第16話

 まさに高温多湿の灼熱地獄の中、シキは廃屋の中で布にくるまって倒れていた。

 日頃出ない汗が、今は湧き出るようにして身体を湿らせている。その不快感に身を捩って抵抗するも虚しい。外気もさることながら、体内から発せられる熱に抗うことは出来なかった。

 同時に、止めどなく拡散していく瘴気を抑える為に、布を蹴り飛ばすこともできない。熱に魘されるしかなかった。

 昨夜から足をまともに立てることが叶わなくなり、やっとの事でこの石造りの廃屋に倒れ込んでそれきり。横になって息をするだけでも体力が削られる。

 夜のうちはまだいい。陽が出ると屋内も凄まじい暑さになる。また、窓や扉のある部分にはそれがあったであろう穴があるだけで、風通しが良いと同時に、暑さももろに入り込んでくる。

 かつて民家であったであろう廃屋は、崩れかけた壁と屋根があるだけだ。物など何一つ無い。シキが倒れている頭の上には、細いパイプが剥き出しになって壁に付いている。今は間違いなく機能していない物だ。

 他の部屋のことは知らない。やっとの事でここに辿り着いてそれきりだ。調べる余裕はなかった。

 布は身体の上に掛ける為に使っているので、石の床に身体を直接横たえていた。硬いとか痛いとか言う文句を言っている暇はない。日陰を得られ横になれるだけでもありがたい。崩れた壁の破片や床の凹凸が腕や肩に食い込んだが、熱に魘される苦しみの方が数段勝っている。

 外気の暑さにやられ体力が無くなってくると、今度は体温調節が利かなくなり始め熱が上がってくる。熱が上がれば同時に瘴気の制御も利かなくなる。悪循環はとうに始まっていた。渦中にいて、出来ることは何も無い。

 幾度も過ごしてきたこの季節が、こんなにも過酷だったとは知らなかった。大した冷房設備はなかったが、今まで居た住処がどれだけ快適だったのか思い知らされる。足の向くままに行き着いた土地は、まさに地獄だった。炎天下にそれに伴う異常発熱。安心して飲める水さえない。

 汗を掻きにくい体質が尚更シキの身体の中に熱を籠もらせていた。その汗がいよいよ噴き出すとなれば、彼にとって異常事態甚だしい。自ら生み出した湿度と熱に咽せながら、昨夜、遂に倒れた。

 高い位置にある、かつて窓があったであろう場所から青い空が覗ける。いつもならば探し物を始める空に、今は何の感情も抱けなかった。その青が何であるかすら解らない。

 やがて瞼が重くなり、熱に吸い込まれるように意識を沈めた。


   *


 鼻先に気配を感じてシキは瞼を開けた。

 日は傾き、翳り始めている。

 日付が変わっていないのならば、眠っていたのは半日程度。その間に多少は回復できたらしく、日中よりも意識がはっきりしている。

 ゆっくりと焦点を調節し、気配の正体を目に映す。

 小さな足が六本、否、八本。四人分の子ども足がそこにあった。

 横たわったまま見上げれば、幼く大きな瞳が揃ってシキを見下ろしている。三人は男の子、一人は女の子だ。まだ両手で歳を数えられそうな子どもばかり。この辺りのストリートチルドレンなのだろう。身なりは汚れ、痩せている。

 廃屋に集った少年達。見下ろされている余所者。疲弊した身を横たえている場所の意味を、彼らの目線から知った。

「乗っ取るつもりは、無いんだけど……今、動けなくてさ……」

 幼い獣に食い散らかされたのではたまらない。せめて敵意がないことを示そうと絞った声は、掠れていて、彼らに届いたどうか怪しくなるほど小さかった。

 何を言ったところで信憑性はないのだ。動けないことを良いことになにをされたとしても、それがこの世の常だ。理不尽とは思えど、シキ自身もそうやって幼少期を生きてきた。その報いが巡ってきたのだとしたら、受け入れるしかない。

 顔を見合わせた少年達のうちの一人が、何処かへと走り去った。

 瘴気が障ったか。

 恐れに僅かに身を縮めていると、少年が戻ってきた。手には水がなみなみと注がれたコップが一つ。

 シキの目の前で屈むと、コップを差し出した。

 水。

 目が眩んだ。

 シキはコップを奪い取ると、その水を一息に飲み干した。安全な水である保証などないのに。毒かも知れないその水を、渇いた喉に流し込む。

 胃に落ちた水は、あっという間に身体中に吸い込まれていった。

「ありがとう……」

 感謝の言葉など、長いこと使っていない。錆び付いた単語が、頭を通さずに零れ出た。

 最後に礼を言ったのはいつのことか。

 それに対して笑顔が返ってきた。

 何て不似合いな。この少年も、ハルも、どうしてこんな風に笑えるのか。

「すぐ……出ていくから。動けるようになったら、すぐ……。それまで、俺に近づくな。俺は……良くない」

 だからこそここに居てはいけない。

 カラになったコップを突き返し、シキは身体を丸めた。

 動揺した空気が漂ってくる。彼らは何も言わないが、シキに対して何らかの不審を持っていることだろう。仕方がないことだ。

 暫くして四人の子ども達は、シキの前から立ち去った。その中で一人だけ、水を持ってきた少年だけが一度シキに振り返った。茶の髪が夕陽に当たって金にも見える。何処かで見たことのある色だ。憎らしくも、寂しげな色。

 ――何であんな奴のことなんか……。

 目を閉じて、微睡む。

 眠ったか眠らないか。湿気った夜気を感じて目を開けると、足元から視線を感じた。

 あの少年が、対角線上の角に座って膝を抱えている。

 近づくなと言ったのに。

 もう一度警告するために口を開いた。が、今度は声が一つも出てこない。貼りついた喉に痛みを覚えて咽せていると、少年が水の入ったコップを持ってまた傍に居た。

「はい」

 と差し出されたコップの中身を、貪るように飲み干した。

 飲んでも飲んでも足りない。

 コップを返すと、少年はまたどこからか水を汲んで帰ってくる。

 やがて満たされ、強烈な眠気に襲われた。次の動作も許さない異常なまでの倦怠感。

 何杯目かを飲み終わった後、コップを返すことが出来ないまま意識が暗転した。


   *


 次に目を覚ましたとき、辺りは静まりかえり、完全に闇に落ちていた。恐らく時刻は深夜。それなのに、対して涼しく感じない。表と内とを区切る扉一つ無いこの場所にして、この気温。今年の夏は例年になく暑いように思う。酷暑とは良く言ったものだ。ただでさえ熱は天敵であるのに、これでは身が持たない。

 起き上がろうと手を付いたその先に、水が入ったコップが置いてあった。見上げた先では少年が船を漕いでいる。一晩中付きっきりで居たらしい。

 見ず知らずの侵入者に、献身的なことだ。

 ありがたく水を頂くと、壁に凭れて座った。

 うつらうつらと揺れる少年を眺めやっていると、自然と眉根が詰まる。

 何もかも失って闇の世界に放り出されたのは、あの少年よりも幼い時だ。体質故、特定の仲間と居ることが出来なかったシキに、この世界は広すぎた。いつからか夢に魘されるようになり、狭苦しい空に探し物をするようになる。

 どれも一度は収まった。夢も忘れ、空も見なくなった。解放されたと解釈し、楽になったつもりで居たのだが。

 病はぶり返した。シュウと出会ってまた空に囚われた。

 道を間違わなかったとしても、この特異な体質だ。こんな生き方しか出来なかっただろうと、自分でも納得していた。まだ人生を語る年齢としではない。しかし、長いとも短いとも付かない今までの歳月は、考える時間だけはたっぷりとくれた。

 そして、幸せではなかった。一時期楽しい時期もあったが、それも今思えば全てが別れの前の余興。思い返すと虚しくなるだけだった。

 だから、自分からシュウを捨てた。捨てられて、取り残されて、またこの狭い空の下で独りになるくらいなら、いっそ自分から何もかも捨ててしまった方がいいと思った。

 今までも、独りで生きてきたのだから……。

 選択は間違っては居なかった。今でもそう信じている。それなのに、どうして苦しいのだろう。

 そう思ったとき、少年が顔を上げ、目が合った。少年はばつが悪そうな顔をして、小さくなるように膝を抱える。しつこく側に居ることを咎められるとでも思ったようだった。

 子どもは扱い慣れない。この微妙な緊張感を和らげるための手段として選んだのが、

「おまえ、名前は?」

 よりによってこの問いだった。聞き返されて一番答えたくない質問であるのに、何故問うたのか。言葉にしてから後悔した。

 項垂れた対角線上で、少年は口元を綻ばせている。効果は絶大のようだ。

「シュウだよ」

 それを聞いて今度はシキが笑った。

「は……。あいつと同じ名前かよ」

 体力がないために、思った通りに笑えない。半ば痙攣するように笑いを絞る。

 笑い飛ばさなければ気が済まなかった。

 こんな所にまでシュウの亡霊が憑いてくる。置いていったことを相当怨んでいるらしい。

「けど、おまえは賢そうだな」

 あの莫迦よりも長生きするだろう。いい目をしている。

「ねぇ、お兄ちゃんの名前は何?」

 その問いに、シキは一度完全に口を閉じた。

 やはり来た。

 いずれここから去る。自分の名をいずれ関わりを持たなくなる者の記憶に刻むのは好きではない。シュウにもそうして始めのうちは頑として名を言わなかった。結局、この名を彼の記憶に刻み、自ら去ったが。

 だが、今回は少しばかり条件が違う。何故なら、先に相手の名を尋ねてしまっている。今までなら絶対にしなかったことだ。苦し紛れとはいえ、するべきではない質問だった。

 気の緩みか、あまりの辛さに人恋しくなったのか。

 問いをはね除けるには、余りに力が足りなかった。

「……シキ」

「あいつって誰? 何でさっき笑ったの?」

「別におまえの名前がおかしくって笑った訳じゃないさ。俺の知り合いにおまえと同じ名前の奴が居てさ、そいつが莫迦なモンだから、つい。あいつにおまえと同じ名前は勿体ない。今度改名するように言っとくよ」

 今度。

 今度だって?

 この次など無いつもりで彼に背を向けたのではなかったか。

 名前が同じよしみはここまでだ。そう思っても相手からの質問は続いた。

「何で、側に居ちゃいけないの?」

「俺は……おまえらに良くないから」

「でも、悪いコトしないじゃん」

「そういうんじゃないんだよ……」

 説明しようにも当事者でさえ漠然としている話を、齢八歳かそこらの子供にどう説明すればいいものか分からなかった。どのみち説明した所でここだけの縁だ。説明してやることもない。そう思いながら暗がりにいるシュウ少年の目を見た。

 何やら見たことのある、物欲しそうな目がそこにあった。どちらかというと、物欲しいと言うより、人恋しいと言った感じだろうか。名前だけならともかく、こんな所までシュウに似てる。違っているのはもしかして利発そうな所だけか、とも思う。

 何か言いたそうに唇をせわしなく動かしていだが、声になっていない。目は申し訳なさそうにしながらも、ずらすことなくシキを見てきた。そんな動作に、一つ心当たりがあった。子供の扱いには慣れていないが、自分も子供だったときがある。その時の動作の一つに、似たものがあった気がした。

「来たいのか?」

 シキの問いに、シュウ少年は遠慮がちに無言で頷いた。数人で暮らしていても、同じくらいの年齢同士では慰め合えない感情があるのだろう。いつから彼がこんな暮らしなのか知らないが、ずっと押し殺していたであろう誰かに縋りたいという思いが、きっとそこにある。解らなくもない感情だ。

「来いよ。ただ、あんまり長居するなよ」

 シュウ少年の表情がぱっと明るくなった。

 こうしてまた安易に近づける。この気安さが何度人を傷付けたか解らないというのに。何人かは奇跡的に耐性があったから良い。だが、そんな幸運はそうそう転がっていない。害がなかったとしても、実際、傍には誰も残っていない。

 そんなものだ。

 シュウ少年は布の中に潜り込んできた。そしてしがみつくように身体を寄せてくる。

 夜になったということもあり、僅かに体調が上向いてきた今なら、少しの制御は利いた。ただ、いつこの状態が崩れるか解らない。制御が利くと言っても、出続ける瘴気をいっときでもゼロにすることは出来ない。この腕は命を崩す。けれど、この一瞬だけ、彼に腕を回した。

 人恋しいのは、自分の方かも知れない。

「シキ、熱いよ」

 シキの腕の中で少年が身じろぎをした。

「まだ熱下がってないからな」

「そう言う感じじゃないんだ」

「そうじゃない?」

 解っていてシキは聞き返した。彼はどう表現するのか。それを聞きたくて、腕の中にいるシュウ少年を見た。

「シキ……熱くて、……痛いね。棘みたい」

 ――コイツまで同じ事言うのか。

 懐かしい言葉に胸が締め付けられるような気がする。愛おしい。そう思った者は、誰も彼もが居なくなった。

 全て瘴気の所為。

 今までずっと部屋の隅に居たからシュウ少年も平気な類なのかと思っていた。だが、この点もシュウとは違ったようだ。少年はこの〝気〟に痛みを感じている。近くに長時間居られたことから余り敏感に感じる体質ではないようだが、それでも長い間この毒気に曝して置くわけにはいかない。

 身体の奥から熱が湧き出すのを感じた。やはり小康状態であっただけだった。シキは引きつるような音を立てて短く深く息を吸った。自らの熱に息が詰まる。目を閉じ、眉をひそめて気道を開けるように顎を上げた。

「シキ?」

 様子が変わったシキを見てシュウ少年が尋ねる。

 もう彼に触れてやれることはないだろう。そう思って、シキは瘴気を極力自制し、シュウ少年を抱き締めた。人恋しさを噛み潰す少年。幼い頃の自分に似ている。

 ――これってエゴだよな。

 結局の所、自分にもシュウにも似ているこの少年に腕を回すことで、自分の感情を慰めているに過ぎない。突き放したものを、またこの腕に入れている。そんな自分に舌打ちをしたくなる。

 やがて腕の力を緩めると、シュウ少年の肩を押して布から出した。少し驚いた顔をして少年は再び苦悶の表情を浮かべ初めたシキを見た。

「もういいだろ。〝痛み〟が〝死〟に変わる前に、早く行け」

 手に入らない物を求めるのは辛く哀しいことだ。手に入れさせないのに、それを目の前にちらつかせることは残酷な仕打ちだ。微かに目の前を過ぎることもない自分の願いならまだいい。この少年の願いは、余りにも近くにありすぎて、余りにも遠すぎる。酷虐な現実がここにある。

 少年はゆっくりとシキの傍を離れていった。足音がだんだんと遠ざかる。終いには駆け出す音が聞こえて、音は途切れた。それを確かめて、シキは安堵の息を吐いた。

 この腕では彼の願いは叶えられない。突き放す動作が、何故か辛かった。

 二度も〝シュウ〟を突き放したのだ。

 求めてきた者を、この手で跳ね返した。瘴気がある限り、そうするしかなかった。

 少なくても、あの少年の場合は。


   *


 翌朝から再び起き上がれなくなった。

 気温は朝方から上昇し、あっという間に呼吸が苦しくなった。体温に近い熱が四方から覆ってくる。既に熱か瘴気か判断が付かない。

 シキは布を頭からかけてくるまった状態で、時折顎を震わせながら激しく息をしていた。

 シュウ少年以外の子供も代わる代わるシキの様子を見に来ていたが、すぐに女の子は姿を見せなくなった。瘴気を感じやすい体質だったらしい。

 体力が無く寝返りも打てないので、シキは壁に背を向けた横向きの状態で居た。下にしている右腕の血の巡りが悪くなっていた。朧気な意識の中、痺れも朧気だ。感覚の無くなった右手だけを布の中から零し、左手で布のあわせを握ったまま、虚ろな意識を横たえる。

 汗を掻かないが故、熱が籠もったまま滞留する。

 結果、重度の熱中症に陥った。頭痛と吐き気が止まらない。少年がまめに水を飲ませてくれなかったら、己の熱で蒸し上がるところだった。

 それでも死線は近いままだ。浅く速い呼吸で命を繋ぎ、眠っては息苦しさに目覚めることを繰り返した。


   *


 寄せては引いて。

 見たことのない海の、波のように。

 何のために息をして、脈を打って、生きるのか。


   *


 その翌日、痺れきって色を失っている腕を踏みつけられて、シキは意識を取り戻した。腕の感覚は殆ど無いので重みの感覚は解らなかったが、うっすらと開けた目で確認した限り、子供ではない。黒光りしたいかにも高級そうな革靴が、シキの腕を踏みつけにしていた。

 正体を確かめるべく顎を上げ、靴の持ち主を見上げた。絵に描いたようなヤクザ者が三人。縦のストライプのスーツ、サングラス、塗り固めたような髪、汚い音を立てながらガムを噛んでいる者まで居た。いつのご時世のヤクザ者か知らないが、面白いようにわかりやすい。

「だれ……あんたら」

 笑っただけで男達はその問いに答えなかった。

 代わりに腕を踏みつけているこの中で一番偉そうな男が、足に更に力を込めた。踏まれる痛みはそれほど感じないが、少し身体を動かした所為で腕に血が流れたようで、痺れが治り始めている感覚の方が疼いた。

「俺たちが仕切ってるガキ捕まえて、何やってんのかな?」

「……死にかけてる」

「それはそれは」

 シキの至って真面目な答えに対して、偉そうな男は取り合う気など始めから無い。男が足を退かし後ろに数歩下がる代わりに、後ろに居た二人の男が前に出てきた。

 ――この状態で、マジかよ……。

 この先の次第が見え、溶けそうな熱の中で更にげんなりした。すぐそこの未来に対抗すべく握力の無い左手で腰に手を回そうとした所、突然その手を掴まれた。用意の良いことに手を掴んだ男は手錠を取り出すと、シキの手と壁を這っていた細いパイプとを繋いだ。

 体力ゼロに近い身体で抗っても無駄なことだった。壁にはり付けられ、武器を手にすることが出来ない。この身体で逃げられるわけもないのに、更に逃げられない状況にしてくれるとは親切なことだ。

 そうこうしているうちに腹に足が食い込んできた。何も口にしていないから、吐き出されるのは胃液だけだ。左腕を上げた状態で拘束されているので、身体を庇うことが出来ない。一蹴り入る度にシキの軽い身体は跳ねるように反り、呻きが漏れる。

 加えられる暴力の分だけ、堤防が崩れていくのが解った。

 極限に近い体力、暑さ、熱、水分の不足。瘴気を抑える力など、もう何処にもない。堤防を失った瘴気が溢れ出し、そしてまたシキ自身を苦しめる。こうなれば布さえ役に立たない。周りも自分も瘴気に冒されてゆく。

 いつの間にか、足下の入り口にいくつかの気配が溜まった。

「シキっ!!」

 少年らが集まっている。見ることは出来ないが、大方どんな表情をして居るのか想像が付く。

 腹の奥が熱い。今までにない異常な熱を感じる。

「どっかに行け!」

 すべての力を声に注いだ。何があっても伝えなければいけない。ここに居てはいけないと。

「でも、シキ」

「行けって言ってんだろ! 早く!」

 漸く足音の遠ざかる音がした。

 手放しそうになる意識を繋ぎ止め、まだ僅かに残る力を振り絞り、一人の男の足を右手で掴んだ。炉で熱せられたような熱を放つシキの手が、〝死〟を伝える。

「悪あがきは済んだか?」

 男は笑う。何の為に足を掴まれているか、知ることもなく。

 男が異変を示したのはその直後だった。両手をガタガタと震わせ始めたかと思うと、唇を蒼白にして顎を鳴らした。

 他の二人もそれに気付いた。同時にシキへの暴行は止まる。変化の開始を見て、シキは手を放した。

 男は次第に頭を抱え、掻きむしりながら奇声を上げた。その皮膚に水気はなく、ひび割れて粘度の高い血液がゆっくりと流れ始める。

 やがて変調は他の二人にも訪れた。二人とも頑丈らしく、始めのうちは気分の悪さと目眩程度しか感じていないようだった。しかし、この部屋の瘴気の濃度は異常なまでに高い。そこに浸されて、それで終わるわけがなかった。いつの間にか倒れた先ほどの男と同じように、身体の震え、気の狂う感覚、細胞の劣化が始まった。

 シキは男の足を掴んでいた手で手錠の鎖部分を握った。意識して瘴気を当てる。鉄の鎖は音もなく崩れ、左手は解放された。手袋とその下に巻いていた包帯のおかげで、手首は無傷だ。手に残っていた手錠の輪を握ると、腐食して崩れ落ちた。

 苦しみだした男達と対照的に、シキは何事もないように涼しげな顔で立ち上がった。先程までの苦悶の表情は嘘のように消え、僅かに細めた目で男達を眺める。足下に、のたうち回る男達が居る。

 ゆっくりとした動作でシキは腰に右手を回した。靴の痣のついた手で銃を抜く。未だ熱を持ったままの身体はふやけたような感覚を持っていた。しかし、握力はある。銃身にまでその熱を移しながら、弾丸を装填した。

 銃口を、踏み付けにしてくれた男の眉間に向ける。男は苦しみながら恐怖に引きつった顔で、銃口の向こうにあるシキの顔を見ていた。温度を感じない表情が、そこにある。

「運がなかったな。俺の瘴気に絡まれて、逃げられた奴は、まだ、誰も居ないんだ」

 石造りの廃墟に、銃声が響いた。二度、ほぼ間を空けずに。

 シキは哀れな死骸を見ていた。二人とも頭部に一撃ずつを喰らって即死していた。それ以上の余分な苦しみはなかっただろう。始めに苦しみだした男は鉛玉を喰らわせる前に死んでいた。

「熱病に魘され身体を崩すより、いいだろ……」

 哀れみか蔑みか。表情を消したその顔からは判断が付かない。

 シキは布を拾い、肩に掛けた。

 そしてゆっくりと出口に向かう。息切れも苦痛の顔もないが、熱は先程よりも上がっていた。自身の瘴気に侵されている気配もない。ここまで来ると瘴気は害ではなかった。

 限界を超えてしまったらしい。有害さえ無害になる。けれど、このままで居た場合どうなってしまうかは当人にも解らなかった。いくら瘴気という異常なものを持っていても、身体は生身の人間だ。高熱に冒され続ければいずれ身体は壊れる。恐らくそう遠くない時点で。

 表に出たとき、入り口の壁にシュウ少年が居た。小刻みに震える身体を必死に抑え、シキを見上げてきた。

「見てたのか」

 答えはない。その必要もなかった。震えがすべてを語っている。他の子供の姿が見えない中、シュウ少年はそこに居た。逃げられなかったのか、逃げたくなかったのか。

「見たんなら、言わなくても解っただろ。俺と居ると、ああやって死ぬぞ」

「でも、シキ……」

 立ち去ろうとしたシキの布を、震えたままの小さな手が掴んだ。

 あの時側に寄せたことさえ後悔した。今振り向いてはいけない。自分に未練は残らなくても、この子供は違う。何もかも振り切れる年じゃない。だからこちらが振り切ってやるしかない。

「離せ。所詮、俺はおまえらと、……おまえと共に居られることはないんだ」

「シキ……」

「俺は誰かと居られることはないんだ。けど、おまえにはそういうのがある。俺じゃなく、そいつらを掴めよ」

 シキが歩き出すと、シュウ少年の手から、布がするりと抜けていった。

 俯き、静かに涙を流す少年を背に、シキは布を頭から被った。苦しみが戻りつつある。それを隠すように、額に掛かっていた布を目元まで落とす。

 呼ぶ声はしない。けれど、後ろ髪を引かれているような感覚はぬぐえなかった。

 未練に羽交い締めにされない為の行動の筈なのに、何故前に繰り出す足がこんなにも重い。

 恨めしそうな顔が目に浮かんだ。この熱気の揺らめきの向こうに、待ちかまえているような気がする。

 ――もし見つかったら、殴られるだろうな……。

 おぼつかない足で、太陽を避けるように歩く。平行な土地を歩いている感覚がない。

 夕暮れ頃、壁を伝って歩いていたシキは、壁に添って崩れ落ちた。そうなる数十分前から、彼にはまともな意識はなかった。筋肉の収縮運動に従って足を動かし、本能的に影を求めていただけだった。落ちる感覚も感じることなく、シキは気を失った。

 今度目覚める所が、傷つける者の無い所であるようにと願いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る