第6話

   6.


 その日の夜はかなり冷えた。この季節に良くある思い出したような寒さだ。

 真冬に戻ってしまったのではないかという錯覚を覚えながら、シュウはベッドから這い出た。ベッドで小さくなって寝ていたせいか、身体中の筋肉が収縮して伸ばすのが痛い。ちゃんと上掛けを掛けていたのに、指先が冷えている。顔でも洗おうかと台所に向かおうとして、ふとシキのことを思い出した。こんな寒さで布一枚しか掛けず、しかもこの床の上に寝ているのでは、シュウの比にならないほど冷えているに違いない。

 相変わらず小さくなって寝る男だった。横向きになって、足を折り、腕を寄せて出来る限り身を縮めている。寒くても暑くてもこうして寝ている。寝息は小さく、決して穏やかではない寝顔で、眠りは浅そうに見える。小さくした身体を灰色の布で覆い、さながら倒れた置物のようだ。

 その姿を見て、シュウは肩をすくめた。もう傷は癒えているので、ベッドは返してやるべきだろう。ただでさえいつもこぢんまりと横になっているのに、こんな寒い日に尚小さく身を縮めているのは見ていて気の毒でさえある。

 もう自分は起きたからベッドに運んでやろうとシュウはシキの側に行った。屈もうとしたその時、僅かに布から出ていた腕に通されている袖が赤いことに気が付いた。

 昨日、無理矢理シキに買い与えた物ジャケット。買った服はあれからまだバッグからも出していない状態で窓の下に放られ、後にシキの枕になっていた。いつ着たのかは解らないが、恐らく夜中のことだろう。寝る時は白いシャツ一枚だった。

 口の端を上げながらシュウはしゃがみ、シキにかかった布を取ろうと手を伸ばした。が、とろんとした不機嫌そうな瞳に睨まれ、手を止めた。

「余計なコトしなくていい」

 寝惚けたような声だった。まだ半分以上は寝ているようだ。

「それ、着てくれたんだ」

「ああ……。寒かったから……近くにあったし」

「まだ寝るんだろ? ベッド使えよ。俺、もう起きたから」

「いい……。あんたが出ていったら、使うから……」

 早く寝かせろと言いたげに、シキはまた目を閉じた。

 これでまたいつの間にかベッドに寝ていたなんて事があったら、次は弾丸が飛んでくるかもしれない。それでもその寒そうな姿をどうにかしてやりたくて、シュウはベッドにあった上掛けを持ってくると、シキの上に落とした。突然の重みに悶えたような声がしたが、それも一瞬のことですぐに寝息が聞こえ始める。本当に陽が高くならないと起きられない男だ。

 俺より酷い、と思いながら、シュウは冷たい水で顔を洗った。顔のあちこちに刺すような冷たさが来て、それがまた気持ちいい。いっそこの水をシキに頭からかけてやろうかとも思ったが、そこまで悪魔ではない。寝させてやろうと思った。寝こけていられる程、今ここは平和なのだ。それをわざわざ壊すことはない。

 ――壊れるまで、……壊されるまで放って置いてやるよ。


   *


 ふと気が付くと、もう陽は高く昇っていた。窓から高慢な太陽の光が思い切り差し込んでいる。起き上がろうとして、ベッドにある筈の上掛けが自分に掛かっていることにシキは驚いた。数時間前にシュウと何か放したのは覚えているが、内容までは覚えていない。またベッドに運ばれたかと思ったが、そのベッドは目の前にある。シュウと上掛けが無くなり、その上掛けは今身体に乗っている。

 シュウが選んだジャケットを羽織ったことは覚えていた。あまりに寒くて目を覚まし、枕にしていたバッグから取り出して着たのだ。そしてすぐに寝た。上掛けはその後に掛けられたのだろうか。シキは首をひねったが、どうにもこうにも思い出す以前に思い出しようがないので考えるのをやめた。何があったかはともかく、数時間暖かく寝られたので良しとする。

 シキはもう一度空のベッドを見た。上掛けがここにあってベッドの上に何も無いということは、シュウはもう起きている。まだ回転の鈍い頭でそう考えた。しかし、台所からはもちろん、この部屋のどこからも物音一つ聞こえてこない。その前に自分以外の気配がなかった。

 ――出ていったのか?

 それは無い、とすぐに訂正した。昨日買った服は今全て枕にしている。つまりシュウの服も頭に敷いているわけだ。いくら何でも頭から枕を抜かれれば気付くはずだ。それに、シュウが買った服を諦めて去っていくとは考えにくい。

 シキはもそりと起き上がり、まずは机の上を見た。いつも通り散らかっているだけだ。次に一個しかない机の引き出しを見た。すると、昨日シュウが買っていた弾丸が一箱、そのまま入っていた。箱を持ち上げると重い。シュウが持っていた銃には二発しか入っていなかったから、それを補充する為に数発抜いたにしてもせいぜい三発。予備を数発持っていったとしても、この重みはかなりの残量がある。服はもしかしたら置いていっても、これだけの量の弾丸は置いては行かないだろう。

 一方で、タバコとマッチがない。在ったら吸ってやろうと思っていたシキは残念に思うと、また床に寝っ転がり布と上掛けを掛けて丸くなった。することは何も無い。退屈には慣れている。このまま帰ってこなくても、逆にその方がいいのではないかと思った。自分に取ってではなく、彼にとって。

 自分の熱で作り出した暖かさに意識を奪われそうになった時、錆びた玄関のドアが開く音がした。耳障りで神経にも障る音に意識を起こされる。

「何処行ってたんだよ」

 丸まったまま玄関に声を投げる。奥の部屋から玄関まで一直線だ。声を遮る物は何も無い。

「起きたのか」

 そう言いながら、帰ってきたシュウはベッドに腰を下ろした。手にはバッグがある。シキが枕にしている物と大して変わらない形の物だ。

「おまえがそれ枕にしてるから、もう一個バッグ貰ってきた」

「……買ったんじゃないのか」

「人が良くてさ、あいつ」

「あんたがイイヒトに仕立ててるだけに見えるけど」

 二人の関係は知らない。だが、一つ言えることは、シュウの方が相手を上手く使っていると言うことだ。

 それにしても、何故わざわざバッグを貰いに行ったのだろう。シュウが出ていけば、自動的にベッドはシキに戻って来、それと同時にバッグを枕にする必要はなくなる。つまり、バッグはシュウの手元に戻るのだ。

「それ、おまえにやるよ」

 シキの考えを見透かしたように、シュウが言った。シキはこの手のバッグを一つも持っていない。けれど、必要でもなかった。貰った所で使い道は中に何か詰めて枕にするくらいしかない。しかもしばらくの間だけだ。何か考えがあってのことなのか、何かこれが必要になる事態を思っているのか、シュウを見ても解らなかった。



「それにしてもこのアパート、静かだね。家賃の取り立ても来ないじゃん?」

 くれてやると宣言したものが突き返されないことを確認後、会話作りの為にシュウは疑問を口にした。

 ここに来てからというもの、害のない違和感を感じていた。アパート全体の規模としてはそこそこであるのに、他人の生活音が全く聞こえてこないのだ。人の気配もろくにしないから、もしやシキしか住んでいないのかと思ったが、まさか、とも思う。せいぜい、持ち主か管理人くらいはいるだろう。

 だが、返ってきた返事は予想を裏切った。

「大家居ないんだ」

「へ?」

「ついでに言うと、この五階建てアパート全二十室で住んでるのは、あんた抜かして三人だけ」

 住人が極端に少ないのはともかく、それに大家まで居ないとなると少し驚く。コイツは理由ワケありなんだぜ、とシキの目は語る。そんな挑発をされては、その理由を少し訊いてみたくなってしまう。

 食いついたシュウの前で、シキはあくびをしながら上体を起こし、片膝を抱えて座った。まだ本格的に目は冷めてないようで、目を擦ってはあくびをしている

「何かあったんだ」

「元々五室は空きだったんだけど」

 それが話の口火を切った。


「上から順に話すと、五階の路地側に住んでた若い男は大量の鳥の羽と沢山の猫の死体に埋もれて死んでた。変な臭いがすると思ってたらあの有様さ。早く見つかってよかったぜ」


「そいつの隣に住んでたヤツは、ガスコンロで自分の頭焼いて死んでた。ボヤで済んだけど、ひでぇ臭いだった。通り側は一つ空きで、もう一つはまだ誰か住んでたかな」


「俺の真上に居た四十代くらいのおっさんはバスタブにひたひたにお湯入れて、手首滅茶苦茶にかき切って沈んでた。理由は不明。自殺で片づいた」


「その隣に住んでたのは自分の爪囓り取って死んでた。それ以外に外傷無し。路地側は一つ空きでもう一つはまだ誰か居る」


「俺んトコの目の前に住んでたバアさん。前から神経質そうな顔してたけど、ついに気が違って踊りながら空を飛んでいった。可哀想に、羽がなかったから地面に呼ばれて頭が割れた。裏路地で一週間以上放置されてたよ」


「バアさんの隣に住んでた女は、さんざん自分の髪の毛毟った後、テレビに頭突っ込んで死んでた。こっちも原因不明」


「俺の隣に住んでたヤツが一番変な死に方で、越してきて二日目に居間に倒れてただけ。外傷もなければ薬でもガスでも病気でもない。目を剥いて死んでただけでそれ以上何も無し」


「俺の真下に住んでたヤツはそこら中に頭打ちつけた様な跡残して死んでた。誰かにやられたって言うより、自分でやったって感じだったらしいぜ。俺、見てないからわかんないけど」


「最後の極めつけは大家でさ。残ってた奴らが怖くなって引っ越しちまった後、大家のバアさんも流石に怖くなったみたいで、ある日ワケのわかんないこと叫びながら通りに駆け出していったんだ。何か悲鳴が聞こえたと思って外見たら、部品になって散らばってた」


 シキは感情無く淡々と言葉を繋いだ。遠くで起きた昔話を朗読しているようだ。遠い目をしながら、誰かに聞かせるというより記憶を蘇らせる為の独り言のようでもあった。

「みんな、狂ってるな」

 死臭しかしないその話の正直な感想だった。それを聞いてシキはこちらの世界に戻ってくると、嘲笑とも哀愁とも解らない顔でシュウを見た。

「ああ。みんな狂ってやがる。残ってる二人も、頭の線が何本か切れてるヤツばかりだ」

 シキは腕に顔をうずめた。肩を震わせることもなくそうしていたが、シュウには何故かそれが泣いているように見えた。何がそう見せるのか解らない。この話の何処で、シキがそうしなくてはいけないのかも掴めないのに、事実の有無はともかくシュウにはそう見えた。

「みんな狂っていくんだよ。みんな……」

 シキの溜息が聞こえた。深く、毒を持つ溜息。シキはもう片方の膝も抱えるとごろりと寝転がった。顔は隠したままでシュウには見えない。



 何故話したのだろう。

 今となっては解らない。

 シキは自分でもどんな顔をしているか解らない顔をシュウに見せるわけにはいかないと、上掛けの中に潜り込んだ。後悔の渦は溜息でも止められない。話さなければ良かったと、頭の中で何度も声がする。こんな事話さなくても良かったのにと、自責の念が重くのしかかってくる。こうして苦しむのは、愚かな自分が昔を蒸し返したから。

 調子が狂う。シュウが来てからずっとだ。これもある種の〝狂い〟だとするなら、遂に自身も冒されたらしい。自然と自嘲が零れた。

 ベッドを軋ませて、シュウが立ち上がった。彼は数歩歩くと、シキのすぐ側に座り、手を乗せた。小さい子供を寝かしつけるように手は優しくシキを叩いた。伝わってくる微かな振動が懐かしかった。遠い昔に感じた振動と、さして変わらない。そして、じんわりとぬくもりが伝わってきた。

 苦しみが、波にさらわれるように薄れていく。その代わりに眠りが押し寄せてくる。虚ろになった意識の向こうで、シュウの声がした。

「俺は狂っていきはしないから、心配しなくていい。そいつらと違って、俺は狂気に死ぬことはない」

 何を根拠に言っているのだろう。疑問に思ったが、問う気力が既に無い。

 シュウの手に誘われ、ゆるゆると眠りに落ちていった。



 シュウは窓の外を見た。少し風が出てきて、砂が舞い始めている。手の動きを休めることはなく、一定の間をあけて手はシキに平穏を与えた。だんだんとシキの苦い気配が無くなっていった。柔らかくなったそれは、眠りの気配だ。あれほど寝たのにまだ眠りは必要らしい。シキの呼吸は深い。寝てしまったことが解っても、シュウは手の動きをやめなかった。そして、シキの耳に届くことのない言葉を、舞う砂に投げかける。

「たとえ、……それに憑かれたとしてもな」


   *


 最後に感じたぬくもりは何だっただろう。本当に心底暖かいと思えたぬくもりは。肌からみんな抜けてしまうほど昔のことだ。遠く深くに嫌な思い出と共に無くしてしまったぬくもり。もう愛おしいとさえ感じない。今は感じたくない。出来るのなら、二度と感じたくない。思い出してしまう。何よりも優しくて、今にも折れてしまいそうな華のような儚さを持ったあの綺麗な女のことを。

 抱き寄せてはいけないと解っていた。触れてしまえば、この腕で包んでしまえば絶対に彼女は壊れてしまう。そう、解ってはいた。

「キミは痛いね」

 そう言って、彼女はこの腕に抱かれた。この指先だけでも彼女に痛みを与えていると思うと、こちらの気が狂いそうだったのに。それなのに、彼女は痛いと言いながら、触れてきた。まだ傷のないこの身体に、彼女の指が触れた。この身体を抱くことは、剣山を抱くことと変わりはしないはずなのに。

 茶色いセミロングで柔らかい波のある細い髪。笑う時少しだけ細めるが、少しも嫌味のない目。薄い茶色の瞳。長い睫毛。珠のような白い肌。折れそうな肢体。全てが愛おしかった。

 優しい女だった。痛いとは口だけで、本当は痛みなど感じていないような顔をして、優しく笑いかけてきたのを、はっきりと覚えている。

 傷付けることなどしたくないのに、この指は勝手に彼女を傷付けていった。彼女は傷つくだけで、傷付けては来なかったのに。離そうと思った。けれど、あのぬくもりに溺れていたいという欲望が、理性を越えていた。

 彼女は、触れてはいけないものに触れ続け、ぬくもりを与えてくれた。

 それが、最後のぬくもり。

 笑顔が消え。

 体温も消え。

 消したのは、この、手。


   *


 揺り動かされる振動に、シキは目を覚ました。身体は汗にまみれ、息は上がっている。目の前には心配して覗き込むシュウの顔が大きく映った。空色に影がかかって茶色に見えた。触れていたあの指先から温度の無くなる様が蘇る。茶色が再び青に戻った。眉を寄せたその顔が、別の表情に映った。

 それは痛みか。

 シキは自分の体温が急激に下がっていく感覚を得た。

「シュウ? ね。大丈夫? 何ともない? 痛く、ない?」

 シキは飛び起きると、シュウの腕、肩、胴、首、顔をペタペタと触れた。傷を探す焦燥を伴いながらも、何処も見ない目で触れ続ける。コイツは触れる。触っても大丈夫、という頭がどこかにあったからこそ触れられた。

 手を動かす理由は、恐怖。

 先程見たのは夢ではない。過去だ。今頃になって、記憶を押し込めていた容れ物の蓋が隙間を作って中身を撒き散らし始めている。

 また、同じ事が繰り返されているのでは……?

 思い至ったシキに、〝現在〟は見えていなかった。



 何処にもない傷を、どこかにあると必死に探しすシキの手首をシュウは掴んだ。しかしシキはシュウを見ない。この世界のものを何も見ていないような目で、どこかにあるはずと信じて疑わない傷を探している。シュウの指先にシキの脈が伝わってきた。冷たい手首の奥に、飛び上がっている鼓動がある。

「傷、痛くない? シュウ。傷。大丈夫?」

 これは親の姿じゃない。子供の姿だ。傷つけてはいけないものを傷つけてしまった時に取る子供の行動だ。

 初めて見るシキの取り乱した姿に、シュウは正直動揺した。

 こんな風になる理由も解らない。魘されているようだったから起こしただけであった。そして起きた途端これだ。左の手首を捕まれても尚、シキは右手でシュウの頬に触れていた。その目はシュウの目を見ているのに、焦点はその奥を見ている。目が合わない。

「おい! しっかりしろよ、シキ。何やってんだ」

 シキの右手も取り強く引くと、シキの顔が彼を見た。やっと焦点が戻ってきた。その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。

「どうしたんだよ。俺は何ともないって。傷ついてんのは、おまえの方だろ?」

 今度はしっかりと鳶色が空を捉える。瞬きをした時、涙が落ちそうになった。しかし、目の縁にしがみつくようにして雫は落ちない。



「俺……今、……今」

 枯れそうな声で言葉を絞っている時、はたと自分の目に涙が溜まっているのに気が付いた。今までの動作のことを放り投げ、慌てて上掛けに潜る。すぐさま涙はふき取ったが顔は上げられなかった。あんな近くで涙を溜めた顔を、しかも取り乱したあげくの涙を見られた。目の赤くなった顔など、もう見せられない。

 そうしていると、身体に何かの重みがかかった。感じからしてシュウの腕だ。今回は先ほどのように振動を与えては来ない。

「涙は嫌な過去も、嫌な夢も流しちゃくれないけど、泣いちゃいけない法ってのは無いと思うぜ」

 ――だからって泣けってのかよ。

 体裁を保つ為声を上げることなどもちろん出来ないが、滲んでくるものを止めることは難しい。この腕の重みが、涙を絞っているような気もした。

 この優しさは怖い。シキの本能がそう告げる。しかもこれは無償のものではなく、何か違うことを秘めた優しさに思えてならなかった。

 シュウの腕が当たっている部分が暖かい。自分の熱と、大気の熱以外の熱を感じたのは本当に久しぶりだった。

 夢の次は過去。シュウと出会った所為で、いろいろなことが頭の中から引き出されていく。全て忘れることが出来ずに、頭の引き出しに後生大事に仕舞い込んであったものばかり。次は何を引き出されるのだろうかと、シキは少しだけ不安になった。彼女のことを思いだしただけでこの有様だ。しかし、彼女のことだったからこそこの有様だったのかもしれない。このままシュウと居ればきっと嫌な思い出全てを吐き出す羽目になる。必死になって忘れようとして、奥深くに仕舞い込んだ過去や想い。それが突然の嘔吐に見舞われ息つく暇もない。このまま窒息するか、それとも気持ちも楽に息が出来る時が来るのか。どちらにしろ嘔吐の時は苦しい。

 この男を、これ以上近くに置いていいのか。今となっては彼の為だけでなく、自分の為にもどちらか決断しなくてはいけない。早く決断し、それを覚悟に変えなくてはいけない。全てを仕舞い込んだ虚構の安楽か、それとも長い不快と苦痛の後に来るであろう本当の安息か。どちらにしろ、良い結果が得られる確証はない。全ては賭だ。投げた賽が何の目を示すかは、誰にも分からない。何かの結果が得られると思って投げても、賽を掴む手が止まることもあり得る。何もかも曖昧だ。

 上掛けと布にくるまりながらも、シキは寝なかった。いつまで経っても腕は退かないし、いろいろなことで頭が一杯だったこともある。身体をもう一段小さくするべく、シキは腕と足を寄せた。その時、赤い袖が目に入った。いつも見えるのは白の袖なのに、慣れない赤という色であったから尚更目に止まった。

 シュウがくれた赤。それを纏って、今ここで決断を迫られている。

 その赤を捨てるか、それとも抱き続けるか。

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