第18話

 クーラーが轟音を上げながら必死になって部屋を冷やしている。いつ壊れてもおかしくないと思わせる異音が時々するその真下に、シキは横たわっていた。この家に一つしかないベッドを占領し、苦しそうに浅く息をしている。

 一人で住むには広い二階建てのこの家がコウの城だ。屋根裏があるのが少し自慢だったが、その自慢も掃除が行き届かない所為で埃まみれの物置兼蜘蛛の家になっていた。

 部屋は大きな物は少ないが小物は乱雑に溢れていて、生活感は旺盛だ。

 コウは濡らしたタオルを振り回しながらシキの居る二階へ上がった。

 ベッドの端に腰を掛けると試しにシキの額に手を当てる。まだ焼け付くように熱い。コウは振り回していたタオルを適当にシキの額に乗せた。

 今この時もシキの身体からは瘴気が溢れていた。昔はそのことを殆ど感じ取れなかったが、今は分かり易い。害はない。だが、その他大勢にとってこの〝気〟は害以外の何物でもないだろう。

 何故こんなにも強くなった。

 過ぎた時間がそうさせたのか。それもあるだろう。

 これ以上やることはないと、コウは立ち上がった。

 その手首を掴む手がある。立ち上がった勢いに負けて、手はするりとベッドに落ちた。

「傍に……居てくれよ。おまえが離れると……身体が辛い」

 干涸らびそうな手が、ほとんど残っていない握力を絞って無い腕を掴んでいる。

 コウは立ったままシキを見下ろした。

「こんなに酷い熱出すの、初めてだろ。何やったんだよ」

「家追い出されて、ここまで来たらこうなってた」

「随分無理して力使ったな?」

「この街……暑すぎだ」

「ま、弾切れてたし、どこぞの物好きにでも構われたんだろ」

 互いに互いの言うことには答えないで勝手に話を進めていたが、それでも必要なことは解った。

「なあ、頼むよ。苦しいのも辛いのも……暫く感じたくない。……傍に居てよ。おまえが居ると、楽になれる……」

 ままならない呼吸をしながら、声を絞る。それは今にも泣きそうな、ぐずる子供に似ている。シキにしてはかなりの弱音だった。絶対他には見せない、弱気な態度だ。

 さも触れていて欲しいようにコウの居る側の左手を上掛けから出した。

 その手を、少しの間コウは黙って見ていた。手というよりも、手首を。

「『虚は虚を埋める』か。前も、そうだったよな」

「眠れるまででいいから……」

「やれやれ」

 仕方なくコウはまたベッドの端に腰を下ろした。差し出された手を、手の甲を覆うように握ってやる。

「甘えやがって。いつまでもガキなんだから」

 コウが触れ、苦痛が和らいだような顔をしてシキは目を閉じた。

 気温よりも高いシキの体温が、手袋越しでも嫌と言う程伝わってくる。その手袋の下から覗く包帯を見て、コウは小さく溜息を吐いた。

 先程まで無かった穏やかな顔で、シキは既に寝付いてしまっている。

 ――コイツ、ホントに成長出来てないんだな。いつまで逃げてる気だよ……ったく。

 逃げ道ばかりを探して、過去に目隠しをする様はいただけない。この手袋がなによりの証拠だ。そんなもの、曝して歩いても誰も咎めはしないのに。それでもシキは隠す。彼自身が一番見たくないからだ。

 約束の「眠れるまで」は既に果たしている。だが、この場を離れても特にすることのないコウは、飽きるまで居てやることにした。どのみち、ある程度体調が良くならないと、離れた瞬間に苦痛を思い出してまた目を覚ましてしまうに違いない。その度に催促されるくらいならいっそ楽になるまで居てやった方が互いの為だ。

 これは甘やかしだ。そう思い、嘆息。

 数年来の再会を、コウは素直に喜んでいた。同時にありがたくない気持ちもある。会うことはないだろうと思って去ったのに、出会ったときと真逆の状態で再会しようとは。この偶然が一体何を意味しているのか判らない。手袋を外せないで居るシキを、今度は蹴り出さなければならなくなるかも知れない。そういうことは出来ればしたくない。

 握っている手に早くも汗をかき始めた。コウは手を離しズボンで汗を拭うと、再び手を握ってやることはなく、シキからも目を離した。ベッドに手を付いて、足を組む。軽く溜息を吐いて天井を見上げた。

「自分の足で歩けって言ったじゃねぇか、ばぁか」

 文句を言いたい相手は穏やかな顔をして眠っている。珍しく身体を伸ばして、安心しきっている。

 何の苦労も努力もなく彼が生きてきたとは思わない。だが、見た限り何も成長できていない。十代に負った苦痛も悪夢も、何も変わらず、引きずっている。

「忘れろって言ってんじゃねぇ。乗り越えろって言ってんだよ」


   *


 首が痛い。

 そう思ってコウが目を覚ましたとき、日付が変わって朝になっていた。

 シキが寝るベッドに突っ伏し、一晩過ごすには無理のある体勢で眠ってしまったようだ。

 肩を回しながらシキの額に手を遣ると、昨日の熱が嘘のように引いていた。コウの手の方がよほど熱い。

 相変わらず眠ったままだが、もう放っておいても良いだろう。

 コウは一階へ下りた。

「ぶえっっくしょい」

 喉が痛むのは変なくしゃみをした所為ではない。

 恐らく、一晩中何も掛けずにクーラーの真下で寝ていたからだ。

 風邪を引いて共倒れしたら笑えない。

 コウは鼻をすすった。


   *


 得も言われぬ不安を感じて、シキは目を覚ました。

 小物ばかりが乱雑に散らかる部屋。寒いほどに効いたクーラー。生活感丸出しの部屋なのに、何故か自分一人取り残されて久しい感覚を持っていた。

 熱は完全に下がっている。

 しかし、長い間異常な高熱を宿し続けたお陰で、身体の機能はかなり落ちていた。まず握力が殆ど無い。手を握ろうとしても、指をまともに曲げることもままならない程だ。起きあがるのにも苦労した。力の入らない腕を付き、薄いのにやたらと重く感じる上掛けを退かし、やっとの事で上半身を起こすが目眩がしてまた倒れてしまう。

 思えば、まともな食事を暫く摂っていない。満足に動くためのエネルギーなど残っている筈もない。

 あれからそんなに寝ていたとは感じていなかった。あの全く下がらなかった異常な熱が何事もなかったかのように引いていったのはやはりコウのお陰だろうと、汚い部屋を見ながら思う。

 コウを呼ぼうと思った。

 だが、喉が張り付いて声が出ない。声にならない掠れた音と、気管から空気が漏れるような音がするだけだった。

 水さえまともに摂っていない身体だ。無理もない。

 懸命に腕に力を入れた。腕だけではない。起き上がるのに、全身の力が要るとは思わなかった。やっとの事で立ち上がったが、身体がフラフラしてまっすぐに立っていてくれない。

 大きな家具もなく、小物で埋もれているこの部屋に捕まる場所など無い。床にまで散らばっている正体不明の物を踏みつけないように、不確かな足取りで一歩一歩前進する。

 階段の降り口の所まで来て、全身から血が抜けていくような感覚がした。血糖値が下がったなどという程度ではない。頭の後ろから一息に血液を引き抜かれたかのようだ。

 蒼白になる視界。雲の中に居るような錯覚がした。

 雲の中。

 また、落ちて――?

 十五度程度身体が傾いた所でシキは正気に戻った。あのまま幻想に囚われていたら階段かを転げ落ちていただろう。嫌な汗をかいてしまった不快感をそのままに、シキは踏み外さないようにゆっくりと階段を降りた。

 下の階に近づくに従って、機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。間違いなくコウのものだ。

 階段を降りてすぐ目の前にあるリビングも、例外なく小物に溢れていた。

 一人がけと二人がけのソファーが一つずつ、その前に古いテレビがしつらえてあった。逆の方には台所。毎日使っているらしく、散らかっていたが汚れてはいない。

 台所の隅に置かれている冷蔵庫に目がとまった。きっとあの中には渇いた喉を潤す物が入っているに違いない。飛びつきたい衝動を抑えて、ゆっくりとそこに近づいた。身長の三分の二程度しかない小さな冷蔵庫の扉に手を掛け、開いた。

 二リットルのミネラルウォーターのボトルが三本、多少の食材と、奥に三百五十ミリリットルのビール缶が一本入っている。

 一瞬の躊躇いもなく、シキはビール缶に手を伸ばした。

 よく冷えていて、指が缶に張り付きそうだ。手の平は手袋のお陰で心地よい冷たさを感じている。

 プルトップを立てると、小気味いい音がした。久しぶりに聞く、渇きを誘う音だ。立てたプルトップを戻す動作をしながら、缶の中身を呷った。

 空きっ腹に冷気と水分と酔いが一気に染み込む。

 酒が飲めない筈のコウの家の冷蔵庫に何故ビールがあるのかが最大の謎だ。補完されていた数が少ないのは、滅多に飲まないからか、買い置きの最後の一本だったのか。どちらにしろ、旨い。

 かくいうシキも、酒は強くない。すぐ酔うし、なかなか抜けない。それでも飲むのは好きだった。生活に余裕が無くなり嗜好品を買えなくなってここ数年飲んでいなかったが。

 ――うまー……。

 一息もつかずにビールを呷り、後一口で終わるというときになって、突然人影が現れた。

 殺気を放って現れたのは、歯ブラシを口に突っ込んだまま、口の周りを歯磨き粉の泡だらけにして睨んでいるコウだった。

「おふぁふぇは、あに、いおといーう……」

「わかんないから、コウ」

 飲み終わったビール缶を流しに置き、コウの方へ向き直る。既に顔が火照ってきている。

「あから! いとと……」

「口、すすいで来いよ。全然わかんねぇし」

 シキに言われてコウはどこかへ飛んでいった。その間にシキは二人がけのソファーに横になる。酔いが全身を巡って、鼓動が早い。やっと熱が下がったというのに、また似たような感覚がある。けれど、苦しくはない。そこが違った。

「おまえな、人が取って置いたビール、飲んでんじゃねぇよ!」

「あれ? おまえ、酒飲めたっけ?」

「俺だってね、進歩するの。進化するの」

「まあ、あの冷蔵庫じゃ、未だほぼ下戸に近いと思うけど」

「うるせぇ。人が看病してやったっていうのに、取って置いたビール飲みやがって。二日酔いで頭痛ぇとか言っても知らないからな。前、おまえが二日酔いでヒィヒィ言ってたの思い出すぜ」

「そしたらまた看病して貰う」

「誰が!」

「コウが。おまえはそういう奴」

「俺はそんなお人好しじゃねぇよ。苦しめ。酔っぱらい」

 悪態を吐きながら、コウは台所へ戻っていった。冷蔵庫の扉が開く音がして、物音がした後、また閉まる音がした。

 その間、何となく天井に手を伸ばした。左手を、目一杯伸ばす。

 一般の家にしては高い方だが、台に上れば届いてしまう程度の高さ。

 干上がった身体は再び水を得て、生きている。

 何かに生かされているかのようだ。

 一体何に? 何の為に?

「まだこの傷、隠してるんだ」

 コウがその手を掴んだことで、シキは焦点を合わせた。夢から醒めた後のような痺れがある。この短時間に、意識は何処まで旅をしてしまったのか。

「忘れてたこと思い出させてくれた奴が居てさ。そしたら余計に外せなくなった」

「ふうん。そいつには、見せたくないんだ」

「……」

 思わず黙ってしまった。

 コウの言うことは正しい。だが、正しくもない。

 判断が付かない。

 忘れていた手袋の理由。包帯の理由。見ていた空から目を背けた理由。

 すべてはその傷から始まっている。


   *


 まだ、シキがあのアパートに身を寄せて間もないことだ。

 まだ手袋も、包帯もしていない頃。



 残暑が残る乾いた天気の日に、シキは全身を布で覆って紙袋を抱えていた。二週間近く雨も降らず、雲も出なかったお陰で食料調達に行きそびれてしまったのだ。結果、気温や天候を選ぶ余裕が無くなり、熱すぎる秋晴れの日に買い出しに行く羽目になった。

 照りつけてくる太陽が無情に暑い。痛い程の熱が、布を通して感じられる。

 その頃はまだシュウと行った店ではなく別の店で物品調達をしていた。方向も逆方向で、裏の裏に入った所にこぢんまりと構えてた店だった。数週間後、主は殺され店はなくなる運命にあった。

 布の隙間や下の方から瘴気が溢れ出ている。目に見える物ではないが、シキは嫌と言う程感じていた。

 影に隠れながら人目を避けて店に行き、逃げるようにアパートに帰っている途中。一つ角を曲がればすぐそこがアパートの入り口、という所で人とぶつかった。厳密に言うと倒れかかられた。

 前に袋を抱えた上に更にのし掛かられて、シキはバランスを崩して荷物と誰かと共に倒れた。

「悪ィ。ちょっと匿って」

 全く悪気のない口調で倒れかかってきた男は言った。

 焦げ茶の髪に大きな茶色の目。シキと大して変わらない背丈、そして恐れを知らないような顔。

「何なんだよ、あんた」

 抱えていた袋を脇に置き、男の肩を掴んだ。男は力の入らない様子で自力で起きあがることも出来なかった。

「助かったぁ」

 そう言うと、男はシキの足を枕に気を失ってしまった。

 そんなことをされても困るシキは男の身体を仰向けにした。そして、腹に大量の血が見えた。そこを押さえる手も血に染まっている。

「こいつ、血塗れ……」


 これが、コウとの出会いだった。


 異常な速さでコウの傷は回復した。ナイフで刺された傷で、決して浅いものではなかった。だが、出血はすぐに止まり、その日の夜に傷口は塞がり始めていた。

 始め、シキはコウを運び、応急手当を済ませるとすぐに立ち去った。瘴気を気にしたからだ。暫くしてまた様子を見に来たとき、コウは酷い汗をかいていた。傷による発熱だった。タオルを濡らし、額に乗せてやる。瘴気との相乗効果で更にこの男を苦しめるのを避ける為、シキは逃げようとした。

 だが、その逃げる手を掴む手があった。コウの手が、シキの手を掴んでいる。

「行くなよ。おまえが居た方が、身体が、楽だ」

 言われた意味が分からなかった。今までこの瘴気が害以外の物になった試しがない。この暑い気温の中、肩に軽く布を掛けただけのシキの身体からは止めどなく穢れた気が溢れ続けていた。それが、まだこのときは名前も知らないこの男に当たっていないわけがない。それなのに、彼はシキを側に留めさせた。楽になるから、と。

 瘴気の側に居て、苦しむ者は居ても楽になる者は誰一人としていなかった。今まで生きていて、誰一人として。瘴気が害にならない初めての人間がコウだった。

 傷が異常なまでに早く治り、同時に熱も引いていったのは、そのすぐ直後からだった。シキの所為でそのことが起きたかのようだった。

 楽を感じているのはコウだけではなかった。シキも、コウの側に居ると何故か落ち着いた。天然の精神安定剤がそこにある。そんな気さえした。

「――虚は虚を埋める……。このことを言ったのか……?」

 立て膝をし、ベッドに腕を乗せてコウの顔を覗き込みながら呟いた。

「何か、言った?」

 寝ていたコウがうっすらと目を開け、尋ねた。

「昔、ある人が俺に遺した言葉」

「……大切な人か?」

「まあな。大切、だった筈。俺の母親……たぶん、母親だった人が、言った。『虚は虚を埋める』って。おまえに何か虚の部分があるなら、この傷がこんなに早く治ったのも、おまえと居て落ち着くのも、何となく分かる気がする」

「おまえの虚は、その身体から溢れる物か?」

「分かるのか?」

「ああ。分かるけど、害じゃない。染み入ってくるけど、痛くはない。むしろ、落ち着く」

「……初めてだよ、瘴気が害にならない奴なんて」

 虚を持つ者を知った。名前を知り合い、気心も知れるようになった。

 だが、コウの虚が何であるか、それは未だに分からない。少なくても互いに埋め合える物であることには違いない。

 少しして、コウの左側の首筋に、大きな古傷があるのに気が付いた。切れない物で無理矢理に切ったような傷痕だ。どうして出来た傷なのか、それが虚と関係あるのか、一切尋ねることはなかった。

 誰かが常に側に居ることに、始めは戸惑った。誰かと親しくなったのはハル以来だったが、ハルは体質上常に側に居ることはなかった。だが、コウは違う。瘴気を一切害としないコウは、遠慮無く近くに居る。その感覚が新鮮であり、怖くもあった。

 この瘴気の所為で何もかも失ってきた。いくら害にならないとしても、この瘴気の所為ではなくてもいずれコウも去っていってしまう。死という形でなくても、別れはいつか来る。

 窓越しに空を仰ぎながらぼんやりと不安を感じていた。厚みのない雲がゆったりとたゆたう。孤独は辛くない。けれど、孤独に陥る瞬間が辛い。

 あの雲の向こうに、あの空の奥に、求める物はきっとある。孤独さえも感じない、その場所に。

 放心したまま空に囚われていた。時間も忘れて、寝食も忘れて空に喰われていた。

 台所から発掘したパンに食いつきながら、ある時コウがシキに尋ねた。

「おまえ、いつも外見てるんだな。なんか欲しいモンでも浮いてんのか?」

「別に……」

 それ以上コウは訊いては来なかった。

 ふうん、と鼻を鳴らして終わらせてしまう。

 そんな生活が暫く続いた。


   *


「おまえ、銃の扱い結構上手いんだろ? ちょっと俺と遊ぼうぜ」

 いつの間にか仕事が殺し屋だということもばれてしまっていた。一度たりともコウの目の前で銃を使ったり、それらしきことを仄めかしたこともなかったが、仕事の夜となれば家を出なければ何も始まらない。そこからどう推測したのか分からないが、血の臭いでも嗅ぎ取ったのだろう。

 遠回しにそんなことを言って、俺は何もかもお見通しだという顔をした。

 そうなればシキに勝ち目はない。

 コウの言葉に頷くことで、肯定することになった。

「何して遊ぶって言うんだ?」

 不機嫌にシキは唇を尖らせた。

「闇の住人にはそれなりの遊び、ってモンがあるだろ。おまえなら、人殺すのは平気だろうし、金だって欲しいじゃん? このお年頃」

 随分発言をしてくれる。確かに、強盗、殺人の類は、既に遊びと同じ事だ。どちらかというと、賭け事に近い。生きることも、金を得ることも、すべてが一つ一つ賭け事だ。そこで死んだ人間が負け。そういう世界だ。

 基本的に能動的ではないシキが、コウの言葉に興味を持った。腕を引かれて起きあがらせて貰うように、コウの言動によって徐々にシキの活動性が頭をもたげ始めていた。

「所詮この世はゼロサムゲーム。どうせそうなら楽しもうぜ?」

 ニヤッとコウが大きな口で笑った。挑戦的で何一つ恐れることを知らない、何からも逃げることのない、強い眼差しだ。

 この顔が、ハルとはまた違った笑顔だったが、気に入った。ハルとは違った季節を、コウはくれるような気がした。

 実年齢は分からないが、精神年齢はコウの方が上らしい。引き立てられ、誘いに乗った。楽しもうぜ、と笑う顔に、負けた。

 シキはコウに拳銃を一丁贈呈し、月の無い夜に繰り出した。布は動きづらいから羽織らず、代わりに上着を一枚余計に着た。

 銃声を轟かせ、撃ち合い、殺し合い、金を奪う。

 やっていることは汚い。けれど、罪悪感など無い。これが生きること、そのものだから。

 むしろ楽しい。誰かと何かを共にやることが出来る。そのことにシキは湧き上がる喜びを感じていた。

 何度も何度も、涼しくて気分のいい日に気ままに二人で宵闇に紛れて命を狩った。

 そんなある日。慣れが来た頃だった。

 楽しさにかまけて、いつの間にか壁際に追いつめられていた。無数の銃口が二人を狙い、その時点で絶望は見えていた。

 けれど、コウは平気な顔をしていた。死など、毛の先程も気にしていないような余裕の顔だった。いつもの勝ち誇ったような顔を、こんな時にもしていた。

 すべてに対して真っ正面から挑んでいる。生きることにも、死ぬことにも。

 生も死も、始めから何も無いかのように、コウは恐れない。究極のポジティブか、刹那も愛さぬネガティブか。

 死なせたくない。

 シキは思った。

 今まで沢山殺してきた。今まで沢山死なせてきた。しかしその中に、この瘴気に冒されない者は一人としていなかった。願わくばこの男と、気兼ねのない時間を過ごしたい。

 そんなシキを余所に、コウはこの期に及んで挑発するように一歩、そしてまた一歩足を進めていた。

 今更銃を放った所で、この人数に一斉に発砲されればどのみち助からない。それを知っても尚、コウは諦めを見せない。諦め、絶望、恐怖、逃亡、悲観、すべての負の言葉を、彼は元から知らないようでもあった。同時に、他人に対しても情け容赦がない。向かってこなくても誰を殺しても痛む心は何処にもない。特に冷徹な顔は見せないのに、その心は想像を絶するほど冷酷だ。

 ただそれは、自分の生死と同じく、相手の生死も顧みないことの表れかとも思う。それは果たして冷酷と表現すべきか。

 銃口が、コウを狙っている。いくつかはシキを狙っている。

 この状況で、命を繋ぐには方法は一つしかない。

 シキは眉根を詰め、額の先に意識を集中した。

 乾いた発砲音。

「失せろ……!」

 弾丸は届かない。二人の手前で塵となって消えた。その向こう側で、男達が次々と倒れていく。

 どれも狂怪な様をして、異常な光景だった。

 瘴気でまた人が死んでいく。しかし、これは特別だ。他人を護るための攻撃だ。都合の良い解釈を嗤いたければ嗤えばいい。

 身体が、熱い。

「何今の? シキがやった?」

 楽しそうに驚きながらコウが振り返る。彼に対して返答は出来なかった。心臓が狂ったように早打ちしている。跳ね上がった息と熱に苦痛を感じる。

 胸が痛い。

 それでもどうにか応えようと、無理に笑おうとした。

 だが、胸を押さえてシキは倒れた。



「シキっ! 何だよ、この熱! 何で急に」

 言いながら、コウは直感的に熱の原因を感じた。今の不可思議な現象とこの熱が、もしかしたら関係があるのかも知れない、と。

 コウは、目に見えない何かがシキから溢れ、辺りに広がっていくのを感じた。確かに目には映らない。だが、漠然とした感覚がコウに伝わり、あたかも見えるかのように錯覚する。前から感じていたことではあった。だが、それが何かあるわけでもないので、気にすることはなかった。そして今、余りにも濃く、強いそれがシキの身体から溢れたことで漸く掴めるまでの感覚になったのだ。

 ――これが、シキの言った〝瘴気〟の正体なのか?

 それが害にならないコウには分からないことだった。だが、他にこの事態の原因があるわけがない。コウは苦い顔をして合点がいったように頷いた。

「しっかりしろよ、シキ。気絶るんじゃねぇぞ」

 コウはシキの腕を自分の方に回すと、外へ向かって歩いた。このままこの死臭の充満する部屋に留まることは気が引けた。だが、コウの背が高いならいざ知らず、体格も身長も大して変わらないために引きずるにも苦労する。少しは自分の力で歩いて貰わないと、家どころか表にまでたどり着けない。

 路地裏に出ると、コウは昼でも人通りの少ない袋小路にシキを引きずった。とても家まで帰り着くことは出来ない。せめてまともに自力で歩けるまでになって貰わないとどうしようもなかった。

 壁に凭れさせるようにシキを降ろし、コウは彼の正面に回って顔を覗き込んだ。額に触れると焼けるように熱い。

「何なんだよ、この熱」

 瘴気の正体は分かっても、この熱の正体は分からない。想像の域を出ない。

 額に触れていた手を離したとき、シキがその手を求めて手を伸ばした。

 微かに指先まで震えている。それ程までに熱が高いようだ。

「コウ……傍に居て。放さないで……」

「ん?」

「おまえが居た方が、触れていてくれた方が、楽になれる……」

 そう言われ、コウは自分が怪我をしていたときのことを思いだした。似たようなことを、あの時はコウがシキに言った。身体が、精神が辛いとき、互いに補完し合える。気分の問題ではない。本当に互いの溝を埋め合っているのだ。

 それから暫くして、熱は面白いように引いていった。

 シキの顔色も優れ、帰り道は何もなかったかのように笑い合っていた。

 後になって熱の原因を聞かされた。瘴気の本質についても。本人もすべてにおいて得心いっているわけではなかったが、少なくても自分の身体だ。

 ……しかし、空を眺める理由を、彼は言わなかった。

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