第2話

   2.


 足先に少し湿った感触がする。

 そう思って、シキは重い瞼を開けた。太陽の日差しが丁度窓から入り込み、目を痛めつける。反射的に目を閉じた。瞼を通しても、その光は痛いほどに強い。太陽から自分を覆い隠そうと、喉元にあった上掛けの端を頭まで引き上げた。

 全くの身体に染みついた習慣の行動であり、暫く経つまで自分の取った行動の意味がわかっていなかった。再び寝入る数歩手前で、シキは飛び起きた。

 湿った感触を足先に感じることも、こうして日差しが目に当たることも、上掛けが手元にあることも、本当ならばある筈がない。何故ならあれから一週間近く、今寝ていた場所は別の人間に占拠されていたのだ。昨日の夜も例外なく同じ状況だった。部屋の隅で身体を丸めて寝ていたはずであったが、実際はその場所は二メートルほど離れた所に見えた。その場所にはいつも掛けている灰色の布が、身体からずり落ちたままのような形で置いてある。

 窓に干してあった血染めのシャツがない。窓は二つとも全開。流石に朝食の良い匂いはしないが、目覚めた時に寝入った状態と同じでなかったのは数年ぶりだ。

 手元の上掛けと、二メートル先に落ちている灰色の布との間を視線はしばし往復。

 完全に状況を把握するまでに、かなりの時間を要した。混乱極まった頭が整理完了の合図を告げると、シキは上掛けを思いきり蹴飛ばした。そして、ベッドから降りる。

 朝から不快だ。

 何はともあれ、寝た場所と起きた場所が違うのが何よりの不快だ。その原因が自分ではないからこそ、なお不快は膨れ上がる。

「起きたか?」

 台所から顔を出したのは、顔と濡れた髪を同時に拭いているシュウだった。運良く水が出たらしい。顔を洗うついでに髪も洗ってしまったようだ。

「誰があんたに運搬屋を頼んだ?」

「厚意だよ、厚意。あんなに小さく丸まってたら、誰だってあったかい所に運んでやりたくなるだろ」

 シキは思わず口に手を当てた。目覚めが悪い上に、胃液が逆流するような気がした。

「気付かなかっただろ? 俺、運び慣れてるから」

「その言い方、気に入らねぇな」

「ほら。早く顔洗って来いよ。水ならまだ出るぜ?」

 言いながら、シュウは流れるような動作でやや顔の位置を下げると、シキの頬に唇を当て、そのまま風のようにすれ違った。

 状況を理解するのに手間取っているシキを背に置き、シュウは窓辺で背伸びをする。

「テッ、テメェ! いま、今、何しやがった!」

「初めて?」

「ふざけたことヌかしてんじゃねぇよ! さっさと出ていけ!」

「怖い怖い」

 全く相手にする気のないシュウを蹴り飛ばしたい気持ちを、顔と頭を同時に洗うことにぶち込んだ。

 蛇口を全開にし、まず頭から顔ごと濡らす。近くにある液体の石鹸を適当に手に取ると、無茶苦茶に頭を洗った。苛ついて頭を掻きむしるのとやっていることは大して変わらない。そこに洗うという行為が付随しているだけだ。一通り洗い終わると再び蛇口を全開に。凄まじい勢いで吐き出される水に頭を突っ込み、再び掻きむしるように濯ぐ。石鹸を全て洗い落としたところで、頭の位置はそのまま、後ろに手を伸ばす。

 だが、捜し物は見つからない。いつも椅子の背に掛けてあるタオルがどんなに探っても手に触らない。

 ふと一つの可能性を思い、水が襟元や床に垂れるのも気にせずに顔を上げると台所を出、怒鳴った。

「おい! シュウ! タオル持っていっただろ」

「ああ。これ?」

 と、シュウは自らの肩に掛けているタオルを取り外し、シキに投げた。受け取ると洗うのと全く同じ動作で髪を拭く。

「ったく。勝手にひとの家の物の位置、変えんじゃねぇよ」

「興奮すると口が悪くなるね」

「うるせぇ」

「ついでに言うと、キス魔だから」

「ついでに言うな。俺にするなッ!」

 怒鳴るのと同時にタオルを感情にまかせて丸め、台所のテーブルの上に投げつけた。

 シキは床を鳴らして残された布の所に行くと、そのままそこに座り込み、布を肩から掛けた。窓辺に居たシュウはベッドに腰を下ろす。

「で。穴は塞がったのか?」

 訊くまでもない気がする。傷を庇う様子さえないのだ。完治に程近いのは間違いないだろう。

 シュウは首を傾げ、

「散歩以上駆けっこ未満ってトコかな」

「そう」

 回答に対して相づちを打ったにもかかわらず、シキは視線をずらさない。信用しきれない笑顔の向こうを詮索する。

 ――本当にそれだけか?

 問題は傷のことではない。

「何。元気になっちゃマズかったか?」

「……」

 窓から入り込む風が、二人の間を流れていく。だが、視線は流れない。偽物の空をシュウの目に見ながら、知らずと布に触れる手に力が入っていた。

「あんた……何ともないのか?」

「腹に傷在るし、さっきおまえにフラれたし。傷心してるけど」

「……いっそ、醒めない夢でも見るか?」

「いいや。結構。そういう夢ならよく見るし」

 真面目に話していることを半ば茶化したように返され、またムシが悪いところに移動しそうになったが、どうにか抑える。訊いておかなければならないことだった。返答によっては次の取るべき行動が変わってくる。

「……あんたは、俺と居ておかしくならないのか?」

 至って真面目に問い掛けたのだが、言われた方はキョトンとして鳶色の目を見た。

「おかしく? おまえのその綺麗な顔見て俺が欲情するとでも思ったか?」

「殺すぞ……」

 これだけの答えを返せるなら要らぬ心配だったと思うことにした。これ以上言っても腹が立って仕方がない。痩せ我慢をして言っているとしたら、後の結果は自己責任として諦めて貰おう。

「さて。じゃあ、俺はもうちょっと寝るわ。起こすなよ」

 シキが蹴飛ばして床に落ちていた上掛けを拾うと、シュウはそのままベッドに潜り込んだ。シキに背を向け、数秒後には寝息を立て始めた。

「誰が起こすかよ。二度と目ェ覚めなくても知らねぇからな」

 右の靴を脱ぎ手に取ると、向けられた背に投げつけた。だが、狙いは外れてベッドの下方部の枠に当たり、そのまま床に転がっただけだった。与えた影響といえば、軽い振動が起きただけだろう。そこに乗っている人物は身動き一つしない。

 シキは投げた靴を取りに行くこともしないで、そのまま窓の外を見上げた。

 汚い窓ガラスに窓枠。それを通して外を見ると、ここは牢獄のように感じる。だが、今はシュウが開け放ったので、窓枠の向こうには壁がある。空は何にも隔たれず、視界の先にある。今の空は快晴のはずであった。皆の目にはそう映っているのかもしれない。しかし、シキは違った。

 くすんだ青に濃淡を見、空の先を錯覚する。そこに、望むものを内包する世界を思い違える。

 幻想だ。どうしようもない妄想だ。

 それなのに手を伸ばしたくなる。この目の前に広がる偽りの空間に、掴みたい物が必ずある筈だと、シキはそう信じていた。実弾を込めた銃の引き金を引くよりも確かに手応えのある何かがそこにあると。

 窓から強めの風が一つ、入ってきた。シキの髪を、肩に掛けた布を揺らし、窓辺にある机の上も凪いでいった。カサリと小さな音を立てて何かが落ちたが、シキは気にすることなく空に吸い込まれている。



 床に転がったのは残りが減っている方の薬のシート。空に見入っている者には気付く余地もなかったが、それには空虚が一つ増えていた。


   *


 覚醒した意識が求めるままに目を開くと、床で膝を抱えている家主が見えた。抱えた膝に頭を載せ、窓の外を見ている。空には赤みが差し、夜へ向かって流れ始めていた。シュウはベッドから降りたが、家主はそれに気付く様子はない。身体と首の向きの角度を九十度にしたまま、身動き一つしない。正面に立っても、何の反応もなかった。シュウはそのまま腰を曲げると鳶色の瞳が見えてるであろう場所を覗き込むようにして見やった。

 僅かに雲のある空。青から赤へのグラデーションが広がっている。だが、目の前にあるアパート群のせいで、見える空は狭い。この部屋がもう少し上の階であったのなら、もっと広く空を眺められただろう。

 何も無い空を、呆然と、しかし確実に彼は見てる。

 何をだろう。

 絶え間なく変化する雲をか。それとも、境のない色の流れをか。

 この狭い空に、思いを馳せるもの。

 心を遠くにやるほどに一体何を見つめているのか、好奇心が答えを求めた。

「なんか……見える?」

 問い掛けの声に、彼は声もなく驚き、空から視線を外してシュウを見た。しかし、それも僅かの間のことで、再び空に視線を戻す。肩に掛けていた布を引き寄せ、

「……別に」

 呟いて返した。

「首、痛くない?」

「……別に」

「飯は?」

「……勝手に食え」

「了解」

 すぐに立ち去り台所に向かった。遠くで首が鳴る音が聞こえたが、聞こえないことにしてやった。きっとかなり長い時間あの姿勢のままだったのだろう。首が酷く痛いに違いない。これを茶化せばまた機嫌が悪くなること請け合いだ。代わりにわざと音を立てて流しの下を漁った。

 薄汚いその空間にあるのは、見紛うことなく缶詰の形をした物ばかり。

 念のため他の場所も捜索したが、やはり缶詰や瓶詰、僅かの乾物があるだけで、保存が利かないものは一切無い。

「なぁ……、ここ、缶詰倉庫なんだけ……ど?」

 と言いながら、シュウはしっかり好みの缶詰を二つばかり手にすると、ベッドのある空間を覗いた。シキは同じ場所で窓の方に頭を向けて転がっている。倒されるとそのままで居ることしかできない置物のように、そこに転がっている物は微動だにせずに布に巻かれている。

 質量は軽そうだ。爪先で簡単に転がせそうなほどに重みを感じない。それなのに、両手を使っても動かせそうにない存在感はある。鉛の重みを持った綿のようだ。矛盾した感覚だが、それが巧く嵌る。

 面白いヤツだ、と、シュウは缶詰を食しながら思った。

「何やってんの、おまえ」

「……あんたのせいだ」

 転がったまま、視線も合わせず掠れた声が返ってきた。

「何が」

「……考えないできてたのに、思い出させてくれやがった。またあの夢を見たら、あんたのせいだ」

「俺のせいか」

「……そうだ」

 シュウはそのまま腰を落とした。床に沿った先を見ている家主の目には、恐らく今は何も映っていない。影が落ちて大きくなっている瞳孔は、淀んでいるようにも見える。

「その償いに、どう? 食べる?」

 シュウは焦点を合わせていない目の前に、フォークに刺した最後の一切れを差し出した。

 だが、獲物は食いついてこない。すぐに釣れるかと思ったが、当てが外れたようだ。タレを切っておいたのは正解だった。

 痺れを切らし、引っ込めて食べてしまおうかと思ったその時、やたらとスローな動きでフォークごと食いついてきた。フォークの先から魚は奪い去られ、シュウの手元は軽くなる。シキは動かしているのか居ないのか分からないほど微少な口の動きで口の中の物を砕いていく。舌先で簡単に崩れてしまう物を、あえて奥歯で噛み締めている。

 食べるのも怠い。そう言いたげな動きだ。

「いい加減さ、おまえの名前、教えてくれない?」

 シュウの問いかけをよそに、家主はマイペースに口を動かしている。口が動かなくなっても尚、答えはなかった。見下ろす視線も無視して、また焦点を濁らせる。

「なぁ……」

 催促するシュウの言葉を、家主は消えかけた灯火のような声で摘み取った。

「いずれ俺の前から消えるヤツに、名前なんか教えても仕方ないだろ」

 と。

 霜が降りてきそうな声だった。

 低く低く汚れた床を這うその凍り付きそうな声は、シュウの足下に絡み付いて消えた。

 何もかも隔絶するような、そうしようと努力しているような、低い温度。

 ――そんなに突き放したいのか。

 床の隙間から落ちていった掠れ声の尻尾に、シュウはそんな考えをくっつけた。しかし、すぐにそれは違うと思い直す。直後、自嘲するような笑みを漏らして、

 ――逆か。

 と、訂正した。

 シュウが意味の分からない笑みを浮かべたことしか認識できなかった家主は、怪訝な顔をして、僅かに顔を上に向けた。

「何だよ。気味悪い」

「ん? ああ、別に。……おまえ、いいヤツだな、と思って」

「はぁ?」

 通じなかったらしい。それでもいいと思い、シュウはその先を続けなかった。



 結局何が言いたいのか解らなかった。

 そして、言ってる中身の割に言葉が平坦だとシキは内心思っていた。おそらく言葉の紡ぎ方の所為なのは解っている。しかし、それほど会話を重ねたわけではないが、見下ろしてくる男の喋り方に慣れない。温度の感じられないそれは、時々耳障りとさえ思う。

 シキはそのまま転がっていたが、シュウは立ち上がり、

「そろそろ寒いだろ」

 と、開いていた窓を閉めるとその足で台所に向かい、手に持っていたゴミとフォークを流しに捨てた。そうと解ったのは、遠くで金属のぶつかり合うけたたましい音が聞こえた所為だ。

 ――あいつ、フォークまでぶち込みやがった。

 洗うのが面倒だからいつもテーブルの上に置いておいたのに。余計なことを、と舌打ちした。

 シキは転がった格好のまま、窓の方に目をやった。檻が見える。シュウが取り払った柵が、シュウの手で下ろされた。くすんだ窓ガラスの向こうに、黒に染まっていく空。闇に落ちた空に、探す物はない。

 シキはそれ以上空を見るのをやめて、埃だらけの床に視線を落とした。床に一番近い右の耳には、シュウの足音が嫌と言うほどはっきり聞こえる。何かを探しているのか、台所でウロウロしているらしい。

 ――食い尽くす気かよ。

 毒づいたが、数少ない棚を何度も開ける音はしても、それだけだ。人の内面に限らず、詮索が好きなようだ。台所ならばいくらでも探してくれ。何も湧いて出て来はしない。

 窓が閉められたので、風が入ってこない。埃が舞い上がらない代わりに、心地よさが消えた気がした。

 いつもより空気が暖かい。風を入れていたにもかかわらず、床に溜まる比重の重い空気が身体の上に触れてくる。まだ夏には遠い。大雨が降ったり時々極端に冷え込んでみたりするこの時期に、空気の重みはそれほど気にならないはずなのに。

 シキは暖かさをあまり好まない。暑さとなると更に嫌いであった。その嫌いな感覚を得てしまったことを、全て居候の所為にした。密度が増したからだ、と言い訳をつけたが、その言い訳が心に疼くのを確かに感じていた。しかし、自分を正当化するためにその疼痛を無視する。

 思えば、こんなに長い時間空を眺めていたのは久しぶりだ。自分以外の人間がすぐ近くにいることも忘れ、声を掛けられるまでその人が目の前にいることも気付かないほどに見入っていた。

 空を見ている間、いろいろなことが頭をもたげてきていた。どれも忘れていた昔のことだ。肩の傷とか、部屋の中でも手袋を外さない理由とか。もう身体に染みついて何も特別なことではなくなっていたのに、思い出されることがあるとは思っても見なかった。

 やがてシキは眉を顰めた。身体の奥がじわりと痛む。それを否定する前に、一瞬の頭痛。

 そして、こんな季節こんな場所なのに、目の前がホワイトアウトした。

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