第14話

 せめて夕方になるまで待っていようと我慢していた。暑さには体力を奪われるだけで何の進展もない。しかし、執拗な喉の渇きには勝てず、シュウは再び街を徘徊し始めた。

 まだ太陽は頭のてっぺん近くにある。傾くにはもっと時間が必要だった。

 暑さで茹だって思考が全く回らない。こんな頭で金を稼げるか確信は持てない。第一、稼ぐという言葉には多少の語弊がある。正確には盗む、だ。

 ここに辿り着いたのはつい数日前。もちろん地理は全く分からない。頼りない方向感覚と勘だけが頼りなのが辛い。

 この街は、シキが居た街に似ていた。背の低い建物ばかりが並び、物も人も成長出来ないままで止まっている。道は多少舗装され、ここでは風も吹かないから塵が舞うことはなかったが、裏に入れば何処も同じだ。道が舗装されているかされていないか。車が通るか通らないか。人通りがどれほどのものか。違いはそんなものだ。状況は何処も同じ。腐ってる。

 シュウはなるべく日陰を選んで歩いた。薄手の長袖のシャツのおかげで顔以外の肌はそれほど焼けないで済んでいるが、服を頭からかけるのも格好悪いとやらず、だからといってシキのように布があるわけでもなく、帽子など気取ったものもないので頭は否応なしに太陽に焼かれる。余り長いこと当たっていれば熱中症になること必至である。体調よりも見栄を取り、シュウは影踏みをする。

 稼ぐ宛など元から無いので、金を手に入れる手段は自然と限られてくる。この数ヶ月もそうやって過ごしてきた。だが、乗り気だったことは一度もない。行為に対して気が乗らないのではなく、一人でしなくてはいけないのが彼を気重にする原因だった。

「あいつが居ればなぁ」

 そう呟いて思い浮かべた顔はシキではなかった。

 かなり薄い茶色の髪に青緑の目をした、喩えなくてもオモチャのような男の顔だった。顔立ちだけではなく、生き様から自身まで全てを他人任せにして、操られないと動けない、本当にオモチャのようなヤツ。

 何に惹かれたかは解らない。余りに投げやりな彼の生き方を見かねて、腕を引いたような気もする。

 表情は薄く、あまり感情を表に出すことはない男だった。背はそこそこ高いのに、線が細く、儚い印象すらある。生い立ちは知らない。生まれを訊くと口を濁したので、それ以上訊かなかったのだ。

 身体中無気力なのに、目だけは異様に力を持っているのを、ぼんやりと思い出した。

 不思議な青緑の瞳。滅多に笑うことがない口元は、いつも僅かにへの字をしていて、多くを語らない。

 彼との別れが来たのは数年前。あの後、彼がどうなったのかシュウは知らない。糸を切られた操り人形は動くことも出来ず、やがて果てるだけ。だから、あいつはもう生きては居ないだろう。シュウはそう言い聞かせることでその男の存在を忘れていた。

 忘れていたことを思い出した後に、忘れたくても忘れられない男のことを思い浮かべた。不機嫌を撒き散らすくせに笑うときは凄くいい顔をする、口は悪いが憎めない男。思い出した男の笑顔に、惨めに彷徨う自分を笑われているような気がして、シュウは無性に腹が立った。

 シキと居た時間など今までの人生から比べれば微々たるものであるのに、こんなにも心に根付いているのは何故だ。

 あの存在感の所為か?

 それとも、俺の欲しい物をあいつが持っていると勝手に決め込んでいるからか?

 道に転がっているものを手当たり次第蹴飛ばしながら自問を重ねた。出た答えは、結局人が人を思い入れるのに具体的な何かは無いんじゃないか、と言うこと。

 これは答えを出すことを諦めた結果か。それとも、真理か。

 何が本当の答えなのかということなどこの際どうでも良い。シキに会いたい。会って一発ぶん殴ってから、それから、いろいろ話したい。まだシキとは思い出らしい思い出も作っていない。昔、違う仲間とやったような無茶を、シキとしたかった。シキとならきっと上手くやっていける。きっとこの我が儘もきいてくれる。

 怒りが知らない間にシキへの切望に変わっているのに気が付き、シュウはとりとめのない気恥ずかしさを覚え、足下にあった踏みつぶされた缶を思い切り蹴飛ばした。

 なんだかモヤモヤする。確かに怒りは覚えているのに、それは完全な怒りになってはいない。自分の不甲斐なさへの怒りをシキへの怒りにすることで紛らわしているようでもあった。そのことには気付いても気付かないフリを決め込む。

 当初の目的を果たす兆しは少しも見えないまま、何に対するとも分からない鬱憤を蹴り散らしながらの歩行が続いていた。

 厳しい日差しと照り返しの中、見知らぬ場所へと続く角を幾度曲がったことか。全ての力が、歩くことだけに使われ始めた。思考もままならない。くらくらする頭でゆっくりと焦るがそれでは焦っていることにならない。汗をあまりかかない体質であるシュウであったが、随分前から全身汗だくになっていた。体温調節が上手くいかなくなったらしく、身体の奥から熱が湧き上がってくる。

 ――シキはこんな感覚のもっと凄いのを感じているのかなぁ……。

 ぼーっと考える。

 そのぼーっとした中で、いきなり腕と肩に第三者からの力が加わるのを感じた。そのすぐ次の瞬間に煮え切った脳内が激しく揺れるのを、額を焼かれるような痛みと共に感じた。

 一瞬何が起きたのか理解に苦しんだ。後ろ手に手首を捕まれ、肩を押さえつけてくる人物が左右に二人居る。人の気配は他にいくつかあった。

「久しぶりだなぁ、あんた」

 聞き覚えのある声だった。以前シキが肩を撃った男か足を撃った男のどちらかだ。声のする方から足を摺るような音が聞こえる。シュウは無理に首を動かして音の方を見た。

 やはりそうだ。始めに声を掛けてきたのは足を撃たれた方の男だった。つい今し方まで完全に忘れていた顔だが、記憶の抽斗の中にはまだ存在したらしい。

 もう少し首を動かすと、もう一つ見覚えのある顔があった。肩を撃たれた男だ。他に一人の顔が見えて、両手を押さえられていることから、襲撃してきた男は最低五人居ることが分かる。

 どうしてあの街にいた連中が、数を増やしてここにいるのか分からなかったが、必然と言うより偶然なのだろう。計画があってのこととは思えなかった。偶然を喜び楽しんでいる雰囲気がそれを物語っている。

「負け犬とその連れが雁首揃えて何しに来たんだよ」

「今日はあいつは居ないみたいだな」

 シュウの言葉に反応することなく、肩を撃たれた男が聞いてくる。

「知るかよ、あんなヤツ」

 意識しなくても言葉が自然と毒づいていた。その心境が何処まで彼らに伝わったのか知る由はなかったが、耳元で好かない笑い声がする。肩を無理に押さえつけられ、後ろで捩られている腕は、徐々に関節が軋みだした。ついでに壁に頭を付けられたままで、こめかみも首も痛い。

 だが、この状況にあっても危機感はなかった。いつ銃を抜かれ頭をぶち抜かれるか分からないのに、頭の中は冷めている。単にのぼせてそんなことを感じる余裕がなかっただけかも知れない。

「丁度いいや。あいつの代わりに借り、返されてくれよ」

 足を撃たれた男が何か言った。

 腕と肩を掴まれたままずるずるとどこかへ引かれていく。

 この時初めて嫌な予感がした。連れて行かれるのは処刑場か、拷問部屋か。どちらにしろ、渇いた喉が潤う場所ではないだろう。残り少ない体力で一応暴れてはみるが、体力有り余る男に両脇を固められたのでは抵抗は虚しい。

 連れて行かれたのはすぐ近くの陽の入らない裏路地だった。その奥に石造りの、丁度風呂桶のような苔だらけの貯水槽がある。影になっている所為か、内容不明のものが漂っている所為かは分からないが、水が異様に濁って見えた。その見るからに汚れている水面がシュウの顔面に迫った。

 水には違いないが、これで渇きを癒すのはちょっと。

 声を上げる間もなく、耳まで貯水槽の水の中に頭を押し込まれた。肩から手が外れ、代わりに左右からシュウの頭をしっかりと押さえつける。腕は相変わらず掴まれたままなので、暴れようにも何も出来ない。

 急に酸素補給を絶たれ、勢い余って肺の中の酸素をすべて吐き出してしまった。泥臭いような化学薬品のような、わけの分からない味に味覚が悲鳴を上げた。渇きを癒す水となるには余りにも汚すぎる。苦しいながらもこの水だけは飲み込むのに耐えられず、痩せ我慢をして堪えていた。その痩せ我慢も対して続かず、ついに第一派が喉の奥に流入してきた。あまりの味に意識が飛びそうになる。それに驚いてシュウはついに目を開いてしまった。

 水に追いやられる苦しさ。

 その感覚が、シュウを過去へと引き戻す。

 あの時はこんなに不味い水ではなく、喉を焼かれる程の濃い塩水だった。開けた目は痛みに襲われ、閉じることも開け続けることも出来ない状態だった。

 その感覚がまた襲ってくる。

 先日夢に見たばかりのあの光景。

 何も見えないはずの汚れた貯水槽の暗闇に、見えてはいけない光を見た。足りない酸素のことも、舌に感じる不快きわまりない感覚も、目の痛みも忘れてその光に魅入った。

 その光は怯える対象でも安堵する対象でもない。ただ無機質で、何の感情も抱かせることなく連れて行くものである。

 そう。……狂気へと。

「そろそろ上げてみろよ。大人しくなって暫く経つし」

 男の一言の後、シュウは漸く水から引き上げられた。

 汚水に浸されたまま微動だにしなくなって、たっぷり一分はあったかと思われる。引き上げられて一度正面を向かされたが、シュウは水を吐くことも呼吸することもしていない。

 脇を固めていた男は無情にも手を離した。重力に引かれるままにシュウは男達の足下に倒れる。側頭部を地面に打っても、薄目を開けたまま瞬きもせずに居た。

 耳に届く下卑た笑い声を余所に、頭の中にじわじわと痙攣が広がってきた。轟音を立てて大地が凄まじい速さで回っているような感覚が目の奥でする。磨りガラスに爪を立てたような神経に障る幻聴がする。

 男達が全員背を向け、シュウの前から立ち去ろうとしていた。

 そこへ、


 狂え、そして狩れ。


 合わない焦点の向こうで、誰かが囁いた。

 聞き知ったような無声音。

 その声が耳に届いた瞬間、突然視界が開けた。曇りガラスを通して見ていた景色が、急に正常になる。

 シュウは気管に入った水を吐くことも、動作の為の呼吸を吸うこともなく、ただ奇妙に口を歪ませると左手をついて身体を水平に旋回させた。その一動作で三人の男が足を払われた地に伏す。

 そのまま勢いに乗り、綺麗な軌跡を描きはじめた。

 上体を起こし、手を伸ばす。右手は自分の腰へ。左手は起き上がる軌道上にいた男の腰へ。両手はほぼ同時に武器を得る。

 スローの世界で、シュウはまだ動く。

 銃を奪った男へ一発。立っている二人の男へ左右一発ずつ。振り返り際に右から二発、左から一発を倒れた男達へ。

 慣性を止めるために片足で踏みとどまると、水を吐いた。二回の咳で殆ど吐き尽くし、口元を袖で拭って完了とする。

 散らばるは六人の死体。

 死ぬ間際、男達が何を叫んだのかは知らない。

 銃声がすべてを掻き消した。

 身体に衝撃を受け、倒れゆく男達は目の前に立つ男の顔をどんな思いで見ただろうか。正常とは思えないその目に焼かれて、一体何を考えながら事切れていったのだろうか。

 銃口からは硝煙が上がり、血の臭いに混ざって奇妙な臭いがする。

 口角を上げる。異様な光を湛えた眼と合わせ、その顔は、誰が見ても狂狂としたものだった。

 まだ銃声の余韻が残る中、シュウはゆっくりと腕を下げ、まだ弾丸が残っている銃を二つとも地面に放った。一つが死体に当たって音もなく静止する。

「ククククク……」

 口の隙間から、自身のものとは思えない笑い声が漏れ出してきた。次にそれは叫び上げるような笑いに変わった。

 愚かな死体となったモノを笑っているのか、この形成逆転劇を笑っているのか、意味もなく笑う自分を笑っているのか。

 誰も居ない裏通りで、シュウの声は良く響く。誰か聞きつけた所で恐らく誰も寄ってくることはないだろう。それほどまでに常軌を逸した音声だった。

 やがて、シュウは震える手で声ごと顔を覆った。

 手の中で、常軌を逸した笑声はやがて狂号に変わる。抑えきれない嗚咽と涙が手の隙間から漏れ出した。

 シュウはその場に座り込んだ。石造りの貯水槽に凭れ、背中の熱が奪われるのを感じる。恐る恐る離した手の中から、目元は泣いたまま口だけ無理に笑わせている顔が現れた。寂しそうな泣き笑いの顔。

 眉を顰め、辺りに散らばる物体を眺める。シュウを囲むように死体と大量の血が撒き散らされていた。

 これが身に巣くうモノが犯したことか。自分でもよく解らないこの〝気〟。シキの瘴気よりも掴み所がない。一時的に抑えは効いても、制御は出来ない。やがてコイツに支配されてしまう。ただ残虐なだけのこの〝気〟に。

 これは狂気だ。

 海で死にかけた時に生まれた、狂気という名のもう一人の自分だ。狂気は両親を殺しただけでは飽きたらず、周りにいる者すべてを殺していく。

 シキでさえも一度殺しかけた。

 しかし、シキの前でこれが出たのは二度だけ。後は薬の力を借りなくても抑制されている時間の方が長かった。シキが側に居たからだろうか。根拠はない。そんな気がするだけだ。

「シキ……。おまえに会いたいよ……」

 汚れた地面から目を逸らし、遠い空を仰いでシュウは呟いた。

 代わりなど見つかるわけがない。シキでなければいけない。会って、抑えて欲しい。そして願いを叶えて欲しい。

 きっとシキも見ているだろう空に、思いを馳せてみる。

 ――最近無駄に笑うようになった……。そろそろ、本当に気が狂うんじゃないだろうか。

 漠然とした不安が襲ってきた。

 本当にこの狂気に喰われてしまう前に、たった一つの願いを叶えたい。

 身震いをして、シュウは立ち上がった。もう少し体温を奪われながら静かにしていたかったが、漂う死臭が気分を殺ぐ。

 一度捨てた銃を拾い上げ、他の男の持ち物を漁った。一人目の弾倉は殆ど空。次に見た男のものは一発も使われていない状態だったので、マガジンだけを抜き取った。そうして弾丸を失敬し、ついでに資金もいただいた。これでまた数日食いつなげる。

 作業を終えたシュウはもう一度狭い空を見た。

 シキもこの空を見ている。あの物欲しげな顔をして、何処にも焦点を合わせない目できっと見ている。そう信じてシュウはそこを後にした。

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