第58話 心安らかに
「どけどけえ! 道を開けてくれえええっ!」
御者台に立つマクギが通行人に叫び、全速力で走る竜車の道を開けていく。
レインローズの花屋から商品を買い占めたアリスたちは、とんぼ返りしてアリレウスの大通りを邁進していた。街灯はあれど、決して良好ではない視界の中で、彼女たちが危険を顧みず竜を急き立てるのには訳がある。
それは、聖都への入都制限にあった。防犯の観点から、午後7時からの一般人の入都は、例え招待認可券を持つ者であろうとも禁じられている。せっかく目的のアイテムを手に入れても、契りの木まで辿り着けなければ意味がない。
しかし、悲しいかなアリレウスに戻った時にはすでに7時を回っており、出来る限り早く門まで駆けつけてみたものの、入都側の関所は消灯しており、石橋の前には門番が並んで立っていた。
「ダメだ……やっぱり封鎖されてる」
「ええい、くそっ! ここまで来て諦めれるか! 掛け合ってみる!」
マクギは御者台から降りて、門番たちの許へ駆けていった。
だが、マクギがどれだけ嘆願しようが門番たちは一様に首を横に振るだけで、了承を得られる見込みがまるで感じられない。自分たちの責務に徹している姿は頼もしいだが、斟酌を求める側からすればもどかしいばかりだった。
「やっぱり……ダメなの? もう、ここでおしまいなの?」
やがて、声が荒々しくなってくるマクギの背中を眺めて、リオナが口惜しそうに呟く。同じく、マクギを見つめていたアリスは、静かに立ち上がった。
「……いや、まだ手はある。リオナ、来い!」
「え? う、うん!」
オープンキャリッジから飛び降り、走り出すアリス。その後にリオナは続いた。
「おっ、待て、リオナ! アリス!」
「マクギのおっちゃんたちはここまででいい! 後は俺たちでなんとかする!
今日はありがとうな!」
手を伸ばしてくるマクギに言い残し、アリスたちは堀外周の草原を駆けて行く。
「よし、ここだ」
しばらく走って、アリスは唐突に足を止める。
そこは、なんの変哲も無いただの草原。だが、アリスはウリヌスの壁を見上げ、一つの確信を持って言い放った。
「ここからならエルメントで壁の中に行けるはずだ」
「え? いや、ヨネス大導師に言われたじゃない。この壁には魔法を無効化する力があるって。だからエルメントも発動できないって」
「ああ。けどな、恐らくここにはその力が無いんだよ」
「どういうこと?」と、リオナは眉を曇らす。
壁からリオナに視線を移し、アリスは続けた。
「カフェで出会ったガキども。あいつらが無断で壁の外に遊びに行ってる、ってさっき話したろ? その時、あいつらが使うルートがここなのよ」
「ここ……って、こんな高くて堀もある壁を?」
「そう。オリペットっていう魔法具を使ってな」
「魔法具……ってことは!」
一から十まで言わずとも、リオナは話の意図を理解してくれたようだ。さすが、卵とはいえ魔工技術士の端くれである。
ヨネスはこう言っていた。壁の内外は魔力的に断絶されている、と。理屈はよく分からないが、それはフィルターのようなものではないかとアリスは考えた。魔力にのみ反応する透明なそれが壁とその上空に設置され、内と外を明確に隔てている。だから壁を対象としないエルメントも、その効果を発揮できないのだ。
もし、そうであるとするならば、オリペットが壁を越えることはできないはずである。つまり、逆説的に言うと、オリペットが壁を越えられるのなら、そこには魔法を無効化する魔法は作用してないことになるのだ。トルテンは壁の上を通過したことを通知する魔法が消失している、と言ったが、実は二つの魔法のどちらもあの部分だけは存在していないのである。
「エルメントを構えろ!」
「ええ!」
アリスとリオナは微笑みを交わし、同時にエルメントに手を翳す。堀の水面が月光を大人しく揺らす暗闇の底、エルメントの宝石より迸る煌々とした輝きが次第に辺りを照らしていく。
「行くぞ!」
その輝きが頂点に達したのを合図に、2人は翳した手を振り払った。
瞬間、世界の全てが加速していく。全身が浮遊感に捕らわれ、何もかもが自分たちの周りを駆け抜けていく閃光に目を閉じて――
「――っと」
再び足の裏に感触を覚え、目を開けばそこは契りの木を囲う仕切りの中。ぶつぶつと聞き取れない音量で愚痴を零しながら、アリスとリオナが植えた植物の
そして、引っこ抜いた花を花壇の外に投げ捨てる動きの流れで2人を視認し、彼は動きを止める。数秒後、その呆然とした面持ちが驚愕に変わった。
「貴様ら?! 逃げたのではなかったのか?!」
どうやらいつまでも帰ってこないアリスたちを逃走したものと考えていたらしい。まあ、無理も無いだろう。
「やった! ちゃんと中に戻ってこれたわ!」
「ああ! しかも丁度よく花壇を綺麗にしてくれたようだしな。ご苦労様だぜ、爺さん! そんで悪いが、今度はこれを植えるぞ!」
そう言って、アリスはリオナに手招きする。その意味を正しく受け取ったリオナは、腰のベルトに結び付けていた小袋を外し、紐を緩めて中に手を突っ込んだ。
そうして並べられていく、燃えたり光ったり歌ったりと不思議な特性を備える花々。
「これは……まさか、レインローズの花か?! こんなにたくさん……どこで手に入れた?」
「そんなことは今はどーでもいいだろ。それよりもこいつらを契りの木の周りに植えていくんだ! そうすればきっと、契りの木は成長できる!」
「なに? ようやく全て抜き終わったばかりなのに……」
「いいから! さあもうひと踏ん張りだ! やるぞー!」
「おおーっ!」
拳を突き上げるアリスと、彼女に続いて花壇に乗り込んでいくリオナ。
突然、戻ってきたかと思えば、妙にハイテンションな2人の勢いにヨネスはついてこれないようだ。やがて、観念したように頭をガリガリと掻くと、彼は横を通り過ぎていった彼女たちの許へ向かった。
そうして3人は、魔力を備えた花たちを契りの木の周囲に植えていく。ヨネスの指揮の
燃える花の火花が散り、光る花に淡く照らされ、氷の花の冷気を浴び、歌う花の旋律を聴く。
しかし、それでも契りの木は、何も応えようとはしない。枯れ枝のような細い幹は、全てを否定するようにただそこに突っ立っているだけで。
「……これでもダメなのか? 同郷の仲間を連れてきても、それでも……!」
足労の果てにあった代わり映えの無い現実が、これまでアリスを突き動かしていた灼熱たる魂を塗り潰していく。
これでもダメなのか。あの時に聞いた〝声〟はなんだと言うのか。
「〝さみしい〟って言っただろうが。だから、こうして必死に集めてきたんだろうが! なのにどうして出てきてくれねえんだ! お前のために、みんなが! みんながどれだけ手を貸してくれたか分かってんのかよお!」
「アリス……」
「ちくしょう……! これ以上……俺たちにどうしろってんだよ……!」
込み上げる怒りと失望に呑まれて、アリスは柔らかい土の上に拳を落とす。
もう他に打つ手は無い。契りの木は自分たちを見捨ててしまったのか、彼女は姿さえ現してくれなかった。計画は失敗。契約は不履行。
無力感が切なく心臓に爪を立てる。
やっぱり、俺に誰かを助ける力は無いのか……!
――大丈夫。焦らないで。心を落ち着けるの。
その時、視界の端から現れた手が拳に添えられる。リオナのものとは違う、華奢で真っ白な手。
振り返ると、蒼髪の女性が、自分を見てたおやかに微笑んでいた。
――出てこないんじゃない。彼女はいつもそこにいるの。ただ、あなたが見えてないだけ。
「俺が、見えてないだけ?」
「アリス? どうしたの?」
――見ようとするんじゃないの。そこにいる。その姿があることを自然に思うの。焦らないで。逸らないで。余計な感情は全て捨てて。みんなは、ここにいるから。
「みんな、ここに……?」
「アリス? ねえ、アリスってば! ちょっときこぇ――
後ろから声が聞こえる。リオナの声だろうか。近くにいるはずなのに、なぜか遠い場所から木霊しているように感じてきて。
うっすらと視界がぼやけていく。この感覚は前にもあった。そう、聖都の入り組んだ路地裏に迷い込んだあの時だ。
そんな状況の中にあるのに、心は少しずつ安らかになっていく。蒼髪の女性の手の暖かさを感じているからだろうか。
「きゃははははっ」
不意に、アリスの脇を白いスモックのような服を着た3人組の子どもたちが駆け抜けていった。どこから入ってきたのだろうか。見渡しても、そこはすでに乳白色の世界で。
リオナやヨネスの姿はどこにも見当たらず、いるのは口から火を吐く褐色肌の男や、電飾でもつけているかのような眩いドレスを着込んだ煌びやかな女性、褐色肌の男を忌々しく睨み付ける氷の髪を持った和服姿の女の子に、弦楽器を弾き鳴らして歌う気障っぽい青年。
髪の色だけ違う同じ容姿をした3人組の幼女たちがそこらじゅうを所狭しと駆け回ってたり、そんな子どもたちを煩わしそうに眺めているすまし顔のメガネ男子がいたり、かと思えば周囲の賑わいに合わせてダンスを踊る露出が多い女性がいたりと、現場はどこからともなく出現したたくさんの人々によってひどく
そして、その中心にいるのは、桜色の髪の女の子。アリスが求めてやまなかった、契りの木が擬人化した姿。
花壇のど真ん中で雑然に過ぎる周辺を嬉しそうに眺めていた彼女は、アリスを見つけると、ちょこちょこと足を動かして駆け寄ってきた。
「ありがとう! あなたがみんなを呼んできてくれたんだね!」
腰を上げるアリスの両手を掴んでブンブンと激しく上下に振るその表情に、あの時の陰りは一切、残っていない。
ああ、そうか。確かに。彼女はここにいた。自分たちを見捨ててなどいなかったのだ。
その想いを込めて蒼髪の女性に笑いかけると、彼女もまた微笑みながら小さく頷く。アリスも首肯を返し、そして桜色の女の子に顔を戻した。
「ああ。これで満足か?」
「うん。もうさみしくなんかない。みんながいてくれるなら、わたしは――」
「――お?」
桜色の女の子は俯き、すると、なぜだか彼女の手がほんのりと熱くなってくる。
いや、違う。彼女だけではない。アリスの手も徐々に熱を増していく。それどころか腕全体が……否、アリスの体中が暖房器具のように発熱し、そのオレンジ色の余波が乳白色の世界に広がっていく。
そして、なによりも熱く滾る、小さな胸の中の鼓動。
そこから溢れ出るものが、手を通じて桜色の女の子に流れ込んでいく。すると、彼女の幼い容姿は見る見る大人の女性へと変貌していき、
そして――――
虹色の雨が、アリスの世界を彩った。
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