第1章 オンエア①
桜の花は春休み中に散っていたので、入学式らしいものといえば、正門に立てかけられた「青海学院高等学校 入学式」と書かれたシンプルな看板くらいだった。
めでたさも華やかさもない。そして、夢も希望もない。僕の高校生活を暗示しているかのようだ。
高校生にもなるとさすがに母さんも、二人並んで写真を撮ろうとは言い出さなかった。看板横があいた隙に、「速く速く」と僕を急かして立たせ、スマホで数枚写した。
画像を確認し、満足そうに頷いている。その様子をぼんやり眺めていると、五、六人の男女を交えた上級生がバッと寄ってきて、「よろしくね」などと言いながら、僕の手にザラ紙を押し付けてきた。
部活動の勧誘チラシだった。サッカー部、バレー部、書道部、吹奏楽部、放送部、陸上部……。僕はそれらを全部まとめてぐしゃぐしゃに丸め、新品の制服のブレザーのポケットに押し込んだ。
「何か食べて帰る?」
横から、明るい口調で母さんに訊かれた。
「午後から出勤じゃなかった?」
「フルコースさえ食べなきゃ、大丈夫よ」
明らかに、僕を気遣ってくれているとわかるのがつらい。
「でもな……」
僕は足元に目を落とした。新品の黒い革靴が、妙に浮いて見える。
「町田くん!」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると、見憶えのあるヤツが立っていた。名前は思い出せない。入試の会場で、僕の二つ後ろの席に座っていた……。
「三崎中出身の、宮本正也です」
そう、宮本! 僕が名前を憶えていないことを悟って、わざわざ母さんに自己紹介してくれたのだろうか。
「あら、お友だちが、他にもいたのね」
母さんはそう言って、嬉しそうに、宮本に「何組なの?」などと話しかけている。
友だちじゃない、と訂正はしない。同じ中学出身という広い意味で「友だち」と言っていることはわかっている。
それより、他にも、の方が気に障る。良太くん以外にも、と言えばいいのに。
良太は春休み中から陸上部の練習に出ていたのか、今朝、偶然、この門の前で会ったときも、上級生のように慣れた様子で、体育館の場所を教えてくれた。
お気に入りの「カモシカくん」に会えたというのに、母さんは「入学おめでとう」と笑いかけただけだった。陸上の「り」の字も出していない。
良太も同じで、「ありがとうございます」と答えただけだ。そして、僕に言った。
――また、いろいろと、よろしく。
いろいろ、とは何だろう。便利な言葉だ。近頃の僕に対する周囲からの声かけは、こんな曖昧な表現ばかりが使われる。
目指せ全国大会! と周囲も自分も、明確な目的を口にしていたころが何年も前、はるかに遠い日のように感じられた。
――こっちも、いろいろと、よろしく。
僕は良太にそう返した。そして、クルッと背中を向けて軽快に走っていく良太を見つめながら後悔した。どうして「部活、がんばれよ」と言わなかったのか、と。
僕がこんな調子だから、気を遣われてしまうのだ。良太にも、母さんにも……。
「宮本くん、家の人は?」
少し辺りを見回して訊ねた。
「俺の親、来ていないんだ」
宮本は愛想のいい口調で答えたけれど、軽率な質問だったかもと、今になって気付く。
「今日って、妹の、三崎中入学式だから、そっちに行ってるんだよ」
僕が思ったことを顔に出しやすいのか、宮本の勘がいいのか。とにかく、なんだそうか、と安心した。そして、高校では、学校行事に必ずしも親が参加する必要はない、ということに思い至った。
「そっか。じゃあ、昼飯、一緒に食べない?」
自分から誰かを誘うのは、もしかすると人生初ではないだろうか。デートではなく昼飯で、おまけに相手は男子だけど。
「いいけど、お母さんは?」
宮本は遠慮がちに母さんの方を見た。
「いいのよ。友だち同士の方が楽しいに決まってるじゃない。迷惑じゃなかったら、付き合ってやって、ね」
母さんはそう言うと、両手をひらひらと振りながら、足早に去っていった。
「ホントによかったの?」
宮本に訊かれる。
「午後から、仕事だから」
とっさに、宮本を誘ったものの、何を食べて、どんな話をするのか。
とりあえず、駅に向かうことにした。
ファストフードのハンバーガーショップで定番のセットメニューを注文した。
周囲は青海学院の新入生ばかりだ。親と一緒のヤツなんてほとんどいない。芸術の選択科目を何にしたかという会話が聞こえてきて、僕も同様のことを宮本に訊ねた。
とはいえ、クラスも違うし、同じ科目を選んでいても、一緒だね、と喜ぶ気持ちは湧かない。互いに、へえ、と興味なさそうに返すだけだ。
友だちらしい会話といえば、宮本から「くんを付けなくてもいいよ」と言われ、「僕もいいよ」と返し、互いにぎこちなく呼び捨てし合うようになったことくらいか。
時折、僕が話している途中で、宮本が目を閉じるのが気になった。きっと、退屈なのだろう。食べ終わったら速攻で解散だな、などと思いながら、フライドポテトをまとめて数本口に運んだ。
「ところで、町田は部活、もう決めた?」
耳を疑った。正面からミサイルが飛んできたような衝撃だった。
母さんも良太も入るのをためらっている領域に、宮本はポテトを片手に、?気な口調で踏み込んできた。
ポテトをほおばっていたおかげで、すぐに答えずにすんでいるけれど、自分は今どんな表情になっているのか、見当もつかない。
「中学のときは、何部だった?」
宮本が?気さに輪をかけて訊いてくる。
しかし、ふと、肩からボトリと何か重い塊が落ちたような気分になった。
宮本は僕が陸上部だったことを知らない。僕も宮本が何部だったかを知らない。
互いに、青海学院を受験した理由も知らない。
スポーツ推薦ではないのだから、青海学院に入学した理由を、一流大学への進学が目的だと思われる方が自然だ。
宮本から、同情されることはない。
「陸上部、だったけど」
「そうなんだ……。あっ!」
宮本はハッとしたように、フライドポテトの油で指先がテラテラと光る片手で口を押さえた。
あのことは知っているのだろう。
「ゴメン。失礼なこと訊いたかも」
「何で?」
とぼけた調子で訊き返した。
「町田って、卒業式、松葉杖で来てたよな。確か、交通事故に遭ったって」
「そうだけど」
合格発表の帰り道、自転車で青信号の交差点を直進していると、ものすごい勢いで自動車が右折してきて、僕の意識はぶっとんだ。
意識が戻った僕の目に、最初に飛び込んできたのは、ギプスで固められた足だった。
「杖なしで歩いてるから忘れてたけど、もう大丈夫なの?」
「まあ、ぼちぼちかな」
「そっか。もし、陸上とか、何かスポーツしたかったのに、ケガのせいで、なんてことになってたらと思ってさ……」
本当に勘のいいヤツだ。僕の左足にはボルトが入っている。
「いや、いや、いや。事故とか関係なく、運動部なんて最初から考えてなかったから。スポーツ推薦で、どの種目も県内の精鋭が集まってきてるのに、そこに交ざっていける根性なんてないよ」
入学前から、必死で自分自身に言い聞かせていたことを、他人の前で口にしてみると、事故に遭う前からそう思っていたような気分になれた。
同時に、自分がどうしようもなくつまらない生き物のように思えてきて、魂が蒸発していくのをぼんやり眺めるように、ガラス越しの空を見上げた。
「根性ね……」
宮本は僕に同調するようにつぶやいた。コーラの入ったLサイズのカップを取り、ズズッと音を立てて飲み干す。
互いのトレイの上は紙くずだけになり、そろそろ解散の頃合いだ。
「でもさ!」
宮本がカップを置いた。手際よく、自分のゴミと僕のゴミをひとまとめにすると、二枚のトレイを重ねて、脇へ寄せる。
「中学のときは、吹奏楽部以外、よほどの理由がない限り、運動部に入らなきゃいけないって空気が流れてたけど、高校って、そういうの感じないよな」
宮本は声を若干弾ませて言った。
「そうかな……」
僕だって、交通事故後、高校生活を一度も前向きに考えなかったわけではない。
部活動は必須ではないけれど、スポーツ以外の何か新しいことを始めてみようと思い、青海学院の入学案内に記載されている、文化部をチェックした。
音楽が好きだから、軽音楽部はどうだろうと考えてみたものの、歌う自分も、楽器を演奏する自分も想像できなかった。好きな歌と一緒に思い浮かぶのは、それを聞きながら走っている自分の姿だけだ。
「俺はさ、入りたい部活があるんだ。そのために、青海、受けたようなものだし」
宮本のまっすぐな物言いに、ピキン、と音が聞こえたような気がした。テーブルを挟んだ二人の間にひびが入り、溝が生じた音が。
希望を持たずに入学した僕と、希望を抱いて入学した宮本。
選択科目のことを話しているときとは、目の輝きがまったく違う。
「宮本って、中学、何部だった?」
「卓球だけど、それはもういいんだ」
宮本は新品のブレザーの袖口でテーブルを拭った。たいして汚れていなかったけど、母さんが見たら卒倒しそうだ。
よほど大切なものを置くのかと思いきや、ブレザーのポケットから、折りたたんだザラ紙を取り出して広げた。僕が読みやすい向きで、テーブルの真ん中に置く。
部活勧誘のチラシだ。
「放送部?」
確認するように宮本に訊ねた。もったいぶりながら出したけど、間違えたんじゃないのか、と。
「そう、放送部」
宮本は大きく頷いた。
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