第24話

「ねえ、アキ。教えて」

 通りかかったアキを、トイは部屋に連れ込んだ。部屋はだだっ広いルイレンの屋敷の一角にある。手招きするのではなく、服の裾を掴んで引きずった。

「どうした、突然」

「アキは知ってる?」

「何か言ってくれないと解らない」

 彼が敬語を使うのはルイレンだけだ。しかし、その敬語がまるで意味を成していないのをトイは知っている。アキの意図は定かではないが、少なくとも組織の主は嫌がっている。

 ルイレンよりも高い位置から、彼は見下ろしてくる。嫌味はない。寧ろ優しいくらいだ。

「ルイレンは何を持ってるの? 何が欲しいの?」

「そんなことを……」

 訊くのか、と言いたげにアキは眉尻を落とす。

「知ってどうする。おまえにくれてやれる物でもないだろ」

 違う。何かしたいわけではない。

「アキは、いいよね」

「何が?」

 羨ましい。

「ルイレンに、欲しいと思われてるもん」

 欲されたい。繋がれたい。

 どう足掻いても、この関係性は今以上の繋がりが生まれるわけもない。浅くなることはあっても、深くなることはない。いずれ何らかの形で、彼は離れていく。その予感は常につきまとった。

 だから欲しい。

「他に、ルイレンは何を持ってるの?」

「おまえに教えるようなものは何も無い」

 裾を掴む手を払われた。何かを感じ取ったのか、アキはトイを一瞥して立ち去った。部屋の扉が、乱暴に閉められる。

 残された部屋に立ち尽くしたまま、トイは扉を睨み付けた。

 知らないと思って。

「……嘘吐き」

 くれないならば断ってやる。自分が得られない物を持っている者など、消し去ってやる。

 人間の証としての強欲が、喉を焼きながら上がってくる。

 もう戻れない。

 欲を覚えてしまった。

 人形には、戻れない。


   *


「何だ今頃」

「だから、あんたの仕事の仲介屋の男って、どんな奴?」

 二人が顔を合わせるのは決まって居間のテーブルを挟んでだ。今日も例外なく向かい合って座っている。ただ、今回はコーヒー付きではない。銃の整備も終わり、テーブルの上には今は何も無い。

 ガタ、と窓ガラスが鳴った。今夜は風が強い。雲も厚く、月は時々顔を見せる程度だ。雨が降り出しそうな、そんな湿度もある。

「そんなこと訊いてどうする? おまえのことだ。仕事を探すフリでもしてそいつを殺すんだろう」

「それも考えたけどさ。けど、万が一会った時、いろいろ選べるじゃん? それに、あいつのダチが狙われる理由も、ちょっと知りたいし」

 そう言いながら、選ぶ選択肢など何も持っていない。目の前の殺し屋には既にバレている。後者は本音だ。だが、もう前者の答えは出ている。これも恐らくバレている。

 嘘を吐くのは苦手だ。すぐ顔に出るし、我慢が効かない。昔からそうだ。

 フォルトには言う義理も言わない必要もない。だから、きっと答えてくれる。黙っていると余計に煩く絡まれると知っている。だから、きっと口を開く。

「俺より小さくてひょろっとしてる、明るめの金髪の奴だ」

 案の定。

 だが、答えに満足は出来ない。情報が断片的すぎて、たとえその人物が目の前に出て来たとしても特定は難しい。

「なーんか、割とどこにでも居そうって感じだなぁ」

 シュウは頭の後ろで手を組み、椅子にふんぞり返った。椅子の二本の足と爪先でバランスを取り身体を揺らしながら、口を尖らせる。

 それ以上何を言えというのかと言った顔でフォルトはそんなふてた顔を見ていたが、少しして、

「そういえば……」

 言葉が続いてきた。

「一番の特徴って言ったら、青緑の目ぐらいだな」

「な……!」

 それを聞いてシュウは危うく椅子ごとひっくり返るところだった。崩れたバランスを机を掴むことで取り戻し、椅子も合わせて六本の足を床に着ける。

「青緑って言ったか? 本当に青緑なのか?」

 食い入るようにフォルトの顔を見る。シュウが何を興奮しているのか全く解らず、フォルトは面倒臭そうに返事をするだけだ。

「ああ。青緑だ。見ない色だから、会えば分かると思うぞ。だが、存在感が余りに希薄でな。俺でも感じ取るのに苦労するくらいだ。おまえが見つけられるかどうか……」

「青緑って……そんな……」

 シュウはもう自分の世界だ。興奮し混乱する自分をどうにか自制する。

 手を揉み、すりあわせ、口に持っていったり組んでみたり。視線は一定の場所に定まらず、右を見たり左を見たりと忙しい。

 フォルトの言う通り、青緑の瞳など、そうそう居るものではない。そんな珍しい色が、記憶の中に一つだけ鮮明に生きている。もし予想が外れていないのなら、あの夜に会ったのも見間違いではなく、確かに彼だったと確信出来る。そしてフォルトと彼が繋がっているのなら、会うことは不可能ではない。むしろ可能性は高い。

 そう考えると落ち着きはますます離れていく。興奮は増すばかりで手に負えない。

「知ってるようだな」

 憮然とした顔でフォルトは落ち着きを失ったシュウを見ていた。

「ああ。知ってるも何も、たぶんそいつ、カズなんて名前じゃなくて……」

 突然玄関の方から聞こえた激しい物音が、シュウの言葉を断ち切った。想像するに扉が破られた音だろう。

 反射的に二人は銃を手にし、玄関から居間への入り口となっている場所へ銃口を向けた。

 足音は一人分しか聞こえない。しかも、妙にゆったりとした足取りだ。前日押し込んだところの残党かとも考えたが、それにしては緊迫感のない歩き方だ。

 正体が掴めない。二人はただ、その足音の主の姿が現れるのを待っていた。

「銃を降ろせ。俺だよ」

 声が先行してやってきた。先に銃を降ろしたのはシュウの方だった。

 すぐに姿が見えた。明るめの金の髪、フォルトより少し背の低い痩身。そして、青緑の瞳。その珍しい色を湛えながらも、その存在は希薄であった。

 懐かしい顔だ。背が少し伸びたようだが、童顔は相変わらずだ。

 炎と煙に巻かれた夜、どうしても連れ出せなかった。最後には自分の命を優先させて逃げ出したあの日。建物と共に灰燼と帰したとばかり思っていた顔が、目の前に現れた。

「トイ!」

 シュウは叫んで思わす立ち上がった。破顔したシュウに対して、トイが向けた目は冷たい。蔑みさえ込めて、目を細めている。

「シュウか……。まだ居たんだな、ここに」

「トイ。おまえ、あれから何してたんだよ。俺、てっきりあそこで死んじまったんだと……」

「そんな話をしに来たんじゃない」

 シュウの言葉を掻き消すトイの声は、何処までも冷たい。足下から忍び寄る冷気のように重く、芯から確実に冷やしていく。

 怖気が走った。何かがおかしい。素っ気ないのは今に始まったことではない。しかし今は、そこに敵意さえ感じる。

「じゃあ、一体何しに……」

 理解が及ばず、困惑が喉を震わせる。

 問いかけの答えとしてまずやってきたのは、呆れたような溜息だった。



フォルトは警戒を解くことなく引き金に指をかけていた。ドアを蹴破って入ってきた男が仕事の仲介屋でなければ、感動の再会を少しは喜んでやるところだが、状況はそうはいかない。シュウは疑問にも思っていないようだが、何故こんな形でカズ――トイがここへやってきたのか。

 用事があるのならばドアをノックすればいい。しかし彼は強引に中に入ってきた。

 良い予感がするはずもない。

 実のある質問を何も出来ないシュウに代わって、フォルトが口を開いた。

「おまえ、何しに来た。仕事の話は外でと決めているだろう。招いた覚えもない。ドアは修理してくれるんだろうな」

 過去に囚われ、悪い事への想像が遮断されているシュウに一喝することもかねて、フォルトは疑問を投げた。

 冷たい青緑が、シュウからフォルトへと移る。

 生唾が喉奥を静かに流れていった。

 彼がこうしてここへ来る理由。仕事以外にないとしたら、何を言いに来たのかは聞かずとも解る。

 自分から色が引いていくのが嫌でも解った。



 待てよ……?

 沸いた頭が冷静さを取り戻しつつある。正常な思考は現状に違和感を覚え、警告を発している。

 顔から、笑みが引いていく。

「トイ……。おまえ、何で俺がここに居るって知って……」

「まず、ドアを破られたことの方を言及したらどうだ」

 フォルトに言われ、それもそうだ、と思う。

 人様の家のドアを蹴破るのは礼儀に反する。悪意があれば話は別だが。

「この前の依頼のことか」

 その質問に、一昨日のことを思い出す。主目的はトレ・タルパの殲滅だったが、結論を言えばフォルトは一度仕事を失敗している。仕事のために行ったのではないというのは事実だ。依頼主がそう受け取ってくれれば楽ではある。望みは薄い。

「仕事……? ……ああ、仕事ね」

 言われた始めて思い出したように、トイは何度か首肯する。その様は、まるで興味がないようで、どうでもいいとさえ言いたげである。

「失敗したんでしょ? 逃げられちゃった。でも、そんなの、どうでもいいんだ。依頼主は死んだし、俺にはそもそも関係のないことだし」

「どうでも、いい? 依頼主は死んだって、どういうことだ」

 トイとフォルトの間で、シュウは目を泳がせた。自分が知っているトイとは何か違う。過去と現在との差違を探す間に、二人の会話は進んでいった。

「賭け事下手な癖にいい気になるからいけないんだよ。その尻ぬぐいを俺にさせようなんてするから。でも、数ばっかりでまるで頭が無い部下揃えて、ふんぞり返ってるのももう見なくていい。殺してくれたのはあんたたち? それとも、シュウの新しい友達と今回の仕事の対象だった二人連れ?」

「まるで見てきたように言うんだな。じゃあ何だ。依頼主はトレ・タルパの人間か」

「うん。そこのボス。元・黒狼幹部」

 黒狼。その単語に心臓が跳ねた。

 賭け事と黒狼。身に覚えがある。腹を撃たれ、危うく死にかけた。幸運にもシキに助けられ、現在に至る。

 当時ヘマをしたのは自分の方だった。一撃を食らい、死んだものと向こうは思ったのかも知れない。まさか、トレ・タルパと黒狼がそういった関係性とは知らなかった。今回、執拗に追われていたのはシキのとばっちりだと信じたい。

「ひとまとまり任せられたからって認められたんだと勘違いしちゃってさ。ルイレンに厄介払いされただけなのに。可哀想な奴」

 でもね、とトイは続ける。

「俺にはそんなのどうでもいい。だから、ね。死んで?」

 脈絡を失した言葉に眉を顰めている間に、トイはフォルトに向け銃を構えていた。

「トイ! 何の真似だよ! 何でフォルトを殺す必要があるんだ。どうでもいいんだろ? それに、おまえの持ち手は今、誰なんだ。タルパの親玉がそうだったのか?」

 青緑はシュウを見ない。フォルトに視線を置いたまま、

「もう人形じゃなくなった。全部、ルイレンの所為だ」

 表情が心なし辛そうに見えるのは錯覚だろうか。

 そして、ルイレンというその名。黒狼を束ねる者の名であり、詳細は知らないがシキが気に留めている男の名でもある。

「じゃあ、おまえ、黒狼に……」

「組織なんてどうでもいい。問題は、それが誰か、ってコトだけだと思わない?」

 同意を求められても困る。そもそも、生き方がまるで違う。理解しようにも及ばない。

 横目でフォルトを見れば小さく首を振った。彼もまた、その事実を知らなかったらしい。

「ルイレンの差し金か。顔も合わせたことのない男から恨みを買った覚えはないが?」

「なに。本当に知らないんだ?」

「知らないって、何をだ」

「ずるい。ずるいよね。俺が欲しくても得られないものを持ってる癖に、それを知らないんだ」

 シュウにもトイが何を言っているのか理解できなかった。彼が何かを欲しがるのを見たことがない。生きていられればそれでいい、といつも同じ事を言っていた。その彼が欲しがるものが何か、まるで見当が付かない一方、可能性を上げればきりがない。

 ――ん……?

 ふと見たフォルトの表情が険しいことに気が付いた。

 銃を持つ手が小刻みに震えている。引き金に掛かった指が、痙攣しているかのようになっている。

 こちらはこちらでおかしい。

 フォルトは相手がシュウの知り合いだからと言って躊躇う男ではない。それが、この危機的状況で、指を曲げられずにいる。

 そもそも、来た時から銃を突きつけられているトイは、始めから不利な筈であった。それなのに今ではこちらに銃口を向けてさえ居る。本来ならば、構える前に撃たれてしまう。だが、まだ彼は生きている。



「要らないなら、俺に頂戴よ。知らないんだろ?」

「何のことか解るように言え!」

 声を荒げることは相手に動揺を伝えることになる。そんなことを考える余裕も無くなりつつあった。

 何故か引き金が引けない。指が動かない。

 時間を稼ぐ。その為だけに会話を続けた。

「繋がり。誰かとの繋がり。俺は誰とも繋がってない。糸を持ってくれる人が居るだけ。でも、今は持って貰うための糸も失くしちゃった」

「繋がり? それが何だって言うんだ。友人ならこのデカイのが居るだろう」

「そんな死ねば消えるような糸なんて要らない。もっと、濃いもの。濃くて、自分では振り払えないもの。後天的に得られないもの」

 それは、

「血の繋がり」

「それと俺を殺そうって言う理由と、何の関係がある」

「ルイレンとあんた。半分だけど、関係あるだろ」

「莫迦な……」

 直視してくる特異な色は、少しもずれない。彼は、本気で言っている。

 しかし、何を言われているのかまるで理解できなかった。

 ルイレンの顔は知っている。人種は近いのだろうと思う。だが、それだけの話だ。面識もなければ、何の関係性もない。

 トイが何か思い違いをして、それを真実と思い込んでいるだけだ。そうでなければ、自分が知らないだけと言うことになる。

「ずるいだろ? だから、俺が断ち切るんだ。ルイレンが、俺のこと捨てないように」

 無茶苦茶だ。そんなことで一々殺されたのではたまらない。

 殺せ。まだ、死ぬわけにはいかない。まだ、見つけていないのに。

 しかし、撃てない。

 撃つことが出来ない。

 指が凍ったように硬直し、挙げ句、上げた腕を下ろしそうにさえなっている。

 ――こんな事がある筈がない!!

 焦りは空転し、ますます手が震えた。

 シュウの助けは期待していない。あの男に、旧友を撃つことなど出来ないのは解っている。それを責めるつもりはない。この指が、引き金を引けさえすれば状況は変わっていたはずだ。

 目の前の男を睨み付けた。この数分で見飽きた青緑。今は少し湿り気を帯びて、宝石のようにさえ見える。

 ――そう言えば、〝彼女〟もよく、こんな泣きそうな目を、していたな……。

 幼い頃の記憶。それと重なり、少しだけ気が緩んだ。

 ああ、そうか。似ていたのか。

 銃声がした。最後までフォルトは引き金を引けない。迫り来る弾丸に、身を曝していることしかできなかった。



 やがて死を纏った小さな凶器はフォルトの心臓から少し外れた場所を抉っていった。彼は反動で後ろに少し飛び、倒れる。

 シュウは慌てて駆け寄るが、手遅れであることはすぐに分かった。胸を押さえる手の指の間からは止めどなく鮮血が溢れ出ている。口から血を吐き、瞳孔も開きかけていた。

「……」

 その状態のフォルトがシュウを見て僅かに口を動かした。聞き取れない。彼の口に耳を寄せると、

「おまえは、あの男の所へ……行け」

 耳に届いてきたのはそんな言葉だった。微かな吐息を耳に感じ、それきりになった。

 身体を起こせば、フォルトは薄く目を開いたまま動かない。死んでいた。

 未だに血の海は広がり続けている。その中に沈み行く彼の瞼を、そっと閉じてやった。

 一方的に巻き込まれたはずなのに、何だかんだと手も軒も貸してくれた。狂気を抑えているときも気に掛け、最後はこの先を気遣うような言葉を遺して逝った。出来た人間だ。

「誰か一人くらい、俺を撃てる奴居ないのかよ」

「おまえ……!」

 感情の線が一本切れたようだ。

 立ち上がり様にシュウは銃を向けた。狙うは眉間。向けられた方はまるで構う様子もなく、自分の銃を腰に差している。

 他に誰も居ないかのように。無視しているという程度ではない。無視するには意識が要る。その意識を、トイは持っていないかのようだ。

 シュウは唇を噛み締め、叫び出しそうになる自分を抑えながら、目の前に居る男を睨む。銃を向けたのはこれで二度目。一度目は始め、トイだと知らなかった。しかし、今回はどうひっくり返って見ても、目の前にいるのはトイ本人であることに違いないのだ。そうと理解して尚、彼に銃を向ける激情が熾っている。しかし、怒りと憎しみさえ混じる感情を持っても、引き金を引くことは出来なかった。

「やめとけよ。どうせおまえに俺は撃てないんだから」

 見透かしたようにトイは言う。

 そんなこと、自分が一番よく知っている。結局、衝動に駆られても、引き金に掛けた指を最後まで絞ることなど出来ないのだ。衝動さえ、トイの前では消える。消されているのではない。自ら、手を引いてしまう。

 シュウは悔しさに口を歪ませた。まだ覚悟が足りない。トイを撃ち抜くほどの覚悟など、何処にもない。

「トイ。おまえ、本当に黒狼に居るのか?」

「居るよ? でも、俺はイヌじゃない」

「おまえ、それでいいのか? 今からだって違う生き方……」

「シュウは、俺の持ち手にはなってくれないだろ?」

 昔のことを思い出し、シュウは口を閉じた。昔も似たようなことを言った。違う生き方が出来るだろう、と。しかし、同じように疑問で返され、言葉を塞がれた。

 友人にはなれる。今でも友人のつもりだ。だが、主従の関係にはなれない。そんな形は、望んでいない。

 目線が落ち、やがては右腕も落ちた。

「結局シュウも変わってない。俺を撃つことも出来ない」

「何で俺がおまえを撃てるんだよ……」

「シュウは、ルイレンともそこの男とも違うだろう? ルイレンが言ってた。シュウは、世界を冒す痛みすら感じてないって。さっきあんな事言って何だけど、それなら、俺を撃つくらい、楽だろう?」

「シキのことか? ルイレンはそれを知ってるのか? それに、それとおまえと何が関係あるんだよ」

 シュウの言葉に、トイは落胆したように溜息を吐いて視線をずらした。

「シュウは、それすらも気付いてないの?」

 まるで吐き捨てるような言い方だった。どんな事実がトイにそんなことを言わせたのか、シュウには解らない。ほんのりと苦渋を滲ませたトイの表情が、痛々しくさえある。

「何だよ。何があるってんだよ」

「その位、自分で気付け。莫迦」

 トイはシュウに背を向けた。もう取り合う気はないことを示された。

「さっさと身の振り方決めた方がいいんじゃないか? そろそろだろう?」

 顔も見ずにそんな言葉を残したトイを、シュウは呼び止めることすら出来なかった。フォルトの死体の隣で立ちつくし、去ってゆく影を追うことも出来ない。足が床に張り付いてしまったように、びくともしない。そもそも、思考そのものが機能停止になりかけていた。

 トイの言った通り、限界でもある。だが、脳の活動がこんなにも足踏みしているのは、この短い数分間の中であったことが余りにも起伏に富んでいた所為だ。

 混乱と焦燥。心を乱すほどに、〝アレ〟は口角を上げて表面に浮いてくる。

 じわりと、喉の奥が焼けるような感覚がした。次は後頭部の辺り。得も言われぬ熱の痛みが自然と呼吸を荒くする。

 今や耐える理由がない。このまま乗っ取られたとして、傷付けたくない者はここにはもう居ない。

 抑える必要などないのか。

 引き留められず、救うことも出来なかった。

 疎ましい、役立たず。

 後頭部が痺れる。塩水に溺れる苦痛から逃れようと、大きく息を吸った。

 ――楽に……。

 放心するのと同時に、抑圧されていた反乱分子が身体を冒していった。

 浸食はあっという間だった。

 焦点は全く関係ない遠くに定まっている。目が乾くのも構わず、瞬きを忘れていた。

 そのうち、喉や頭に感じていた痛みは無くなっていった。耐えるのをやめた、その代わりに堪えきれない物が溢れ出してくる。

 消えていく。

 塗り替えられていく。



 シュウは僅かに俯くと、口角を上げて得体の知れぬ奇妙な笑いを浮かべた。狂気に恍惚とした狂怪な表情がそこにある。

 そうなった彼を躊躇わせる物は何もない。理性を喰われた彼を止められる物はここにはない。

 彼はゆっくりと外へ出た。

 厚く空を覆っていた雲は、強い風に流されて消えていた。頭上には高く登った月がある。もう少しで満月になる。真っ白で大きい、それは冬の月と似ていた。その月明かりの下で、狂人が一人、月よりも鋭利で闇よりも残酷な笑みを湛えている。全ての負をその禍々しい口元で歪めている。

 彼は操られるように身体の向きを変え、呼び込まれるように闇に消えた。

 その直後、再び雲が強い風に運ばれ、透き通るような月を覆い隠した。地上に降る灯りは途絶えた。

 まるで彼を送るためだけに顔を出した月は、もう黒雲の中。

 素知らぬ顔をして見下ろしていた月は、もう見えない。

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