第二章 狂気

第13話

 目に入ってくるのは辺り一面の砂漠。砂の海だ。

 オアシスもサボテンもない。果てのない砂の大地と空。身を焼くような暑さよりも、この空虚感の方が耐え難い。太陽が嫌と言う程その顔を見せつけて、闇に隠れていた本性をさらけ出させようとしている。いつにも増して疎ましい。日頃は足下さえ照らしてくれないこの光は、何故こういったときばかり痛い程の光を浴びせてくるのか。

 太陽を睨む為に空を仰いだ。目を焼かれても構わない。こんな何も無い所に居て、物を見る必要など無い。

 光を失い、闇になってしまえばいい。

 その時、空に異常を感じた。雲がないので余り迫力は半減しているものの、空が、太陽が、凄まじい勢いで動いている。それともこの大地が考えがたい程の速度で回転をしているのか。左から右へ、みるみる太陽は移動していく。

 太陽の支配はそう長くは続かなかった。一瞬のうちに静寂の闇に変わり、熱の痛みが冷たさの痛みに変わる。

 今やこの砂漠には、一点の光も存在しない。明かりがあるときよりも、感じる空虚感は数段に増している。この闇も、太陽と同じでテープの早送りのように過ぎてしまうのだろう。そう思っていたが、仰いでいる空にあるのは星すらもない夜空。それ以前に、自分は闇の中に浮いているように空も地上も一体の闇となっていた。地に足をつけている感覚も薄れていく。

 この空間だけでなく、自分自身さえ空っぽになったような気がした。その巨大な隙間を埋める物は何一つ無い。

 立ちつくしたまま、何も無いどこかを見ていた。

 やがて、喉の奥から掠れた笑い声が漏れてきた。自分でもその声に驚くが、やがて気を違えたような絶叫の笑いへと変わっていく。身体の奥から目眩を感じる。

 思考、言葉、記憶、意識、そして理性さえそのぐるぐるとした感覚に飲み込まれ、狂った笑い声となって闇に散っていく。

 この闇にこの声はどれだけ響いているだろう。これほどまでにイカレた頭であるのに、冷静な部分が存在していた。それも、主観的ではなく、客観的に自らを俯瞰している。

 何も無い所。理由無き笑いと叫び。聞く者の居ないここで叫んで、一体なんだというのか。無とは、ここまで全てを呑み込む物なのか。

 黒い世界に自分の姿だけが浮いて見えた。闇に神経を切られたその哀れな者は、自らの声を自らの耳に入れ、それに触発されて奇声を上げるという循環を単調に繰り返していた。 ――これが夢なら。

 冷静な自分が狂った自分の中で呟いた。

 そう、これが夢であったなら勝手にしておけばいい。夢ならばいずれ覚める。この幻覚も、いっときの辛抱で終わる。

 そう思いながら必死に意識を覚醒させようとした。おかしくなった意識を覚ますのは容易ではない。それでも、僅かに残った本来の自分を叩き、本当の世界へと連れ出そうとする。


   *


 海面が顔に迫った次の瞬間、呼吸が閉ざされた。多少は泳げたが、咄嗟のことに対して身体を冷静に動かす余裕など無い。しかも服を着たままの状態だ。藻掻けば藻掻く程、身体は海の中に引きずり込まれる。

 まだ幼い体をひっきりなしに動かし、広大な海に逆らう。何度も波が頭に被さり、服は身体に絡まって自由を奪う。途切れ途切れに吸える酸素と一緒に、肺の中に海水が入り込んでいく。呼吸をするので精一杯で何も叫ぶことが出来ない。頭は既にパニックに陥り、恐怖でいつ神経が切れてもおかしくなかった。

 手を伸ばす。海面を叩きつけ、身体を浮かせようとする。しかし、腕は海の中に潜り、身体は重く沈んでいくばかり。

 やがて最後の力も尽き、身体は海に呑み込まれた。

 見えたのは幻覚。

 痛い目を開き、それを捕らえようとする。

 手が見えた。

 わらわらと無数の手がこちらに伸びてくる。一本の手が喉を締め上げてきた。他の手は藻掻く腕や足を押さえつけてくる。浮上しようとする身体を引きずり込もうとする腕。その力が均衡に至った時、がくんと身体に振動が来た。その衝撃で残っていた酸素を全て吐き出してしまい、後から海水が容赦なく肺に流れ込む。生きる為に最も必要なものを奪い取られ、やがて気が遠くなる。

 意識が途切れかけた時、背中にどんと押される感覚を得た。そしてまた海面が目の前に迫り、海へと呑まれる。今度は足掻くことはしなかった。否。出来なかった。痺れたように手足は言うことを利かない。そのかわり、先ほどまで感じていた恐怖は消えていた。手足と共に全ての感覚が麻痺している。あらゆる神経が切れてしまっているのかも知れない。

 再び完全に海に沈むと、苦しさも忘れ、目の痛みも忘れ、ぼんやりと海面を見上げた。重力に引かれゆっくりゆっくり身体は海底を目指す。見上げた海面にはこの世のものとは思えない程の目映い黄金の草原が見えた。

 光が目に当たる。浮力に任せて手を伸ばす。遠ざかっていく光を掴み取りたくて。

 無情にも指先から光は遠ざかっていく。どんなに光を求めても、この身体は闇に向かっていく。底の見えない闇に落ちながら、狂った笑みを浮かべている自分が居た。


   *


「俺に用が無いなら早く言えばよかったんだ」

 顔の筋肉は緩み、口元だけ異様に笑わせた顔で彼らの前に立った。笑みとはまるで逆の驚愕と恐怖を顔いっぱいに塗りたくり、彼らは目の前に居る。なかなか滑稽な様だと見下ろす目が笑う。

「あれは事故だったんだ」

「知らねぇな、そんなの」

「あれから一生懸命探したのよ。それでも見つからなくて……」

「あんたの手があんなに冷たいとは知らなかったぜ」

「許してくれ、――」

「ん? それは何だ? 誰の名だ?」

「――。そんなものは置いて、こっちにいらっしゃい」

「誰の名前だ? その名を持つ者は、もう消えちまった。あんた達が、その手で、沈めた!」

 二丁のリボルバーをそれぞれに構える。外しようのない距離。何年も使い慣れた銃だ。血の舞い散る光景が容易に想像出来る。

 身体中が興奮で疼いている。目には狂狂とした光を宿し、口はこれまでにない程歪めた笑いを浮かべている。

「――狂ってる」

「そうさ。あんたらが狂わせた。あいつは死んで、狂気が、この身体の主になった!」

 奇妙な気味の悪い笑い声を上げて撃鉄を下ろす。

 命乞いの言葉が耳に入るが、右から左へと素通りしていった。

 ――やめろ。そいつらを殺すな!

「何か言ってるな? 見てろよ。血の色は、綺麗だぜ?」

 ――これは夢なんだ! 早く目覚めろ! 二度も三度も見たい光景じゃない!

「じゃあこれで何度目かな? 何度でも見ろよ。忘れられない程に気味のいい様だ」

 ――やめろ! もう沢山だ。

「夢なら醒めるんだろ? 見たくないなら醒ませてみろよ。出来ないんだろ?」

 引き金は軽い。

 銃声と悲鳴が重なって聞こえた。

 頭を半分以上吹き飛ばされた男女が床に転がる。

 奇声にしか聞こえない笑い声が耳と体内から聞こえた。頭の中で反響して、幾人もの声が聞こえるように感じる。耳を押さえてもその声が止むことはない。

 狂人の声に狂気が芽生える。

「狂気に狂え。狂気に沈め。おまえの欲しがってるものは、誰も与えてくれやしない。おまえは狂気の中で生きて死ぬしかないんだ。それ以外、おまえに選択肢があると思うな」

 俺じゃない俺の声がする。

 これは俺じゃない。現実じゃない。

 夢だ夢だ夢だ……。

 夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢だ夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢ゆめゆめユメユメユメ。


   *


 見上げた空は狂った現実と夢と声に溺れていた。


   *


 そうして目を覚ました世界に居た自分は、永遠の狂気に憑かれていた。


   *


 こうして飛び起きるのは何度目か。

 シュウは息を整えながら顔を上げた。

 明るい空が見える。陽射しは入り込んでいないが、左右と下を影に囲まれた間から申し訳程度に空が覗いている。どこからともなく喧噪や物音が聞こえる。一応の平穏の中にこの場所はあるようだ。

 怯えた瞳で辺りを目だけで眺め、ここが不毛の砂漠でも海水の中でもないことを確認すると、一気に気が抜けた。

 緊張が解けた反動で大きく息を吐き身体の力を抜いたのがまずかった。後頭部に激しい痛みを覚え視界を赤や黄色の星が舞い散った。痛みに飛び上がろうとしたが寝起きの身体は言うことを利かず、俯せになるとじたばたしながら頭を抱えるに留まる。

 ここは路地裏で、木箱を枕にほぼ座った状態で寝ていたのを忘れていた。木箱の角が思い切り頭にめり込んだらしく、鋭いような鈍いような痛みがする。人目がないのをいいことにシュウはみっともない程に頭を抱えてウンウン唸り、挙げ句にはダンゴムシのように丸まった。端から見れば懺悔をしている人にしか見えなかっただろうが、本人にしてみれば木箱に懺悔をして貰いたい程に、疼く痛みに苛まれているのだが。

 シキに捨てられてから何日経ったかなど、指折り数えるのも面倒臭い程に時間は流れていた。

 日陰に居ようと日向に居ようと居ても立っても居られない暑さに見舞われる。水分補給もままならない上に餓死寸前だった。多少大げさな話だったとしても、数日何も口にしていないのは確かだ。

 暫くして、シュウは狭い通りを塞ぐように大の字になって寝ころんだ。

「狭い空だなぁ……」

 見上げた空は四方を建物の影で囲まれ、フレーム越しに眺めているようだ。雲がまばらに散らばり、薄く伸ばされて青を透かしている。シキがしていたようにその奥を見ようとした。しかし、シュウの目に映るのは青に白のまだら。鳥も飛んでいない。

 結局シキについて分かったのは〝瘴気〟という抑えきれない力があるということと、シュウには害がないということ。彼が何を空に求めていたのか、背に刻んだ傷は何なのか、手袋の意味は何なのか。知りたかったことの大半は分からないままだ。

 そしてシュウ自身のことについては語っていないに等しい。クスリのことがバレたくらいで、シキは何も訊いてこなかったしシュウも話さなかった。あのまま一緒に居たのなら話そうと思っていたことが沢山あったのに、と今になって思う。最後には、シュウの望みさえも話し、叶えて貰おうと思っていた。それも今は叶わぬ願い。

 話したい人は居ない。叶えてくれそうだった人は居ない。酒場にシュウを置いて一人どこかへ行ってしまった。

 それから何処ともなくシュウは彷徨った。ここにたどり着くまでの間にタバコは切れ、金も底を突いた。今更、金を盗って歩くのは何でもない。造作もないことだ。罪悪感の欠片もない。だが、そうしている間に自らに巣くうものの抑えが利かなくなってきていた。

 薬を手にしてはシキの表情を思い出しては躊躇う事が繰り返され、まだ半シートしか使っていない。一つ確かなのは、シキと居た時よりも症状が悪化していると言うこと。今になって考えると、シキが暴走するこの〝気〟を堰き止めていていてくれたのではないかと思う。ただ縋りたい一心の勝手な思い込みなのかもしれないが。

「畜生、あんにゃろう、何処に行きやがったんだ」

 一時は絶望し、シキに対しても愛想を尽かしていた。破れかぶれでひたすらに彷徨っているうちにきっと違う人物、代わりになる者が現れるだろうと思ったが、そう簡単に見つかるのならば、シキに出会う前に見つけられていた筈だ。

 探すつもりなど無いはずなのに、歩きながら目線は知らずとシキを捜している。赤い服を着た男。背の小さい男。灰色にくるまった人。茶の髪。鳶の瞳。目が自然とそれらを追っている。どんなに見渡しても、あの隠しようもない存在感を持つ該当者はどこにも居なかった。

 どんなに、忘れよう、捨てきろうと思っても、今更手放すことなど出来ない。

 あんな出会いはもう二度と無いだろう。

 陳腐な言葉だが、「運命の出会い」とはああいうことを言うのかもしれない。

 そんなことを考えながら悦に入ろうとしたシュウだが、腹の虫がその思考を阻害した。

「腹減ったぁ。くそー。金ねぇし、あいつは居ないし……」

 空を眺めながら、この暑い気候の中寒気を感じた。空が海に見える。それだけで息苦しさと、身体の奥から目眩のようなものを感じた。薬代わりに、腕で視界を覆った。腕に押さえつけられた目は、もちろん何も見ることが出来ない。

 背の下にある地面が、轟音を立てて高速回転しているような感覚がある。

 未だ感じる頭の奥の目眩に身体を預け、シュウは自嘲の笑みを漏らした。

「シキ……。俺の空は真っ暗だぜ? おまえに見える空を、俺にも見せてくれよ」

 目を押さえている袖が、僅かに湿り気を帯びた。誰が見ているわけでもないのに、シュウはそれを口だけ笑わせて誤魔化す。

 誤魔化してどうなるというのか。袖を濡らすものの正体を、自分自身が一番知りたくないというのに。

 やがてその口元も微かに震え、歪んでくる。声を抑える為に歯を食いしばる。

 シキが欲しがっていたものを自分が持っていたのなら、彼は去っていかなかったのだろうか。

 何を欲しがっていたのかさえ分からない中、そんな悔恨がシュウの心に追い打ちを掛けてくる。他にわざわざ黙って消えた理由が分からなかった。

 実際に流れた月日は二ヶ月半以上。シキに関する手がかりは無し。夏よりも厳しい残暑と、夏と変わらない畏日いじつが体力を際限なく奪っていく。

 ここが何処の街であるかは分からないが、どのみち捨てられた場所には違いない。

 シュウは暫く、闇に閉ざされた昼間の空を眺めていた。

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