第9話
9.
何も無い街に立っていた。
以前ねぐらにしていた街。今生きている街。
がらんとした街のど真ん中に、何故か立ちつくしていた。人の気配もなく、野良犬一匹居ない。
限りなく虚無に近い空間を、訳も分からないまま歩き出した。
廃墟。破屋。誰も居ないそこは、ゴーストタウンという言葉がまさにうってつけだ。
風が吹き荒れて、時々砂が視界を消し去る。そのたびに歩みは中断され、腕で目を守る動作を強いられる。それでも足の向くままに廃墟の街を彷徨った。
やがて最近通った道に出た。このまま坂を上れば今の寝床のある場所へ辿り着ける。その道もやはり、誰一人として居ない。どこからか湧き上がってくるむず痒いような不安と戦いながら、向かい風に逆らって坂を上る。
やけに長い道だ。その坂を上る為に足を一歩出して下ろすたびに、何かが身体の中から落ちていくような気がした。
一歩。
一つ。
また一歩。
また一つ。
この何も無いという空虚感の中に放り投げられ、訳もなく落ち着かない気分が胸の中で煮えてきていた。それが膨張するたびに、許容量を超えた胸の裡から大切なものが落ちていく。
在る程度まで来たとき、不安を呟く為の言葉さえ失っていた。喉は張り付き、唇は青くなり始めていた。そして、例の洋服屋に入る曲がり角まで来ると、思考の回転が殆ど無くなった。身体は単純な動作、足を踏み出し前へ進むというそれだけを反射のように行っているだけであった。
指先が震えるような居ても立っても居られない感覚が腹の奥から湧いてくる。興奮のような、焦燥のような。じっとしていることが耐え難く思う発作。
精神の軸がずれていっている。初めはそれを奇妙に思っていたが、今はもう何ともない。おかしいと思うことさえ失っている。いつの間にか唇に浮いてきた笑みにさえ気付くことなく、坂の終わりへと進んだ。
登り切り、身体の向きを変え、そして、止まった。
何も無い。
砂嵐だけが世界を作り、後は何も。
歩いてきた道など、始めから無かったように黄砂のカーテンが出来ている。
見開いた目に何が入ろうと、もう何も感じない。感覚は失せ、正常な思考も意識も無くなり、やがて最後の砦が壊された。
頭の中で何かがスパークした感覚に、一瞬身を逸らした。それでもすぐに身体を真っ直ぐに伸ばすと、渇いた喉の奥から単調な音の連続を発し始めた。音の母音は幾通りかに変わったが、それが笑いであることに違いはなかった。
一面砂しか見えないこの場所を、狂った笑い声を撒き散らしながら前進した。いくら進んでも風景は変わらない。
その中に突如人影が現れたのは間もないことであった。それを認めると、立ち止まり、腰から左右の手に一丁ずつピストルを取り出して水平に構えた。頭はこんな状態であるのに、狙いには正確に標準を合わせている。口は閉ざし、笑い声を仕舞う。それでも上がったままの口角は下がらない。すぐにでも笑声を上げそうになりながら、狙いを定める。
影はこちらに歩いてくる。弾丸は装填してある。後は引き金を引くだけだ。
敵味方など関係ない。
じりじりと獲物を待つ。焦れったがることもなく、確実な射程に侵入するまで待機する。
砂が僅かに晴れた瞬間、思い切り引き金を引いた。二発の弾丸が砂に邪魔されることなく、真っ直ぐに標的へと向かう。その瞬間に、抑えていた笑いが爆発したように発せられた。奇声に近いその笑いをBGMにして、弾丸は的を貫く為に駆ける。
弾丸が的に当たる刹那前、影の顔が砂から現れた。
何処にでも居そうな茶色の髪。しかし見知った鳶色の瞳がこちらを見据えている。眉を顰めたその人間が、何かを叫んだ。短い言葉を。一言だけ。
だが、耳には届かない。赤い飛沫が宙に大きく舞い散り、影は消えた。
それに狂喜するかのように、空を仰ぎ笑った。
笑い声に反し、狂狂とした目は、涙を流しながら。
*
シュウは息を切らして飛び起きた。全身汗だくで、息は完全に上がっていた。
嫌な夢だ。夢と解っていても心地悪い。
血の臭いがするような気がする。
起きてもまだ、ここが現実であるということを認識するのにかなりの時間を要した。醒めない夢の中にまだ自分は居るのではないか。そんな恐怖に似た感覚が抜けきらない。
指先が震えだした。魘されて掻く汗とは違う汗が流れてくる。
最近薬を飲む間隔が短くなってきた。やがてこの薬にも、抑え込んでいるものにも蝕まれ己を失い彷徨うのだろう。そうなってしまう前に、早く捜し物を見つけなければ。
震える体を引きずって、シュウは台所に向かった。
ズボンのポケットを漁る。空白の多くなったシートが指に触れ、また震えを誘った。
カプセルを一つ取り出し、それを割ると中身を口の中に入れる。そこまでは前回と同じだったが、それを水で流し込むことはなく、流しの縁に手を付き項垂れたまま身体が落ち着くまでずっとそのままで居た。
薬を唾液で溶かし、ゆるゆると身体に染み込ませていく。
溶けていく毎に、徐々に身体の震えが治まってくる。
染まってはいけない安堵と知っていても、解放されていく心地よさは否定できなかった。向こう側へ行かなかったことは喜ばしいことだ。しかし、それよりも強烈に、強制的に訪れる快楽にも似た安寧。全てはこの薬によるもの。
息をついた。
まだちらちらと見たばかりの夢の断片が脳裏に舞っていた。まさか夢まで見るとは。よりによって、あんな内容とは。
「は……」
〝あんな内容〟と思ったことに、シュウは一人、苦笑した。これは相当な物だ。何て依存だ。
頭を振った。淡い期待を振り払った。幻想は見ないに越したことはない。見るのは現実と悪夢だけで充分だ。
台所から戻ると、シキが壁に背を付けて立ち、腕組みをして俯いていた。暗がりで表情は見えないが、良い予感はしなかった。腕組みをする手に、力が籠もっている。何かを強く強く耐えているように、指先は二の腕に食い込んでいた。
いつの間に起きたのか。
彼は己に爪を立てて、堪えているようにも見える。
その姿を見、シュウは一瞬足を止めそうになった。だが、あくまで平常心を装う。ここで止まれば、不審を煽るだけだ。
ベッドに潜るには、シキの前を通過しなくてはいけない。流石に声は掛けられないまま、彼の前まで来た。
「何が事故だ」
低いその声に、シュウはついに足を止めた。
――見られていた?
自問するまでもなく、答えは明白であった。
硬直したところに、シキの細腕が飛んできた。胸倉を掴まれ、引き寄せられる。
「何が鎮痛剤だ。何が特別処方だ。あんたが飲んでるのはただのヤクだろ!」
時刻も考えずに叫んだシキは、思い切り右の拳を振るった。流石のシュウも突然の不意打ちに体勢を崩し床に倒れた。まさか、殴られるとは思いもしない。この勢いなら十二分に有り得ることであったのに、何故か考えもしなかった。
殴り合いの喧嘩は慣れていないが、それにしても痛い。足が動かせなくなっている。
怒りに泣き出しそうな目がシュウを見上げて尚も叫んだ。
「何で騙すんだよ。何でヤクなんてやるんだよ!」
――なんで俺なんかに、こんな顔するんだろう。
その痛々しいまでの姿を眺めやっていたが、正視するに耐えず、シュウはシキから目を逸らした。
「誰だって、縋りたいものの一つや二つあるだろ。俺の場合のそれが、
「そんなモンじゃなくても、縋れるものなんて他にいくらだってあるだろ。そんなクソみたいなもの! よりによって何でソレなんだよ。アホなこと言ってんじゃねぇよ」
シキが言うことが尤もであることはシュウにも解っている。解っていた上で、過去にこれを選んだのだ。毒で毒を制するように、身体に巣くう毒を抑えるために。毒も過ぎれば、ただ廃人になるだけと解っていても。少なくても、そう信じていた。
「これが一番抑えられるんだよ。もう……これじゃないと抑えきれないんだよ」
「一体、何を抑えてるっていうんだ」
顔を背けたシュウを責めるようにシキは問う。
何を。
それを表現するのは難しい。納得がいくように説明するのはもっと困難だ。それだけの語彙と表現力を持っていない。それ以前に、自分で上手に捉えられていないのが原因だ。
溜め息が漏れた。勿論、シュウの口から。答えを待つシキは不愉快そうに一つだけ足で床を鳴らし、催促した。
「おまえが抑えてるモンと、たぶん大して変わらないさ。……たぶんだけど」
言った途端、シキはシュウに飛びかかると、馬乗りになって胸ぐらを掴み上げた。背後がベッドだったら良かったのだが、生憎、背を打ち付けたのは固い床だった。
頬の次は背骨。痛いことの多い朝だ。
暢気なことを考えている目の前で、シキは凄まじい剣幕をしている。大した動きもしていないのに肩で息をして、理性さえも危うい。
何に突沸したのか解らず、シュウはただ、憎むように眼光を強めるシキを見るだけだった。
「言わせて貰うけどな、あんたは単に逃げてるだけだぜ。何抑えてるのか知らないけど、あんた、縋ってるんじゃない。逃げてるんだ。そんなモンで抑えられるようなもの、他のもので抑えられないワケないだろ」
シュウは僅かに目を見開きシキを見たまま動けなくなった。真っ直ぐに貫いてくる視線と言葉に、為す術が無い。
苦渋の選択をして手に取った物を〝そんなモン〟と切り捨てられた。いくら激昂しているとは言え、シキは考え無しに物事を口にする男ではない。それ故、驚きは殊更強かった。
――何故、おまえはそう言える?
「それにな、あんた何も知らないのに俺を語るんじゃねぇよ。俺は何も抑えちゃいない。俺はな、何を使っても抑えられないんだよ。縋るものなんて、……縋れるものなんて何一つ無いんだよ! 甘ったれるな!」
シキはシュウを床に叩きつけると、そこから離れ、布を拾い上げた。打った後頭部をさすりながら上体を起こせば、布を持つシキの手にじわりと力が入っている。背は強がったままなのに、顔は俯いた。
「まだ、抑えられるあんたはいいよ。俺は気休めだけなんだぜ? それも苦しいだけの気休め……」
布を持つ手にありったけの力が込められる。悔しさに暮れる声は涙を含んでいるように聞こえた。雨を降らさないように、その手で堪えているのが見える。
打ち付けた頭の痛みなど、既にどこかに消えてしまっていた。小さいシキの身体に、無数の見えない傷が見えた。その華奢な身体には負い切れない程の傷が。
シキは慣れた手つきで布を肩に掛けると、壁に寄り掛かって腕を組んだ。目は閉じられている。涙も、顰めた顔もない。無理矢理に作ったいつもの表情であった。拗ねているだけのような顔。
まだ動けずにいるシュウに向かって、シキは口を開いた。
「これ以上、俺の前でそいつ飲むなよ。今度見つけたときが〝ヤク抜き〟の始まりだと思え。そろそろ抜けない身体になってるんだろうから、……死ぬぜ?」
言い終わったとき浮かべたその悪魔のような笑みは、いつものシキのものであった。すこしだけ、泣きそうな名残はあったが。死んでしまえばいいというものではなく、諫める為の非常識なまでに憎たらしい笑顔であった。全てを見下し、嘲り、最大級の傲慢さを余す所無く表現したような笑みであるのに、シュウにはそれが既に憎めないものになっていた。この顔が出るのなら大丈夫。そんな風にさえ思えた程だ。
シュウはゆっくりと立ち上がった。殴られた頬はまだじんじんと痛んでいる。数日後には痣になるかもしれない。
「やっぱおまえはいいヤツだな」
そう言うと、シュウは二十センチ程自分より小さいシキを両腕で抱き締めた。
負の感情故ではなく殴ってくれる人間が腕の中に。それは、かなりの悦を呼んできた。
突然抱きつかれる脈絡を解せず、シキは焦った。
頑張って嘲ってやったのに、まるで意味を成していない。
「おいっ、な、なんだよ」
抜け出そうにも抜けられないし、緊張の糸が途切れてしまったようなシュウを突き放すのは少し気が引けた。そして性別はともかくとして、人がこんなにも近くにいる、ということがやけに嬉しかった。人間を始め、ありとあらゆる生き物が側に居ない生活が余りにも長かった。近くに生きているものが居る。久しぶりに与えて貰ったその感覚に免じて今はしたいようにさせてやった。
「殴ってくれて、……笑ってくれて、ありがと」
耳元でシュウが囁く。
「殴られたいならいつだって殴ってやる。だから、辛いかもしれないけど、もう莫迦なことすんなよ」
シュウの耳に囁き返す。
シキの脳裏に、ある人物の笑顔が流れた。
「シキは気に入ったから、特別ね」
と言いながら、本当に特別に笑いかけてきた男の顔を。あいつはシュウとは違って特別な体質ではなかったのに、それでも何かと側に付いてきた。
痛みを感じるはずなのに。それでも笑って、付いてきて、時に手を引いて。
「俺は……」
蘇ってきた笑顔を払拭しながらシキは囁く。
「俺は、あんたにはハルみたいになって欲しくない……。だから、やめるか、そうでないなら俺の前から消えてくれ」
シキはシュウの肩を掴むと、ゆっくりと自分から彼を引き剥がした。されるままに、シュウは腕を解き、シキの腕の長さ分だけ距離を空ける。
シュウの顔は見ない。思い出が顔を歪ませているから、それを見せたくなかった。
彼は何も尋ねることなく、
「ありがと」
と、もう一度言うとベッドに腰掛けた。
その途中、何か見えたのかシュウは腰を浮かして窓の外、そこから見える下方を覗いたが、すぐにベッドに腰を下ろした。
掴んでいた物がなくなったシキの腕はだらりと垂れ、壁に添って崩れ落ちるように座り込んだ。その際に、神経に障る雰囲気が窓の向こうからしたが、顔をそちらにやることもなく無視した。きっと、先程シュウも同じ物を感じていたのだろう。
結局言うつもりの無かったことを一つ吐き出す羽目になった。嫌な思い出は全てシュウの所為で思い出す。元々避けられなかったのかもしれない。彼の所業を目撃しなくても、何一つ確信出来なくても、いつかこのことを吐き出す日が来たのかもしれない。ただそれが今日であっただけかもしれない。
鳶色の瞳を瞼で覆った。瞼の裏にあの屈託のない笑顔が映る。
今日のエネルギーを全て使い果たしたシキは、全身から力が抜けるような感覚を覚え、そのままばたりと横になった。
枕が高いので首に少し衝撃が来たが構う程のものではない。苦しいことは早く終わらせてしまおう。仕舞い込んだ過去を清算すべく、シキは意識を遠ざけた。
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