D.G.

タカツキユウト

第一章 瘴気

第1話

   1.


 ざわりと背を撫で上げていった寒気に、シキは身震いをした。

 古めかしく安い造りのアパートが建ち並ぶ道の端。頭からすっぽり被った、薄汚れた灰色の布を喉元に引き寄せた。手に持っている紙袋入りの荷物が邪魔をして、上手く布が整ってくれない。

 下は濃紺のジーンズ、上は布で隠している。両手に指先の出るタイプの革製の手袋。左手の方には、手首にかけて包帯が少し汚れた姿を見せている。右手には荷物。一見して彼に関して認識できるのはその程度だ。

 雨は激しい。

 その中にあっても傘は差していない。じっとりと布に染み込んだ雨はその下にある服まで申し分なく濡らしている。手に持っている荷物さえ例外ではない。

 この街に傘を差すという習慣はない。視界を覆うような危険を冒すわけにはいかない、というのが第一の理由だ。

 また、年中黄砂の舞い上がるこの荒廃した場所で、雨はまさに浄化剤だ。砂は高度の低い方へと流れ、街は洗われる。己が身に降り注ぐ雨を遮る理由もない。時に、涙腺までも塞いだ砂を、雨は洗い落としてくれる。

 雨は洗う。

 全てを、狂ったように押し流し、終いには何も残さずに。

 シキは俯き、紙袋ごと自分を抱くように身を縮めると足を速めた。

 頭から被った布は表から表情を隠すための道具でもある。

 石で舗装された坂道を足早に駆け上る。道路と歩道の区別はあってないようなものだ。車など滅多に通らない。

 ここは、見捨てられた土地。

 見上げれば毒が降る。見下ろせば死骸が溜まる。右を見ればたむろする娼婦の淀んだ眼差しがあり、左を見れば生気を失った少年たちが居る。後ろを振り返ればナイフの切っ先が喉元を狙い、正面は吹き荒れる黄砂が視界を塞ぐ。

 どこも見る場所はない。己の内面すら。

 逃げられる場所はない。

 もう一度、濡れて重くなった布を被り直した。ずっしりと頭から重みがのしかかる。今は雨を吸い込み裾から吐き出すだけのその布だが、彼にはなくてはならない物だった。

 これがあれば今は隠せる。抑えられる。

 ささやかなことでしかなくても、気休めにはなる。

 平坦な道にさしかかると石畳はアスファルトに変わった。石の道と違って、ここでは雨はただ溜まるか流れるかしかしない。造りが悪い所為で大小無数の水溜まりが出来ている。ここは緩い傾斜があるのでさして問題ないが、場所によっては数日雨が続けば一階は水に侵される。年に数回起きるその現象や雨の侵入を避け、一階に住む者は少ない。

 もう五日も降り続いているというのに雲は分厚く、腹はまだ重いようだ。飽きたらず汚れた水を吐いている。陰気な街にはお似合いの天気だ。雨が止めば明るい空が顔を出す。造ったような青空のときもある。しかし、どんなに鮮やかな青空でも、シキには晴れているように見えることはなかった。

 歩くたびに身体の揺れに合わせて袋の中身ががさがさと音を立てる。中身の殆どが缶詰で二つ三つの小さな瓶詰め、後は今日の昼に食べるつもりのパンが一つビニールの袋に巻かれて入っている。片手で軽く抱えられる小振りの袋一つで、最低二週間は暮らさなければいけない。

 養うべきその他の人間は居ないが、男一人であってもこの量で二週間以上はかなり我慢が要る。いくら慣れているとはいえ、足りることはない。

 袋を抱え直した時、柔らかい嫌な感触が指に当たった。紙袋が強度を失いつつある。底が抜けるのだけは避けたい。左腕を袋の底に回し補強の代わりにする。住処はすぐそこだ。

 自分の住むアパートの前に来て、一つくしゃみをした。変に堪えてしまった為に、喉が針で突かれたように痛んだ。

 鼻をすすり、くしゃみをするときのいつもの癖で閉じた目を、開く。下を向いたまま開いた目に映ったのはただのアスファルトではなく、赤い雨を流している地面だった。細かい凹凸に沿ってその雨は枝を広げて流れていく。奇妙に思い、視線を少し前にやると二本の足が見えた。

「風邪か?」

 男の声。

 足に問われ、シキは徐々に顔を上げた。

 布の隙間から、曇り空を吸い込んだ鳶色の右目で、知らぬ声の正体を見るために表を覗いた。適当に切った茶色の髪が目に鬱陶しくかかる。

 顔の先には全身を雨で浸した長身痩躯の男が一人、壁により掛かりつつ立っていた。年は自分とそれほど変わらないと見る。左肩口や袖口などを血で染めた白い開襟シャツに、紫紺のジーパンという風体。男の左手は右脇腹を押さえている。その指の間からは雨に誘われるように鮮血が溢れていた。

 それが足を伝い、地面を流れている。

 十五センチ以上の差があるのだろう。シキは目の前に立つ男の顔を見るのにかなり顎の角度を上げる羽目になった。 

 目の前にいる男は、くすんだ金髪。目は偽物のような青。それを少し細めて堅苦しく笑って見せている。

 漠然とした第一印象が良くない。あまり好感を持ちたい感じではなかった。

 それなのに、無視して素通りすることが出来なかった。退くことも往く事も出来ず、事実、立ち止まっている。

「……小さいな」

 低めの声が笑うように呟く。

 少し間を置いた後、背のことを言われたのだと気付き、シキは男を睨んだ。

「悪かったな」

 シキは口をへの字に曲げて眉間に皺を寄せた。初対面の男にむかっ腹をたてた自分を情けなく思いながらも、腹の底で何かがぐらりと沸き立ってくる。あらゆる鬱陶しさがない交ぜになって不機嫌が煮えた。だが、それは何故か嫌悪とは違う。

 男は一度目を閉じ、深く息を吐くと眉根を詰めた。

 そしてもう一度、青の目が目下にある鳶色の目を見る。

「俺を……支えられるか……?」

「は……?」

 疑問符が消える前に、男は膝を折るとシキに崩れ掛かった。

 反射的に、シキは男から飛び退いた。支えようなどとする手は何処にもない。あからさまに距離を置いてから様子を窺うと、男は既に意識を無くしていた。

 飛び退いた拍子に、頭にかかっていた布がずり落ちていた。雨が直接降りかかり、鬱陶しく伸ばしていた前髪が、額や瞼に貼りついた。視界を塞がれていない右目は、戸惑いを持って男を見る。

 堤防を無くした男の傷口からは新たな血が流れ出した。

「でかい荷物だな……」

 自嘲するように微かに笑うと、紙袋の荷物を優先的に抱え、布越しに男の左手を取り、傷口を押さえ込むように当ててやる。脇腹の傷は銃創だ。貫通しているようだったが、口径が小さく、至近距離から撃たれたものではないのが幸いしたようで、背側が大きく吹き飛んでいるということもない。止血さえ出来れば死ぬこともなさそうな程度であった。

「優先順位は、まず食い物コイツ。次にあんた。助かりたいなら、取りに来るまでちゃんと生きてろよ」

 言い終えると、男を跨ぎそのまま今にも崩れそうなアパートに駆け込んだ。

 シキの住まうこのアパート。築何年かは想像もつかないが、雨期以外は年中殆ど収まらない黄砂の嵐によってかなり浸食が進んでいる。ゴーストタウンのようなこの街でも際だって人気の少ない場所の一つだ。いつ抜けてもおかしくない程軋む床。いつ百八十度見渡せるパノラマ空間に変わってもおかしくなさそうなほど脆い壁。良く五階までの高さを保っていられると、ある意味感心していた。そして電気の供給もひどく不安定なこのアパートを、シキはあえて自らの住処とした。いつでも始末のつく、そんな場所を選んだ。

 階段を駆け上がり自室に入ると、袋を抱えたままベッドの脇にある窓から下を見た。部屋は道路沿いにあり、晴れた日には青空を拝む事が出来る。ここは三階だから絶景とはいかないが、裏通りに面した部屋よりよほどいい。あそこに住めば肺の奥まで吸いたくもない空気が入り込む。ただでさえ腐った街の、更に腐った裏通りなど、見たくも嗅ぎたくもない。

 雨の終着点に、男はまだ倒れていた。あまり長い間放置すれば出血多量で死ぬか、それとも路頭に迷っている輩に身ぐるみ剥がされて肉まで食われるか。悪くない顔立ちだったから飢えた男に嬲り者にされて部品になって裏通りに撒かれるか。可能性はいくつかあるが、どれも行き着くところは同じだ。

 傷口から流れた血が細い川を作り流れているのがこの高さからでも確認できる。

「助けて……いいのか?」

 自問。

「それよりも助けたとして、ここに運んだとして、それが助けることになるのか……?」

 まだ右手に抱えていた荷物ごと、身体が震える。被ったままの布からは床に水溜まりを作るほどに滴がしたたっている。隙間の多い木の床だが、どうせ下には一階まで誰も住んでいないから気にする必要はない。

 喉元で合わせた布を、左手で握り締める。震えそうになる歯を、奥歯に力を込めて抑える。そうしているうちに、表情が苦渋に歪んでいくのが解った。

 眺め下ろすその先には雨に沈み赤い体液を流し続ける一つの個体。好感は持てなかったが、異様に優しく笑う表情を持つ男が、一人。

 何故見捨てられない。

 いつかのように失くすだけに違いないのに。

 何の義理もない男を、助ける理由が何処にある。

 自問に自問を重ねる。問うほどに理由はなくなっていくのに、相反して身体は動こうとする。

「クソッ!」

 シキは百八十度回転すると窓も閉めずにそのまま玄関の方に大股で向かった。途中にある台所に持っていた紙袋を投げる。強度ゼロになっていた紙袋の底は予想通り抜け、床に缶詰と瓶詰と一つのパンをばらまいた。そのほかにもやかましい音がしたが、そんなことには目もくれず玄関のドアを叩きつけるように閉めると、階段の手すりをまたいで飛び降りながら濡れならが伏す男の所に向かった。

 迷いは、まだ胸の底に火種を残したままで。


   *


 雨の音がしない。

 違和感に、男はふやけたような己の瞼をこじ開けた。

 屋外ではない。ここは屋内だ。

 助かった、……らしい。

 部屋はお世辞にも生活感があるとは言えない。だからといって無機的な感じでもない。

 物が無い。

 ただそれだけだ。

 ベッドに寝そべって見渡せる範囲には、窓、小さな木製の机、枝に電球が実っているようなスタンド、壊れそうな木製の椅子が二つ。それだけだ。天井は、染みとカビだらけ。汚れた電球は点灯するのか怪しい。

 机の上にはばらまかれた少ない小銭。ちびた鉛筆に雑紙が数枚。何かを書いた形跡はない。紙は皺くちゃで日に焼けて茶色く変色している。

 そして、腰に差していたはずのリボルバー。弾丸は残っていた二発とも抜かれてその隣に転がっている。そして赤と白のカプセル薬が包みに入ったまま二組。効用は本人のみぞ知る。

 すぐ側の上方にある窓辺には、主に左側を血に染めた男のシャツがハンガーで吊されていた。僅かに開けられた窓から時々風が入り込み、シャツの裾を揺らせている。一応洗ったようだが、赤い染みは落ちきらなかったらしい。まだら模様に血のそれと解る跡が残っている。

 男は上半身裸にズボンはそのままでベッドの中に放り込まれていた。ズボンはまだ湿っており、ベッドごと湿らせている。助けてくれた主は、シャツはともかく、ズボンを剥がす気はしなかったと見える。

 徐々に左へと首を動かして見やった壁の方には大きな灰色の布の塊が一つ、足と手を生やして置いてある。灰色の置物のように、動く気配がない。

 男は身をよじろうとし、行動を開始した後で傷のことを思い出した。確か右脇腹を撃たれ、風穴が空いていた筈だ。軽傷とは言い難い怪我であるのに痛みはさほど無い。治療は恐らく止血紙を置いた上を包帯で巻き付けただけだ。腹にはしっかりと包帯が幾重にも巻かれている。仕事は慣れているようだ。緩みなどは全くない。だが、これだけの治療でこれほどまで痛みがないとは。

 ――やはり、これは夢か?

「起きたのか?」

 ベッドの軋みを聞いたのか、布の塊は顔を上げた。鳶色の瞳が髪の簾を通して男を見る。足を抱えて座ったまま寝ていたようだ。

「……おまえ、何でそんなトコで」

 本当は何日間寝ていたのかをまず訪ねるつもりで居たのに、頭から布で覆い隠して壁に吸い付くように座っている姿がやけに小さく、滑稽に見え、思わず質問が変わってしまった。

「あんたが俺のベッドったからだよ。野郎と一緒に潜るシュミはないんでね」

 灰色の男はぶっきらぼうな話し方で、それは拗ねているようにも聞こえる。

「悪かった。なにしろ、腹が空いてたから」

「言ってろ」

 膝の上で組んだ腕の中に顔を半分埋めながらも、目だけはベッドの占領者を見ていた。

 強い眼光に上がり気味の眉が、それだけで不愉快を物語っている。

 彼のきつい顔は、深読みすれば怯えているようにも見える。

 汚れた壁と同化するように、汚い布を頭から被って小さく佇んでいるにもかかわらず、〝居る〟という途轍もない重みをそこに感じた。布で覆っても、どんなに俯いてもその存在感は薄れることはない。

 ――なんだか、コイツには敵いそうな気がしないな。

 男は大した言葉も交わしていない相手にそう思うと、完全に左向きに寝返りを打ち、身体ごと小さな男の方を向いた。

「俺はシュウ」

 ベッドの中から男――シュウは手を差し出した。

 相手は表情を変えないまま頭を上げると布を被り直す。

「悪いと思ってるなら早く行けよ。寝られない」

 差し出された手を取る気配は微塵もなかった。どうでもいいという風に膝の上で組んだ腕の中にまた顔を埋め、目だけを睨ませる。とにかく早く出て行けと言わんばかりの目だ。

「自己紹介したら名前くらい言えよ。……握手はともかく」

 無視された手を引っ込めると、文句を言ってみた。助けて貰った礼を言う前に随分と荒んだ会話になったものだ。

 青の目と鳶色の目が生易しくぶつかる。互いに互いを探るようでもあったが、相手の方はシュウに対して無関心にも見える。

 シュウは再び汚い天井に体ごと向けた。深い吐息を一つ。瞼を閉じる。

 もう一眠り。



 厚かましくも更に眠りを求めようとしている呼んでもいない客人を認め、シキは片目を細めた。

「いつまで居る気だ」

 非難めいた眼差しを向けたが、受け止めるべき相手はもうこちらを向いていない。

「長居する気なら、そこの銃であんたの頭も空かせるぜ?」

「止せよ……。うーん。……そうだな……」

 非難の対象は目を閉じたまま、あまり口を動かさずに言葉を放る。

 その後がなかなか続かなかった。間延びした言いかけた言葉の先を、シキは人差し指を小刻みに動かしながら待っていた。

「今度……暖かい物、食いに行こう」

「ずいぶん先の話だな。それまで俺が待つと思うか?」

「待たせる……」

「それより、あんた……」

 言いかけた途中で微かな寝息が耳に入った。あれだけの間で眠りは彼を声の届かぬ世界に引きずり落としてしまったようだ。

 聞こえない相手にそれ以上言葉を続ける意味はない。強制的に言いたいことは押し込められてしまった。

 舌打ちをするとシキは立ち上がり、台所に向かった。

 布はもちろん掛けたままだが、部屋の中で頭から被ることは殆どしない。ああやって座り込んでいる時くらいで、後は肩から掛けている。他に人が居なければ布はベッドに放ったままだ。自分以外の他人が居ないなら、この布に用はない。だが今はすぐそこにシュウが居る。彼はまだが、念の為だ。

「暖かい物食いに行こう、だって……?」

 シュウと名乗った男は低めの声で淡々と言葉を紡ぐ。それは無機質で、そこから感情が聞こえなかった。押し殺しているのか、無くしてしまったのか、始めから持っていないのか。それともこれが彼独特の話し方なのか。どれにしろ由来についてはシキにとってはどうでも良い。

 声が、低い声が重みを持って沈んでいく。その感覚が、むず痒くて落ち着かない。

「あいつみたいに何でもないならいいけど…………知らないからな」

 独り言を吐き捨て、粗末で狭苦しく、そして汚い台所でシキは缶詰を一つ開けた。

 台所に冷蔵庫はない。食器は皆無に等しく、コップがいくつか在るくらいだ。小さな四角いテーブルの他には缶詰の小さな山とゴミだ。流しの下の棚の中にもまだ少し在庫はあるが心許ない。

 開けたのは古びた缶詰で、いつの製品かは見ないことにしている。食べてその後無事でいられる保証もないが、食べなくては生きられない。こんな生活を続けていて今まで無事だから恐らく次も大丈夫だろうという曖昧な確信の上で食べ物を口に運ぶしかない。

 全ては賭だ。

 水道もいつ水が通るか解らない。軽い地鳴りのような音がした時がその合図だ。そのときに外出でもしていればアウト。次に水がくるのは数時間後か、それとも数日後か。出てきても始めは赤茶けた錆混じりで使い物にはならない。ガスも同じで、小さなガスコンロのスイッチをひねって必ずしも火がつくわけではない。欲しい時にはまず手に入らない。それが鉄則だ。

 そして、水すらも安全とは言えないこの場所では、食べることまでが賭け事になっている。目の前にある食べ物を食べて、死ぬか生きるか。幸い、まだそのロシアンルーレットにヒットしていない。いつアタリを引くかは、神のみぞ知る。シキはそのスリルを楽しめるほど気楽な性格ではなかった。だが、引き金に手応えのある時がくることに恐怖しているわけでもない。

 怯えているのは身体に巣くう制御できない物。腐った食べ物よりも、濁った水よりも手に負えない。それに対して気休めに使っているのが、この布だ。

 シキはベッドの脇に置いてあった椅子を台所まで運ぶと、テーブルの前に置き、腰掛けた。転がっているフォークで缶詰の中身を細かくして少しずつ口に運ぶ。平べったい缶の中身は濃い味のタレに漬けてある魚。缶の周りに書いてある文字は母国語でないので解らない。恐らく鰯あたりの魚だろう。魚の種類はどうでも良い。食べられればいいのだ。

 ゆっくり食べれば少ない量でも満腹中枢が満たされやすい。性に合わない食べ方だが仕方がなかった。だが、ゆっくり少ない食料を口の中で噛み潰している間の暇をどう消化するかがいつも問題になった。テレビが在ればまだどうにかなるが、無いものに頼ることはできない。どこと無いところを見ながら頬杖を付き、頭は何の思考も巡らせないようにする。何かを考えればそれに嵌ってしまうし、頭を空にしようと考えると苛ついてフォークを持つ手が早くなる。暇であるということすら考えないことが、生き繋ぐ鎖を飲み込むために必要なことだった。

 缶詰の中身を食し終わったシキはフォークを一舐め。それはテーブルに置いたまま、空き缶になった食事を後ろに放り投げた。ちょうど流しがあり、金属同士がぶつかり合うやかましい音がした。それもせいぜい二回で収まり、食事の時は終了する。

 シキは立ち上がり、椅子の足を蹴飛ばしてテーブルの下に潜らせると数歩歩いて部屋の奥を見渡せる位置に立った。

 時々入る風に、吊された血染めのシャツが揺れている。その斜め左下には持ち主が寝ている。部屋の左隅にあるベッドの占領者だ。五日前に突然目の前に現れ、初対面から気に入らない物言いをされたが、突き放せないで居る。

 シキはシャツの掛かっていないもう一つの窓の前に立った。こちらの窓は開いていない。ガラスはかなり汚れている。思えば、住み始めてから拭いた記憶はない。

 その曇ったガラスを通して、シキは曇った空を見上げた。

 雨は二日前に止んだ。雨雲はとうにどこかへ旅立っている。

 それなのにシキにはこの空がどうしても晴れて見えなかった。ガラスのせいだけではない。この瞳にもきっと曇りが淀んでいる。

 シキは左手で右の肩を押さえ、もう一度改めて空の遠くを眺める。

 息を吸う。深く。深く。そうしながら徐々に瞼を閉じる。自然とやや上に上がった顎をそのままに、ゆっくりと時間を掛けて吸った息を吐き出した。目は閉じたまま。

 気が済むまでそうしていた。

 暫くして目を開けたが、見える世界は何も変わっては居なかった。また、空の彼方を眺めやりながら、左手で浮き上がった肩の骨をなぞる。鎖骨、肩峰けんぽう、肩甲骨の上部。

 最後に触れたそこには望みを託した傷がある。消えることのない、自ら望んでつけた傷。

 空は高く遠いが、大地も遙か奥深くに堕ちている。手を伸ばす場所も足のつける場所も同じくらい遠いのなら、見下ろされる地底より見下ろせる天空の方がいい。

 今度あの夢を見た時は、こんな場所に堕ちないように。

 シキは果てを知らない空を見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る