第10話

   10.


 赤葉せきよう会。

 それは遙か昔にシキが所属していた組織の名だ。規模は小さく、出来ることもそれに比例していた。リーダーはアランという猜疑心が強く嫉妬深い男。創設者の腰巾着だったのだが、何を血迷ったか拠り所を謀殺し、自らを孤独に追いやった愚か者。シキが彼に手招きされたのは、代替わりの騒動が落ち着き始めた頃だった。

 組員には雑魚から幹部まで赤い葉を象った小さなバッジが配られ、それを付けることを義務づけられていた。先代の頃からの習慣を、アランは踏襲したらしい。幼稚園の名札じゃあるまいし。そう思いながらも逆らう程のことはないと大人しくしていた。

 規模が小さい分、活動出来る範囲も猫の額程。迂闊に他の組のシマに入ってしまった者が顔の原型を無くして帰ってくることもあった。そういう者はすぐにお払い箱。要は殺処分。役立たずはすぐに殺す。役に立たなくなった者も然り。そんな掟があることを知ったのは、この組織にどっぷり頭まで漬かってからだった。

 そもそも、浸かりきるのに時間は掛からなかったのだが。

 知らなかったなりに、それがこの世界だろう、と割り切っていた。冷めきった目には、何も不思議に映らなかったし、何も残酷には見えなかった。自分はそんな目に遭うとも思っていなかったし、誰がそんな目に遭っても構うことはなかった。

 他人に構うほどの余裕も興味も、幼くして失くしてきてしまっていた。

 家族を失い、すぐに闇に転がり込んだ。十代前半で一人きりになった子どもに選べる道はそう多くない。赤葉会に入る前も、生きる為に手を汚してきた。それでも生きたいと思っていたからだ。

 しかし、いつの日か、この生が穢れていると知ってから、明日のことなどどうでも良くなった。探していたものは見つからない。地の底で這いずり回るような生活に相当な嫌気がさしていた。人を殺すのは平気だった。一方で、意図しない意思で人を殺すことには耐え難く、苦しみは増していく。

 たとえもう一度光が見えたとして、一度見た闇を忘れることは出来ない。深く暗いその場所はすぐに手を伸ばし、優しくも残酷に絡め取ってくる。落ちる度に深みにはまる。繰り返すうちに、這い上がろうとは思わなくなっていた。

 一人きりで汚れて、苦しんで。絶え間ない辛酸に狂いそうになっていたとき、何かの拍子で転がり込んだのが赤葉会だった。手招かれた理由は解らない。従順なイヌを造り上げたかっただけかも知れない。動機は何であれ、彼らはシキを拾い、粗雑ながらも面倒は見てくれた。

 妙な忠義に生きる悪党ども。その姿は余りに滑稽で、横目で見ては彼らを嗤っていた。

 命令には逆らわず、頭を下げる。やるべき事はそのくらいだった。生きることもどうでも良くなっていたのに、その組織に縋った。その先には血と死しかないと分かっていたから、多少なりとも救われると勘違いしていたのだろう。

 今思えば大きな勘違いだ。

 血と闇のその中に、一つ、見つけてしまった。本当ならば見付けようもないものを。

 数年間見てきた暗黒の中で、そこにはそぐわない光のような男を一人。

 それが〝彼〟だった。


   *


 人見知り激しすぎて人付き合いも出来ない、こんな所で生きるには不器用な人間。

 それが彼――ハルの自己評価だった。

 あの頃は、今住んでいる街からかなり離れた小さな街に居た。街の状態は大して変わらないが、治安の悪さだけは頭一つ飛び出ていた。そんな所でハルとはある仕事で知り合って、数年間仕事の時だけ行動を共にしていた。仕事と言っても威張れるものではない。所属していた組織セラー買い手バイヤーとの仲買人ブローカーをしていた。組織と言っても赤葉会はそれほど大きなものではない。ハルもシキも一応正規の組員で、地位は知らない間に下の上とされていたが、下っ端には違いない。けれど深入りしない方が必要以上の面倒に巻き込まれなくて済むし、幹部になろうという気はさらさら無かったのでそれ以上は望まなかった。それに、何かあってどうしようもなくなれば、さっさと手を切って逃げるつもりでいた。その考えが甘かったと、後になって解ったのだが、足を踏み入れた時点で手遅れだのは言うまでもない。

 扱っている品は麻薬に覚醒剤に大麻と、クスリと呼ばれるものは全て扱った。時々武器も流していたが余りいい買い手は近くには居なかった。それでも仕事になった。銃の扱いもここで覚えた。

 居心地は決して良くなかった。上下関係はうるさく、なんだかんだとケチを付けられる。他の仲間よりも期待されていたのか、いろいろと目を掛けて貰っている所もあり、まだマシだったかもしれない。とはいえ、多少良くして貰っても、生きることに興味が湧くことはなく、何となく汚れた命を紡いでいるだけだった。けれど死のうとは思わなかった。何に関しても無気力だったのかもしれない。

 ある時、他の組とのいわゆるシマ取り合戦があった。このどうでも良いことに借り出される羽目になる。配置は後方であったが、それがどうにも気に入らなかった。

 誰の許可を取ることもなく、勝手に前線に出た。

 射殺されたらそれまで。それでいいじゃないか。

 無気力なくせにじっとしていたくない。途轍もない矛盾だと思いつつも、身体は静止を望んでいなかった。

 一人、また一人と俺の銃弾の前に倒れていく。狙いは正確。弾は的の真ん中に当たった。血の臭いを良い匂いだと思いながら、一つ一つ命を摘んでいく。快感こそ無かったが、己の意思による作業に多少の優越感があった。

 突然、何の前触れもなく、横にいた男が泡を吹いて倒れた。銃撃を受けたのでもなければ、持病の類でもない。味方ということしか知らない男は、すぐ傍で絶命していた。

 死因は、シキ。

 いつの間にか気が高ぶって、強く溢れ出していたらしい。この毒を使わずに、死ぬ者は全て弾丸の餌食にしてやろうと思っていたのに。

 ――もう、嫌だ。

 銃を下ろした。やる気が失せた。

 どうにでもなれ。そう思ったとき後ろから銃声がした。撃たれたと思ったが、何処にも痛みは来ない。先に痛覚が死んだのかと思ったが、そうでもない。興味はなかったが、気にはなったので振り向いた。

 すると、彼が居た。

「こんなトコ死に場所にするのって、勿体なくない?」

 狡そうなのに人懐こい目が笑っていた。


   *


「ォハヨー」

 顔を合わせると、いつもこの挨拶から始まる。

 続くのは、誘いの言葉。

 初めて顔を合わせてから数日後、突然ハルが一緒に組んで仕事をしようと言い出した。今まで口さえまともに利いたこと無いにも関わらず、いきなりだ。

 始めは断って歩いてた。しかし、いくら断っても顔合わせるたびに「やろうやろう」とうるさく言われて、断ることが面倒になっていった。

 ハルは焦げ茶のくせっ毛で、いつもトレードマークの帽子を被っていた。背はシキより少し高め。狡そうな目にも見えるのに、こちらを見るときだけその丸っこい茶色の目が嬉しそうにしていた。いつもは温厚だが、頭に血が上るとシキがキレた時よりもガラもタチも悪くなる。変わり者で、しつこい男。それがシキからの評価だった。

 あまりのしつこさに、

「何で俺なんだ」

 と尋ねたところ、

「シキは気に入ったから、特別ね」

 そう言って人懐こい笑みを浮かべてきた。

 コイツは何が何でも付いてくる気だ。その笑顔で悟った。結局ハルの根気に負けて仕事は一緒にすることにした。うるさかったから、と言うのもあるが、あの笑顔に負けたというのが本音だ。

 彼の明るい性格そのままの笑顔は、一度見たら忘れられようが無い。暖かさが留まって退かない。それだけでホッとする、そんな感じがした。

 射撃のライバルはいつも互いだった。腕前は互角程度なのに、口を尖らせて悔しがるのはいつもハルの方。そんな彼を見て、気が付けば笑っていた。闇に迷い込んで以来、笑顔など忘れてしまっていたのに。

「シキってさ、いい顔するよね。顔は意図して作るモンじゃなくて、自然となっていくモンじゃない。悲しいときに笑うこと無いけど、嬉しいときはそうやって笑ったら? 仏頂面じゃ、いい顔台無し」

 聞いている方が恥ずかしくなるようなことを、平気で言う男だった。しかしそれは、リップサービスではない。本気で言っているのだと知って、ますます恥ずかしい思いをした。

 かといって、耳障りの良い言葉は不快なものではなかった。こんな生き方をし始めてから誰もくれることの無かった言葉は、困惑の中に融けていく。

 それでも、普通の人がするような付き合いは出来なかった。やたらと近くに居たがるハルに、なるべく近くに居るな、と言った。何度もその理由を尋ねられたが、暫く隠し続けた。

 ハルを突き放したかったわけではない。どちらかと言えば、出来るのなら誰かと居たかった。ハルはいい男だったし、何しろあの笑顔が好きだった。恥ずかしくもなく「好きだ」と言いまくってくるあいつを、自分なりに好いていた。

 だから思い切ってその理由を話した。始めは信じ難そうな顔をしていたが、最後にはいつものように笑って、

「それがシキなら、俺は別に構わないヨー」

 そう言った。

「最近ちょっと調子悪かったのは、その所為だったんだね。シキに殺されないようにしなきゃ。俺が先に死ぬのって、癪だし」

 憎めない笑顔が不安の中に安心をくれた。事実は何も変わらず、この呪いは安心したから無くなるわけでもないのに、それだけで満足だった。

 仕事の時は行動を共にすること。

 余り長い時間は一緒に居ないこと。

 そういったどちらの望みも半々に叶えられるように条件を立て、付き合いは始まった。

 続いたのはたった二、三年。それだけ続いただけでも奇跡に近かった。

 終わりは予想していたことだ。

 しかし、それがただ終わったのなら良かった。仲違いしたとか、どちらかが蒸発したとか、仕事の最中に死別したとか、という終わり方なら良かったのに。

 しかし、カミサマはそんな終わり方は用意してくれていなかった。


   *


 ある時、仕事の待ち合わせの時間になってもハルは来なかった。そのころはまだ部屋に、今にも止まりそうなのに強かに動いている時計が一つ置いていた。それを見て出てきたがハルは居ない。たとえ時計が狂っていたとしても、ハルが一人先に行ったり、さぼったりする筈がない。こちらも仕事をすっぽかすわけにもいかず、その日は一人で仕事をした。

 気になって次の日、まだ日が高いときに事務所に行った。中に入った途端、嫌な視線がした。何故か嘲けてくるような、あるいは哀れむような、様々な眼差しが飛んできた。

 ――何が、……。

 その視線の意味が理解出来なかった。今まで昼間に顔を出したことはあまりなかったが、だからと言ってこんな眼差しを向けてくるものか。

「まあ、来いよ」

 幾度かしか顔を見たことがない赤葉会のボス、アランが肩を叩いて別の場所へと促した。今にも倒壊するのではないかと思う程古めかしい建物は、いかにこの組の金回りが悪いかを示している。中には隠れ蓑になっていい等と言う者が居たが、それが事実だとしてもただの負け惜しみにしか聞こえなかった。せっかくシマの分捕りに成功しても、その後のやり方が悪いから入ってくる金もどこかへ流れていくのだ。

 ヘタクソなヤツら。いつもそう笑いながら自分だけは上手くやっているつもりで居た。

 馴れ馴れしくアランの手は肩に乗ったままだった。何でこの男とこんなに密着してなければならないのかと考えるだけで反吐が出そうだった。しかもやたらとひょろりと背の高い男で、その腕が身体を潰してくるように思えたから尚更だ。黒く豊かな髪を安い整髪料でなでつけているから臭いが酷い。堪えた。

 そして、この腹の中まで腐った男は、始めからいけ好かなかった。しかし、何となく居られる場所をくれたのは彼であり、こうして生きているのもある意味この男のおかげだった。義理などという性に合わないことは頭にない。利用させて貰っている。その程度にしか思っていなかった。

 何処へ向かうのか分からないまま案内されて一つ思ったのは、事務所がこんなに広いとは知らなかった、ということだった。故に、事務所の隅に所に隠し通路があって、そこが地下に繋がっていて、そして、こんな場所があることも知らなかった。

 その場所が、何であるかも。

 そこは地下二階に位置していた。照明はもったいぶったようにしかなく、もちろん太陽の光など入らない。石の階段を降りきり短い通路を右に曲がると、左右に四つずつの牢獄があった。

 シキは思わず顔を顰めた。もの凄く濃い血の臭い。それ以前に、死臭がした。壁のどす黒い染みはただの汚れではないと知って目を背けた。平気で人を傷付け殺す男が、染みついた血の臭いを嗅ぎ、血の色を見て目を背けるなど、さぞおかしい行動だったことだろう。

 しかし、その奥にあるだろう光景を想像していなかったのなら、目を背ける必要も顔を顰めることもなかった。アランはわざわざシキをここに連れてきた。何も無いなら呼ぶ必要はない。そこに何かがあるからこそ、彼はシキをここに導いたのだ。

「ここだよ」

 完全に作られた優しげな声音で、アランはシキを一番奥の牢の前に立たせた。

 足を震わせ、最悪の光景を想像していたシキの目の前にあったのは、倒れたハルの姿だった。俯せに倒れていたが、微かに息をしていた。多少擦り傷のようなものがあるだけで、目立った外傷はない。

「ハルっ!」

 柵を掴み、大声で呼んでもハルは返事をしない。

「困った子でね。うちの商品に手を付けてくれた。使い方を知らなかったようですぐにこのザマだよ」

「莫迦な!」

 シキは叫ぶなりアランのスーツの襟を掴んで引き寄せた。

「あいつが、あいつがブツに手ェ付けるわけねぇだろ! そんな莫迦なこと、あいつが……!」

「っ……」

 ただ襟を掴んだだけだったが、アランは苦痛の表情を浮かべると、シキを突き飛ばした。高い位置から突かれたので堅い床に叩きつけられるように転がった。

「立場をわきまえたまえ。君は私に意見したり、手を挙げられる身分だとでも思っているのかね?」

 気安く触れても、触れられるのは嫌なのか。

「まあ、ハルのことは残念だ。彼はこれからクスリを抜いて貰うよ。君は特別に自由にここに来ることを許可しよう。ただし、ハルを連れ出そうなどと言う考えは持つだけ無駄だからやめておけ。ここの人数で君が太刀打ち出来るとは思えないからね。それに、君のような貴重な駒を失うのは、非常に惜しい」

 誰でも言いそうな代わり映えのしない言葉が聞こえた。しかし、ろくに耳に入らない。信じられないと言う思いばかりで、殆ど素通りしていた。

「シキ。君は本当に貴重だよ。その分からない〝痛み〟が何か、私にも教えてくれないかね?」

「あんたの首をくれたら教えるよ。教えた後にキスまで付けてやってもいい」

「それはそれは。負け惜しみはそれくらいにして、せいぜい彼と居てやることだな」

 嫌味で高らかな笑い声を残し、ヤツは消えていった。

 あの男はハルにしか言っていないことを知っていたのか。それともさっき掴んだときに何となくそれを悟ったのか。どちらにしろ喰えない狐だ。

 シキは壁に背を付けて左手にハルの顔が見えるように檻の側に座った。

 何が一体どうなっているのか理解不能に近かった。他の連中ならともかく、ハルがあんなものに手を出すなど。

 未だ目を覚まさないハルの姿を見ながら、数日前漏らしたハルの言葉を思い出した。

「ちょっとヘマったなぁ……」

 何故その時に気にしなかったのだろう。空耳かと思う程小さな言葉だったが、聞こえなかったわけではなかったのに。どんなヘマをやらかしたのか訊くことさえなかったが、もしそのことをアランが根に持っていたとしたら。そうでなくても、僅かでも気に入らないと思ったのなら何をするか分からないのがあの男だ。自分はともかく、ハルはアランにどう思われていたのか知らない。クスリに興味のかけらも示していなかったハルが突然、麻薬中毒になっているという事実。その前にハルがしたというミスが繋がっているとしたら。

「あの野郎!」

 叫んだ声は冷たい響きを持って反響した。薄暗いこの地下で感じられる熱はない。怒りを込めた叫びさえも、跳ね返るときには冷め切っている。

「シ、キ……」

 ハルの掠れた声がして、柵に飛びついた。俯せになっていた所為で気付かなかった殴られた痣が、ハルの顔を醜くしている。切れた唇から流れた血が固まって彼の顔を汚していた。きっと身体中に傷やら痣やらがあるに違いない。

 顔を上げたハルは、信じられないことをした。シキを見るなり、笑ったのだ。ごく自然に。嬉しそうに。

 蹴られ、殴られ、挙げ句にクスリに漬けられた身体なのに、彼はそんなことを全く意に介していないような顔で、笑った。

「こんなのひでぇよ。ハル……。何あったんだよ」

「ごめんヨ……シキ。俺……莫迦やった」

「ハルはヤクに手ェ出すようなヤツじゃない! あいつらに、アランにやられたんだろ!」

「俺が……莫迦だっただけだヨー……」

 ハルの笑顔の火が消えかけまでに小さくなった。それでも今だけは笑っていたいのか、辛そうな中でも口元だけは変わらなかった。

「ねぇ、シキ。俺……怖いんだ。身体ゾクゾクするし、冷や汗出てくるし、あちこち痛んでくるんだ。だんだん俺じゃなくなっていくんじゃないかと思うと……怖くて」

「ここに、少しでいい……居たいんだけど……」

「……居て欲しい。居て欲しいけど、……」

 その先を互いに言えないのは、そうすることの結果を知っているから。共に居ることで、共に傷付くと知っているから。

「やめといた方がいいよな。俺の力も、ハルを苦しめるだけだもんな……」

「違う。そんなのは最初から怖くない。けど、おかしくなってく俺を……壊れていく俺を、シキに見られたくないから……。シキ……。好きだよ。だから、ここに居ないで……」

「……解った。けど、もう少しだけ、……居てもいいか?」

「少しだよ。俺が震え出す前に、消えて」

「わかった」

 ハルは泣きそうになった顔を腕で隠した。顔をハルから背けたまま、シキは檻の隙間から左手を入れる。取ってくれなくていいと思っていた。そうすることが、考えつく中で出来るせめてもの慰めと、自分自身への気休めであった。投げ入れた手に、早すぎる程すぐに反応が来た。少し汗ばんだ温かい手が、手の上に乗った。この状況にあるハルに出来るありったけの力で握り返してくる。少し痛かったが、この程度の痛みしか感じられない程ハルが遠ざかっているように思えた。遠くなっていく痛みを引き留めたくて、力一杯握り返した。

 柵越しに、互いの痛みを受け取り合っていた。

 この温度のない空間に、熱は確かに存在していた。焼け付くような痛みの熱が、二人の間を通い合っていた。

 ハルの手が放れたその時が限界の時だった。

 何も言わず、立ち上がり去ろうとしたシキの背に、弱々しい声がした。

「俺はね、気に入ったヤツには甘いんだ……」

「……知ってる」

「今、精一杯痩せ我慢してる。……シキのいい顔で、俺の分も笑ってくれよ?」

「……押しつけないで、自分のツラで笑えよ」

 そのままそこを後にした。

 地上までの階段がどれだけ長く感じたか。絞首台に上るような気持ちがするのは何故だろう。そのくせ光がこんなにも恋しいのは何故だろう。

 ハルに――もう一度溢れる光を見せてやりたい。あの笑顔はこんな闇には似合わない。光の下でこそあの笑顔はあるべきだ。それに、あいつの笑顔の代わりなんて出来ない。自分に無いものだからこそ、それに惹かれているのだから。


   *


 来ないで欲しいというハルの気持ちは分かっていたが、気になる気持ちがそれを乗り越えて、二日後そっとそこに足を運んだ。姿を覗き見るだけでも、そんなことをしなくてもいい。とにかく、その場へと足を向けたかった。

 薬抜きがどんなものか頭では解っているつもりだった。だが、地下牢に足を踏み入れた途端、足が凍って動かなくなった。

 その叫び。低い地鳴りかと思えば、空気をつんざくような金切り声になる。

 苦しさに藻掻き、暴れ、身体を狭い部屋中に打ち付けている音。

 上がりきった息が酸素を飽きたらずに貪り、ゼイゼイと気管を鳴らせている音。

 とてもその姿を見る勇気はなかった。身体の激痛とおかしくなった思考にのたうち回るその姿を、正視出来るはずがない。これがハルだから、尚更。

 こんなに近くに居て、何もしてやれない。彼の苦痛全てを表すその音を聞いていてやることも出来ない。慰めることも、癒してやることも、何もかも。

 耐えきれず、そのまま階段を駆け上がった。

 見せかけの明かりが目に突き刺さってきた。

 ――俺が欲しいのはそんなモンじゃない。あいつの居られる、本当の光。……それが欲しい。俺の為じゃなく、あいつの為に。

 どうせ向けられるのは気分の悪い視線だけだから、顔を伏せたまま事務所を後にした。ハルの叫び声が、耳鳴りのように響いていた。

 このとき、去るべきではなかった。何があってもハルの側に居てやるべきだった。

 悔やんでも、……もう遅い。


   *


 永遠なんて無い。

 始めからそんなこと考えてなかった。

 けれど、どこかで信じていたのかもしれない。

 信じたくて、枯れることのない笑顔を求めたのかもしれない。

 終わることのない春を望んだのかもしれない。

 ただ愚かなまでに、一途にそれだけを追い求めて。

 ……それが幻想だと気付くこともなく。


   *


 翌日、仕事帰りに事務所に寄った時にやけたアランがシキに耳打ちした。

 低く、笑いを含み落ち着いた声が、最後に笑ったのを今でも覚えている。

 シキは転げ落ちるように階段を降り、地下牢へまさに転がり込んだ。もつれる足を懸命に回転させ、一番奥の牢へ身体を進める。

 柵を掴んだまま、シキの身体は崩れ落ちた。瞬きをするのも忘れて、脳は目の前の光景に浸食された。

 こんなに暗い所なのに、壁中の赤が、床に溜まった海が、意識を奪う程鮮やかにてらてらと色を湛えていた。まだ凝固は始まったばかりに見えた。ハルの手には、どこから拾ったのか決して小さくはないガラスの破片。喉には、ばっくりと口を開け体液を垂れ流している傷口が。その傷口は永劫の闇に繋がっているような気がした。光しか見えなかったハルの身体の奥に、深く無重力な混沌の宇宙が在った。

 ハルに手を伸ばした。目一杯。腕が攣る程伸ばしても、後少しの所で届かない。後ほんの数センチ。それだけで、かつて光であったものに手が届くのに。

「部下がついさっき気付いてね。やはりこの苦しさには耐えられなかったようだね」

 アランが澄ました顔をして供を連れてやってきた。

 シキはどうしてもハルに手が届かず、やり所を無くした手で冷たい鉄柵を掴んだ。涙を流すのも忘れて、目の前の死に取り憑かれていた。

「死体は片づけて置くから早く上がりなさい。こんな季節でも、冷えるだろう、ここは」

「ふざけんじゃねぇよ」

 アランが顎をしゃくると、彼の傍について居た二人がシキの両脇に来た。腕を掴み、引き立たせようとする。

 その時、シキの手の中で何かが溶けた。溶け得るものは自分の手と握っている鉄しかない。溶けたのはやはり、シキとハルとを遮る障壁であった。

「さあ、立……」

 二人同時にシキの腕を掴み、二人同時にのけぞった後、二人同時に泡を吹き、聞き苦しい音と共に床に這った。するわけがないのに、アランの顔が引きつる音がしたような気がした。手に付いたどろどろの物質を脇に倒れる男のスーツでぬぐい、シキはアランを睨み付けながらゆっくりと立ち上がる。

 シキが完全に身体を立てる前に、アランは一目散に地上へと向かっていた。

 ――ここの扉に鍵が無くて残念だったな。

 シキは狂いそうな笑みを浮かべながら、ハルに別れを告げた。

 もう永遠に来ない季節との決別。

 重たく人が倒れる音がする。気が触れたように叫びまくっている声もする。生き物以外さえも劣化させる程に感情のたがが外れていた。止まってしまった心にこれを止める為の術などもう無いのだ。そして理由もない。

 手も触れず、銃も持たずにただ歩くだけでいい。それだけでこの力は他の命を軽々と奪う。物質の原型さえ壊す。

 それがこの穢れた生の正体。

 誰も銃を向けてくる者は居なかった。向けられるはずもない。その前に彼らの身体は狂態を曝し最も大事な糸が切れて果てるのだ。

「やめるんだ、シキ」

 腐敗が進んだ者程しぶとい。目の前で俺に銃口を突きつけるだけの力があるとは恐れ入る。既にその手は震え、冷や汗に身体中を濡らしていたが。

「あいつをハメた報いだ」

「何を言っている。クスリに手を出したのはハルであり、勝手に自殺したのもハルだろう。それが何故私の所為になる」

「俺がそう信じるからさ」

 一歩踏み出そうとしたとき、引き金にかかっていたアランの人差し指が弾丸をはじき出した。

 シキとアランとの距離は僅かに二メートル弱。それでもシキの目に弾丸はコマ送りのフィルムのように映った。空気の流れや弾丸の回転がはっきりと解る。シキは再びアランを睨んだ。次の瞬間、弾丸は細かな塵となって散った。劣化して崩れたのだ。

 宙で消えた弾丸に目を見張っているアランの前で、シキは腰に差したハンドガンを抜く。

「これでも喰らって闇に落ちな。テメェは、ハルと同じ処には行けやしない」

 構えた銃の引き金を、シキは躊躇いもなく引いた。

 恐怖と狂惑に歪む眉間に弾丸がめり込み、大きな穴が出来上がる。

 血の臭いが鼻を突いた。好きだったこの臭いが、今は穢れた空気に混じって不快な臭いに変わっている。

 赤い葉の形をしたバッジをむしり取ると、アランの死骸に叩きつけた。

 適当な具合に繁栄していたこの粗末な組織は、たった十五分足らずで壊滅した。生存者はゼロ。いくら一生懸命に組み上げた積み木でも、壊れるときはこんなにも呆気ない。規模の大小にかかわらず、壊れるということはこういう事だと知った。

 シキは気に入った銃を盗み取り、ありったけの弾丸を袋やらポケットやらに詰め込むと一瞥を喰らわすこともなくそこを後にした。未練など無い。もとから、何かあったらさっさと手を切って逃げるつもりであった。しかし、想像していたのはこんな結末ではなかった。少なくても、この力を使うことなど考えても見なかった。

 始めからこの力を使っていれば、ハルを助け出せたかもしれない。そう思ってすぐに首を振った。そんなことをしたらハルまで巻き込んで殺してしまう。どちらにしろ出来ない手法だった。

 外に出て、空を見上げた。

 夜の空はもちろん暗い。曇っていて、星も月も見えない。黒一色の闇だ。

「シキのいい顔で、俺の分も笑ってくれよ?」

 ハルの最期の言葉。思い出して、笑ってみようと思った。けれど、口が引きつるだけで、笑いの形には全くならない。以前ハルとしていたような笑顔さえ、もう作れなくなっていた。

「やっぱ駄目だ。俺に、ハルみたいに笑うなんて出来ないよ。俺が笑うには、この世界は暗すぎる」

 月明かりさえもない暗く荒れた道を蹴り飛ばすように歩いた。

 ハルが自らクスリに手を出していないと言うことに関しては自信があった。けれど、あの時何故自らの所為にしたのか。そして、彼の首をかき切ったのは本当は誰の手だったのか。それについては解らなかった。シキを弱みとして握られていたとも考えられる。もしかしたら本当にハルが自分の手で命を切り裂いたのかもしれない。けれど、そんなことはもうどうでもいい。事実は絶対に分かる日は来ないし、ハルはもう居ない。

 ここは無情の土地だ。

 何故こんな大地に堕ちてしまったのだろう。

 くだらない疑問を抱きながら、答えの出ない道を宛もなく歩いた。


   *


 この前から思ってたことがあった。シュウの言葉が聞いたことあるような気がすると思っていた。それはいつもハルが躊躇うことなく口にしていたシキへの褒め言葉と同じであった。

 ――だから俺は、あいつを追い出せないで居るのかな。


 ――そこに、ハルを見ていたのかな?

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