第4話

   4.


 ある朝。シキは久しぶりに早く目が覚めた。床に寝ていて身体が痛かったこともある。背中や首が特にズキズキするのは、このボロくて堅い床と、他人のベッドでぐっすりと寝ている図体のでかい荷物のせいだと舌打ちをした。

 早く目が覚めたと言っても、時刻は朝と昼の中間であった。太陽が斜めに差し込んでくる。南側に窓が面しているので、時計が無くても大体の時刻は分かった。

 シキはいつも掛けていた布をその場に落として立ち上がると、近くにある方の窓を開けた。ぎしぎしと耳障りな音をたてて、外側に窓を押し開ける。

 緩やかな風が流れ込み、顔を撫でていく。今日の風は穏やかで、砂は舞っていない。風が強くなると、家の中まで砂漠化してしまうのでおちおち窓も開けられない。窓の開けられる日が貴重であり、また楽しみに似たものにもなっていた。その日は、檻に放り込まれている囚人の気分を味合わなくて済む。窓枠を太い格子と錯覚することもない。

 しかし楽しみなのは風に関してであって、晴れの日は憂鬱でもあった。身体に巣くう呪われたモノの制御が利かなくなる。外に出ることを避けるため、窓を開けるだけで開放感を味わうしかない。格子が見えないだけマシだ。

 巻き込まないためにも、この薄汚い箱の中に居ることが、自分に出来る数少ないことでもあった。

 シキは背伸びをした。身体中が痛いと悲鳴を上げている。全身の筋が伸ばされ、その何とも言えない心地よさに自然と顔が綻んでいた。肺の奥まで酸素が染み入る。

 太陽の刺激を受けたのか、生あくびが出た。目にうっすら涙が溜まった。

「へぇ……。今初めておまえがイキモノに見えた。ずっと灰色のオキモノみたいだったけど、なんか、安心した」

 完全に油断していた。

 突然のシュウの声にあくびの最後を飲み込んでしまった。いつの間にかシュウはベッドの背に凭れ、こちらを見ている。見られていることはおろか、シュウが起きあがったことにすらシキは気付いていなかった。シュウの動作には気配があまり伴わない。気を張っていないとすぐに見失う。気を抜いていた結果がこれだ。

 何度も思うが、不快だ。自分以外の誰かが部屋の中にいる。我が物顔で、この呪いを歯牙にも掛けず。

 シキは窓の前から離れ、壁に凭れてシュウを見下ろした。布は床に落としたまま、ズボンのポケットに両手を突っ込み目の前の男を眺めやる。

 言われたことを一度頭の中で繰り返しながらシキはシュウを見る。

 イキモノ。

 オキモノ。

 勝手なことを言ってくれる。

「そうか。けど、生憎俺にはまだあんたがイキモノに見えない。まだ食い物以下だし、それに……ニセモノみたいだ」

「そりゃあずいぶん下等だね。蝋人形にでも見える?」

「そんなトコかもな。変に笑ったりするくせに、あんたの話し方、言葉を話せるモノのそれに聞こえない。なんか、表情のある機械がここに居るみたいで、好きじゃない」

「機械か……」

 シュウはシキから視線を逸らして正面を向くと、小さく鼻で笑った。その笑いの意味がよく解らない。何故こんな事を言われて自嘲の笑みを漏らすのか。

「あんたの言葉は、あんたが聞こえてこないんだよ」

 付け足した言葉に、シュウは今度は口元を上げた。言われたことを気にしている様子はまるでない。そしてその表情のまま、再びシキの方を向く。見てくる顔に表情はあっても、淡々としすぎた言葉はどうしても表情が見えない。顔にはこんなにも表れているのに。

「じゃあ、俺の言葉なんて聞かなくていいからさ、俺を聞いたら?」

 言われて、シキは無言のまま訝しげな顔をして首を僅かに傾げた。

「おまえは俺の言葉を聞いてるんだろ? だから、言葉じゃなくて俺を聞けって言ってるの。他にもいろいろ言うところ、在るだろ?」

 もう一度シュウは笑った。

 目の前で偽物のような空が笑っている。目は口ほどにものを言う。成る程。表情だけは豊かなシュウの目は確かに多くを語ってくる。うるさいほどに。

 長いこと他人の目を見ることをしていなかった。避けていたのではなく、出来る状態になかっただけだ。

 誰かの目を見るとは、こんなに首が痛くなる事だっただろうか。見下ろしているのに、必要以上に疲れる。でも、悪い気はしない。

 嬉しいのかも知れない。口元が緩んでいくのが自分でもよく解った。

「おまえこそ、ずっと仏頂面してたから顔じゃ笑えないのかと思ったよ。いい顔するじゃん」

 いい顔をする、という言葉に眉を顰めはしたが、それははにかんだ苦笑いのようになってしまった。

 ――言わないでくれよ。同じ事、言わないでくれよ……。

 表情は顔に貼りついたまま、また黒い物が蘇ってくる。



 ――不器用だなぁ。

 子どものような笑みの後ろに、隠しているものの正体を知る由はない。

 シュウが何となく見た空に、雲が僅かに浮いていた。薄っぺらなそれは雨を呼ぶものではない。

 白くて、柔らかそうで、美味しそうだ。

「あの雲が食えたらなぁ……。タバコ無いし」

「贅沢言うなって言ってるだろ」

「無い物ねだりだよ。今のおまえと同じで」

「……うるさい」

 空を見る目が物欲しそうだと思ったのは間違いではなかったらしい。さりげなくつついたら拗ねて俯いてしまった。

 何処まで予想が当たっているのかは解らない。色々抱え塞いでいるのは間違いなさそうだ。年齢不詳のいじけ顔は酷く幼く、つい手を差し伸べたくなる。本人は望まないだろうが。

「ところで……――おまえさ」

 やはり名前を呼べないのは辛い。いつも「おまえ」では、会話が繋がりにくい。それを言えばきっと、彼は「会話なんぞしなくていい」などと言い出しそうで、結局は二人称は一つだけ。

「……〝シキ〟だ」

「ん?」

「俺の名前。まだ言ってなかっただろ」

「シキ、ね。じゃあ、改めて、宜しく」

 と、前と同じようにシュウは手を差しのべた。視線の位置は前回と逆だが、そっくり同じ形でその手は相棒の手を求めた。

 シキは緩やかな動きで壁から背を離すと、ポケットから両手を取りだした。

 が、その時遠くから軽い地鳴りのような音が聞こえて来た。同時に二人の注意は台所へと向く。

「ヤベ。水来る」

 動作で生み出された風と言葉の余韻だけをそこに残し、シキはそのまま一目散に台所へ消えてしまった。残されたものは窓から入り込んだ風にすぐにかき消されてしまった。

 差し出されたままの手は、またもや虚しく宙に浮くことになった。その手を引き戻し、シュウは手のひらをじっと見る。

「ま、いいでしょ」

 諦めの言葉を握り潰すと、ベッドから降り台所へ向かった。さっき言いかけた用件は大したことではない。何か食わないか、と聞こうとしただけだ。

 床に残された布に、何となく目が行った。

 思えば、布を肩から掛けていないシキを見たのは初めてだ。身体の半分以上を常にその灰色が覆っていたこともあり、シキのイメージカラーは灰色になってしまっている。今は上はしなびた白の開襟シャツ。ズボンはいつもの濃紺のジーンズ。灰色が無いだけで、鮮やかにすら見える。

 無理矢理灰に染め上げているのはなにか確たる理由がある。寒さのためでも、無論、お洒落のためでもない。子どもがタオルケットを手放したがらない類の話であれば口出し無用だが、そうとも思えなかった。

 布を掴む手は頑なだ。今でこそせいぜい羽織る程度だが、始めのうちは何があっても放そうとしなかった様子を思い返し、漠然と思う。

 何を護りたいのだろう、と。

 布を一瞥し、シュウが台所に顔を出した時、丁度赤茶けた水が蛇口から勢いよく噴き出し始めた。その汚れた水にシキは顔を汚されている。滑稽な様をシュウは堪えることなく笑ったが、眉を釣り上げたシキに横目で睨まれた。

 ――プライド高いって言うのか、不器用って言うのか……。

 言うことを聞かない水を悪戦苦闘しているシキに笑みを寄せていると、胃の奥に違和感を覚えた。黒い澱。それがざわめくのを感じ、何事もないような顔をしながらベッドまで早足で戻った。

 机の上に放ったままだった薬を一錠取り出し、カプセルを割ってその中身を口に流し込んだ。中身は粒状だが、水無しでもどうにか飲める。残ったカプセルを窓の外に放ると、二つのシートを取り上げ、残量を数えた。

「……十三……か」

 残り十三錠。

 カウントダウンは始まっている。

 シートを元の机に戻そうとして、手を止めた。後ろめたい気持ちに奥歯を噛む。僅かに迷った後、ズボンの左ポケットに薬を押し込んだ。

 溜息を一つ。もう一度、握られなかった右手を見た。軽く開かれていたそれは、やがて握り拳に変わる。

「こんなのに頼って生きるっていうのも、結構辛いモンだね」

 誰に聞かれることの無いシュウの言葉は、自らの虚しさに痛いほど響いた。

 身体の奥に溶けていった安心感は、やがて身体を蝕む。それを必要としなければいけない身体だということも、頼ろうと頼るまいと結果はどちらにしろ手に負えない自分であることも、誰よりもよく知っている。

 知られるのが嫌ならば出ていけばいい。傷は既に癒え、出歩くことに支障はない。家主に出ていけと言われているのを口実にすれば、いつでも逃げられる。

 残量十三。いずれはゼロ。継ぎ足せなければそれまで。

 期限付きの安息。どの道を辿ろうと軽蔑される結果があると知っても、一度占領したベッドを明け渡す気にはなれなかった。

 ――無い物ねだりをしているのは、俺の方だ……。

 差し伸べるのは掴むため。

 留まるのは縋るため。

 語りかけるのは融かすため。

 全ては願いを叶えるため。

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