第22話

 コウの家に転がり込んでから二週間程、シキは身体の調子が思わしくなく寝たり起きたりを繰り返していた。原因は、あまりに長い間身体が異常な熱を保ち、自らの瘴気にあたり続けた為と思われる。自分の身体から出ている物にやられたことに、シキは不愉快さを露わにしていた。自分のことなのに為す術がない。ましてやそれに喰われ、体力は疎か命まで削られる。常人であれば、不満よりも恐怖に襲われるはずだ。

 シキはどうなのだろう。

 ふらふらしながら起きてくるシキに、気後れしているような様子は見られない。たとえ恐怖に歯を立てられているとしても、逃げられないその敵と戦うことをやめる気は今のところ無いようだ。

 その現れか、長時間起き上がっていられないにも関わらず、二階から降りてくる。少し我慢すれば良くなりそうなものなのに、言うことを利かない。かといって居間に降りてきたのを放っておくと、いつの間にかソファーから落ちて倒れている。それを見つけては叩き起こして二階に引きずる。初めの一週間はその繰り返しだった。

「いつまで経っても世話焼かせやがって。俺はテメェのお守りじゃねぇんだ」

 使っていたベッドを占領され、コウの寝床は一階居間のソファーに変わった。二階や一階にもまだ部屋はあり、そこにもベッドはあるが、あるだけだ。使ったことは一度もない。何故使いもしない物があるかと言えば、元々自分で揃えた物ではないからだ。良く言えば譲渡された。悪く言えば分捕った。この家を手に入れたとき、必要な家具からガラクタまで、何もかも付いてきた。それらを捨てることは殆どせず、使う場所だけ片付けた。

 減らさず、足さない。

 わざわざゼロにすることはない。だからといって欲しい物はない。

 いつか終わる生を紡ぐために、必要なのは軒と、一掴みの道具と、消耗品。

 夢も、目的も、目標もない。呼吸をする理由も解らない。

 シキを二階の部屋に寝かせ戻って来ても、特段することもない。手持ち無沙汰はいつものことだが、流石に苛々が募っていた。

 ソファーに沈んで映りの悪いテレビを見ながら、昼間から飲めない酒の蓋を開ける。小さい缶ビール一本でほぼ出来上がってしまうから、飲み終わった後はもう役に立たない。

 そんな時に限ってシキが呼ぶのだ。甘ったれたような声を出して、大した用もないのに、コウの名を。応じなければいつか諦めると思いつつも、酔いどれの足で二階に向かってしまう。今生きている理由を甘やかすために。

 更に一週間。やっと残暑が収まり気候が幾分涼しくなり始めるのに合わせてシキの具合も良くなり始めた。そこまでに掛かった時間が二週間だ。コウにとっては長い二週間だった。

「コウー。飯ぃ」

 体調が良くなり始めてからというもの、シキは昼近くになると二階から降りてきては食事を催促する。暇潰しに映りの悪いテレビを眺めているコウは、そのたびに不機嫌な顔で振り返る。

「いつまで寝てんだよ。俺と一緒の時間に起きれば一度で済むのに、二度手間なんだから。早く起きろ、早く!」

「んな事言っても、コウみたいに朝得意じゃないんだから、仕方ないだろ……」

 こんな事を言いながら、シキはまだ半分寝ている。とろとろと半開きになった目をこすりながら、上体をフラフラさせている。座るか横になるかすれば数秒で再び寝入ることが出来るだろう。

「ったくー。これじゃあ具合良くなっても悪いままでも大して変わんないじゃないかぁ」

 ぶつぶつと文句を言いながら、コウは飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて立ち上がるとシキをソファーまで導く。

 ソファーに座り込んだシキは、そろそろとテーブルの上にあるパンケースに手を伸ばした。眠気よりも空腹の方が勝ったらしい。パンケースの中からロールパンを一個取り出すと、一口囓り、緩慢な動きで咀嚼した。

 シキは布を羽織っていない。その代わりに、あの暑い中でもずっと着たままで居た赤のジャケットを羽織っていた。長い間埃に曝したままで洗っていないから、かなり汚れている。

「前から思ってたんだけど、この服、おまえの?」

「うん。俺の」

 触れてみると、元々はかなり良い品であることが解る。赤という、シキには見慣れない色が目に付いた。

「服の趣味、変わった? おまえが色つけてるの、初めて見た気がする」

「俺の趣味じゃない。お節介野郎の趣味」

「ふうん。そいつ、いい趣味してんじゃん。似合うよ、それ」

「どーも」

 言いながらシキはさりげない手つきでテーブルにあったコウの飲みかけのコーヒーを奪うと、パンと一緒に飲み干した。ある程度目が覚め、朝食も完了した所でシキはソファーでくつろぐ。

 コウはシキの手の動きを見逃さず、横目で睨みを利かせていたが、敢えてそれに関しては言及せず、気になっていたことの方を優先させた。

「おまえさぁ、そもそも何でここにいるわけ?」

「コウが連れてきてくれたから」

「そうじゃなくて、何でこの街に居るんだ、っての」

「ああ。その、お節介野郎の所為」

「何があったか少し話せ」

「少しで良いの?」

「んあぁぁぁっ!!! 何でおまえはそうやってヒネくれてるっていうか! じゃあ言い直すよ。ちゃんと話せ。俺に解るように事の発端から全部っ!」

「つまんないことでムキになるなよ、コウ」

 遊ばれている。

 堪え、シキの斜向かいに座ると、カップが返ってきた。

 茶色の染みを残して、中身は空だった。


   *


 シュウに関して、コウは少し興味を持った。まさか、瘴気が害にならない二人目とシキが出会っていたとは思っても見なかった。興味が少しに留まったのは、シキの話が端的すぎる所為だ。脈絡は追っているが、掻い摘みすぎている。ハルの話を聞いたときもそうだった。しかし、ハルと違い、シュウは運が良ければ会うことが出来る。シキに色を与え、瘴気を害としない男。会ってみたい。

 興味を膨らませている途中、話しているときのシキの目線の先が気になった。目が合わないのは初めからだ。だから、テレビを見ているか、適当に目を泳がせているのかと思っていたが、違った。砂が散る画面でも、埃が舞う空間でもなく、シキは閉まっている窓の外を見ている。その向こうには空。昔は意識も目線も遠くに遣っていた。しかし今は、意識はこちらにあるのに、視線の先だけ遙か遠くにある。その距離がありすぎて、コウはおかしな気分になった。目の前に居るはずのシキが、もの凄く遠くに、まるで空に居るような気がした。

 話が一段落した所で、コウは口を開いた。

「まだ、空見てるんだな」

 言われたシキは、今になって自分が空を見ていたことに気が付いたように一瞬息を呑むと、視線を落とした。

「本当は、コウが出ていった後、見るのやめたんだ。空も見なくなって、夢も見なくなってたのに、あいつが……シュウの所為で、また見るようになった……」

「その夢、相変わらず教えてくれる気はないんだよな」

「……教えない。けど、空と同じだよ」

「同じ?」

「届かないし、叶わない。憎むと同時に焦がれてる」

「へぇ。ロマンチストだねぇ」

 うだうだとした話はうんざりという素振りをわざと見せてコウは立ち上がった。

 シキの性格は良く知っているつもりだ。こうでもしないと、この男は自らの悲しみで溺れると解っている。

 コウはテレビの脇まで行くと、ガラス越しに外を見た。建物に追いやられるように白い斑点のある青が上の隅に広がっていた。

「狭い空だろう?」

 投げ捨てるようにシキが呟く。

「確かに、狭いな。こんなに狭いのに、何でおまえの探し物は見つからないんだろうな」

 外を見て振り返らないまま問う。背後で、シキの溜息が聞こえた。衣擦れの音もする。心の摩擦音まで聞こえる気がした。

 こうして他人の気配を感じるのは久しぶりだ。シキを置いて去ってから、ずっと一人だった。一人は悪くない。二人はそれで悪くない。

 コウは薄く笑うとソファーに戻り、どっかりと埃を立てて座った。



 光の通り道が、白く染められた。

 舞い散ったものが下に落ちて落ち着くと、また空が見えた。

 ――お腹空いたなぁ……。

 ロールパン一個では足りない。身体が燃料を求める一方、その燃料が切れているために酷く怠くもある。

 眠って誤魔化してしまおうか。

 瞼が重くなり始めた目で、もう一度窓の外に目を遣った。いい天気。暑くなければもっと良いのに。

「なぁ。俺も最近面白いこと無かったし、折角だし、行かねぇ?」

 意識が一気に醒めた。突然の発言に、シキは瞠目した。そこには出会った頃と全く変わらない不敵で強い眼差しがある。憎らしいまでに自信に満ちた笑み。全てを賭け事にしてしまい、そうやって生きてきた気迫。全てが昔のままだ。

 過去が戻ってきた。

 シキもその笑みにつられて笑った。こんな風に笑うのは、久しぶりだ。シュウ解いたときには出来なかった表情が、自然と浮かんでくる。

「いいね。いい場所、あるのか?」

「近場じゃなけりゃな」

「近場は自殺行為だろ。知ってて言うなよ」

 自分の声が、喜びに触れて気力を帯びてくるのが解る。

 二人は笑顔を寄せ合った。

「俺もシキも二人して変わんないな。楽しくやろう。昔と同じくさ」

 昔と同じように。

 そんなことが出来る日が来るなんて。

 気持ちも気分もあの頃に戻っていた。こんな大地も悪くないと思っていた、五年前と同じ心地だ。

 何も畏れるものはない。コウの無敵の自信とシキの瘴気が互いを護る。

 心が躍り始めるともうジッとしているのがもどかしくなった。そわそわして、まだ高い太陽をなじり、それに飽きると時が経つのをひたすら待った。

 シキの家とは違い、この家には時計がある。一目盛り進むのはこんなにも遅かっただろうか。背面の摘みを回して時を進められるのならそうしたい程だ。

 夕方、待ちきれずに早めの夕飯を摂った。茹でたパスタにレトルトのミートソースを掛けただけの簡易な物だったが、そんな簡易な料理さえしなかったシキにとってはご馳走だ。

 食事の後、逸る気持ちを抑えるように黙々と銃の整備をし、夜も更けた頃、明かりの落ちた街に繰り出した。


   *


 その日の夜だけで、コウの家にあった弾丸の全弾を二人で撃ち尽くした。だが、その何十倍もの量を買える程の金が一気に転がり込んできた。

 その日一日で遊びが終わる事はなかった。数日おきに天気の良い日だけを選んでは、あらかじめ狙った場所へ出掛けていく。繰り返す間に気候は徐々に涼しくなり始め、シキの瘴気の流出が多少抑えられてきたのも手伝って、二人の遊びは加速した。

 昼間は殆どを眠ることに費やし、その代わり夜に動き出す。昔と全く同じ生活だ。

 身体を血で染める程に命を奪い、身体を押し潰されそうな程に金を手に入れた。気に病むことは何もない。咎めるものもない。命を奪うことも、金を奪うことも、そのどちらも本当は目的ではなかった。正直なところ、二人で楽しめ、血が騒げばやることは何でも良かった。

 死を隣に置いた銃撃戦。慣れっこになった銃声と血の臭いだけを感じ、死臭を知覚する前に札束を抱えて走って逃げる。他に、楽しみを知らない。

 境遇と環境の所為にしてしまえばそれまでだ。育ちは悪い。教養もない。しかし、他に何がある、と問い掛けても、答えてくれる保護者は何処にも居ない。

 だから、己で課したルールに反しなければ、何も咎めることはなかった。

 五年前も、今も、変わっていない。引きずる思い出が増えただけだ。


   *


 慣れが来た頃のある晩。

 今宵の戦場は、小さな倉庫だった。二人とも使い慣れた拳銃を持ち、ポケットにはありったけの弾丸。今回の目的は、倉庫兼事務所の奥にある金庫。相手はどこにでも居るマフィア崩れだ。

 いつも通り、作戦など無い。その現れとして、正面の扉を蹴破って中に入るという粗暴ぶりだ。それが逆に相手の虚を突き、序盤は難なくこなしていった。

 毎度のことだが、人数にかなりの不利がある。一方的に撃ち込まれたら反撃の暇はないし、囲まれでもしたらそれこそ終わりだ。だが、二人はそんな危険は物ともせずに四方から現れる相手を撃ち殺していく。

 それに今の二人には昔にはない余裕もある。シキの瘴気を知っているコウ、コウの強運を知っているシキ。そしてそう知っていると知っているということが何よりも強みになっていた。特にシキは何かあれば瘴気を使える。引け目を感じて隠していた昔とは違う。夢のこと以外、コウには全てを話している。迷う必要はない。

 駆けながら撃っていたシキの目の前で男が銃を構えた。勝利に酔うことなく男はすぐに引き金を引いたが、シキは弾丸が過ぎる刹那手前で身を屈めた。男は眼前の出来事に首を傾げる。獲物が目の前で消失したかのように見えたのだろう。その間、シキは左手を地面に付くと、右足で思い切り男の足を払った。突然のことに慌てるだけで倒れた男の脇で、シキは涼しげな顔をして立った。

「じゃ」

 別れの挨拶も付けて、一撃。それで一つの命は終わった。

 瘴気を持っていることの数少ない特典が異常なまでの動体視力と身体能力だ。最後の切り札として瘴気を放つのは有効だが、諸刃の刃でもある。多用は出来ない。出来る限り、実力と運と特典でやりくりしたい。そもそも、この二大特典がなければ、こんな無茶な生き方は出来なかっただろう。もっと早い段階で死んでいたか、数倍苦労しなければ生きられなかったに違いない。

 刹那の喜びと生きる糧になってくれた感謝はすれど、罪悪感はない。

 食事と同じだ。

 生きていた物を食い、生きる。それを悪とは思わない。

 肉を食む様な感覚で、また一発、弾丸を放った。



 それを遠くから見ていたコウは口笛を吹いた。

「やるじゃん。でも、一人で格好良く決められて黙ってる俺だと思うなよっ!」

 勢いづいたコウは銃を握り直すと、今しがた倒したばかりの相手の銃を奪い、二丁拳銃で奥に突き進み始めた。気配のある所を目もやらずに撃って歩いた。コウはシキのように撃たれる前に避けるなどという神業は出来ない。その為、味方の位置だけを把握し、残りの気配は端から撃っていく。それがコウのやり方だ。

 いい気になって進んでいると、突然背中を何かで殴打された。予想だにしなかったことでコウは前のめりに倒された。痛い背中を庇いながら急いで上を向くと、角材を持った男がそびえるように立っていた。通り過ぎたばかりの柱の陰にでも隠れていたらしい。気配を拾えなかった。

 男が持っていたのは小さめの角材であったが、よくそんな物で殴られて背骨が折れなかったものだ。一撃目は命拾いした。しかし、次が来る。一度コウの背中を打ったそれが、今度は脳天目がけて落ちようと高々と振り上げられた。

「やべぇ」

 それ程危機感のない言葉を呟いた時、男の手が横に薙いで角材はてんで別の方向に放り投げた。同時に何滴か血が飛んできた。よく見ると、男の左手には大きな穴が空いている。

 激痛に言葉を失い、何とか耐えようと身体を折ろうとした男を、すぐ脇の柱から生えてきた足が思いきり蹴り飛ばした。

「スイカ割りの時期じゃねぇよなぁ」

 そんなことをおどけた調子で言って出てきたのはシキだった。

 彼の銃口は蹴られて倒れた男の頭に照準を合わせている。そのままの姿勢で、顔だけをコウの方に向けた。

「何やってんの? あのままやられるつもりだったんなら、俺が殺すよ?」

「んなわけあるわけねぇよ。おまえが来たから別にいいかなって思っただけさ」

「どうだか」

 シキは目を細めて未だへたり込んだままで居るコウを見下ろしている。銃を構えているのが面倒になったのか、この状況で彼は腕を下ろした。

 コウは今になって背中の痛みを思い出し、僅かに顔を歪めた。折れていないのは確かだが、打撲には違いない。患部に手をやろうとするが、その動きだけで背中に電流が流れるように痛む。

「この野郎、ちょろちょろと……」

 せっかくの睨み合いの間に、余計な音が入った。男が手を付き、立ち上がろうとしている。

 視界の端にそれを捕らえた二人は、同時に男を睨んだ。

 二人とも同時に腕を上げ、銃を構え、引き金に手を掛ける。

「「うるせぇよ」」

 声と銃声が僅かなズレもなく重なった。忘れた頃に、どさりと言う重い音。その時には既に二人が存在を忘れた音だ。

「ったく、手間かけるなよ」

「お互い様だろ? いつかは俺が助けてやったんだし」

「俺はこの誰かが勝手に与えてくれた余計な力があるからなんだっていいんだ。おまえはそうはいかないだろ?」

「嫌味か? 皮肉か? 自虐か? うわー、聞きたくない聞きたくない!」

「勝手にしろ。今度はスイカみたいに見事に割られるといいな。不味そうだから食わないけど」

「自分が優位の時はそう言うこというわけ? それって人としてどうよ?」

「そんなこというなら、今俺たちがしてる事って人としてどうよ?」

「そこまでだ」

 知らない声が会話に割り込んできた。

 二人は会話をしていたままの顔で声の方を見る。その時に初めて気が付いたが、いつの間にかかなりの人数に包囲されていた。こんな状態になるまで気が付かずにいられるとは、相当に自分たちを過信していたようだ。

「下手な漫才はやめてそろそろ現実を見たまえ。そんなコトしてる場合かな?」

 耳に付く話し方をするこの男がここのリーダーらしい。

 二人は一応三百六十度見渡したが、逃げる隙間は見出せない。いわゆる四面楚歌だ。

「何してたって蜂の巣にするんだろ? 喧嘩しようが殺し合いしようが俺たちの勝手じゃないか」

 減らず口を叩いたのは珍しくシキの方だった。こんな場面は何度も遭遇しているが、大抵コウがありったけの挑発をするのが常だ。それなので少し意外に思い、コウは横目でシキを見た。

 虚勢には見えない。彼は周りにいる男達とは真逆の結末を描いている。

 恐怖を微塵にも出さない言葉を吐くシキを前に、男が僅かにたじろいだように見えた。

「諦めが良いと言うことかな?」

「そうじゃねぇよ。そろそろ現実見なくちゃならないのは、あんたらの方って事」

 やっぱりそうか。

 確信を得、コウはシキの顔から身体に視線を移した。感じる気配がある。比重が重く、手に取れそうなほど濃い空気が広がり始めている。

 そしてシキはニヤリと笑い、慰めにもならない言葉を掛けた。

「まぁ、既に遅いけどね」

 不敵な笑みが、余計に彼らの恐怖心を煽ったようだ。理由の分からない余裕と笑みに、引き金を引くことすら忘れている。

 この不可解な状況から抜け出すべく、リーダーの男が声を張り上げた。

「撃てぇ!!」

 その瞬間だ。シキを中心に辺りの砂が天井高くまで舞い上がるほどの風が起こった。同時に弾丸は塵となって埃と共に舞い、銃口は溶け、終いにはそこに居た人間の肉体や、果ては精神をも破壊した。

 想像していたよりも強く、激しい。

 ――いつの間に……。

 気味の良さを押しのけて、一抹の不安が上がってきた。

 今無事なのは、自分一人なのではないだろうか、と。



 シキは眼前の光景を眼を細めて見ていた。

 断末魔の叫び声が四方八方から聞こえる。埃の幕の切れ間から、憎悪と狂気の表情をした顔が見える。決して気持ちの良い光景ではない。目や耳を塞ぎたくさえある。けれど、シキはそれをしない。自分の力を使った結果から、目を背けることはしなかった。瘴気という罪を背負った罰であると感じていたから。

 やはり、この力によって人が死んでいくのは苦痛だ。本来ならば人間には有り得ない力でが起こしている現実を、認めたくないのもある。これは食事とは違う。摂理に反した不条理だ。

 辺りから物音一つしなくなってから、シキは膝を付いた。胸を押さえ、出来るだけの深さと早さで息を吸う。身体の奥からマグマが煮え立つような熱を感じていた。冷や汗さえ出てきそうな程に身体が熱い。心臓が壊れてしまいそうなほどに早鐘を打っている。どんなに呼吸をしても、酸素が足りない。

「大丈夫か?」

 コウがシキの前に回り込み、肩に触れてきた。

 触れられた肩から、徐々に身体が冷えていくようであった。つい数秒前までの状態がじわじわと消えていく。

 灼熱の炎天下を彷徨っていたときとは違い、今は治療薬がある。大きな違いだ。

 一秒ごとに呼吸が楽になる。熱も冷め、視界も明瞭になった。

「もう、大丈夫」

 そう言ってシキは、ゆっくりと立ち上がった。膝に入る力の加減が不安だが、歩くことは出来そうだ。

 動作の途中で辺りを視界の範囲だけ見やり、目を細め眉をひそめる。

 無惨な肉塊。

 己の過信が招いた結果とはいえ、やはり見るに堪えない。

「行こうぜ」

 コウの声で漸く死体の群れから目を逸らし、二人で奥に向かった。金庫の場所だ。

「それにしても、一瞬でああなるなんて俺もちょっとびっくり。何度か見てるけど、今日のは昔の比じゃないぜ。相変わらずあの後はおまえ、辛そうだし。あんまり無理して使うなよ。俺も使わせないようにすっからさ」

 この言葉に、シキは生返事をするだけで取り合おうとしなかった。むしろ、その話を聞かないようにしていた。コウはそんなシキの態度を気にする様子は見せず、目当ての物を見つけると飛んでいった。

 今は、楽しんでいるんだ。遊んでいるんだ。気に病まず、楽しめ。

 自分に言い聞かせ頭を振ると、シキはコウに続いて走った。

 ちゃちな造りの金庫が一つ。銃弾を一発喰らわせると容易く壊れて口を開いた。狙い通り、中には金目の物がぎっしりだ。

「やったな」

「ああ……」

 浮かべた笑顔が消えそうになる。ぎこちない唇が引きつりそうになりながら口の端を上げている。

 ――忘れろ。今だけでも忘れろ。

 察しの良いコウのことだ。わざと構わないでくれているのだろう。彼の厚意に報いるためにも、貼り付けた笑顔を失うわけにはいかない。

 金庫の中から札を掴めるだけ掴み取り、思い切り天井に放った。小さな部屋一杯に紙幣が舞った。命を繋ぎ、時に命さえも買える紙くず。

 これを使って、弾丸を買い足し、煙草を買い、そして旨い物を食おう。

 現の夢に酔って、忘れてしまえばいい。


   *


「ひでぇな」

「やめようぜ。俺、濡れたくない」

「俺も。けど、折角目障りなのが消えて明日から清々すると思ってたのに、ちょいと残念だな」

 コウは膨れて曇天を見上げた。

 シキが瘴気で事務所一つを壊滅させた日から数日後。かねてから計画をしていた場所へ乗り込もうとしていた日。朝から真っ黒な雲が空を覆い、異様な湿度が大気を占めていた。嫌な予感は的中し、昼過ぎには当然のように降り始め、夕方過ぎからは空に穴が開いたかのように激しくなった。それが夜になってすぐ止むわけはなく、計画は中止になった。二人とも、濡れるのを嫌ったためだ。

 初秋であるのに、気温が一気に下がり、家の中にいても寒さを覚えた。

 窓ガラスには隙間無く縦縞の模様が流れている。数ミリ向こうの世界から、じわりと染みる冷気と、ごう、という雨音が伝わってきた。

 睨んでいても雨は止まない。渋い顔のまま、コウはカーテンを閉めると窓から離れた。

 振り返ると、シキが偉そうにソファーに座っていた。どちらが家主か解らない態度だ。そのソファーに対して垂直に置かれたもう一つのソファーにコウが座るのを見ると、シキは肘掛けに頭を乗せて横になった。話し相手が戻ってくるのを待っていたようだ。

「なあ、今日行く予定だった何とかっていうとこ、遠いし人数もあるし、面倒なんだろ? 何でそこなんだよ」

 天井に向けてシキが尋ねた。

 手持ち無沙汰になったコウは、テーブルの上のナッツをつまみながら天井に向けられた質問に口を開く。

「面倒の方が面白いじゃんか。人数なんて、おまえが居れば関係ないだろ?」

「そうだけどさ、今までのと比べて、らしくない場所選びだったから。何かあるんだろ、そこと。あったとしても大したこと無いんだろうけどさ」

「何かあるし、大したこともないんだけど、ウザくてさぁ。ちょっと規模がでかいからっていい気になりやがって」

「コウってそういう連中嫌いだったよね。自分本位、変わってないな」

 シキの苦笑が雨の音に混じって零れる。その音をナッツを噛む音で掻き消した。

「俺はおまえみたいにおっとりしていられないの」

「別に俺、おっとりなんかしてないよ」

「じゃあ、余裕か? ますますヤな感じだな」

 何を言われても悪意がないのを知っていてシキは笑い飛ばしている。コウはその笑い声を聞いては、耳障りな程にナッツを砕く音を立てる。

「とにかくその何とかってトコ、いつ行く?」

「トレ・タルパだって。少しは覚えろよ」

「覚えたって俺たちが潰して無くすんだ。無くなるモン覚えてもしょうがないだろ」

「おまえらしい考え方だな。ま、雨が止んで気が向いたら行くさ。金にも食うにも、暫く困らないからな」

 言いながら、コウはナッツを一つ掴むと、悟られないようにシキの口に狙いを定めた。慎重に慎重に、ありったけの集中力を使う。

 そして、一投した。

 が。

「サンキュ、コウ」

 天井を向いたままのシキがひらひらと手を振った。

 狙いは確かに正確だったが、普通上を向いたままの姿勢の所にいきなり口の中に何かが来れば、大抵喉に入ってしまうはずだ。それを予測して、むしろそうなると確信して、端から見れば何ともくだらないいたずらに全神経を集中させたのに、シキは全て見越していたように上手く受け止めてそれを食している。

 動体視力と空気の流れを読む力は到底シキには敵わない。敵わない事は他にいくらでもある。敵うのは、前向きさだけかも知れない。

 そのことを再認識しながら、コウはまたぼりぼりとやり始めた。時々シキが上を向いたまま催促するように手を動かすので、また同じように狙いを定めて放る。何度やっても遂に口から外れることも喉に詰まらせることもなかった。

「あーあ」

 突然、シキはバカに大きい声を出して溜息をついた。

「何だよ、シキ。暇だからって、今からは何処も行かないからな」

「そうじゃないって。このままずっと、雨が止まなかったらいいのにって」

「なんでまた。じめじめするだけで良いこと無いじゃんか」

「……瘴気が、少しだけど広がらないで済むから、身体が楽なんだよ」

 それを聞いて、コウはナッツを口に運ぶ手をやめ、口にある物を一気に飲み込んだ。そして、天井を見たままのシキの顔を眺めやる。落ち込んだ表情に、少し胸が痛くなった。

「あの頃とは全然違うんだ。この前見ただろう? あの死んでいった奴らの様……。いつの間にか、瘴気コイツの力は強くなってる。人も物もすぐに壊せるくらい……。そいつに俺までやられ始めてる。力使いすぎて、身体が沸き立つみたいに熱くなって、その後、いっとき何にも感じなくなったことだってある。身体の中で何かが切れたみたいに、苦しくも熱くもなくて……。そんな風になって、それから自分がどうなるのか、正直怖かった。また熱が戻ってきて、俺、瘴気に殺されるって……初めて、思った」

 ゆっくりとシキの口から独白が漏れてくる。

 シキの声は外で降る雨に似て、激しくも悲痛であった。

 やはり、恐怖がないなんてことはなかった。シキが瘴気で誰かを殺すことを嫌っているのは知っている。しかし、恐怖を吐露するのは初めて聞いた。誰だって恐い。その力に自身さえも蝕まれていくとするならば尚更だ。

「たぶん俺、自分に殺される。も、そうやって死んだ……」

 コウが手を止めたので、聞こえる音は雨の降る音と鈍い時計の針の音だけになった。

 コツコツと一秒ずつ刻まれていくのが嫌でも思い知らされる。今なってこの音が酷く大きいことにコウは気が付いた。時間とはこんなに耳障りなのかと、耳を塞ぎたくなった。この瞬間にもシキの身体は自身が発する毒に冒され続けていると思うと、時間を止めてしまいたいとさえ思う。ここにある時計を棄ててしまえば僅かだが苦痛は和らぐ筈だ。そんなことをしてもただの気休めで、流れる時間も溢れる瘴気も止まりはしない。しかし、知覚するかしないかでは大きく違う。真夜中を指す時計の針を睨んで、コウは破壊衝動に駆られると共に激しい哀傷を感じた。後者の感情の方が強く、悲しみと悔しさに震えそうな手を握り、のたうち回る哀怨の情を堪えていた。

 何故、瘴気を害としない者が居るのに当の本人に害があるのか。全く納得がいかない。こんな所にも世の中の不条理がある。何故、他人にある耐性ががシキ本人にもないのかと、コウはそれさえも悔しかった。

「随分前におまえが時計が無情だって言った理由、今になって解った気がする……」

 漸く絞り出したコウの声を、シキは聞いているのかいないのか返事をしなかった。



 時計は無情だ。

 目を天井に泳がせて、別の奴にもそう言った気がすると考えていた。コウの言葉に何も返さなかったのは、返す物がなかっただけだ。

「時々思うんだ。この瘴気がなかったら、俺はどんな風になってただろうって。考えたってしょうがないのは解ってるけど、……望まずには居られない時が、時々あるんだ」

 天井を見ながら願ったその時時を思い返す。

 瘴気があるが為に、叶わない夢を見たり、得られないものを望んだり、大切な人を自らの止められない物の所為で失ったり。それが余りに辛くて、だから雨を望んだりしてる。でも、それなのに太陽に焦がれる時がある。

 口にすると余計に自分がみっともなく感じる気がして、シキはそれ以上続けなかった。

「苦しまないために雨が欲しい。けれど、遊ぶための月が欲しい」

 シキの代わりにコウが続けた。それに対して上がってきた言葉を、何度か口の中で反芻する間に、罠に気が付いた。危うく禁断の言葉を誘導されるところだった。言えば又怒鳴られていたに違いない。息を呑みながら電灯を見、舌打ちをした。

 太陽。雨の間も、夜の間も見ることが出来ない、決して焦がれてはいけないもの。欲し、手を伸ばすことは、死神にキスをしに行くようなもの。

 その様子をコウは横目で見て、苦い顔をした。口にはしなかったとはいえ、その動作だけで罠に掛かったのが見えたからだ。

「雨、暫く続くだろうけど、そのうち晴れるから。急くこと無いさ」

 やはり察しが良い。そして、罠の内容は思った通りだった。言い終わって立ち上がり台所に向かうコウを目で追いながら、口が戦慄きそうになるのを抑えてた。

 コウが見えなくなり、冷蔵庫のドアの開く音がした。その間に、シキは腫れ物に触るような手つきで、そっと自分の唇に触れた。

 大丈夫。震えてない。

 それが分かると、溜息を吐きながら手を離した。その腕を今度は目の上に乗せる。腕の重みが疲れた目を押してくる。真っ暗だ。

「飲むか?」

 声と同時に額に張り付いてきそうな冷たさを感じて、腕をどけて目を開けた。そこにはコウが缶ビールを両手に一個ずつ持って立っている。シキは返事もしないまま缶を手に取った。それを見るとコウは元居た場所に戻る。

「飲めるのか? コウ。別に無理しなくても……」

「ばぁか。無理なんて誰がするかよ。飲みたいからシキも誘っただけで、飲みたくないんならおまえこそ付き合わなくたっていいんだぜ」

「や。貰うよ。コウがアル中になっても俺は関係ないし」

「俺のこと莫迦にしてんだろ。おまえこそ二日酔いになって倒れてればいいんだ」

「言ったな? じゃあ、今夜はどっちが先に潰れるか賭けようぜ?」

「おーし。ぜってぇおまえが先に潰れる」

「下戸に負ける程弱くないんでお生憎様」

「もう下戸じゃねぇって言ってんだろ!」

 コウの声が何処か無理をしているように聞こえる。彼もこの憂鬱に中ってしまったのだろうか。他人に影響されるなど、彼にしては珍しい。

 その夜、ビール合戦では飽きたらず、互いに飲めもしない酒をどこからか引っ張り出しては浴びるように飲んだ。

 結局どちらが先に潰れたかわからないまま、泥酔した二人は眠りに落ちた。


   *


 表から轟音がする。雨の音だ。

 雨音だけが溢れるリビングで、フォルトは肩を落としていた。

 先日以来があった仕事の対象の足取りが全く掴めないのだ。顔写真と与えられた僅かな情報で探し当てられるような容易い相手ではないらしい。テーブルに資料を撒き散らし、項垂れた。頭を押さえる左腕が欲しい。

 片腕を失い、自分の探し物も探せなくなっていた。余裕もなければ、手がかりもない。行き詰まり、一度断念せざるを得なかった。

 そして再び探し当てられない物にぶち当たった。性質は違うが、見付けられないものには違いない。情報収集にはある程度自信があったが、今回は参った。

「こいつ、誰?」

 訊かれ、顔を上げると、いつの間にかやってきたシュウがテーブルの上にあった写真の一枚を取り上げて見ていた。

「何でもない。仕事の資料だ。返せ」

「何でもなくないじゃん」

「いいから返せ。おまえには関係ない」

「確かに関係ないけどさ」

 渋った手が写真をテーブルに戻した。

 自分も随分と腑抜けになったものだ。他人が居ることに完全に慣れている。そして、そのことに一つの警戒もしていない。今のところ無害だからいいようなもので、ある日突然寝首を掻かれても文句は言えない状況だ。強引な流れがあったとはいえ、事実上、軒を貸すことを許可している。己の迂闊さに気付いたから出ていけとは言いにくい。せめて、もう少し気をつけるとしよう。

「あーあ」

 既に写真の主に興味を失ったシュウは、いつの間にか窓辺に立っていた。

 外を眺め、落胆している。

 どうせ計画がお流れになって不満なのだろう。

 フォルトは散らかした書類をまとめ、その代わりに、弾丸の箱とマガジンを取り出し弾を込め始めた。片腕になってから自分で銃の整備が出来なくなった。まず、分解できない。自分で使う銃を他人に整備させるのは気が引けたが、仕方がない。口と足を使っても出来ないことは、誰かに任せるより他無かった。

「あー。折角掃除できると思ったのにさぁ。梅雨でもないのに何で雨降るんだよぉ」

「梅雨じゃなくても雨は降るだろう。この雨は長引きそうだな」

「何で長引くんだよぉ。鬱陶しいじゃねぇか」

「うだうだ言ってるおまえの方がよほど鬱陶しい。うるさくするなら向こうで寝てろ」

「うー」

 湿気った顔をして、シュウが向かいの席に座った。テーブルに腕を載せ、だれている。黙っていれば目障りではないとでも思っているのか。

 見ていると神経に障る物がある。無いものとしよう。

 弾丸を込める作業に戻ると、

「掃除しようか?」

 手が伸びてきた。

「うん?」

「だから、銃の整備。片手じゃ出来ないだろ?」

 面喰らっていると、銃を持って行かれた。マガジン毎抜いてあるので撃たれる心配はないとはいえ、不用心だった。

「ほら、道具」

 本気で手入れをしてくれるらしい。どちらにしろ他人に任せざるを得ない作業だ。出来るというのならば、断る理由はない。

 フォルトは近くの棚の引出から道具を一揃い取り出すと、シュウに手渡した。

 彼はそれを受け取ると、慣れた手つきで銃を分解し始めた。手の動きに迷いはない。道具の使い方も正しく、几帳面なほど丁寧に汚れを落としていく。

 不似合いだ。

 フォルトは漠然と思った。

 血の色をしていないシュウは、この場にそぐわない気がしてならない。

 弾を込めながらその理由を暫し考え、一つ結論を得た。

「おまえ、育ちは良さそうなのになんでこんな所で生きてる」

「んー? 俺、そんなにおぼっちゃんに見える?」

「所作がな。割と大きくなるまでそれなりの家庭に育ったんだろう?」

「背、伸びたのはお陰様だけど、無かったことにしてるから」

 軽い口調が消え去った。目を伏せ、大きな身体が手元に向かって萎縮した。

 ――これがこの男の所以か。

 誰でも闇に墜ちる理由がある。きっかけがあり、動機がある。

 それがなんであれ、人にとってそれは傷以外の何物でもない。触れてやらないのが親切というものだ。

 そうか、とだけ返して、弾を込める作業に戻った。

 シュウの手の中で、一度部品に戻った銃が、再び凶器の形を取り戻していく。見事な手際だ。盗み見ながら感心していると、

「フォルトって遠距離の方が得意そうだよな」

 尋ねる、というよりも、確かめるような口調で言われた。何を見て判断したかは定かではない。ハンドガンは不釣り合いに映ったのだろうか。

「まあな。変なところで父親に似てるらしくてな。遠くから狙い撃ちする方が本当は性に合ってる。ライフル一丁で全部片付けば楽なんだがな」

「チームならまだしも、一人じゃ無理だよなぁ」

 笑いながら、組み立て終わった銃を寄越してきた。受け取り、マガジンを差して装填する。良い具合だ。

「親父さんも同業?」

「ああ。隠していたようだが。他に飯が食えるほど器用なインドアじゃ無かったはずだ」

 不仲だったから、直接聞いたこともない。たまたまきちんと閉まっていなかった書斎のドアの隙間から、黒くて長い銃身をちらと見ただけだ。

 捨てるように家を出、色々試すうちに行き着いたのが狙撃というスタイルだった。父に似たのかも知れないと思ったのは、腕を失くした後だ。

「やめよう。家族の話は、嫌いだろう」

「別に。俺が話したくないだけだから」

 口の端を上げる動作がどことなくぎこちない。傷を弄る許可などしなくて良いのに。

 どのみち、他に語るような家族の話はない。そもそも、あの家で家族として扱われていなかった自分に、語る資格もないだろう。

 やはり、そうか、とだけ返して、銃をテーブルに置いた。

 と、シュウが身を乗り出して、

「その銃、年季入ってるね。誰かからの貰い物とか?」

 折角会話を打ち切ったのに、努力虚しく話題がやってきた。その銃、とは、先程手入れをして貰った銃のことだ。

 再び過去が蒸し返される。

 ――ああ、そうか。

 突然繋がった思考に、胸のつかえが取れるのを感じた。

 警戒を忘れながらも顔を合わせると無条件に不愉快に思う理由が漸く解った。

 目の色、髪の色、背の高さ、人の言葉に対してわざと逆撫でするような物言い。似ていないのはこちらに警戒心を抱かせない雰囲気と、時々見せる不安の顔。

 この辺りは少ないとはいえ、〝彼〟と同じ人種はごまんと居る。まさか思い出すとは思わなかった。

「昔」

 二十数年前の大昔。

「両手で歳が数えられる程度の子どもに、四十五口径を餞別に渡す鬼畜が居てな。あまりに人でなしだったからいつかこれで撃ち殺してやろうと思っていたが、その前に死んでしまった。これは……捨てる理由もないから使ってるだけだ」

「古き良き思い出……って感じでもないね」

「おまえと同じか近い人種の、異様に背が高い男でな。子どもの目線じゃ化け物みたいな高さだった。ガキ相手に手を挙げる奴じゃなかったが、口は容赦なくて……。ああ。今更だが腹が立つ」

「似てるからって八つ当たりは無しだからな」

「そんな大人げないことするか」

 することもなくなり、外からの轟音が戻ってきた。雨は滝のように窓ガラスを舐めて流れていく。筋になって落ちるほど悠長な降り方はとっくに終わっている。

 時間を追うごとに激しさを増しているように感じる。今夜は勿論、暫く止みそうにない。

「コーヒー淹れていい?」

 そう言ったときには既に立ち上がっていたシュウは、返事を待たずに台所へと歩いていった。向かい合わせで豪雨の音だけというのは、いささか間が持たなかったのかも知れない。

 やかんを火に掛けても戻ってくる様子がない。ドリップが終わるまで戻るつもりはないのだろう。呼び寄せる理由もない。テーブルの上からメシの種一揃いを片付けた。台所を覗き見ると、コンロの前でシュウはじっと火に目を落としている。

「おい、シュウ。まだ答えを訊いてなかったが、ゴミ掃除の後、どうするつもりなんだ?」

 反応が返ってくるまでに間があった。何に気を遣っていたのか、思い出したように身震いを一つすると、ゆっくりとこちらを向いた。

「そうだなぁ……」

 シュウは首を傾げたが、また一つ身震いをすると火に目線を戻した。

 彼が撒いた種とはいえ、家族の話はやはり堪えたのだろう。語りたくもないほどの家族。希有とは思わない。殺したくなるほどの親もいれば、死にたくなるような環境もある。同情はしないが、触れることもするまい。

 ――殺されなかっただけ、俺はマシだったな……。

 息をするのにも気を遣う屋根の下だった。それでもそれほどネガティブにならずに生きていられたのは、無条件に慕ってくれる者が一人だけ居たからだろう。

「むう……」

 腕を失くした傷口に疼痛を感じた。

 ――俺にとってもこれは傷か。参ったな。

 テーブルに戻ると、頬杖を付いてコーヒーを待った。

 片腕になってから、頬杖を付くことはやめていた。何かあったとき、咄嗟に銃を抜くための手を顎の台にしている余裕はないからだ。それなのに今、無防備を曝している。一人ではないという安心感か。執着していた生から離れ始めているのか。

 こんな有様で、再び探し始めることは出来るだろうか。

 絶望を含む溜息を吐いたとき、コーヒーがやってきた。



 二人分のカップとなみなみにドリップしたサーバを持って、シュウはリビングに戻った。

 頬杖を付いたフォルトの前にカップを差し出し、コーヒーを注ぐ。自分の分も注いでから、シュウは席に着いた。

「さっきの話」

 啜るにもまだ熱い苦味を、無理に口の中に含んで一息。

「まだちゃんと考えてないけどさ、フォルトの所に居ても欲しいモンは手に入らないから、終わったらどっか行くよ」

「そりゃあ願ってもないな」

「いかにも早く出て行けって感じで言うなよなぁ」

「それで? 出て行って例の男を捜すのか? それとも、自分の死体か?」

「ん……」

 カップに口を付けたまま、フォルトから視線を外し、暗い雨降る外を眺める。その闇の中に、ぼんやりと不機嫌丸出しのシキの顔が浮かんだ。数ヶ月見ていない顔だ。その顔がシュウを睨んで、「ばぁか」と声もなく言っている。

 自虐的にも、もう一度言われたい。存在を否定してこないあの悪態を。

「やっぱなぁ」

「なに?」

「あ。いや。死体探しは、死んでからするよ。俺は、あいつじゃないとダメだから」

「ご執心だな」

「うん。一目惚れした」

「不幸な奴だな、そいつも」

「そうかもね」

 笑みながら、シュウは残りのコーヒーを全部飲んだ。液体が食道から胃に入り、身体の奥に染みていくのを感じていた。そして安堵の溜息を吐く。

 しかし暫くすると、冷ややかな視線を受け流しながら、カップの取っ手を掴む手に力を込めていた。奥歯を噛んで堪えるも、こめかみが痛くなるだけで効果はない。黒い澱が込み上げてくる。既にカフェインで誤魔化せる時期は終わっていた。薬もない。シキも居ない。一秒ごとに正気が削られていく。

 トレ・タルパの殲滅をする前にここを出ていった方がいいのかも知れない。表に出れば再び追われる日々がやってくるのは間違いないが、このままここに留まれば、この狂気はいつかフォルトに向く。

 狂気に浸食され尽くす前にシキに会わなくては。せめて、強い酒か薬でも良い。

 早く。

 早く早く。

 がた、と、椅子の脚が床を擦る音がした。顔を上げるとフォルトが立ち上がっている。

「どうせ今夜この雨は止まないぞ。晴れの日がいいなら止むまで文句言うな。することがないなら寝てていい。俺ももう寝る」

「……ああ」

 フォルトはコーヒーを注ぎ足し、カップを持って自室に消えた。

 力を込めた手や、歪んだ口元を、彼はきっと見ただろう。それをどう捉えたかは知らない。訊くほどのこともないと思ったか、訊いてはならないと思ったか。

 一人になると、症状は和らいでいった。気付かれまいと思うことで余計に助長してしまっているのかも知れない。

 とはいえ、このままでは状況に関係なくいずれ狂い出す。

 サーバに残ったコーヒーを注ぎ、両手でカップを包んだ。項垂れ、雨の音を聞く。

 頭が痛い。奥歯を強く噛み締め続けた所為だ。温まった手でこめかみを押し、頭痛を紛らわせる。

 ――限界、ってやつかなぁ。

 狂気の露出が顕著になってきた。以前は感情に伴う発露が多かったが、今は時を選ばずお構いなしだ。良い兆候からはほど遠い。この先、発作のスパンは短くなる一途だろう。

 不安も一緒にこめかみに擦り込みながら、もう一度窓の外を見た。雨は余計に強くなっているような気がする。カーテンの隙間から覗く窓には自分の顔が映っている。映る自分と目を合わせて問い掛けた。

 ――シキは、同じ空を見てるかな?


   *


「嵐みたいだなぁ」

 カーテンを僅かに開けて外を見たトイが呟いた。既に土砂降り。風が伴えば完全に嵐になる。いっそそうなってしまえばいいと思いながら、ルイレンはソファに寝そべっていた。

 トイはカーテンを閉めると、向かいのソファに座った。

「湿度が高いのは好きじゃない」

 不満げな声を聞いて、ルイレンはトイに顔を向けた。

「晴れの日も好きじゃない癖に」

「圧迫感が嫌い。雨の日は重たいし、晴れの日は熱でむっとするだもん」

「俺は雨は嫌いじゃない。静かで落ち着く」

 おもむろに起き上がり、トイが居た窓辺に立った。人差し指でカーテンを捲り外を眺めれば、そこは闇と豪雨。

「落ち着くかなぁ……」

 解せない様子のトイを視界の端で捉えながら、ルイレンは夜の空を見据えた。

 何も見通せない闇の向こうに、一人の少年の顔が浮かんだ。世界の全てを悲観し憎んだ目が一瞬だけこちらを見たのを思い出す。もし、再び対面することがあったとして、彼はやはりこちらに銃口を向けるだろうか。

 いつか感じた痛みが蘇った気がして、身震いをした。背中から指先にかけて瞬間的に焼かれたかのような感覚がある。幻痛だ。

 予感がする。

 嵐の予感だ。

 そして、あの痛みに焼き尽くされる。そんな予感がした。

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