第12話

   12.


 買ってきたきり忘れていたタバコを吹かしながら、シュウは窓辺で暇面をしていた。一息吸ってはいろいろ手法を変えて煙を吐き出す。今日は風がないのである程度思った通りに煙が出せる。

 吸い始めて数十秒としないうちに、シキがそれに気付いて口先を尖らせた。

「何であんただけ吸ってるんだよ。俺にも一本寄越せって」

 シュウからタバコを一本受け取ると、机の上に置いてあった防水マッチを壁で擦って火を付けた。だが、吸ってすぐに吐き出したのは煙だけではなく、咳。喉の奥から激しく咽せている。

「なんだよこれ。すっげ重くない?」

「なにおまえ、こんなので咳する程軽いの吸ってたわけ?」

「普通だよ。って、……こんなのっていうけど、これ、一番重いヤツじゃんか。重傷者用だぜ、これ」

 タバコを貰い受けた身分で、箱を取り上げて銘柄を見るなり文句を言う。シキらしいと思いつつも、少しは確認してから吸えよとも思う。本当に無防備だと、シュウは煙で輪を二つ作りながら心の中でぼやいた。

 横目でシキを見る。文句を言って咽せてでもニコチンを摂取したいようで、時々咳をしながらタバコを吹かしていた。

 灰色だったシキが、今は赤い色を纏っている。扱いはぞんざいだったがあれから毎日のように羽織っていた。その代わり、家に居る時は灰色を纏わなくなった。外に出る時は相変わらず羽織っている布は、今は足下で丸められている。彼の小さな身体を全て灰色に染めていたそれが、小さく肩身を狭くしていた。

 赤いシキが青い空を見ている。

「なあ、シキ。もう一つ、空みたいな所知ってるか?」

「知らない。何だよ、突然」

「海だよ。行ったこと無い?」

「ウミ? ここが地図の何処にあるのかも知らないのに、行った事なんてあるわけ無いだろ。何処にあるのかも、どんな風なのかも知らない」

「ふうん」

 シュウは吸い込んだ煙を、灰と共に外に捨てる。

「空と同じで果てが見えない。底はあるみたいだけど、行けるヤツは居ない。何でも押し流しちまって、溺れると、苦しい」

 肺から酸素が無くなっていく感覚が胸に込み上げてきた。波にもまれて呼吸さえも許されず、いくら吸い込んでも入ってくるのは海水だけ。海の中で痛い目を開いていると、幻覚が見えてくる。呼ばれているのだと、そう思わせるような光が。

「なんだよ。シュウ、溺れたんだ」

 吸い込んだ煙に咽せながらシキが笑う。吸い慣れない重いタバコを咽せてまで吸っているシキもなかなか滑稽であった。

「笑うなよ。海に入るまでの経緯いきさつ、覚えてないんだからさ、俺」

「それは作り話じゃないのか? 二度も騙されるのはヤだからな」

「ほんとほんと。まだ十五になる前くらいの話なんだけどね。ただ、どうして俺、あの時海の中にいたのかわかんなくてさ」

「まあ、今こうして俺の前に居るんだから助かったんだよな。その後どうしたんだ? 親にでも泣きついてべそでもかいてたのか?」

「親? 親は……」

 シュウの言葉が詰まった。喉に何か詰まったような顔をして部屋の中をどことなく見ながら、シュウはタバコを外に放る。シュウは頭がキリキリと痛み始めるのを感じた。親の姿がどうやってもはっきりと見えない。思い出そうとすると頭痛が増していくような気がした。

 歪んで、滲んで。

 二人分の顔が揃いこちらを見ているのに、揺らいではっきりと見えない。

 何故この映像は水の中から見上げているのだろう。

 そこに伴う息苦しさの正体。思い出せない。



 その様子を、シキは訝しげに眺めていた。言いたくないのではなく、言う為の言葉さえ見つからないようなその挙動不審な目の動きは、演技ではなかなか出来ない。

 この部屋には灰皿がない。シキはシュウに倣ってタバコを窓の外に弾き飛ばした。落ちていくタバコを目で何となく追っていた。

 タバコが地面に近づくにつれ、シキは顔色を変えた。タバコの向こうに、ぼやけた影がある。焦点をタバコからその影へと写すと、その影はこちらに銀色のものを向けていた。完全にその影に焦点があった時、銀色の正体が分かる。影と、目が合った。

 黒い男が、薄い笑みを向けている。同じ黒でも、この男は知らない。知っている黒は、もっと深く重く、沈殿した澱のような雰囲気を持っている。

 笑みと共に向けられた銃口が、シキの眉間を狙っていた。

「シュウ! 伏せろ!」

 シキは倒れながらシュウの肩を掴み、同時に押し倒した。頭上を弾丸が掠めていったのが解る。部屋の隅に弾がめり込み、脆い壁が僅かに崩れた。

 一瞬の静寂の後、二人は事態を把握する。

 二人は飛び起きるとそれぞれのバッグに必要なものを詰める。とは言っても元から食べ物以外のものは大体入っているのでそれほど作業は要らない。シキは予備の銃と弾丸を全て詰め、布をひっつかんだ。シュウは机の引き出しに入れて置いた弾丸を取り出し、袋にぶち込む。

「シュウ! あいつ知ってるか?」

「俺見てないし!」

「見ろよ、節穴!」

「見る前におまえが倒したんだろ!」

「役立たず!」

 言い合いをしながらも、どこから逃げるかが問題になった。こんなおんぼろアパートの通り側の部屋に、非常階段という親切なものは付いていない。ここは三階。しかも通常より天井が高く、一階から底上げしてあるので普通の三階よりも高さがある。窓は二つ。玄関は一つ。相手の人数は不明。

 もし一人なら、どうにかなるか?

 同じ事を思ったようで、二人は肩を並べて玄関に走ろうとした。だが、目の前でぼろいドアが蹴破られるのを見て同時に足を止めた。三人の屈強な男が不揃いのスーツを着て銃を構えていた。

「クソッ!」

 シキが叫ぶと同時に、二人の男が引き金を引いた。

「シキっ!」

 シュウの声が耳に届いた途端、全ての時間の流れが陽所に緩やかになった。

 弾道が見える。空気を切るその様さえ見える。あの時と同じだ。

 使いたくない。

 けれど、このままでは間違いなくシュウと自分の眉間には大きな風穴が空く。突き飛ばしても、弾の速さに敵うわけがない。もちろん銃を抜くのも間に合うわけがない。

 使いたくない。

 死なせたくない。

 シュウは大丈夫。この力。少しは役に立て!

 刹那、鉛玉に意識を集中させる。

 壊れろ。崩れろ。穢れよ、この身を焼いて、凶事を砕け。

 弾丸は鼻先で粉砕され、塵になって空間に舞う。三人のうち二人の男は大量の血を吐いて倒れ、一人は奇声を上げて自らの頭に自分の手で鉛玉を打ち込んだ。

 不可思議な現象の後に倒れた男達を、シュウは呆気にとられながら見つめ、シキは大きく息を付いて眺めた。

「シキ……、今、おまえ、何、……?」

 一単語ずつしか言葉を出せないところから彼の混乱が覗える。しかも疑問詞は首を傾げることで表していた。見ていなくても汲めるが、それほどまでに言葉が見つからないのだろう。

 歯を食いしばったまま苦い顔をしているシキの耳に、無数の靴音が聞こえてきた。

「チッ」

 シキは舌打ちをするとシュウの腕を掴んで元居た居間へ走った。同時に新手が不法に侵入してくる。撃鉄を下ろす金属音がした。

 選択肢を悠長に選んでいる暇はない。

「説明してる暇はない。落ちるぞ」

「嘘だろ! ここ、三階!!!」

 窓を開けている猶予はない。シキはシュウの腕を掴んだまま、ガラスを破って宙に躍った。ガラスの破片が太陽の光を受けて様々な色に光っている。窓枠は少し遠くに落下している。

 目指す地面に向けて、特段の構えは要らなかった。

 理屈でも経験でもなく、もっと奥深いところで知っていることがある。

 この地面には難なく立てる、と。



 シュウは迫り来る地面を前に、足に来るであろう激痛に備えていた。シキの方を見る余裕はなかったが、慌てている様子がないのは確かだった。運動神経のずば抜けて良いシキはこの高さから落ちても無難に着地出来るのかもしれないが、自分は違う。これで足の骨でも折ったらどう文句を言ってやろうかとまで瞬間的に考えた。

 そして問題の瞬間がやってきた。

 が、椅子の上から降りたくらいの感覚しか足に来ない。シキの方はもっと柔らかに手に持った布を揺らせてふわりと着地した。それと同時に走り出す。腕を捕まれたままのシュウは、一瞬遅れて走り出す。

 追えだの逃がすなだのありきたりの台詞が背中に飛んでくる。

 振り返って憎まれ口を叩いてやろうとしたが、シキに強く腕を引かれ、やめた。無言の抗議。余計なことをするな、ということらしい。

 確かに、シキのおかげで勝った気になっていたが、一人ではどしようもなかった。蜂の巣にされて終了。オチは見えきっている。

 ――呆気なく終わりそうもないな……。

 未だ放そうとしない細腕を見ながら、自分の未来をそう占った。



 喧噪の対岸で、逃げる二人の様子を遠巻きに傍観している男が居た。その騒動とは全く関係のない様な顔をして、完全に闇に紛れている。

「高いところから落ちるのが、余程好きか……」

 独りごち、腕を組む。

「それにしても、相性の悪い痛みだ。さて……穢れた〝気〟を持つ者同士、何処まで逃げるつもりか」

 淡々と落ち着き払った声は何処に響くこともなく闇に沈む。

 溜息を一つ落として、影は影へと消え去った。


   *


 その頃、二人は足が向くままに裏路地を駆け抜けていた。既にシキはシュウの手を引くことをやめている。土地勘があるだけ追っ手よりも有利であった。道だけでなく、階段や屋根まで使い、かなりトリッキーな巻き方をしたのでレパートリーのない台詞は大分前から聞こえ来なくなっている。それでも一応ある程度の安全を得る為に走っているという次第であった。

 かなりの時間走っていたが、シキの息は上がらない。シュウはずっと後を付いて走っている状態で、強い吐息が良く聞こえてくる。そろそろ肺が痛くなってくる頃だろう。

 何ブロック分走ったか見当も付かない程遠くまで来た。そろそろ手持ちの地図が役に立たなくなってきた所でシキは足を止めた。少しだけ肩で息をするシキに対し、シュウはゼイゼイ言いながら壁に凭れている。

「ったく。だらしねぇな」

「おまえ、普段、動かない、くせ、に、何で、そんなに、肺活量、ある、ん、だよ」

「持って生まれた能力、ってやつ?」

 無意識に皮肉が漏れていた。口元まで自嘲するように笑っている。

 良くない癖だ。自分の心の裡を見せるような顔はしたくないと思っているのに、自虐するネタに事欠かないせいか、こんな所ばかり素直でいけない。

「それにしても」

 言いながらシキは手にしていたバッグを持ち上げ、しげしげと見る。

「まさかこんなトコであんたのくれたバッグが役に立つとは」

 形を整える為にありったけの服を入れたので、食べ物以外の持ち物で持ってきていないものはない。

「だから言ったろ。枕以外にも役に立つって」

 少し自慢げに、息の整いはじめたシュウが言う。シキはバッグから目を外し、代わりにシュウの方を見た。映るのは意味もなく自慢げな顔。

「んなこと言ったか?」

「言った……と思う」

 今度はやけに自信が無くなる。

 記憶にないなぁ――と、シキは首を傾げた。おまえにやるとは言われたが、枕にしろとか役に立つといったことは何一つ言われていない。シュウはどこかでかなりの記憶違いをしているのだろう。一人で結論づけ、次のことを考え始めた。ここまで逃げたはいいが、ここから何処へ行けばいいかが解らない。

 腕組みをして一人悩み始めた時、突然襟を捕まれ後ろに引かれた。

「ぐげっ」

 これで首を絞められるのは二回目。加減というものをシュウは知らない。

「てめぇ、また何す――」

 言いかけでシュウの大きな手に口を塞がれた。

「少しはアンテナ立てとけって。左の奥に、ハイエナが居る」

 それを聞いて、シキは口を塞がれたまま角から僅かに顔を出し、シュウの言う方を見た。

 確かに。一人だったが追ってきた奴らに似た男が一人で文句を言っている様子だった。独り言の中身までは聞こえないが、苛立っているのはよく解る。

「どうする?」

 口を解放されたシキがシュウを見上げる。

 獲物を見たまま、ニヤリと笑うシュウが居た。

「追いつめてボコる」

「冗談」

 ではなかった。シュウは突然正体の知れない男に向かって発砲するとそのまま走っていった。度肝を抜かれた男の方は、応戦することなく逃げる。シキもシュウの後を追って走る。二発目のシュウの弾丸が、男の肩に当たった。男は一度倒れたが、それでもめげずに立ち上がると再び逃げ出す。左右のどちらかしか無いT字路。命運を分けるその選択に、男は右を選んだ。男が顔を青くしたのはその一秒以内の出来事だった。

「選択を誤ったな。残念」

 男の眼前には、立ちはだかる高い金網。

 逃亡者は両者を見比べると、悪あがきをして金網に掴みかかり上ろうとした。だが、一発の銃弾が金網に掛けていた足に食い込み、ただでさえ肩を撃たれ自由が利かない所に追い打ちをかけられた。

 相変わらず容赦のない撃ち方をする。治療する機会があれば死ぬことはないが、一生足を引きずる羽目になるのは必至だ。

 撃たれた男は当然、地面に落ちる。尻餅を付いた格好になり、迫ってくる敵を引きつった顔で迎えた。

 恐怖故に男は持っていた銃を投げ捨て、丸腰になったことを示しながらそのまま後ずさる。手と足を滅茶苦茶に動かすものだから、思うように後ろに下がれていない。第一、下がった所であるのは背の高い金網だ。足掻きの効果などたかが知れている。

「情けねぇな。それでもあいつらの手のモンかよ」

「あ、あ、あ、あ、あんた、生きてたのかよ」

「生憎。親切で可愛いヤツが居てね」

 シュウは武器も手放した男の足にもう一発喰らわせた。悲鳴を上げて男はのたうち回る。その光景を、シュウは微笑を湛えて眺め下ろす。

「何やってんだよ、シュウ!」

 見かねて銃を持つシュウの手を取った。これではまるで拷問だ。訊くようなこともないのに、必要以上にいたぶるのは好まない。

「シキ。おまえ、殺し屋してるって言ってたよな」

「あ、ああ」

 振り返ったシュウの瞳に違和感を覚えた。

 見たことのない眼光をしている。半分、触れてはいけない線に触れてしまったような。

「人を殺す人間ってのはな、こういう眼をしたヤツを言うんだよ」

 シキを見るシュウの眼が、異様な光を持った。銃を持つ手を押さえてくるシキの手を乱暴に振り払う。そして、口端を上げてシキの方を見たまま、命乞いを叫ぶ男の眉間に正確に一撃。

 悲鳴を上げる間もなく、男は絶命した。

「あんた……本当にシュウなのか?」

 一言で言えば気の触れた目だ。人殺しと言うよりも、狂人に近い。その目の色に怖気が走った。自分以外の生き物に怖気を感じるなど今までに一度もなかった。この〝気〟を浴びても平気な上に、あんな目をする男。はっきり言って、恐ろしい。

「俺がシュウじゃなかったら、シキはどうする?」

 シキはシュウの手の動きを見逃さなかった。シキは素早く腰に手をやると、銃を引き抜いた。シュウの銃とシキの銃。シキの腕とシュウの腕が交差するのはほぼ同時であった。銃口は互いの顔を狙っている。だが、二人とも引き金に指をかけていない。人差し指は伸ばしたまま、いつでも反応できるようにしつつ、相手の顔を窺った。

 シキは渇いた喉の奥で頭に浮かんだ言葉を反芻していた。一番の不安、そして許せない者の名をそこで口にしていいのか否か。

 震えそうな唇は、漸くその言葉を紡ぎ出した。

「あんた、まさか、黒狼の手先か?」

「懐かしい響きだな」

 シュウの言葉に、シキは引き金に指をかける。

 シュウの人差し指は真っ直ぐのまま。早撃ちするなら、今なら勝てる。奇妙に口元を歪ませたシュウの顔があの黒い男と重なるような錯覚さえした。

 重なってしまうなら、撃ち壊してしまいたい。

 少ししてシュウは顔を顰めて目を閉じた。眉間にありったけの皺を寄せると、少し歯を食いしばったようにして苦い顔をする。その表情に、シキは怪訝な顔をして首を傾げた。

 様子がおかしい。黒ずんだ空気が、風に流されていくようだ。

 暫くの後に瞼が開いた時、あの眼光は消えていた。

「それは俺の腹に穴あけやがったコイツの組織の名前。忌々しい。俺を撃つなよ、シキ」

 戻っている。いつもの脳天気そうなシュウの口調だ。

 忌々しいと言いながら本当に忌々しそうに、地面に脳を撒き散らしながら絶命している男を眺めやった。

「コイツが? あんたは違う?」

 呆気にとられてシキは思わず引き金から指を外していた。

「一緒にすんなよ。俺は黒狼に追われてる方なんだから」

「だって、コイツ、黒い服じゃない」

 確かに、そこで死んでいる男の服は灰色のスーツであった。

 シュウは首を振りながら銃を下ろした。それを見てシキも倣う。

「あのな。今時そんな目立つカッコで街中集団で闊歩して見ろよ。一発で判っちゃうじゃん」

「イマドキって、俺が知ってる黒狼は頭のてっぺんから足の先まで真っ黒……」

「おまえさ、何か勘違いしてない? あの組織で真っ黒黒なのは何とかって言うボスだけだぜ? 後は寒色系の服着てるくらいで、そんなに統一性無いぜ?」

「それじゃあ、あいつが黒狼の……」

 赤葉会に入ってからも、暇を見つけては黒狼のことを追ってはいたが、実態を掴むどころか、構成員の一人にも会うことは出来なかった。唯一見た男の特徴からそれが黒狼という組織の一員であることが解っただけで、それ以上の収穫はなかったのである。あの闇よりも黒い男のイメージが強すぎで、勝手に黒狼イコール真っ黒と決めつけていたらしい。

「ルイレンを、見たのか?」

「ルイレン……」

 あのカミソリのような口元。思い出すだけでぞっとする。

 その冷たい響きのする名前を、シキは何度も呟いた。

「名前は知らないけど、たぶんあいつが……」

「良くあいつを見て生きてられたな。見たら死ぬって言われる程の男をさ」

「あんたも良く知ってるな」

「俺は職業上やむを得ず、な。まあ、おまえも俺と同じクチ、ってところか」

「まあな。でも……」

 返答しながら、シキはもう一度シュウの顔をよく見てみた。どう見てもいつものシュウだ。二重人格とは良くある話だが、それと同じなのかどうなのか。疑い深い眼差しを不機嫌な眼差しに混ぜて送る。

「本当に違うのか?」

 シキの言葉にシュウは溜息をついて笑った。

「おまえを狙ってるんならとっくに頭ブチ抜いてるよ。隙だらけじゃん、おまえ」

 隙を語るシュウの眉間に、シキは銃口を当てた。何があっても回避不能なゼロ距離。冷たい銃口がシュウの額の熱を奪う。

「じゃあ、俺がそうだったらどうするんだ? 介抱しておいて嬲り殺しを楽しみにしてるかもしれないぜ? 隙だらけはお互い様だ」

「……やりそう」

「撃つぞ」

「いくらおまえが殺し屋でも、おまえに……」

「あんたに俺は殺せない。けど、俺はあんたを殺せる。今すぐにでも」

 睨み付けると、減らず口がやっと閉じた。どうせ一時しか保たないだろうが。

 それよりも、身体から溢れる熱気にも似た流れを抑えることの方が急がれる。

 気が済むとシキは銃を下ろし、手にしていた布を頭から被った。逃げている間は被る余裕がなかったのだ。足下近くまでその布はシキを覆う。

「シキ。さっき……」

 尋ねかけで、シキがシュウの方を見る前に、無数の靴音が聞こえてきた。

 次の瞬間には十人程の男が路地に蓋をした。シュウが先ほどの男を追い込んだようにここは袋小路。立場は逆転した。

「随分手間取らせてくれたな」

 十人のうち誰が言ったのか判らない。シキとシュウ、どちらに向けた言葉かも判らない。ざっと見た所、この中にルイレンは居ない。人と同じ数だけの銃口が、二人に照準を合わせた。

「なあ、シュウ。この人数、二人で殺れると思うか?」

「殺るだけなら問題ないだろ」

「じゃあ、シュウ。この人数分だけの弾が一度に飛んできて、それでもこいつら殺れるか?」

「無理だね。一人殺ってる間に蜂の巣だ」

 シキは答えを分かっていて尋ねていた。舌打ちと溜息をして、シキは肩を落とした。

 一歩、前に踏み出す。

 銃口は一斉にシキに集中する。

「一度、あんた殺してみてぇ」

 憎まれ口を叩くと同時に被っていた布を脱ぎ取った。

 抑えを、気休めを、自ら取り去る。その意味は、シキ自身が一番よく知っている。

「俺の荷物、ちゃんと持ってろよ」

 シキは手に布を持ったまま、一歩ずつ不穏な輩どもに近づいた。銃を抜くこともなく、無為の姿勢で相手を焼き殺すような視線を持って睨む。

 衝撃。

 死線の押し付け。

 五分の一程距離を詰めた所で、一番前にいた男の一人がうめき声を上げて倒れた。その男は少しの間のたうち回っていたが、すぐに動かなくなった。

 得体の知れないものに感じることは、皆、一様に、恐怖。

 一度その泥濘に嵌ると抜け出すことは困難。広がっていく感覚を払拭するために、取る行動はおよそ二択。排除か、逃亡か。

 男達が選んだのは前者だった。

 人数分の銃口が、一斉に火を噴いた。

 後ろで呼ぶような声がしたなぁとぼんやりと思いながらシキは歩く。向かってくる銃弾は標的に当たる前に崩れ、辺りの塵と共に風に吹かれる。全ては、劣化したこの街と同化する。

 何故自分の持ち物は大丈夫なのだろうと要らないことを考えていた。必要と感じているから大丈夫という説明は通らない。それならば、少なくとも過去に彼らが消えることはなかった筈だ。結果として、哀しみに溺れることもなかった。

 自分勝手なだけなんだ。物体は意図しなければ壊れないが、生き物は違う。結局自分の所有物以外、全て破壊していく。それがどんなに大切な人であろうと容赦ない。

 理不尽な現実に怒りを燃焼させると同時に、目の前にいる男達の様子が一変した。正常に立っていられる者は誰一人としていなくなり、血を吐いて倒れる者もいれば、自分の頭を撃ち抜く者もいる。

 奇声を上げて走り去ろうとした男の頭を、シキは正確に撃ち抜いた。

「この場、この状況に曝された者は、誰一人として生きては帰さない。俺の苦しみを浴びて果ててしまえ」

 シュウの耳にも届かない微かな声で、餞にもならない言葉を無様に死ぬ行く者へ吐いた。

 これは苦しみ。その苦しみの断片を抱きかかえさせ、果てさせる。どんなに千切って投げても消えない苦しみ。分け与えられてしまった者が果てようとも、持ち主からは決して果てることのない苦しみ。やがては、己さえ蝕む熱病。それがこの力。

 最後の一人がもんどり打って倒れ白目を剥いた時点で、シキは立ち止まり辺りを見回した。綺麗な姿の死体など一つもなかった。そもそも死自体が綺麗なものではない。血やら何やらの体液にまみれて狂怪な死に顔をしている。

 死神のような台詞でも吐かなければ受け入れられない状況を、また作り出してしまった。

 この力の所為で殺し、この力のおかげで生きながらえている。

 呪う癖に、頼っている。

「畜生……」

 シキは手にしていた布を被った。



 シュウは呆然として見守っている事しかできなかった。

 撃ち出された無数の銃弾は一つとして届くことはなく、男達は今や一人として生きていない。

 一連の出来事の間中、シキの周りに揺らぐ空気を見た気がした。憎悪や殺気などといった抽象的なものではなく、実体のある空気。

 その空気は、シキが布を被った瞬間、拡散をやめた。代わりに、比重の重い気化したドライアイスのように足下から抜け出ている。

 不思議な空気を連れて、シキは死体をまたぎ元来た路地へと去っていく。いつまでもその光景に驚愕しているわけにもいかず、大して重くない荷物を二人分抱えてシキの後を追った。少し前をゆくシキは力の無い歩き方をしてる。膝から下にまともに力が入っている様子がない。猫背で歩いているのはいつものことだが、憔悴しきっているようにさえ見える。

「シキ。今一体何やったんだよ」

 シュウの問いに答える気配はない。横に並んで顔を覗こうとしても、あからさまに覗かない限り布に遮られて伺うことが出来ない。少し荒い息づかいが聞こえてくるだけだった。

「シキ? おまえ、様子が変……」

 突然、何の前触れもなくシキは前のめりに倒れた。腕が出たかどうか確かめることは出来なかったが、そうでなかったらまともに横顔を打ち付けていることになる。

 シュウは慌てて荷物を放るとシキを仰向けにして上半身を少し起こした。目を閉じ眉間に皺を寄せ、苦悶の表情で喘いでいた。額にはうっすらと汗が滲み、顔は青白くなっている。

 シキから熱気がする。身体全体から発熱しているように、その熱がシキと触れている部分だけでなく、顔にまで届く。シキの手を取ったものの、シュウは思わずその手を離した。

「おまえ、酷い熱……!」

 ただの熱にしては彼から感じる温度が異常に思える。体内だけでなく、外にまでこんなにも熱を放っている。シキの周りだけが真夏になってしまったかのようだ。

「布でくるんで、放って置いて。すぐに、から」

 自ら放つ苦熱と、その周りに停滞する苦熱。その両方に喘ぐシキの掠れた声がした。

「すぐにって、何なんだよこの熱」

 呼吸するだけで精一杯の様子で、言葉が続いてこない。一応言われた通り布でくるんでやったが、このままこの場所に居るのは気が引けた。すぐ後ろには十体以上の血まみれの死体がごろごろしているのだ。その死臭だけでシキの熱が上がりそうに思える。

「とにかく、ここから動くぞ」

「それなら一人で行けよ。……歩けそうにない」

 そう言われて、はいそうですかと置いていくシュウではない。バッグを二つシキの身体の上に乗せると、シキを抱きかかえた。突然体が地面から離れシキは慌てたように腕を泳がせたが、暴れる程の元気さえ彼にはない。

「横になって休めるトコまで運んでやるから、ジッとしてろよ」

「やめろよ」

「安心しろって。厚意は受け取れよ」

 有無を言わせる気はなかった。



 シキは抵抗を諦めた。

 反論する言葉も出てこないのに、身体を動かす余力はある筈もない。

 油汗まで出てきそうな自ら放つ熱に意識まで奪われないようにすることが、今出来る唯一の抵抗であった。

 シュウが小走りに走るのに合わせて振動が伝わってくる。大嫌いな熱に自らを焼くような思いをしていなかったら、寝てしまっていたかもしれない。身体に触れているのは嫌悪すべき温もりであるのに。

 ――嫌だ。離れたい。

 緩やかに訪れた反射行動が、熱を避けようと身体を動かした。しかしここは腕の中。離れられるわけもなかった。

 未だに激しい息切れと湧き上がる苦熱はおさまる気配がない。身長が二十センチ近く違うとはいえ、男一人を抱えて走るのは容易いことではないのに、それでもシュウは駆ける。一度、バランスを崩した腕から落ちそうになったが、シュウは持ち直して尚も走った。

 すぐに収まると言ったのに、何を心配しているのか。

 制止の言葉も出てこない。

 ――コイツは消えていかない熱。どんなに側に居ても、薄れていきもしない炎。だからこそ……。

 熱で茹だりそうな脳は悩んでいたことの答えを固めようとしていた。意識と思考は溶けていくのに、何故かこの一つだけは凝固しようとしている。この熱が固めている。身体の異常がなければ穏やかに感じたはずの、熱病の温度よりも低い人間の体温が。

 暫くして伝わってくる振動がいったん止んだ。次に振動は一歩一歩確かなものとして伝わってくる。階段を上っているようだ。

「悪いけど、少しだけ肩に掴まって立っててくれるか」

 やはりこの体勢ではドアノブは回せないらしい。数歩くらい肩に掴まってなら歩ける。シュウが歩くのに合わせてシキも少しずつ足を運ぶ。身体が鉛のように重たく感じ、歩いているというより身体を引きずっている感覚に近かった。一体何処に足を踏み入れているのか全く分からなかったが、酒の臭いが鼻腔を刺激し、そこが何処かを知る。

「まだ開いてないよ」

 初老といった感じの男の声がした。シキはシュウの肩に腕を回し立っているというよりもぶら下がっている格好になっていた。シュウの左腕が身体に回されているのでどうにか崩れないで居られる。顔を上げる余力のないシキに、声の主の顔を見ることは出来なかった。

「そりゃ都合がいい。個室はあるか」

 銃でも向けたのだろう。シキの耳に、ヒッという息を止めたような音が聞こえた。

「そ、その奥に」

「じゃあ借りるぜ、そこ。それと、冷えたタオルとコップに水をもらえるかな?」

「すすすすぐにももも持っていくよ」

「頼むよ」

 思い切り嘘臭い親切心を表した声でシュウはマスターと思しき男に礼を言うと、シキを抱え更に奥へと向かった。



 マスターが指差した個室へ向かおうと、再び抱えたとき、シキは意識を失っていた。まだ僅かに苦しそうな息づかいをして、熱を発している。片腕は首に回されたままで密着度はかなり高い。

 ――こういうのもなかなかいいかもな。

 そんなことをシュウが思っていたことを、もちろんシキは知らない。

 個室に着くとシュウは自分の太腿を枕にしてシキを寝かせた。男相手に膝枕は初めてだ。直後、マスターが冷えたタオルとコップに入れた水を、震える手で持ってきた。

「サンキュー」

 言いながら尻のポケットに手をやったシュウを見て、マスターは顔色を一層悪くして後ずさる。

「撃ったりしねぇよ。ほい。時間外労働代。後さ、誰か俺たちのこと尋ねてきても知らねぇって言って欲しいんだけど」

 シュウは札を数枚、マスターに差し出した。出てきたのが銃ではなく札だったことに安堵したのか、マスターの血色が急に良くなる。現金な奴だ。

「口は堅いから安心しな。またなんか要るようだったら声かけてくれよ」

 そして急に気前が良くなる。金を出す客だと思ってくれたらしいが、出ていく時に強盗していくという手もあるな、と意地悪くシュウは思った。

「やれやれ」

 シュウは早速タオルをシキの額と目に当たるように乗せてやった。

「ん……」

 突然の冷たさにシキは身を捩ったが、それで目が覚めることはなかった。だんだんと熱と息づかいが同時に落ち着いていくのが分かる。本人の言った通り一過性のもののようだ。

 水の入ったコップを手に取った後ではたと気が付いた。飲ませようと思っていた当の本人は人の足を枕に寝てしまっている。シュウ自身が飲んでもいいが……。

「どうする? やっちゃう?」

 わざとらしく声に出して自問してみる。下を見ると鼻の先と口だけを覗かせたシキの顔がある。唇がやけに誇張されて見えるのはこの妄想の所為だろうか。シチュエーションとしては最高。やってしまってもよかった、が。

「やってみろ。殺してやる」

 殺気の籠もった声がして野望は潰えた。

「なんだよ。寝てたんじゃないのか」

「ちょっと落ちてただけだよ。……あの状態で寝ると、収拾つかなくなるから」

「何の収拾がつかないんだよ」

 シキは額に乗っているタオルを取ると、重そうに身体を起こした。シュウから拳三つ分程離れた場所に座り、テーブルの上にタオルを軽く投げ、肩を落として俯き、溜息をつく。

 そして、シュウが手にしていたコップを指先で催促する。コップを受け取ると中の水を一気に飲み干した。かなり冷えていたようで、痛そうに額を押さえた。頭に響いた冷たさも落ち着いた頃、コップをテーブルの上に置くと、顔を少し上げた。赤みは大分退いている。身体をくるんでいた布を肩にかけ直し、身震いをして、もう一度溜息をついた。

 その様子を、シュウは横目で見ていた。

 何と助け甲斐のない男だ。あれから礼の一つもない。目が覚めたと思ったら一言目が物騒極まりない。状況の説明もろくにしてくれない。

 こうなったら酔わせて吐かせるか。

 仏頂面を眺めながら策を練った。



 シキはまだ迷っていた。口にしないで語らずに居ることも出来る。一方で、この憎らしいが突き放せない男に、抱え込んでいるこの穢れを吐露してしまいたいという気持ちもあった。

 どのみちあの答えは決まったのだ。話そうと話すまいと構うことはない。構わないのだからスッキリしてしまう方がいいと、指令が下った。

「さっき、あの男達を殺した力……。俺は〝瘴気〟と呼んでる」

「ショウキ? ああ。確かにマトモそうだけど、でも、時々おっかないぜ?」

「正気じゃねぇ、瘴気だよ」

 アクセントの付け方でかなり意味が違ってしまう。真面目に話しているのに、相手がシュウになるとどうしても雰囲気からぶち壊される。重苦しい話題が苦手なのか、わざとそうしているのか、それとも全くの無意識なのか。真面目な話に限って茶化されているか莫迦にされているように思えてならない。

 ムッとするシキを他所に、シュウは疑問を投げ続ける。

「あの熱病起こす悪気の瘴気?」

「山や川のアレとはちょっと違う。俺が勝手にそう呼んでるだけ」

「で、おまえの瘴気は具体的にどーなのよ」

「目の当たりにしてまだ訊くのかよ」

「頭悪くてさ、俺」

「莫迦は疲れるな」

 シキは何か飲もうとコップを手に取ったが、先ほど彼が一気飲みしたので中身など残っていない。

「酒と水を寄越せ」

 少しして、想像していたよりも年を食った痩身の男が、重たそうに瓶を抱えてやってきた。気を利かせたのか、シュウの分のコップまで手にある。

 コップを手にしてほくほくしているシュウを他所に、シキは酒を受け取ると手酌で飲み始め、シュウには注がない。

「シキ、俺にも」

「あ? 傷に悪いから飲むな」

「傷に悪いって、治ってからどれだけ経ってると思ってるんだよ」

「……そうだよな。あんたの傷、少し治るの早すぎだよな」

 ぼやきながら、気のない手つきでシュウの分の酒を注ぐ。

 不思議、なんて可愛い言葉では済まされない事態と知りながら、殊更大げさに驚く気もしなかった。この一帯の常識は、一般とはズレている。そう考えるだけで、疑問は残しつつも突き詰める気がしなくなる。放っておいても害がないから尚更だ。

 ウイスキーをコップに半分ストレートで一気に飲み干すとすぐにもう一杯注ぎ、今度は飲まずに眺めていた。

 琥珀色を見つめ、過去にいた数人を思い出す。

「ルイレンもあの男も、俺の力を〝痛み〟と言った。俺の腕の中で死んでいった女も、俺を〝痛い〟と言っていた。この力が何なのか、どうして俺が持ってるのか、いつから抱え込んでるのか、俺でさえはっきりしたことは何一つ知らない」

 久しぶりに飲んだ酒が回り始め、身体が火照ってくる。だがこの熱は瘴気の熱とは違う。だから心地良い。

「普通にしてても周りにどんどん広がっていくんだ。俺の瘴気は、生きているものの神経を劣化させる。つまり――」

「――狂わせる、のか?」

「まあな。良く利くヤツは狂い出す前に身体の方が劣化して死んじまうけど」

「生きている組織を劣化させちまうってわけか」

「いつもその位頭の回転良くしておけよ。とにかく、この瘴気は狂わせる。人の神経だけじゃなく、そいつらの未来、俺の生き様まで」

 眺めていたコップの中身を一気にあおった。喉が焼けるような痛みが胃に染みていく。

「それなのに俺は狂わなかった」

「……そう。俺が触れても何でもない、数少ない人間のうちの一人、ってこと」

「そうか」

 シュウも水で割らずにウイスキーを呷った。二人とも久しぶりの酒であったが、身体は火照っても酔う気配がない。

「じゃあ、さっきおまえが熱出したのは一体なんだ?」

「あれは……」

 シキはもう一杯呷る。

「意図的に力を出すと普通の物質も劣化するんだ。だから弾飛んできても大丈夫だったんだけど……。けど、あんまり長い間そうやって力使ってると……なんて言うか、……沸騰させすぎみたいな状態っていうのかな」

「やかんが熱くなりすぎてるような?」

「……わかんないけど、そんな感じ。とにかく、使いすぎると俺もその瘴気に当たって熱は籠もるわ異常発熱するわでああなるわけ」

「己の身も滅ぼす諸刃の刃……か」

「そんな大層なモンじゃねぇよ。……俺は人を殺すのは何でもない。けど、この自分でも訳の分からない力で人が死んでいくのは……どうしても嫌なんだ。傷付けることしか出来ない力でも、傷付けたくはないんだ。……これって、勝手だろ?」

「いや。いいんじゃねぇの? 使い方次第で護ることだって出来るし」

「護りたくても、その護りたいヤツも一緒に死んだら意味無いだろ。ばぁか」

 自嘲して酒を呷るシキとの間を、シュウはゼロまで詰めてきた。次の酒を注ごうとするシキの手から酒瓶を奪い取り、代わりに水を注ぐ。

 持ち物を奪われた手は突然のことに宙で静止した。軽くなった手。その手でコップを掴むと、シキは何も言わずに注がれた水を飲んだ。

「俺の近くに居るヤツは……みんな狂っていくんだ。みんな……消えていくんだ」

 吐け。吐き出せばいい。

 吐露して、今この瞬間だけでも楽になれるのなら。

 シキはシュウの肩に頭を乗せた。

「あんたの肩、丁度いい」

 近くに居られる。触れていられる。頭の回転は少し悪いが聞き上手なこの男が、いつの間にか気を許せる相手になっている。

 偽物の空を宿す男。その中に求めていたものはないけれど、別のものがそこにある。

「……虚は、虚を埋める」

 どういう流れで記憶のシナプスは繋がったのか。一つのフレーズが口をついて出てきた。

「何か言った?」

「害でしかないマイナス同士でも掛けるとプラスになる、ってこと」

 ――だからシュウの傷も……。そういえば、あいつもそうだったっけ……。

 すっかり忘れていた昔のこと。シュウが耐性がある者とは知らなかったために、暫くの間不思議でならなかったが、前例はある。人を傷付けるだけの力が、相手次第では傷を癒す。その相手はごく限られた少数の、しかも闇にしか生きられないような者ばかり。

 シュウは知る由もないが、シキがシュウを担ぎ込んできた日、半日に渡ってシキは熱を出して横になる羽目になっていた。もちろん雨に濡れた所為ではない。

「俺たち、一緒にいるとうまくいくかもな」

 嬉しそうな声でシュウは言う。

「そうかな?」

 乗り気ではない声でシキは返す。

 ――俺は誰とも居てはいけない気がする。

 口にすればシュウにうるさく言われると思い、言葉にすることはなかった。

 酒臭い息で寄り添いながら全く別の方向を見ている。シュウは左手でシキは右手で、互いに空いた手で酒を飲み干していく。

 後はくだらない話をしながら、自分たちの考えを構築していた。酒気を帯びて熱くなっている肩が触れあい、そこから互いの思考を読まれるのではないかという事を考えながら、明日への時間をゆっくりと歩いていく。

 酒瓶が空になるのと同時に二人の他愛ない会話も途切れた。

 先に潰れ、テーブルに伏しているシュウを見て苦笑した。鼾こそかいていないがその寝息からかなり深くに落ちているのが分かる。

「あんたは優しいな。……辛いじゃねぇかよ」

 部屋にかかっている時計を見ると午後六時過ぎだった。久しぶりに時計を見たが、いつ見ても無慈悲だ。そう思い、嗤笑。

 空いたコップに水を注ぎ、ほんのり酒臭くなったそれを一気に飲む。

「俺がこんなじゃなかったら、逃げる事なんて無いんだろうけど」

 布をかけ直し、もう一杯水を注ぐ。今度は酒の味も臭いもしないただの水を、何故か苦いと思いながらシキは飲み干した。


   *


 額を服の皺の痕だらけにしたシュウが顔を上げた時、陽は大分高く昇っていた。頭痛が酷い。勢いに任せて飲んだことを今更ながらに後悔した。

「シキ~。水~」

 シュウは右手でコップを探した。まだ頭が起きていない。目は開いていても、周りの状況を判断できる状態にはなかった。

 探し物は思ったよりも左側にあった。昨日左手でコップを持っていたことをすっかり忘れていた。

「シキ~。水~!」

 いつまで経っても返事が来ないのでシュウはシキが居るはずの方を見た。だが、そこにシキの姿はない。

 ――あれ? 便所か?

 その推測はすぐに否定された。布がないのはともかく、荷物も何処にもない。シュウの荷物は彼の脇に置いてあったが、シキの分は何処を見てもない。

「あいつ!」

 酔いが抜けきらずまだしっかりと動かない足でシュウは部屋を飛び出した。

「おい、オヤジ! シキ、……ちっこい俺の連れ、知らないか?」

「ああ、彼なら昨日の夜中出ていったよ」

「何で知らせない!」

「彼に言うなと言われたし、あんたはあんたで潰れてただろうに」

「なんだよ、それ!」

 シュウは近くにあった椅子を蹴り飛ばし、八つ当たりをした。何も考えずに蹴ったので足にとてつもない衝撃が来た。痛みに悶える行動と地団駄を踏む行動が重なって奇妙な足踏みになる。

「そういえば、あんたに伝言があったよ」

「なに?」

「『欲しい物探しは余所でやれ』だったかな」

「なんだよ、それ」

 先ほどと同じ言葉をトーンダウンさせてシュウは呟いた。

 暴れる気力も失せてシュウはジッと出入り口の扉を睨んだ。

「おまえなら、きっとくれると信じてたのに」

 真っ暗だ。

 完全に行き先を見失ってしまった。元から宛のない生き方をしていて漸く見つけた道標を、またここで失ったのだ。すぐに追いかけるという手もあったが、落胆の激しさがそれを許さない。二日酔いも手伝って、僅かの気力も湧いてこなかった。

 個室に戻り扉を閉めると、何となく腹の傷の上に手を当てた。今になって傷が熱を持っているように感じる。貫通した銃創はろくな手当もしなかったにもかかわらず、ほんの一週間程で完治した。異常なまでの早さ。この早さは本当に自分だけの力によるものか、信じられない部分が多すぎる。


「……虚は、虚を埋める」

「何か言った?」

「害でしかないマイナス同士でも掛けるとプラスになる、ってこと」


 シキの言った言葉が脳裏に蘇る。

 〝瘴気〟というシキの虚。そしてシュウの持つ虚。その互いの虚が相まってこの傷を治したというのか。

 結局シキにシュウ自身のことは話さず終いだった。だからシキがシュウの虚について知っているとは思えない。だが、同じ負の力を持つ者同士何となく感じる部分がなかったとも言えない。

 同じ虚を持つ人間と知ったシキは、共に居ることよりも別離することを選んだ。シュウは逆を望んでいたにもかかわらず。

 いたたまれなくなったシュウは何かに当たり散らしたかったが、どうにも当たる場所が見あたらない。何処を蹴っても足が痛くなりそうで、こんな時に理性が働いて痛みを避けようとする自分を恨んだ。

 仕方なくマスターから酒をボトルごとかっさらうと、その日一日どうしようもなく潰れていた。

 重い腰を上げたのは、それから二日後。

 土砂降りの朝、シュウは街を出た。

 再び宛もなく、足の向くままに。

 狂いそうな自分は何処へ行くのかと不安さえ覚えながら、シュウは闇の底を求めて歩き出した。

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