まれてこの方あの部屋を出たことのない自分が、何故その人を知り、愛しいと思っているか解らなかった。それでも、小さな身体に収まりきらないほどの愛しさが溢れて止まなかった。もう意識のない彼女をどうにか捕まえようと、必死になって速度を上げた。

 ――このまま落とすわけにはいかない。落とすわけには……!!

 この瞬間なら神に祈ってもいいと思った。居ても居なくても、願いを受け入れて叶えてくれる者が居るのなら、何にでも祈りたかった。悪魔に魂を売っても、死神に身体を屠られても、何の苦痛にもなりはしない。彼女が助かるのなら。その願いが叶うのなら。

 手を伸ばす。位置は並んだ。後はこの手に掴み取るだけ。

 数センチが縮まらない。目の前に居る愛しい人を抱き留めるため、腕を攣りそうなほどに伸ばした。指先にでも、爪の先にでも彼女が引っ掛かればそれで引き寄せられる。

 焦って藻掻きながらその生命に手を伸ばす。

 触れた。その瞬間に、一息で冷え切った身体を腕の中に抱き寄せた。もう放さない。そう誓った。

 だが、腕の中に彼女が収まった瞬間に、意識が無くなった。コンセントを抜かれたように呆気なく途切れた。



 次に目覚めた時、辺りは黄土の大地だった。

 初めて見るはずの光景なのに、見慣れた光景だった。

 何かを抱いていた。それの長い茶色の髪が邪魔をして、その顔が見えない。

 あのままずっと抱き締めていた。放さないと誓ったから。

「ユイ? ユイ。起きろよ」

 声を掛けても反応はない。上半身を起こし、ユイも一緒に抱き起こすが、首に力が入っていない。

「なあ。起きろって」

 声を掛けながら、顔に掛かった髪をかき上げてやった。

 その瞬間、息が凍った。

 彼女は口から血を流し、目を僅かに開けたまま鼓動をやめていた。そうなってから随分経っていたのか、身体が異様に冷たいことに今更気が付いた。

「ユイ! 嫌だ! 起きろよ。起きてくれよ!」

 揺すっても頬に触れても無駄なことだった。鼓動も吐息も甦らない。自力で瞼を閉じることも出来ない。そんなモノに彼女はなってしまった。

 あの時最後にしようと思っていた涙が溢れ出した。止める術を知らない。流れるままにした。一滴、また一滴、乾いた砂の大地に吸われては消えた。

 彼女の瞼を、上から眼球をなぞるように閉じた。もう開かない瞼。愛おしく、睫毛に触れた。

 そして、思い切り抱き締めた。熱を失った身体に、この熱を分けてあげたかった。

 こんな熱で良いのなら。いくらでも、全てでも。

 彼女の死に顔を見ることになるなんて。

 やがて彼女の身体は砂になって腕から擦り抜けていった。元々彼女はこの〝気〟に近づいてはいけない身体。ただのモノになってしまったそれがこの力に耐えきれるはずもなかった。

 崩れた彼女の残骸を手に掬い、嗚咽を漏らした。彼女であって彼女の形をしていないそれは、徐々に風に攫われていく。どこか知らないところへ運ばれ、どこか知らないところで大地になる。彼女の還るべき、大地に。

「ユイ―――――――!」


   *


「うあああああっ!」

 叫び上げてシキは飛び起きた。

 飛び出しそうな心臓を抱えるように、腕で自分の身体を抱いた。首に痛みがある。しかし、それに構っている余裕はなかった。それよりも感情の逆流に理性さえ飛びそうになっている。

 どたどたと騒々しい音を立てて二人が二階に上がってきた。二人とも血相を変えて我先にとシキに駆け寄る。シュウの脇をすり抜け、コウが先に青ざめたシキの元に辿り着いた。遅れてシュウがコウの背中にぶつかる直前で足を止めた。

「シキ! どうした」

 コウが声を掛けシキの肩に触れるが、シキは震えたままなかなか声を出せないで居た。

 初めて見る赤の夢。

 見たばかりの血の色が、そのまま夢になってきたようだ。

 何度瞬きしても拭えない光景が、脈を踊らせ続けている。



 コウはその表情に見覚えがあった。空を見て、傷を負って、時々そんな顔をして飛び起きていた。けれど、今回は今までの比ではない。このまま精神が緊張し続ければ、きっとそのか細い糸は切れてしまう。そう見えた。

「夢を……見たのか?」

 シキの首は縦にも横にも振られなかったが、震える口を僅かに開けた。何かを言おうとしている。だが、それを声や言葉にするにはまだ震えや息づかいが激しすぎた。

 コウはシキの背中をさすってやる。例の効果で少しでも落ち着けばいい。

 効き目があったのか、まだ息はそれ程落ち着いていないが、やがて凍り付いた口元が言葉を発し始めた。

「空が、真っ赤で。ユイが落ちていったんだ。掴んだのに、……抱き締めたのに、あいつ、また死んじまったんだ。助けたかったのに。赤い空が俺もユイも呑み込んでいって、あいつだけ殺したんだ。俺をこの大地に棄てて……」

 いつも見るという夢さえまともに聞かせて貰ったことの無いコウは、断片すら今までに聞いたことのない内容に正直驚いていた。何か言おうと口を開けたはいいが、出てくる言葉がなかった。いつまでもそうやって口を開けているわけにはいかず、不甲斐なさを感じながら渋々口を閉じた。

 いつの間にかシキの身体は冷え切っていた。気付いたコウは無理矢理シキを寝かせ、上掛けを乗せた。不安げなシキの目が、何かを求めるようにコウを見た。言葉にしなくても解る。コウは頷いた。

「もう一回寝てゆっくり休め。今度は夢も何も見ないように、俺がここに居てやる」

 空約束の可能性の方が高いことをシキはよく知っているだろう。しかし、反論はない。シキは素直に目を閉じた。包帯に血が滲んでいるのを見やり、コウはそっと手を乗せた。その間に、シキは寝息を立て始めた。それを見て、コウは微かに笑う。暫く辛い思いをしたくないと愚痴ったシキを思い出し、寝顔を見て安堵さえした。

「なぁ、ユイって?」

 シュウが居たことを忘れていたコウは、あからさまに嫌な顔をした上に質問に辟易した。無論、コウはシキの方を向いているから表情など見えない。



 コウはシキから手を離すと、あからさまに嫌な表情をした顔が振り向いた。表情の変化があったことは感じていたが、予想したよりも酷い嫌がりようだった。

 シュウは思わず一歩引くと、

「あーあ、話さねぇって言った側から! 結局話さなきゃいけないのかよ。しかも俺が!」

 一体何に対して嫌な顔をしているのか、シュウは判断に困った。

 コウはシキから手を放し上掛けを直してやると、苛立ちながら階段へ向かった。

「下に行くぞ」

「でもシキと約束……」

「ここで話すと、余計辛いだろ。過去の再現より、夢見て飛び起きたほうがシキにはまだ良いんだ。そのくらい解れ、ばぁか」

 その本気で莫迦にした最後の一言が、シキが発するものとそっくりで少しおかしかった。どちらが相手に感化されたのか知らない。だが余りにも似たその言い方に、シキとコウとの関係の深さを知った。

 ふとコウを見ると、階段の降り口で今にも怒鳴りそうな顔をしていた。後で殴られないために、シュウは急いで彼の後を追った。

 居間のソファに腰掛けると、台所からコウがコーヒーを持って出てきた。コップから中身が零れるか零れないか程度の乱暴さで一つをシュウの前に放り、もう一つを啜りながら一人がけのソファに腰掛けた。

 漸く出て来たコーヒーに、含みを感じざるを得なかった。よほどの長話になるのか、それとも少しはもてなそうと思ってのことか。こちらも判断に困った。

 カップの中身はかなり苦そうに見えた。コウの意地悪なのか、単に苦そうに見えるだけか、いつもこんなコーヒーを飲んでいるのか。詮索しだしたらキリがない。えいやっとばかりに思い切って一口の見込むと、思い過ごしであったことが分かった。インスタントだろうが、かなり美味しい。

 コウは半分ほどコーヒーを飲み終わった所で、漸く口を開いた。



 話の始めは、コウとシキが出会った時のことから。ユイのこと、シキの所から出ていったこと。ハルの話もシキから聞いた限りのことを話した。コウは、シュウがシキの瘴気についてしか彼のことを知らなかったことに驚いていた。シキがシュウのことを何も知らないことについても同じだった。信用しないで話さず尋ねなかったというわけでも無さそうな二人が、何故ここまで互いについて無知なのか。自分たちのことがあったので、コウはそれが暫く信じられなかった。

「まさか、あの手首の傷……、自殺痕? ……そんな。あいつが……」

 想像しようと思えば容易かっただろうに、かなり困惑しているシュウを見て少しおかしかった。可能性の中に露程も入っていなかったようだ。

 シキの強がりは、本当に強そうに見える。誰でも一度は騙されるほどだ。けれど、かなりわかりやすくもある。一度強さが強がりと分かると仮面は余りにも脆く崩れる。負った傷を隠そうと必死になって居る様に、目を塞ぎたくなることもある。

「あんたは、シキに棄てられたんだよな?」

 コウは少し意地悪げに笑いながら尋ねた。ややあってから、シュウは首を縦に振った。

「理由は知らないけど、俺と居たくなかったんだろ」

 コウは、その疑問をもう一度引っ張り出して考え込むシュウの在る所に目がいった。青い、偽物のようでもあるがそれでも空のような色をした瞳だ。

 いつもシキが見ていたのも空だった。窓越しに空ばかり眺めて、放っておけば寝食を忘れて見入ることさえある。その空の色がシュウの瞳に映っている。

「シキがあんたから目を背けたい理由。わかんなくもないぜ。あんたのその目、空の色してるからな」

「目の色? そりゃあ、シキが喰うように空を見てるのは、見たことあるけど、物欲しそうな顔してても、目を背けたいようには見えなかったけど?」

「あいつは空の青が何より好きで、何より憎いんだよ」

 何処まで無知なんだ。何を見ていたんだ。

 ――コイツは知らないのか。あの恨めしそうな目で空を眺めているのを。

 シュウの様子からいって、コウの独白は正しいようだった。

「探し物が見つからない空を、目の前に居るヤツの瞳にまで見るのは、辛いだろ。それに、あいつは教えてくれないけど、あいつの見る夢。たぶん、空の夢だと思う」

「あんな辛そうな顔して、空の夢を?」

「何かあるんだよ、きっと。背中の傷に羽を選んだのも、きっと、空に何かあるからだと思う。俺には見当も付かないけどな」

「あんたもシキのことで知らないこと、あるんだ」

「俺がシキの専門家にでも見えるか? 互いの傷を舐め合うような付き合いは大嫌いなんだよ」

 コウは頭の後ろで手を組み、ソファにふんぞり返った。横目で窓の外を見る。やがて来る冬の空のような、鉛色がそこに佇んでいる。時々カラスが行き交う、今は同じ色が続くだけのこの空に、シキは一体何を求めているのか。



 コウにつられ、シュウも窓の外を見ていた。

 手の中のコーヒーはもう冷めている。コウはいつの間にか飲み終わっていてコップをテーブルの上に置いていた。手よりも冷たくなったコップの中身を一息に飲み干した。

「あいつは割れ物だぜ? 丁寧に扱ってやらないと、壊れる時はきっとあんたより早い」

 空を見たままコウが言った。

 ――割れ物、か。ガラス細工ってより瀬戸物だろうけど……。

 シュウは視線をコウに移した。

「けど、あいつは俺より強い。あいつに何があるのか知らないで、あいつの過去も知らないで、どうでもいいものに縋ってた俺を、あいつは『逃げてるだけだ』って言って殴りやがった。抑えることすら出来ないあいつより、抑えることなら出来る俺の方が数段幸せだって……その時初めて解った。それでも気丈に堪えてるあいつは、俺より強い」

 コウは空からシュウに目線を寄越した。

「何がどれくらいあるのが幸せかなんて、人それぞれ違うんだから比較すること自体間違ってると俺は思うけど、ま、あんたがそう思って気が済むんならいいんじゃねぇの?」

 初めてシュウの前でコウが口の端を上げた。生意気な感じはしたが、それが彼の素直さだと解った。

 憎めない不遜な笑みに誘われて、シュウも笑っていた。妙に落ち着くこの感覚が病み付きになりそうだった。それはシキと居た時に感じた安堵感に似ている。コウと居てもシキと居る時のように心が落ち着いた。抱えている病は完全に押さえ込まれてしまい、動く気配など微塵もない。

「なあ。何であんたはシキの瘴気が平気なんだ? あんたの持ってる〝虚〟って何?」

「さあなぁ」

 本気で解っていない、という風には見えない。意味ありげに見上げてくるその目に、答えを見ることは出来なかった。シュウが詮索する隙間はない。どこから攻めても軽くかわされることはその目で解る。だが、目を逸らそうとはしなかった。

「何か、隠す理由があるのか?」

「解んねぇモンは隠せねぇよな」

 少しの間、二人の動作は止まった。視線を合わせたまま、どちらも微動だにしない。互いの意図することは見えていた。それを通させないために眼光だけで勝負をする。

 しかし、すぐに勝てないと思い知った。コウの笑みはそのまま。一方、シュウの笑みはいつの間にか薄れていた。シキと質は違ったが、コウの存在感も重い。こうやって目を合わせていると、その存在感は威圧と等しい。気圧されるように、足を一歩引きそうになる。

「おい、コウ!」

 突然、階段の下からシキの声がした。相手を探り合っている間にシキが下りてきたことに二人とも気付いていなかった。その姿は立ち上がらなくても少し身体を動かせば確認出来る。シキは階段の手すりに捕まりながら、二人を睨んでいた。

「やけに疼くと思って起きたら……」

 二人が二階から姿を消したことに腹を立てているようであった。起きて誰も居なかったという事よりも、約束を反故にされたという根本的なことがその原因らしい。

 口を尖らせたシキは、シュウを見てますます眉間に皺を寄せる。

「大体な、あんたの所為でこんな目に遭ったんだから、責任取ってちゃんと治せ!」

 拗ねたその口振りがある意味滑稽で、シュウは思わず吹き出してしまった。

 脇からコウが、

「痛がりなんだよ」

 と、シュウに耳打ちする。勿論シキには聞こえなかったが、聞いたらきっと不快に陥るだろう事を言われていることくらいは察しが付いた。

「コウ。おまえも余計なこと吹き込むんじゃねぇよ」

「はいはい」

 あしらわれたことには特に触れず、シキはわざと大きな音を立てて階段を上っていった。その後を追おうと、シュウは立ち上がる。

 ――あれ? そういえば、今……。

 頭に浮かんだ引っかかりを問うために、シュウはコウの方に向き直った。

「シキは、あんたには特に心開いてるみたいだな」

「何でそう思う?」

「だって、俺のことは『あんた』なのに、あんたのことは『おまえ』って呼んでる」

「そちらさんだって同じだろうが。随分どうでもいいこと気にするんだな」

「でもさ……」

 そのことがシュウにとっての引っかかりであることには違いなかった。少し不満そうな顔をして、シュウは目を逸らす。

「あんたとは関わりたくないんだよ。さっき言っただろ。あんたの目の色は、シキにとって好きであり憎んでる色だ、って。本当は俺とだって関わりたくないんじゃないか?」

「そうは見えないぜ? あんたを見る目の方が、生き生きしてるっていうか」

「何? 妬いてんの?」

「莫迦言うんじゃねぇよ」

 シュウは踵を返すと肩を怒らせて二階に上がった。

 妬いている?

 違う。

 悔しいだけだ。



 去って行く背に、コウは笑い声を飛ばした。

「面白い奴ら」

 最後には鼻で笑った。そして使う者が居なくなった大きい方のソファに移ると、肘掛けに頭を乗せて寝そべった。


「あんたの持ってる〝虚〟って何?」


 シュウの声が頭の中でまた問い掛けた来た。それを聞いて、思わずといった風にコウは声を立てて笑う。抱腹したい所だったが、大して広くない家だ。上に居る人間に聞かれるのは、後々少し面倒だ。何しろ、笑う理由はシキでさえ知らない。

「俺には何にもないからなぁ。謂わばゼロ。シキ以外は皆無。例外があるのが辛いなぁ」

 誰も知らず、聞くことのない答えを、声に出して言った。

「それが、俺の〝虚〟なんだろうな」

 何も無い。初めは諦めだったが、やがてゼロに変わっていった。まさに〝虚〟。まさにシキの言う「虚は虚を埋める」そのものだ。

 シキのように無意識に人を傷つけるものではない。コウにはまだ正体は掴めないが、シュウのように自らおかしくなるようなものでもない。

 シキにこだわってる自分を知って、変わったのかと思った。だが、ゼロの中にこだわりが生まれただけで、他は何も変わっていなかった。何も無いからこんな風に笑える。何も無いから何があっても護れる。それがコウなりの強さだった。

 シキのことだ。あの性格ではこんな事を言えば何かが飛んでくる。それに言う必要もない。この姿勢は普遍の意志でありシキへの薬。それ以外何の用も為さない。

 まだ笑い足りないように笑っては息を吸い、落ち着いた所でまた笑うという動作を繰り返していた。顔の筋肉が痛くなりそうだった。時々引きつりそうになる筋肉を指でなだめる。

 笑っているのは一つのことだけではなかった。最後にシュウにした質問が自分の中で自分に返ってきた所為で、笑いを止めようが無くなってしまった。あの時、コウを制止してシュウの方に向かったシキの背が浮かぶ。振り向きもせずシュウの方だけを見ていて背しか見えないシキの姿が見える。

 ――あの時俺は何を感じてた? 腹立たしさだぜ? あの時だけじゃない。今でもそうさ。これが笑わないで居られるかっていうんだ。

 シュウが夕方になって下りてくるまで、コウは狂ったように自分を笑い飛ばしていた。

 シュウが二階にいく直前に笑みを見せたのは気を許したからではない。挑発だ。シキが見ればきっと解った筈だ。その笑みが自分に向けられるものと質を異にしているのだと。

 どうやらシュウは何も気付かず気を許して貰ったからと思っている。

 ――冗談じゃねぇ。

 居間にやってきたシュウに、コウはもう一度笑みを飛ばした。同時に、自分にも嘲笑の笑みを送った。

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