第23話

 詰まる所、気が向いた。そういうことだ。

 シキとコウは出掛ける準備をしていた。

 あの大雨の夜から二日。地面も乾き、いよいよ暑さを忘れ始めている。

 その二日間、何をしていたかというと、二日酔いと戦っていた。出鼻を挫かれた初日、自棄酒も兼ねて二人で瓶と缶を呷ったそのツケだ。

 翌日の夕方近くに空き瓶と空き缶に埋もれて目が覚めた時は、身体が拒否反応を起こして危うくその場で吐く所だった。酒のラベルを見ると、それだけで気分が悪くなるような気がして、辛い身体を押して散らかった宴の後を始末した。

 一日の静養期間を設けて、今日。シキはシュウから貰ったジャケットを着込んだ。

「なぁ、そろそろ洗えよ、それ。折角モノがいいのに勿体ないぜ?」

「また買って貰うから良いよ。面倒だし」

「買って貰うって、誰に」

「……ああ。誰だろ」

 安易に「また」などと言ってしまったが、シュウに会う気などさらさら無い。強請ればコウが買ってくれるかも知れないが、ここ最近の稼ぎで自分でも充分に買える。要は自分で選ぶのが面倒なだけなのだ。そして、わざわざ洋服屋にシキを引っ張って選んでくれるような人間は、皮肉にもシュウしか居ない。

「またシュウって奴に買って貰え。そいつ、結構いいセンスしてるから」

「だから、あいつにはもう会う気はないんだって。ここで会ったら何のために逃げ出してきたかわかんないじゃないか」

「でもおまえ、今の生活に満足してるフリしてるだけみたいだけど? そいつじゃないと駄目なこと、あるんじゃないのか?」

「……そんなの、あるんだったら逃げてない。俺はコウと居て楽しい。おまえと居た方が、気楽だし」

「ふうん。まあ、嵐の後の嵐ってのもあるから、気を付けな」

「なんだよ、それ」

「来なきゃ良い物だよ」

 また意味深な発言をする。物言いは基本的にはっきりしているのに、重要なことほど解りにくい。自分で理解しろと言わんばかりだ。

 ジャケットの襟を立て、首元に寄せた。今日は少し風が冷たい。寒く感じるのは、夜になりかけているからでも、風の所為だけでもない気もした。この気持ち悪い薄ら寒さをどうにかして忘れたい。

 体温の高そうなコウを横目に、一人極寒の別世界に放り込まれた気分になった。

 そして、「次はハーフコートがいいな」と何となく思っている自分に気付いた。


   *


 気が向いた。理由はそんな所だ。

 天気が晴れたたからとか、心地よい寒さが良いとか、そういうのは余り問題ではない。要は気分の問題だ。

 目覚めが良く気が乗った時に動くのが一番、良い結果を招く事が多い。

 相方も頷いてくれたので、今日にした。

 シュウは夜になりつつある空を窓越しに眺めていた。

 不思議な空だ。穏やかなのに激しい。そんな矛盾を含んだ群青だ。気のせい程度の寒気さえ感じる。

「ぼやっとしてないで、自分で使う銃くらい自分で整備しろ。事故っても責任負わないし、見捨てるぞ」

「ああ」

 ざわめきを得る空から目を外した。投げつけられた弾丸の箱を取り、マガジンケースに弾を詰めていく。リボルバーにも一応弾は込めて腰に差すが、今回はお休みだ。相手の規模が中途半端に大きい分、それだけの人数を相手する為にリボルバーは向かない。

「ねぇ、フォルト。出かける前に、コーヒー一杯」

「最近浴びるように飲んでないか? しかも濃すぎて舌がおかしくなるようなのを。水じゃないんだから」

「いいだろ、別に。ちょっと、……中毒なんだよ」

 二人で分けないときは、インスタントを入れるようにしている。味の調節が出来るからだ。フォルトに「どうかしてる」と評された苦いだけの液体で、この数日を凌いでいる。

 台所でカップに粉を入れる手が小刻みに震えた。粉の瓶を置き拳を作っても、震えはいっそう酷くなるだけだった。一杯分の湯が沸くまでの間、言うことを利かない右手を左手で包んだ。

 この一件を片づけるまで狂い出すわけには行かない。早く、早くこの震えを止めて欲しい。コーヒーなんて気休めにもならない物ではなく、もっと確かな特効薬を。

「沸いてるぞ」

 声を掛けられて初めてやかんの口から勢いよく蒸気が出ているのに気が付いた。

 火を止めようとした時にはフォルトが横からカップに湯を注いでいた。

「ほら、飲め。ヤク中みたいに青白い顔して大丈夫か」

 握っていた手の上に、熱いカップの底を当てられて思わず振り払ってしまう所だった。

「ヤクなんて……」

 受け取ったコーヒーを、まだかなり熱いにもかかわらず口に流し込む。液体は喉を焼くようにして胃に落ちた。胃壁を舐めてそして消えていくのを感じた。やがて身体の細部にまで取り込まれ、効果とも言えない効果は綺麗になくなっていくのだろう。それはたった一瞬の間だけ、虚しいほどの安息をくれる。ほんの瞬きをしてる間だけだ。

 金さえ積めばこの街でも手に入る。しかし、また会いたいと思うからこそ、安易に薬を探す気にはなれない。

 自制しろ。己を殺す勢いで抑え込め。

 カップの温度が渡された時とほぼ変わらないうちに、中身はカラになった。



 朝から様子がおかしいのには気付いていた。

 そわそわと落ち着きが無く、時々何かを堪えるように奥歯を噛んだり手を押さえたりしている。初めて見る行動ではなかったが、今日は異様に目に付いた。

 インスタントで淹れているコーヒーは日増しに濃くなっていく。匂いだけで胸焼けしそうなほどだ。カップの底に黒い澱が溜まっていそうだと容易に想像が付く。

 ――何を隠している。

 フォルトにそれは読み取れない。三十数年生きて未だ出会ったことのない何かなのだろうと思うも、それこそ多すぎて見当が付かない。

 彼がこんなふうにスラムに暮らし盗み殺す生き方をするようになったのは、恐らく家族が絡んでのことだろう。彼に一度避けられた話題だ。赤の他人がその根本に足を踏み入れていいものか。そもそも入っていけるのか。

 だが、傷は見えている。

 古傷を抉ると知って、敢えて指を入れるべきなのか。

 それにしてもこのコーヒー、酷い匂いだ。

「じゃあ、行こうか」

 苦い匂いに酩酊を覚えている間に、シュウは飲み干したカップを流しにおいてこちらを向いていた。数秒前とはまるで顔色の違う、若干躁気味の表情がある。

 化かされていたかのようだ。

 面喰らっていると行こうと促された。

 ムラというレベルではない。豹変だ。やはり危険要因ではないかと思いつつも、足は呼ばれるままに歩いている。

「シュウ。おまえ、一体何を抱えている……」

「自分の最深部から狂っていく感じ、解る?」

「狂う……?」

「そう。今は喰われていってるのが解るけど、いずれ何も感じなくなる。水に溺れて沈むのと一緒さ」

 ゆっくりと閉じた瞼が再び開いたとき、そこには何度か見かけた赤が混じっていた。同時に口が緩い弓を描く。

「行こうぜ? 気が向いたときに行かないと、次はないかも知れないし」

 フォルトの返答を待たずにシュウは玄関へと歩いていく。頷きを返すことも出来なかった。

 この様を狂っているというのが正しいかは解らない。残酷な目をして笑む者はいくらでもいる。少し性質が違うだけで、シュウのそれも同じではないかとも思う。

 仕方なく、彼の後を追った。

 追いつくといつものようにシュウに前を歩かせる。身体ばかり成長してしまったような男の背を見ながら、一人分を開けて付いていく。シュウの足取りに澱みはない。

 闇の向こうに湿度を感じる。また近いうち雨になるのだろう。近づきつつある低気圧に、嫌な予感がした。心なしか古傷が疼く。呼んでもいない嵐の足音が聞こえる気さえする。

 思わず嘆息したその時、シュウが立ち止まり、フォルトは少し遅れて止まったので肩が並ぶ形になった。

 何があったのかと、フォルトはシュウを見る。すると、相変わらずの笑みを浮かべたまま、シュウはフォルトを見てきた。

「トレ・タルパのアジトの場所、俺、知らないや」

 こんな事を言ってくる。

 ――狂人でも残忍でもなく、ただの子どもの間違いだろう。

 頭を抱えたいのを堪え、しかたなく、今回だけは前を歩くことにした。

 やや後ろを暢気に付いてくる男を横目で見やり、隠れてもう一度溜め息付いた。


   *


 その建物は地下部分が駐車場、半地下になっている所が事務所、地上部分が倉庫になっていた。流石、この地域ではそこそこ名の知られたヤクザの物だけあってそれなりに大きい。高さはないが幅がある。周りの建物がこぢんまりしているので、その存在は目立つ。

 建物の中には、沢山の人間が居た。皆その施設の関係者だ。

 深夜に近づきつつある時間であるにもかかわらず、中からは喧噪が漏れている。

 そこに一瞬の静寂を生み、後にけたたましい騒音を編み出すことになったのは、同時に、しかし全く別の場所から発せられた一発ずつの銃声だった。


   *


「コウ! 援護しろ、援護! 今日はあんま使う気無いからな、アレ。死ぬ時は勝手に死ねよな!」

「使わせないようにちゃんとやるよ! わーっ! 余所見すんな、シキ! 殺すぞ、コラ!」

 逆に相打ちを始めそうな声がしているのは倉庫であった。しかも表の入り口から堂々と侵入して、すぐさま見つかって銃撃戦になった。倉庫だから人は少ないだろうと思ったのは間違いだった。下っ端の溜まり場になっていたそこには相当数の人が居た。

「誰だよ、ここから入れば少しは楽だって言ったのは!」

「じゃあ訊くけど、正面から入らないとプライドが許さない奴は何処のどいつだ!」

「シキだって正面突破好きだろ!」

「この状況で好きとか嫌いとか言ってられるか!」

 柱や積み重ねられた荷物で身を隠しているが、いつまでもそうしているわけにはいかない。とはいえ、応戦する間も与えてくれないほどの弾丸の雨が飛んでくる。これだけの人数だと、弾切れの隙をつくことも出来ない。

 大した反撃をしてこないのを見て、相手は近づいてきている。

 それを感じたシキは、焦りや苛立ちよりも不満を露わにしてコウを見た。

「コウ。俺、頭来た」

 誰に向けたのかは定かではない。

 言い終わるとシキは柱から出て、無数の銃口と対峙した。

 驚愕とは人の動作を止める物らしい。男達は引き金を引くことを忘れ、動揺を交えた目線をシキへと向けた。背の小さい、拗ねたような顔をした男が、何を思ったか銃弾の嵐の中に身を曝したのだ。自棄の果ての行動としか思えなかったことだろう。

 言葉を失くした彼らが、銃撃をやめる前に発射した弾丸が何故当たらなかったのかを考えているようには思えない。わざわざ的が現れた。彼らの目線が嘲笑に変わる。

「シキ、何も無理して……」

 思わず立ち上がって言いかけたコウの言葉を、前を見据えたままシキは遮った。

「結局こんな物に頼らなきゃいけない自分に、一番頭来たんだよ!」

 銃撃が再開されるのと、それは同時だった。

 何度も見慣れた光景だ。シキから爆発したように瘴気が溢れ、埃が視界を薄茶に染めるほどに舞い上がり意図した物を浸食していく。それが物体であろうと生き物であろうと関係ない。生き物ならば尚、意図しなくても死ぬ毒だ。

 だが、そんな見慣れた光景にも変化があった。今までは弾丸は粉砕され、銃口は溶けるといったものであったが、今回は違った。弾丸は無かった物のように消滅し、銃は、銃口だけでなく持ち主の手ごと溶けた。狂いだして自殺する者より、水分を無くし細胞崩壊を起こして死ぬ者の方が圧倒的に多い。

 この力は何処まで強くなるのだろう。己のみを滅ぼすまでの間に、一体どれだけのものを浸食し、消し去るのだろう。

 目尻から何か零れた。そんな感情には至ってない。恐らく生理的なものだ。

 一段落付き、瘴気を放つのをやめた。眩暈がする中、一人だけ、精神を寸断され奇声を上げて狂う者がフラフラしていた。そいつの頭を、コウが吹き飛ばして地上部分は鎮圧した。

 銃声の余韻だけが異様に響いて聞こえる。今まで鼻についてた血の臭いが気にならない。

 確かに強くなっている。想像を遙かに超えて、この力は有り得ない所まで行こうとしている。

 滲んだ世界が反転する。

 シキは膝から力が抜けるのを感じ、反射的に目の前にあった木箱に手を付いた。辛うじて倒れないで済んだが、激しい吐息を喘ぎを漏らし、滅多にかかない汗が額に吹き出した。急激に上がった体温に、身体が全く付いていっていない。まるで血液の温度がいきなり沸点に達したようだ。

 この力に頼り、そしてこの力に屈している自分が、何よりも情けなかった。役に立っているとは思えない。惨めな思いしかしない。今や熱で乾ききった目から涙は出ない。その代わりのように額に溜まった汗が一筋流れて顎から落ちた。

「シキ。ごめんよ」

 脇に来たコウがシキの肩に腕を回した。軽く抱き締められ、支えられる。

「俺は、おまえに辛い思いばっかりさせてるな。そんなつもりじゃなくても、俺は、そんなモノしか与えられないのかも知れない。もう使わなくていいから。使わなくちゃ生き残れないのなら、俺は死んでもいいから。もう、苦しむなよ」

 らしくないことを。

 コウの腕はシキの毒も熱も取り除いていく。心地の良い感覚だった。

 このまま眠りに落ちてしまいそうなほど、安らかで、柔らかい感覚。

 でも、と、思うことがシキにはあった。

 癒しは受けたまま、シキはコウを見た。



 きついが優しい鳶色の目が、すぐにも責め立ててきそうな色をして向いた。

「この背中に傷残した奴の言葉らしくねぇな。俺、まだ夢見てるんだぜ? 甘ったれんなって言うのが、コウじゃないのかよ。苦しみから逃げるためだけに空を見るなって言うのが、コウじゃないのかよ」

 コウは目を見開いた。久しぶりに再会してシキが残りの羽を強請った時に言った自分の言葉を思い出した。

 逃げてなんて無かったんだ。今になってそう思う。迷っては居ても、時折逃げたくなっても、前は見ていた。いろんな口実を並べている裏で、ただ行き着く目的が見出せないで居ただけで、逃げては居なかった。もし、今でも本当に後ろを向いて全力疾走しているのなら、手袋で隠された傷はもう一つ増え、そして永久に塞がることなく何よりも嫌うこの大地へと戻っていたことだろう。

 死を選ばずに生き続けることだけで苦痛はやってくる。漫然と生きることが出来ないシキにとって、その苦痛は人より強いものに違いない。

 何も苦痛に思わない自分とは違う。

 再会したとき、殺してくれと言わなかっただけ、彼は努力したのだろう。

 ――俺はシキに甘いなぁ。

 傷をせがまれ片羽を与えた時点で、既に甘やかしていた。

 いい。これでいい。〝ゼロ〟の自分が唯一ブレた人間だ。もう許してやろう。

「じゃあ、行くか? 残りを片づけに」

 コウの問い掛けにシキは笑った。

「今更帰るかよ」


   *


 額を抑える左手が欲しいと思う余裕もない。

 そんな状況に陥るまでものの一分と掛からなかった。

 地下に入るまではよかったが、入ってからが問題だった。どうせ駐車場。高をくくって乗り込んだシュウの後について行ってみればこの有様。警備のためなのか、予想より人が多く、そして広い。

 先手必勝とばかりに、まずシュウが銃撃戦の口火を切った。相手も黙ってやられるはずがない。瞬く間に会話も出来ないほどの銃声が空間を埋めた。

 二人とも柱に身を隠しながら応戦し、隙を見ては前に進んでいった。

 鼓膜が震えっぱなしで麻痺してくるのが解る。音がやってくる方向を巧く知覚できない。

 その途中、急にシュウが後ろを振り返った。同時に銃口も彼と同じ方を向く。

 赤い瞳を見たフォルトは、自分でも信じられないほどに驚いていた。それ故、微動だに出来ず、瞠目。だが、結果として動かなくて正解だった。首筋を一発の弾丸が掠めていったかと思うと、後ろで人が倒れる音がした。

「後ろにも気を付けろよ、スナイパーさん」

 シュウの後ろで取りこぼしを始末して居た中で、背後がおろそかになっていたことは否めない。何処に隠れていたか知らないが、見逃していたのだろう。しかし、耳鳴りがしそうな銃声の中で物音を正確に関知するのは難しい。一体何を感じてシュウは振り向いたのか。

「……借りが出来たようだな」

「前に助けてくれたお返し。これで貸し借り無しだな」

「貸しの方が多い気がするが?」

「家賃と食費はツケとけよ」

 シュウは丁度カラになったマガジンを新しいものに替え、笑った。あえて表現するのなら、ニタリ、といった感じだろうか。弾を装填し、グリップを握り直す。

「弾、無くなりそうになったら言えよ? 替えたの渡すから」

「気遣いは嬉しいが、こちらもそれで飯を食ってるんだ。抜かりはない」

「つまんねぇな。少しはデレろよ、フォル――」

 シュウが背にしている柱に銃弾が当たり、強い金属音で言葉は遮られた。

 彼の目元が、ぴくりと動く。

 短気な男だ。

「うっせーんだよ、テメェら! しょーもねぇ事で俺のこと散々追まわしやがって。ケリつけてやるからな!」

 シュウは柱から飛び出し、奥と手前の二人を撃った。一度一つ先の柱に隠れてから、先程殺した手前の男の銃を奪う為、連射しながら飛び出す。飛びつくように銃を取ると、転がって斜め前の柱に隠れた。

 奪った銃の残りの弾を調べ、微笑。満足顔でそれにも弾を装填し、二丁拳銃になって反撃を開始した。

 フォルトも前、左右から来る相手を確実に撃ち殺しながら前へ進んでいたが、シュウの進撃の仕方には敵わない。

 少しでもタイミングが悪ければ撃ち抜かれてもおかしくない動きで、時折柱に隠れながら前進していく。投げやりとは質が違う。自分が撃たれることをそもそも想像していないかのような無謀だ。

 一見無闇に撃っている弾丸は、殆ど一撃で相手を仕留めている。いつか街で小手調べをしたときと同じだ。この命中精度は恐ろしい。

 ちらと見えた彼の横顔には、やはり笑みが貼りついていた。どこか常軌を逸している愉悦の笑顔だ。

 そのシュウを見て、フォルトは感じた。

 以前から感じていた彼に対する感覚に、そぐう言葉がやっと見つかった。

 あれは狂気だ。激しく猛る狂気。

「てめぇ、フォルトだな!」

 横からした声で、フォルトはシュウから目を離した。見覚えのない男が銃を構えている。

「だったら何だ」

 問い掛けておいてその先を言わせずに、フォルトは片足を高く上げて薙ぎ、男の銃を蹴り飛ばした。一丁の銃が宙に弧を描き、男が反動で体勢を崩す中、一回転したフォルトは一撃を放つ。弾丸は男の眉間を穿ち、血飛沫が舞って終了。

「どうもここは物覚えのいい知り合いが多いな」

 シュウと酒場で出会った日、フォルトが幾人か殺しているのは耳に入っているのだろう。フォルトの名を聞き、目の色を変えた者達の銃口が向く。死んでやるほど親切ではない。

 あの日、引き金を引いた時点で遅かれ早かれトレ・タルパとは衝突する事は避けられなくなっていた。今考えれば、自分から面倒事に飛び込むなど、らしくないことをした。後悔はないが、疑問はある。

 ――あんなガキのために崖に躍り出るような真似をするとは……。

「腕が揃っていたら捻り上げてやりたいもんだ」

 ぼやき、銃撃を再開する。

 撃った回数を数え、弾が切れると銃を替える。他人の銃は拾わない。残弾数が解らないからだ。小休止できれば片手でもマガジンは替えられる。それまで銃は使い捨てだ。

 撃ち進んでいった前方で、シュウが隠れていた柱からの出会い頭で一人の男と揉み合っていた。互いに互いの銃を奪おうとし、また互いに銃口を向け合おうとしている。シュウは両手に銃を持っているので、相手はかなり必死だ。

 シュウの背後に、忍び寄る男が居た。フォルトからは丸見えだが、シュウの後頭部に目は付いていない。

「シュウ!」

 呼びかけ、撃つと同時に、二人の男が倒れた。一人はシュウと揉み合っていた男。右前頭葉を吹き飛ばされていた。そしてシュウの後ろに迫っていた男。眉間を前から、心臓を背中から撃たれ死んでいた。あの状況で、シュウは右の銃を後ろに向けていたのだ。

「……なんて奴だ」

 あたかも知っていたかのように狙いは正確だった。シュウを狙う男が居なければ、フォルトが的にされていたところだ。

 嘘寒さを感じる。

 腕が良いだけ、と解釈すればいいのに、そこへと行き着かない。

 この男、その気になれば世界中を殺戮して歩けるのではないかとさえ思う。普段は理性が引き留めることを、この男は超えられる。本人がそれを望むか否かはさておき。

 静寂を得つつある駐車場を、フォルトはシュウへと向かって進んだ。

「終わった?」

 男の返り血で白いシャツを赤く染めたシュウが振り返る。

「ああ」

 答えながらフォルトは左側に銃口を向け、一発放った。呻き声がして、

「これで終わりだ」

「じゃ、さっさと上に行くか」

「顔の血くらい拭け。酷いぞ、そのなり

「そっか、いい男が台無しか」

「言ってろ、阿呆」


   *


 あまりの呆気なさに、シキとコウは思わず顔を見合わせた。

 現在位置は半地下。並ぶ扉を片っ端から開けては掃射する作業を繰り返している途中、それは起きた。

 良いスーツを着ているという認識はあった。しかし、それがトレ・タルパのリーダーとは、殺して暫くするまで気が付かなかった。その男を撃ち抜いた途端、その場にいた男達が血相を変えて何かを叫び、撃ってきたのだ。生憎、言葉が分からないので何を言われたか解らない。ただ、悪口雑言を投げつけられているのは雰囲気で解った。事態の急変に、自分たちが何をしたのか知った次第である。

 とはいえ、リーダーを潰すことが目的ではない。めぼしいものを奪い、トレ・タルパを尽滅することだ。一人でも逃せば後が恐い。

 一旦、銃声の切れ間があった。その時、遠くの方から銃声がした。場違いな方向だ。

「なあ、莫迦が居るのか、それか誰か違うのでもいるのか?」

 真面目な顔でシキはコウを見た。コウは首を傾げるが、

「他にここに侵入してる奴? そんな物好き、居るのかな?」

 見当は付かないようだ。

「じゃあ、空耳かな?」

「そうでもないだろ。二人で空耳なら別だけど」

 誰が居ようと、どうにかするだけ。

「「ま、いいか」」

 声を合わせて問題を気にしないことを決めると、攻撃を再開した。


   *


 関係ないはずの方角から銃声がする。半地下に到着したばかりのフォルトは耳を澄ました。

 悲鳴を含むその音は、徐々に近づきつつある。明らかに第三者が居る。

「先客でも居たか?」

「殺してくれてるんなら、別にいいんじゃない? こっちは楽だし」

「鉢合わせて困る理由もないか」

「そゆこと」

 味方など他にいない。撃たれる前に撃ち抜くだけだ。

 無数の部屋に、それを繋ぐ扉。死角が多く、少しのミスが命取りになる。フォルトは手持ちの銃のマガジンを替えた。

「あ。やるって言ったのに」

「出来ると言っただろう」

「少しは頼ってくれたっていいじゃん」

「頼られたいのか?」

「うん……まあ」

「じゃあ先に行け」

「……はあい」

 渋々と進み始めるシュウの後ろを、フォルトは数歩下がって付いていった。

 シュウには悪いが、盾になって貰おう。卑怯と言いたければ言えばいい。生き延びるための手段ならば、他人も矜持も、犠牲にする覚悟は出来ている。


   *


「やっぱ気のせいじゃない。誰か居る」

「いいじゃん、殺せば」

 シキは壁に背を付け、コウは少し離れたところで残党に警戒していた。数秒前に喧噪は消え去った。かなり近くに人の気配を感じるが、相手もかなり慎重である。シキは銃を構え、深く呼吸をした。

 不思議な緊張感がある。

 どちらが先に飛び出すか。どちらが先に鉛玉を撃ち出すか。

 既に駆け引きは始まっている。

 意を決し、銃を持った腕を伸ばして身を乗り出した。


   *


 シュウは壁に張り付いていた。

 気配がすぐ傍で息を潜めている。ひと間分向こうの壁に誰かが居る。

 先客を、若しくは残党を、どう出迎えよう。

「よーし。いよいよ対決って奴か?」

「ゲームじゃないんだ。もっと緊張感を持て」

「この方が俺らしいだろ?」

 フォルトの返事を待たず、シュウは銃を構えて翻った。


   *


「シュウ!」

「シキ!」

 二人の裏返った声が重なった。顔には驚愕ばかりが貼りついて動かない。

「何やってんだよあんた、こんなトコで」

「それは俺のセリフだよ。何してんだ一体」

「何で追ってくるんだよ。ストーカーかよあんた。気持ち悪ぃ。失せろよ」

「行くトコ無いからフラフラしてたらここに来ちゃっただけだよ」

「ったく。苦労が台無しだぜ」

 悔しい。死に目を見ながらこの街までたどり着き、もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに、眼前にまさにその顔がある。

「それにしても、それ、まだ着ててくれたんだ」

「……黙れ」

 それ、とはシキの着る赤のジャケットのことだ。原色であるだけにそれだけで目立つ。しかも買った本人がそれを見間違えはしない。否定するだけ無駄だ。

 とっくに銃を下ろして心底嬉しそうにしているシュウから、シキは目を逸らした。

 もう見なくていいと思っていた空が、鬱陶しい。

 楽しい気分などとうに失せていた。何故この広い大地で、たった一人の人間から逃れられないのか。しかも、同日同時刻に同じ場所へ乗り込んでくるなど、確率的にもどうかしている。

「どうしたんだ、シュウ」

 シュウの名を呼ぶ知らない男が顔を出した。迷わずシキは銃を構える。相手も同じであった。

 黒い髪、黒い瞳、隻腕。シュウよりは小柄だが、それでも見上げなければいけない身長。全身を黒で覆ったそれは、優しさを何処かに持ちながらも人を殺す目をしている。

 引き金を引く一瞬前、大きな体躯が間に入ってきた。的が見えない。こちらに背を向けて割り込んできた障害物の所為で撃てなくなった。

「フォルト、撃つな! こいつが前話したシキだよ」

「人のこと言い触らしてんじゃねぇよ」

「ふうん、こいつがね」

「退けよ。塞ぐんじゃねぇよ」

 前が見えないのは不快であり不安だ。足で蹴り付けると、立ちはだかっていた壁は半身分だけ横へと動いた。退ききらないのは警戒してのことだろう。当然だ。

 視界が開くと、フォルトと呼ばれた男はシキを見下ろしていた。銃口も未だこちらを向いたまま。彼の目線が下がるのは高さの問題で仕方がないとはいえ、シキは不快を覚えた。

 睨み付ける。シキも又、人差し指の腹は引き金に触れている。

「先に下ろせ。そしたらこの莫迦に免じて下ろしてやる」

「同時ならば考えてやってもいい」

「もう、二人とも大丈夫だって」

 シュウが再び割って入った。この黒一色の男を信用できたとして、その根拠は全てシュウに帰結する。すなわち、シュウを信用できるか否か。

「シキ? 何やってんの?」

 コウだ。こちらにやってくる。

「ああ。なんか間違ってあの莫迦が今目の前に居て……」

 その時だけフォルトから目を離した。それが間違いだった。

「あ! そいつ!」

 シュウの一声の後に、コウが左肩を押さえて倒れた。心臓を外れただけ運が良かったと言えよう。数センチ上を貫通していた。

 シキは振り返り様に一発撃ち、コウの元へ走った。放った銃弾はフォルトの何処かに当たっただろうが、この際結果は二の次だ。

 急いで倒れたコウの半身を起こし、傷口を押さえる彼の手の上から手を乗せた。呼吸は荒いが、意識はある。貫通していて良かったと思いながら、血でぬめるコウの手を強く握った。

「てめぇ、何のつもりだ!」

 叫んだ時、無意識に瘴気が広がったらしい。フォルトは顔を歪めて膝を付いた。瞠目し、更に地面に手を付いて肩で息をしている。

 この男は違う世界の人間だ。瘴気を害としない虚を持たない、ただの人間だ。どんなに人を殺そうと、どんなに闇に生きようと、すべからくその人間が虚を持つとは限らない。特に、瘴気の浸食に耐えうるほどの虚は。

 フォルトが息を荒げるのと引き替えに、コウの出血は治まった。骨まで治すにはもっと時間が掛かる。今は応急処置としては充分だろう。失血もそれほど無くて済んだ。これで死ぬことはない。

 コウをゆっくりと横たえると、シキは立ち上がり、振り返る。身体の中に、湧き上がる熱を感じる。この熱が怒りの所為か瘴気の所為かの区別が付かない。

 シキは、シュウの前に立った。

「何であんたがコウの顔を知ってる。あの男がコウを撃った理由を、あんた知ってるな?」

 これ程までに憎しみを向けてシュウを見たことはない。いくら血は止まり死ぬことはないといっても、大切な者を傷つけられた気持ちは抑えられずにいた。

「知ってる。その前にその瘴気をどうにか抑えろよ。話す前にフォルトが死ぬだろ」

 シキは言葉に耳を貸さなかった。どのみちシュウはこの力で死なない。フォルトという男が死んでも、シキには何の関係もないことだ。第一その男は突然コウを傷つけたのだ。高ぶった感情につられている以上、瘴気に弱いからと言って、はいそうですか、と抑えられるものでもない。

「早く言え! その男が死のうと、俺には関係ないね。言う気がないんだったら、身体の部品吹き飛ばしてでも聞き出すぞ」

 まだ熱い銃口を、シュウの首筋に押し当てた。

 皮膚が焼けたのだろう。彼は僅かに眉根を詰めた。

「言え」

 改めて銃口を強く押し付ける。漸くシュウの口が動き始めた。

「フォルトに入った依頼の写真を見たんだ。殺しの依頼。その写真が……」

「コウだったのか?」

「そう」

「誰に頼まれた」

「そこまでは俺も」

「そうか」

 シュウには一度隠し事をされて懲りている。どんな義理があるのか知らないが、今の彼はフォルトの味方でもある。一概に信じることは出来なかった。

 シュウのすぐ近くで蹲るフォルトの方を向く。銃など構えなくても、この身体は、黙って立っているだけで人を殺せる。何も問い掛けず、このまま見下ろしていてもいい。逃げる術のないこの男は、やがて息を止めるだろう。

「誰に頼まれた」

「いつもの、仕事の、仲介屋だ」

 すぐに返ってきた声は途切れ途切れで苦しそうだ。当然だ。今の段階ではしようと思えば出来る加減を、一切していない。瘴気は感情にまかせて溢れ続ける。

「そいつは誰だ」

「カズとか言っていたが、どうせ偽名だろう。それより、おまえのその……」

「なんだ」

「痛みは、おまえから発せられているこれは、一体なんだ。あらゆる痛みを凝縮したような、それは一体……」

 シキは眉をひそめて奥歯を噛んだ。

 足で彼の顎を蹴り上げてしまいたい衝動に駆られた。だが、そんなことをすれば、自ら負けを認めてしまうようなものだ。冷静でいようと、大きく息を吐く。

「別に。世界が俺を呪ってるだけさ」

 これ以上訊くことはない。シキは踵を返した。真横にいるシュウの眉尻を落とした顔が視界の端に見える。

「俺も、世界を呪ってる」

 いっそこの男も、瘴気で朽ちればいいのに。

 一言付け加えると、コウの所まで戻った。膝を付いて顔を覗けば、眉が緩いハの字を描いている。心配されているらしい。

「コウ。大丈夫?」

「いいのか?」

「何が?」

「あいつ、おまえと会いたがってたみたいだぜ?」

「俺は違う」

 コウを傷付ける厄災を連れてくる男など、影さえ見たくない。

「立てる?」

「ああ。痛みが残ってるけど、傷はもう塞がったし」

 そう言いながらも、コウは差し出した手を取った。通常ならば肺に血が溜まり、失血死してしまう傷だ。シキが居なければ、奇跡のような力と関係性がなければ、コウは死んでいた。

 肩を貸し、殆ど同じ背丈を支える。

 無言のままの二人に背を向け、侵入してきた場所へと向かった。

 呼び止める声はない。



 去っていく背をシュウは目で追っていた。

 やっと会えたというのに、一発の銃弾がその背を追えなくしてしまった。フォルトは何も知らず、仕事でやったことだ。恨む気はない。だが、その背を見ていることしか出来ないことが何よりも悔しく、哀しかった。

 今見失ったら、次はいつ会えるだろう。二度目はないかも知れない。この幸運を、容易く逃したくはない。だが、どう声を掛ければいいのか。

 躊躇っている間にも、二人は離れていく。

 ドアの枠を越え、向こう側に姿が消えそうになった。

「シキっ!」

 やっと出て来たのは名前だけ。他に言葉が見つからない。

 シキの動きがぴたりと止まった。だが、それだけだ。彼は振り向かない。

「二度と追ってくるな」

 その言葉だけを残して、コウを引きずったシキは消えた。僅かも後ろに返ることなく、躊躇うこともなく彼は立ち去った。

 また鳶色の瞳を見せてくれると思ったのは、傲りだったのだろうか。今回の出来事はともかく、それ以前にシキに疎まれるようなことをしただろうか。あの日以来、薬には手を出していない。多少キス魔の本性が見え隠れしたが、それが理由とも思えない。

 捨てられた理由が、そもそも解らない。

「追わなくて良かったのか?」

「ん?」

「あの男に会いたかったのだろう? あの激しい痛みを背負った男に」

 フォルトは息を整え、壁に背を付けて座り込んだ。額は汗で濡れている。

 シキが撃った銃はフォルトの上腕を掠っていた。それほど深い傷ではない。咄嗟のことに狙いを外したとすれば、命中精度の高いシキにしては珍しい。

「痛いらしいね。俺は何でか平気な部類らしくってさ。それはわかんないけど、あいつが苦しんでることは解る」

「あのわけの分からない物が、おまえの言うあの男の自己犠牲だというのか? 俺の方が死にそうだったぞ」

「もうちょっと見てれば解るけど、無理だろうな。次会うことがあったら、フォルト、殺されるよ」

「そんな気がする……」

 フォルトは右腕を重そうにしながらゆっくりと立ち上がった。痛む場所を押さえる腕がないのはさぞもどかしいことだろう。応急処置をしようにも、清潔な布や包帯は見あたらない。

 気にするな、と言って、フォルトは前を歩き出した。彼の背を見ながら歩くのは新鮮だ。警戒されていたか、盾にしていたのだろう。

 そんなことを思っていると、前を歩けと促された。やはり、背を見せるのは好ましくないらしい。

 この建物に、もう息する者は残っていない。

 喧噪も消え、銃声も消え、暫くは静寂が続くだろう。


   *


「昔は良く怪我をしたが、ここ最近では腕を失くして以来だ」

 帰宅すると、フォルトが救急箱と腕を差し出してきた。箱の中には消毒液と止血道具の類が一式入っている。薬は鎮痛剤だけ。

 袖をまくると、そこにある傷はやはり浅かった。

「まずは水で流そうぜ?」

 いくら軽傷とはいえ、銃創だ。腕半分は血にまみれている。それを洗い流し終わってから消毒し、ガーゼと包帯で包んだ。

「はぁ」

 先に溜息を吐いたのはフォルトだった。一人掛けのソファに腰掛け、反っくり返る。珍しく、脱力した様子だ。瘴気に真正面から当てられたのだ。無理もない。

 シュウはリビングの椅子に腰掛けた。フォルトの横顔が見られる、距離にして二メートル弱の位置。背もたれに身体を預け、両腕を垂らした。

 疲れが下へ下へと落ちていく。末端から痺れていくような感覚がある。怠い。

「どうやら、行く所を無くしたようだな」

 トドメだ。

 反論する気力もない。そもそも、反論材料もない。

「探す必要なくなったかと思えば、今度は顔も見たくないだってさ。何処の拗ね女のセリフだよ」

「それをあの男が聞いたら、おまえきっと蜂の巣だぞ」

「だろうなぁ」

 シュウは首筋にそっと触った。少しひりひりする。どの程度の火傷か触れただけでは解らないが、大したことはないだろう。

 すこしだけ、熱が残っているような気がする。シュウが感じ得ない瘴気を、焼けた銃口を押し付けることで与えてきたようにさえ思える。

「撃たれないって思ってた方が、間違いだったんだろうな」

 味方だと思っていた者が、ある日突然敵に早変わりする。そんなことが日常茶飯事の中で、友情というものそのものが廃退した過去の遺物に成り下がっていた。それでも、無くなってしまったわけではない。シキとコウがそうであるように、まだ消えてはいない。ただ、その中にまだ自分が入れていないだけで。シュウはそうやって自分を納得させた。

「まぁ、あんたの仕事だったんだ。しょうがないさ」

「もっともだ。だが、そのお陰でおまえを追い出し損ねた」

「もうちょっと時間をくれよ。出ていくからさ。もう少しでいいから、考える場所貸してくれよ」

 生か死か、探索か。選択肢は三つほどある。選ばなくてはいけない。後半二つを選ぶには、残された時間は限られている。このまま喰われるに任せ生きていくのが、最も現実的な選択だろう。

「勝手にしろ」

 ぶっきらぼうではあるが、確かな承諾だ。この美人で無愛想で真っ黒な家主にシュウは手を合わせたくさえなった。

「変な縁があると始めから思っていたが、ここまで腐れるとは思っても見なかったぞ」

「悪い」

「悪いと思うなら早く答えを出せ」

「了解」

 きつい物言いに対して、気のない声で返事をする。

 背もたれに身体を預けたまま、天井を見た。鼻先が冷たい。横目で時計を見れば日付はとっくに変わっている。

 もう夜更けだ。

 と、出かける前にも感じた嘘寒さが体を這った。嫌な感覚だ。こういう結果が訪れる事への予感であったのだとついさっきまで思っていた。だが、結果を思い知って尚あの感覚はやってくる。

「なあ、フォルト。何となく寒くないか?」

「いや? 別に」

「そう。じゃ、俺の気のせいかな」

 そういうことにしておきたかっただけだ。身体を起こし、俯き加減になる。しかし、何処を向いても身震いしたくなるような感覚が襲ってきた。

 ――何かあるってのか?

 唇を噛み締め、意外と掃除が行き届いている床に目を落とす。

 相変わらずシキのことは頭から離れない。だが、同時に、全く別のことと思しき言葉に出来ない嫌な蠢きが心の中にある。それが他のことなのか、やはりシキに関することなのか。解ろうにも解るわけがない。

 違和感の残る首筋に手を遣りながら、消えては生まれる不安とまとまらない答えとで頭がおかしくなりそうになっていた。



 ソファで脱力しながら、フォルトは落ち着きを欠いたシュウを眺めていた。

 得体の知れない、目指すところも解らない。兎にも角にも、シキという小柄な男を求めて止まない。ますます理解に苦しむ男だ、と思う。

 解らない、と言えばシキについてもそうだ。突然襲ってきた痛覚だけを刺激してくる何か。原因は彼以外に考えられない。しかし、そうだったとして、その正体は何だ。シュウには感じず、自分は感じるあの痛みは。

 腕の傷がじわりと痛みを得た。言われてみれば少し寒い。あの痛みを感じたときも、まずは寒気からだった事を思い出した。身体を、細胞を崩されていくかのような、一瞬呼吸を忘れる寒さだ。

 あの何かの所為で、獲物を逃すことになった。確かに命中した。致命傷だ。しかし、これまた不思議なことに、弾丸を撃ち込んだ男は息をし、立ち上がった。

 ――不死身相手じゃ殺し屋も歯が立たん。

 トレ・タルパは壊滅した。たった四人で綺麗さっぱりにしてしまった。このことについては快挙だが、自分の用事を取りこぼしてしまったのは痛い。しかも、唯一使える腕に傷を負った。暫く仕事は無理だろう。反応が悪くなって撃てた物ではない。

 結果的に損失の方が大きかった。

 割に合わないにも程がある。

 フォルトは口の中で呟いた。

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