第19話

 昔話はまだ続きがある。


   *


「一昨日の火事、凄かったな」

「何処がトんだんだろう」

「さあ。距離的にエルヴィンのトコじゃね?」

「内部抗争かな?」

「どうだろうな。敵も多かったみたいだし。ヘンタイのナンバーツーがウザかったから、すっきりして丁度いいや」

 大雨が続いていた。

 冬の冷たい雨だ。

 三日前に起きた、夜空を赤く染めるほどの大火事を鎮火させるように降り始めた雨は、強い勢いをそのままに未だに止まない。

 雨の日は濡れるのを嫌って外に出ることはあまりなかった。そんなにがつがつ遊びに精を出さなくても、食うに困ることはなくなっている。エスカレートすることはなく、気儘に続いている夜遊びは、始めてから半年以上が経った。

 今やお気に入りの酒も煙草も心おきなく楽しめるようになっていた。二人ともまだ十代。しかし、それを咎める者は誰も居ない。

 いつの間にか、空をを眺めることが少なくなっていた。充足した毎日に、そんなことをする必要も時間もなかった。

 食って、飲んで、吸って、吐いて、遊んで、笑って。

 病む必要のない時間。手に入ることなど無いと思っていた時間。

 手に入った今、空など必要ない。探さなくても、求めるものはここにある。空に探していたものとは違うが、それでも満たされているから構わなかった。

「それにしてもよく降るなぁ」

 火の手がすっかり消え去った方角を眺め、ぼやいた。ごう、という雨音が眠気を誘うほど心地良い。

「だるい……」

 シキはベッドに横になった。目を閉じて降りしきる雨の音を聞いていると、そのまま寝てしまいそうだ。

「でも、最近買い物サボってたからそろそろ買い物行かなきゃならないんじゃねぇの?」

「そうなんだよなぁ」

 コウの指摘通り、買い置きが減ってきている。

 明日明後日には雨だろうと出掛けなくては、食料が無くなってしまう。金はあるのに買い出しに行かなければ飢えてしまうとは、不便なことだ。

 温かいものが食べたい。

 微睡みながら、空腹を感じた。


   *


 次の日、大雨の中を二人で買い出しに行った。傘など差さずに出掛け、大きな袋を互いに一つずつ抱えて帰宅。勿論濡れ鼠になった。

 アパートの正面扉を潜り、腐り落ちそうな程古い階段をいつもの通り上ろうとした。

「……?」

 床が、階段下へ続いて湿っている。その方向には部屋も物置もない。猫が迷い込んだにしては水の後が大きい。

 シキは階段下を覗きに行った。昼間と言えど、雨が降っていてなおかつ照明が少ない。階段下の空間は薄暗い。腰に差した十二手を掛けながら、その場へ近づく。

「シキ? どうかした?」

 コウの質問には答えず、シキは目を凝らし暗がりを見た。

 女が居た。全身ずぶ濡れにした女が。

 柔らかい波のある栗色のセミロングの髪からは、雨の雫が滴っている。身体を丸めて座り、全身を小刻みに震わせていた。服は汚れ、自らを抱くその手には火傷の傷もある。

 女は目を閉じていて、顔は少しだけ伺えた。

 白い陶器のような肌。雨に濡れて白さを増しているように見える。長い睫毛も、栗色の髪も、濡れて綺麗だ。

「あんた、なにやってんだよ」

 紙袋を片腕で抱え、シキは揺り動かそうと手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、女はびくりと震えていっそう強く身体を抱いた。すぐに手を引っ込める。

 忘れていた。

 この体質は他人を寄せ付けない。コウと長く居た所為で、その感覚が麻痺していた。

「なぁ、シキぃ。何なんだよ」

「……女が」

「え?」

 いつもより一オクターブ高い声を出してコウは階段下を覗いた。

「何か調子悪そうだな。で、どうする、シキ」

「……まず、荷物置いてからにしよう」

 発した自分の声に驚いた。

 動揺している。

 触れてしまったことではなく、この女に出会ってしまったことに。

 シキは顔を背けると早足で階段を上った。すぐにコウが後を追いかけてくる。

 鍵を開け、扉を開け、抱えていた荷物を台所に捨てる。

 息が上がっているのは一気に階段を駆け上がったからだ。脈が上がっているのもその所為だ。

 テーブルに両手を付き、自分に言い訳を聞かせていた。それで元の状態に戻るでもなく、息も脈も上がったきり。

「で? どうすんの?」

 コウがシキの前に荷物をどっかりと置き、わざとらしく訊いてきた。

 下を向いているシキにコウの顔は見えなかったが、どんな顔をしているかくらい想像は付いていた。

 莫迦なことはよせ、と。彼の言葉の全方位から滲み出ている。

 手に取れないものに手を伸ばしてどうする。見えきった後悔を掴みに行くようなものなのに。

 ――解ってる。解ってるけど……。

 行動の結果を、その後に待つものを、知らないわけではない。

 しかし、何もしないことの後悔もまた、同様に辛い。

 次はどんな傷が残るのか。

「婆さんとこ行って、空き部屋一つ借りてくる。そこに……運んでやってくれないか」

「オー、ケー」



 シキが飛び出していったドアを、コウは暫く見ていた。どのみちシキは後悔する。そのことがコウには手に取るように分かった。シキの性格から考えれば容易いことだ。

 彼が持っている答えも、悩む理由も、よく知っている。

「いいヤツだよ、おまえは」

 もう見えない背に、コウは呟いた。


   *


 大家を半ば脅すようにして二階の一室を借りると、そこにコウが彼女を運び込んだ。出来るだけ身体の水気を取ってやり、備えてあるベッドに寝かせる。触れなくては出来ない作業をコウに任せ、シキは廊下で膝を抱えていた。

 肩には水気を絞っただけでまるで乾いていない布を掛け、高い湿度の中に沈む。

 頭に何か乗ったのを感じて顔を上げると、コウが部屋から出ていた。

「ありがとう」

「おまえが礼なんか言うことないだろ」

 コウはシキの髪をぐしゃぐしゃにして自分の部屋に戻っていった。

 一人残され、シキは立ち上がったものの、そこで逡巡した。ドアの向こうには名前も知らない女が寝ている。このまま部屋に戻ってしまっても、彼女にそれを知られることはない。

 部屋に逃げ帰っても、誰も咎めはしない。

 ドアノブに触れようと形を作っている手が震える。中に入ってしまえば、もう二度と戻れない奈落のような、そんな風にさえ思う。

 しかし、手は勝手に後悔への扉を開けてしまった。床を軋ませないように、そっと中に入る。

 部屋の奥、何も無い部屋の中にぽつりと据えられたベッドに彼女は寝ていた。

 何処か安堵したような寝顔には、傷や火傷がある。どこからか難を逃れて此処に辿り着いたのだろうか。

 強く惹き付けられるのを自覚しながら、すぐ傍で彼女の顔を見ていた。

 これはきっと、抱いてはいけない感情なのだろう。特に、触れることの敵わない相手に抱くなど、愚の骨頂。そう解っているのは、ごく一部の理性だけだった。

 彼女が瘴気に弱いことは明白だ。それなのに、触れたいという衝動が収まらない。

 殺すつもりか。何度も理性が腕を掴んでくる。それを振り解き、秒速数センチの世界で近づいていく。

 この振動が、彼女に伝わらないように、そう祈りながらしっとりと濡れた栗色の髪に触れた。神経の通っていない髪ならば、きっと大丈夫だろうと勝手に決めつけ、指に絡める。

 その時、うっすらと彼女が目を開けた。弾かれるようにシキは手を引っ込め、一歩後ろに飛び退く。シキの姿を負うように、女が首を動かした。

 美しい緑の目がシキを見た。栗色の髪にも、白い肌にもよく似合う、宝石のような緑。

「キミが、助けてくれたの?」

 か細く、澄んだ声だった。

「もう一人、俺のダチが。……俺は、シキ。あんたの、名前は?」

「私は、ユイ。……キミは、棘みたいだね」

 彼女――ユイの言った意味が、始めはよく解らなかった。やがて、それが瘴気のことを指し、それ以外のことも指しているのだと解り、俯いた。

「キミは何を恐れているの? 拒絶は何も生まないよ。手を伸ばさないと、届かないものの方が、この世界には多すぎるよ?」

 そんなシキの姿が痛々しいと、彼女は言う。思わせぶりな物言いだが、心を見透かしたかのように言い当てていく。僅かな時間で読み取られてしまうほどに顔に出ていただろうか。

「俺は、手を伸ばしちゃいけないんだ。触れたら、駄目なんだ」

「でも、お友達、居るんでしょ?」

「あいつは、……あいつが特殊なだけなんだ」

「そっか。私は、お友達になれないか」

「それは……」

 こんな治安の悪い街中で女が一人でいてはどうなるか。それを危惧して助けただけ。そう言えば良かった。しかし、言葉は澱み、出てこない。

「私は、大丈夫だよ。ね?」

 そう言って差し伸べられたのは、傷だらけの繊手。改めて見ると手も火傷が酷い。

「なんで、こんなトコにいたんだ? それに、あんた、その傷……」

「もう大丈夫。もう、終わったことだから」

「もう少し具体的に話せよ」

「問題は、私が居ることくらいかな」

 要領を得ない。話したくないのだと解して、それ以上尋ねることはやめた。

 計ったわけではないが、長居をしている。ハルよりも過敏な反応をする彼女の傍に、これ以上居るのは良くない。

「そろそろ行くよ」

「もう少し居てよ。ね?」

 と、手が伸びてきた。距離を取っているので、彼女はシキに触れられない。だから、触れようとするのではなく、触れさせようとするように、手の平を上にしてシキに差し出している。

「あんた、人の話聞いてなかっただろ。俺は……」

「ユイ。自己紹介したでしょ? 名前で呼んで」

「……。ユイ。俺は駄目なんだって」

「いいよ。キミの手が死神の手だとしても、私は構わない。一人より、ずっといいよ」

 だから、と彼女はもう一度手の平を見せる。

 しかし、シキは手を取らなかった。誘惑は確かにやってきた。それを、拳を作って握り潰す。

 治り始めるにはまだ遠い生傷に、毒を塗るような真似は出来なかった。

 彼女が言うように、この手は死神の手だ。触れては命を狩っていく鎌だ。

 言葉を交わすほどに取り込まれていく。これ以上深みに嵌らないようにと、シキは黙って部屋を出た。呼び止める声はなかった。



 放心して部屋に戻ってきたシキを見て、コウは溜息を吐いた。シキから目を背け、雨天を窓越しに仰ぐ。雨が塩気と悲しみを含む雫と交わることがないように願った。だが、願うだけ無駄だと言うことも解っている。そんなことをしても、この空のように心は晴れない。恐らくシキが辿るであろう運命も、想像通りだろう。

「あの子、気が付いたか?」

「ああ。あいつ、ユイっていうんだって。大して喋ってもいないのに、何であんなに見透かすんだ……」

 シキの言葉は、後半はほとんど独り言だった。その気があれば誰でも解る、とは言わない。本人は無表情を装っているつもりだろうが、シキは分かり易い方だ。特に怯えている顔は。

 そのままコウの前を通り過ぎ、シキは湿った布を方から外して床に捨てると、窓に貼りついた。

「こんな手で、どうしろって言うんだ。俺には何もできないよ……」

 言いながら、シキは拳を作る。やがて、脆い壁を殴りつけた。

 そう、何も出来ない。解っていながらそれでも何かしようとすることを愚かとは思わない。しかし、結果としてやはり自爆していじけるのはいただけない。

 どうせ後戻りは出来ないのだ。

「シキ」

 名を呼ぶ。望み多き、無い物ねだりをやめようとしないその名前を。

 振り向いた鳶色を見据え、言う。

「どうせ泣くんなら、おまえの思うようにやった後にしろよ。もう、差し伸べた手は掴まれちまったんだ。どうせおまえは手放せないんだろ」

 コウはシキに背を向けてベッドの上に倒れた。指のささくれをむしり取り始めると、シキは窓から離れ、玄関から表へ出ていった。雨はまだ止まないというのに、何処へ行くつもりなのか。

 ――肺炎でも起こしたら、今度は面倒見てやんねぇからなぁ。

 苛立ってむしったささくれから、血が滲んだ。傷口を絞ると血が玉のように溢れる。それを舐めると手持ちぶさたになり、ベッドに大の字になった。

 濡れて帰ってきて熱でも出していたら蹴り飛ばしてやろう。

 薄汚れた天井を湿気った心地で眺める。目線の先が更に黴びていくような気がした。


   *


 大の字になったまま、いつの間にか寝てしまっていた。耳にはまだ激しい雨の音が届いてくる。ネイル前よりも勢いを増しているようにさえ思う。湿った空気は相変わらず重い。ふと、手に何かの感触があるのに気が付いた。首だけで左手の方を見ると、頭が一つ見えた。

 座ったままベッドに腕を載せ、腕の上に伏して眠っているシキが居た。髪から服から存分に雨で濡らし、コウの手を握っている。

「ははぁん」

 濡れたシキと、握ってくる手を見て合点がいった。

 恐らくここに帰ってきたとき、シキは多少なりとも発熱していたのだろう。それで、怠さを紛らわす為にこんな所で寝ていたのだ。これだけ近くにいれば熱もすぐ引くだろうと思って。

 手を引くと容易くシキの手から擦り抜けられた。コウはベッドにあぐらをかき、眠るシキの後頭部を見下ろした。

 薄幸を強いられた男は、雨の中で何を思い、悔やんだのだろう。いつもと同じ事だろうか。それとも、何度同じ事が巡るのかと絶望したのだろうか。諦められたら楽になれるのに、シキはしない。変えられるなど思っていないのに、いつも希望に指を一本かけている。

 その手を離せ。コウは思う。

 ――でも、無理だろうな。おまえは俺じゃないもんな。

 濡れ鼠の頭に手を載せ、揺り動かした。

「おい、起きろ。甘ったれ」

「……んだよ」

 思ったよりも早く不機嫌な声がして、眠そうな顔がコウに向いた。

 どういう状況であれ、寝起きは機嫌が悪いのがシキだ。まして無理矢理起こされたとなると、尚悪い。

「せめて着替えろよ。んで、ちゃんと寝ろって。もう熱下がってるから」

 コウの言葉にシキは半開きの目を見開いた。図星らしい。ばつが悪そうに床にあぐらを掻いて、俯いている。

 それと、と続けた。

「拾った猫の面倒は、拾った奴が最後まで見るんだぜ? 自分から出ていかない限りな」

 今度は動かなかった。シキは、息もろくにしていないように微動だにしない。

 コウはベッドから降り、シキが床に落とした灰色の布を拾い上げると、台所の椅子の背に干した。やれやれと首を振りながら、俯いたままのシキを見る。

「シキ。一つ言っとく。俺たちは絶対に太陽に恋しちゃいけないんだ。そんなことしたら、この闇で生きてなんかいけやしない。それだけは、忘れんな」

 何の返答もない。

 だが、届かない言葉ではないとコウは思っていた。言われなくても解っていることだろう。だが敢えて言った。シキならばうっかり失念しかねない。

 だんまりのシキを置いて、コウは部屋を出た。

 拾い主がこんな状態で居る限り、猫は放って置かれたままだ。一応コウも拾った当事者のうちに入るので、無責任に放置するわけにもいかない。気になって、というのは嘘だが、一応の義理でコウは彼女の様子を見に行った。

 ユイは微かな寝息をして眠っていた。額には運んできたばかりにコウが乗せてやったタオルがそのまま乗っている。少ない親切心で、そのタオルを取り替えてやろうと手に取った。が、あれからそのまま載っていたにしてはタオルが冷たい。

 コウはうっすら笑うと、タオルをそのままユイの額に置いた。

 部屋の灯りを一つ小さくして、シキの部屋に戻る。

「さぁて。お嬢さんとあいつの為に俺様が何か作ってやろうかな」

 やることの無くなったコウは、大げさに袖を捲る動作をするとささやかな雑炊をこしらえた。作り出すことに興味はないが、料理は得意だ。作った後は、食って、満足して、それで終わる。後腐れがない。そこがいい。感覚の刺激や、血肉になって命を繋ぐことはどうでもいい。

 刹那を楽しんで、消し去ることで完成する。

 生きている間に繰り返される創造と破壊。料理は、その縮図の一つだ。

 鍋の中の米と水と少しの具。くつくつと、煮えてきた。


   *


 内臓を傷めているかも知れない。

 翌日、ユイの様子を見に行ったコウが戻ってくるなりそう言った。

「目立った外傷はないけど、顔色悪いし、腹庇ってる感じがするし。医者じゃないからわかんないけど……長く、保たない気がする」

「それ、彼女には言った?」

「いいや。ヤブでも医者に連れて行ければいいんだけど」

 闇医者はいるが、怪我知らずの二人は頼るクチがない。

「少し話してやれよ。寂しがってる」

「俺じゃなくても……」

「おまえがいいんだって」

「なんで……」

「さあ。俺、嫌われたんじゃね?」

 違う。と、シキは思う。

 良い影響がないと解って呼びつけるような真似をするはずがない。そう思い込んでいた。

 しかし、コウの言うことが全て正しいとしたら、せめて最後の僅かな時間だけでも、話をしてあげたい。

 シキは自分に言い訳をしながら、ユイの居る部屋へ向かった。

 出来れば眠っていて欲しい。寝顔だけ盗み見て、それで帰ってくるのが一番楽だからだ。

 しかし、彼女は起きていた。待っていたかのように入ってきたシキを見、口元をほころばせた様は、とても余命幾ばくもないようには見えない。

「あれっきり来てくれないんだもん。心配しちゃった」

 どちらが心配しているのか。

 ベッド脇に椅子を運び腰掛けると、ユイは起きあがり、ベッドヘッドに凭れた。

「あれきりって言ったって、一晩じゃないか。コウとは話した?」

「うん。今朝はおかゆ作って持ってきてくれたの。料理、上手なのね。お兄ちゃんも上手だったんだ」

「お兄ちゃん……?」

「うん。私、お兄ちゃんが居てね……」

 と、彼女はペンダントを胸元から取りだした。一見して男物で、彼女が首から下げるには不似合いに思う。

「異母兄妹なんだけどね。格好良くて、優しくて、これもお別れするときに貰ったの」

「死んだのか?」

「ううん。一緒に、居られなくなったの。ママがお兄ちゃんのこと嫌ってて。家族なのに厄介者扱いにして。お兄ちゃんは文句一つ言わないで黙ってた。で、ある日一人暮らし始めるって言うから貰ったの」

 分捕った、の間違いではないだろうか。話の流れからそんな気がしてならなかったが、敢えて触れないでおく。

 話している間、ユイはペンダントトップを嬉しそうに弄り回していた。革製の紐は草臥れ、経年を感じさせる。複雑な環境と心情があったはずの過去を語りながら、ユイは幸せそうだ。

 ――よっぽど出来た兄貴だったんだな。

 半分しか血が繋がっていなくても、兄妹として慈しむことが出来る器量のある男だったのだろう。会ったこともないその男が、少し、羨ましい。

「その兄貴、連絡取れないのか? 迎えに来て貰うとか……」

「どこに住んでるかも知らない。私がまだ小さいときに出ていっちゃったの。それに、今更会えても、迷惑かけるだけだし」

「ユイ。あんた……」

 外傷がないにもかかわらず内臓へダメージを受けたのは、何か重たい物に挟まれたりしたから。それは、家屋が崩れたからだとしたら。火傷は、火事の所為。

「エルヴィンの所から逃げてきたんだろ。違うか?」

 この辺りで幅を利かせていたレーヴェという組織が所有する建物が、先日、一斉に火事で焼け崩れた。雨が降り始める前の晩に、空を焦がしたあの火事だ。そこのリーダーがエルヴィン。ナンバーツーは変態。二人とも焼け死んで、事実上、レーヴェは崩潰した。

 ユイから笑顔が消えた。俯いて、手を強張らせている。

「言わないで。私が生きてるって。もう、戻りたくないの」

「言う相手も居ないさ。あそこは、灰になって消えた。残党も散り散り。あんたを捜してる奴も居ないと思うぜ?」

「本当? ……よかった」

 緊張が、安堵に変わる。

 その安らぎが曇って見えるのは、顔色の所為だろうか。目に見えて血の気が引いていくように見えるのは、錯覚か、現実か。

 この瞬間にも瘴気は溢れている。彼女を冒し、傷付けている。

「なあ。痛みは、感じてないか。特に、俺が来てから。いつもなら、感じないような痛みはないか?」

 恐れるシキの姿を、ユイはとろんとした目で見ていた。怪訝でも拒絶でもなく、哀れみでも同情でもなく、そのままシキを見ている。何も織り交ぜず、見えるままのシキを真っ直ぐに。

「不思議な感覚だね。身体の中に静電気を感じてるみたい。これが、キミが言った痛みの正体なら、恐くないよ。もっと恐いこと、知ってるし」

 つ、と唐突に手が伸びてきた。昨日よりも積極的に、この手を取れと言わんばかりに。

 シキは震える手を押さえ付けた。震えが止まったら、震えを抑えきれなかったら、それは衝動が優ったことになる。それだけは避けたい。

「ね。もっと傍に来て。もう恐くないって言って。独りじゃないって、言って」

「でも、そんなことしたら、俺は、……あんたを殺してしまう。この手は、傷つけるだけだから……」

 ユイが、それを聞いて笑った。少し目を細めているが、全く嫌味ではない。むしろ底無しに優しい眼差しがある。

「傷つくのは、私じゃなくてシキの方じゃないの? 誰かを傷つけることで誰よりも傷ついてる。傷つけることを恐れるだけで、もの凄く大きな傷を負ってる。……辛いよね。怖いよね。望まないのに……誰かを傷つけちゃうのって。私が良くても、キミは傷つくんだよね」

 ユイは、笑いながらも泣きそうな顔をしている。ゆっくりと、白く細い指を持つ手を、シキに伸ばした。

 シキは戸惑った。ユイの表情にも、自分に向いている手にも。特に引き下がろうとしない手に困惑して眉根を詰めた。

「ユイ……。火事から逃げるとき、腹打ったりとか、した?」

 返事はなかった。頷きもない。

 その代わりのように、ほんのりと赤い唇が動いた。

「ごめんね。私、これからシキを傷つけるよ。どんなに酷い傷になるのか、私にも分からない。……けど」

 一度、ユイは瞼を伏せた。再び瞳が覗いたとき、その緑は濡れていた。

 泣いている。

 シキは、息が止まるのが分かった。震えが、いつの間にか消えていた。

「傍に居て、シキ。……寂しいのは、もう嫌なの」

 シキは、吸い寄せられるようにユイの手を取っていた。柔らかい手だった。余り強く握ったら、壊れてしまうのではないかと思う程に細い。極端に弱々しい身体つきではなかったが、彼女の弱音がそう思わせた。

 先に腕を回してきたのはユイの方だった。

 それを受けてシキは、大切に大切に、掬うように彼女を抱き締めた。衝動に負けたことなど気付かずに、彼女の体温を感じた。

 傷つけることは分かっている。ユイがいくら良いと言っても、決して傷つけたくはなかった。それなのにユイは触れてくる。この腕から逃れようともしない。指先が僅かに触れただけでも、彼女は激痛さえ感じるはずなのに。

 痛い、などと、まるで嘘を言っているようだった。表情にも行動にも、一切痛みは現れていなかった。それどころか、笑いかけてくれた。柔らかい笑みが、躊躇いもなくシキに向く。

 気が狂う。

 傷つけたくないという理性。この温もりに溺れていたいという欲望。欲望が完全に勝っている中で、理性が激しく抵抗をしている。心の中での闘争を忘れ去ろうと、尚一層強くユイを抱き締めた。

 既に、気など狂ってしまっていたのかも知れない。そうでなければ、この腕に誰かを抱こうなどと思うわけがない。あれほどに瘴気で誰かを傷つけ、そして殺めることを嫌っていたのに。

 大切な人を失くすのは、もう、飽き飽きしていたのに……。

「シキに、これ、あげる」

 そう言って首にかけられたのは、つい今し方までユイが首から下げていたペンダントだった。

「でもこれ、大事にしてるんだろ?」

「いいの。よく、似合うよ」

 ペンダントトップを、凹凸をなぞるように弄る。何気なく裏返すと、「yuki」と文字が刻印されていた。恐らくユイの兄の名前だろう。

 形見を残すようだ、と思ったのは思い過ごしではなかった。

 この時既に、彼女は自分の状態を知っていたのだろう。止まらない血か、蝕む瘴気か。どちらにしろ、長く生きられない、と。

 だからなのか。彼女は自分が生きた証を残すように、傷を、深い傷をつけてきた。

「会ってまだ二日なのに、こんなこと言うのも変だけど……」

 抉るように。

「好きだよ……シキ」


   *


 僅か二日で、一人の女を深く想っていた。

 失うことで、細胞の隅々までおかしくなるほどに。

 共に逝きたいと思うほどに。


   *


 身体が熱い。

 顔に掛かる熱風の所為だけではない。

 翌日の晩、ユイは死んだ。緑の瞳を瞼で隠し、動かなくなった。

 ユイの体温が残っているようだ。どんなに夜風に曝しても、どんなに雨に濡れても、この温度は消えてくれない。忘れてくれない。

 瘴気よりも激しい熱病。それはユイの遺した言葉と体温。絶え間なく身体を蝕み、朦朧とし始める意識を微睡ませることすら許してくれない。

 彼女の熱は、目の前で灰になった。

 彼女が放った最後の熱は、もう少し近づけばシキまでも灰にする熱だった。

 ユイは火葬にした。

 自分たちの手で火に入れた。

 醜い形をいつまでも留めないように。身を燃やす熱を肌に刻む為に。

 何故彼女が息をしなくなったのか、何故鼓動が止まったのか、何故、冷たくなったのか。直接の原因は分からない。

 しかし、シキは自分を責めた。

 瘴気の所為だ。

 この毒が彼女を蝕み、崩した。彼女は何を思ってこの痛みの塊を抱いたのだろうか。あの毒薬の海と化した部屋で、何故一言も「痛い」と言わずに、この腕に……。

 彼女が灰と煙になって空へ昇っていく。細く長く、灰色の道を造って、誰もこの地にいる限り行けない場所へと向かっていく。無言の葬列が高く高く届かない世界へ消えていく。

 焦点を合わせずに空を見ていた。どんよりと曇って見えるのは、錯覚だけではない。あの炎の中に行けば、ユイと共にあの空へ行けるかもしれない。

 嗚咽とも呻きとも取れない声がシキの口から漏れ始めた。彼の頭が、やっとユイの不在を認識し始めたようだ。

 その途端、声も涙も止まらなくなった。

 居ない。もう居ない。

 彼女は、ユイは、死んで、息をやめて、居なくなって、無くなっていく。

「ああああっ!!」

 限界だった。なりふり構わず慟哭し、もがいた。声が潰れるのも、醜態を曝すのも構わずに、とにかく泣き叫んだ。自分の声さえ耳に届かない。

 暴れるシキを、コウは力の限り押さえ付けている。それに抗い、シキはまだ高温の残るユイに飛び込もうとした。同時に、シキの気の高まりで瘴気が溢れ、炎が猛り、ユイの骸が急激に劣化した。

「よせ! おまえまで焼かれるのなんてゴメンだ。いくら治りが良くても、傷痕残るぞ!」

「いいんだ! 傷痕くらいで彼女が残るなら、全身傷だらけになればいい! 放せ!」

「よくねぇよ。ちょっと前の俺だったら手ぇ放してやるけど、今は放してやんねぇからな!」

「放せよ……。彼女が、……ユイが、そこに居るんだ。すぐ、そこに」

 気力が切れ、膝を付いた格好から力無く地面に座り込み、肩を落として泣いた。

 空に続いていた道が途切れ、力無くシキは地上に目を落とした。目の前に、ユイの骨だけが残っていた。残っていた骨はかなり高温で焼かれたように脆く小さくなっている。いくらガソリンを使ったからと言っても、普通ならこうはならない。きっとそれもこの穢れた〝気〟のせいだ。

 シキは膝を付き、少女の手にも満たない程に小さくなったユイの手に自分の手を乗せた。白く細い手だ。シキの半分にも満たない。手はまだ熱かった。じわりと、手の平が焼けた。触れた途端、ユイの手は形を失った。もう、ただの灰でしかない。火傷をした手も、もう治り始めている。

 劣化したユイは、もう形を持っていない。白と灰色の粉になって、時々風にさらわれている。

 もう、戻らない。残ったのは彼女がくれたペンダント一つ。

 たった数日で、どれだけを奪われてしまったのだろう。心の中まで空っぽだ。

 これが、太陽に焦がれた結末か。


   *


 空に、取り憑かれた。

 以前の比ではなくなった。

 寝食を忘れ、ユイが居た部屋で空を眺めた。シキの部屋より低い二階であったから、見える空は尚狭い。それでも僅かに覗く空に魅入っていた。

 その彼方に彼女が居る。行くためには、どうすればいい。

 背後で時々コウが何か言っていたが、ろくに耳に入っていなかった。渇きは覚えるようで、運ばれてきた水を時々舐めていた。しかし他は何も口に運ばず、瞼は閉じることを忘れてしまった。

 声を仕舞い、涙を捨て、すべてを空に捧げ続ける。その場所に行くために。

 何日も空は晴れ渡っていた。あの日からずっとだ。天がユイを連れ去ったその日から。

 座り込み、右肩を壁に付けて首を上げている。太陽の日差しが、彼の目を射抜く。眩しいとは思わなかった。いっそそのまま焦がしてくれればいいのにとさえ思う。見ているのは、求める幻影のみ。

 けたたましい音に、意識が降りてきた。

 膝に乗せていた左手がずり落ちたとき、知らない間に脇に置いてあったグラスをはたいてしまったらしい。中に入っていた水をぶち撒いてしまい、しかもグラスは大きな破片に変わっていた。

 今まで空しか向いていなかった目が、下を向く。

 一瞬のきらめきの後、シキの視界は突然闇に変わり、どんなに目を凝らしても何も見えなくなった。その闇に恐怖を覚え、見えないながらに手を動かしていると、鋭い痛みを指先に感じた。漸く見え始めた目に映ったのは、ガラスの破片に切り裂かれた指。一見大した傷ではないが、深いようだ。血が次々と流れ出している。

 目が見えるようになるに従って、指先から手に掛けて出来た血の線が、異様に鮮やかに見え始めた。その赤だけがこの世で色を持つもののように、鮮烈な色を持っている。

 血を舐めて、床に、目がいった。


   *


 静かだ。

 ベッドの上で古びた本を読んでいたコウは、ふと顔を上げた。

 あれから沈黙が耳についてうるさかったのに、それが無くなった。

 一つぽっかり、穴が開いたような。

 世界が、何かを失くしたかのような。

 喪失は恐くない。正も負も、いつかはゼロになる。そうと解っているからこそ、怖いものは何も無い。

 だが、この焦燥は何だ。

 居ても立っても居られなくなり、本を閉じ脇に置くと、部屋を出た。

 向かうのはかつてユイが居た部屋。今はシキが居る部屋。

 鍵は掛かっていない。ノブを回すと素直に開いた。

 随分前からこの部屋からは気配が死んでしまっている。何度見に来てもシキは同じ格好をして、同じ場所だけを見ていた。彼女が居た部屋に籠もるようになって一日目は食事を置いてやったが、全く手を付けなかったので、せめて水だけでもとコップを置いて置いた。すると、水だけは口に運んでくれたので日に何度か水をおいてやることにしていた。だが、それも前の晩からは水も飲まなくなっている。

 水くらい飲めと声を掛けても身体を揺すっても、シキは壊れた人形のように空を見ているだけ。見るに耐えず、それから丸一日近くコウはシキの所に行かなかった。

 ――俺が誰かをこんなに気にするなんて……。

 他人が嫌いなわけではない。頓着がないだけだ。それがどういうわけか、シキに関してはどうしても放っておけない。理由は解らない。彼が持つマイナスが心地良いのかも知れない。

 足を踏み入れた部屋にはやはり気配がなかった。まだ同じ事をやってるのかと呆れもしながら奥に進む。

 だが、窓の下にシキの姿は見えなかった。

 どこかへ行ったのか、と思ったが、よく見ると足の先がベッドの影から出ていた。

「遂に音を上げたか」

 人間が食わず眠らずでそんなに長持ちするわけがない。シキもやはり所詮は人間だとコウは笑った。

 だが、ベッドの側まで行くと、笑みが歪みに変わった。

 赤い点が見えた。割れたグラス。乾き始めている水。倒れているシキ。

 もう一歩踏み出して漸く見えたのは、血の海だった。

「シキっ!!」

 身体が凍りそうになるのを無理に動かして、シキに駆け寄った。

 右手には血塗れのガラスの破片を握り締め、左手は自らの血に沈めている。

 コウはシキの身体を自分に預けさせ、上体を起こすと、左手首の傷を握った。切り裂いてからまだそんなに時間が経っていないらしく血はまだ溢れ続けている。血の流出を少しでも抑えようと、コウは手に力を入れた。

「おまえの頭、空っぽなのかよ。こんなコトしてなんになるんだよ。死ぬなら、俺の居ないトコでやれよ」

 二人の間だけに通じる力を信じてコウはシキの手首を握った。少し間違えると指が傷口に入ってしまいそうな程に大きく深い。躊躇い傷は見られず、一息で、ただ一度だけ切ったようだ。

 衝動的にした行為なのか、思い詰めた末の行為なのか。

 なんにせよ、まだ息をしている所を見つけてしまったのに、放っておくことは出来なかった。自らもシキの血にまみれながら、余った左腕でシキの身体を抱き締めた。僅かに残る彼の熱を留めようと。

 ユイの死がコウにとってどうでも良かったわけではない。深い関わり合いは一切無かったし、僅かしか言葉も交わしたこともない。しかし、それなりにショックは受けた。たぶんシキから伝染したのだろう。だが、シキの死は別だ。そのことを考えると、空虚を感じる。その感覚を不可解にさえ思いながら、コウは己の感情を計る。

 あれほどまでに他人に淡泊だった自分は、何処かで組み替えられてしまったのか。

 もっと何もかも無視して生きるのが自分らしい生き方の筈だ。それが今、たった一人の人間に固執しようとしている。否、既に固執している。

 異様だ。

 だが、今はそれが限りなく正常。

 それから半日以上、コウはシキを抱えながら手首を握り続けた。

 シキがユイと取れなかった距離が、ここでなら叶う。その皮肉さにコウは泣き笑いをしていた。


   *


 窓の外を眺めるシキは、いつも通りだった。

 だが、その左手首には包帯が巻かれていた。だらりと垂れたその腕に、力の入る様子はない。傷跡は残ったが、包帯の下は面白いように治癒している。ただ、無気力なだけだ。

「相変わらず、空で捜し物か?」

 わざと冷たい口調でコウは言った。

「別に……」

 聞き慣れたこの口癖に取り合う程親切ではない。鼻で笑って聞き流した。

 暫く口を利かなかったシキだが、最近普通に会話をするようになった。黙っていてもどうしようもないと本人が悟ったらしい。だが、その態度は二人が出会った当時に戻っている。冷たくあしらおうとしている。執着を断ち切るために、コウなりに気持ちを組み替えていた。

 だからといって出会う前の関係性に戻ることはない。知り合ってしまった以上、それは無理だと知っている。

「そう言えば、おまえにまだ助けてくれた礼をしてなかったな。興味あるなら、何か彫ってやるよ。これでも腕、いいんだぜ?」

 コウは罠を張った。シキに気付かれないように意地悪く笑う。

「……羽が、欲しい」

 コウの意図もまるで感じることなく、シキは罠に掛かった。

 背に、痛みと傷を負う罠。

 もしかしたら、罠と知って掛かったのかも知れない。それでも夢を叶えたかったのか。叶わない夢が、まがい物でも良いから叶うことを。

 コウは道具を調達してくると、シキの背に彼の望みを刻み始めた。

 作業の間、シキは少し眉を動かすだけで痛みは一言も口にしなかった。己が作り出す痛みに耐え続けている男だ。痛覚が鈍っているか、耐えることになれてしまっているのだろう。

 右側から、空に舞う道具を刻み込む。

 痩せぎすだが、傷らしい傷一つ無い。その皮膚に、この青は不似合いに思う。しかし、本人が望んだことだ。体のいいカンバスと思うことにした。

 ――莫迦だなぁ。何やってんだろ、俺。

 残すほど、刻むほど、繋がりは強くなっていくというのに。

 でも、これで最後だ。

 唯一、執着を覚えた命に、このくらい残しても罪にはなるまい。


   *


 予想していたよりも痛みは少なかった。

 それでも自然と眉根は詰まる。痛みと共に、翼が皮膚を破り生えてきているような気がした。まずは右羽から、徐々にその白い奇跡が青の色を持って露わになる。

 そんな妄想を抱き、痛みが背の右上部一杯に広がった所で、コウの動作が止まった。左側に移る為かと思っていたが、いつまで経っても痛みは来ない。

「コウ?」

 首だけで僅かに振り返ると、コウは既に道具を片づけ始めていた。

「終わりだよ」

「なんで」

 今度は身体ごとコウの方を向いた。シキの声も視線も気にすることなく、コウは片づけを続ける。

「右だけ? しかも小さくないか? どういうつもりだよ、コウ」

 あれ以来、初めてシキは大声を出した。まともにコウの目を見た。

 疑問と憎悪の眼差しに対し、コウは笑みさえ零した。

「小さい羽だって飛んでる鳥は沢山居るだろ?」

「だからって、何で片方だけ……」

 コウは立ち上がってシキを見下ろした。口の端を上げて笑っている。だが、蔑んではいない。意志の強い、生気のある目が、空に取り殺されかけた虚ろな目を射抜いてくる。

「今度会えたら、おまえを飛ばしてやる。だから、それまで自分の足で、この汚い大地歩いて生きろ。逃げんじゃねぇ」

 胸に容赦なく言葉が刺さった。思わず左手首を隠した。包帯の下にある、はっきりと残った罪の痕を、苦しみの痕を。……逃げた痕を。

 俯いたシキの目の前に、コウは軟膏のチューブを投げ捨てた。抗生物質だ。彫った後に暫く塗り続けないと、酷い目を見ることはシキも知っている。

 最後の置きみやげだった。

「じゃあな」

 軽く言い残し、コウは荷物を持つと玄関に向かった。

 その足音を聞き、我に返ったシキが、ありったけの声で叫んだ。

「何で行っちゃうんだよ! 俺の前から消えるつもりで、なんで、なんで、残るもの、俺の身体に残るモンなんかくれるんだよ!」

 涙声で言葉を詰まらせながら、コウの後ろ髪を引きたい一心で叫んだ。身体は動かない。言葉で引き留められないものを、力尽くで引き留められるとは思わなかった。

 コウの足が止まり、振り返った。だが、それだけであった。

 止められない。

 その事実を、いつもの勝ち誇ったような笑みから感じた。

 止められないのだ。

「傷を負って生きてみろよ。そうすれば、どれだけ自分が夢に甘ったれてるかわかるぜ?」

 そして、コウは消えた。

 追うことは出来なかった。いつか消えてしまうと思っていた。たとえ瘴気の所為ではないにしろ。

 独りに戻り、俯いた。

 胸を焦がしていたもの全てを失って、上を見ることを虚しいと思った。

 全て捨ててしまえば楽になる。

 そう信じて、空を忘れた。夢も忘れた。望むことも忘れた。常に俯いて、地面だけを眺めて生きることを始めた。

 空に背を向け大地を向き合って、辛い夢も見なくなった。無い物ねだりに日々を費やすこともなくなった。しかし、満たされることは決してない。

 傷が完全に塞がってもはっきりと残った痕も、包帯を軽く巻き、両手に手袋をすることで忘れたことにした。

 見えなくすることで、すべてをゼロにしようと思った。

 マイナスの自分をゼロにするには、何かを足していかなければならないのに、引いてばかりで地下に潜るばかり。そんなことにも気付かずに、目に付く者全てから目を背け、忘れ、捨てたことにした。

 意識から外しきれなかった瘴気を除き、何も考えずにいよう。

 もう一度手首を掻ききるような衝動もない。

 ずっと俯いていれば、いずれ無がやってくる。

 その欲求も忘れるために、シキは身体を横たえた。


   *


 五年前の喪失。

 しかし、今、失った一人と再会した。

 あの時シキ自ら刻んだ傷を、コウが今掴んでいる。

「なあ、約束したよな。もっかい会えたら、俺を飛ばしてくれるって」

 それを聞いてコウはもう一度シキの手をはたいた。ぱたりとシキの手は彼の身体の上に落ちる。不機嫌に口を尖らせたコウの顔が見えた。

「ただ会えたらなんて、言った覚えねぇぞ。おまえ、俺の言った通り生きたのかよ。ん? 下向いて逃げ回ってただけじゃねぇのか? おまえ、相変わらずじゃん。なーんも変わってない」

 不機嫌どころか激高したのはシキだった。一息で起き上がり、コウに食いかかる勢いで向き合う。

「そんなこと無い! ちゃんと、……ちゃんと生きた!」

「信じねぇな」

 シキよりも数倍強い力を持っている目が睨み付けてきた。シキは少し圧されたが、引くわけには行かない。

「なあ、頼むよ。早く……早く欲しいんだ」

 唇を噛み僅かに目を逸らすシキを見て、コウは首を傾げた。悟られまいとしてシキは顔を向ける。コウはますます気に入らない、と言う顔をして、シキの額にデコピンを喰らわせた。

「何急いでんだよ。明日にでも死ぬってワケじゃねぇだろ。特におまえの場合」

 リビングに、いっときの沈黙が流れた。俯くシキ。見下ろすコウ。

 此処は笑って終わらせる場面だろう。本来ならば、だ。

「良くわかんないけど、……」

 シキは数日前に彷徨いながら感じた感覚を思い出していた。今になって心が無性に求める物を。今まで生きていて感じたことの無かった感覚。良い兆候とは思えない。その感覚がまた甦る。

「俺……太陽に恋してる」

 まさに絶句。コウは目を剥いてシキを見た。口も、もう少しで震わせ始めそうだ。手を伸ばし、俯くシキの頬に触れた。本当にこの口がそんなことを言ったのか、と信じられない様子で、覗き込んでくる。

「意味わかんねぇで言ってる……ワケじゃねぇよな」

 やはりコウもそう思うのか、と、シキは心の中で呟いた。自分たちに、その感覚はあってはならないのだ。生きる為に、絶対にあってはならない。

 言葉にしてみて、息苦しくなった。今にも呼吸が止まるのではないかと思った程だ。意味も脈絡もなく死が覆い被さってくるような錯覚さえする。

 逸らした眼前で、コウが溜息を吐いた。

「だからって、すぐに入れてやんないからな。約束も守んねぇでうだうだ言ってる奴なんて、早く死んじまえ」

 コウはシキに背を向けると冷蔵庫に向かい、水を取り出して勢いよく飲み始めた。嚥下する音がリビングにまで聞こえる。しかし、飲み終わってもこちらに来る様子はない。

 シキはコウが来るのを待つことを諦め、もう一度ソファーに横たわった。左手を右肩に回し、骨張った肩を掴む。

 自分の言った言葉の意味は分かっている。どうしてコウが諾と言ってくれないのかも。

 傷がまた疼いたような気がした。

 心が急いている。

 早く翼が欲しいと、心が急いている。

 それはもしかしたら、命と引き替えになるのかも知れない。

 それでも、飛ぶ為の翼が欲しかった。

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