第10話 魔法があるなら通貨も変わる



 「うおうっ?!」

 

 ざわり、と滝の一部が蠢いた。

 その部分は本流から離脱して、空中に螺旋の軌道を描く。アリスはその流れに呑まれ、螺旋の上を激しく転がり落ちていった。

 

 螺旋は徐々に勾配を緩めていき、やがて宙に浮かぶ円状の足場に変化する。そうして転落死の結末を免れたアリスは、しかし、激しい回転によって眩暈を起こし、立ち上がれないでいた。さらに強く打ち付けた体も悲鳴を上げているが、むしろ、それだけで済んだことに喜ぶべきだろう。

 

 「危ないところだったねえ、お嬢さん」

 

 ようやく脳の機能が回復してきた頃、渋い声色が上から降ってくる。咄嗟に見上げると、アリスと同じように円状の足場に立つ人物を見つけた。

 

 その人の容姿を一言で表すなら、月だろうか。乳白色の球体に手足が生えているフォルム。それが体に合わせたタキシードとシルクハットを着用している。首辺りにはゲーム界で超有名な某配管工を髣髴とさせる立派な髭が蓄えられており、その上には目らしき二つの円らな黒い点が並んでいた。

 

 「うわっ?! なんだお前?!」

 「むーぅ。命の恩人に向かってなんという言い草。しかし、彼女の心境を考えればそれも詮方ないこと。そう、紳士はそう簡単に怒らないのだよ。ふふん」

 

 立派な髭を自慢げに指で撫で、その球体は言った。取っ手に金細工の意匠を凝らした黒のステッキを足場をタンと突き立て、二つの黒点をアリスに合わせる。

 

 「我輩の名はグルリ紳士。ここ、『トリアスティ・マーケット:ヴェネロッテ支部』の最高責任者の任に就いている」

 「マーケット? ということは……ここは市場なのか?」

 「いかにも。トリアスティ社が運営するグローバルかつ包括的な見本市がここである。常に新旧様々な商品が何千万という規模で行き交い、商業を活性化させる。まさしく物流の大動脈と言うに相応しい場所なのだ」

 

 グルリ紳士は誇らしげに饒舌を振るう。

 しかし、それがアリスに次の疑念を抱かせた。この広大な空間で見当たるのは、この滝のような設備のみである。そこが彼の発言と大きく撞着しているように思ったのだ。

 

 「何千万の商品? どこにそんなものがあるんだよ?」

 「何を言うのかね。商品ならほら、キミの小さなお尻の下にあるではないか」

 「尻の下?」

 

 グルリ紳士に指摘され、アリスは足場の縁に手を置き、下を覗き込んだ。延々と続いていく吹き抜けの階層と、流れ落ちていく滝。視界に入るのはそれだけである。

 

 いや、違う。

 

 縁から手を離して座り直したアリスは、自身が乗っている円状の足場、それを形成している滝の一部を両手で掬い取った。

 臀部や太腿の感触から、水でないことはすでに察している。その上で手の平のものに注目すると、それはパチンコ玉大のシャボン玉のようなものの集合体であった。

 

 そして、シャボン玉一つひとつの内部には極めて小さい何かが収められている。よくよく目を凝らすと、それらはテーブルや箪笥などの家財から日用雑貨、消耗品などの品物であることが分かった。

 

 「あっ」

 

 アリスは思わず声を上げる。たった今、両手で作ったシャボン玉の水溜りの中から、一つが唐突に浮き上がったからだ。それは青白い輝きの筋を残しながら宙を駆け、二層下の回廊に設置された、2人の男女の前にある絵画の中に消えていった。

 

 「そうか、さっきから周りを飛んでたのはこのシャボン玉だったのか」

 「正しくは『トリブルバ』という。商品はこのトリブルバに収容され、終わりと始まりを繋ぐ『ウロボロス』の中を絶えず循環している。そして我らが対面販売スタッフの任意で招喚され、ヴェネロッテの各地に繋がる専用絵画から現実へと帰還するのだ」

 「ほーん……あっちの世界で言うところのネット通販みたいなもんか……」

 

 話している間にも、アリスの手の平から忙しなくトリブルバが旅立っていく。

 そしてまた一つ、薔薇のようなシンボルが入った麻袋を内包したトリブルバが浮かび上がり、横方向へ向かって飛んでいった。行く先は数ある絵画の中でもひときわ大きく、額縁が金であしらわれた豪華な一枚である。絵にあるのは浅縹のローブを纏う厳格そうな老人。そこに、いくつもの青白い軌跡が密集していた。

 

 (あれだけ他のと違うな…………お得意様ってヤツか?)

 「他人の買い物の詮索は感心しないな」

 「うおっ?!」

 

 グルリ紳士がステッキの先を上に振るうと、彼とアリスを乗せるトリブルバの足場が急速に上昇を始めた。

 

 「社会見学はもう終わりだ。そろそろ夢から覚める時間だよ」

 「ようするにさっさと出てけってことか。にしても……ちょっと早すぎやしねえか? もうちょっとスピードを落としてくれよ」

 「何を言う。そもそも、この世界は現実の人間がそうそう踏み入れてはいい場所ではないのだよ。人には人の生きる世界がある。キミの居場所はここには無い。ここにあってはいけない」

 

 風切り音の中であっても聞こえる、グルリ紳士の重く深みのある声。はためくハットのブリムを固く掴み、彼は言う。

 

 「我々は人間から生み出された空想の欠片。様々な人の夢や想いが積み重なり、それらは虚無の中に一つのひずみを孕ませた。人間は生涯の中で、限りない妄想を編み続ける。しかし、夢は褪せるもので、妄想は尽きるもの。いつしか人は現実を思い知り、その残骸がここに行き着く。ここに人がいてはいけないのだ。いつまでも妄想の中で生き続けてはいけない」

 

 上昇は間も無く落ち着き、そしてトリブルバの足場はある階層で完全に停止する。

 

 「しかして、ここでお別れである。だが、悲しむことはない。キミが夢を見続ける限り、我らは生の灯火を燃やし続ける。いつかキミの物語が色褪せても、キミの子どもがその輝きを受け継ぐ。だから忘れないでほしい。我らがいつもキミたちの傍にいることを。疲れた時、苦しい時、進む道が分からなくなった時、そんな時はいつでも遊びに来るといい。キミたちの愉快な隣人が、ほんの些細な笑顔と安らぎを与えてくれるはずだから」

 

 トリブルバの足場が変形し、階段を作って回廊の欄干に繋がる。その先ではモナとリザが立ち並び、アリスに向かって片腕を差し出した。

 

 「さあ、幻想を彷徨いし異世界のプリンセスよ。お迎えに参りました」

 「王子様でもなければ騎士様でもない、劇的なクライマックスもないお話は、ここで終わります」

 「続編はどうかあなたの世界で、あなたの親しき人々と共に」

 「その道のりが描くハッピーエンドの物語を、我々いちどう心待ちにしております」

 

 グルリ紳士に促されるまま階段を進み、回廊に降り立ったアリスの手を、モナが優しく掴む。そうして彼女を絵画の前まで連れて行き、恭しくお辞儀した。

 

 「では、朔の夜のプリンセス。またいつか、夢の狭間で」

 

 モナとリザに見送られ、アリスは絵の中に足を踏み入れた。

 

 次の瞬間、世界が暗転する。

 閉塞感を覚えるカーテン、やや冷えた空気、耳が痛くなる無音。

 そこはすでに、家具店の一室だった。

 

 「あ、やっと戻ってきた」

 

 長椅子に座っていたリリィが腰を上げ、アリスに近寄る。部屋にチェロットの姿は無い。すでに買い物を済ませたのだろうか。

 

 「もう、急にいなくなってビックリしたよ。まさか絵の中に入ってたなんて。ダメだよ、あっちは人間がいる場所じゃないんだから」

 「……向こうでもそう言われたよ。ああ、だが…………んん、」

 「どうしたの?」

 「いやぁ……なんかふわふわしてるというか、変な気分だ。あのボールのおっさんの話を聞いて、そこからモナとリザに仰々しく歓迎されて。なぁんか気持ちが浮き足立って、気が付いたらここに立ってやがった」


 頭を掻きながらアリスは振り返り、中央の絵画を見上げる。華やかだった舞台はその余韻すら無く静まり返り、モナとリザも見当たらない。左右の絵画も、無人の洋室を映すだけだった。

 

 「向こうの世界は物質じゃなく、精神の世界だからね。多分、そんな空気に中てられたんだと思うよ。わたしもよく分からないんだけど」

 「そうか……そんでチェロットは?」

 「もう受付に行ってるよ。注文は終わったからね。さあ、行こう。チェロットちゃんが待ってるよ」

 「ああ……」

 

 廊下に出るリリィに誘われて、アリスはカーテンの隙間に潜った。


 ふと、首を回す。


 沈黙を守る三つの絵画が、まるでそっぽを向いているようにアリスは感じた。

 



 「ああ、やっと帰ってきたんですね」

 

 チェロットは受付前の椅子に座っていた。オゼットから頂いたのだろうか、マドレーヌのような菓子を口に放り、噛み砕いたそれを飲み込んでから立ち上がる。

 

 「まったく。魔法に浮かれるのは分かりますが、あまり迷惑をかけないでくださいね。ウチの沽券に関わるんですから」

 「あー、悪かったな。待たせちまったか?」

 「いえいえ、まだ買い物の品は受け取ってませんから。むしろ丁度いい頃合じゃないでしょうかね、ほら」

 

 チェロットが受付の方へ顔を向けたと同時に、奥のカーテンからオゼットが現れる。彼は「待たせたね」と言い、手に持ったドールハウスのような外観の荷物をカウンターに置いた。

 

 「テーブルと椅子、締めて七点のお買い上げと、中型ケージのレンタル料。計18000リドルだ。いいかね?」

 「はい」

 「じゃあ、ここに手を翳して」


 チェロットはカウンターに近づき、オゼットが示す小さな水晶に手を翳した。

 少しして、水晶内で橙色の光が生まれ、ゆっくりと消えていく。やがて橙の輝きは完全に消失し、そしてチェロットは手を離した。

 

 「うん、まいどあり。それじゃあケージを。合言葉は[ヴァルデルテ]だ、忘れないようにね」

 「はい、どうもありがとうございました」


 礼を述べ、オゼットからケージと呼ばれるドールハウスのようなものを受け取るチェロット。怪訝な顔をするアリスに振り返り、彼女は自慢げにそれを持ち上げる。

 

 「お待たせしました。では店を出ましょうか」

 「ちょ、待て。テーブルとか椅子とかは? 買ったんじゃないのか?」

 「はい? ここにあるじゃないですか」

 

 矢継ぎ早に質問を受けたチェロットは、改めてケージを持ち上げ、アリスの目の前で揺すった。

 それがどのような意味を持つのか、アリスは判然としなかったが、しかし納得をつけようとする知恵の巡りが頭の片隅にあった。すなわち魔法の所業であり、彼女はそれをドールハウスらしき物で表現しているのだろう。

 

 「ああ、うん。そうか。それはいい。だけど金は? 代金は支払ったのか?」

 

 一つの疑問を無理やり片付け、アリスは次を問う。

 すると、チェロットはケージを下ろし、その仏頂面を露にした。

 

 「何を言ってるんですか? もう払いましたよ。見てたでしょう? あたしがあの水晶に手を翳してるのを」

 「あれで? あれだけで金を払ったことになんのか?」

 「…………リリィさん。この人どんだけ田舎からいらしたんですか?」


 驚くアリスを見て、チェロットは不審げな顔をリリィに向ける。

 

 「あー、そう、だね。えっと、アリスちゃんの住んでた所では、どんな方法で買い物してたの?」

 

 気まずそうに目を逸らしたリリィは、その流れでアリスに話を振った。

 訊ねられたアリスは腕を組み、恬然と答える。

 

 「ん? フツーに欲しい物を選んで、レジ……受付か、そこで金を払って買う。支払い方法はたくさんあるけど、まあ現金が一般的だな。札や硬貨を使う……いわゆる貨幣制度ってヤツか」

 「貨幣制度ぉ? はぁー、そしたらアリスさんの故郷は本当に魔法が全然ない所なんですねぇ。そんなのこっちじゃ通用しませんよ」

 「こっちじゃないのか? 札や硬貨的なモンは」

 

 深く考えずに質すアリスに、チェロットは溜息を吐きながら緩く頭を振った。やれやれ、と言わんばかりのアクションである。

 案の定、「やれやれ」と人を小馬鹿にする呟きを転がし、チェロットは人差し指をアリスの眼前に突き出した。

 

 「あのですね、アリスさん。あなたの故郷はどうか知りませんが、貨幣制度なんていうもの、現代では通用しません。なんでかって言うと、それは貨幣が信用されて始めて成り立つ制度だからです」

 「そりゃまあ、その通りだな」

 「はい。そして、ここでは貨幣の価値なんて安定しません。だって魔法があるから。意味、分かりますか?」

 「…………あー、なるほどな。なんとなく分かった」

 

 僅かな思弁の後、アリスはチェロットの言葉の意味を悟って大きく頷いた。

 

 先のリオナの解説で、魔法は事象発現法と質量作用法の二種類に大別されると聞いた。そして、その二つの特性を考慮すれば、貨幣制度が成り立たない理由が自ずと解けていく。

 

 「つまり、魔法を使えば偽札や偽造なんてお手の物、ってことか」

 「そういうことです。お金を増やしたりコピーしたり変化させたり、人を催眠状態にしてゴミみたいなのをお金に見せかけたり。そんなまがい物がどんどん世の中に広まって、制度自体がダメになったんです」

 「なるほど。悪貨が良貨を完っ璧に駆逐したワケだ」

 「魔法が万能だからこその弊害だよね。魔法ができて間もない中世では貨幣制度も一時期流行ったんだけど、魔法の普及につれて廃れていって。それで今のようなやり方に変わったの」

 

 2人の話に交わったリリィは、カウンターにある水晶を見やる。

 

 「人間にはね、本来持つ魔力の中に固有の振動があるの。あの水晶はそれを読み取る道具。そこから個人や団体が所有する口座を通じて代金を支払う。わたしたちの世界ではこのやり方が一般的かな」

 「ほぉ、つまりは電子マネーか。俺の世界でもあったぜ」

 「さっき魔力色を調べたでしょ? 5歳になった子はね、みんな役場に行って、同じように検査を受けるの。そこで魔力色や魔力の量とかを調べるんだけど、同時に振動数のチェックも行うの。魔力の振動数は一生変わらないからね」

 「なるほど、それが身分証明になるワケだ」

 

 腕を組み、満足げに首肯するアリス。

 チェロットはケージを下ろし、入り口に体を向ける。

 

 「理解していただけたようでなによりです。それじゃあ、次に行きましょう」

 「まだ買うモンがあるのか?」

 「ついでに備蓄品をいくつか買うつもりですが、皆さんに街を案内するためです。今のうちに教えておいたほうが後々便利ですからね」

 

 アリスに答えたチェロットはオゼットに会釈し、店から出ていった。残る2人もオゼットに挨拶した後、未だ大勢が往還する通りに歩を進める。

 


 

 それからチェロットの先導により、一同は様々な店を巡った。昼前になる頃には、3人の両手は多くの商品で塞がっており、人の流れに悪戦苦闘しながらロイス・マリーへの道を辿る。

 

 そうしてホテル前に着いた時、

 

 「すみませーん! 取材させてもらってもよろしいでしょうかー?!」

 「げっ、あの人……」


 扉の無い玄関の前で騒ぐ人物を見つけて、チェロットは顔を顰めたのだった。







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