第15話

 空気が不穏になった。

 街中で銃声がすることはさして珍しいことでもない。死体が転がるのも同じだ。だが、その死体になる前のモノがどういったモノであったかが少し問題になる時があった。

 銃と金と命を奪われた男の死体のうちの一つが、黒い影を背負った組織の一員であった。下の下ではあったが、変に仲間意識が強いのが組織というものだ。上層部は気にもしなくても、中間層や同じ層にいる者にとって許し難いこともある。そのうちの一つがこれだ。

 そして何故か、目撃者も生存者も居ないのに犯人が分かるのである。その情報網には感服するばかりだ。

 その結果、不幸にも追われるハメになる人間が必ず出る。

 今も、そんな奴が必死に逃げていることだろう。


   *


 シュウは憔悴しきっていた。

 六人ほど返り討ちにしたばかりに、この二日間、まともに飲まず食わずで逃げ回るハメになっていた。

 相手の人数も把握出来ない。目の前、背後、左右に居る人間すべてが敵であってもおかしくない。何発か弾丸が掠めていったが、運良くまだ当たってはいない。シキが居たらいつかのように上手く避けさせてくれるのだろうが、今はそれにも頼れない。

 叫び散らして当たり散らしたい気分だった。狂気の所為ではない。執拗に追われ、精神的余裕が持てないストレスを発散したいだけだ。

 辺りの様子を伺いながら、一旦足を止め、壁に背を付け袖で額の汗をぬぐった。その一動作だけで袖はびしょ濡れになり、同時に新たな汗も噴き出してくる。

「プレッシャーには強いんだけどなぁ……」

 思わず呟いた。

 この汗はプレッシャー以前の問題がある。何しろ胃がカラに近い。気力だけで身体を引っ張るにも限界があった。腹が満たない状態で、常に精神も肉体も緊張状態にあれば誰だって憔悴する。しかも、このうだるような暑さ。汗だって噴き出す。

 参った。出来るならここから動きたくない。壁に頭も付けて凭れ、軽く上を向き目を閉じた。意識しなくても溜息が出る。疲れと空腹感が一気に押し寄せてきた。こんな状況で、しかもこんなに無防備な格好、身を潜めることにもなっていない路地の中で緊張を解いてしまうなどなんと愚者なのか。本人がそう思ってしまうと世話がない。

 耳元で金属音が聞こえて、もう一度、おまえは莫迦かと己に問う。

 目を開けて音の方を僅かに見ると、銃を構えた男が居た。身長はシュウより十センチ程低い。いやに得意げな顔をしてシュウを見ていた。

「一体何なんだよ、おまえら。俺が何したって言うんだよ」

 逆に喧嘩を売るような口調でシュウは言い放つ。自暴自棄もいいところだ。

 シュウの言が癇に障ったのか、男は目を剥いて銃口を額に押し当ててきた。まだ熱い。火傷をしなければいいがと考えていると、

「テメェが俺たちの仲間殺りやがったからよ」

 唾を飛ばしながら男が声を張り上げた。

「はいはい。で、あんたら何処の誰」

「トレ・タルパ。知らねぇのか。テメェがこの前殺ってくれたのは俺のダチだったんだよ」

「とれ、何だって?」

 聞き取れなかったのは事実だが、それを茶化して聞き返したのが癇に障ったようだ。男の怒気が増して、周囲の気温が上がったような錯覚を得た。陽炎が出かねない熱気だ。暑苦しい。

 そして、血が上りすぎた男の人差し指が微震している。今にも引き金を引きそうになっているのを見て、シュウは一呼吸。その後、身体を頭一つ分屈めると、男の片膝を真正面から蹴りつけた。

 関節とは、片側には曲がっても、反対側には曲がらないもの。

 その規則を文字通り砕かれ、男は奇妙な声を上げながら後ろに倒れ込んだ。その途中で、一発だけ銃声が響いた。弾丸は空を切り、彼方へと飛んでいく。男は銃を放り出し、抱えようにも抱えられない膝の痛みにのたうち回っていた。

 疲労の割に涼しい顔をして、シュウは男の銃を拾い上げた。ちょっとした動作だが、動く度に疲れが増していく。拾ったリボルバーを弄びながら、激鉄を下ろした。

「まあ、何だ。おまえは痛いし俺は気分悪いし。これで丁度いいんじゃん?」

 引き金を引くことを躊躇うことはない。血飛沫が上がり、男の呻き声が止んだ。狂気に侵されていなくてもこのくらいはできる。苦痛を止めてやったことを感謝して欲しいくらいだと、実は内心思っている。

 こうなると、狂気と正気の境は、やる行為の内容ではなく、その時の内面の心理状態でしかないようだった。狂気を恐れる理由は最早、シキさえも殺そうとする見境の無さだけだ。

 奪った銃を汚れたバッグに放ると、怠いとぼやきながらシュウは逃走を再開した。

 殺した相手が悪かったのは明らかだ。ここら辺の地元を仕切っている組の連中らしいが、シュウにそんなことは関係ない。規模はどの程度か知らないが、根絶やしにしない限り追われる未来を見る。

 暑ささえなければ、状況は楽しめる。なにしろ、プレッシャーには強い。

 どういう情報網かは知らないが、相手にこちらの面は割れている。しかしこちらは向こうを把握出来ていない。不利な要素は山ほどあるが、生き延びるにはまず乗り切らなくてはいけない。塞ぐことなく乗り切るには、楽しむよりほかない。これで空腹と疲労と猛暑さえなければ、と改めて思った。

 四方から足音が聞こえる。どれが敵か否か判別するのはさほど難しいことではない。方向と回転の速さでも分かるが、何より一番頼りになるのは勘だ。長年死と手を繋ぎながら無駄に生きてきたわけではない。

 隠しもしない殺気は分かり易い。向こうがこっちを知っているのを逆手に取れば、案外上手くいくかもしれなかった。

 この状態にあって、シュウは逃げながら得意げに微笑んだ。

 シュウが狂気と呼ぶあの性質は、時として彼を助けることがある。人を殺すことに関してだけはずば抜けた能力を発揮するのは勿論、シキの「弾丸避け」程の動体視力や感覚はないものの、それでも常人以上の感覚が目覚める。こんな丸出しの殺気など、見つけてくれと呼びかけられているに等しい。

 意図的に気を緩めることで、日頃は嫌悪する感覚を呼んだ。シキには悪いが、彼のように制御が利けばいいのにと思いながら、酩酊に浸るため気を遣った。

 右。

 肌が敵の位置を教えてくれる。それが正しいことを願いもせずに、前を見て走る動作を続けながら銃でその方向を撃ち抜いた。低い呻き声が聞こえたのは、すでにやや後方。顔を確かめることもなく、その機会もなくシュウは走り続けた。

「こりゃいいや」

 役に立つだけなら実にありがたい能力なのだが、害は常につきまとう。

 感覚が鈍ってくる。引き金の重みが無くなっていく。

 シキには見せたことのない、異様な笑みを口元に湛え、殺す、殺す、殺す。

 正気を手放したことを後悔する思考は、既に無い。

 後ろ。

 右斜め前。

 左。

 左!

 上!

 ……上?

 どさくさに紛れて弾を一発無駄にした。代わりに空からカラスが落ちてきた。カラスは広げた羽以上にどす黒い影を地面に伸ばしている。これが命を失った者が辿る姿だ。それがカラスだろうと犬だろうと人だろうと変わりはしない。一度思わず振り返り、その無惨な姿を視界に納めた。思考が一旦、正常に戻る。五秒としないで再び前を見たが、何故か人を殺した後より気が重かった。

 あの黒耀のような黒さが目について離れない。地を這って広がるあの黒さが。てらてらと生暖かく、それでいて硬質な感じがする。

 一羽のカラスの死骸に、狂気は興奮することなく、逆に沈黙した。人間以外の血では酔えないというのか。

 シュウは頭を振った。今はそんなことを考える暇はない。今は命を賭けたゲームの途中だ。絶対に勝つと確信して止まないゲーム。カラスの所為で負けたのでは笑えない。

 咄嗟に向けた銃口に柔らかい感触が当たった。つられてそちらを見ると、急に向けられた銃口に驚く男の顔がある。無論、見知らぬ顔だ。

 ――コイツはハズレか?

 が、顔はそのままで視線を僅かにずらすと、男の手には立派な銃が収まっていた。冷静を取り戻し始めた男の腕が僅かに動いたのを感じ、

「違うな。アタリだ」

 男に動作を許さずシュウは引き金を引いた。

 再び酔いに身を委ねる。染まるのは早かった。

 所詮こんなモンだと鼻で笑い、再度走り始める。

 何も気にすることなど無い。こいつらを一掃すれば、またゆっくりシキを捜すことができる。どうでも良い奴らと付き合うのも、暫くの我慢だ。

 銃は今、盗んだマガジン式の銃を使っている。いつも使っているリボルバーだと装填に時間が掛かるのでこういう逃避行中には向かない。

 弾丸と銃は殺しては奪いを繰り返していたが、徐々に供給が追いつかなくなってきた。それなのに敵は減らない。有象無象がどこからともなく湧いてくる。

 次第に、行動は逃亡のみに変化した。


   *


 やがて夜になった。

 追っ手の数も少なくなり、ここ数時間は誰からも狙われていない。盗んだ金と久しぶりの余暇で数日ぶりのまともな腹ごしらえを済ました後、袋小路の奥に腰を下ろした。逃げられない代わりに狙いは外しようがない。勝つことを前提に置いての場所の選択だった。

 狭い路地。中途半端な高さの建物。それに挟まれた場所から見上げる空はやはり狭い。星も見えない。

 銃を手にしたまま、シュウは見上げた空に溜息を吐いた。

 何度溜息を吐いても何か見えてくるわけでもなく、虚しさが湧いてくるだけ。

 今日、何度この人差し指で命を狩ったのか。違う。そんなことに溜息を吐いているのではない。

「……狭い空だなぁ」

 最近よくこの言葉を呟く。シキに感化されたのか、良く空を眺めるようになっていた。何を追うわけでもなく眺める空に思うのはいつも同じ事。

 狭いなぁ、と。

 こんなに狭い空なら、シキの捜し物もすぐに見つかりそうなものなのに。

 シュウはトリガーに人差し指を引っかけ銃を一回転させると空に銃口を向けた。雲に見え隠れする目の前の月に照準を合わせる。

 こんな空は壊してしまえばいい。そしたら破片をすべて集めてシキにあげよう。その中から見つけたいものを見つければいい。見上げることはなくなる。手の中を見ていればいい。見つかったら、その破片を使って願いを叶えてくれればいい。

 視界の下方にぼんやりと影が沈んだ。人影。咄嗟に銃口を影に向けて下ろした。

 目を懲らすが顔の判別が出来る光量ではない。銃を手にしている様子はないが、所持していないとは限らない。安心するにはまだ早い。

 影は微動だにせずこちらを見ている。シキでないことは確かだ。似ているのは男の体格ではあってもやけに細身であることくらいで、彼よりも背が十センチ程高い。それに肩まで掛かりそうな長さの髪。自信のなさそうに見える極端な程のなで肩。

 ふと過去が頭をよぎった。月に浮き上がったシルエットとそれが重なった。

「……おまえ、まさか……!」

 シュウの声に反応したように、影が腕を上げた。身体の影に隠されてはっきりと見えないが、あの腕運びは銃を構えるそれと同じだ。

 違えたか? いや。そんなことはない。あの影を忘れるわけがない。

 撃鉄を下ろす音がした。本気だ。動揺は隠せないまま、シュウも弾丸を装填する。

 十数秒間、そのまま睨み合いが続いた。先制する訳にはいかず、張りつめたまま銃口を向けるだけ。考えが正しいという自信があるからこそ、尚更手を出せない。

 自分の吐息の音で聴覚が満たされていた。緊張で指を攣ってしまいそうだった。

 ――何故俺は、あいつに銃を向けなきゃならない。何であいつは俺に銃を向けるんだ。答えろよ!

 微妙な空気の揺らぎを、シュウは見逃さなかった。音が耳に入る前に影より刹那遅れて引き金を絞る。

 その判断は正しかった。

 二人が放った弾丸が距離を詰める。二発目は互いに発しなかった。

 弾丸同士の間がゼロ距離になったとき、弾頭が擦れ合い始めた。ギリギリと人には聞こえない金属音を放ち、やがて相互作用で回転は止まっていた。地面には二つの崩れた弾丸の残骸が落ちる。

 天文学的確率の中、二人は無傷のままで居た。

 銃声の余韻が、狭い壁の間でまだ反響しているかのように聞こえる。

 その結果を受け、影は笑うでも悔しがるでもなくシュウに横顔を見せて立ち去った。

「待て! 待てよ、トイ!」

 影のものであろう名前を叫び、シュウはもつれる足で路地を出た。その時には既に影の姿は何処にもなく、ただ夜の闇だけ。下手に歩き回ってもどのみち探せないと悟り、壁に背を付けて項垂れた。

 トイ――。昔連んでいた、青緑の目をした人形のような男。死んだと思っていた男が、確かに今目の前に居た。そして、シュウに向かって銃を放った。何の躊躇いも見せずに。

 誰かに動かされないと息も出来ないような奴だった。事実、そんな生き方をしていた。

 発砲されるような覚えはない。一人生き延びてしまったことを除けば、だが。

 もしかしたら間違いかも知れない。そうも思ったが、正直、認めるしかなかった。理由は分からないが、彼はシュウに銃を向ける所に居るのだと。

 トレ・タルパとかいう組織と関係があるのか。それとも全く別の方角か。自問は尽きないが、個人的に恨まれているとは到底思えなかった。、一人を望んだのはトイの方だったのだ。だから一人にした。厳密に言えば、置いて逃げた。それを怨まれているとしたらその怨みは受け入れるしかない。

 解らないことだらけだ。

 シュウは元居た場所に戻ると、物陰に隠れるようにして横になった。これで先程のように路地の入り口から見えることはない。

 寝ようとして目を閉じた。しかし、つい数秒前の出来事と昔の記憶にあるトイの顔がちらついて、逆に目が覚めてしまう。何度も何度も固い地面の上で寝返りを打つ。それに合わせて揺られるトイの像とあの影が重なり合いそうになるのを必死で否定する。だが、その行為が無駄であることを、シュウはもう解っていた。

 意識しなくても、悟り、認識する器官は働いている。今のシュウが、それを認めないだけだった。


   *


 朝方になって漸く微睡むも、長くは続かなかった。なかなか醒めない頭と怠い身体を引きずって、路地から這い出る。顔を出した瞬間に、逃亡開始。

 とっくに見飽きた太陽も鬱陶しい暑さもうんざりだった。夜が恋しい。これで楽しいことの一つや二つあれば別だが、逃亡と殺戮に楽しさを感じるのは昨日のうちで終わってしまっていた。今は怠いの一言に尽きる。

 気ばかりが焦る。自分でも笑ってしまう程に焦っていた。何も言わずに置いてけぼりを喰わしてくれた男を、こんなにも求めている。

 一体何に魅せられた? あの漠然とした美しさか?

 否、とすぐに否定する。事実、彼は整った顔をしている。しかし、惹かれたのはそこではない。小汚い猫でありながら、汚れても美しさを忘れない、気高い野良猫。

 綺麗だ。

 あの汚い世界に居て血にまみれていても、何故かそう思う。彼の何かがそう思わせる。

 何となく感覚と表現に相違を感じつつも、浮かぶ言葉は変わらなかった。確かに一度、シキには「綺麗な顔」と言ったが、見たまんま何も考えずに言っただけだ。

 シュウは頭を振った。シキを捜している目的は、自らの願いを叶える為。決してキス魔の人格を満足させる為ではない。

 鼻先を、弾丸が横切っていった。あと半歩前に出ていたらシュウの鼻は撃ち抜かれていただろう。横目で見るより早くシュウの銃が火花を吹いた。男の呻き声が合図になってシュウの逃走は再開された。

 昨夜寝られなかった上に、その所為で銃の整備をするのを忘れた。大雑把に見積もっても残りの弾丸はマガジン一つ分無かったような気がする。つまりは十発以上はあまり期待出来ないということだ。

 しかもこんな朝っぱらから襲撃されるとは思っても見なかった。裏世界の連中がこんなに早起きとは。日頃の朝寝坊の癖がこういうときに仇になる。誰の所為にも出来ない憂さは、銃を放って解消する。だからといって乱発出来ないことに苛立ちを覚えていた。日頃どちらかというとリボルバーを使う機会の方が多いので、狙いを定めて撃ち抜くのが好きだったが、そんな悠長なことも言えず、ましていつになったらキリがあるのかも判らない。こういうときは薬莢がバラバラ落ちる程撃ちまくってやりたいものだが、それも叶うわけもない。

 また一発弾丸を放った。昨日のようにカラスにくれてやる弾はない。だからといって容赦なく発砲してくる相手を選り好んで撃てる程の余裕もない。こちらに銃を向ける者は躊躇いなく撃ち殺していった。

「キリねぇな、ったく」

 重みを減らしていく銃に心細さを覚えながら愚痴を飛ばして角に逃げ込もうとしたとき、銃口と鉢合わせをした。

 瞬時に相手に銃を向け引き金を引く――が、手応えもなく銃はカチリと気のない音を出しただけで黙ったままだった。

 銃を向けてくる脂ぎった男が品無くニヤリと笑った。シュウもわざとつられてニヤリと笑う。見え透いた笑みと見え透けない笑みが奇妙に対面している。

 見え透けない笑みが嘲笑の笑みに変わった瞬間、男の目の前からシュウの顔が消えた。その代わりにシュウの靴の裏が残像となって眼前を横切り、男の腕を凪いでいく。肘の関節を違えた男は押さえて呻こうとしたが、その前に、シュウの足がもう一度飛んできて今度は頭を殴打していった。声を上げる間もなく、男は歯を数本撒き散らし白目を剥いて倒れることとなった。

 息一つ乱さずシュウは倒れた男を見下ろした。ここ数日の追い駆けっこで肺活量が増えたらしい。ごちそうさまとばかりに男の銃をその手からむしり取った。いやにベトベトしているが、この際仕方ない。武器はないよりあった方がいい。自分の裾でグリップをぬぐうと、弾倉を一度抜いて中身を確かめる。期待を裏切られ、舌打ちした。残っていたのは五発。思わず投げ捨てたくなる衝動を必死に抑える。

 と、後ろで聞き慣れぬ言葉でやり合う声が聞こえた。自分の使う言語以外に堪能ではないシュウは何のやりとりか知れなかったが、嫌な予感しかしない。足音を殺してその場を去ろうとしたその時、

「―――!!」

 背中に叫び声が刺さった。発砲音。突如、右肩に焼き鏝を当てられたような痛みが走った。反射的に押さえ、手にぬるりとした暖かい感触を得る。半ば自棄になり追っ手を近い順に撃ち抜いた。一発に一人ずつ見事に命中したが、たった五発、たかが知れている。湧くようにやってくる輩にうんざりするよりも呆れを感じ、役に立たなくなった銃を持ち主めがけて投げ捨てると、長い足をがむしゃらに回転させて逃げた。

 だんだんと憎らしい太陽が頭の上に動いてくる。路地は狭く、故に日陰も多いので直射日光が照りつけてくることはなかったが、太陽の光は確実に大気と地面の温度を上げていった。舗装されている道でなくても、温められた地面が熱気を発して噎せ返るような暑さを立ち上らせている。

 呼吸をする度に喉が張り付く。額にじわりと浮かんだ汗を袖でぬぐいながら宛もなく迷走した。

 肩からの出血は大したことはなかった。傷も浅く、文字通り掠った程度だ。

 それにしても、あの五人の中の誰かは知らないが、その誰かの所為で酷い目に遭っている。先に手を出してきたのは間違いなく向こうであるのに、何故ここまでの報復を受けなければならないのか、納得がいかない。一度は途絶えた敵が、今日は撃っても撃っても減る様子はなく、しつこく追いかけ回され、挙げ句肩を撃たれた。どの手でも銃は撃てるが、利き手の肩を撃たれたのは気にくわなかった。

「畜生。あんにゃろう、ぶっ殺してやる!」

 悪態を吐くだけならタダだ。聞こえても構わない。わざと大きな声で言った。

 我ながらに余裕だ、と思う。走りながら大声で叫ぶだけの酸素は一体どうやって摂取しているのか、自分でも不思議に思えていた。

 暫くして、肌に感じる空気の気配が気のせい程度に変わった気がした。眉を僅かに顰め、横目で辺りを見る。風景は他の場所とさして変わりないが、一体何がこれを感じさせるのかまだ解らなかった。

 それを感じたときに引き返すか道を変えるべきであった。だが、何かを感じつつもそのまま足を進めたシュウはまだ甘かったと言うべきか。

 否応なしに左に曲がるしかない角を、逆らうことなく道なりに曲がってついに立ち止まった。その先にあると信じて疑わなかった道が、それ以上続くことがなかったのだ。咄嗟に引き返そうと後ろを向いたが、ここに来るまでの道は細くてしかも長かった。それに既に足音が聞こえてきている。壁を上ることが出来ない限り、逃げようがない。

 ここに希望はない。唯一、近くにある開くのか開かないのかさえ判別の付かない扉を残して。

 それ以上逃げる気も失せて、呆然と背の高い障壁を見上げた。いつもなら大した高さに思えないアパート群が、今は無駄に高く思える。弾丸の尽きた銃一丁だけで、丸腰の状態の人間を、彼らは卑怯にも飛び道具持参で追いつめてくるのだ。それがこの世界では何の差し支え無いのは解っているが、とにかく悔しい。

 足音の雪崩がしたと思うと、あっと言う間にシュウは五、六人の男達に囲まれた。思ったより少ない。シュウは頼りない希望を背にして連中と対峙していた。対峙と言っても人数分の銃を一方的に突きつけられて、冷や汗を流しているだけだったが。

 相手はすぐに殺すつもりはないらしい。解らない言葉で何やら言われているのを聞き流し、シュウはこっそり後ろ手にドアノブに手を掛けていた。ゆっくりゆっくり回してみるが、手応え所か音を立てないようにする為無理に力を入れられないので手が滑るばかりであった。

 やはり無駄な足掻きは出来ないものなのか。

 男達が一斉に撃鉄を下ろす。

 背中に冷たい汗が流れた。

 逃げられない。逃げられるわけがない。

 銀色の筒の奥に潜む死が、シュウを狙っている。

 差し迫った死を感じたのは初めてであった。危ないことならいくらでもしてきたが、こんなにも絶対的に目の前を覆う死を見たことはない。

 喉の奥が乾ききっていた。流れる唾液もない。

 回らないドアノブから手を離し、悔しさに奥歯を噛み締めた。

「望みは、シキに叶えて欲しかったな……」

 誰にも聞こえないような声で呟いた。正気も狂気も役に立たないこの瀬戸際で、望んだのはただ一つ。

 開かないドア偽を付けて凭れ、全身の力を抜いた。この期に及んで抗った所でどうにもならない。痛みが増すだけだ。相手を鋭い視線で見据えながらも、銃弾を迎える体制はもう整っていた。

 嘆息。

 直後、今までノブさえ回らなかったドアが内向きに開いた。寄り掛かっていたシュウの身体は当然のように後ろに転がり始める。

「ぬわっ!」

 後ろに倒れ込みそうになっていたところ、襟首を掴まれ、後ろに引かれた。突然首に来た衝撃で酸素の供給が途絶え意識が飛びそうになる。凄まじい力で後ろに持って行かれたシュウは、椅子とテーブルの塊に放り投げられるようにして落ち着き、ついでにテーブルの角で頭を打った。星と闇が視界を遮る。事態を認識出来ず、しかも目がチカチカしてはっきりと物が見えない。呻く以外に何も出来なかった。

「てっ、テメエは!」

 どうやらシュウをこのどこか解らない所に放り込んだ人物と、追っ手の男達はある程度面識があるらしい。外からはただならぬ動揺した空気が流れてきていた。しかも相手はシュウと同じ言語を使っている。先ほどまではなんだか解らない言葉を使っていたのに、使えるならそうしてくれればよかったのにと、変に落ち着き始めた頭で思った。

「俺たちはあの野郎に用があんだ。テメェは引っ込んでろよ」

「それとも何だ、またトレ・タルパに楯突こうってのか」

 強そうなことを言っているが、彼らのは虚勢だ。

 それに対し、

「おまえらみたいなウジどもに構ってても、何の益もない。俺はただ、静かに酒が飲みたいだけだ」

 聞き知らない落ち着いた声は、彼らを歯牙に掛けない。

 直後、

「な!」

 連続した銃声がした。連続した呻き声、悲鳴も聞こえる。

 やっと見え始めた目が始めに捉えたのは、黒い影と銀の銃だった。逆光の所為もあるのか、今、目の前で害虫退治をしている男は頭の先から足の先まで真っ黒だ。

 銃声が止んだ。転がって居るであろう死体を眺めやることもなく黒い男は扉を閉め、中に戻ってきた。

 この熱い中、夏物とはいえ黒のロングコートとは恐れ入る。左腕の袖には厚みがない。この照明の少ない室内では溶け込んでしまいそうな黒の髪をしている。

「助けてくれたのはありがたいけどさぁ、何か他にやり方なかったわけ?」

 まだ痛む後頭部をさすりながらシュウは上目遣いに男を見る。

 鋭い目が座り込んだままのシュウを見下ろしてきた。上がり気味の目と眉。不機嫌と寝不足と闇の鋭さを持った眼差し。どう見ても光の当たる場所にいる人間には見えない。

「……助かって尚文句があるなら、鉛玉喰って冷たくなれ」

 外にいた男達を冷たくしていたものが、シュウを狙った。

「わっ! 当たる! この距離、ぜってー避けらんねぇ! 無理っ! ストップ!」

 大袈裟に顔を覆って防御を試みる。腹を曝しているのはこの際気にしない。

 この抵抗が功を奏したのか、男は無言のまま銃を下ろした。そのまま奥へと歩を進めた。

 彼を目で追いながら立ち上がると、まず椅子とカウンターが目に入った。次に酒瓶。最後に絵に描いたように典型的な酒場のマスターが見えた。

 ――酒場、か。

 連れ込まれて今まで気が付かなかったが、冷静になればアルコールの香りが鼻孔に心地良い。

 久しぶりの香りに絆されながらフラフラと立ち上がる。

 黒い男は既にカウンター席に座っていた。辺りを見渡しても、客は他にいない。飾り気のない店で、装飾の類は殆ど無い。豪勢に酒瓶が並んだ棚が唯一の飾りと言っていい。

 マスターは他の動作を知らないかのように、延々とコップを磨いていた。とろんとした目に口が見えない程に生えた白いヒゲ。愛嬌があるようにも見えるが、壊れた人形のようにも見える。

「水割り頂戴」

 男の左側に席を一つ開けて座ると、一定の動きしか見せないマスターに注文をした。すると、ゆっくりとした動きで水割りを作り始める。頼んでから一瞬不安になりズボンのポケットに触ったが、まだ盗んだ金は残っていた。ぼったくられない限り大丈夫だろう。

 暫くして、枯れ枝のような手がシュウの前に水割りのコップを置いた。それを片手にシュウは黒い男をあからさまに観察する。

 全身黒い姿であるから、始めは黒狼との関わりを疑った。だが、この男は群れを好みそうにない。一人でこうして酒を飲むのが好きな、一匹狼。同じ狼でも、ルイレンとの関わりはないと判断した。

 美味そうにも不味そうにも見えない顔で酒を呷る男が、どうしてあんなどうでもいい理由で自分を助けたのか。むしろそちらの方が気になっていた。

 何度見ても鋭く黒い目。獲物を狙う目をしている。まるで狩りの前の梟だ。

 次に男の左腕に目をやった。歩きながら力無く揺れ、厚みのない袖。少なくても肘から下は完全に存在しない。そこまでの経緯に何があったか量り知ることは出来ないが、並の道を歩いてきたとは到底思えなかった。

「ふうん」

「何だ」

 男は口元まで運んだグラスをテーブルまで戻し、シュウを見た。

「俺を助けてくれた狩人は隻腕なのかと思ってさ」

「片腕のない男に命を救われたのが気に入らないか」

「いやいや。寧ろ感謝してる。でも、理由が気になってさ」

「生き延びて不都合でもあるのか」

「言いたくないならいいし、気が向いただけって言うならそうしとくよ。それに、殺し屋は、嫌いじゃない」

 そう言い放ったシュウの目を見て、男は身体ごとシュウの方を向いた。

 特に何かすることはなく、ただ無表情にシュウの目を見据えている。真意を読み取り、探るように。

 暫くして正面に向き直ると、男は残った酒を一息に飲み干した。そして、金を取り出すとそれをカウンターに置き、立ち上がる。

「二人分だ」

「奢り?」

「その代わり俺を面倒に巻き込むな。タルパの連中とも関わらないことだな」

「俺、元々関係ないんだってば!」

 シュウの言い訳など聞かず、男は店を後にした。

 そういえば名前を聞いていない。名乗っても居ない。しかし、また縁がありそうな気がすると思い、次の機会に取っておくことにした。

 水割りを呷り、グラスを下ろそうとしたとき、肩から腕に掛けて痛みが走った。酒場に放り込まれた際にあちこちをぶつけて忘れていたが、肩には銃創がある。掠っただけとはいえ、まだ痛む。

 出血は殆ど止まっているが、この蒸し暑い気候の中で放っておく気がしない。またグラスを磨く動作に戻っていたマスターに、余り期待せずに尋ねてみた。

「ねぇ、マスター。救急箱って気の利いたものある?」


   *


 外に出た男は、散乱する死体に見向きもせずにその場を立ち去った。

 あの時「殺し屋は、嫌いじゃない」と言っていたときのあの目。ただの優男に見えて、その裏に尋常ではない物を感じた。禍々しい気配だ。

 目を合わせ続けては神経に触れられそうで、早々に立ち去ってしまったが。

 ――何なんだ。あのは。

 風は向かい風。死臭は一切しない。

 それなのに、鼻には血生臭さが付いてきていた。あの死体の所為ではない。あの男の目の所為だ、と黒い男は思った。あの目は、特にあの時に限ってやけに血の臭いがしていた。自分と同じ、もしくはそれ以上に血を知っている。そんな風にさえ思う。

「望まずとも、また縁がありそうだな……」

 黒のロングコートの内ポケットから煙草とライターを取り出し、片手で器用に火を付けた。一口吸い、大きく吐き出す。煙は風に流れて消えていく。

 一瞬で流れる煙の中に、空のような青の奥に鮮烈なまでの赤を持った瞳を見ていた。

 どうやっても、忘れることは出来ない色だった。

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