第5話

   5.


 それから更に一週間近く、何に関しても特段の進展がないまま淡々と時間を浪費した。その間、シュウはもちろんシキも一度たりとも外出することはなかった。相変わらずベッドはシュウのもので、シキは寝床は奪われたまま床に転がる毎日。和やかな雰囲気は持続せず、何かと肌触りの悪い空気が溜まりがちだった。

 共に居る日数を重ねるにつれてだんだんと会話の量は増えていったが、不仲としか思えない不毛で乱暴な内容が殆どで、もっぱらシキの方から会話を打ち切ってしまう。

 狭い部屋で男二人。良くも悪くもなかったが、重要といえる問題が一つだけあった。食糧事情だ。一人でやっと暮らす程度の食べ物しかこの家には蓄えていない。備蓄はしてあっても、二人で食べればやはり減る量と早さは二倍になる。単純なことだったが、今になってそれが深刻になり始めた。しかもシュウはそれをお構いなしに食う。シキの不機嫌できつい顔が、ますます不機嫌になるのは尤もなことだった。

「暖かいモン食いに行こうって言ったろ。缶詰群も減ってきたし、買い物ついでに行こうぜ」

 シュウがそう言い出したその日は空は綺麗に晴れていた。ここ数日間、良い天気が続いている。

 構図はいつも通りで、シュウがベッドに座り、シキが布にくるまって座り込み恨めしそうにシュウを見上げている。

「減らしたのはあんただろ。それに、先立つ物が無きゃ、どうしようもないじゃん」

「それがね……」

 シュウが手を伸ばしたのは、ズボンの後ろの右ポケット。訝しげな顔を向けるシキの前に、ポケットの中身を取り出し、見せつけた。

「ほーら」

 手にしたのは紙幣の束。まとめて二つ折りにしてあるそれは、洗濯した後のようにしわしわで、一見するとクズ紙の様にも見える。あの日の雨でびしょ濡れになった物をそのままにして置いた結果としては当然だ。一度も触らずに乾かしてしまったので、原型はしっかりと残っている。貼りついてしまっている束を丁寧に剥がせば充分に使える状態だ。

「銃と薬抜かれてたからてっきりこれもパクられてると思ったけど」

 シキの訝しげな顔が、何やら苦い顔に変わった。

「そりゃ良かったな」

 あからさまに「パクっときゃよかった」という顔だ。口をへの時に曲げる様子は、小さな子供がいじけるのによく似ている。

 もういい大人であるのに、表情が一々幼い。子どもの時に表情を表に出すことに縁がなかったのかと勘ぐったが、詮索は避けた。

「で、ここに金はある。他に何か?」

 通常ならこれ以上の何かは無いはずであった。だが、シキは窓の外を眺め憂鬱な目で晴れた空を睨んでいる。僅かに身震いをして、布を喉元に寄せ、

「……知らない癖に」

 小声で毒づいた。

「今日は……出たくない」

「こんなに晴れてるのに?」

「晴れてるから……」

 青空を見る目には憎しみさえ籠もっている。見ていたくもないとばかりに逸らした視線はシュウの元に戻ってきた。

「あんた、もう外出歩いても大丈夫なんだろ? 〝いずれ〟の時が来たんだ。俺の前から消えろよ」

「でも、名前聞いちゃったぜ?」

「忘れろ。あの時はどうかしてた。やっぱり、俺の前から消えていくヤツに、俺の名前なんて必要ない」

「消えていかなかったらどうする」



 望みのないたとえ話は嫌いだ。

 たら、れば。無意識に自分も使っているが、大嫌いな言葉だ。

 たとえるだけ無駄な言葉は潰すに限る。

「そんなこと有り得……」

 言い終わる前に突然右腕を引かれ、シュウの顔を見た。言葉が途切れる。珍しく表情のないその顔が、怒っているように見えた。掴んでくる手の力は強く、掴まれた先の末端が重く痺れてくる。

「放せよ。腕が腐るだろ」

 腕に加わる痛みで声が掠れた。腰にある銃を出そうかとも思ったが、利き腕を押さえられては調節して撃つことなど出来ない。

「立てよ。行こう」

 シュウが発した言葉は意外だった。歪んだ考えを叱咤されるのかと思っていたが、そんなことは口にする価値もないとばかりの命令口調に、反駁の暇はない。

 同意しないまま無理矢理に引き立てられると、玄関まで引きずられ、表に放り出された。危うく落としそうになった布を慌てて掴む。小声で悪態をつきながら布を整えていると、シュウが隣で扉を閉めていた。

「鍵」

 仕方なく施錠し、渋々とシュウの脇に従う。横目で盗み見たシュウの顔は、いつの間にかいつもの優男に戻っている。

 ――何だったんだよ、さっきの。

 肩に掛けていた布を今度は頭から被り、荒れ果てた街へ繰り出す。

 ――コイツと肩並べて歩く羽目になるなんて。

 そう思った後、身長差の激しいことを思い出してまた嫌な気分になった。丁度良いのは座った時に頭を乗せる台にする時だけで、歩く時はいいことが無い。何かの盾に出来るかもなどと考えるが、そんなことをするのは癪だと頭を振った。


   *


 今日は風は穏やかな方で、それほど砂は舞っていない。雲が適当に並ぶ晴れた空を睨むと、シキは布を頭から被り、自分の身体を抱くようにして歩いた。少し猫背になって、上目遣いに前を見る。目にかかる髪と布の向こうに見えるのは、黄土の街。夢の中で落ちて行き着いた所と変わらない色だ。鳶色の瞳が、それを見据えて毒づく。不味いものを食べたような苦い顔をして、また布を被り直した。それと同時にまた少し猫背になる。小さい体を余計小さくしていた。

 一方彼の右脇を歩くシュウは、両手をズボンのポケットに突っ込み、首を少し傾げて、高めの背を見せつけるように肩を張っていた。血だらけの跡が残るシャツはよく目立つ。替えがないので仕方がない。顔は一見面白くなさそうにしているが、目はあちこちを見回してせわしく情報を集めている。

 シュウの様子をシキは異様な気分で盗み見していた。

 目の配り方。ただ単に見回しているわけではない。表に出てすぐにそれが判った。

 恐らくこちらが見ていることを、彼も気付いていることだろう。彼は、素人ではない。

 角を右に曲がった。少し狭い通りに入る。日照率は大通りとそれほど変わらないが、建物の間隔が無い分だけ暗く感じる。

 狭くなった道を奥へ進みながら、

「あんた、この街、初めてじゃないな?」

 前を向いたままシキは尋ねた。

「昔通った。それだけ」

 回答に対してシキは鼻で笑った。

「それだけ……ね。何を探してた。馴染みの店か?」

「はは。知らないフリも難しいな。駄目だったか」

「知ってる場所と知らない場所の目の運びは違う。節穴だと思うな」

「じゃあ、バレたついでに、こっち寄ってかない?」

 シュウは立ち止まると、左手で右方向を指した。彼が指すのは、シキもあまり行かない場所だ。小さな店がいくつかあるのは覚えているが、詳しくは解らない。

「何があんだよ」

「行きゃわかるって。多分まだあるはずだから」

 渋るシキの手首を掴み、シュウは足早に路地を進んだ。

 随分と慣れた足取りだった。口振りからするにここ最近は居なかったようだが、過去に長期にわたって滞在したことがあるように思える。迷いのない動きは、〝知って〟いるだけではなく、〝慣れて〟いる。

 引っ張られることを嫌がったシキはすぐに掴んでくる手を振り払い、不満に思いながらもシュウの一歩後ろについて歩いた。

 ――他に何を隠してる……。

 表情を窺おうにも、今の立ち位置では難しい。

 曲がってから大して歩くことなく、シュウは左脇にあった扉をくぐった。何の店かも確かめずにシキも後に続く。

「……服?」

 中を見渡して、シキは思わず呟いた。

 ここは血まみれの服一枚しか持っていないシュウが最も立ち寄りたい場所であることは解る。だが、黙ったままでいるようなことだろうか。

 解せない。

 店は外見に反し意外と奥行きがあり、かなりの品数があると見える。男物専門らしく、女物は見あたらない。試着室が右と左に一つずつ。客の姿は他に無い。すぐ脇のカウンターでは、店主らしい良い体格のヒゲを生やした男が頬杖を付いてシキを横目で見ていた。愛想が無い。

「店の中くらい灰色の布そんなもの取って、早く来いよ」

 シュウが背を向けたまま手を扇いでシキを呼んでいる。

 完全にペースにのせられている。面白くない。

 シキは店主に負けないくらいの無愛想な顔で、小走りにシュウの後を追った。カウンターの前を通る際に、店主を一瞥。相手は意に介すことはなかった。

「何で服なんだよ」

「だって俺のサイズに合う服、あの家に無いだろ」

「そうじゃなくて。俺は食い物買いに来たんだぜ? 服選びなら一人でやれよ」

「冷たいこと言わないで付き合えよ。血だらけの服で町中で歩くのも気が引けるだろ」

「俺は構わない。どうせなら自分の血で全部赤く染めればいい。買う手間省けるし。喜んで手伝うぜ」

「おまえも酷いことサラッと言うね。シキも何か買ったら?」

「何で俺に構うんだよ」

「金出すの俺なんだから遠慮しなくていいぜ。おまえ服なさ過ぎだし」

 言われなくてもそのくらい自覚はある。あまり執着がないのと、贅沢に回すだけの経済的余裕がないだけだ。

 見方を変えれば、これは良い機会だ。パトロンは金は出すと言っているし、ここの店はあの店主は気に入らないが品物はなかなか良い。

「ま、ず、は。コレ、取れよ」

 シュウの指が、頭にかかったシキの布を外した。喉元で合わせて持っていたので、落ちたのは頭にかかっていた部分の布だけ。視界が良くなったところでシキは店の中をもう一度一通り見渡し、布を肩にかけ直した。

 ――あいつなら別に大丈夫だろう。

 横目で無愛想な店主を盗み見る。相変わらずの顔で今度はこちらを見ていた。

 凹凸の激しい不仲そうな二人組を無愛想に眺めやる目のある中、品選びは始まった。

 シュウはまずシャツを手に取った。当たり障りのないごくごく普通の白の開襟シャツだ。血染めになったシャツの代わりだろう。これからの季節、長袖を買うのは誤りかもしれないが、薄手ならば使いようだ。他に手にしたのは身体の線に丁度良い薄紺の長袖の開襟シャツと黒の半袖Tシャツ。上着には柔らかい素材の黒のジャケットを選んでいる。今履いているカビの生えそうなズボンの替えとして、レザーパンツと似たようなジーンズを一本ずつ。値札を軽く見流している。足りると踏んだのか、選んだ物を手にシキに合流した。

 一方シキの方は黒のタンクトップに薄手の濃紺のシャツ、柔らかい黒のレザーパンツを手にシュウを待っていた。品数が少ないのは遠慮したからではない。特別欲しい物がないのと、買い慣れないので何を選んで良いのかよく解らないのだ。

「おまえ、色足りないね」

「あんたと大して変わらない」

「何か一つ明るい物……」

 やってきたシュウはお節介にも近くにあったジャケットの並びを漁り始めた。

「俺に構うなって」

 不愉快そうにシキは眉間に皺を寄せた。自分のことに他人が干渉してくるのは何より気に入らない。まして小さい子供でもあるまいし。しかもつい二週間ほど前にたまたま知り合っただけの男に服を選んでもらう筋合いも、もらいたい気持ちもなかった。構うなという言葉も聞かず、シュウはハンガーに掛かる商品を送りながら品定めをしている。

「これ。これいいと思う」

 そう言ってシュウが取り出してきたのは、柔らかい生地の赤いジャケットだった。シキは渋い顔をする。夢のことはあったが、赤という色を意図的に嫌悪しているわけではない。赤から夢を連想することもなければ、アレルギーになることもない。ただ赤という色は自分の色ではないような気がしていたのだ。

「でも、俺、こっちの黒の方がいい……」

 シキの指さす方には、シュウの出してきたそれと似たような黒のジャケット。明るい色は自分に合う色ではない。そんな考えが頭の底に棲み着いている。一方で白は憧れている色だ。憎らしくも求めて止まない色。偏った考えも手伝って、自然と身につける物は白か寒色系の色になっている。

「絶対こっちの方がいい。似合う。これにしろ、これ」

 シュウはやけに強引だった。いつ盗み見たのか、ちゃんとシキのサイズの物を引っ張ってきている。デザインは嫌いではない。だが、気に入らないことは山ほどある。

 特に、

「何であんたにそんなコトまで押し切られなくちゃいけないんだよ」

「騙されたと思って着てみろよ」

「あんたに騙されるなんて真っ平ゴメンだね」

「可愛くねーヤツ」

 そうしている間に手に持っていたものはひったくられ、犯人ははそのままカウンターに向かった。赤のジャケットも一緒に。

「おい! 人の話聞いてないだろ!」

 暴君は聞く耳を持たない。

 実力行使まではしないが、それでも精一杯の抗議はした。

 した、つもりだ。



 後ろでシキが騒いでいるのを内心楽しみながら、シュウはカウンターに服の山を作った。山の向こうで店主が小さな電卓を乱暴に叩く音がしている。カウンターに腕を置き、身体を寄りかからせたままシュウは苛立っているシキを見ていた。

 シキは小さな事にすぐ怒る。成人しているはずなのにどこまでも子どものようだ。ある意味純粋。見方を変えればただの短気。どちらにしろ、見ていて飽きない。

「久しぶりだな、シュウ」

 値札と電卓に目をやったまま、店主が訊いてきた。

「覚えててくれたんだ。あんたも長いね、ここ」

「まあな」

 言いながら店主は服を畳み、紙袋に押し込み始める。

「あ。出来ればバッグか何かに入れてくれない? 後になっても使えるしさ」

「サービスしろって言うのか?」

「そう」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、商品と思しき布製の小さいドラムバッグを取り出した。売れ残りなのか、かなり古くさい。それでも紙より強度が格段にあることは違いない。

 その中に一度紙袋に詰め込んだ物を移している店主に、シュウは顔を寄せた。

「ね。も入れてくれる?」

 シキには聞こえないように耳打ちする。言われた方の顔が少し強張った。

「おまえ、まだ使ってるのか?」

「最近また入り用でさ。頼むよ」

「いつかにやられるぞ?」

「構わない。それに……知ってるよ、そんなこと」

 その苦しみも、成れの果ても。伝聞に留まる知識だが、知っている。

 シキに表情の変化を悟られないために、顔を別の方にやった。これ以上何を言っても仕方ないと悟った店主は奥から紙袋に入ったものを持ってくると、商品と一緒にバッグに入れた。

 その間にシュウは元の表情を取り戻し、シキを眺めやる。

「ところで、あの愛想の悪いうるさい連れは何だ?」

 自分の無愛想さを棚に上げて、とシュウはそれを聞いて苦笑。目の先数メートルには、話題にされている人物が、面白く無さそうな顔をして商品棚に寄りかかってこちらを伺っている。来る気はないようだ。

「なんに見える?」

「どうせまたおまえに巻き込まれた不幸なヤツ、ってとこだろ。金払ってから行けよ」

「釣りは寄越せよ。まあ、そう言われればそうだけど……。」

 シュウは金を払い、バッグを受け取る。差し出された釣り銭を確かめることなくポケットに押し込んだ。

 バッグを持つと、いったんシュウは店主の方に振り返った。全くの自然体の笑みを彼は零す。場にも状況にも合わない嬉しそうな笑みは、店主を呆然とさせた。

「けどね、俺の無い物ねだりも、そろそろ終わるかもしれない」

 ポケットの中から硬貨を一枚取り出すと、指先で弾いて店主に投げた。いい音がして硬貨は二人の間を渡る。

「じゃ、欲しい物手に入らなかったらまた来るよ」

 ふて腐れたシキを促して、二人で店を出る。振り返ることはなかった。



 受け取った硬貨を手にしたまま、店主は二人の背を見送った。やがて、硬貨を握る手に力が入っていく。

「おまえはそれでいいのか? シュウ……」

 声は届かない。もちろん返事は来ない。一方通行の問いかけを、彼は手元のコインを弾くことで紛らわせた。


   *


「あの店のオヤジ、知り合い?」

 本来行こうとしていた通りに戻ってから、シキが尋ねた。訊かれた方は、口元を笑わせてシキを見る。

「ああ。昔世話になってね。いろいろ手伝ってもらったこともあるし」

「仕事とか?」

「まあ、そんなところ」

「なんの仕事だよ」

「それは駄目。秘密」

「け……。……さっき、あいつと何話してた?」

「気になるの?」

「……別に」

「シキが俺にいろいろ尋ねるの、珍しいね」

「うるさい」

 店を出たときからシキは肩に掛けていた布を頭から被り直している。何の効果を期待しての動作か未だに解らないが、抜かりはない。横顔が布に隠されても、シュウにはシキがどんな顔をしているか大体見当が付いた。きっと下唇を突き出して、不満丸出しの顔だろう。本当にどんなことでも干渉されるのを嫌う男だ。本人には真面目事だが、見ていると逆に笑えるほどに。

「何に意地張ってるんだよ、おまえ。それって凄く疲れない?」

「別に。ただ俺は、誰かが俺のこと知る必要も、俺が誰かのこと知る必要もないと思ってるから、だから……」

「そう思ってて訊いちゃう自分が嫌なんだ?」

 返事はない。シキが唇を噛んでいる様子が想像し、それ以上言うのをやめた。

 ――こいつはこの布を必死に掴んで、一体何を抑えてるって言うんだ……。……怯えきってやがる。

 訊けば恐らく隠し持っている銃で風穴を開けられると思い、尋ねたい衝動を抑える。布を握る手に、心なしか力が加わっているのが痛々しい。今のシキに一番良く効く薬は放っておくことだろう。

 舗装されていない荒れた道を軽く下っていく。気にすることもない程度の坂だが、長い。

高さのないアパートの一階を商店にした通りが続く。見るからに全てが貧しい。豊かさは全て遠くの街にある。歩いても行こうと思えば行ける距離だが、ここにいる者にとってはどれだけ足を動かしても行けない場所であった。

 ここは夜になれば闇に変わるが、その街は夜でも昼間のように明かりがあるという。そしてそこには人間の持つ欲望が全てある。ここにはその下位の半分しかない。掃き捨てられた街には、醜い欲の他には塵が積もるだけだ。何処を見ても黄土と灰しかない。

 シキはそれに同化するように、シュウはそれから隔絶するように淡々と生きるだけ。

「そこだ」

 シキの指の先に木の戸口があった。そこは周りと変わらないアパートの一階であったが、店と解る看板はない。横幅は狭く、周りに押し潰されたように建っている。古い建物で石造りだ。一階は戸口だけで窓がない。二階から上は勿体つけたように小さい窓が一つずつあるだけ。脇にはどちらの建物のものかも分からない非常階段があり、それだけが上階へ上がる手段のようだ。その路地は人が一人通れるだけの幅しかない。

 シュウが予想していた店とは違っていた。同じだったのは方向だけで、彼の知っている店はもっと先にある。

 シキについて中に入ると暗かった。照明は切れそうな蛍光灯が天井にまばらに張り付いているだけで、お世辞にも充分な明かりとは言えない。倉庫のようなそこに人の気配はない。暗い上にこれだけ静かだと、居るだけで背中が寒くなりそうだった。それでも一応商店らしく、食料品店に良くある商品棚を半分に切ったくらいの物が二つ三つ、並列に整列している。入ったすぐ目の前の奥に下りの階段が見えた。薄暗い洞穴への入り口のようにも見える。

「ここ、無料のお化け屋敷?」

 シュウがシキの耳元で言った。ふざけて言ったことではあるが、二割ほどは本気だ。窓のないそこは温度も並外れて低い。壁は触るとすぐに手が黒くなるほど汚れ、天井の隅には蜘蛛が我が物顔で罠を張っている。店の主の気配は無いし、棚にある数少ない商品はほぼ全て埃まみれになっている。いつの物か分かったものではない。

「しっ。無駄口叩くな。あんたの所為で俺まで出入り禁止できん喰らったら食えなくなるだろ」

「出禁ってなに」

「ここのオヤジ、くだらないことにうるさいんだ。出禁喰らたのにまた現れたやつが店先で三つ目の目を入れるでかい穴開けられてるの、一回見たことある」

「……そう」

 きっと骸骨に皮が張り付いたような顔の気の短い頑固な小男なんだろうと、シュウは勝手に想像つけて店を一回りした。ざっと見回しただけだが、これで良く〝店〟と言えるものだと内心で呟く。廃屋の倉庫の間違いじゃないかと一瞬考えたほどだ。

 シキは腐りかけた木のカウンターを二、三度叩いた。湿気った音がする。強く叩けば崩れてもおかしくなさそうだ。

 数秒、沈黙が漂った。

 シュウが店の端で防水マッチと弾丸の箱を見つけたとき、例の洞穴のような階段の下から、靴の音が聞こえてきた。何かを抱えて、誰かが来る。

「今回は随分早いな、シキ」

 がっしりした筋肉を持つ大男が段ボールを抱えてやってきた。それを見たシュウは創造したものとのギャップに一瞬目を剥いたが、急いでマッチに目を戻す。男はシュウに気付いた様子はなく、箱を壊れそうな板の上に乱暴に置くとカウンターに入った。

「まあな。食い扶持増えちゃってさ」

「女か?」

「それならストレス溜まんないよ」

 シキが目線を送ったのだろう。店主の視線が横顔に刺さってくるのが解った。ふうん、と鼻で言うと、頼まれもしないのに男は箱の中身を袋に詰め込み始めた。

「そう言う趣味か」

「おいおいおい。あいつが勝手に居着いただけで、俺は関係ないの。俺を変態みたいな目で見るな」

「はいはい」

「……。だからいつもより多く頼むよ。金はあいつが払ってくれるから。あと、コイツのマガジンを二つ」

「それと、タバコとコレもな」

 マッチと弾丸の箱を持った手をシキの肩越しから差し出した。

 すると、凄まじく不満げな顔が振り向いた。文句を並べたそうであるのは解る。しかし、金を払うと言っているのに何故睨むのか、理解に苦しむ。

「声が死んでる」

 首を傾げているとシキが言った。

 あまり感情がこもらない声質であることは自覚していたが、どうやらそれを咎められているようだ。咎められても、と、眉をハの字にしてみせる。

「そう俺を蔑むなよ。何悪いコトしてる訳じゃないんだしさ」

「三つにしてくれ」

 そう言いながら、シキの指は五本立っていた。男は頷いて下の棚からマガジンをもう三つ取り出す。その時男が右の肘をさすっているのが目に止まった。袋詰めの動作をしながら、何度か肘をさすっている。

「痛むのか?」

 シキが問う。

「最近多くなってきたけど、時々な。原因がわかんねぇってから苛つくんだけどよ。あのヤブ医者がよ」

 それを聞いて、シキの顔に影がかかった。眉間に深い皺が出来る。刻まれ慣れたその皺の深さは何を意味するのか。

「……すまない」

 辛うじて聞き取れるだけの声を残すと、シキは扉に歩き始めた。言われた男はその言葉の意味が全く解っていない。手を動かしながらシキの背を怪訝な目で追うだけだった。

 無論、シュウにも解らない。因果が破断しているようにしか見えないが、シキにとっては違うようだ。

「シキ、何処に」

「金払っとけよ」

 シュウの制止を流して、シキは扉の向こうに消えた。

 銃でなくても身体に穴の一つや二つ開けられそうな大男を前にして、シュウはこの気まずい雰囲気に寒さを感じた。だが、シキの数少なそうな知り合いのこの男に、少しだけ興味がある。あの二人の会話はどう聞いても細かいことにうるさいオヤジとそれを恐れる男の会話ではない。

「シキのこと良く知ってるんだ?」

 金を払いながらシュウは訊いた。

「二週間おきくらいにここに来るだけだよ」

 酷くぶっきらぼうに答えが来た。嫌われたのかもしれない。

「あんたがシキの名前知ってたからさ。俺にだってなかなか教えてくれなかったのに」

「そんなこと俺が知るか。俺は素性の解るやつにしか売らないから名前を聞いた、そしたらあいつが『シキだ』と答えた。ただそれだけさ」

「ふうん。銃で脅して?」

 言ってはならなかったかと思ったがもう遅い。言葉は口から出尽くしていた。撃たれそうになっても応戦する準備は常に整っているのでそれほど心配はしていないが。

「『撃てるもんなら撃て。俺は死なねぇ』って顔してたからやめちまったよ。あんな目されたら撃つモンも撃てねぇよ」

 答えは意外とすんなり来た。銃撃されることもなさそうだ。男の言う「あの目」が、シュウには想像できた。あの余計なまでの存在感の理由は、あの目だ。不思議の泉のような鳶色の目が逸れることなくまっすぐにこちらに向くと、何もかも奪われていくような気がする。小馬鹿に見下したような目でも、その強さは変わらない。あの目は魔力の宝石だ。シュウはそう思う。

「肘悪いのはシキに折られでもしたのか? 謝ってたけど」

「それは俺が訊きてぇよ。言っただろ。原因不明だとあのヤブが言いやがった」

 話を聞いていなかったわけではない。念の為、と言うヤツだ。どれほどのヤブ医者なのか知らないがそれでも医者の端くれには違いないだろう。それについては確かめようがないので詮索を控える。語調が少し荒くなり始めたのを感じ、シュウは撤退時を悟った。そろそろカウンターの下に隠してあるだろうショットガンが暴走し始めるかもしれない。そうなる前に退散するのが好ましい。

「じゃあ、今日はこれで」

「あばよ」

 早く消えろと言いたげな声が背中にぶつかってきた。それに押し出されるように外に出る。シキは壁に背を付けて待っていた。目深に被った布から、僅かに覗いた横顔が見える。顔には影が落ちていた。しかしその目は真っ直ぐに、睨み付けるように目の前にある何も無い壁を見ている。壁の向こうにある何かを貫いているようだ。

「お待たせ。一つ持ってくれるか?」

「……そっち」

「悪い」

 明らかに軽いバッグの方にシキは手を伸ばした。バッグを受け取ると、シキは持ち手を持ったまま肩に担いだ。その態度が酷く気怠く見える。声にも影が落ちている。あの男の肘の具合と何か関係があるのだろうが、その関係が全く見えない。あのシキが謝る位だから、少なくても本人は自分に非があると考えているのだろう。しかし、相手はそれを否定している。

「くだらないこと考えなくていい」

 変に黙っていた所為で考えていたのがバレたようだ。誤魔化す為に食料と弾丸の入った紙袋を抱え直す。ずっしりと重い。長い間持っていれば、腕が硬直してしまいそうだ。そしてこの坂。大した傾斜ではないと甘く見ていた。いくら緩やかとはいえ、この荷物にこの長さだ。ただでさえ重い物が、更に重く感じる。

 しかし、脇にいる男の方が、腕に抱える荷物よりも重たく感じる。腕に感じる重みと、脇にいるという重み。それを天秤にかけるだけ無駄のようにシキの存在は重い。彼を覆う灰色がなければ、それは更に強くなるだろう。

 そう感じるのは自分だけだろうか、とシュウは自問する。脆そうな紙袋を通して感じられるマガジンの縁を指でなぞりながら、左の頬にちりちり感じる熱のことを考えていた。視線をやればきっと不機嫌な顔で何か言って来るに違いないので、真正面に焦点を放る。見えるのはやはり黄土だった。殺伐とした黒に汚れそうな黄土。全てがその場限りで、永遠などと言うことは言葉さえも忘れそうだ。生きることさえも不確かで、強さと狡賢さか存在感の無さが命の保証になる。そこで灰になろうとしている一人の男は、その保証のうちの少なくても一つ持ち合わせていない。こんなにも必死に覆っているのに、布は何も覆ってはくれない。

 ――じゃあ、この布の役目は……?

 シュウは以前から気になっていることがもう一つあった。シキの手袋。半指のドライバーズグローブと思しき物だ。思えばいつでも付けている。右手は手の甲の肌が覗えるが、左手はそうではない。見えるのは皮膚ではなく汚れた包帯だ。その包帯は手首にも顔を出している。部屋の中でも寝る時でも外したのを見たことがない。もし手袋の下にシキの明かせないスティグマが在るのなら、彼が覆いたい何かはそれ自体か、もしくはそれに関する物なのかもしれない。

 布。

 窓の外。

 手袋。

 無い物ねだり。

 考えていると、シュウは微かに空腹を感じた。そして出会って初めて交わした会話の最後にした約束を思い出す。今日出てきたのも、それを果たす為だったのに、今まで忘れていた。袋を抱え直し、それを切り出そうとしてシキの方を向いた時、鋭い目が見上げてきた。

「あんたが頭の中で何考えてるか知らないけど、俺はそれについて答える気無いからな」

「何で俺がおまえのこと考えてると思う?」

「視線の向きがわざとらしい」

 よく見ている。悟られることを避けるあまりに避けすぎたのが逆に裏目に出たようだ。

「暖かいもん食いに行こうって言ったじゃん? どこかいい店知ってる?」

「あんたの方が知ってるんじゃないの?」

「まあ、知らなくはないけど」

 丁度この会話をしていたのは、洋服屋に入る角を過ぎて坂が終わりそうな辺りであった。この辺りは特に裏路地に通じる道が多く、また露店も多い。その中の一点にシキの視線が行った時、彼の動きが鈍った。彼が歯を軽く噛み締めたのが、シュウにも解る。だが解るのはそこまで。シキは僅かに俯いて、視線を前から逸らした。

「どうした?」

「前見るな」

「何で?」

「あいつらが居る」

 その仕草や言い方は、怯えていると言うより、苦手な物を嫌がっているようだ。シキの視線が向いていたであろう方に見当をつけて、さりげなく観察する。すると、目立つ色のシャツを着た狡猾そうな男が二人、角の入り口で顔を突き合わせて会話をしている。

「あいつらと何かあるの?」

「何がある訳じゃない。嫌なんだ」

 そうこうしている間に、向こうの方がこちらに気付いた。何か言いながらこちらに近づいてくる。

「天敵?」

「それは俺」

「それなら普通逃げるんじゃない?」

「中には変わり者が居るんだよ」

「それじゃあちょっと蹴散らせば済むこと……」

 言いかけのシュウに、先ほどとは比べ物にならない鋭い目が向けられた。その目はまた、苛立ち、焦って居る。

「あんたとの約束は今回は無しだ。行くぞ。とにかくあいつらは俺とんだ」

 言い終わると、シキはシュウの腕をとって近くにあった路地に走り込んだ。それを見た二人組は物騒な物を取り出しながら後を追ってくる。

「逃げるのか? 戦ったらどうだよ。おまえ、割と強いんだろ? 銃だって在るし」

「そう言う問題じゃないんだ。構わないのが一番なんだよ」

 今回はシュウがシキに引きずられる。コンパスはシュウの方が長いにもかかわらず、シキの方が速い。シュウは時々前につんのめりそうになりながら、引かれるままに逃げた。複雑な路地を何度か曲がったが、それでもしつこく二人の男は追ってくる。手にしている物騒な物は互いに違っていたが、少なくてもその片割れの手にある物はピストルだ。弾が何発入っているか解らないが相手がその気ならいつでも撃てる。

「少し頭伏せて曲がれ!」

 シキの命令が飛んできた。言う通り次の角を右に曲がる時、シュウは首一つ分ほど頭を下げた。障害物があるから下げろと言ったと思っていたが、角を曲がろうとした刹那、頭上を一発の弾丸が掠めていった。風に浮いていた髪が数本散ったのが解る。後二センチほど頭が高く上がっていたら頭蓋の一部までこそがれていたことだろう。喉の奥を唾が流れていった。

「よく解ったな」

「あのくらいなら解る」

 シキはあのくらいと言ってのけるが、実際全く後ろを見ていないのに解る方が凄い。否、凄いと言うより、普通は出来ない。普通ではなても出来ない。冷や汗よりも不思議を感じながらシュウは足を回転させていた。こちらは荷物を抱えているのでどうしても走る速度を制限される。徐々に距離が詰まりつつあった。そのことをもちろんシキは知っていることだろう。何か策はあるのかとシキの方を見ると、

「次の角で左右に分かれる。そしたら走り抜けるかどこかに隠れてろ」

 シュウの目を知ってか知らずかシキは彼が見た途端即答した。

「おまえはどうするんだよ」

「追われてるのは俺なんだから気にしなくていい」

「そう言うわけには……」

「ほら! 行けって!」

 掴んでいた手は突き飛ばす手に変わり、シュウを右の角に突き放した。シュウは転ぶのをどうにか避け、少し走ったが気になって振り返った。

 二人の男はシキの言った通りこちらには来ないで、シキの言った左の角に向かって走っていった。路地の闇に吸い込まれ、男の姿さえ見えなくなる。

「あいつ、何する気なんだ」

 シュウは向かいの路地の様子を見る為に、通りへと歩いた。

 一方、二人の男の方は路地を在る程度進んだ所で立ち止まってしまっている。見失ったらしい。

「消えやがったぜ、あの野郎」

「んなわけあるか。この距離をあんな短時間で走り抜けられるわけないだろ!」

「でも……」

 男達が言うように、シキの姿は忽然と消えていた。路地は長く、彼らが言う通り短い時間で走り抜けられる距離ではない。しかし、事実彼らの目の前からシキは消えたのだ。まるで手品か、それでなければ神隠しのように。

 しかし、それは視線を地面に平行に流していた場合の話。

 手にした武器を苛立つように握り締め、為す術もなく地団駄を踏む二人。そこに、不自然な風が流れた。本能的な寒気が二人を襲ったに違いない。

「下ばっか見てねぇで、少しは上見ろよ」

 二人に声が降り注ぐ。同時にカチャリという音がして、二人は同時に上を見上げた。すると、すぐ近くにあった非常階段の二階と三階の中間の階の柵に片足を引っかけてぶら下がっているシキが居た。手にはピストルが構えられ、顔には悪魔的な笑みが浮かんでいる。遠目でもそれがよく解った。布は足をかけている場所の踊り場に脱ぎ捨てられ、持っていた荷物もそこに投げられていた。

「テメェ!」

 銃を持った方の男がそれを構えようとした。だが、すでに構えているシキには到底及ばず、肩が上がる前に、右肩の骨を撃ち砕かれた。男は悲鳴を上げて肩を押さえる。反動で銃を捨ててしまい、足下に転がっている。もう一人の男が銃を拾おうと手を伸ばした。その男が持っていたのはナイフだったので、銃を使おうと思ったのだろう。ナイフを投げるという頭は無かったらしい。が、銃に手が触れる前に手の甲に大きな穴が開けられた。叫び上げ、尻餅を付いた男に追い打ちをかけるように、もう一発の弾丸が男の太股を撃ち抜く。しかも正確に骨を割る位置に。

 計三発。狙いを寸分も外すことなく、かなり無理な姿勢ではあったがシキは的を正確に射抜いた。

「親切な撃ち方してやったな」

 感心しながらシュウは荷物を抱えてゆっくりと歩み寄った。シキが非常階段の柵にぶら下がっていることは、男たちが言い合っている時から気付いていた。それを見て心配はないと焦るのをやめて呑気を決め込んだのだ。それは間違いではなかった。追っ手のうちの一人は二度と右腕を使うことが出来なくなり、もう一人は手に通し穴を開けられ、普通の歩行を永遠に奪われた。

 シキは上体を上げ、布とバッグを取ると、引っかけていた足を外して降りてきた。軽業師のようなその動作は鮮やかだ。かなりの高さがあったが、軽い音を立てただけでシキは地面に降り立つ。ふわりと砂埃が舞い上がった。銃を腰に差し、布を肩にかける。柔らかく舞った布がシキの身体に落ち着いた時、シキの視線は冷ややかに、足下で呻く男二人に向けられていた。怯えに引きつり、傷以外の痛みさえ感じているような表情が転がっている。

 シュウには解らないその理由を、シキは知っている。だからこんな目をする。

「次は、死ぬぜ」

 「殺すぜ」じゃないのか? とシュウは思ったが機嫌の悪い所に油を注ぐことはない。シキはその場を離れる時、しっかり相手の銃とナイフを奪っていった。追い打ちを防ぐ為と、武器は多いほど良いということだろう。歩きながらマガジンを確かめると満足げにそれを腰に差した。ナイフはポケットに仕舞う。

「世の中触っちゃイケナイ物もあるって覚えといた方がいいんじゃない?」

 シキより更に高い位置から見下ろしていたシュウは、哀れな二人に置きみやげの教訓を投げつける。その言葉に対してかは知らないが、倒れている二人の顔が更に歪んだ。

「莫迦言ってないで早く行こう。構うこと無い」

 路地から抜けようとしていたシキが促す。笑みを一つこぼしてシュウはシキの後を追った。



 地に伏す男たちの視界から、凹凸の激しい二人の姿が消えた。影が去った後も口の戦慄きが止まらない。そして、別のことに恐怖を覚えていた。

「なんで、何であの野郎……あいつと、居られる……?」

「笑ってやがった……。、あの野郎……、何であいつと……」

 二人は呪文のように同じ事ばかりを呟き、痛みと不可解の中に意識が消えるまでそれを繰り返していた。


   *


「前、俺が殺しかけた」

 アパートに向かう途中、シキの方から切り出してきた。

「今回だってそうだろ」

「手段がかなり違うんだ」

「ふうん。で、それで恨んでるわけ?」

「世の中には訳の分からない恐怖に対する態度が二種類在る。一つは畏怖して逃げる。もう一つは恐怖を虚勢に変えて突っ込んでくる。どっちか」

 何故かシキの言葉が沈痛に聞こえた。普通ああいうことがあった後は気が立っているものだ。こういった声になることはあまり考えられない。シキが爪先で地面を蹴り飛ばすように歩いているのは、苛立ちか、それとも他の何かか。シュウの窺い知れる範囲ではなかった。

「おまえならどうする? そう言う訳のわかんない物に出会った時」

「俺なら逃げる。逃げても駄目ならそれを殺す。殺せないなら、俺が死ぬだけだ」

「俺も同じだな。突っ込んでいく気はしないな。それが、恐怖を覚える物なら特に」

 アパートの前に着き、シキはボロの扉のノブに手をかけた。動きが止まる。あれから布は頭に被っていないが、シュウには後ろ姿しか見えないので表情が解らない。

「変な所で、……似てやがる」

 微苦笑混じりの声が聞こえ、扉が開いた。そのままシュウを引き離すような早足で階段を上っていった。軽い足取りが続いた後、上で扉を乱暴に閉める音が聞こえた。

 取り残されたシュウは重たい荷物を抱え直し、ゆっくりと階段を上る。シキがしていたであろう微苦笑をその口元に浮かべながら。

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