第三章 浸蝕

第25話

 トイがやってくれた。

 無論、悪い意味で。

 朝方に浮かない顔をして帰ってきた。それを見たアキは、敢えて尋ねることはせず、こっそり調べを入れてそれは判明した。

 何処へ出掛け、誰を殺そうと自由にしていたが、今回は訳が違う。

 殺してはいけない人物を殺した。度々仕事をやっていた隻腕の殺し屋。ルイレンの異父兄弟で、弟。恐らく本人は何も知らなかったことだろう。それを知る者は殆ど居ない。知るのはルイレンとアキの二人くらいだ。それも、確認を取ったことはない。

「何て報告すればいいのやら……」

 発言には難があっても、正当な理由もなく人を殺す事はなかった。組織内の構成員を殺したときも、己の身を守るためだ。

 今回、あの殺し屋がトイに銃を向けたとは考えにくい。トイを殺せば自分の命が危うくなることくらい解っているはずだ。殺し屋が愚か者ではないとするのなら、先に銃を向けたのはトイであり、最終的に引き金を引いたのもトイ、ということになる。

 解らない。

 何故、あの男を殺す必要があったのか。

 トイと彼に、個人的な繋がりはなかった筈だ。黒狼との繋がりを悟られないように、一番らしくないトイに仲介を頼んでいた。それだけだ。仕事の受け渡しで何かトラブルがあったとは聞いていない。

 解らないことばかりだ。

 アキは数人の部下を連れ、死体の回収にやってきた。

 ルイレンにどういう言葉を持って説明しようか考えている間に、目的の家に辿り着いた。

 部下に先に行かせ、自分は後から入る。中に入った途端、血の臭いが鼻孔を突いた。

 短い廊下を抜けリビングに着くと、男が一人、血溜まりの中に倒れていた。玄関側に足を向け、顔はまだ見えない。

 テーブルには二人分のカップ。中身は飲みかけの状態。争った形跡はなく、男が倒れていることだけが異常を思わせる事柄だ。

 トイが相手なら、仕方がないか。彼は殺意を殺ぐ。どんなに撃ちたくても、その意思よりも先に動作を抑え込まれてしまう。そうなった状態で彼の殺意から逃れることは、不可能。経験したからこそ解る、あの人知を越えた能力は、この世界では危険だ。

 いつか自分も、殺がれ、殺されるかも知れない。そうなったときは、自分に銃口を向ければいい。自身への殺意は殺がれまい。誰かの手にこの命を握られることは許せない。

 どちらにしろ、むざむざ殺されるつもりはない。

 もう一歩、リビングの中央へと踏み込んだ。もう一歩。もう一歩。死体との距離が詰まり、俯瞰して見る位置が真上に近づく毎に、アキは静かに瞠目していった。

 その顔には昔に見知った人物の面影がある。まさか、と否定したい気持ちを、記憶が更に否定する。

 十近く歳の離れた、目元のきつい子どもで。遊び相手になってやっても、まるで喜ぶ様子を見せずに。どうせ独りなのだと、突き放すようにそっぽを向く癖に、その目は何処か寂しそうで。

 今は、あの寂寥とした黒の瞳は閉じ、大きくなった身体を自らの血溜まりに横たえている。

 間違いではない。

 まさか、誰かの死に動揺するなど。しかし、湧き起こった揺さぶりに耐えられず、アキは唇を歪めた。

「ユキ……」

 かつて呼んだ名を。

 小さく零し、奥歯を噛んだ。

 どう生き、どう死のうと人の自由だ。干渉する気はない。そう思っていても、こんな死に様しかなかったのか、と呟く心がある。自分とて同じ穴の狢。影の中に埋まるように死ぬのが定石。

 解っている。解っているのに。

 いつからこんなに優柔不断になってしまったのだろう。ただの感慨で済んでいないこの心は、どれだけ弱ってしまったのだろう。

 何てことだ。

 繋がりが。血にはほど遠い繋がりであるとはいえ、かつてから知っていたというただそれだけで、こんなにも揺れる。

「アキさん?」

 部下に呼ばれ、我に返る。顔を背けて、

「運び出せ」

 それだけ言った。

 彼は死体袋に入れられ、持ち出された。

 家主を失った家は、家主が零した血を染みにして忘れることはないだろう。

 広がった、赤と言うよりは黒に近い液体に目を落とし、憂う。

 ルイレンとの関係性しか知らなかった。だから説明するための言葉ばかり考えていた。だが、蓋を開ければ何だ。関係性は自分にも及び、しかもそれは過去に築いたものだった。

 命じられて相手をしていただけ。その筈だったのに。

 思い知る。自分が、どれだけ彼のことを気に病んでいたのか、と。

「さて……」

 帰ろう。

 そして、事実を言葉にしなくては。


   *


 野暮用で部屋を出たついでに、ルイレンはトイの部屋へ向かった。

 昼近くになっても気配を感じないのは珍しい。一旦出掛けるとなかなか帰ってこないが、出掛けるときは律儀に一声掛けていく。だから、恐らく部屋に居るのだろうが。

「トイ。入るぞ」

 部屋の前で声を掛けたが、返事がない。だから、ドアノブを回した。

 手応えは無くドアは開いた。ソファが幅を利かせた部屋の真ん中に、人が居る。倒れている。

 毛足の長いラグに顔を埋めて、大きいバスタオルを身体に巻いたトイが、そこで寝ていた。

 なにかの良心が働いて下半身は隠れている。その代わりに、背が見えた。

 傷だらけの、痛々しい背中が。

 トイの肌は、特に手入れをしている様子はないのにはっとするほど美しい。しかし、背と腕、腕に関しては特に手首付近に傷が多い。本人もそれを隠すことをしないので、この傷は何度か目にしたことがある。

 見慣れても、それでも自然と眉根が詰まる。

 無数に走る線。不規則に並ぶその痕が、何で付けられたのかおよそ見当が付く。こんな傷を負って尚、トイは傷付けてくる人間を主として従ったのか。生き方を知らない。それだけの理由で。

 解らない。同じ境遇に陥ったとして、解るかどうか。

 取り敢えず。ルイレンは部屋に入るとトイをバスタオルごと抱え、すぐ傍の上掛けが散らかったソファに横たえた。ソファはトイにとってベッドとイコールだ。彼はベッドでは眠らない。この部屋にもベッドはあるが、一度たりとも使われたことがない。糊の利いたシーツを張っても、誰も皺を付けることはない。綺麗なままだ。

 そこは仕事場だから。眠るための場所ではないから。

 そう言ってトイは、ソファや床で寝る。

「う……」

 トイが眉を顰めた。起きるかと思いきや、そのまま苦悶の表情になる。

 夢でも見ているのか。魘されているように思える。

 魘される夢が、彼にもあるのか。

 何気なく彼の頭を撫でた。その瞬間、弾かれるようにしてトイは目を開けた。早く深い呼吸をして、瞠目している。狼狽した青緑は、必死に情報を集めている。

「ラグの上で寝るな。ダニに刺されるぞ」

「ルイレン……?」

 目の前に誰が居るのかも解っていないらしい。

 世話が焼ける。養っては居ても、親ではないというのに。

「それにバスタオルは上掛けじゃない。もう夏も終わったんだ。風邪引いてもアキは付けてやらないからな」

 漸くトイの身体から力が抜けていった。

「……シャワー浴びて出たら寝ちゃった……」

「素っ裸で、しかもこんな所でよく眠れるな」

「着替えようと思ってたのにな……」

 バスタオルを掛けていただけでもマシか。

 流石に寒かったらしく、トイはソファにある上掛けを引き寄せてくるまった。温もりを得て、吐息。心なし、安堵したようにも見える。

「夢は、よく見るのか」

 トイの横に腰掛けながら尋ねた。他意はない。気になっただけだ。

 それに対して彼は、上掛けを口元に寄せ、俯いた。暫く待っていると、

「……ううん」

 と、短い否定が返ってきた。

「最近見るようになった。昔のこと。嫌だなんて思ったこと、無かったのに……」

 そう言ってトイは、上掛けの中に更に顔を埋めた。

 トイの言葉を借りれば、人形ではなくなってしまったから。過去を嫌なことだったと思うほどに、今が恵まれているから。

 意識してトイを扱っているつもりはない。多少甘いところはあるが、他は部下と変わらないと自分では思っている。

 ルイレンの普通が、トイの普通ではない。

 そこに生まれる齟齬に全ての原因が詰まっているように思えてならない。それを是正する手だてもなく、価値観は擦れ違ったまま。

「取り敢えず服を着ろ。後は好きにしてるといい」

 立ち去るために、背を向けた。

 止める声はない。だが、ドアを開け、出ていこうとしたとき、

「ルイレン」

 呼ばれた。

 立ち止まって振り返れば、余った上掛けを抱き締めているトイが居る。

「俺を、楽にして……?」

「なに?」

「おかしくなっていくんだよ……。それとももう、手遅れ、かな……」

「少し眠れ。酷い顔だ」

 反応は待たずにルイレンはドアを閉めた。

 変わった、と言われれば、確かに変わった。常人に比べれば薄いがそれでも感情は豊かになったし、口も悪くなった。甘えたがりも拍車が掛かってきている気がする。

 そのことがトイにとって〝おかしい〟ことであるのならば、事実、おかしくなっているだろう。

 己に感じる変化のどの部分を害と思ってそんなことを言っているのか。自室へ帰る道すがらずっと考えていたが、行き着く先はやはり、

「解らん」

 部屋に戻り、いつものようにソファに寝そべろうと歩を進めた。

 しかし、今日は思い通りにはならなかった。

「ルイレン様。お話が」

 アキが来た。


   *


 小さく小さく身体を丸め、膝を抱えるようにしてシキは眠っていた。

 羊水の中を漂う胎児のように、腕を寄せ、身を縮める。全ての物から自分を庇うようにさえ見えるその姿。そんな格好をして寝ているのを見たのは久しぶりだった。

 コウの所に転がり込んでから、シキは身体を伸ばして寝ていることが多かった。昔はよく、恐らく本人は自覚はないが、不安に怯えるようにして丸まっていたのを覚えている。ただ横になる時でさえそんな姿勢を取っていた。その姿が酷く卑屈に見え、良く覚えている。身体が空気に触れる面積が増えると、それだけで落ち着かないらしく、なるべく小さくなって、自分の中にうずくまっていようとしていた。夜遊びを覚えてから安堵に身を委ねるようにして身体を曝して寝るようになったが、また再発しているらしい。

 コウはどちらも知っている。怯えて自らを抱くようにしているシキも、安心しきって無防備に身体を空気に曝しているシキも。

 久しぶりに見た自衛の姿に、コウは溜息を吐いた。

 窓辺に置かれたコウのベッドで、シキが険しい顔をして寝ている。

 疲れたのだろうとは思う。

 コウの傷はだいぶ癒えている。出血はあの時一時的に止まっただけで、家に引き上げてからまた傷が開き、最終的に止血できたのは朝方になってからだった。それから腕を動かせるようになるまでに回復するのに掛かった日数は僅か二日。痕は残ったが、それでも傷は治った。後一日も経てば骨も元に戻るだろう。

 傷が塞がるまでの間、シキはずっとコウの側について時折傷の上に手を翳すなどしていた。お陰で化膿することもなく完治は近い。

 シュウにあったあの日からシキは確かに元気を失っていた。平静を装っているつもりだろうが、芝居は下手だ。そんな日が続き始めたある日、まだ夜も早いから、気晴らしも兼ねて酒に誘おうと思って二階に上がるとこの有様。夜行性動物に等しいシキが、まだ宵の口も過ぎて間もない今の時間に寝ているのも異常だが、

「……」

 この様は。

 全てが振り出しに戻ったようで見ていられない。

 コウはもう一度溜息を吐いた。声を掛けたところで、恐らく目覚めないだろう。目覚めたとしても、タヌキ寝入りをして起き上がることはしない。それが分かっていたので、コウは溜息だけで諦めて一階へと下りた。

 一人で自棄酒を決めた。

 台所に入り、ウイスキーのボトルの首を掴む。もう片方の手には小さなグラスを一つ。ウイスキーもグラスも、割といい物だ。少なくとも、飲めない人間の家にある物ではない。以前二人で酔い潰れた時には出さなかった代物だ。

 彼はソファに座ると、グラスにウイスキーを注ぎ始めた。氷も水も入れない。ストレートだ。こんな事をしてただで済むとは本人も思っていない。しかし、持って行きようのない苛立ちを紛らわすにはこうするしかなかった。

 グラス半分ほど注いで、意を決すると一息に煽った。喉に焼け付くような痛みが流れ、胃壁までもただれていくようだ。

 コウは悶えた。覚悟していたとはいえ、慣れない酒に焼かれる痛みは耐えがたいものがある。胃やら胸やらを押さえて悶えるうちに、脇腹に触れた手が止まった。左脇腹に今も残る傷痕。そこに手が行った瞬間、シキと出会った時の記憶が逆流してきた。胃に感じていた痛みが、そこに移ったような気がした。昔の古傷が今になって熱を持つ。

 身体に残る二つの傷の記憶は、今でもはっきり覚えていた。その片方がこの脇腹の傷だ。傷を付けられたことよりも、その後シキと出会った出来事の方が鮮明に残っていた。この傷のお陰でシキと出逢えたようなものだ。ある意味では、傷をくれた人間に対して感謝さえしている。

 服ごと掴むように傷痕を押さえた。疼痛が脈打つたびに血が溢れる感覚が甦る。今もまだ出血が止まっていないように、鼓動に合わせて痛みが走る。

「畜生……」

 呻くように声を絞った。

 幻が幻でなくなっていく。この痛みは現実の物に。消えない物に。忘れられない物になる。

「何で、……何でおまえなんだよ……」

 傷痕を押さえながら、震える手でグラスに四分の一程ウイスキーを注ぎ、再び一息に煽った。流石に不安を覚える程に脈は跳ね上がり、顔も傷痕も燃えるように熱い。

 そのドクドクという激しい心音を聴きながら、他人事のように「すげぇな」などと思っていた。これが身体から聞こえる音。血液が身体を巡るまず始めの音。

 生きている、音。

「ああ……。生きてるなぁ。まだ生きてるよ」

 譫言のように呟き、腹を抱えるように身体を折った。腕の中で音と振動が暴れ回っている。やがて頭痛がしてきた。脳髄を刺激されるようで頭の奥から感じる。感覚としては鋭いのか鈍いのかよく判らない。

 やがて内蔵が圧迫されたせいで、ただでさえ上がっていた息が苦しくなり始めた。同時に血が頭に集中して頭痛が悪化した。

 より多くの酸素を求め、大きく息を吸いながら顔を上げ、ソファの背にのけぞった。大して新鮮ではないが、それでも大量に酸素が肺に入ってくる。

 見上げた天井は、通常の家よりも高い作りになっているが、見慣れているはずなのに異様に高く見える。しかもわずかに回っている。

 目眩に似たその感覚に吐き気を覚え、目を閉じて深く呼吸をした。

 もう真っ暗だ。けれど、身体ごと回っているような感覚がして、乗り物酔いになっているようだ。気分が悪い。

 一度、大きくぐるりと地球が回った。それにつられるようにコウの身体もぐらりと揺れた。頭が小さく弧を描き、そのままソファに倒れ、深々と沈んだ。


   *


 呼ばれ、案内された場所でそれを見ても、ルイレンは表情一つ変えなかった。

 遂に逝ったか。せいぜいその程度の感想しか抱かない。そのことについて、アキが訝しげな目を向けてきた。

「何もお感じにならないので?」

 感じない。

 兄弟とはいえ、血は半分しか繋がっていないし、共に暮らしたこともない。しかも、相手はその事実すら知らない。それなのに、死を持って何か感じろと言うのか。

「どうせ、人はいつか死ぬ。それが、トイの手によって、昨日だった。それだけの話だ」

「貴方はいつもそうやって淡泊なんですね」

「あれこれ思ったところで、どうしようもないと思っているだけだ」

「本当に、変わりましたね」

 何がだ、と目を向けると、ほぼ同時に逸らされた。

「彼女に出逢い、別れてから、貴方は変わってしまった」

「名を口にしたら撃ち抜くぞ」

「無気力で、無感動になって。それでも尚面影を追い続けるのは何故ですか」

 唐突に視線が合い、今度はルイレンが顔を背けた。

 何故?

 問われて返す言葉がない。

 愛情と呼ぶべきであろう感情が唯一芽生えた相手は、何も言わずに突然に居なくなった。今となっては生死すらも解らない。忘れることが出来ないから、せめて諦めようと努めてきた。それでも尚、傍目からでさえ彼女の影を追っているように見えるとするならば、

「少し黙れ」

 きっと、

「こいつは、弔ってやれ。任せる」

 死に場所を探しているからだ。

 横たわる死体を前に、羨望すら抱く。

 早く俺も、おまえのようになりたい。何も感じることもなく、ただ冷たくなってしまいたい。

 ただ、一つだけ、肉塊に変わる前に見ておきたいものがあった。

 否。訊きたいこと、だろうか。

 命と引き替えでも良い。ただ一つ、訊きたいことがある。彼なら恐らく、知っているだろうと決めつけた上での願望だが。

「トイはどうします?」

「放っておけ。無い物ねだりを始めただけだ」

 言い残して部屋を出る。

 蒼白なフォルト――ユキの死に顔が、思った以上に脳裏に焼きついていた。

 ――死とは……。

 死を虚しいとも思わなくなってしまうこと。

 無に帰すこと。

 それを知る由もなく、朽ちること。


   *


 早く寝た所為で早く目が覚めたシキは、いつも通りの不機嫌面で階段を下りた。

 いつもならコウが動く物音が聞こえてくるのに、今朝は家の中から気配一つ感じられない。朝食の匂いもしない。珍しいことだった。

 その珍しい異常に心配はしなかったが、多少の不審を抱いて階段を下りきった。

 と、ソファの肘掛けから足が生えていた。視線をずらすとテーブルの上にはウイスキーの瓶とグラスが一つ。うっすらと色の付いた液体が、少し飛び散ってテーブルを汚していた。

 事態は読めた。

 ソファまで近づいて覗き込むと、予想したとおりの光景が横たわっていた。

「何やってんだよ」

 夏は終わった。朝ともなれば多少なりとも冷え込んでくる季節だ。特に今朝は冷え込んだように思う。その冷えた朝に、酒を飲んで酔い潰れてしかも何も掛けないで寝ていたとなると、ただでは済まない。

 シキはソファの背の方から身を少し乗り出すと、コウの顔を軽く叩いた。その刺激に時々は反応するものの、なかなか目を覚まそうとしない。叩いてくる手を払い除けようとさえするコウの反応に苛立ちを感じ、シキは手に力を加えた。

「おらっ。起きろよ。後でいろいろ面倒なんだから、風邪引くから!」

 コウはシキの手を嫌がりその手を掴んだ。光に慣れていない目をゆっくりと開け、まだぼんやりとした眼差しでシキを見ながら、乾いて張り付いた唇を開ける。

「何でおまえなんだよ」

「は?」

 答えは返ってこなかった。

 何でもないと打ち消すように小さく首を振って、コウは額を押さえながら起き上がった。その動作の間中、ずっと眉間に皺を寄せて、目を閉じていた。完全に二日酔いだろう。

「慣れない酒なんて飲むから」

 呆れたようにシキが言う。

「早寝なんておかしなことするから」

 酒を飲んだ原因をなすりつけ非難するように、コウはシキを横目に言い返す。

 ――何で俺の所為なんだよ……。

 口の中でシキは呟いたが、声にはしなかった。

 どうやら風邪を引いた様子もないのを見て、シキはそれ以上構うのをやめた。風邪を引いているのなら少し一緒にいるだけで治せばいいし、引きかけているのなら部屋に無理矢理押し込んでもいい。だが、意味の解らない質問を受けるし風邪を引いた様子もない。朝食の用意がしていないのなら、それ以上何もすることがない。

「なあ。何が俺なんだよ。さっきの質問、意味がわかんねぇ」

 ソファの上で頭痛と格闘しているコウに質問を投げるが、やはり返ってくることはなかった。

 今日のコウは取り付く島がない。確かにあれから気分が上向くことなく、不貞寝同様に寝入ってしまったが、それがなぜ深酒の原因になったかシキには見当もつかない。

「コウ。少し、外に出よう」

 元気の無いコウなど、それこそ異常だ。その異常がシキからコウを外に誘うという異常を誘う。

 頭痛を理由に断るコウを、頭痛を理由にシキは腕を引いた。引きずるように外に連れ出すと、それからはコウが自分で歩き出した。咄嗟のことだったので、布を羽織るのを忘れた。幸い、気温は低めだ。短時間ならば大丈夫だろうと、取りに帰ることはしなかった。上着も着ることなく、この寒空の下、開襟シャツ一枚で歩いていた。コウもシキとさほど変わらない格好をしている。

 一言も交わすことなく歩き続けたある時、目の前にあるものに目を疑い、二人同時に足を止めた。

 見覚えのある背の高い男が居た。よれたシャツにズボン。金髪に空色の瞳。見覚えがあるのはそこまでだった。その顔に浮かぶ表情は、コウは勿論シキでさえ知らない。

 シュウだ。

 一度はそう認識したにもかかわらず、何故か疑問が湧く。

 あれは本当にシュウなのか。

 狂々とした顔。とてもシュウのものとは思えない。シキが今まで見たことのあるそれとはかけ離れて狂っていた。居る世界も見ている世界も全く別の域だ。

 こんなシュウは知らない。

 何が起こるのか、シキは背筋に寒気を覚えた。中途半端にあの状態を知っている。だからこその不安。あの顔に引かれた禍々しいまでの笑みは一体何を言いたいのか。あの異様な光を持つ眼光で、何を見ているのか。何一つ想像がつかない。

 シキは渦巻く感情を抑えながら、シュウに近づいた。



 一度しか顔を合わせたことはないが、あの男はシュウに違いない。だが、纏う空気がまるで違う。虚無の塊のようだ。それか、禍々しいまでの歪曲。

 歪みに足を進めるシキを見て、黙っては居られなかった。

「シキ」

 不安。自身に対しては一度として感じたことのない感情。それが襲い来る。

 制止の呼びかけに、シキは振り返り、小さく首を横に振った。逆に制止された。来るな、と。

 コウには二人の関係が解らない。だから、介入することは最終段階でないと無理であると悟った。

 どう見ても狂っている人間の元に歩み寄っていくシキを、ただ見送っていいものか。消えない不安は、迷いを繋ぎ止める。

 その間にもシキはシュウとの距離を詰めていた。

 狂気に向かい、一歩ずつ、確実に。



 近づく間にシキは顔が強張っていくのを感じた。恐れる必要も理由も、本来は何処にもない筈なのに、自然と顔の筋肉が堅くなる。本能が彼を恐れている。けれど理性で足を動かす。あの時は顔も見たくないと言い捨てたが、今はそうも言っていられない。知らない人間ならいざ知らず、シュウがこんな奇怪な表情をして立っているのを放ってはおけなかった。

「シュウ。あんた、どうしたっていうんだ」

 自分のことは語ったがシュウのことは何も訊いていないシキにとって、その表情は断片的に見たことのある物であるに過ぎなかった。数日前会った時からは考えられないその変貌の様。何かあったとしか考えられない。

 シキから見てすぐ右側は建物の壁。左側には余裕があるが、決して広くはない。目の前のシュウに加え、両脇の壁からも圧迫感を感じた。

 一方シュウは、無言のまま立っている。問いに応じない代わりに一本線を引いたように口の端を上げるだけで笑っていたものが、歯を見せた。

 怖気を感じた。

 銃口を突きつけられても感じないその感覚が、今この時になって感じる。

「何か答えろよ! 何でここに居るんだ! あんたのその、……その表情、何なんだよ!」

 一方的に問い掛けるばかりでおかしな笑みしか返ってこないその状況に、シキは堪えがたい気味悪さを感じていた。同時に苛立ちが募る。

 遂に大きく一歩分だけ空けたところまでシュウに近づいた。いつもしていたようにシュウの顔を見上げる。シュウも合わせて見下ろしてきた。その時初めて、シュウの瞳の色が赤に見えた。見慣れた青ではなく、幻覚であるとは解っていても血のような赤に見えた。いくつもの夕焼けを束にしたような赤だ。

 ――コイツ、ヤク中なんてモンじゃない。そう言えば何か、何かあったような……。

 いつか聞いたシュウの言葉が、喉元まで出かかってきた。シュウはただおかしいのではない。そのことに、僅かずつ気づき始めていた。

「シキ。久しぶり。調子どう?」

 漸く口を開き、おどけたような言葉をかける。いつものシュウであるようにも思えるが、確実に違った物を帯びている。

「ここにいる理由とかそういうのはどうでも良いけど、あんた、何かあったのか?」

「別に? 今おまえが目の前に居るだけさ」

「シュウ。あんた、おかしい」

「おかしい? 何がおかしい?」

 見下ろしながら笑ってくるその口元。その目。何処が正常と言えようか。歪みきって大切な神経がいくつか切れている。

 緩やかな動きでシュウは左手を伸ばした。その手はシキの顔の輪郭に触れ、首に触れ、襟足の髪に触れた。髪を指に絡めて弄ぶ。

 シキはされるままで居た。それよりも、思い出したい言葉の姿をはっきりと見たかった。

磨りガラスの向こうにある物が見えない。それは何とも気分の悪い物だ。

「シキは物覚え良い方?」

 質問の意図が見えなかった。

 不可解に思い眉をひそめたその瞬間、シュウの歯が視界を覆った。


「これが一番抑えられるんだよ。もう……これじゃないと抑えきれないんだよ」


「おまえが抑えてるモンと、たぶん大して変わらないさ。……たぶんだけど」


「シュウ……!」

 記憶から磨りガラスが退けられた瞬間に鈍く激しい痛みが襲ってきた。シュウはシキの後ろ髪を掴むと同時に右手で左肩を押さえ、左側の首元に歯を立てていた。獣や吸血鬼の類のように犬歯が発達しているわけでもない、ごく普通の人間の歯が均等な痛みを持って皮膚を食い破っていく。切れない物に皮膚を割かれる痛みは尋常ではない。



「シキ!!」

 想像を超えたシュウの行動にコウは一瞬遅れてシキの名を呼んで駆け寄ろうとした。

 だが、

「来るな! 来なくていい!」

 叫びながら絞り出された言葉に、コウは足を止められた。

 噛まれている部分からやがて血が流れ始めた。歯が食い込むたびにシキは呻き声を上げる。

 やがてシュウがゆっくりと口を離すと、シキは元首を押さえて蹌踉めきながら一歩退いた。

 顔を上げたシュウの口周りはシキの血で汚れていた。その汚れを舌先で舐める。そしてまた笑った。

「シキ……」

「コウは来るな。これは、俺の問題だ」

「そんなこと言っても、おまえが食われるのを黙って見てろってのかよ」

「そうだ。黙ってそこに居てくれ。俺が死んだら、この莫迦を止めてくれればいいから」

「莫迦言ってんじゃねぇよ!」

「……本気だよ」

 シキはコウの方を見ない。彼は背を向けたまま、少しだけ頭を下げた。

 コウは奥歯を噛みながら、二人を睨む。今すぐにでも間に割って入ってしまいたい。だが、そうすればシキを踏みにじることになる。動くことは出来なかった。



 まだ出血も激痛も止まない傷を押さえ、シキは思い出したばかりの言葉を口の中で反芻していた。

 ――たぶん、今の状態がシュウが抑えていたもの。俺と居た時に殆ど見せなかったというなら、きっとそれはこの瘴気の所為。それが本当なら、俺はきっと、あいつの〝虚〟を殺してやれる……。

 激痛の覚悟。痛みには慣れているが、好き好んで得たいものではない。しかし、覚悟一つでシュウを正常に出来るのならば。

 シキは決心すると傷口から手を離し、顔を上げ、シュウを見た。

「前に言っただろ? 『美味いなら今度は喉にでも喰いつけ。飽き足りるまでもてなしてやるから』ってさ。美味いぜ? おまえの血。もっともてなせよ。その血で、俺を満足させろよ」

 まだうっすらと血で汚れた口が歪み、狂怪な笑みを生む。

 シキは半歩前へ出、シュウの胸倉を掴むと手前に思い切り引き寄せた。

「じゃあたっぷり飲めよ。飽きるまで喰えよ。気が済むまで味わえ!」

 シキの言葉を引き金に、並びの良いシュウの歯が頸動脈を狙った。

 皮膚の細胞が悲鳴を上げて千切れていく。血管も破れ、シュウの顔とシキの左半身を赤く染めた。

 今度はシキは声を上げなかった。顔を顰め、荒れる呼吸に喘ぎながら時折声を漏らす。それだけだ。シキは、両の腕で食いつく歯を更に自分に押し込むようにシュウの頭を抱いた。同時に、意識して瘴気を放出した。

 意識が白んでくる。

 焦点が合わない。

 自分の皮膚が破かれ、血を吸われる音が耳元でぐちゃぐちゃと聞こえてくる。一回食いついただけではなく、何度か位置を変えて歯を立てているようだった。痛覚が麻痺して、よく解らない。

 まだ、消せないのか。

 シュウの頭に回していた腕のうち左腕は落ち、右腕は辛うじて襟を掴んでいた。

 シュウはやっと口を離すと、シキのシャツで口を拭き顔を上げた。目を開けているのもやっとのシキを見やり、すぐ脇にある壁にシキの背を押しつけた。冷たい壁がシキの体温を急速に奪っていく。首や肩から流れる血と共に、体温が流れ出していくようだった。

 シュウの指は、シキの首に向かった。

「その血が無くなるまで啜ってやりたい。この息が止まるまで喘がせてやりたい」

 もう少しで唇が触れ合いそうなほど近くで、シュウが囁く。

 シュウは喘ぐシキの喉に触れ、彼の気管の部分を指で強く押しながら上から下へとなぞっていく。指の力は強く、呼吸が疎外される。



「シュウ……」

 やっと出した声を自分で聞く前にシキの意識は無くなった。シュウの襟を掴んでいた右手は、彼の首、顔の輪郭に沿って触れながら落ちる。身体は壁に沿って崩れ、シュウの足下に倒れた。

 シュウは足下に転がるシキを見下ろし、表情のない顔をしていた。少し前まであったあの狂々とした顔は既に無い。何があったか解っていない風でもあった。



 ――俺は、何をした……?

 体温が氷水に放り込まれたかのように急激に低下した。

 目の前に倒れている血まみれのシキ。既に意識はない。

 今突然意識が回り出したように、数秒前までのことが何も解らない。状況を理解するための情報が、まるで足りない。

「あんたな! ふざけてんじゃねぇよ!」

 全力で駆けてきた男の存在に気が付かず、飛んできた拳を顔にまともに喰らい、尻餅を付いた。驚いた顔で彼を見上げ、そして倒れているシキに目を移す。

「シキが止めたから我慢してたけど、シキは倒れちまったし、限界なんだよ! 自分で何やってるか解ってんのか? あんた、シキを殺す気かよ!」

 あの時、シキの横にいた男だ。コウ、とか言ったか。

 何も答えないシュウに向け、彼はコウは銃を抜き、構えた。

「シキからあんたの話聞いてなかったら殺してる所だ。でも、これ以上シキを傷つけるなら、今度は撃つからな」

 吐き捨てるように言うと、コウは銃をしまいながらシキの側に屈んだ。彼はシキの上半身を少し起こすが、完全に意識を失っていて反応がない。傷口は見るに耐えない有様だった。

「俺が……シキに何を……」

「キレたあんたに喰いつかれて倒れてるんだ」

「そんな……」

 シュウは立ち上がろうとしたが、先程の一撃が足に来ているらしく思うように足が立たない。だましだまし立ち上がり、シキの元へ寄った。

 コウに抱えられて険しい顔をして気絶しているシキが居る。首や肩は勿論、左半身はシキ自身の血液で真っ赤に染まっていた。顔にまで血が飛んでいる。

 シュウは思わず自分の顔に手をやった。そこに、何かぬるりとした物が付いている。指で触れ、見てみると血であった。シキの血であることはすぐに分かる。目の前で血だらけになっているシキ。その首にあるのは噛み傷。綻びた布のように千切られた皮膚。そしてシュウ自身の口元に残っていた血液。そこまできてやっと、狂気に我を忘れて行った自らの凶行を理解した。

「シキ……!」

 シュウはシキに触れようとした。だが、その手はコウに払われた。

「あんた、何なんだよ。イカレてるかと思えば急にまともになるし。言っただろ。今度シキに何かしたら撃ち殺す」

 今の状況で信じて貰える要素など無い。振り払われて当然だ。

「信じられないのは解る。けど、今だけ……シキをどこか横にしてやれるところに運ぶまで、居させてくれ。どのみち、あんたじゃシキは運べないだろ?」

「俺じゃ無理だとしても、あんたじゃなきゃいけない理由はないね。引きずってだって何だって、俺に出来ることはある。あんたには頼りたくない」

 そう言うと、コウはシキの右腕を自分の肩に回し、立ち上がった。シキの身体を支えるために左腕を胴に持っていく。二人の身長はほぼ同じ。シキは気絶したままなので、そのまま引きずるのは無理があった。だが、シュウの方は見向きもせずにコウは歩き始めた。

 少しずつ遠ざかっていく二人を見て、シュウは諦めを考えた。だが、身体に少し前にシキに抱えられた感覚が甦り、はっとした。やっと繋がった記憶を必死で攫った。

 シキがされるままで居た理由。わざと頭を抱えてきた理由。そして、二人で居た時に感じていたあの心地よさ。それが瘴気の物であると気付いて、疑問になっていたそのことの理由が解った。

 そこまでしてこの狂気を殺いでくれたシキを、ここで見放すわけにはいかない。コウは自分と同じく瘴気が害にならない体質と聞いている。また、同じようにシキの虚との相乗効果で彼の傷を癒すことも出来るだろう。同じ体質、同じ効果をもたらす体質であるが、コウだけに押しつけるわけにはいかない。あの傷はこの狂気の、自分自身の所為であるのだから。

 気が付くとシュウは駆け出していた。二人を追って、走っていた。

 そして、コウに引きずられているシキを攫うように抱えた。

 捕まえた。



 護っていたものを急に奪われ、コウは目を剥いた。

「あんた!」

 銃に手を掛けたが、シュウは気にせず歩いたままだ。

「あんたの家、案内してくれよ。俺はこのまま、シキから離れるわけにはいかないんだ」

「どんな理由だ、それ」

 確かに一人でシキを連れ帰るのは無理があった。不安も不満も残るが、ここはシュウに任せることにした。いつでも撃ち殺す用意はある。もし悪い予想が当たったのなら、自慢の早撃ちを披露してやればよいこと。

 家に着くとシキの血塗れのシャツを脱がせ、血の汚れを拭って傷の手当てをした。元首は上手く包帯が巻けないのでガーゼをテープで留め、首はガーゼの上から包帯を巻く。最後に新しいシャツを着せてベッドに寝かせた頃に、シキがうっすらと瞼を開けた。

「シュウ? そこに居るの……」

「ああ。俺だよ」

 良く物が見えていないようにシキの焦点はなかなか定まらない。床に膝を付いたシュウが目の前に顔を出しているにもかかわらず、視線が泳いでいた。

「シキ。悪かった。おまえをこんな風に……」

「悪いと思うなら手ぇ貸せよ。いくら治りが早いっていっても、痛いには違いないんだ。ほら……」

 不器用な催促にシュウは戸惑っている。

 手を貸せ。

 文字通り、手を貸してやればいい。コウがするのと同じように、シュウがそうしても傷は治るのだろう。それをシュウは解っていない。

 後ろから、シキの手を指差した。少しの間をおいて、シュウはその手を握った。包帯の上から手袋をしているその手。同時に安心したようにシキは瞼を閉じる。

 やがて寝息が聞こえてきた。

「なあ、手を貸せって?」

 解っていないで言われたとおりにしただけらしい。

 高い位置から甘えたがりの寝顔を見下ろした。丸まらず、落ち着いたように眠っている。昨日の夜とは大違いだ。

「たぶんあんたも掛けるとプラスになるマイナスを持ってるんだろ。『虚は虚を埋める』。シキが言ってた」

「あんたが、シキに翼をやった人?」

「少しは話聞いてるんだ? けど、名前は聞いてないみたいだな。あの黒い男も言ってなかったのか?」

「ああ。名前は聞いてない。けど、あの時シキが〝コウ〟って呼んでた」

「良く覚えてやがる」

「俺はシュウ」

「知ってる。シキから聞いた」

「へぇ。……シキの奴、もう片方の羽、欲しがってたぜ?」

 くだらないことを。

 不快な顔をして今度はシュウを眺め下ろす。

「それは俺とシキの契約だ。あんたに口出しして貰いたくないね」

「別に口出しなんか……」

「とにかく、一つ言っとく。俺はまだあんたを信用した訳じゃないんだ。ある程度シキが落ち着いたら、こいつから離れろ」

「ああ。解った」



 不審を買うのも無理はないと素直に返事を返した。そして、視線をシキに戻す。今までに見たことのない、無防備な寝顔だ。身体の無防備さはさらけ出しても、表情のそれは初めて見た。安心している顔だ。

 コウもシキに視線をやると、ベッドのヘッドボードの上に右腕を置いて寄り掛かり、左手を差し出して傷の上をそっと触れた。シキの顔が険しい物になるがそれは一瞬のことで、すぐに元の寝顔に戻る。その寝顔が、徐々に穏やかに、気持ちの良さそうなものに変わっていった。時折身体を微動させ、やって来る感覚に甘んじている。

 シュウはコウの手元とその付近から目が離せなかった。見えない包帯の下で、きっと何かが起こっている。傷が音を立てて塞がっていくのが見えるようであった。

「そろそろいいだろ」

 そうすること一分。その一分さえも経つか経たないかくらいでまずコウが手を離した。約束通り、シュウもそれに倣って手を放す。

「下に来い」

 ぶっきらぼうに言い放ってコウは階段を降りた。シュウはシキが気になりながらも、その後について一階に下りる。

 散らかったテーブルの上にはウイスキーの瓶とグラスが一つ。酒宴と言うより、自棄酒でもしたかのような残骸だ。コウが手際よく片付けたため、あっという間に何事もなかったかのようになったが、昨晩は二人のうちどちらかが荒れていたらしい。

「座れよ」

 シュウと視線を合わせる気など全くない様子で、コウは一人がけのソファに腰を下ろした。

 ――随分嫌われたな……。まぁ、仕方ないか。

 一応遠慮がちな物腰で二人がけソファの真ん中に腰を下ろした。コーヒーの一つも出てくる様子はない。もてなす気がないことを露骨に現れている。

「シキから聞いてるって言っても、俺が知ってるのはあんたの名前と、シキと暫く居たって事と、服のセンスがいいって事くらいで、後はなんにも知らない。まず一つ教えろよ。何でシキにあんなことした?」

 いきなりみぞおちに一撃が来たかのような質問だった。まだシキにも話していない事実をここで話すと二度手間になって面倒だと、頭の中で声がした。

「それは、シキが起きたら話すよ。まだ、あいつも知らないことだから……」

「今ここで話せよ。あいつにはまた後で言えばいいだろ」

「でも……」

「あんた。面倒臭いとか思ってるんだろ?」

「ああ。まあ……」

「ったく。どいつもこいつも面倒くさがりでヤになるぜ。いいよ。シキと二人で聞いてやるから、絶対話せよ」

 どうやらシキと一緒にされているようだ。彼の面倒臭がり屋ぶりはここでも有名らしい。

 知らない家の中。慣れないソファに腰掛けて、何故か安堵していた。色々あったが、またシキが居る。薄汚れた包帯と手袋も相変わらず。

「なぁ。あいつの手袋の下。一体何の傷があるんだ?」

「傷だって解ってるだけで充分じゃないか」

 コウの口調はあからさまに苛立っている。先程背中の羽のことを聞いた時も妙に苛立っていた。過去と言うより、その関わりの中に入って欲しくないようだ。

「前に聞いたら左手の方を隠してたから、右手のはフェイクだと思うんだけど、どうせ俺が聞いても話してくれないし」

「本人が話したくないことを俺に話せって言うのか?」

「本人じゃないから話せるって事もあるだろ」

 食い下がる。この様子ならば、コウはあの手袋の下を知っている。

 卑怯だが、本人が教えてくれないことは他人に訊くほか無い。

 シュウは視線に痛みを感じながらも、ジッと堪えていた。コウの信頼を得るのが第一。そうしないことには、話が進みそうになかった。

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