第3話

   3.


 大きな窓枠が壁に一つある。

 部屋の壁紙と同じく、真っ白な窓枠。汚れ一つ無いその真四角な部屋にある物は、その窓枠と自分。それと無数の羽毛と切り刻まれた白い絹の布。どれもこれも真っ白だ。着ている服さえも、真っ白な開襟シャツにズボン。窓の外に広がるのはただ澄み切った青一色。上も下も右も左も、見える色と言えば、白とその青だけ。

 窓は出窓になっており、枠の一辺に背を付け腰掛けることが出来る。ガラスは曇り一つ無い透明。気が付いた時には、この窓枠に座り、外を、空を眺めていた。

 そう。ここではひたすらにある物を探していた。雲の白さえ見えない空に現れるだろう白を。探すことだけが全てで、それ以外は無であった。

 空が明るいうちは窓に腰掛けそれを探す。暗くなれば窓を閉め、この小さな箱を牢獄へ変えて、羽や布にくるまれて眠りを得る。

 いつまで経っても探している物は見つからない。気休めに部屋にある羽を風に流した。何度も何度も、求める物の出現を願って羽を空に舞わせた。やがては絹の布までも、願いの糧にした。

 やがて、眠りを得られなくなった。包んでくれる物を失った。

 眠ることを忘れ、盲目なまでに望みを探すことに明け暮れた。空がどんなに深い闇に変わろうとも、狂人のように、廃人のように。

 ある時、晴れた日の昼間。眼下に、緩やかに舞う白が見えた。青に隠れては現れ、風に乗り、それはどんなに手を伸ばしても届きそうもないほど遠くにある。

 しかし、青の中に初めて見つけた白を、見失いたくはなかった。この何も掴めなかった手に、それを確実に掴みたかった。

 下へ、下へ、手を伸ばす。けれど、それは指先にも触れない。

 その白が今度は真正面の方に見えた。その白は遠ざかり、やがて影を薄くしていく。

 失いたくない。

 消えかけた白を目の前に、考え無しに思い切り窓枠を蹴ると身体が宙に舞った。その瞬間、白からは遠ざかり、窓からも遠ざかっていった。どんなに藻掻いても、何も掴めない。どこまでも落ちていくことしか分からなかった。

 果てを知らない落下に、やがて身体中の感覚は麻痺した。指先一つ動かすことも出来ない。瞼は瞬きも忘れてぼんやりと開け、口は呼吸も忘れて願いを口にすることも出来ずにいた。思考が動くこともなく、過ぎ去る青だけが通過していった。

 いつしか意識は途絶えていた。

 目を覚ましてまず見た物は、赤という色だった。どこか堅い所に伏し、自らの赤に溺れていた。一面の赤の先にかろうじて見えるのは、黄土色の大地。灰色に染まった自らの身体であった。いつの間にか握り締めていた手を開こうとするが、なかなか思うように指が動かない。何時間も掛けて漸く開いた手の中にあった物は、部分的に炭化した人間の人差し指。爪は無く、まだ腐りもしていないそれは自分の物によく似ている。

 一体どこに堕ちたのか。青の空も、白の部屋も羽も見えない。溺れている赤からも抜け出せない。このまま赤の底に沈んでしまえば、一体今度はどこに堕ちていくのだろう。

 あの場所へ帰りたい。

 たとえそこが白亜の牢獄であっても構わない。この黄土と灰の世界は、どうしても居たくない。あの部屋よりも、よほどこの世界の方が狭く感じる。手も足も伸ばせないような窮屈さがある。嫌悪感が全身を駆け巡る。色が判別できない。音が届かない。何も伝わらない。何も感じない。

 あの窓から身を投じなければ、手の届かない物を掴もうとしなければ、こんな所には堕ちなかったのに。あの箱の中で、得られない物を待っていれば、こんな所には……。

 あの場所へ帰りたい。

 こんな大地ではない、空だけがあるあの場所へ。


   *


 明け方、シュウはのそりと起きあがると、机の上にあったリボルバーを手に取った。残されていた二発の弾丸を、音を立てないように込める。

 まだ太陽は昇っていない。うっすらと明るくなり始めた頃だ。

 ベッドの軋みを最小限に抑え、シュウは立ち上がった。布にくるまった家主は壁に凭れ、腕の中に顔を埋めて座ったまま寝ている。右腕は床に落ちたままだ。

 よくこんなバランスの悪い格好で寝られると、シュウは笑みさえ漏らした。

 一歩ずつ、足を滑らせるように歩く。普通に歩くとこの床は悲鳴のような軋みを上げる。それを極力抑える手段だ。

 手に銃を持ったまま、未だ顔を上げない彼の方へ一歩ずつ距離を縮める。目の前に立っても気付く様子はない。シュウは手に持った銃を、ゆっくりと構える。狙うのは傷んだ茶をした頭。この至近距離では外しようがない。撃鉄は降ろしてある。あとは引き金を引けば、目の前のある頭は微塵に弾け飛ぶ。

 銃口を的に定める。

 しかし、人差し指を曲げようとした瞬間、耳元で破裂音がした。

 指は硬直したまま止まっている。事態を瞬時に把握できなかった。

 先ほどまで寝ていたはずのシキが、顔はそのままの位置で右手にピストルを水平に構えている。それだけではない。彼の持つ銃の銃口からは硝煙が上がっていた。シュウはおそるおそる音がした左の首に手をやると、立っていたシャツの襟に丸い穴が空いていた。

「助けた礼が、これか?」

 鳶色の眼を細め、険しい表情をした家主が顔を向けた。声は落ち着き払って、初めから事態を知っていたかのようだ。

「今度俺に銃口向けてみろ。襟じゃなくて命に穴開けるぞ」

「大した腕だな」

 言葉を失っていたシュウはやっとそれだけを言った。

 眉間を狙う銃口はまだ降りない。口元を歪ませる彼の様は、胃液に胸を焼かれているかのようだ。

「早く弾抜いて銃を置け。……撃つぞ」

 言われたとおり、シュウは残り二発の弾を抜き、元在った場所に置いた。

 同時に、室内から殺気が消える。

 今更取り繕うも何も無いが、取り敢えず何か話しかけようと振り返った時、家主は銃を持ったまま右手で床に手を付き、左手で顔を覆っていた。シュウにもはっきり聞こえるほどの荒い吐息で、額には心なしか汗が浮いている。

「どうかしたのか?」

 銃を向けられた恐怖による物とは考えにくい。撃ったその時は冷静そのものであった。

 それなのに今は、悪夢から覚めた後のように肩で息をしている。

 緊張が解けたのか。目覚める前の時間を思い出したのか。

「あんたのせいだ」

 くぐもった声が聞こえてきた。

「あの夢を見た……。あんたが俺に空を見せたから……あんたが俺に思い出させたから、あの夢をまた……」

 くぐもり声は泣き声にも聞こえる。

 シュウは顔を背けた彼の右隣に腰を下ろした。彼は動かない。あからさまに避けることはしなかったが、これと言った反応もない。

 閉じ籠もっているようだ。

「おまえさ、何か探してるの? それとも、諦めた物を忘れたいの?」

 敢えて優しく尋ねてみた。今、自分の脇に据えてある小さな置物は、脆いガラスだ。軽く爪先で突けば壊れてしまう、そんな気さえする。

 希薄な質量。濃厚な存在感。その正体は手の込んだガラス細工ということか。

「わからない。わからないけど……」

「けど?」

 鳶色の瞳は右だけを覗かせて、シュウの顔とその向こうにある朱色に染まり始めた空を見た。次にシュウの目を見る。

 見比べているかのように。

「少なくてもあんたのそらには、俺の欲しい物は無い」

「悪いな。生憎、ガキのお菓子は嫌いでね」

 馬鹿にされた、そう思ったらしい。シュウを見る片目の眼光が強まった。そんな目で見られても咎めるものは何も無い。上から目線の笑みを返せば、眉を顰めてますます拗ねる。子どもと同じだ。

 これといった反抗もないまま、鳶色の目から力が失せていった。いつの間にか呼吸は整っている。

 シキは持ったままだった銃を腰に差すと、

「さっき、何で俺を撃とうとした?」

 横目で見たまま疑問を投げてきた。

「撃つつもりはなかった」

「でも狙っただろ。実弾込めて」

「俺が死んでもおまえは死なないと思ったから」

「撃たれる気だったのか?」

「そうでもない」

「なんなんだよ、それ」

「なんだろな。俺の中に、変なモンがあるんだよ。それのせいかもしれない」

「変なモン?」

「そう。悪いムシが居るんだよ」

「……大変だな」

 なかなか手で掴めるような話ではないのは、本人が一番よく解っていた。

 何故なら、シュウ自身でさえも巧く消化できていないからだ。身体に巣くう原因のよく解らない、漠然としすぎた表現し難い悪い物。要約すると〝悪いムシ〟という言葉が割と的確だ。

 だが、何故そのムシは今、頭をもたげたのだろう。



 悪いムシ。

 それを、自分が抱えている物と同じ類とするならば、変なところで似ている。

 横目でシュウを見ながらシキは思った。

 その目線の先で、隠しもしない好奇心がこちらを向いている。問われる前に目を逸らそうと思ったが、遅かった。

「おまえの見る夢って、そんなにヤな夢?」

「俺にとっては……」

 シキは視線を真正面に戻した。膝を抱えて小さく座り、目が覚めても尚蘇ってくる夢と戦う。ベッドまでの空間に自分が堕ちている様を見たような気がして、シキは身震いをした。幻覚だと自分に言い聞かせることでその映像は消えたが、代わりに眩暈がして景色が回る。

 夢と何も変わらない。反転し、気が遠退いて、身体の制御を失う。

 身体がぐらつき、そのままシュウに倒れかかった。

 頭がシュウの肩に当たって止まった。凭れるその感覚が、高さといい角度といい、丁度良い案配だ。

 いつの間にか安心しきっている。他人が近くに居ること自体が奇跡のようなことなのに、シュウに関しては既に慣れてしまったらしい。この男は大丈夫だと。無意識に解している。

 何の心配もせずに近くに居られたのは今まででたった一人。シュウは二人目。恐らく、これ以上、奇跡はないだろう。

 他は全て失った。寄せてはいけないものを寄せ、近づいてはいけないものに近づいた。一瞬の安楽と引き替えに、永遠に失った。

 人と居るのが恐い。だからシュウも助けるべきか否か迷った。結果として彼は奇跡と同等の存在であったが、別の問題が現れた。

 夢だ。

「また俺があの夢を見たらどうしてくれる」

 訊いた所でどうしようもないと解っていながら、シキは尋ねた。完全に八つ当たりであるにもかかわらず、そうだな、と肩は呼吸に合わせて微かに動いた。

「次は無理かもしれないけど、いつか俺がその夢を喰ってやろう」

「いずれ俺の前から消えていくヤツがどうやって」

 シュウの言を、シキは鼻で笑った。

「何で消えるって思う?」

 互いにベッドの向こうの汚れた壁を見ていて顔を合わせているわけではないが、シュウが真面目腐った顔をしているのが解る。真剣に夢を喰うなどと言っているらしい。

 莫迦らしい。

 感情は溜息に代弁させ、

「何でって、あんたが俺の所に居続ける理由なんて何も無いだろ。あんたは俺の知らない所から来たんだ。俺の知らない所に帰るさ」

「おうちわかんない、って言ったら」

 わざわざ分かり易く言葉にしたのに、相手は茶化すように返してくる。

「交番に届けてやるよ。ただし、ここのお巡りは飢えてるからな」

「俺はジャンクフードじゃないよ」

 静かな部屋に、二人分の笑い声が零れた。堪えたような笑い声は意味もなく繰り返される。

 暫くして笑いが止まってもまだ、シキはシュウの肩に頭を預けていた。この高さは本当に丁度良い。

 人肌が近くにある。その奇跡を、素直に喜べない。しかし、嫌っている温もりに、溺れそうになっている。

「朝焼け……綺麗だな」

 シキの耳元で、シュウが言った。つられてシキは窓の外を見る。青に染まる前の、赤と橙の色彩が目に痛い。檻に差し込む僅かな光のようにも見える。目に刺激を受けてシキは目を逸らした。白い斑点が視界の中で明滅している。何度か瞼を強く閉じるが、光の入った写真のように景色は色を抜かれて白く見える。夢の中の壁の色に似ていた。あれはもっと純粋な白だったが。また夢が繰り返されそうになり、シキは頭を振った。

 シュウは何故かあの夢を呼ぶ。起きていても何かの拍子に映像が流れてくる。

 心を乱す夢。もう一度頭を振り、払拭できない不安を隅に追いやった。

「夢の責任取らなくていいから、俺の前から早く消えろよ。いいコトなんて何にもないから」

「それは俺が決める」

「俺が……――」

 苦しいんだよ、と言おうとして口を閉ざした。泣き言を、横にいる男に聞かせたくない。言葉の先をシュウが問うことはなかった。

 凭れていた方が揺れた。立つのだろうと思い、頭を浮かせようとしたが、それ以上何も起きない。結局居住まいを直しただけだった。

 彼なりに気を遣ったのだろう。

 ――別にそのまま立ち上がっても良かったのに。

 再び肩に甘えながら思ったことは口にはしない。

 消えると解っているのに、こうして凭れているのは何故だ。消えると解っているからか、本当は消えないと思っているからか。

 どちらにしろ、今はここにあるのだから使えばいい。

 自分に都合の良いことを考え、シキは目を閉じた。

 温もりはやはり、心地悪かった。


   *


「ここ、タバコ無いの?」

 昼近くになってシュウは部屋をかき回し始めた。あれからいつの間にか二人そろって寝込んでしまったことは、互いに話題にしないという暗黙の了解が成り立っている。机の引き出しの中、ベッドの下、シュウは思いつく所は台所以外全て見て回った。食べるものが少ないため、どうしても口寂しくなる。それを紛らわそうとしたのだが、シュウの思惑は外れた。

「あんまり引っかき回して物の位置変えんなよ。ここはな、嗜好品買うほど余裕無いの」

 台所から寝起きの悪そうな顔をした家主が現れた。顔を洗った後なのに、さっぱりした様子がまるでない。どうしてこう起きるたびに不機嫌なのか。寝起きは毎回酷い仏頂面をして、しかもなかなか通常仕様に移行しない。

 ――低血圧、ってわけでもなさそうだけど……。

 ここ数日で解ったことだが、彼は低血圧の症状を越えて朝が苦手で寝起きが悪い。栄養状態も良くないので、体力もあまりないのかも知れない。体質に因るものとも考えられる。原因ははっきりしないが、取り敢えず、寝起きの家主にはあまり構わないことがいいというのは解った。

 寝起きの悪い家主を構うのは面白かったが、近頃常に腰に銃が携帯されているのを知り、自粛を心がけることにした。シラフで襟に穴を開けられたらキモが冷えるどころではない。

「俺だって数年吸ってないのに、贅沢言うなよ」

「おまえ、吸うわけ? 歯、綺麗なのに」

「あんただって吸ってるようには見えないけど……そうでもないか」

「見かけに寄らないって、これかな」

「真っ黒だぜ、きっと」

 彼の指が二人を交互に指した。

「ハラもか?」

 意地悪く問うが、

「いいや。俺は肺だけ。腹はあんただろ」

「そりゃないな」

「アリだろ」

 どうやら意地悪顔では家主の方が上手らしい。敵わないと知り、張り合うのをやめた。

 タバコ捜索を諦め、彼と入れ違いにシュウは台所に入った。顔を洗おうと、蛇口をひねる。だが、僅かな滴がしたたるだけで、水らしい水は出てこない。限界まで回しても結果は同じだった。

「水、出ないんだけど」

 問いを投げてから答えが来るまで暫く時間がかかった。

「さっき止まった。丁度俺が使った後」

 あくびでもしていたのか、答える声は眠気を帯びている。

「どう顔洗えっていうんだよ」

「さあな」

 誠意のない返事に顔くらい洗わなくても良いかと思ったが、ふと目線を落とすと足下に見慣れない洗面器があった。何処から出してきたのかさえ解らない。夜間に水が溜めてあるのはいつものことだが、洗面器は初めてだ。

「……いいトコあるじゃん」

 思い違いで後から非難されたら平謝りしておけばいい。シュウは水がひたひたに入っている洗面器を流し台に上げると、少しずつ水を手に取り顔を洗い始めた。水に手が入る微かな音がしても、それから半日経っても水についての話題は上らなかった。

 しかし、棚の奥から発掘された蟹缶をどちらが食べるかで揉めた。等分することを主張するシュウに、家主の権利を振りかざして自分が食べることを譲らない彼。最後に、食費を入れろとトドメ喰らってシュウは引き下がることとなる。

 食事にありつけなかったことを静かに嘆いていると、三分の一ほど中身が残ったもめ事の種がテーブルの上に置いてあった。シキは向こうで知らん顔をして寝ころんでいる。

 厚意はありがたく受け取る主義だ。一人の食事というのは寂しかったが、わざとらしい態度を横目に腹を満たす。

 この缶詰についても、後に話題に上ることはなかった。

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