序章③

バスの中にはどんよりとした空気が漂ったままだ。

 あの日のことを思い返しながら、僕はもう一度、村岡先生の方を見て、それから、良太の方を見て、目を伏せた。

 全国大会を逃した悔しさで忘れていたけれど、今日で引退ということになる。明日から何をするのだろう。

 青海学院を目指して勉強に励む、という選択肢も僕の中から消えた。母さんにまだ相談していなくてよかった。

 母さんはバスの一番後ろの席に、他の保護者たちと並んで座っている。行きは、おやつなんかを食べながら、駅伝とは関係ない話で盛り上がっていたけれど、今は、おしゃべりをしている人など誰もいない。

 下手な慰めの言葉をかけられるよりは、静かな方がマシだ。母さんからは、バスに乗る前に「お疲れさま」とひと言、泣き笑いのような顔で声をかけられただけだ。

 学校に着いて、村岡先生の総評を聞き、解散してから、みんな、それぞれ本当の感情を表すのではないかと思う。

 と、後ろの席から、すすり泣きが聞こえてきた。振り返らなくても、二年生の田中の声だとわかる。

 僕自身も悔しい思いでいるのに、どうして泣いているんだろうと、なぜか、冷めた気持ちで受け止めてしまう。

 病気の父親に、全国大会に行く報告ができなくなったことを悲しんでいるのだろうか。それとも、先生が自分ではなく、山岸良太先輩を選んでいれば、全国大会に行くことができたかもしれないのにと、申し訳ない気持ちでいるのだろうか。

 と、今度は別の席からすすり泣きが聞こえてきた。二年生のエース、僕以外の三年生の選手たちへと、連鎖反応のように、泣き声が広がっている。

 それらを聞きながら、僕の中で膨れ上がっていくのは、良太がとか、先生がとかではなく、やはり、あと三秒速く走れていれば、という思いだった。

 結局、自分に一番ムカついているのだ。

 僕の目にも涙が込み上げてきた。

「泣くって、おかしいよ」

 突然、声の響いた方に顔を向けると、良太がバスのシートから立ち上がり、振り返っていた。ゆっくりと皆を見渡す中、僕とも目が合った。

「走ってない俺が言うのもおかしいけど、泣くような結果じゃないよ。こういうのは、学校に着いたら、先生が話してくれることなんだろうけど……」

 良太は言葉を切って、村岡先生を振り返った。先生が良太に小さく頷くと、良太はまた僕たちの方を向いた。

「あと一八秒だったのは悔しいだろうけど、アップダウンが続く坂道だらけの難コースで、みんな、自己ベストに近いタイムを出したじゃないか。それで堂々の県大会二位。過去最高記録だよ。誇りに思おうよ。それでも悔しいなら、明日からまたがんばればいい。もしかすると、俺を全国大会に連れて行ってやれなかった、なんて悔やんでる人もいるかもしれない。……いや、いないか」

 良太はそこで、表情の薄い彼なりに、少しおどけるような顔をして笑ってみせた。だけど、すぐに真顔に戻る。

「仮にいたとして、それは余計なお世話だから。そもそも、先生とか家族を連れて行くって言うならわかるけど、現役の選手に対してそんなことを思うのは、失礼じゃないかな。俺は高校に入っても、長距離を続ける。そして、自分の力で全国大会に出場する」

 一人分の大きな拍手が上がった。確かに、良太の決意表明に対しては、拍手を送りたい気持ちだけど、このタイミングでは、話を中断させてしまうだけだ。

「やめてよ、父さん。途中なんだから」

 良太が小声で、通路を挟んで隣に座っているおじさんを窘めた。

「うん? そうなのか?」

 おじさんは大きな声でそう返すと、わざとらしい咳払いをしてから、通路越しに振り返り、失礼しましたと言わんばかりに、笑顔で皆に頭を下げた。良太の言葉はもちろんだけど、冷めた良太と暑苦しいお父さん、この対照的な二人の姿がおかしいのか、バスの中のどんよりとした空気は薄くなっていた。

「邪魔が入ってゴメン。……だから二年生、一年生は、来年こそ全国大会に行ってほしい。多分、このあいだの地区大会くらいまで、いや、もしかすると、今日の結果が出るまで、全国大会なんて自分たちには無理だって思ってた人もいるんじゃないかな」

 良太は部員たちを見渡した。僕を含め、図星を指されたとでもいうように肩をすくめた選手がたくさんいるはずだ。

「だけど、今はそんなふうに思っていない。すごいことだよ。強い自信を得ることができたのに、泣いちゃダメだ。自信が敗北感に飲み込まれてしまう」

 良太の言う通りだ。走り終えた直後、僕は達成感に包まれていたはずなのに、その感覚は体の中から消えていた。

「三年生はもう引退だけど、高校行っても陸上やろうな。同じ学校で仲間になるヤツにも、他校でライバルになるヤツにも、三崎中のメンバーがいるって、俺は信じてるから」

 良太は最後、僕の方を向いて頷いたような気がしたけれど、視界がにじんでよくわからなかった。涙は止まっていたはずなのに、悔し涙とは別の涙が込み上げてくる。声を上げて泣き出したのは、やはり田中だった。

「なんか、お疲れのところ、長々とゴメン」

 良太は小さく頭を下げて、シートに座った。

 また一人分の拍手が上がる。良太のお父さんだ。しかし、今度は後部座席からも複数の拍手が起きた。

「お疲れさま」

 母さんの声だ。「よくがんばったぞ」などと、応援に来ていたOBや保護者たちから次々と声が上がる。

 僕はふと、村岡先生の方を見た。良太の言葉をどう捉えたのだろう。帽子をかぶった後ろ姿からでは、やはり、わからない。だけど、先生のことはもうどうでもよかった。

 青海学院高校を目指そう。僕は改めて、そう決意した。

 陸上部の練習と同じくらい、死ぬ気になって勉強しなければ、合格できないかもしれない。母さんに許可してもらえるよう、ちゃんと気持ちを伝えなければならない。

 努力の先に、きっとまた良太と駅伝で全国大会を目指せる日が来る。

 僕はそう強く信じていた。

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