第8話
8.
「何やってんだよ」
ベッドの上であぐらを掻き、そこでしていた作業を咎められ、シュウは手を止めた。
見上げると、淹れたてのコーヒーを啜っているシキが居る。起きてからまだ一時間も経っていない状態の彼は、いつになくずぼらに見える。櫛も通していない髪はぼさぼさで寝癖もそのままだ。既に来客扱いされていないのがこういった所からも解る。
ここに来てから嗅ぐ初めてのコーヒーの香りはとても香ばしい。
「何って、荷物整理」
「そうか。やっと出ていく気になってくれたか」
「俺の分もおまえのバッグに入ってたから、それ分けてるだけだよ」
シキは渋い顔をしながら、もう片方の手に持っていたシュウの分と思しきコーヒーカップをベッドサイドの机の上に置いた。そして、自分の分のコーヒーをまたひと啜り。
作業のために抱え込んでいたのは二つのバッグ。シキが枕にしていたものと、シュウが後からいただいてきたバッグだ。枕の方から自分の分の服を取り出し、空のバッグに詰め込んでいく。
「俺の枕の中身勝手に減らすなよ。ちゃんと頭の座りいいようにしたあったのに」
買い物袋代わりのバッグとその中身が、いつの間にか「俺の枕」になっている。ベッドの件もあるので、これでおあいこだ。
特に反論はせずにシュウは作業を続行した。頭の上でコーヒーを啜る音がする。不満そうな音にも聞こえるが、それに構うつもりはなかった。
「はい。これがおまえの分」
中身が半分ちょっと減ったバッグを、シキの空いた方の手に手渡した。嵩が大分減り、以前と同じ枕の機能は果たしそうにない。
シキは半分まで飲んだコーヒー入りコップを机に置くと、壁に作りつけられた小さなクローゼットを開けた。その中身など、在って無いようなものだ。ハンガーだけが異様に余り、ぶら下がっているのは数枚の上着。ズボンや小物は全て下に放り投げてある。シキはハンガーからシャツなどをむしり取ると、床にどっかと腰を下ろした。慣れない手つきで服を畳み、バッグに詰めていく。服を畳む習慣などまずから無いらしい。畳んでも畳んでいなくても状態はさほど変わらなかった。それでも本人は一生懸命な様子で、せめてもの安眠を提供するであろう枕制作にいそしんでいる。
その様子を眺めながら、自分の分として置かれたコーヒーを一口。
「……」
あの渋い顔の正体は、恐らくこれだ。少なくとも一因だ。
香ばしい香りのコーヒーは酷く苦い。久しぶりに淹れた所為か、元々上手くないのか、粉の分量を間違えたのだろう。目覚めには丁度良いが、空腹には厳しいものがある。
喉の奥まで渋くなる味を噛み締めながら、シキの様子を見下ろした。
服を上手に畳めないのをじれったがり、ヤケになるからますます汚くなるのにそのことにも苛ついて、負の連鎖が続いている。この年になってそんなことに懸命になってどうするよ、と心の中では思ったが見ていて楽しいので黙って見ていた。
元々手持ちがないので、上着を全部突っ込み、数少ないズボンを入れ、隙間に小物を詰めるとそれで以前の状態を取り戻した。彼は少し高めの枕がお好みのようだ。小さくなって寝るには具合が悪いように見えるが、本人はそれがいいのだろう。それとも、ずっと低い枕で寝ていて、挙げ句枕無しの生活に追いやられた反動か。結果、クローゼットの中は空同然になった。スッキリしたクローゼットを一通り眺めやり、シキは扉を閉めた。
その時だ。
シュウは自身の異変を知り、手にしていたカップを急いで机の上に置いた。居ても立っても居られないようなぐるぐるとした感覚が襲ってくる。吐き気とはまた違う、衝動のような、逆流。込み上げてくる思考と感覚が、あっという間に正常を浸食していく。
――マズイ。
思えただけマシだった。なるべくこうなる前にと対処をしていたのだが、気を抜いてしまったようだ。
忘れていた。
自分に、こういう持病があることを。
一気に世界をひっくり返されたような目眩。上がってくる息。小刻みに訪れる鈍痛。冷や汗。そして、手の痺れと痙攣。
シュウはベッドに座ったまま身体を折った。
異変を知らせる風が流れた。それを背中で感じ、シキは振り向いた。
「どうした?」
訊くまでもないことは、訊いてから解った。シュウの身体全体が微かに震えている。高熱を出している時のそれにも似ていたが、それにしては急すぎるし、発熱と判断するには様子がおかしい。
「なあ。具合でも悪いのか?」
枕もどきをそこに残したまま、シキはシュウの目の前に立った。身体を折り頭を抱えている所為で、シュウの顔は見えない。顔の下から、微かな笑い声のような音と喘ぎが聞こえる。手は小刻みに痙攣し、冷や汗も伺える。
嫌な予感がした。二つ程その嫌な予感の候補がった。
この穢れの影響か。薬物か。
シキは屈み込み、シュウの膝に手を当て彼の顔を覗き込む。酷く汗をかいている。頭を抱え込む動作は、同時に別の何かを押さえ込んでいるようにも見えた。
「シュウ……?」
シキは焦燥に駆られた。言葉を掛けても返事もない。ただ苦しそうなシュウを、どうしてやることも出来ない。
触れてはいけないのではないか。今になってそれが頭をよぎった。思い当たることの一つでもあったのに、迂闊であった。今までどれだけ近くにいても何ともなかった所為で、つい本能的な行動が出てしまった。
やはりいけなかったのか。あの雨の日、以前出会った濡れた彼女と同じように助けてしまったこと。近くに居てしまったこと。結局助けと思われた行為は、その人を苦しめ消し去っただけで何の助けにもならなかった。だから迷ったのだ。それが、救いとなり得るのかを。いくら傷を負い、この物騒な道端で倒れたとはいえ、ここにだけは運ぶべきではなかった。この穢れた生の側にだけは。どのみち、結果は同じになるのだ。自分を責めることのない方を選ぶべきだった。
シキは手を強張らせてシュウの膝から離すとよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りで後ろに下がった。一歩一歩、気休め程度の距離が広がる。背に壁が付いた瞬間、足下から震えが来た。口元にまでその震えは上り、言葉は消え、思考は止まった。
恐い。
自分の所為でシュウが彼らのようになってしまうと思うと、動くことさえ叶わなかった。動かなくてはいけないのに、身体の神経が全て切れてしまったように動けない。ただ単純に単調で小刻みな痙攣を繰り返すだけ。このまま壊れるまでこうしているしかないのか。真っ白になりかけた頭が最後の光を見ようとした、その時、
「何でおまえがそんなに怯えることあるんだ。その震え方、やばいぜ」
少し掠れてはいたが、シュウのしっかりとした声がした。
視界に色彩が戻ってくる。目の前に、息が整い始めたシュウの顔が見えた。きつそうではあったが、それでも笑ってこちらを見ている。
「今、どうしたんだよ。俺、てっきり俺が……」
言いかけて言葉を止めた。そうでないと判った以上、このことを口にすることは出来ない。
「ちょっとな。昔事故った後遺症で、時々酷く痛むんだよ」
そう言いながら、シュウは立ち上がった。まだ体調は思わしくないようで、少し身体を曲げて歩いている。身体が辛いとき、多くの人がそうするように。
台所に入る直前に、シュウはズボンの後ろのポケットから薬を取り出した。それをシキはとらえ、後を追う。シュウはシートから一錠取り出すと、カプセルを割って中身を直接口に流し込んだ。中身はよく見えなかったが、粒状のようだ。やかんに汲み置きしてある水をコップに入れ、薬ごと飲み干す。
「シュウ……。その薬は……」
「これ? これは鎮痛剤。超強力。特別処方だから俺以外飲むな。以上」
シキを安心させる為と思われる笑みを浮かべ、シュウは薬をポケットに仕舞いながら彼とすれ違った。
――普通、カプセル割って飲むか?
疑問に思いつつ、シキはシュウの背を目で追った。即効性を持たせる為とはいえ、シュウが言うその〝超強力〟な薬をそんな風に飲んでいいものか。
「事故って何だよ」
「小さいときに車でぐっしゃり」
「まさか自分で運転してたのか?」
「まさか。そんな年じゃなかったし、俺、そんな無謀じゃないし」
「……どうだか」
シュウの説明には納得行かない所もあったが、今はそれ以上問いつめる材料がないので手を引くことにする。何より、それ以上何ともないのが安心の材料になった。
一つの不安が払拭されたのを見て、もう一つの不安が頭をもたげてきた。まだ忌まわしい残り香のする袖口を掴み、その不安に耐える。大丈夫だ。この過去は、シュウの所為で思い出すことはない。そう何度も言い聞かせた。それなのに、言い聞かせた数だけ不安が積もってくる。
こんなつまらないことに神経を磨り減らす生活はやめたい。シュウがどうにかなる前に、自分の方がどうかしてしまいそうだ。
――やはりこの赤は手放すべきなんだろうか。
上着の赤を見やり、そのままシュウに視線を移した。
その不安の眼差しの先で、シュウは窓から中身を失ったカプセルを捨てていた。
*
その日寝る前のこと。
既に部屋中から明かりは消え、二人とも寝る為の定位置に収まっていた。互いの顔を見るには月明かりだけでは少し暗い。そんな中、シキもシュウも寝付けずにいた。シュウはシキの方を、シキはシュウの方を向いたまま、フルで覚醒している脳を鎮められないでいた。脳内麻薬と言われる名前も分からない物質が、頭の中を駆け巡っているのが分かるような気がする。それが早く寝付きたいと思っているこんな時に限って大量分泌されて覚醒作用をするのだ。人間とは巧く出来てない。二人で似たようなことを思っていることも向かい合っていることも知らずに、眠れそうにない夜は少しずつ更けていく。
「シキ……。起きてる?」
寝付けないまま数時間が経ったとき、シュウが話しかけてきた。
声がはっきりしていた。今まで全く寝付けていなかったのは明らかだ。
「起きてる」
隠す必要もないのでそう答えた。
「おまえ、殺し屋してるんだろ?」
薄暗がりの向こうでシュウは言う。意図は酌み取れない。
「……どうせ信じてないんだろ」
投げやりに答えた。自覚はないが、数日前の会話をまだ引きずっているらしい。
「や……信じるよ」
「嘘臭いな」
引きずっていただけで、特に根に持っていないようだ。自分の口から笑いが零れたのを聞いて認識した。
自分のことなのに、抱えている精神状態が巧く量れなかった。昼間は取り乱し、夜は変な興奮状態で寝付けない。そして、蒸し返してくるような質問。何が言いたいのか知らないが、こんなやりとりでも割と楽しい。
どうせ寝付けない。いい退屈凌ぎになる。
しかし相手は曇った気配を持っていた。それを感じ取り、シキは口を閉じて暗がりの向こうでシュウのシルエットを見た。一体どんな顔をしているのだろう。目を凝らしても見えるわけではないのに、動かない影を凝視した。
「おまえ、それなら、人殺すのは平気なんだろ?」
「まあ……」
その質問で一体何を確かめたいのか、シキには分からなかった。そしてこの質問の答えを厳密に答えるのなら、「自らの手で殺すのは平気」である。この手で引き金を引いた結果が誰かの死ならばそれで良い。
「そうか」
意図を全く酌めないまま、会話は打ち切られてしまった。シュウの中で何が纏まったのか知るところではない。シキは宙ぶらりんにされただけだ。腹が立ち、どうせ見えないと思って口を尖らせた。今日は感情の起伏が激しい日のようだ。
「なんなんだよ」
「別に」
「それは俺のセリフだぞ。取るなよ」
「悪い」
何となく、シュウにはいつも謝られているような気がした。謝らせているのはシキかもしれなかったが、何となくシュウの「悪い」という言葉がいやに耳に付く。
嫌な言葉ではない。けれど、好きでもない。すぐ人に謝るようなタイプには見えないのに、思えばいつも謝罪の言葉を聞く。
先ほどの質問でつかえが取れたのかどうかは分からないが、暫くするとシュウのゆっくりとした寝息が聞こえてきた。結果、寝られないのはシキ一人になった。シキが抱えているもやもやは誰かに尋ねることで解決するものではない。
シキは布を引き寄せ、寝返りを打った。新たに詰め替えた枕はまだ馴染んでいないので少し頭の据わりが悪い。何度かバッグの外から中身をいじって頭で押しつけたりしながら無駄な抵抗をしてみる。馴染むまでどうしようもないのに、だ。
少しだけ頭が落ち着いた途端、昼間に動き、一度は止まった思考がまた回り始めた。あれからシャツは着替えたのでもうあの嫌な臭いはしない。けれど、鼻の奥にはまだこびりついているように時々蘇ってくる。この思考と共に、この無いにもかかわらず在るような気がする臭いは不快だった。
決めなければいけないことや、分からないことがいろいろあって日頃そういったことに使わない頭はオーバーヒート寸前だ。どうにかこの熱されすぎた頭を冷やそうと必死になって思考を止めようとしたとき、また一つ分からないことが出てきた。
――何であいつ傷治ってるのに出ていかないんだ。ここに居る理由なんて、何処にもないだろ……?
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