第11話
11.
もう少しで美味い物に食いつけるという所でシュウは夢から叩き出された。最近、食生活が余りにも貧しい所為でついこんな夢を見てしまう。魘されるような夢より格段にマシだったが、こういった夢もどうかと思う。
無意識のうちに口に溜まっていた唾液をごくりと飲み込むと、もそもそと起きあがった。
太陽は当然のように高く昇っている。風を感じて目を遣ると、窓が開いている。今日は砂嵐も落ち着いているようで砂っぽい空気は入ってこない。
シキが背を向けて床に座り込んでいた。今日の服は珍しくシャツではなく黒のタンクトップだった。それを見て、そう言えば今日は暑い、などと考える。手の動きと音からして、マガジンに弾丸を詰め込んでいるのだろう。元から持っていたものと、先日ごろつきから押収したものの他に数丁の銃がある。弾丸を込め終わると、分解した銃の掃除を始めた。慣れたものだ。
「ん――?」
シュウはシキの右肩口に不思議なものを見つけた。細長い曲線がいくつも重なりあっているものが、その肩口から顔を出している。
「ん~?」
シュウはベッドに座ったまま身を乗り出して、タンクトップの襟周りを引いてシキの背を覗き込んだ。
「んあ゛っ!」
シキは喉を潰されたような声を上げて銃を取り落とした。服と首との間に指を滑り込ませ僅かに隙間を作るが、それでも後ろから引かれる力には敵わない。
「じま゛る゛~~」
「あ? ああ。悪い悪い」
悪気など全くないが、一応謝罪はしておく。
酸素を得たシキは、ゼエゼエ言いながら眉を釣り上げて振り向いた。
「シュウ! なにす――」
「おまえさ、背中にも傷付けたわけ?」
「――っ。……はあ?」
怒号を上げる構えであったのが、疑問詞に変わっていた。表情も拍子抜けしている。
「も、ってなんだよ。も、って」
「だっておまえって見るからに傷だらけだし、両手の手袋も、その左手の包帯も、何かの傷の痕なんだろ?」
反射的にシキは手を隠した。同時に顔も正面を向かせ、シュウの視界から消した。しらっと無視すればいいのに過敏になってしまう辺り、かなり無防備になっていると見える。
ばつが悪そうにシキは口をへの字に曲げている。
「そしてこの
「……うっせぇな。見んなよ」
「いいじゃない。減るモンじゃないんだし、見られたからってどうってワケじゃないだろ」
「……じゃあ、好きなだけ見ろよ」
そう言うとシキはタンクトップを脱ぎ、壁に投げつけた。そのまま、銃の整備に戻る。
彼の背にあったのは翼のタトゥーであった。しかも右側だけにそれはある。一枚一枚の羽が丁寧に重ねてあり、やや小ぶりかとは思うがなかなかの出来栄えであった。このくらいの翼ならば、もっと大きく上腕を覆う程に描いても悪くはなさそうなのに、どこか中途半端に見える。
「腰細いねぇ。襲いたくなっちゃう」
「俺の裸見たかっただけかよ。……変態」
「いやいや。この羽も凄いね。でも、何で片っぽだけなの?」
「お預け喰らってるんだ」
「じゃあ、いつか両方そろうんだ」
「……俺があいつに会えれば……な」
「誰?」
「言ったってわかんないだろ。……ま、いいか。昔、会ったんだよ。あんたみたいのと」
「俺みたいなヤツ? そんなにイケてるわけ?」
「……。俺と居ても大丈夫なヤツ」
ふざけてみたが流された。
あっという間にバラバラだった部品は一つの銃に組み上げられる。
シキは自分の銃だけを腰に差し、後は床に放ったままで立ち上がった。残された銃は五丁。一つは口径の大きいマグナムであったが、後はシキが好んで使うハンドガンタイプのものであった。
シキはそのまま窓へ向かう。空を見やりながら、右肩に手をやった。指先で背の羽に触れるようになぞっていく。
「これは、俺の望みの傷なんだ」
「望みの、傷?」
何処を見てるのだと思う程、シキの視線の先は遠かった。羽を切られた鳥が空を焦がれるような眼差しにも似ている。
「あいつは俺に『傷を負って生きろ』と言った。俺はこうして傷を負って、そしてこんなにも望んでるのに、……まだ叶わない。どんだけ俺の言ってたことが甘ちょろい戯れ言か、コイツに思い知らされたんだよ」
「なかなか言うヤツだな」
「けど、俺の望みは叶うまで消えない。叶わないのなら、この傷がもう二度と消えないように、俺の望みも消えることはない」
シキは肩に爪を立てた。
鳥籠の扉は開いている。足は鎖に繋がれていることもない。けれど、翼の不完全な鳥が空を望むことは出来ない。
胸を焼かれるような焦がれの痛みを感じる以外に出来ることはない。
それが、今のシキなのか。
今にも浮き上がり躍動しそうな翼が、爪に引きつられて歪んだ。
爪が余りにも皮膚に深く食い込むのを見て、シュウはシキの側まで行くと肩にある手に触れた。それでも力を抜く気配のない手を、ゆっくりを引き剥がし、握った。力を抜いてやろうと、シュウは指の部分を軽く握ってやった。手袋の下に包帯まで巻いているから、肌を触れるのは指しかなかった。そこから触れられる肌は、少し火照っているようにも思える。
――コイツの望みは、この向こうにあるのかな。だからいつも、羨むように、憎むように空を……。
シキの視線の先を追うが、見えるのはやはり無意味な程に青いだけの空だけであった。その先に誰にも見えないものを見、彼だけが追うもの探しているのだろう。絶望に駆られ肌に爪を食い込ませても尚、掴めない猛る願いを抱き続けている。全てを拒絶するような強い眼差しは、哀しみの色に塗られてもまだ力を持っていた。
シュウはシキの望みが何なのか、想像することすら出来なかった。余りにも遠い視線に、ありきたりの考えは通用しないことを思わされた。肩から離れても指先から力を抜かず手に爪を食い込ませてくるシキの手を、彼はただ握ってやることしか出来なかった。
その痛みと熱を感じ、シュウはこの前見た夢のことを思い出した。何かを叫んでいたシキを、躊躇い無く撃ち殺してしまったあの夢を。
「あのな。おまえにクスリのことバレる前に、おまえを殺す夢を見たんだ」
語る必要性については是とも非とも付かなかったが、この音の無い空間や無駄に流れていく時間を潰す材料にはなる。
「……何で殺した? 滅多刺しにでもしてくれたか?」
シキ手の手の力が緩むと、上を向いていた顔がシュウの所まで降りてくるのと同時だった。シュウの手はシキの爪が当たっていた部分が赤く腫れていた。傷にはなっていないし、腫れも大したことはなかったが、シキの熱が移ったように熱くなっている。
「銃で、撃ち抜いた」
「ふうん。で? どうだった?
皮肉るような声でシキは問う。
「おまえを撃った俺はイカレてたけど、そんなイカレた頭でも、何かが痛んで、……泣いてたんだ」
今でも思い出すだけで胸が痛む。
聞こえなかったあの一言が何であったのか、正直まだ気になっていた。
――くっつけば解るかな……?
シキに凭れると、頭の上に頭を載せる格好になった。相方は背が低い。肩に頭を乗せられるほど釣り合った関係ではないことを、今思い出した。
湿気った気配を連れているシュウが水っぽい単語を口にするとは縁起が良くない。
斜めから覗き込んだ表情は、崩れそうに歪んでいる。荒天。冗談であしらうには話題が重いようだ。
「泣く程嬉しかった、ってわけじゃなさそうだな」
シキは乗ってきている頭を小さく小突いた。変に落ち込んでいる感のあるシュウにこれ以上へこまれても困る。
「あの時おまえは、一体何を叫んでたんだ?」
耳元で小さな疑問詞が聞こえる。重みも、吐息も感じる。中身は違えども、同じ〝夢〟というものに苦しんでいる者を感じる。
薬ではどうにか抑えられるが、自身では抑えられないシュウの負っているもの。それと夢と何か関係があるのかシキの知る所ではなかったが、苦しみの意味合いは似ているような気がした。この逃れられない呪縛と同じものに捕らえられている者を、シキはまだ自分以外に知らない。
話の趣旨を思い出し、シュウに殺されるのはどうも癪だ、などと思い始めた。いざとなれば銃などこの力の前では役に立たない。たとえ夢の中の話であっても、それほど簡単に殺されては面白くない。シュウがこの力のことを知れば、きっと夢の中身も変わるに違いないと、いつもなら気が滅入り始めそうなことを今はうっすらと笑いながら考えることが出来た。既に自分のことが話題になっていたのを忘れ、シュウの夢が話のメインになっていた。
「きっとこうだな。『殺れるもんなら殺ってみろ。俺はあんたに殺られる程ちゃちじゃねぇ』って」
「そうだといいな」
「そんなに俺を殺したいのかよ」
「すぐ話をそういう方に持っていくんだな」
「ただの夢なら気にすることも何も無いだろ? 毎度見るわけでもないんだろうし」
自分のことを棚に上げ、気にするなと言うのもおかしな気がした。解決法のない所に、何を言っても無駄なのだ。そこに置いてやれるのは気休めしかない。これもほんのささやかな気休め。
「ただ、夢に取り憑かれそうになったら言えよ。俺が喰ってやる」
「
「その代わり、礼が欲しいな」
「ふっかけるなよ?」
シキはシュウの重みから逃れると、シュウの方を向いて窓枠に背を付けた。窓枠は古い木製でありささくれている。迂闊に背を動かすと、ただでさえちくちくするのに服を着ていない今はまともにそれが肌に食い込んでしまう。それに気を付けながら、シュウを見上げた。
背にあるものだけが空ではない。背にしたものと違う空。偽物の空。
それを空を背に、見る。
「あんたは俺の望みを持ってない。だから、俺に答えをくれ。手放すべきか持ち続けるか、それだけでいいんだ」
「何をだよ」
「言ったらシュウはどちらかを突きつけるだろ。答えは欲しい。けど、決めるのは俺でありたいんだ」
「問題の分からない答えをやるのは難しいな」
「あんたがそうやって飄々としてなきゃ、もう答えは出てたかもしれない。しっかり見る方を決めてくれれば、俺はそれでいいんだ」
「思い当たることはいくつか在るけど、恐らく、俺はその答えをおまえにやってると思うけど」
「じゃあ、俺が気付かないだけか」
シキはさりげなく、床に投げ捨ててある赤のジャケットを横目で見た。視線を戻すと、もう一度肩の傷に触れた。投げかけられた答えに気付かない程鈍感ではないつもりで居た。あれからずっとそのことばかり追いかけているのだから。シュウのどっちつかずのフラフラとした態度が、苛つく程に悩ませてくる。
所詮ハ無イ物ネダリ。
愚カナ夢ヲ見ルノハヤメロヨ。
罪ト瘴気ニ侵サレタソノ躯ガ、闇カラ抜ケ出セルトデモ思ッテイルノ?
穢レテイルンダヨ、俺ハ。
籠もった声が裡から聞こえてくる。
振り払えずにずっと抱えたままの己の声だ。
「くっ……」
肉の付いていない肩に思い切り爪を立てる。耐えきれなくなった皮膚は、ついに悲鳴を上げて血を滲ませた。
昔から自問するたびに諫めてきた自分の声が、頭の中で嘲笑うように責めてくる。これが他の誰でもないシキ自身であったからこそ尚更その声が耐え難かった。何かを選択することがこんなにも大変な作業とは思っても見なかった。選択の余地のない生活の中に、こんな思考は要らなかった。日頃使わない部分の頭を使って、そろそろ煙が出そうな勢いだ。
更に手に力がこもるのを見て、シュウは眉根を詰めた。
思考だけでは飽きたらず、肉体にまで自虐を加えるのか。望みの傷というそれを、抉るのは、何故だ。
「シキ。それ以上傷付けたら、本当に飛べなくなるぞ」
爪がどの程度食い込んでいるかは解らない。しかし、手の筋が浮くほどの感情が指先にこもっているのは見れば解る。
自傷をやめようとしない手を、シュウは掴んで取り引き剥がした。手首を掴んだまま引き寄せると、うっすらと血が付いているシキの人差し指の先を舌と唇で軽く舐めた。誰のものでも変わらない鉄臭い味が淡く感じられた。
この指は、欲しい物をくれるかもしれない指。愛おしくさえ感じるその指を口元にまで運んだのは少し大げさだったかもしれない。けれど、喉から手が出る程欲しくて仕方ない望みを得たいという欲望を満たしてくれるかもしれないこの指を、彼を、こうしてでも繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。
全ては期待でしかない。自分の感情すらも「かもしれない」でしか表せない。何もかもこの世界と同じで不確かでしかない。その中でやっと見出した一縷の望みにどうしても賭けてみたかった。
指を口に含まれ、それなのに頭は冷静だった。否。別のことを考えていた。
本来ならば嫌悪を丸出しにして振り払うべき行為なのかも知れない。それをシキは、不思議な心地で感じ、眺めていた。
近くに居ても、触れても、こうして血を差し出しても狂いだしてしまわないという、歪んだ安心。望むのならずっとこのままでいいと思うほどに、奇妙な安らぎだった。
「……美味いんなら、今度は俺の喉にでも喰い付けよ。飽き足りるまでもてなしてやるから」
指先に当たる感覚が嫌だったわけではない。皮肉のつもりでも、嫌味のつもりでもない。頭の中が乱雑になりすぎている所に不意に訪れた感覚に、脳みそを通さないで言葉が出た。
――甘えそうな自分をどうにか律して強がっていたつもりなのに。これじゃあ、執心してるのは俺の方じゃなくて……。
シュウは血を与えて飼っているペットではない。それなのにこの図はどう見てもそんな関係になっている。シュウの行動の意図は分からない。今発した言葉と同じで、無意識にしたものなのかもしれない。
「一つだけ、言っておきたい。俺はおまえの望みのものを持ってないみたいだけど、おまえは、俺の望みをくれるかもしれない」
シュウの手が、シキの手を解放した。宙に浮いた手を、互いにゆっくりと自分の場所へと戻す。
――俺が、シュウの望みを……?
瞳の中にある空は冗談も嘘も言っているようには見えなかった。気怠そうな目をして口を軽く一線に結び、物憂げな顔をしたこの表情が本来の表情なのだろう。あの異様なまでに優しい雰囲気が肌寒く感じることがあったのは、それが作り物だったからだろう。シキはそう解釈しながらどう返していいか分からずにいた。
二人の間を意味のない風が過ぎ去る。視線が外せない。特にシキの方がシュウの眼光に縛られていた。
何か分からない、その何かを求めてる目が不憫であり恐ろしくもあった。
――シュウがずっとここに居座りたがる理由がそれか?
今になって何となく合点がいくようになった。突き放そうとしてもそれを許さないあの行動は、シキにある何かを求めていたから。
――けど、それは、一体、……何を。
「「ん?」」
突然、神経がざわつくような思い気配を感じて、二人は同時に窓の下を見た。見るのは向かいの通りの物陰。しかし、目には何も不審なものは映らなかった。先ほど感じ取った気配も既に無くなっている。
数日前何となく感じた気配も、これに似ている。あの時はいろいろと込み入っていてそれにかまける余裕がなかった。今も状況としては同じだが、あの時とは比べ物にならない程気配が強かった。
悪意と呼ぶには生温い。それは、殺気だ。
もしこれが数日前と同じ人物の物であるのなら、その時辺りから何者かに見張られていることになる。しかも気配を消すことの出来る程の人間。今悟ることが出来たのは偶然か向こうのミスか。とにかく歓迎すべきものではないのだけが確かだ。
この窓にはカーテンがないので、窓を閉めることでしか外からの接触を遮れない。せめてもの対抗手段として、その唯一の方法をシキは取った。風の流れは止まるが、少しは落ち着く。しかし、窓を閉めてもガラスを割るほどの勢いで何かを投げ込まれたらそれまでだが。例えば手榴弾とか。
互いにこの気配について詮索しなかったがそれぞれに思い当たることがあった。シュウは傷の痕が疼きを、シキは過去の流入に吐き気を感じていた。
手に負えない雰囲気と思考の螺旋を壊してくれたことには感謝するが、どうでも良く過ごしていた時間が脅かされ始めたのは不快だ。
脱ぎ捨てた服を無視して赤のジャケットを素肌に羽織ると、今日の昼は何にするかというどうでも良い会話を始めることで、足下に潜む正体の分からない不安を押さえ込もうとした。
それに合わせて、蟹缶はないのかという無茶な注文がやってきた。シュウも同じ事を考えているらしい。
その後、努力は報われず、消えてしまった気配の検索に神経が向かい、落ち着くことはなかった。
――そういえばコウのヤツ、今何してるんだろう。相変わらず、俺より小さいのかな。
少ない缶詰群を漁りながら、シキは背の羽が疼くような気がした。その痛みの錯覚は珍しく辛い過去を持っていない。出来るのならもう一度感じたい痛みでもあった。
そう。左の肩に、望みの傷を完成させる為に。
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