第7話

   7.


 あの時から既に三週間が経とうとしている。

 二週間前ならば決断は容易かった。切り捨てる。その一択を迷わず選ぶことが出来た。

 今は違う。二択ある。その二択のうちどちらか一方を選び取ることが出来ずにいた。

 選ぼうと、選ばなければともがいているうちに、あちらこちらにぶつかり傷付き壊れ始めている。長い時間を掛けて纏った鎧が壊れていなければ、夢や過去の引出が開いたり、人前で涙を見せることなど無かったはずだ。

 根性無しめ。

 自分を責め、また何処かしらが綻びていく。

 その綻びを見て見ぬふりをしながら、シキは玄関へ歩いた。

 目的は外へ出る為ではない。確かめる為である。一日に一度、完全に目が覚めた後行くようにしている。ドアを少し開き、足下の壁を見る。すると、一本の黒い小さな斜め線が引いてあった。シキは表情を変えずにそれを見ると、靴箱の上に置いてある細い木炭を取った。五センチくらいの長さのその炭は、指が汚れないように半分ほどアルミ箔でくるんである。それを持ってしゃがむと、引かれた斜め線と対称に線を引きバツ印を作った。これで作業は終わりだ。扉を閉め鍵を掛けると、木炭を靴箱の上に放り投げる。

「どっか行った?」

 扉の音を聞きつけたシュウが顔を出した。

「別に」

 シキはいつも通り軽くあしらう。この態度はいつもと変わることはない。せめて表面的な部分は今まで通り繕っておきたかった。

 酸素が足りないような生あくびが出る。よく晴れて風も穏やかなのに窓が閉めっぱなしだ。二酸化炭素が多くなるのは必然。シキはベッドから遠い方の窓に手を掛けると、ゆっくりと開いた。生温い風が頬や首を撫で上げていった。目を閉じ、その風にされるままにする。

 暫く風に弄ばれていると、不意に首筋に覚えのある感触が来た。はっとして目を開き、後ろを振り向くとすぐそこにシュウが居る。どうやらこのキス魔にまた襲われたらしい。問い糾すまでもなく、事実は明白だった。忘れた頃に再びやってくるとは油断も隙もあったものではない。

「何か食わない?」

 それを尋ねる為だけにキスをしてきたとは到底思えなかったが、食いつくのはやめることにした。どうせ食いついた所で、シュウは食えない男だ。それに食ったとしても不味いこと間違いない。無駄と分かったことは極力避ける。

「あんた一人で勝手に食えよ」

「邪険にするなって言ってるじゃん。まだ一緒に飯食ったこと無いしさ」

「一緒に食わなくたって食う物は同じだろ。同じなら、どう食べたって同じじゃないか」

「そういうもんじゃないと思うけど」

「俺には変わんない。……それに、怠いから横になってたいんだ。食ってていいよ」

 そう言うと、這い出た形跡がある布と上掛けの中に、そのまま入り込んだ。横になり、いつものように小さくなる。目は閉じなかったが、このまま横になってれば寝入るのも時間の問題だ。

「具合悪いのか? やっぱり寒かったから」

「そんなんじゃない。何となく、怠いだけ」

 言い残し、シキは頭まで潜った。

 この嘘とも本当とも付かない言い訳は、シュウにはとっくにばれていることだろう。それでも構わない。不快までは行かずとも決して快ではないこの倦怠感は嘘ではない。

 布に潜り込んだシキは頭に鈍痛を感じて目を閉じ眉をひそめた。どこかが重石が乗ったように重く鬱陶しい。きっと怠いのは身体ではない。この頭痛は本物ではない。きっと気分が勝手にこの苛立たしい痛みを生んでいるんだ。



 シキはこの頭痛を怠さの言い訳にして、一日中寝たり起きたりを繰り返した。腑に落ちない顔をしたシュウがその様子を見守っていた。あれだけ寝ても背中の痛みさえ訴えず、始終気分の悪そうな顔をしてふらふらしたり布に潜ったりしているシキに、言葉一つ掛けることはなかった。

 シュウが、何事かを問いたそうにしているのも、上掛けが返ってくるかどうか懸念していることも、流れる空気で何となく察していた。それでも彼が何も言わないのは、きっと身の程を知っているからなのだろう。何を尋ねても、何を求めてもシキは応じない。そう思い込ませるだけの態度を散々取ってきた。

 でも、シュウはいつか思い知った壁を越えてくる。それか、力づくで壊してくる。

 まだ覚悟も決まっていないのに。そんな状態で領域に入られたら、たまらない。

 どうすれば。

 考えているうちに再び意識が途切れた。


   *


 覚えているぬくもりは、どれも女の暖かさだった。

 三人の女。

 二人はまだ幼い頃に失った。三人目は、この手が壊した。


 この記憶は二人目の女。義理の母親。

 噎せ返りそうになる程の血の臭いとその熱。のし掛かってくる重み。命を失くした肉塊の重み。

 彼女はシキに腕を回し、庇い、死んだ。

 家族になって、半年も経っただろうか。そんな時間の感覚さえも朧気程度の時間しか、家族でいる事が出来なかった。

 事件が起きたのは、なんでもないいつもの夜。

 何が起きたかを把握する前に気を失ってしまったらしく、気が付くと床に突っ伏した身体に、女の身体が覆い被さっていた。床は血溜まり。吐き気を堪えながら、酷く重たい女の身体を懸命に退かした。幼かった当時、大人の女の死体の腕から抜け出すのに必要な力は甚大だった。

 やっとの事で自由を得、女に声を掛けた。

「お母さん?」

 と。

 返事など無い。身体を揺すっても、赤くなった背から更に赤が染み出るだけで、女が二度と動くことはなかった。それを〝死〟と受け入れられたのは、数秒後のこと。

 あの時と同じだ。

 過去の引出が開き、それを死と知った。

 あの時は何も残らなかったけれど、これもまた死なのだ、と。

 気を失っていた所為か、かなり曖昧な記憶を補完しようと、シキは部屋を出た。誰かに、何が起きたのかを訊かなくては。扉を開ければ、家族で囲んだ食卓がある。

 居間では更に三つの死が転がっていた。

 壁紙は赤黒く染まり、部屋中が散乱している。

 繋がりなどまるでない血が、辺り一面に撒き散らされていた。繋がりにかかわらず赤いそれは、強い眩暈を呼んだ。

 短気だが優しい父。シキという弟が出来たことを素直に喜んでいた兄。ヘビースモーカーで歯がヤニで染まってしまい、その歯を見せて良く笑う叔父。

 何の見返りもないのに、街を放浪していたシキを無条件で家族にしてくれた人たち。

 彼らはもう、動かない。

「ああ……」

 急に辺りが一回転したような気がした。先ほどの空白に、凄まじい勢いで情報が書き込まれていく。違う。書き込まれているのではない。現れてきたのだ。あぶり出しのように、この脳内の熱に浮き上がってくるものが、神経を侵す。

 母親の悲鳴が耳をつんざいていった。騒々しい物音が、激しい銃声が、押し寄せるように意識に届く。見えるのはただ真っ暗な何処か。母親のぬくもりが息を塞ぐほどに包んできて、……そして。

 皆、死んでしまった。

「生き残り、か」

 聞き覚えのない突然の声に、弾かれるようにして身体ごと振り返った。そこには背の高い黒が立っていた。オールバックにした髪も眺め下ろしてくる瞳も服装も全て黒。鳶色はこの黒に勝てなかった。この黒は濃すぎる。

 この時はまだ恐怖はなかった。背筋に寒気を覚えたのは、その男が笑った時だ。見たこともない冷たい笑い方。ほんの少し、口角を上げるだけ。それだけで、辺りを全て凍り付かせるかのような低温を生み出した。

 これが、彼らの死因か。

 途端、自然と身体の中に熱いものを感じ始めた。どうしようもない怒りだ。

 凍った背筋をも融かす怒りに手が震えた。

「何だよあんた。何でこんな事!」

「ヤニ男が煙草以外の葉に手を出した。度が過ぎたので掃除をしに来た。それだけだ」

 それだけ、がどれだけのことかなど解るはずもなく、ただ怒りだけが増していく。

 増幅していくばかりの熱の勢いだけで、男の足に飛びついた。何が出来るわけでもないのに、得物の一つも持たずに大の大人に向かっていった。

 手が男の足に触れた途端、男は顔色を変え、堪えるように息を呑んだ。

「やめろ……!」

 容易く蹴り飛ばされ、窓のある壁に叩きつけられた。ガラスが割れた窓から入り込む風が、異様に冷たく感じる。顔を上げれば、男の顔から余裕は消え、一言では洗わせない複雑な表情をしていた。黒の瞳が真っ直ぐに見下ろしてくる。次に銀色の銃口がこちらを向いた。

 あの引き金が引かれればどうなるか解る。本能が、その恐怖を知っている。

 唾が、喉を流れていった。

 男が再び口の端を上げた瞬間、シキは咄嗟に窓枠を掴むと一気に窓から身を躍らせた。

「莫迦な。四階だぞ」

 男は窓に駆け寄り下を見た。見下ろす顔を、シキは見上げ、睨む。

 十メートル以上離れていても、男の顔ははっきりと見えた。

「いいだろう。次に会う時があったら、不可思議なおまえの熱を鎮めてやろうじゃないか。それに……」

 最後の方は分からなかったが、張り上げていたわけでもないのに男の声は耳に届いた。怖いほどはっきりと。

 これが、やっと手に入れた家族との突然の別れだった。


  *


 シキは柳眉を顰めた。

 あの男の色に似た夜の闇の下、忌まわしい臭いを放つ葉をまき散らした上に転がる、哀れなイキモノの成れの果てを見ていた。

 今になって夜の闇があいつの色に見えるなんて。これもやはり、迷惑な同居人の所為か。

 踵を返し、路地を抜ける。何処まで行っても、あの男の色が見下ろしてくる。

黒狼ヘイラン……」

 すでに追うことをやめた狼たちの名前を、彼は思わず口にした。

 しかし、すぐに首を振って打ち消した。

 忘れよう。追いかけて歯が立つ相手ではない。

 それに、追いかけて戻る命ではないことはもう理解している。復讐が、無益であることも。

 シキは一度振り返り無表情な視線を朽ちゆく者に送ると、帰る場所へと歩き始めた。

 僅かな戸惑いが、また心臓を通過していったようだ。

 背の方にある生ゴミと、に消された者達と、あの時黒の男に消された家族たちは、同じイキモノであると知っているのに、その死に対して感じ方がまるで違う。意図してすることには、それが全く自分と無関係であった者であっても躊躇いも後悔もないのに、何故それ以外の消滅には耐え難い苦痛が伴うのか。その矛盾に、今でもはっきりとした戸惑いを感じる。

 一つのことが平気なのだから、慣れればいいのに。そこに至る過程が違うだけ。どうせ同じ〝死〟なのに。そう思いながらもずるずると今日まで来てしまっている。そうでなければ、同居人のことなど気にする必要もないのだ。完全に見限れないこの気持ちの曖昧さが、必要のない心労を生み、その先に恐怖を生む。

 月が見える。一口誰かに囓られてしまったような月。きっと月しか自分を照らしてくれるものはない。月と闇の下でしか生きられない。

 太陽は、いけない。あの光は、この身を焦がすものだ。あの光の下では生きられない。

 ――あいつも、同じ匂いがするな。

 玄関の扉の、嫌な音がした。


   *


 夜寝る前に上掛けを返して貰ったシュウは事なきを得て、ある程度の安眠の時を過ごせた。目を覚ましたのは、それから九時間以上経った頃だ。遠くで聞こえる靴の音が耳に付いたのだ。それに、風が顔に当たる。物好きな泥棒が失敬してきたのかとも思ったが、この歩くリズムはシキのものだ。

 ――もう起きたのか? 俺より早いなんて珍しいな。

 もう、とは言うが、すでに時刻は朝日が顔を出して暫く経つ頃だ。だが、正確な時刻は彼らの知る所ではなかった。何しろ、この部屋には時計がない。腕時計さえ二人とも所持していない。今になってその不便さをシュウは僅かではあったが感じ始めていた。長い間時計のある生活をしていた者にとって、この環境は異様である。時計を必要とする程何かに制約されることが今あるわけではないが、落ち着かないのだ。

 この部屋に時計がないことに気付いたのは、シュウが歩けるまでに快復した頃だった。大した理由はなかったが、時刻を知ろうと部屋を一回り見た。だが、壁にも机の上にも時計らしき物は影もない。そこで、時計はないのかと尋ねた所、

「見てみて無いんなら、無いんだろ」

 と乱暴に返答された。朝イチで機嫌が悪かったからかもしれない。夜になってから尋ねようと思っていたが、思い出すのはいつも朝で期を逃していた。そしてもう一つ、あの時の返事が粗雑だったのは、今程シキがシュウに気を許していなかったこともありえる。

 シキが缶詰とフォークを片手ずつに、顔を洗った後なのかさっぱりした顔でやって来た。

「なんだ。起きたのか」

 どうやら、一人で食べるつもりが余計な相方が起きてしまい、予定が狂わされたのを少々不満に思っているようだ。それでももう一つを取りに行くでもなく、シキは床に腰を下ろして中身を食し始めた。

 シキがこの時間に起きて動いているのは珍しい。そして、時間の割に機嫌が悪くない。だいぶ前から起きていたような感じがした。いつもなら、今の数倍眉間に皺を寄せ、何か言われようものなら不快を爆発させたような声と物言いで反撃してくる。黙ったままでもこちらが何か言いたいと思っていることを、眠そうで気分も体調も悪そうな目が正確に射抜いてくる。銃を抜いてこないだけマシと思うほか無い有様なのだ。

 丁度時計のことも思い出したことだ。今はさほど不機嫌でもなさそうなのを見て、シュウはベッドに腰掛け少しわざとらしく辺りを見ながら言った。

「いつ見ても殺風景な部屋だけど、何で時計置かないの? 弾丸買えるのに、時計くらい買えるだろ?」

 それを聞いたシキは、食べかけの缶にフォークを突っ込み、自分の左脇に置いた。

「あんな物……」

 怒らせたかとシュウは少しどきっとしたが、次に見上げてきた目は愁いにも似た色をしていた。

「あんな残酷な物、どうして側に置ける」

 回答を想像していたわけではないが、この答えは意外の範疇を越えていた。

 悲しげな鳶色を見て質問を重ねることを逡巡。泣き出しそうになった顔は背けられ、もうその目は見られない。シュウは少し迷いを引きずりながらも、興味に負けた。

「時計が残酷か?」

「戻したくても戻せないし、だからって痛みは消えていきはしない。そんなカミサマみたいなモノを、あんな細い針三本で目に見える形にしてくる時計は、残酷だって言ってるんだ」

 俯いて籠もった声は、果たして涙声なのか。

 明後日の方を向く目は何を見ているのか。シュウには分からない。きっとこんな部屋の隅など見ていない。時間という概念さえ知らない、架空の異国を見ているのだろう。

「腹一杯になったから、これ、食っていい」

 フォークが刺さった缶詰が、シキの腕の長さ分だけこちらに寄せられた。缶の中身は二口三口ついばまれただけで、大して減っていない。

 これで腹が膨れたとは信じがたかったが、何も言わずにシュウはそれを受け取った。

 足元から感が消えたのを知ってか、シキはそのまま横になった。僅かに覗える目線は、やはり遠い。

 時計一つで辛い思いをさせてしまった。知らなかったとは言え申し訳ないと考えていると、

「食え」

 と言われた。

「俺は、何も怒ってない」

 シキは寝返りを打った。きっと前の言葉がなかったら、拗ねてそっぽを向いたようにしか見えなかっただろう。知らない間に気を遣うようになっている。

 一方通行ではなく。

 互いに、だ。



 そっぽを向いたシキは、寝ることはなかった。腕を顔に寄せたとき、シャツの袖から忌まわしい臭いがした。嫌な思い出しかない臭いだ。

 ――頑張って避けたのに、ついてきやがったか。

 シュウの鼻が利かないことを祈って、隠すように腕を身体に寄せる。これも過去を誘う物の一つだ。シュウと同じくらいタチが悪い。しかし、この過去はシュウの前で吐くことはないだろう。何故なら昨日、一人夜の裏路地で嫌と言うほど蘇ってくる過去に苦しんだ。彼が抽斗に手を掛けない限り、きっと大丈夫。

 吐き出せそうな過去は、シュウと出会ってから結構吐いてきた。みっともない様まで曝して、散々に。少し休ませて貰わないと、喉が焼けてしまう。

 辛すぎて、余計なことまで口にしてしまいそうだ。

 それだけが恐かった。



 一方シュウは、貰った缶詰をありがたく食しながらこの缶詰について考えていた。この前の缶詰はシュウの金で買った物だが、その金はとある所から持ち逃げした物だ。このズボンのポケットは異空間に繋がっているわけでも無尽蔵でもない。いずれ金が尽きるときが来る。

 シキも境遇は同じ筈だ。良くも悪くも稼がなくては金が手に入らない。だが、この三週間、彼は出かけることもなくただ寝っ転がったり空を眺めたりしているだけだ。一体、何をして食っているのか。

 何かまともな職に就いている気配はない。かといって、金の湧き出る金庫もなければ、パトロンが居るわけでもない。この缶詰は金と交換した物だ。買ったばかりのこの缶詰に限らず、今まであった物全てそうだろう。盗んできたというなら別だが、そんな器用な真似をちょくちょく出来る性格には見えない。〝腹の満たせる金の化身〟を腹に収めた後、空の缶詰をすぐ脇の机に置いた。

 拗ねたように丸まった背中が、「声掛けたら殺すぞ」と言っている。この男、空気を読む力は長けている。とくに、自分に不利になる気配はすぐに察する。

 無言の圧力を敢えて無視し、

「おまえさ、仕事何やってるの?」

「別に」

 答えは意外と早く来たが、残念なことにまともな答えではなかった。

「あのな。今度こそお得意の『別に』じゃ済まないだろ。金無かったらどうやって食ってたんだよ」

「別に」

「何かの売人とかやってるわけ? マリファナ葉っぱとか」

 次の「別に」は無かった。その代わり、頭が僅かに動いた後、シキはシュウの方を向き、布を肩に掛けて起きあがった。膝を立てて壁に背を付け腕を落としているという何とも気のない座り方だったが、目だけは違う。

 どの単語かは解らないが、触れるものがあったようだ。睨む目つきが、いつもより鋭い。

「何だっていいだろ」

「何だっていいかもしれないけど、口にしてる物の原型が知りたくてね。おまえ、昼間はずっとここに居るけど、昨日の夜とか、時々居ないみたいだし」

 シュウの言葉に、シキは眉をぴくりと動かした。反応有りと見ていい。

はやってるんだろ?」

 口調を変えた。問うのではなく、確かめる。

 およその見当は付いているが、答えは当人の口から訊きたかった。

 溜息をついて、シキは一度目を落とす。その間に、彼の頭の中で何が巡っていたかは知らない。言い訳を作っているのか、それとも覚悟を決めているのか。シュウには分からない。

「……掃除屋」

「ってゆーと、つまりは……」

「……人殺し」

 低い声が返ってきた。

「……」

 予想に反しない答えなのに、何故か言葉は耳を抜けていった。

 この男が、人を殺すことを生業としているのか。

「似合わねぇな。殺しても虫くらいにしか見えないのに」

「見えても見えなくても関係ない。あんたが訊くから答えただけだ」

「そんな答えで満足するかよ」

「じゃあ、なんて答えればあんたは満足するんだ? え? 身体売ってるとか言えば納得するのか?」

 シキは至って真面目な顔をして言っていた。しかも極めて不機嫌な顔で。

 まさかそういう話に発展するとは思っていなかった。男娼だとするなら気配がもっと違うはずだ。シキにはそう言う類の色が無い。何の縁か、その気配を僅かだが見分けられる程度に、シュウはそれを知っている。

 懐かしい。

 懐古しつつ、シュウはズボンの後ろポケットに手をやった。そこから残りの札を取り出す。まだこんなに残っていたのか、とシキがあからさまに呆れる程その手の中には大量の紙幣。それをひけらかして口元を上げた。

「そしたら今夜は俺が買う。絶頂に連れてってやるぜ?」

 あいつには言えなかった冗談。思いつきもしなかったあしらい。それが自然と出てくるということは、成長の証か、関係性の違いか。

 きっと激高されるだろうと覚悟して言った。しかし、それを聞いたシキは、怒るどころか、

「くっ」

 と小さく吹き出した。そのあとも暫くくつくつと笑った後、その笑みのままシュウを見、

「あんたには売らねぇよ。……勿体ない」

 やっと冗談が通じるようになったらしい。

 くだらないことを言うのも命がけだった数日前が嘘のような笑みが、今目の前にある。

 恐らく年下であろうこの男は、子どものように怒り、笑む。彼はどうしようもない寝ぼすけで、低血圧。嘘が下手な一匹狼を気取る寂しがり屋。一切の苦を細い理性の糸で縛り付けて抑えている。不器用過ぎて愛しいほどに。

 その不器用な手で、この男は、願いを叶えてくれないだろうか。

 無い物ねだりをするのをやめてもいい時。

 その時を、シュウはただひたすら待っている。

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