第21話

 闇と同化するようにすべてを漆黒で包んだ男が、微動だにせず自室のソファーに横たわっていた。

 遠くから激しい銃声がしている。

 音は遠い。窓を開けているから聞こえるようなもので、閉め切れば恐らく聞こえなくなる程に遠い。

 男は目を閉じていた。しかし眠りにはほど遠く、神経は研ぎ澄ましたままだ。時々眉根を詰め、時々思いだしたように目を開ける。それを繰り返していた。

 ソファーは丁度日溜まりであった。照明は点いていない。窓から入ってくる太陽の光がこの部屋にある唯一の光だ。レースのカーテンで一段階置いた光は、柔らかくなって男に届いている。ソファーの片方の肘掛けに頭を、もう片方に長い足を放って、高価な黒いソファに沈んでいた。

 打ちっ放しの広い部屋にソファを向かい合わせに置き、その間に低いテーブル、そしてその空間には不似合いのグランドピアノ。そのピアノが唯一空間に馴染むと言えば、色が黒いことだけだ。ソファーの斜め前には巨大な円柱状のガラスの入れ物がある。中には小さな金魚が悠々と泳いでいた。他にワイングラスを入れた棚や小さな机などもあったが、どれもこれもその広い空間にあるべき物とは遠い雰囲気を出していた。その空間には何もそぐわない。唯一この男だけが場と馴染んでいる。

 男は気配を感じた。ゆっくりと瞼を開ける。

 覗くのは黒い瞳。

 黒い狼を束ねる者の瞳。

 彼は自分の手を見やった。黒い革の手袋をした両手だ。何気ないときに目が行く。今や癖になっている。特に、寝起きや長い間目を閉じていた後に見ることが多い。未だに想うものがあるのだろう、とその動作の理由を考えていた。

 二十数年間、ずっと想ってきた。未練だと解っている。そして、消えてしまわなくて良かったとも思う。

 ノックの音。

「入れ」

「失礼します」

 黒いスーツに黒い髪を撫で付けた男が入ってきた。

「トイは、またお使いですか」

「ああ」

「別の者を使えばいいのに。ルイレン様も、少しは動いたらどうです? 気付けばいつも昼寝して」

「それだけを言いに来たのか。アキ」

 ソファから起き上がることなく、ルイレンは側近であるアキを見やった。

「いいえ。いつもの小言も言いに」

「食傷してる」

 面倒臭い。そう思うと、アキの澄ました顔から顔を逸らした。

 同い年。背はルイレンよりも高い。幼少時、売られそうになっていたところを、

「あらやだ可愛い」

 の一言でルイレンの母に拾われ、今に至る。

 側近として何かと傍に居るとはいえ、友人が欲しいという望みは叶えられなかった。望んだのは幼い頃の話だ。

 今では、部下と上司と言う関係ならば普通は言いづらいようなこともさらりと言うし、痛いところを容赦なく突いてくる。それも敬語で。下手な友人よりも扱いに困る。

「いつまで飼い続けるおつもりです?」

「飼ってなどいない」

「では、言葉を換えましょう。いつまで囲っているつもりですか」

「……悪くなってるぞ」

 何度も、何十回も同じ質問をされ、曖昧に流してだらだらと時を稼いできた話題だ。

 どうでもいい。とは表面上思っている。それより深くの思考は、自分でもよく解らない。

「世話を焼いてやっている殺し屋はまあ良いとしましょう。ご事情もあるようですし? ですが、あんな不器用な傀儡を、この先貴方はどうするおつもりです?」

「自分も拾われた身だろう」

「私は別に黒狼が無くなろうと貴方が死のうと、生きていく術はあります」

「本心か?」

「でも、あの子にはないでしょう。少し前まではありましたけどね。貴方が変えてしまった。余計なことをして、責任も取れない癖に」

 こちらに言葉を全て無視して続けるとは良い度胸だ。

「……アキ。言葉が過ぎるぞ」

 他の部下が発した言葉なら、容赦なく撃ち抜いているところだ。

 眉間を抑え、溜息を一つ。

「なんにせよ、中途半端なことはしないことです。そして、ご自分の立場をいい加減、認識してください」

「そんなの、俺の勝手だろう」

「一人称」

「誰も居ないんだ。今くらい好きにさせろ」

 どうでも良いと思いつつも、不満はある。言いたいこともある。それを許されないのがこの地位だ。

 鬱陶しい。面倒臭い。

 それで片付けられるほど、この世界は甘くない。解っていながらも、どうしても怠くなる。

 何のために生きているのだろう。このくだらない世界に、何を遺せるというのか。僅かな気がかりを除いて、物事に興味を持てないで居る。

「……まあ、長生きは出来そうにないからな。考えておこう」

「長生きするつもりがないだけなのでは?」

「……面倒臭いからな」

 アキの溜息が聞こえた。この男も、よく愛想を尽かさないものだ。いくら恩があるとはいえ、個人的には何もしていない。その忠義の出所は、理解の外だ。

 目障りと思えばすぐに殺し、要らないと思えばすぐに捨て、欲しいと思うことはそれほど無く、時間を淡々と指先でにじり潰すように過ごすが常。そんなルイレンの姿を見て、人は「冷酷だ」と言う。

 冷酷とはこういう事だろうか。ただの我が儘ではないかと思う。もしその我が儘が他人の理解できない次元のものであるのならば、寧ろそれは「不条理」だろう。

 不条理ならばいくらでも口にしよう。根拠も、信念もない、口から出るがままの我が儘。欲求。感情。銃を手にしてそれを言えば「脈絡がない」と言われ、引き金を引いた後に「不条理だ」と思われる。

「殺し屋も、気まぐれで相手にするのはやめた方がいいと思いますよ。関係性が濃くなって、傷付くのは貴方なんですから」

「俺が傷付くって?」

「誰よりも」

「まさか。人は誰でもいつか死ぬ。それがいつ来ようと、誰の手に因ろうと、俺には関係ない。生きている者が死んで、何故俺が傷付く」

「でも、一匹狼にわざわざ仕事を回すのは、既に繋がりがあるからでしょう」

「腕が良いから仕事をやっている。それだけだ」

「認めないんですね。相変わらず」

 何処で知ったのか、アキは大抵のことを知っている。それを人をつつく材料に多用してくる。

「おまえ、だんだんイリヤに似てきたな」

「心外ですね。あの鬼畜に似てきたなんて」

 母の側近だった男。幼子にとって、彼は化け物のような背の高さだった。主従関係などまるで顧みず、他人を虐めることを生き甲斐にしているのではないかと思うほど嫌味な男だった。小さい頃、そのイリヤに良く虐められた。だから、仕返しとして爆竹を投げてやった。運悪く死ななかったので、次は手榴弾にしようとしたが、ピンを抜く前に見つかり事件は未遂に終わった過去がある。

 その嫌味な男も、母とほぼ同時に死んだ。側近と言うには母とはあまりにも近い間柄だった。元々黒狼は、祖父が一代で造り上げた組織で、母はその愛娘。父は婿養子として黒狼に入り、頭領としてそれなりに巧くやっていたらしい。

 それがあるとき、夫婦喧嘩になった。理由は知らない。最終的には殺し合いを初め、イリヤを巻き込み、父も母も互いの銃弾で事切れた。そう聞いている。

 やかましい音を聞きつけた当時十五歳のルイレンが音のする部屋を覗いたときには、既に結果が出ていた。

 莫迦なことをやって。

 感想はそれだけだった。死体を片付けさせた次に待っていたのは、次期頭領の座に力尽くで座らされること。変に忠義に燃えた男達が多かった所為で、世襲は当然とルイレンをトップに据えたのだ。本人は少しも望んでいなかったというのに。

「じゃあ俺は身辺整理のために準備しなければならないから、一人にしてくれないか」

「どうぞ、安らかなお昼寝を」

 がちゃり。

 アキの嫌味の語尾に、戸が開く音が重なった。

「ルイレン。今帰ったよ」

 噂の主が帰ってきた。

「ノックしろと教えたはずだが」

「忘れちゃった」

「……どいつもこいつも」

「私はノックしますよ?」

「ノックに限った話じゃない。良いからおまえは出ていけ」

「仰せのままに」

 出ていくアキと入れ違いに、青年が部屋に入ってきた。足音は近づいてくる。そして、横になったままのルイレンを、まだ幼さを感じる顔が覗いた。

 明るい金の髪に、青緑の瞳。黒の部屋からは完全に浮き上がっている。異質で、そして美しい色。

 トイだ。

「仕事は済ませたか」

「いつも通りだよ」

「それにしても目立つな、その色」

「染める?」

「……似合わないからやめておけ」

「でしょ?」

 口元に笑みを浮かべ、トイは窓辺へと歩いた。その背を目で追う。彼は窓辺に手を付くと、背伸びをして身を乗り出した。首を少し傾げると、そのまま静止する。

 銃声でも聞いているのだろうか。それにしては、焦燥を抑えているようにも見える。普段は見せない、感情の揺らぎがある。

「何かあったのか」

 浮かせた踵を、床に着けてはまた離し。そうしている間に、銃声が止んだ。同時に、彼の落ち着きのない動きも止まる。

「昔の友達にね、会ったんだ。死んだと思ってたのに、元気だったよ」

「以前少し話してくれた、シュウという男か。俺も一度見たが、しぶとく生きる男に見えたぞ。世界を冒す痛みすら感じていない。奇特な男だ」

「最近そうでもないみたいだけどね」

 トイは熱波が入り込む窓を閉めた。表と隔絶された途端、クーラーの動作音が耳に付く。そして、冷気が顔や手を掠っていった。

「折角ついてるのに」

 電力の無駄遣いを指摘すると、トイは傍までやってきた。絨毯の上に座り込み、ソファを背に付ける。膝は立て、両手は無気力に落としている。

 横顔に見る青緑の目は物悲しい。以前は人形のような生気のない目をしていたが、今は血が通っている。しかし、もっぱら憂愁が影を落としていて、笑顔は勿論、正の感情を目にしたことはない。

 生い立ちの所為とはいえ、難儀な男だ。

 トイは自分を「人形」あるいは「商品」としてしか見てない。そのくせ、生への執着は強い。生きながらえたいが、その術を一つしか知らない。己を殺して全身を売る、その一つしか。

 そういう生き方もあるとはいえ、不幸だ、とルイレンは思う。

「旧友だろう? 連んで好きに生きたらどうだ」

「あいつは俺の糸なんて持ってくれないよ。そういう奴だよ。だから俺はあんたの所に居るんじゃないか」

 彼が求めているのは糸の持ち手。傀儡師。拠り所。

 生きたいのに生き方を知らない。故に主となってくれる者に寄り添い、従い、慰める。

「俺より優れた傀儡師が居たらどうする」

「……何度も同じ事訊くんだね」

 聞き飽きたと言いたげに溜息を吐くと、トイはルイレンの脇腹に頭を乗せた。いい案配だとばかりに目を閉じる。

「あんたが死ぬか、捨てられたら考えるよ。いつもと同じさ。いつもと、おんなじ」

 同じ事を問い、そのたびに同じ答えが返ってくる。



 同じ事が起き、その度に同じように次を考える。

 主が糸を掴んでいてくれる限り、絶対に離れない。操られるままに、たとえ気の知れた友人でさえも、操り主がそう操るのなら容易く殺す。それが、トイの生き方だ。

「哀れな玩具のまま、おまえは終わる気らしいな」

「他に何も見つからないから」

 ルイレンはよくしてくれる。寧ろ、甘やかされている。慰み者にすることもなく、時々思いだしたように用事を言いつける以外は放置されている。邪険にされているわけでもない。誘う素振りさえしなければ、追い払われることもない。

 不意に頭を撫でられた。手の主の顔を盗み見ると、目を閉じている。

「今、ルイレンが何考えてるか当てようか」

「当ててみろ」

「『自分を殺すので精一杯なのに、何物好きやってるんだろう』。違う?」

 直後、くっ、と奥歯で噛み締めたような笑いがした。

「おまえ、俺を何だと思ってる」

「面倒臭がりの一匹狼だろ?」

「そうやって俺を莫迦にするのはアキとおまえだけだ」

「莫迦になんてしてない。俺がルイレンの機嫌損ねて、何の得があるんだよ」

「おまえ、解ってて言うな。上手く匙加減してることくらい、俺にだって解る」

「他の奴が同じ事言ったら、今頃射撃の練習台だろ」

「……まあな」

 ほら。今の主は俺に甘い。

 もう一度上を向き、また目を閉じる。

 ルイレンが呼吸をする度に、脇腹に乗せている頭が緩やかに上下する。緩慢で、深い呼吸は問いのリズムと殆ど同じだ。こうして頭を乗せてくれる主が生きている限り、トイもまた生きていられる。ルイレンの呼吸は、トイの呼吸そのもの。

「俺はただ、見たいものがあるだけだ。幼稚で莫迦げたものをな」

「ふうん」

「組織は動かしていてそれなりに楽しい。だが、無くなるならば無くなればいい。俺には元々どうでもいいものだ」

 あまり自分のことは語らないルイレンが、珍しく零した。

 面倒臭がりは知っているが、彼の言葉からは無気力も感じる。目的以外の殆どに感心も気力もないらしい。彼の目的が具体的に何なのかは知らない。それについても燃えるような意思を感じることはない。見つけられたら儲けもの。その程度にしか思っていないように思う。

 ルイレンが何を追おうと自由だ。だが、その為に命を落とすようなことはして欲しくない。今まで生きていて、最も居心地の良い拠り所を、易々と手放したくなかった。

 ――変わったなぁ、俺。変えられちゃったのかな……。失くしちゃったら、どうしよう……。

 不意に焦燥が訪れた。

 ぞわりと全身を駆けた悪寒に、トイは思わず飛び起きて自分の身体を抱えた。

 恐い。

 失くすことが恐いと思ったことなど、ただの一度もなかったというのに、今、途轍もなく恐ろしい。

「どうした」

 背中からルイレンの声がした。顔を伏せているので、表情は見られない。しかし、身体の震えは隠せない。



 初めて見る様子に、ルイレンは肘を付いて半身を起こした。

 怯えている。

 童顔とはいえ成人した男が、子どものように震え、怯えている。

 妻帯もせず子どももいない為、どうすればよいか解らない。愛情を持って手を差し伸べられた記憶も残っていないので、途方に暮れた。

 ――こんなことだから、愛想を尽かされたのだろうか……。

 悔いる過去がある。

 それを、自分が不甲斐なかったからだと結論づけている。違ったとしてももう起きてしまったことだ。

「トイ。ほら、どうしたんだ」

 肩を抱く手に触れた。すぐさま強い力で拒絶された。

「やめてよ。甘やかさないでよ。こんな思いするくらいなら、切り刻まれた方がマシだ……!」

 膝と肩を抱え、トイは丸まった。

 術がない。

 こうなったのも、自分の業だろうか。

 ルイレンは再び肘掛けを枕にソファに横になった。

 約四年、傍に置きっぱなしにしているが、何が起きたのかさっぱり見当が付かない。

 ――もう四年にもなるのか……。

 早いものだ。

 傍に座りその上腹に頭を乗せてくるなど、組織の他の者なら誰もしないことを平気でしてくるこの男が転がり込んできた日のことを、ルイレンは寝入る一歩手前の意識の中で思い出していた。


   *


 四年前。

 夏が逆戻りしてきたかのような秋の日。汗ばむ程に暑く、また、乾いた風が吹きすさんでいた。路上の砂が舞い上げられ、黄土のカーテンを作っていた程だ。

 ルイレンはクーラーを効かせた私室にいて、ソファーに横になっていた。

 黒いソファーに沈み、空間に同化する。アキに良く怠惰と評されるが、気にしたことはない。

 扉の向こうが騒がしい。ルイレンの部屋は、広い屋敷の奥だ。そこまで騒ぎが聞こえてくるのは珍しい。目を閉じたまま、音を聞いた。

 耳障りだ。眉を顰めたとき、喧噪の隙間からノックの音がした。

「失礼します」

 返事を待たずに部下の一人が入ってきた。

「なんだ」

「は。外に怪しい少年が倒れていたので調べた所、数人が首の骨を折られ、二人が肩の関節を外されまして。一応どうにか拘束したのですが……」

「間抜けが」

 ルイレンは不機嫌に起き上がり、テーブルの上に無造作に放ってあった拳銃を手に取ると扉に向かって歩いた。その途中で、報告をした部下の眉間に通し穴を開けた。崩れる部下を避け、騒ぎの元に向かう。

 屋敷の中に侵入者が現れたのは初めてではない。しかし、自ら出向く前に片付いているのが常だった。今回初めて不届き者の元に足を運んでいる。

 広い廊下に出来た人だかりの中に、ひときわ目立つ明るい茶色の髪があった。二人がかりで両腕を掴まれ、肩を押さえられて床に押しつけられている少年は、既に声も出さず暴れることもしていない。顔を見なくても投げやりになっているのが判る。

「コイツがこれを」

 部下の一人がそう言って一丁の拳銃を渡してきた。マガジンを調べるが、一発も入っていない。銃声は聞こえなかったから、ここに来た時には既に撃ち尽くしていたのだろう。

 床に伏している男は埃と血にまみれた服を着ていた。血の量が尋常ではなく、乾いていることから本人のものではないと判断できる。靴跡は今回の騒動の時に蹴られでもしたのだろう。

 少し遠くを見やると、首を有り得ない方向に向けて倒れている者と、右肩を押さえて呻いている者が居た。前者は勿論息はない。他にも腹を押さえていたり足を引きずったりしている者が居る。この少年は取り押さえられるまで相当暴れたらしい。

 それよりも、この状況自体に違和感を感じた。

「……何故、誰も銃を抜いていない」

 辺りはしんとした。何か言いたそうであるが、言葉にすることが出来ないようだ。

 死人を並べるまで手こずっていた相手を生かしておく理由はない。侵入者は何があっても生け捕りにしろと言った覚えもない。

 余り黙っているのは良くないと思ったのか、一人が恐る恐る発言した。

「なんていうか、その、どうしても抜けなかったんです。理由は、よく解りません。こんなこと、初めてで……」

「もういい」

 言い訳を聞く耳はない。呆れすぎて溜息も出ない。

 ルイレンは捕らえられた少年の前で屈んだ。彼の顎を掴み、自分の方に向ける。すると、力の無い青緑の瞳がルイレンを見た。力が無いのは瞳だけではない。表情から全身まですべてに気力がない。つい先程まで暴れていた人間とは到底思えないものだった。その顔に、うっすらと火傷の痕が残っている。もう少し時が経てば消えそうな程度だ。

「手負いの獣かと思いきや、これじゃあ壊れた人形だな」

 ルイレンの言葉に反応はない。ただじっと、見てくるだけである。

 品定めをされているかのようだった。

「何しにここに来た」

「あんた、玩具オモチャをひとつ、買わない?」

「?」

「持ち手が居ないとさ……動けないんだ。この操り人形マリオネット

 男娼か。

 身体を売る男は珍しくない。イリヤもそうだったし、アキはそうなるところだった。娼館で生まれた男児や、スラムの少年が落ちやすい世界だ。また、そういう世界が出来上がるための需要があるというのも事実。そして、ルイレンには興味のない世界だ。

 そこにいる者を穢らわしいと思うことはない。生き方のうちの一つ。巻き込まれさえしなければそれでいい。

「俺におまえを買えと言うのか?」

「操る糸の持ち手が無くなっちゃって、上手く動けないんだ。また新しいのを探さないと、生きていけないから。……ね、買ってよ」

「男を買う趣味はない」

「……そっか」

 残念そうに青緑の目が伏せられた。

 初めから期待などしていなかった癖に。そう思いながらも、ルイレンは手にした銃を構える気にはなれなかった。掴んでいた彼の顎を離し、今は明後日の方を向いている瞳に目を落とした。

 何を悩んでいるのだろう。母がしたことと同じ事をしたくないと何処かで思っているのだろうか。同じ事をする諦めの時間が欲しいだけか。

 ここで突き放せば、新たな主を捜して彷徨い歩きに出ていくことだろう。手を取れば、少なくともルイレンが生きている間は彼は身を削らなくとも生きられる。

 同情ではない。

 と、そう思ってしまった。重なるはずのない影を見た気になった。

「おまえ、名前は」

「……トイ」

「名前まで玩具なんだな」

「俺が決めた訳じゃない」

「何だ。自分で付けた名じゃないのか」

「好きじゃなかったけど、親が唯一くれたものだから。他に、誰かとの繋がりなんて無かったし」

「繋がりが必要か」

「あんたには解んないよ」

「この……!」

 ルイレンが反応するよりも先に、むくれたトイの顔を部下の一人が床に押し付けた。

「ガキが。ルイレン様にナメた口利いてんじゃねぇぞ」

「いい。放してやれ」

「え。ですが……」

「二度言わせるな。聞こえないのならその耳、右から撃ち抜くぞ」

「ひ……」

 口元を引きつらせた一人が後ずさると、もう一人も無言のまま手を離した。最初の部下に倣い、一歩二歩と下がっていく。

 アキを別の仕事に遣っていなければ良かった。面倒なことの代弁は全て彼がしてくれるのに、今は自分で言わなくてはいけない。

「後のことは私がやる。おまえ達は怪我人と死体を連れ出せ」

 命じると、部下達は回れ右をして去っていく。間もなくトイとルイレンを残して誰も居なくなった。静けさが戻ってくる。

 拘束が無くなっても、トイは地面に伏せたままでいた。

「立ち上がることも自分では出来ないのか」

「そのくらい、出来るよ。でも、ちょっと……気が抜けた……」

 言いながらトイは床に手を付き、膝を付き、よろよろと起き上がる。

「それにしても、随分殺してくれたな」

「犯されそうになったから身を守っただけ」

 そう呟いたトイの両手首は赤くなり、着ているシャツの胸元がはだけている。一見着崩しているようでもあるが、ボタンがいくつか無くなっている。

「待ってろって言われて部屋にいたら数人がかりで来たから、首捻ってやった」

「俺の部下とはいえ、そんなに躾がなってない奴が居たとは……。良く一人であの人数を殺せたな」

「俺が強いんじゃなくて、奴らが俺を殺せないだけだよ」

 不可解な物言いだ。誰も自分を殺せないとでも言いたそうにも聞こえる。

 手首を気にしていたトイが一歩前まで近づき、見上げてきた。

「あんた、みんなの前と俺の前と、一人称違うんだね」

「一人称は一人一つか」

「組織のリーダーって大変だね。自分を殺さないとやっていけないんだ」

 嫌なことを言ってくれる。前にしている存在が何であるか知って、それでも尚臆することなく思うことを口にする。不敵か、単に頭が足りないだけか。

 返答はしない。何を言っても墓穴を掘りそうに思う。

 話題に興味を無くしたように、トイはまた手首を気にしている。よほど強く掴まれたのか。指先でしきりに赤みを弄り、落ち着かない。彼の手元に注視していると、今し方付いた物とは様子の違う赤みがあった。赤黒いそれは、痣か、傷痕か。付いた理由を想像し、胸焼けを覚えた。

「本当に俺のところで良いのか。非のある奴らとはいえ何人か殺してるんだ。馴染めるのか?」

 尋ねると、トイは頭を振った。

「組織の一員になる気なんて無いよ。あんたの物にして欲しいだけ」

「だから、俺は男を買う趣味はないと」

「あんたの物にしてって言ってるだけだよ。欲しいなら夜な夜な相手してあげるけど、あんたは趣味じゃないって言う。だったらしないよ。俺の言いたいこと、解ってるんだろ?」

 俄に信用できないだけだ、とは言わない。そして、己の眼力を信用できないだけだ、とも。

「じゃあ、おまえ、何が出来る」

「殺しとセックス」

 抑揚のない声が即答した。

 命の灯が灯っているのか居ないのかさえ判りにくい瞳をしたこの少年は、人間という生き物からやや離れている。自分では動けない、手を持ち足を持ちされないと一歩として前に進めない、そんな哀れな生き物。

「前者が出来れば充分だ。そろそろ俺の傍付きが戻ってくるから、着替えて傷の手当てをして貰え」

「何処にいればいい?」

「……来い」

 呼べば真横を付いて歩くこの少年を、いつまで護ってやれるだろう。

 自信は少しもなかった。



 トイは、動くことにも生きることにも私情は一切挟まない。その代わり、減らず口は良く叩く。扱いに困りはしなかったが、少し頭が痛かった。

 見透かしたようにルイレンの思う所を語り、時には身動きを封じられる程の核心を突いてくる。それが莫迦にしたような口調になるのはいつものことだった。組織の中で誰も出来ないことを、トイは平気でする。それを窘められながらも許されることを知っている。

 統率された黒狼の、異分子ともなれば、嫌でも目立つ。良く思わない者が出るのも必定。

 三ヶ月と経たないうちに、事件が起きた。

 数名の部下が見当違いの妬みを持っていた。彼らがトイを囲い一触即発の状態になっているところへ、アキを従えたルイレンが通りかかった。数秒後の結末が見え、声を発そうと思ったとき、先に銃を抜いたのはトイだった。

 相手に武器を抜く間も与えずに、端から撃ち抜いていく。全員が地面に崩れても、トイは執拗に銃弾を撃ち込んでいる。

「もういい、やめろ」

 青緑の目が、横目で見てきた。それでも尚トイは引き金を引き続ける。

 聞こえていないのではない。聞こえていながら、無視している。

「トイ!」

 頭に血が上り、銃口を向けた。すると、トイは漸く打つのをやめ、返り血を散らせた顔で振り返った。

 向けられた銃など目に入っていないかのように、目を合わせてくる。

 その目を見ているうちに、妙な気分に囚われた。精神の一部を殺がれていくような感覚がある。困惑している間に、気が付けば銃を下ろしていた。その動作に覚えはない。手に負えないようならば殺してしまおうと思っていたにも関わらず、だ。

 ルイレンは頭を振り、もう一度トイを見た。相変わらず彼は真っ直ぐにこちらを見ている。

「ルイレン様……。今のは……」

 アキも同じように銃を手にした腕を力無く肩から提げ、呆然としていた。顔を見合わせるが、同じ事が起きたということしか把握できない。

 もう一度、トイと向き合った。

 この目に殺意を殺がれた。己の感情故ではなく、トイと対峙した作用に因るものだとしたら、不可解だが納得がいく。

「これが、コイツが今まで生き延びられた理由なんだろう……」

 不思議な力、としか言い様がない。その力で相手の殺意を打ち消し、生きながらえるために引き金を引く。

 あの時、誰一人としてトイに銃を向けられなかったのも、数人がかりで襲ってきた男達を素手で殺せたのも、彼を相手に「殺す」という行動に出られなかったから。マガジンが空であるにもかかわらずわざわざマフィアのボスの所へ乗り込んでこられたのも、また同じ。

 では、どんな口を利かれても窘めて終わってしまうのも同じ理由だろうか。傍に置きながらも、彼の力で感情を殺がれているだけで、許容しているから受け流しているのではないのだろうか。

 事実ならば、少し、虚しい。

「ルイレン」

 顔の血を袖で拭いながら、トイがやってきた。彼は覗き込むようにルイレンを見、

「俺が殺ぐのは殺意だけ。感情までは殺せない」

「人の心まで読めるのか」

「そんな超能力使えないよ。今、ルイレンが哀しそうな顔してたから」

「俺が?」

「うん。でも……」

 トイは目を伏せて首を傾げる。

「俺はもう〝ぽい〟かな?」

 悪い子だから、捨てられちゃうよね。この先どうしようかな。

 呟きながら首を左右に傾げ、背を向けて歩き出す。始めから無い帰る家を探して彷徨うようにふらふらと。

「誰が捨てると言った」

「うん?」

 声を掛けると、無気力で眠そうな目が振り返った。

「なに。捨てないの?」

「そんなに意外か」

「アキの方が意外そうな顔してるよ」

「私のことはいいでしょう」

「別に良いけど」

 去っていくときよりもゆっくりと、本当に戻って良いのか確かめるように距離を詰めてくる。

 本気か、とアキが横目で尋ねてくるのには取り合わなかった。

 しかし、疑問はある。

「さっき、何で俺の制止をきかなかった?」

「だって俺、生きたいから」

 そう言い残して、トイはルイレンとアキの間を抜けていった。家路に就く足取りで、あっという間にその姿は見えなくなった。

 生きている。刃向かった理由はそれだけ。

 その言葉を思い出しながら、地面に散らばっている物言わぬ死体を眺めやった。冷たくなりゆく肉の塊は、生きてはいない。刃向かうことも出来なければ、忠誠を誓うことも出来ない。何もない。

 ルイレンは数歩前へ進み、爪先で俯せに倒れている死体を仰向けにした。口の端から血を流し、腹や胸には大きな風穴を開けられ、目を剥いて事切れている。

 生きたいと願うのは、トイに限った話ではない。今や息絶えた彼らも、生きたいと思っていた筈だ。トイが相手であったが為に一つの抵抗も出来ずに終わった。身を危険に曝されたトイの力が優った形だ。

 願いの強さは、必ずしも結果に結びつくものではない。

 しかし、殺意を前にしたトイに限っては、願うほどに命を繋ぐ。

「死ぬのは、俺の方が早そうだな……」

 アキを促し、ルイレンもまた家路に就いた。


   *


 眠りから覚め、目を開けた。何かに怯えて震えていたトイは、今は丸まってルイレンの腹を枕に眠っている。折り曲げた中指の第二関節を唇に当てているのはいつもの癖だ。口寂しいのか、トイは眠っているとき大抵こうしている。幼子のようだが指をしゃぶるよりはマシだろうと思い、注意したことはない。

「おい。寝るなら自分の部屋で寝ろ」

 屋敷の中にあてがった自室に返しても、ベッドで寝ないことは解っている。初めからそうだった。ベッドは仕事をする場所だからと言って、絶対にそこで眠ろうとはしない。もっぱらソファで毛布にくるまっているが、時々床に転がっていることもある。

 つくづく難儀な男だ。

「トイ」

「んー?」

 眠そうに目が開いた。

「おまえはまだ、生きたいか?」

「ん。……うん。昔ほどじゃないかも知れないけど」

「シュウという男の所為か?」

「わかんない。でも、俺にあいつは必要じゃないんだ」

 トイは床に垂れているルイレンの手を、両手で包むように握った。手袋をしたままのその手に、彼は頬摺りをしてきた。

「ルイレンが何を求めたっていい。この手が、俺の糸を掴んでいてくれるなら、何だっていいよ」

 囁くトイの顔を覗くと、眉を顰めて苦悶にも似た表情をしている。

「俺は常に誰かのオモチャだけど、そうしないと俺は生きていけないけど、ルイレンだけは俺をオモチャにしなかったから……出来るならずっと、放さないでよ」

 涙声。

「……泣いてるのか」

「ちょっとだけだよ……」

 幼い子供のようにすがりついてくるこの男を、一体どうすればいいのだろう。

 手袋越しではわからないが、恐らく手の甲はトイの涙で濡れている。

 どうしても手を払い除けられない自分に、この世界で生きる上で不甲斐なさを感じた。元から肌の合う世界ではない。こうして名を出すだけで恐れられる組織の頂点にいながら、それらしくいなければ次の日に自分がどうなっているか解らない。

 確かに冷酷な面もある。だが、それだけが全てではない。むしろ、こんな風に手を取られて何をすることもなく慌てている方が自分らしい。殺しているのは、そんな自分だ。

「俺が死ぬまでは繋いでいてやるから、泣くのをやめろ。この世界に生きていて先が長いとは思わないけどな」

 言いながら、ルイレンはトイの髪を手で梳いた。まとまりのない髪が、指を潜らせてもはらはらと擦り抜けていく。

「そこの金魚」

 部屋の中央を仕切るように、巨大な水槽が置いてある。常に循環させているひたひたの水の中には赤い金魚が数匹、舞うように泳いでいる。水槽の大きさと魚の数が見合っていないので、悠々としているように見える。

「あいつら、俺よりしっかりしてる。ガラスの囲いからは出られないけど、自分の頭で泳いでる。けど、俺は囲いから出られるのに、自分の意志で動こうとしてない」

「俺たちと魚と、どっちが不幸か知れないが……」

 ルイレンは髪を梳く手を止め、今まで銃声がしていた方を見た。カーテンを通して柔らかい光が来る窓の向こう。不毛の大地が広がる、窓の外。

「この大地に俺たちみたいな人間が生きるのは、悲運だな」

「……そうだね」

 ルイレンは窓の外を、トイは金魚を見ている。まるでバラバラな方を見、違うことを考えながらの会話であったが、行き着く所は同じ意見であったようだ。

 静かだ。

 世界を無にしたらこんな感じなんだろうか。

 否。もっと静かに違いない。

 静かとも感じないほどに。

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