第17話

 風が涼しい。

 そう思ってシキは目を開けた。

 古びた窓枠の側に据えられているあるやや粗末なベッドで横になっていた。額にはよく冷えたタオル。窓は閉めきられ、代わりにクーラーがよく利いていた。とは言っても上掛けをしっかり掛けられているので寒いとは思わない。

 まだ熱は下がりきってはいなかったが、呼吸が段違いに楽になっている。顔が妙にさっぱりしていた。誰かが拭ってくれたとしか思えない。両手の手袋に変化がなかったことに安堵した。勿論包帯も巻き直したような形跡はない。

 見上げる天井は、通常のものよりも高い。窓から伺える景色も高い。どうやら今居る所は二階に位置しているようだ。どちらかというと、屋根裏の雰囲気の方が強い。

 何気なく手をやった腰に、銃がないことに気が付いた。ここが一体何処で、誰がどうしてここに運んだか分からない今、それを手放すのは危険だった。慌てて窓とは逆の方を向き、目だけで辺りを探る。

 薄汚れた白い壁にテーブルや椅子などの普通の家具が目に入った。埃は被っていない。どうやら今も人が使っている家らしい。

 と、すぐ脇に置いてあった椅子の上に目がとまった。見慣れた銃がそこにある。灯台下暗し。無駄に焦った気がした。ついでに灰色の布も椅子の背もたれに掛けられている。手を伸ばし、銃を手に取る。マガジンを抜き、中を確かめる。残り五発。予備のマガジンはない。この残数でどうしたものかと思いながらシキはマガジンを戻した。

 銃を手にしたまま、このまま腰に差そうか椅子の上に戻そうか少し悩んだ。腰に差しては寝返りを打つとき痛いし、ここの住人が気付いたときに変に勘ぐられる可能性もある。たとえ盗られたとしてもそれほど困るわけでもない。そうするくらいなら既に椅子の上になど無いだろう。万が一危機にさらされたとしても、瞬間的には銃よりも役に立つものをシキ自身が持っている。後の面倒を避ける為、銃は椅子の上に置くことにした。

 それにしても何処の物好きが助けてくれたのか。あの時嫌と言う程溢れていたであろう瘴気は何ともなかったのか。シキは額に載せてあったタオルを椅子の上に置くと、身体ごと窓の方を向き、少し汚れたガラスを通して外を眺めた。

 窓は大きな一枚ガラスで、表側に開けるようになっている。よってこの窓は格子に見えない。いつも檻に見えていた窓が今は外と内を遮るだけの物に映った。

 気が付くと仰向けになって空を眺めていた。昔のように何も考えることなく空だけをぼーっと眺めている。を失い、夢を刻まれてからやめた習慣だった。望むのが莫迦らしくなって、失った痛みに耐えられずあの時の空のように泣きながら、もう空は見ないと誓った。それなのに、シュウが再び空を見せた。あの空色の瞳さえ見なければ、またこの無情の青に心奪われることはなかっただろうに。

 焦点は遙か彼方に、惚けたような顔をして空に奪い尽くされていた。雲も無い。鳥も飛ばない。二酸化炭素の多そうな。それなのに抜けるような青。

 その青の向こうにきっとある。望む場所が。白亜に覆われた、あの場所が……。

 いつの間にか眠ってしまっていた。まだ長時間起きていられる程の体力は戻ってきていない。熱に魘され窶れた顔で、浅い眠りを漂う。

 微かな足音が意識の遠くで聞こえた。完全に寝て居るとも起きているとも言えない状態で近づく足音を感じていた。

「あら? 起きたのかしら」

 女の声だ。その後に、額に冷たい物が載った。それは一度離れると、また違った感覚の冷たさを持つ物が載せられた。どうやら先に触れたものは手だったらしい。

 すべては淡い感覚だった。暫くして目が覚めても今のことが夢か現実か判断することも難しいかも知れない。けれど、一つだけはっきりと残る感覚があった。

 匂い。

 きつめの柑橘系の匂い。

 どこかで知った匂いだった。遠い昔の記憶にあるような気がした。そこに懐かしいという感覚はない。

 鼻の先に残ったこの匂いが、ある種の不快感を与えてきた。下手をすれば、悪夢に魘されそうな、そんな感覚。

 微睡みながらもそのことに顔を顰めつつ、咽せるようなその柑橘系の匂いに囲まれて、シキは徐々に深い眠りに落ちた。


   *


 何時間経ったのか、あるいは何日経ったのか、シキの知る所ではなかった。

 とにかく相変わらず空は青い。窓ガラス付近はじりじりと熱気がする。ただの風邪ならこのクーラーは害だろうが、シキの場合はありがたいことだった。このままここで全快出来るのならそうした方が楽に違いない。一体どれだけかかるか見当も付かないが、今の状態ではまたぶり返すのがオチだろう。

 ぎこちない動きで辺りを見た。

 誰も居ない。

 いい加減ここの家主を知りたい。ついでにどんな物好きか見てみたい。

 喉の渇きも相俟って、シキは痛む身体を起こした。これだけ筋肉が弛緩しているのを見ると相当長い間寝ていたようだ。腕にも足にも容易に力が入らない。

 やっとの事で立ち上がり、椅子の背に掛けてあった布を手に取ると一度払って肩に掛けた。念のため銃を腰に差す。そして壁を伝いながら階段へ向かった。

 標準の高さの段差であるのに、階段一つ降りるのにもの凄く苦労した。足場の悪い山道を下るような格好をして一段一段確実に降りていく。

 漸く下の階に着いたとき、既に息が上がっていた。いくら体調が良くなっていないとはいえ、ここまで体力が無くなっていたとは。

 ふと見た先に、自分の姿が映っていた。階段脇に掛けてあった鏡に、元から小さく細い身体を更に一回り程小さくして、二重の目に更なる刻みと隈を作った自分が居る。目にも力が乏しい。きつい身体を庇う所為で猫背が更に丸くなっていた。

「……ひでぇな」

 思わず呟く程だ。

 憔悴しきった自分が哀れにも滑稽にも見えた。

 野垂れ死んでもおかしくない状況に置かれながらも、何故かこうして生かされている。どういった了見か知らないが、神が居るとするのなら少し甘やかしすぎだろう。そんな風にも思う。

 シキは鏡から目を逸らした。こんな情けない姿を見ていたいとも思わない。

 真っ直ぐに伸びる短い廊下の先から、男と女の声がした。扉もないその先からは、暗い廊下とは対照的に光が溢れている。壁を伝い歩き、顔を覗かせるとリビングであった。

 明らかにシキの倍以上の年齢である男と、男より一回り程若い女が居た。

 四角い顔の男は、どう贔屓目に見ても裏の人間だろう。その位は同じ世界を生きる者なら分かることだ。女の方も同種と見て良さそうだった。どちらかというと水商売、と言った感じがしたが。艶めかしい唇が異様に赤く見えた。短く切った髪に大きな黒目がちの目に多少の愛嬌がある。

 先にシキの存在に気が付いたのは窓際でこちらを向いていた男の方だった。四角い顔の中にある目を丸くして、

「おっ。起きたか」

 と、警戒心ゼロの馴れ馴れしい口調で言ってきた。笑うと一見人が良さそうに見えるが、どうだかわからない。浅黒く日に焼けた顔や腕をきつそうなシャツから生やして、手招きをしてくる。招待に与りたい気分ではなく、壁に捕まったままで居た。

「あらぁ。まだ具合悪そうなのに起きて大丈夫なのぉ?」

 記憶にある声と柑橘系の匂いが近づいてきた。やはり夢ではなかったのかと心の底で思う。粘つく話し方が耳にうるさかった。黙って立っていれば見られるが、口を開くといただけない。

 するりと細い女の手がシキの顔にやってきた。手慣れた誘惑の繊手。触れられる直前でやっとのこと口を開いた。

「悪いけど、水を……」

「悪くなんかないわよぉ」

 無駄に扇情的な動きで女は水を持ってきてくれた。

 どうもこの二人は苦手だ。悪いなどと思ってもいないのに悪いと口にしてしまう。元気がないのも原因のうちだろうが、どうしても思いもしない言葉を口にしながら遠ざかっていきたい気分にさせる。

 そして鼻を突く柑橘の匂い。思い違いではない。この匂いは、記憶にある。

 水の入ったコップを受け取り、一気に飲み干した。よく冷えていて頭に響き、額の辺りが痛くなった。手を当てて痛みを堪えるが、脳髄にまで染み渡っていったような冷たさはなかなか去っていかない。

 シュウ少年に貰った水よりよく冷えていて水の質も良いい。だが、どうしても美味いとは思えなかった。そう思わせる原因が、あの匂いにあることをシキは知っている。どうしても良い想い出とは結びついていない。頭の痛みが抜けるに従って、記憶が引きずり出されようとしていた。

「もうビックリしちゃったんだからぁ。ウチの裏口の前に倒れてるんですもの。ドア開けたら目の前よ。何があったのか知らないけど、運が良かったわねぇ」

 再びやってきた手に、今度は飲み終わったコップを渡してやった。正体の思い出されないこの匂いに、触れられたくない。二度も行動を遮られ、女は少し不快を露わにした。渡されたコップを少し乱暴にテーブルの上に置いたが、そんな女をシキは無視する。

「それにしても、良く助けてくれたな。普通なら、ほっとくだろう?」

 聞き方によれば「余計なことしやがって」と取れなくもない言い方をシキはわざとした。好意を無にするような発言に対して不快を表すかと思ったが、逆に二人は笑った。

「な? 普通そうだよな。でもよ、コイツがおまえさんのこと気に入ったみたいで」

 男がニヤニヤしながら真相を語ってくれた。

 不純な動機だな。と、シキは横目で女を見る。彼女は愛嬌のある目を細くして媚びるように笑っていた。

「だってぇ。あんな熱い中外で倒れてたんじゃ、身体に良くないでしょぉ? それに、あたしの好みだし、ねぇ?」

 ねぇ、と言われても困る。

 今まで二度払うことに成功していた手が、今度こそシキに触れようとやってきた。払う術もなくシキはその手に絡まれる。女らしい細くしなやかな手が頬から顎にかけて撫で下ろしていく感覚に、鳥肌が立ちそうだった。女はそれだけでは足りないようで、今度は両腕をシキの首に回すと完全に絡み付いてくる。

「あーあ。やってるよ、まったく。妬けてくるね」

 男の冗談はさておき、シキは粘り気に絡まれる感覚に、今にも吐きそうだった。いったんこうなるとなかなか離れることが出来ない。シキより背の高い女の首筋が、鼻先に来る。その時、ぷんと毒々しいまでの柑橘の匂いがした。

 同時に、黒い影が目の前を過ぎる。

 この匂い。あの時に嗅いだ。二回目に得た温もりが奪われた、あの夜に。

 頭に血が上った。すぐに思い出せなかったのは、時間が経っていたことよりも体調が原因していたのかも知れない。けれど、忘れられるはずがなかった。僅かな時間、微かに嗅いだだけの匂いだったが、そういった類の匂いに不慣れであったシキには強烈な印象になっていた。

 シキはありったけの力を腕に込めて女を突き放した。振り払うように右腕を凪いだので、女は床に叩きつけられる形になった。シキの右側の足下で呆然とした。

 男と女から今までの表情が消える。怒りに滾るシキの表情に、色さえ失っていた。

 突然のことで、女は声も出なくなっている。暫く何が起こったのかも分からずに、腕を震わせるシキを眺め上げるだけだった。やがて状況を把握し、悪態の一つも吐こうと口を開こうとしたとき、見下ろしてきたシキの目に声を失った。

 鳶色の瞳が異様な鋭い光を放って、焼き殺すかのように見ている。



 女は、本当にその瞳に殺されるのではないかと思った。肌にチリチリとした痛みを感じていた。彼から発せられる熱に焼かれる痛みが、体中にまとわりつく。

「その匂い、……知ってる」

 低く、殺気を隠せない声で彼は言う。

 女は一瞬自分の匂いのこととは気付かず、口を戦慄かせているだけだった。

「忘れるもんか……。あんた、あそこに居たな?」

 彼が言う「あそこ」が何処なのか見当も付かないまま、次第に増していく痛みに耐えることで必死だった。

「な、なんのことよ」

 やっと絞り出した声も、彼の鼻で笑った冷たい音に消された。

 彼は首の後ろに手をやり布を掴むと、ゆっくりと脱ぎ去った。その動作の意味を、女は理解できない。ただ、身体に刺さる痛みが、先程とは比べものにならないほどに増した。

「あんたは忘れていても、俺は覚えてる。あの時、二つ目の家族になるはずだった人たちを殺した、……黒狼の女!」

 黒狼の名が出た途端、二人の表情は更に引きつらせた。突然出て来たその名に驚愕するのは、畏れの所為ではない。

「そうか、この痛み。ボスが言ってた、あの少年が君か」

 返事をする代わりにシキは笑った。何処までも残酷な笑みで。その裏には今にも泣き出しそうな感情を隠して。僅かに唇が震えていた。

 男の次の行動は素早かった。すぐ脇に置いてあった銃に手を伸ばしたのだ。

 けれど、シキは少しも動じない。

 命を奪うだけの道具が自分に向いても、彼は何も問題ない顔をしている。

「殺せるかよ」

 呟いた声を、男が聴いていたかどうかは分からない。だが、女の耳には確実に届いていた。余裕を通り越した、風のように流れたその言葉を。



 男が発砲した。

 同じ時にシキは目を細め、顎を少し上げて見下すような格好で男を見る。

 次の瞬間、シキを中心に見えない波紋が広がった。家中の家具や小物が最低一回ずつ僅かに跳ね、組織を弱らせる。中には崩れ去ったものもある。その中に男の撃った銃の弾丸も含まれていた。劣化し、粉になり、床に散った。極めつけは男の持つ銃の銃口が溶け、完全にひしゃげていた。

 有り得ない光景に、男は二発目を撃つことを忘れ、呆然としている。どのみち撃った所で暴発するのは確実だ。

「血の繋がりなんて何も無い人たちだったけど、それでも、憎しみは生まれるんだ」

 上がり気味の眉を更につり上げてシキは低く叫ぶように言い放った。

 ゆらりとした動作で腰から銃を取り出す。どうしてそれを持っているのかも理解出来ない顔で、男は女を責めるように見た。必死になって首を振る女だったが、男がそれを了解する様子は見えない。

 弾丸を装填し、シキは男を見たまま斜め下に向けて構えた。

「……殺してやる」

 シキの語尾と銃声が重なった。銃声は二回。

安蜜アンミ!」

 男は女の名を叫んだがもう遅い。女は物言わぬ肉塊に変わっていた。まだ熱を留めたまま折れた身体は、血の海に溺れながら床に沈んでいた。それを、シキは見ようともしない。

「よくも!」

 溶けた銃口で弾を発することは出来ない。破れかぶれで投げつけてきた銃を、シキは僅かに首を曲げただけで避けた。銃はシキの後ろにあった壁に辺り、軽い音を立てて落ちる。

 その音を聞き終わると、シキは銃を構え、トリガーに人差し指をかけた。銃口の先に、為す術を無くした男の姿がある。

「ルイレンがこの力をあんたらにどう言ったか知らないけど、俺に言える答えは、その痛みに未来はないってことだけだ」

「……人間じゃねぇ」

 男の最期の言葉にシキは目を細めた。そして言を事実とすべく人差し指に力を入れた。立て続けに三回指を動かした。無意識に瘴気も鉛玉の後を追う。眉間に穴を作られた男の身体は次の瞬間に全身の組織崩壊を起こし、とても見られる姿ではなくなって転がった。

 シキは弾の無くなった銃を腰に差し、布を肩に掛ける。喉の奥が張り付くように乾いていた。だが、ここで水を飲む気はしない。金を盗っていく気もしなかった。

 どういう偶然かある種の好意で助けた男に、忘れる程昔の過去の恨みで殺されるハメになるとは。

 この家を後にするとき、男の言葉が一度だけ甦った。

 溜息が、出た。

 声も溜息も打ち消すように首を振ると、倒れていたであろう裏口から外に出、後ろ手に扉を閉めた。

「でもやっぱり、俺は人間だよ」

 ――だって、こんなにも痛い……。

 短く息を吸い、布のあわせを掴むと胸を押さえた。呼吸が苦しい。鼓動が速い。

 確実にこの力は強くなっていっている。ここ数日で気付いたことだったが、同時に身体への負担も増えていた。瘴気の量、それによる劣化速度、破壊程度、反射速度、そのすべてが右肩上がりに上がっている。ハルと共に居た頃、今の五分の一の力もあったかも分からない。何も感じない程に限界を超えたのは、ここに来て始めてであった。

 望みもしない諸刃の刃を身体に抱えている。やはり近い未来にこの瘴気に殺されるのだろうか。望みを叶える前に……?

 軽く咳き込みながら浮かんだ考えを否定した。そもそも叶う望みではない、と。

 細い路地を徐々に頼りなくなっていく足取りで宛もなく彷徨った。汚れた壁に指を這わせ、なぞるようにしながら身体を進める。

 狭い空に憎らしい太陽。たとえ恋しくても恋をしてはいけない対象。月を愛でても、太陽だけは絶対に想いを寄せてはいけない。そんなことをしたら、生きては行けなくなってしまうから。

 コウの言葉が甦る。


「俺たちは絶対に太陽に恋しちゃいけないんだよ。そんなことしたら、この闇で生きてなんかいけやしない」


 尤もだと思った。それに、そんなことはどこかで悟っていた。

 鬱陶しいとは思っても恋しいなどと思ったことはなかった。この特殊な身体を虐めてくるだけのあの光を、どうして好きになれるものか。

 ……そう、思っていたのに。

 でも、何故今になって避けつつもどこかで求めようとしているのか分からない。影踏みをしながら歩いてきた道で、突然踏む影が無くなったらどうすればいいのだろう。

 ちょっとした凹凸にも躓きながら影を縫って歩く。

 何処まで歩いたらゆっくりと休める場所があるのだろう。誰にも邪魔されることなく目を閉じられる場所はあるのだろうか。

 彷徨っていくうちにだんだんと人通りも建ち並ぶ建物もまばらになってきた。

 水と休息を意識しなくても身体が求めている。そんな自分を宥め賺しながら鉛のように重い足を動かしていった。壁をなぞり続けた手は真っ黒に染まり、布も汚れにまみれて灰から黒に変わりかけていた。飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止め、今にも壊れそうな瘴気の堰をありったけの力を込めて押さえつける。

 自分の吐息の音しか聞こえない。陽炎のように歪む視界に希望は見えない。

 やがて大きな工場にたどり着いた。既に廃墟と化し、人の気配はしない。傾きかけた太陽を背に、シキは今夜休む場所を探す為にその中に入り込んだ。

 中は、一体何の工場だったのかも分からない程何も無かった。ドラム缶や多種多様な鉄材はあちらこちらにばらまかれていたが、加工する為の機械などの類は見あたらない。恐らくめぼしい物はすべて持ち去られたのだろう。ここにあるのはその残りか、あるいは誰かが勝手に放置・保管しているのだろう。この廃工場、ただ広いだけではなく、非常に入り組んだ構造になっていた。いくつもの区画に細かく分かれ、少し奥に行くとたちまち自分がどこから来たのかも分からなくなる。陽の入らない夜なら尚更分からなくなること必至であった。

 シキも自分の位置を失いながらいくつも扉を潜った。陽が落ちる直前に、シキは一つの部屋に辿り着いた。仮眠室か何かに使っていたらしい部屋で、軽く叩くだけでいくらでも埃の出るベッドと、散乱したシーツらしき布があった。

 シキは部屋の窓を開け、布とベッドの埃を払った。長年放って置かれていたらしく、いくら払っても特にベッドの方は出てくる埃が無くなることはなかった。ある程度まで埃を払い、一応の換気を済ませてから、散らばっていた布の一枚をベッドの上にかけ、その上に寝転がった。その時舞い上がった埃で暫くくしゃみに喉を痛めることになった。しかし、屋根の下にいられるだけいい。どんなに埃だらけであろうと石の上に横になるよりは数段マシだ。

 窓を開け放したまま、布は腹にかけただけでシキは目を閉じた。こんな場所に来てまで瘴気の心配をすることはない。

 疲れが瘴気と負けない勢いで溢れ出す。

 横向きになり、身体を小さく畳み丸くなって目を閉じた。昔からの癖だ。身体を伸ばしているとなかなか寝付けない。

 早く夏が終わればいい。


   *


 夢と暑さに魘されてぼんやりと目を開いた。

 夢は、初めて見る夢だった。いつもの夢と違って、シキはすでにこの地上に居た。

 空から声が降ってきた。シキの名を呼ぶ声だ。

 聞き覚えがあるが、誰の声かどうしても思い出せなかった。呼ばれるままに、シキは空を仰いだ。

 晴れた青い空。雲もない、まさに快晴。

 けれど、その空は何故か滲んでいて、歪んでいた。どんなに目を凝らしても、歪んだその先に確かな物は何も見えない。声の正体も、青い筈の空も。

 晴れた空が何故水に濡れているのか。滲みが、やがて闇に変わるのではないかという不安が胸に広がった。

 ブルーブラックのインクが、マーブルの模様を描いて空を染めていく。

 シキは腕を伸ばしてありったけの声で叫んだ。何の音を発しているかも分からない声で、とにかく叫んだ。

 その時頬を伝う物があることを知って、漸く歪みの理由を知った。

 けれどもう遅い。

 空は闇に変わり、捜し物を見つけることも、求める場所を探すことも出来なくなっていた。

 そんな所で目が覚めた。いつもの夢にしろ、滅入らない夢はないものか。

 魘されながらも飛び起きることがなかったのは、恐らくそうできるほどの力が身体に残っていなかったのだろう。だが、右手だけは引きつった感覚が残っていた。それは目一杯手を長時間広げていた感覚だ。本当に何かを掴もうとして手を伸ばしていたようだ。握ろうとすると自分の手ではないように上手く動かない。

 その状態のまま起きようとして手を突いたとき、急に肘の力が抜けてシキは床に転げ落ちた。大した段差もなかったおかげでそんなに強く打ち付けることはなかったが、右手首を軽く捻ったようだった。動かそうとすると痛みが走る。

 仕方なく左手を付いて上体を起こすと、またベッドの上に這い上がった。移動するには陽が高い。せめて夕方になってからでなければ自殺行為にもなりかねない。

 陽を避けて生きるなどまるで吸血鬼ヴァンパイアのようだと、シキは鼻で笑った。元から晴れた日は瘴気が広がりやすい。また、気温の高い日も同じだった。だが、ここまで陽を避けなければならない状態に陥ったのは、今回が初めてだ。瘴気の心配をする前に、気温と疲労に比例して上がっていく自分の体温の心配をしなければならない。人をも殺す熱病を抱えて生きる者の宿命らしい。

 そもそもの原因は、落ち着く場所を無くしたことだ。なんだかんだと今までは身体を休める場所だけは事欠くことはなかった。それが今は何処にいても落ち着かない。

「あの野郎……」

 出ない声で怒鳴った。思い出すたびに虫の居所が悪くなる。だが、いつも数秒後には怒りも忘れて、シュウの目が脳裏に浮かんでいた。

 シキが持っていると言ったシュウの望み。それが何なのか、少し知りたかった。何か奪うだけの生き方をしてきたシキにとって、望まれることはなかったから尚更だ。

 横にした身体を、また小さく丸め込む。顔を中心に布をかけると、目を閉じた。熟睡は出来ないだろうが、暑さを無視するには眠るのが一番良い。

 夢に魘される自分を想像しながら、漂うように眠った。


   *


 計ったかのように丁度いい夕暮れ時に目が覚めた。夢は見なかった。暑さは相変わらずだが、まだ動ける。

 捻った右手首を庇いながら遅い動きで体を起こす。

 ベッドに腰掛けた形になり、身体を前に折って溜息を吐く。

 いくら寝てもスッキリしない。何をしても無駄だというように頭痛がする。

 だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。荷物のない身軽な身体に布を纏い、一瞥することもなくそこを後にした。

 持っていた荷物はいつの間にかなくなっていた。だが、無くして困る物は何も入っていない。銃は常に腰に差してあるし、シュウに貰ったジャケットは着たままだった。金はポケットに押し込んであった。着替えが無くなっただけで、何も困ることはなかった。

 どのみちいくら後生大事に持っていても、いつかは無くしたり壊れたりするものだ。絶対に傷の付かない物を求める方がどうかしている。そう思って忘れることにした。住処と同様、諦めの付かない物は何も持っていなかった。

 必要なものは全て身につけている。金と銃は生きるために必要だ。無くても死なないものは、首から下がったチェーンの先にある。隠したその凹凸に、指で触れた。

 郷愁。

「……行くか」

 迷路のように複雑な構造になっている廃工場を、自分の位置も分からずに彷徨い始めた。窓は殆ど高い位置にあり、否が応でも出口を探す必要があった。

 だが、その出口をやっと見つけたと思っても、工場の敷地から出られない。ある時は中庭だったり、ある時は工場と工場を繋ぐ道だったりした。

 完全に陽が落ちるとますます迷った。

「あ……れ?」

 気が付くと同じ場所に出ている。そんなことの繰り返しで、なかなか先に行った気配がない。

 体内時計が深夜を指している。自分でも驚く程時間が経つのが早い。せめて空が白んでくるまで粘ろうと思ったが、体力が先に切れてきた。仕方なく次の夜までの居場所を探した。しかしそう簡単にいい場所が見つかるわけもない。あれきり昨夜見つけたようなベッドのある部屋は見つからなかった。今から戻るにも既にどの道をどう来たのかも分からない。

 漏れた油の臭いが鼻を突いた。少なくてもこの場所だけは避けなければ。眠る前に中毒になってしまいそうだった。

 油の臭いから遠ざかるように歩いたが、なかなか臭いは薄れない。次から次へと油の流出している場所に出くわし埒が開かない。

 漸く臭いからも解放され、凹凸に体中を刺激されないで済む場所が見つかった。何に使うかも分からない馬鹿でかい鉄製の筒が横倒しになった物があった。シキがその中に入って立っても頭も掠らない。筒の前後はそれが転がっていかないようにブロックで止めがしてあったので、寝ている間に大移動していることはないだろう。

 今まで掛けるだけだった布を敷くと、その上に横になった。

 今までの住処を追われてからほとんど野宿だった。それなのに今更になって幼い頃を思い出した。あの頃も家など持たず、その日その日の寝る場所にも事欠くことがあった。食べることなど尚更だ。

 鉄錆びの臭いが僅かにする。それがやけに懐かしい。

 顔も思い出せない温もりの源を、大気の熱を帯びて中途半端に暖かい鉄の筒から感じていた。心地よくはない。嬉しくもない。温もりは良い想い出を運んでこない。ただ、辛くなるだけだ。


   *


 気が付いて呆れた。

 昼過ぎまで寝てしまったことではない。

 筒から出たすぐそこに、出口らしき物が悠然と口を開けて佇んでいたのだ。

 そしてそこから出てみて再び呆れた。

 本当に出口だったのだ。

 まだ強い午後の日差しが布を手に引きずったままのシキの頭に勢いよく降り注いできた。手の平をひさしのように目の上に立て、日差しを遮りながらも空を仰いだ。

 暑い。

 今感じるのはそれだけだ。

 というより、それを感じる以外の余裕がない。いつもだったら空を見て狭いだ何だと思うのに、今は、言葉にならない青さだけが意識に染み込んでくるだけだった。

 布を頭から被り、日陰を探して歩き始めた。

 寂れた工場跡を抜け、次の区画に一歩足を踏み入れると人で溢れかえっていた。

 それこそ他人と肩をぶつからせないように歩くのも一苦労な程だった。背は低いが、ひしめき合うように建ち並ぶ家や店。一度だってこんな賑やかな場所は来たことがない。

 もしかしてこんな場所に眠らない街があるのだろうか。捨てられた街に住む者が足を運ぶことも、運ぶべきでもないという沈まない夜を主とする街が。

 まだ陽が高いので、電球に明かりは灯っていない。夜になりここ一体の灯りがすべて点けばどれだけ輝かしいのだろう。だが、想像はしても、見たいとは思わなかった。

 酔いそうな人混みから逃げるように、奥へ影へと足を向ける。

 たとえあの場所が、その街だったとしても、興味はなかった。よほど自分は害になるだけだ。益は無いだろう。

 古びたアパート群に遭遇した。流石にここまで来ると人通りはまばらになってくる。

 突然膝から力が抜けて、シキは反射的に壁に縋った。危うく膝を突いて倒れる所だった。自分では余り意識していないが、そろそろ歩き回るのも限界に近いようだ。指と腕の力で身体を起こし、再び足を進める。次は倒れるかもしれない。そう思い、手で壁を伝いながら歩いた。こんな道端で倒れたら、今度こそ無事ではないだろう。前回のように過去の仇であっても拾って貰えれば助かるが、その可能性は望むだけ無駄な程低い。誰かと接することでどちらが無事では済まされないのかは判断しかねるが、とにかく自分か他人かに害が及ぶのは間違いない。

 指先に力が入った。倒れるわけにはいかないという思いが、一層それを強くする。

 数えきれない数の角を曲がった。その度に足がもつれ、指が外れそうになる。耳に届く音が自分の吐息のみになった。鼓動も耳のすぐ側に心臓があるかのように聞こえる。息も脈も跳ね上がり、熱は頭蓋を割って漏れだしてきそうだ。紅潮するどころか青白くなっていく顔。思考停止一歩手前の所で懸命に手綱を握っている。

 幾度目かの角を曲がったとき、指が滑った。身体を支える手だては何もなく、重力に導かれるままに前に前のめりになる。

「わっ!」

 目の前から声がした。

 同時にシキの身体は誰かの腕に支えられ、その肩に身を預けている。辛うじて転倒は免れたようだ。いつまでも誰かに寄り掛かっているわけにもいかない。その人の肩を掴むようにして、身体を起こした。

 すると、見覚えのある大きな茶色の瞳が見えた。

 互いに驚いたが、口を開いたのは相手が先だった。

「久しぶりじゃん。生きてたんだ、おまえ。それにしてもどうしたんだよ。瘴気に当たったような顔してさぁ」

 人懐こい生気に溢れる声だ。彼はシキを見て大きくて生意気な口で嬉しそうに笑った。

「おまえがそれ言うと、笑えねぇよ……コウ」

 つられるようにしてシキも笑う。

 背に〝夢の傷〟を付けたその人が、再び目の前に居る。相変わらず元気で、シキより少し小さい。大きな目に、茶色の瞳に、猫っ毛の茶色い髪。恐れを知らない生意気な雰囲気も変わっていない。

 口はあまり良くないし素行も粗暴だが、エネルギーを振りまいて生きるその様は見習いたいと思う。

 コウはシキの言葉にもう一度改めて笑うと、額から頬にかけて撫でるように触れた。手を離した後、コウは眉を顰め、首を傾げる。

「シキ、おまえ、酷い熱……」

 ふっとシキは崩れるようにコウに倒れかかった。僅かに意識は残っていたが、自力で立っていることが出来なくなっている。

「あの時と立場逆だな」

 シキを支えながらコウが呟く。

「ほら、もうちょい頑張って歩けよ。こんなトコで倒れたら、それこそ命無いぜ?」

 コウに手伝われ彼の肩に腕を回すと、半ば引きずられるように導かれた。

 押し寄せる安堵。

 瘴気で死なない初めての人間。それがコウだ。

 思い出されるのはシキの背に傷を刻む前。シキが空に取り殺されそうになる前。シキがある大切なものを失くす前。そんな晴れた、少し湿度の高い日のこと。

 あの時は、今とは逆にシキがコウを引きずっていた。

 もう、昔の話だ。

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